2025年。12月24日。クリスマス・イヴ。
日本に来てからというもの、アスカにとってこの祝日は楽しみなようでいて、あまり気の進まない日になってしまっていた。
20日前の誕生日で24歳を数えたアスカだが、今年もこの日は複雑な思いで迎えている。

“アスカのことが好きです。気持ちを聞かせてもらえませんか。”

毎年決まってシンジに告白される日になってしまっていたのだから、今回はどうのようにしてはぐらかそうかと考えるだけで終始してしまう。
よって、食卓に並ぶイベント料理にもあまり手がつけられていない。いつシンジから切り出されるか、それを待つだけでも気がそぞろ。
無理やり被せられたパーティー帽の下、アスカは思案に耽りきった表情で、フライドチキンをちまちま齧っていた。

「アスカ。」

「ふぇっ?」

緊張のあまり、名を呼ばれただけで身構えるほど。

「揚げ物ばかりじゃなくて、野菜も食べないと駄目だよ。」

「あ、あぁ……、そうね。」

フライドポテトからフライドチキンに手を伸ばした選択が、シンジの栄養バランサーを刺激しただけだった。
告白のタイミングではなかったと知り、ほっと胸をなでおろす。

――今年はなんて言って、はぐらかそうかしら。
  あんまりキツく言い過ぎてもフォローが大変だし。
  アタシの本心が知られるようなコトも言えないし。
  まったく、骨が折れるったらありゃしない。

邪魔な競争相手でしかなかった少年がいつしか想い人に変わってからというもの、早十年。
成人を迎えた年に保護者役を降りた葛城ミサトが引っ越したことだけを除けば、このマンションで同居を続ける二人の関係は相も変わらず。
その進展の妨げとなっているのは主に女性側、素直に「好き」と返せないアスカの厄介な性格に他ならない。

――だって、本心でコイツに好きだなんて言うなんて。自分のキャラじゃないみたいで、恥ずかしいじゃん。
  今までツンケンして接してきたのに、いきなり相思相愛になったって。それからどんな顔して付き合えばいいのか、分からなくなるじゃん。

威勢の良い表向きとは裏腹に、デリケートすぎる乙女心がつっかえ棒。
それでもこうして同居を続けているのは、いつか必ず素直になれるはずだという、一抹の希望を保ち続けるための最終防衛ラインでもあった。
もっとも、素直になれる可能性がごくわずかなものであったとしても――想う気持ちは真実なのだから、現状維持で割り切るしかない。

――ともかく、まだ。時期尚早だわ。
  やり過ごすしかない……。

一人メランコリック全開で咀嚼していると、頃合やよしと見たのか、シンジが動きに出た。

「あの、アスカ。大事な話と、渡したい物があるから、ちょっと待ってて。」

「…………。」

大事な話と聞いて、アスカがたちまち赤面。大きくうなだれた。
もれなく今年もやってきた、恒例の告白タイムとしか考えられない。
毎回アスカが言葉を選びに選んで丁重にはぐらかしているというのに、今年はクリスマスプレゼントまで用意している気合いの入れようだ。

――イヤなワケじゃない。
  そりゃ嬉しいわよ。
  嬉しいには嬉しいケドさぁ……。

つくづく素直になれないからアスカも困っている。
この十年もの間、何度も勇気を振り絞って告白し、何度も空振りに終わらされたシンジの胸中を思えば心も痛む。
かといって毎年毎年、今年こそは思ってやってきたアスカだが、残念なことに今年も敬遠を投げさせられるのが確定。
そしてその時、シンジがどんな顔をして自分を見るのか。気分はすっかり処刑台に立たされる罪人に等しい。

「ああ〜、もう〜、イヤになる。」

自分の席によそわれたショートケーキは今年もパス。
この日ばかりは甘いものを口にするのが罪に思えるアスカだった。

「アスカ、おまたせ。」

「え、ええ。」

長いこと待たせているのは私の方だとは言えず、シンジが戻ってくるなり、アスカは背筋を正した。
明確な返答が成せないのならば、気持ちを受け取る側なりに精一杯の誠意を見せておきたい。
顔も真摯に引き締め、固唾を飲んで告白主の出方を見守る。

