人生いろいろ

    作者:でらさん













    case.2

    酔いの廻ったふらふらとおぼつかない足取りで自宅アパートまで辿り着いたアスカは、
    二階の隅にある自室を、ふと見上げた。
    そこはまだ灯りが点いており、自分の帰りを待つ夫が起きていることを教えてくれる。
    時間は、すでに深夜を過ぎて明け方に近い。今日は週末の上、金払いのいい常連客
    が旧友と二〇年ぶりに会ったとかで来店。いつにない上機嫌のためか、なかなか帰ら
    なかったので、閉店時間を二時間も延長した。当然、延長分の給料は出るし多額のチ
    ップも貰ったが、体には辛い。精神的なこともあって、最近は無理が利かない体になっ
    てきた。
    閉店後、二十歳前後の若い後輩達がホストクラブで息抜きしようと誘ってくれたのだが、
    アスカはとてもそんな気になれず、断っている。あの若さは、羨ましい。


    「帰っても、大した息抜きにはならないけどさ」


    億劫そうに一段一段階段を上るアスカは、誰に向かうでもなく、吐き出すように言った。
    築二十年を越えて老朽化した鉄骨が、それに応えるようにギシギシと軋んだ。
    夫とは幼少からの幼馴染みで、当たり前のように付き合い始め、当たり前のように結婚
    した。
    周囲も自分も、誰一人として疑問を抱かず、惣流アスカは夫の籍に入り、碇アスカとなっ
    ている。
    結婚当初は、予想を裏切らない幸せの中にいた。いや、予想以上だったかも。
    小学校時代から大学時代まで優秀との評価を得ていた夫のシンジは、新興のハイテク
    企業として急成長していた、(株)ネルフに就職。就職後も順調で、二年もした頃には、将
    来の幹部候補とまで噂されるまでになっている。この頃が、アスカの幸せの絶頂期。結婚
    生活も落ち着いたので、そろそろ子供をと思っていた時期だ。
    が、それも長くなかった。
    大学在学時、文学系のサークルで活動していたシンジが、学生時代に書いたオリジナル
    作品をとある文芸誌に投稿。勿論、本気で入選を狙ったわけではなく、単なる遊び感覚だ
    った。調べ物をしていたら、たまたま昔の原稿を見つけたので面白半分に送っただけ。ろく
    に読んでもいない。
    ところがなんと、これが佳作に入選。他の出版社からも、ぼちぼちと書き物の仕事まで舞い
    込むようになったのだ。
    そしてある日シンジは、会社をすっぱりと退職。文筆家として身を立てるとの理由で。
    アスカは当然、猛反対した。
    シンジは、将来性豊かな会社において、期待される身。給料とて、平均より遙かに貰ってい
    た。当時は賃貸マンションだったが、子供ができても余裕があるようにと、より部屋の大きい
    マンションか一戸建てを購入するつもりでいたのだ。
    それが、売れるかどうかも分からない文筆家になどなったら、収入が激減するのは確実。賃
    貸マンション住まいすら怪しくなる。
    最悪、どちらかの実家に世話になるしかないが、どちらも決して裕福ではないし結婚式の費
    用を出して貰った事情もあり、なるべくそれはしたくない。アスカ自身が働くにしても、シンジ
    のように優秀でなかったアスカは、これといって資格も特技も持っていない。職種は、かなり
    限られる。シンジが即売れっ子になれば問題はないけども、なれなければ相当に厳しい生活
    になるとアスカには予想できたのだ。
    そしてその予想は、見事に的中。あれから五年経った今、 マンションの家賃は払いきれなく
    なり、今は安アパートで暮らしている。当然、車も持っていない。
    シンジにろくな収入はない。持ち込み作品は、どの出版社にも相手すらしてもらえず、たまに
    くる雑誌の仕事でも小遣いくらいにしかならない。
    二人の生活は、アスカがキャバクラで稼ぐ収入によって支えられている。よって、子供もまだ。
    アスカの収入はそこそこあるが、何かの場合に備えて貯金は必要だし、何よりアスカがこん
    な状態では産めないと拒否しているから。


    「アイツ、この状況、どう思ってんのよ。
    子供が欲しいなんて、よく言えるわね」


    働く能力があるのに、夢を諦めきれずに働かない夫。
    いや、一応働いてはいるのだが、自身の能力に合った仕事とは言えない。いい加減、夢を追
    うのはやめてもらいたいものだ。 現状を知ってなお、子供が欲しいなどと言って欲しくない。
    アスカにとって、今の仕事は苦痛に近い。
    店のオーナー兼女将の葛城ミサトは好人物で、水商売にありがちなアンダーグラウンドとの
    関係は薄い。チップの上納義務はないし、店の女の子達にも、体を張った客引きは絶対する
    なと厳命しているくらい。
    それでも、客のほとんどは、そう思っていない。中には、当たり前のように体を要求する者がい
    る。実はアスカも、よく迫られる。人格者の紳士など、ほとんどいないのが実情だ。
    客層の違う高級クラブなら、話は別なのだろうが。