「えっと、それでなんだけど、これ。僕からのプレゼントなので、ど、どうぞ。」

「うっ……。」

先に渡された贈り物を見て、アスカが呻いた。
手のひら大のそれは見るも上品に作られた小箱。明らかにアクセサリーの類が収められていると考えられるそれから、とてつもない予感がする。
透視能力などあるはずもないアスカだが、手にしたこの箱の中身からは肌に感じるほどの、ただならぬ物々しさが訴えられてやまない。
なにより例年以上にシンジの顔から決意の表れが見て取れるだけでも、予感を確信に変えるに充分な状況証拠が揃っている。

「ア、アンタ、まさか……。」

十年目にして、かつてない展開。
恐る恐る。わずかに開けた箱の隙間からは、どう見ても婚約指輪たる代物が華々しい威光を放っている。
瞬く間に頭から爪先まで赤くなったアスカの手を取り、シンジが迫ってきた。

「アスカっ……。」

仏の顔も、十年目まで。
いかに忍耐強く、いかに鷹揚で知られるシンジとて、待ちぼうけさせられるにも限度というものがある。
これだけ長いこと待たされたのなら、さすがの彼も一世一代の覚悟。男を見せる気にもなってこよう。

「どうか僕と、結婚してくださいっ!」

ブツンッ

単刀直入。シンプルかつ最大級のプロポーズを浴びた瞬間、アスカの思考は音を立てて焼き切れていた。









プロポーズされて恥じらいもがく女









腰まで伸びた赤毛をなびかせ、アスカは走っていた。
自宅のマンションから遠ざかることだけを自らに命じ、とにかく道なりに足を駆けていた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!」

緩やかに流れる川沿いの土手をひたすらに猛進する。
前方を走っているジョギング中らしき人らが目に入るなり、次々と追い抜いて行くが、別に彼女は競走を挑んでいるわけではない。
これはただの純然たる、紛れもない逃亡劇なのだから。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ…!えほっ、げほっ…!」

長いこと走り続けてきて、そろそろ息が上がってきた。
ひとまず膝に手をついて呼吸を沈ませたあと、アスカは周囲を見回して腰を落ち着かせる場所を探した。
家を出る前までは青く澄み渡っていたはずの空も、気付けば打って変わっての曇天模様。今にも降り出しそうな雨雲が覆っている。
近場に見つけた高架下に駆け込むと、予期した通り雨音が周囲を包み込み始めた。

「ち、ちくしょう…!一体なにをやってんのよ、アタシはっ…!」

バタバタと雨粒が降りしきる中、アスカの慟哭が木霊する。
その右手に握り締められているのは、先刻シンジから結婚を迫られた際に差し出された小箱――、その中身に婚約指輪だ。
それをしっかり受け取っておいて、今。なぜこのような不法投棄のゴミが散乱する薄汚い高架下に身を潜めているのか。
ただ受け取った瞬間に頭が蒸発してしまって、あまりの恥ずかしさから玄関を飛び出してしまったのが真相だなんて、お粗末すぎて他言できない。

「ああっ…!くそっ…!アタシってヤツはホンットにっ…!うぐぬぅぅっ…!」

空前絶後の勢いで自責の念が膨れ上がる。頭を抱えたアスカはその場にうずくまり、たまらず地面にもんどりうった。
まさしく人生で最大の転機、そして最大の好機を前に、よもや自ら逃げ出してしまうとは。
それも他ならぬ、長年ずっと想い続けていた人物からのプロポーズだったというのに、その返事が逃走とはこれいかに。

「なにも返事しないで、指輪だけ奪って逃げ出すなんてっ…!まるでひったくりじゃないのよ…!」

さんざんもんどりうって土埃で身を汚した挙句、ついに大の字で停止した。
はぁはぁと上下する胸の奥では、いまだに心臓が大鐘を打っている。
婚約を申し込まれた極大の嬉しさと、その返事から逃げてしまった己への極大のふがいなさが混ぜこぜになってどうしようもない。

「で、でもっ……、いきなり結婚しろだなんて言い出してくるアイツにだって、非はあるわよね……。
 そりゃあ十年も一緒に暮らしてたら、少しはそーゆー気持ちになるのは、わからないでもないケド……。
 でもっ、言われてすぐ『ハイ』だなんて即決で返せるハズないんだし。混乱した頭でまともな決断なんて下せるハズないんだから。
 だから、つい玄関を飛び出しちゃったって、それにもちゃんと正当性があるんだから。
 だから、とにかく、急に言い出してきたアイツがぜんぶ悪い。ビックリしたアタシはぜんぜん悪くない。そうに決まってる……。」

こじつけ論で自己保全に努めようとするも、最終的には「子供かっ」と自らにツッコミを入れることで終着するアスカだった。

「ええいっ…、現実逃避も大概にしなさいよアスカ。とにかく冷静になって、事態の収束に向けて分析しないとだわ。」

こぶしを握り締め、ようやくほんの少しの余裕が出てきたようだ。
決して走ったせいではない、朱が色濃く残る両頬をベチベチと叩きながら。体育座りの姿勢に変えたアスカは状況を整理し始めた。

「……まず、指輪は、う、嬉しい。当然よ。こんなもん、誰だって嬉しいに決まってるもの。べ、べつにアタシだけが特別嬉しいワケじゃない。」

いちいち素直ではなく、どこまでも言い訳がましい物言いは、この先も一生変わる見込みはないのだろう。

「そんでもって、結婚を申し出てくれたのも嬉しい。このままずっと同棲ってのも世間から不純に思われるだろうし。男らしい英断だわ。」

土と枯れ葉が絡みついた頭でうんうんと頷く。順調な状況整理はすぐに問題の箇所へと行き当たった。

「となると、やっぱ素直になれないアタシ一人が悪いのか……。」

誰がどう考えても当然の結論である。

「あ゛〜ー…。かといって、どうすりゃいいのよ。好きとすら返せないでいるのに、結婚だなんて。恥ずかしくて死ぬっての。」

嬉しさを上回る、あまりにも末期的かつ慢性的な恥じらい症がどうしても克服できそうにない。
落ちている小枝を拾ったアスカは地面に無数の“の”の字の量産に着手していた。

「もし結婚して夫婦になんてなったら……、当然、同じベッドに寝るコトになるし……。
 目覚めの朝はおはようのキスで始めなきゃならないし……。二人で出掛けの際には手ぇ繋いで歩かなきゃならないし……。
 奥さんとしてちゃんと料理が出来るようにならなきゃいけないし……。一口ずつ『あーん』して食べさせてやらなきゃならないし……。
 お風呂にだって一緒に入らなきゃならないし……。お互い仲良く背中を流し合わなきゃならないし……。
 なにより、アイツのコト『あなた』なんて呼ばなきゃならないなんて……無理。そんなの恥ずかしすぎる。舌かんで死ぬ。」

困ったことに、一般の夫婦生活というものにかなりの偏見を抱いているご様子。
結婚後に彼女が考えるようなノルマを果たす決まりなどあるはずもない。
まさしく勝手な妄想と杞憂に振り回されている、哀れな葛藤劇である。

「ああもう、どうしたらいいのよ。」

好きな人と結ばれたい。でも恥ずかしくってたまらない。相容れぬ二律背反に混線を極め、知恵熱に苛まれる。
色恋沙汰となると排熱処理が追いつかないアスカが頭の冷やしどころに求めたのは、今この場で即時利用できる雨水だった。
ふらついた足取りで雨宿りの高架下から一歩抜け出すと、すぐに空から迎えたどしゃぶりの雨が全身を浸した。
おかげで一時的に頭は冷えそうだが、これで問題の解決とはならず。事態の進展ともなりえない。