    「店を持たせてやるなんてのもいるけど、酔っぱらいの戯言なんて、信じるわけないじゃない。
    本気にする娘、いるのかしら」


    噂では、よく聞く話。
    どの店の誰々が、客と親密になって店を出したとか、どこぞの資産家と結婚して幸せに暮らし
    ているとか。
    幾つかは本当だろうが、多くの悲惨な実例を見聞きしているアスカがこの類の話に乗ることは
    ない。 騙され、貢がされた挙げ句、稼げなくなってゴミのように捨てられた噂話なら、幾らでも
    聞いている。自分が噂の主人公になり、笑われる対象になりたくはない。
    第一、自分は夫を愛している。愚痴を言うことはあっても、喧嘩することはあっても、夫を裏切っ
    て他の男に抱かれる気はない。愛するが故に、まだ夫を信じているのだ、アスカは。


    (もう、五年だもの。近い内に目を覚ますわよ、シンジだって。
    あと少しの我慢よ、アスカ)
    「ただいま」


    近頃は些細なことで喧嘩になることが多いので、アスカは努めて穏やかに声を発してドアを開
    けた。
    すると奥から、”お帰り”と、返事が。
    今日は、機嫌が良いようだ。何か仕事でも入ったのだろうか。
    だとすると、夢追い人は今暫く続きそうだ。
    これまでもそうだった。忍耐が限界に近づくたび、ぽろぽろと仕事が入ってくる。そうすると夫は、
    それを一筋の光明と、諦めかけていた夢に縋り付く。まるで、運命の神が自分達を嘲笑うかの
    ようなタイミングが恨めしい。
    キャバクラ勤めは、そう長く続かない。容姿に一端の自信はあるが、年々衰えていくのが自分で
    もはっきり分かる。若さが売りのキャバクラで続けられるのは、あと一年か、長くて二年だと思う。
    その後のことは、考えるほどに憂鬱となる。
    経済人や政治家相手の高級クラブに移るか自分で店を持つくらいしか、思いつかない。
    でも上等な店にコネはないし、店を持つと言っても、そこまでの貯金はない。
    かといって地味な仕事では、生活自体が立ちゆかない。最悪、客が付いている今の内に上客を
    掴まえて・・・


    「どうしたの?アスカ。
    また、客に絡まれた?」


    玄関でボーっとしていたらしいアスカは、シンジの声で我に返った。
    と、彼の顔を見たアスカは、目をぱちくり。


    「どうしたって聞きたいのは、アタシの方よ。
    随分と小綺麗じゃない」


    アスカが驚いたのは、シンジの身なり。
    シンジはほとんど家に籠もりきりなので、髪の毛はボサボサ、髭もろくに剃らないのが普通にな
    っていた。
    それが、適度な長さにカットされた髪の毛はきちんとセットされ、髭も綺麗に剃ってある。こんな
    夫は、数年来見たことがない。


    「誰か来たの?出版社の人?」


    「いや、誰も来てないよ」


    「じゃあ、どうして」


    「面接に行ったんだ。外資系の会社に。
    昔の知り合いのコネだから、すぐ採用してくれてね。明日から出勤さ。
    遅まきながら、夢から覚めたよ」


    望んでいたことなのに、アスカはすぐに反応できなかった。これで、水商売から足を洗える。普通
    の生活に戻ることとができるのに。


    「なに怒ってんだよ。
    すぐ楽にはならないけど、頑張ってこれまでのぶん取り返すからさ。
    機嫌直してよ」


    「バカ、アタシに何の相談もしないで」


    「アスカには苦労かけたから、気軽に言えなかったんだ。
    今まで、ごめん」


    「・・・もう、いいわよ」


    シンジに抱きついたアスカは、これまでの辛苦を洗い流すかのように、涙を流す。
    そんな彼女を、シンジは両の腕でしっかりと抱きしめるのだった。









    どうだと言わんばかりに自信の表情を浮かべたリツコが、ビデオを止め、今回の鑑賞者であるアス
    カとシンジに向き直った。
    今回呼んだのは、二人だけ。
    皆の要望を取り入れたらキリがない、全ての者を満足させるのは無理と判断したリツコは、それぞ
    れに特化した作品を作る方向に路線を転換。
    その新路線第一段が、これ。
    家庭を持ちながらも夢を追う夫と、いつか夢から覚めてくれることを願いながら彼を支える妻の話だ。
    大学時代の知り合いを通じて、テレビドラマの脚本なども手がける専門家を紹介してもらい、色々と
    アドバイスしてもらった。題材としてはありふれた話の一つなのだが、よく出来たと自負しているリツ
    コである。


    「どう?感動物でしょ?」


    「これで感動すると思うの?アタシが。
    浪花節を前面に出した演出って、どうも好きになれないのよねえ。
    あざといっていうか、わざとらしいっていうかさ」


    「ぼ、僕は、結構いいと思うな」


    遠慮がちに口を出したシンジに、リツコはホッとする。少なくとも、シンジの支持は得られたと判断し
    ていい。お蔵入りは避けられそうだ。小幅な修正なら、それほどの手間はかからないし。
    が、アスカは不満そうだ。