「うぐぐ……どうしよ。このままじゃ帰れない……。」

ここまで逃げてきたものの、さすがにこのまま野宿と行くわけにもいかず、かといってシンジの待つ自宅へ戻るわけにも行かず。
にっちもさっちも行かなくなったアスカは、ふと土手の方へ顔を上げた。
そこで思わず、「あっ」と声を上げそうになる。
道行く人々の中、瞬時に目を吸い寄せられた人物。シンジを見つけてしまった。
彼の方もこの大雨の中、傘もささずに捜索に出回っていたらしく、全身を濡れ鼠にしながら忙しなく辺りを見回している。

「くっ…!ま、まだ心の整理がついてないってのに、おっかけてくるなんてっ…!」

外道っ!と叫びたくなる衝動を抑えて(逃げ出した自分の方が外道との自覚ゆえ)、アスカはもといた高架下へと引き下がった。
身の丈ほど積み上げられた廃タイヤの影に隠れ、こっそりと相手の動向を窺うことにする。

――逃げ出したうえにコソコソ覗き見とかっ…!
  なんかどんどん人としての品格が損なわれていく気がするわっ…!

もはやプライドなど地に堕した。しかし今、どんな顔でシンジに会ったらいいのか分からない。
てっきり落ち込ませてしまったものだと思っていただけに、果敢にも雨の中を探しにきてくれたことが嬉しく、それゆえ恥じらいも高潮だ。
深刻な表情で自分を探し回っている彼を見ていると、つい胸の奥がキュンとしてしまう。

――サ、サイアク……。
  あの必死な表情のシンジに、もう一回言い寄られたら、キビシイわ。
  そうなったらもうなにも考えられなくなって、体がすくんで動けなくなるだろうし。
  すっかりまな板の鯉にさせられたアタシはきっと、この人目の届かない高架下でアイツの好き放題、滅茶苦茶にされるに決まってる。
  だから、無理。そんなの恥ずかしすぎる。舌かんで死ぬ。

ここでも懲りずに妄想フィールド展開。赤毛の頭上で荒唐無稽の空中楼閣が築かれる。
いずれにせよシンジは物陰に潜むアスカに気付くことなく、そのまま土手を走り抜けて行くようだった。

「よ、よし……うまいこといったわ。アタシがここにいるとも気付かず素通りするなんて、ちょろいヤツ。」

謎のしたり顔でシンジの背中を見送る。
直後、ハッと我に返って身を乗り出した。

「バカシンジの分際で、このアタシを無視するなんて…!」

しばしば支離滅裂に陥る悪癖も、今後どうにかしたい課題点。
ここに乱心を極めたアスカはむかっ腹に耐え切れず、シンジのあとを追いかけていた。

「こらっ!バカシンジ!アタシはここよ!」

「ア、アスカ!?」

呼ばれて振り向くシンジが瞠目を剥くのも当然だった。追いかけていたはずの人物に追いかけられたのは生涯初である。
それでも理不尽さを後回しにして駆け寄ると、同じだけの長身に育ったアスカがこれまた奇怪な注文をぶつけてきた。

「ちょっ…!そこで止まりなさいっ。」

「なっ…?」

「べ、べつにアンタが嫌いだからとか、そんなんじゃないわよ。ただ、今は少し。距離をあけておいてくれると、助かるってだけ。」

顔面を真紅に染めたアスカが飛び退き、安全と思われる距離を確保する。
先刻彼女が危惧したように、もしも再び言い寄られてしまったら――との、一方的な恥じらいがゆえに。
しかし他方、シンジも困り果てている。
突然家を飛び出て行かれ、探しに出てみればなぜか相手側から呼び止められ。あげくに近付くな。
すっかり五里霧中に追いやられてしまい、残すところ口頭での釈明を待つしか手立てがない。

「とりあえず、さ……。僕はアスカさえ見つかって安心したから……、ひとまず、家に帰ろうよ。」

「…ぬぅ………。」

「全身、雨に濡れたままで風邪ひいたら大変だし。帰ってからちゃんと、お風呂であったまらないと。だから、ね?」

苦笑いのシンジから出されたのは差し障りのない提案。聞かされたアスカは二つの意味で、心の底から安堵していた。
まずはプロポーズに対する返答を性急に求められなかった点。そしてもうひとつ、なによりもシンジから謝られなかった点。
後者においては本当に救われた気分だった。
これがもし『さっきは変なこと言ってごめん』なんて言われてしまったなら、この日を最後にアスカは再起不能に陥いる自信があった。

――な、なんか、取り返しがつかないほどの借りを作った気分だわ……。
  ちくしょう……。
  とりあえず、ここまできたら『好き』くらいは言い返してやりたいケド……。
  でも、恥ずいっての……。

先導して歩く男のうしろを、本音と恥じらいの狭間で翻弄される女があとを追う。
しょんぼりとした空気を背中で感じるのか、時折シンジがちらちらと心配そうに振り返る。
しばし無言の家路を歩いたあと、次なる会話のきっかけとなったのは信号待ちの折。シンジの口からだった。

「それにしても、さっきは驚いたよ。アスカ、急に飛び出して行っちゃったから、なにごとかと思った。」

アスカがとことん素直でないことを誰よりも承知でいるシンジだ。
あえてプロポーズの件に触れないでいるのは気まずい空気を解消させたいからであって、察したアスカもその気遣いに預かることにした。

「……べつに。最近運動不足だと思ってたから、ちょっくら走ってくるかって、そう思っただけよ。」

「わざわざ、この雨の中を?」

「……天然のシャワー浴びながら走った方が、同時に汗も流せて、一石二鳥でしょ。水道代だって浮くワケだし。」

「そっか。それもそうだね。」

「ふん。そうよ。アタシは賢いの。」

「うん。わかってる。アスカのことなら。」

人柄の良さが滲みでる笑顔のシンジと、その隣りでプイとそっぽを向くアスカ。
しかし指輪の入った小箱は大切そうに胸に抱えている辺り、辻褄の合わない滑稽さを思わせる。
そしてこの点が今もっともシンジが気になっている矛盾点だ。
半ばひったくるように指輪を奪い去りながらも、プロポーズに対する返答は避けている、その理由。
問題が婚約に関する大事なだけに、シンジもこればっかりはなんとかして明確な意思表示を受け取りたい気持ちが強い。

「ね、ねぇ、アスカ。それでなんだけど、さ……。」

しかしながら惜しいことに。なにかにつけて“分かり易い”本分が露呈してしまった。
頬を赤く染めて、視線はやや下ろし気味。ぽりぽり頭を掻きながら、言い出しづらそうにつっかえながら。
明らかにプロポーズに関する話題に切り替えようとしている、いかにもなサインを全身からぷんぷん匂わせてしまっている。
これを警戒度MAX状態のアスカが見過ごすわけがない。

「改めて、自分勝手で、押し付けがましいこと言うようだけど……。」

一言一言を丁寧に区切ってしまうのも、誠実な印象を与える面では利するだろうが、アスカに猶予を与えてしまう面では具合が悪かった。
しかしシンジに落ち度はない。彼だって精一杯の努力を尽くしているのだし、婚約を申し出るだけでも相当の覚悟を抜きには語れない。
それでも残酷なことに、時すでに遅し。
脱兎の如くその場から逃走した、とうに姿のないアスカに向かって、シンジの口から魂のこもったプロポーズが放たれた。

「アスカさえよければっ…!どうか僕と、結婚してくだ――」

勢いよく振り向き、面と向かったガラス越し。
男前な口髭がたくましい、カメラ屋の店主と目が合った。







困った時の友頼み。
気まぐれな神様などより、友情を培った人間の方がよっぽど確実で頼りがいがある。
再び逃走したアスカが向かった先は、現在ではトウジと籍を入れて姓を鈴原と変えた親友、ヒカリが住むアパートだった。
こちらの二人組は大学を卒業後に難なくゴールイン。卒なく式を挙げて順風満帆な夫婦生活一年目を迎えている。
しかし人妻となった親友の住まいにお邪魔するからには、当然そこには夫となる人物も棲息しているわけで。遭遇は避けられない。