    「シンジ、気を遣わなくていいのよ。
    これが採用されれば、何千、何万て人に観られることになるの。
    よく考えて」


    「・・・え〜と、ちょっと、ご都合かなと」


    ご都合がなくて何がドラマかと突っ込みたくなるような意見だが、確かにその通り。リツコもその点
    は分かっている。どちらかが浮気、または両人共に浮気でもして泥沼状態にすれば、エンターテイ
    メントとしては面白い。
    だが、それではアスカが納得しないだろうし、これはあくまでプロモーションビデオ。本格的なドラ
    マではない。
    と、アスカが横から口を出してくる。


    「アタシも、ご都合が過ぎると思うわ。
    だけど設定自体は面白いから、他のキャストで作り直してみたら?
    ミサトと加持さんとか」


    「あら、それは面白そうね」


    言われてみれば、加持とミサトなら話の雰囲気にピッタリ。歳も、ちょうど頃合い。それに、この二人
    がキャストなら、多少汚れたキャラでも文句は言わないだろう。
    リツコの頭に、話の一場面がおぼろげながら浮かんでくる。
    ろくに掃除もしない、薄汚れた室内。そこで言い争う、みすぼらしい姿の男女。荒んだ生活の中で、
    清らかだった心までも汚れた二人は、浮気すら何とも思わなくなってしまう。
    互いを裏切りながらも、どん底から成功への道を歩み始める二人。でも、底辺から一歩一歩這い上
    がるたび、愛は枯れていく。そして晩年、富も名声も手に入れた二人の胸に去来するのは・・・
    だめだ、これだけでは何かが足りない。今回の話と、大して変わらない。
    悩む中、ふと、アスカに視線をやったリツコは、彼女の意見を聞いてみることにした。彼女が関わら
    ないストーリーなら、遠慮のない展開になるはず。


    「アスカが練り込みたいストーリーって、ある?
    あれば、言ってみて。参考にするから」


    「あるわよ。
    夫は漫画家になる夢を数十年追いかけてるんだけど、さっぱり芽は出ない。
    で、妻が生活のため仕方なく始めた事業が苦労の末に成功しちゃって、富と名声を得るの。
    妻は、得た富で夫をバックアップ。一軒家を与えて創作活動に専念させたり、あちこちに売り込んだ
    りするわけ。
    だけど二人の間に産まれた子供達は、成長するにつれ、父親に対して複雑な感情を抱くようになる
    のよね。母親の苦労を目の当たりにしてるだけに、ろくに仕事もしない父親が自分の都合だけで生
    きてるように見えるのよ。
    妻が夫に愛情を注げば注ぐだけ、子供達の父親を視る目は辛辣さを増していくってわけ。父親は、
    それにまるで気付いてない。そしてある日、父親の何気ない一言が原因で子供達は父親と大喧嘩。
    夫は、そこで初めて過去を振りかえって、自分のしてきたことに疑問を持つって話。
    どうかしら、これ。いけると思わない?
    アタシ達がメインキャストじゃ、嫌だけど」


    「いけるわ。
    早速、製作開始よ!」


    こうして、”人生いろいろ”プロモーションビデオ第三弾の制作は決定した。

    リツコの意気込みはともかく、本業であるネルフ技術部の仕事はどうなっているのか、作者としては
    甚だ疑問である。
    同じ疑問を持つ諸兄もおられると思うので、それについて、この方達に語ってもらおう。


    「碇、特殊監察部からの報告だと、赤木君がサボタージュを敢行しているそうだ。
    このままだと、エヴァの運用どころかMAGIの運用にも支障が出かねん。
    私には、彼女が何を不満としているのか全く見当もつかんのでな。お前がなんとかしろ」


    「私に何の責がある。
    冬月、お前が責任を持って対処しろ。その為の副司令だろう」


    「赤木君と手を切ったとき、諸々の清算が巧くいかなかったのではないか?
    だとすれば、お前に全面的な非がある。私は関係ない」


    「ど、ど、どこに、そんな証拠が」


    「その動揺ぶり、心当たりはあるようだな。
    慰謝料を値切りでもしたのか?」


    「・・・・」


    「図星か。
    金を惜しむから、こんなことになる。
    自業自得だ。自分の不始末は、自分でケリをつけるのだな」


    本人が知らない内に、事態は変な方向へ向かっているようだ。
    そんなことは一切知らず、ただ自分の趣味に没頭するリツコは、幸せ者かもしれない。






    でらさんから短編「人生いろいろ 2」をいただきました。前回のお話の続きですね。

    人の心を動かすような凄絶なシーンは、主役の二人が断固として反対するでしょうから駄目ですね。

    役者交代でようやくリツコさんの創作意欲もフル回転できそうです。しかしゲンドウたちがなにやらビクついているみたいですね(w

    素敵なお話でした。ぜひ感想メールを出して、今の気持ちを伝えることにしましょう。

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