「なんやねん、こんな夜更けに。」

ヒカリに玄関を通されて居間の前を横切る途中、テレビの前で寝転がっていたトウジに早速怪しまれてしまった。
まさか『シンジからプロポーズを申し込まれたのが恥ずかしくて逃げてきた』とは言えず、アスカは歯切れ悪く返す。

「べ、べつに?ただ、新婚のヒカリがどんな家で鈴原と暮らしてるのか、心配で見に来てやったのよ。」

と、即席の口実を飛ばしてみるも、全身から水を滴らせた雨女の台詞では説得力に欠ける。

「ほーぉ。この大雨ん中、傘もささずにずぶ濡れでか。見上げた友情精神やのう。」

「ぐッ…!」

「ほ、ほらアスカ。ここがお風呂だから、ごゆっくりどうぞっ。」

言い返そうとするアスカを脱衣所に押し込めたヒカリは、すぐにムッとした顔でトウジに詰め寄った。
鈴原家流、夫婦喧嘩勃発である。

「もう一度アスカをからかうようなことしたら、許さないからねっ。」

「なんでやねん。どう考えたってシンジとケンカしたからお前に泣きついてきたんやろが。あいつシンジの気もしらんで、ホンマ腹立つわ。」

さらりと切り捨てる夫の主張に、おさげの嫁も食って掛かる。

「アスカはデリケートなのっ。人一倍恥ずかしがり屋だから、なかなか素直になれないだけなのよ。」

「そんなもんジブンが素直になれんのを都合よく繕った言い訳やんけ。それでストレスになるシンジはどないせーっちゅうねん。」

「そ、そうだよ。それだからこういう時は、私たちが二人のために力になってあげなくちゃ。」

「ん〜……。まぁ、そういうのやったら、ワシは異存ないけどな。」

アスカ派とシンジ派。それぞれ異なる派閥に属する二人の論争も、双方の望む融和路線ならば隔たりはない。
早速と携帯を取り出したトウジはシンジの番号へ呼び出しを掛ける。

「仲直りも面と向かわんと始まらんからな。まったく世話の焼けるやつらやで。」

仲違いとはまた異なる特殊な事情があるのだが、それはさておき。
「赤鬼がウチにきとる」とだけ短く伝えると、五分と経たずにシンジが駆けつけてきた。

「ありがとう。アスカがここにいるって知らせてくれて、ほんとに助かったよ……。」

「礼には及ばんて。ただし、ワシらの世話になる以上、事情は聞かせてもらうで。」

「う、うん……。それが……。」

鈴原夫妻とちゃぶ台を囲い、身振り手振りを交えて、かくかくしかじか。
一連の成り行きを説明し終える頃になると、シンジの前には二つの呆れ顔が陳列していた。

「ほんなら要するに、惣流はシンジにプロポーズされたのが恥ずかしゅうて、逃げ回っとんのやと……。」

「やっぱり、そうなのかな……。」

「それ以外、考えられへんやろ……。ホンマ、なにやっとんねん、惣流のやつ。」

そもそも十年も同棲を続けていれば事実上の夫婦も同然。この期に及んでなにを恥じらう必要があるのか。
夫婦として同居を始めてから一年目のトウジとヒカリに、アスカの謎すぎる恥覚神経は理解の範疇外だった。

「僕も、今日こそはと思ったんだけどね。やっぱり今年も、アスカは気持ちを聞かせてくれないのかな……。」

「ほれ見ぃ、ヒカリ。これでもまだ惣流の肩持つ言うんか。」

「うー……。なにも言えないわよぉ……。こればっかりは碇君が正しいもん……。」

「そうや。シンジはここまで覚悟決めとんのやし。あとは惣流のひねくれ根性さえなんとかなれば、めでたしめでたしや。」

長らくアスカ派に属していたヒカリも、今日この日をもって完全に立場を失った。
同時に、かかあ天下が続く鈴原家にて、初めて旦那側に軍配があげられた記念すべき瞬間でもある。
発言力を無くしてため息をもらすヒカリの隣りで誇らしげに胸を張るトウジは、問題解決へ向けて主導権を発揮した。

「んで、シンジ。お前は惣流の口から返事を聞きたいだけなんやろ?いまさら確かめるまでもあらへんのはおいといて。」

「うん……。これまでにも何度も僕の気持ちは伝えてきたんだけどね。そのたびにアスカからは、はぐらかされてばかりで。」

「うむ。ようそこまで打ち明けてくれたな。まぁでも、シンジの悩みも今回かぎりや。ワシが一肌脱いだるわい。」

「えっ?」

ドンと胸を叩くトウジの進言にシンジも驚く。プロポーズに勝る決定打など存在し得るのだろうか?
ヒカリが夫に疑惑の眼差しを送る傍ら、お悩み解決人気取りの関西人がキーアイテムとして指し示したのは、他ならぬシンジだった。

「お前を人質に取って惣流を脅すっ。素直になるまでシンジをウチで預かる言うてな。さすがのあいつも白旗あげるやろ。」

「う、うーん……。」

「ばっかみたい」と呆れ返ったヒカリ同様、シンジの反応も芳しくない。
もっとも、友情オーラを振り撒くトウジが本心から肩入れしてくれているのはシンジにも充分伝わっている。
ただ一点、どうしても。聞かされたアイデアが平和的と言えない内容だけに、シンジも心から「ありがとう」と返せてないでいた。
それにあのアスカが交渉に応じるとも限らない。問答無用の武力制裁に出られたら、トウジの方に危険が及んでしまう。

「なんや、浮かない顔しおってからに。心配せんでも、三日も経てばあいつの方から折れてくるやろ。」

「いや、えっと、そういうのも一つの方法なんだろうけど。僕としては、出来ればこう、ちゃんとした形で収めたいっていうかさ。
 アスカには面と向かって、正式に返事を聞かせてほしいんだ。」

「せやかて、脅しでも使わんかぎり惣流が素直に白状すると思うかァ?アレ相手に綺麗事なんぞ求めとったら、このままジジババ確定やぞ。」

シンジが要望する内容も決して特別なものでもなく、ハードルの高さも一般的なもの。けれども正攻法では適わないとするトウジの弁にも一理ある。
なかなか折り合いのつかない応酬が続けられる中、おそらくベストだと思われる打開策を持ち出してきたのは、意外にもヒカリだった。

「ねぇ、碇君。ちょっとだけ、プロポーズのやりかた変えてみない?」







時は数分ほど遡り、シャワーを終えたアスカも打開に向けて頑張りを見せていた。
脱衣所の鏡に映る自分をシンジに見立て、プロポーズに対する返答の言葉選び、及び予行練習を実施している。

「ま、まぁ。アンタが、そこまで言うんなら?べつにアンタのコト、キライでもないんだし?
 指輪なんて高い買い物したアンタを憐れんで、ちょっくら、物は試しに、けっ、ケッ、ケッコン、しても……。んぐぐッ……。」

なんべん繰り返しても、最後が言い切れない。それ以前の脈絡も歪曲しきって本人の満足とはかけ離れた内容。
こんな返事ならばいっそ言わない方が無難と思えるし、もし立場が逆でシンジからこんなことを言われたらアスカはショックで寝付けなくなる。

「もっと、もっとまる〜く、やわらか〜な表現よ……。当たり障りなく、シンプルに……。」

バシッと頬を張って緊褌一番。玉砕覚悟で、今一度。

「ア…ア…ッ…タシも。す……っ…き、だ、からっ……。け、けっこ、…んんぅ……! …………、…………、……っ……シテッ……!」

テイク46にして、ようやく言い切った。真っ赤に熟れた顔からモクモクと蒸気をのぼらせ、ぜいぜいと呼吸を荒げる。
本人を前にして言えるかどうかはまた別次元の問題だが、とにかく音声として発するテストだけはクリアした。

「それにしてもアイツ……、よくもこんな恥ずかしい台詞を平然と言えたものね……。まったく、どんな神経してんのかしら……。」

真に神経を疑われるべきがどちらであるかは語るまでもない。
一人稽古ですっかり疲労困憊になったアスカは、息も絶え絶えに脱衣所を出た。

「ムッ…?!」

廊下に出た瞬間、脳内に拡散するエマージェンシー警報。
独自開発で鍛えた嗅覚が反応を示した。

「こ、これってまさか……。」

もう一度クンクンと鼻を嗅がせてアスカは確信した。間違えるはずもない、碇シンジの匂いを捉えている。
この家にあるはずのない、訪れた時にはなかったはずの匂いに警戒心が尖り立つ。

――アタシがシャワーを浴びてるうちに呼び出したとしか考えられないわ。
  謀ったわね、あの二人っ……。

空気中に漂う、人間では嗅ぎつけるはずのない超微量の成分を辿り、抜き足差し足忍び足。居間の前に到達。
わずかに襖を開けて覗いてみると、トウジ、ヒカリ両名らと共に、座談に加わっているシンジの姿が確認された。

――シンジのコトだから、今日の出来事あらいざらい言っちゃってるハズだわ……!
  は、恥ずかしいったらありゃしない……!
  ええい、こうなったからにはもう、ここをセーフティハウスに使うのは断念するしかないわね。
  こっそり玄関から出て、安全な場所に身を移さないと……。

また家なき子に戻るのは億劫だが、背に腹は変えられない。他に落ち着ける場所を見つけて、心をメンテナンスしなければ。
内心で悔しげに舌を打ったアスカは襖から離れようとしたが、ふと聞こえたヒカリの一言は聞き捨てならないものだった。

「ねぇ、碇君。ちょっとだけ、プロポーズのやりかた変えてみない?」

ピクンと立ち上がる地獄耳。相手の手のうちを知る、重大な情報が語られようとしている。
不覚にも耳に釣り針を食いつけられたアスカは予定を変更してこの場に留まることにし、隠密に耳を傾けた。

「やりかたを変える?」

「そっ。べつに碇君のプロポーズが悪いっていうわけじゃないのよ。ただ、アスカ相手にはちょっと手を加えた方がいいかもって。」

にこやかに語るヒカリの背後。気配を殺して聞き耳を立てるアスカの緊張感は尋常ではない。
相手の手のうちを知ろうにも、これから語られるのはシンジのプロポーズに関するアップグレード情報。知ったところで今のアスカに打つ手なし。
それでも万事、知るところに価値はあり。何事も知らずに覚悟はままならない。
逃げ出したくなる衝動をグッと堪え、続くヒカリの声を待つ。

「まずね、アスカが逃げるっていうより、アスカが逃げられるって考えると、対処もできると思うの。
 だからたとえば、最初に抱きしめちゃうなりして。アスカが逃げられないようにしてから、プロポーズしちゃえばいいんじゃないかしら。」

どうやらアスカがもっとも恐れていた、最凶のアップグレードがシンジの頭に施されてしまう見通しだ。

「わははっ。それええなぁー。腰が砕けて動けんようなる惣流が見物やわ。」

「こぉ〜らっ。私はまじめに話してるんだから、笑うのは許さないっ。」

「イデデッ!ギブ!ギブやって!」

こめかみをグリグリされるトウジから悲鳴があがるが、アスカはそれどころではなかった。
盗み聞きしていた顔からは生気が消え去り、かつてない終末感に晒されている。

――終わった……。
  なにもかも、ぜんぶ終わったわ……。

今後シンジと顔を合わせ次第、抱きしめられて、プロポーズされる。イコール、心臓が耐えられるはずがない。
頭の中をまっしろに吹きさらわれたアスカの膝が折れ。ぺたんと腰が落ちた。
不幸が重なるように、物音に気付いたトウジから警報のおたけびが上がった。

「アカンっ!惣流がおるぞ!逃がすな!」

「ひぃッ……!」

振り返ったシンジと目が合う。
アスカは弾かれたように飛び上がり、何を考える前に駆け出した。







ドアのチェーンロックを引きちぎり、最大戦速で鈴原家から逃げ出すこと、一時間。
弾丸のごとき疾走の果てにアスカが第三の潜伏先として辿りついた場所は、はるか遠く、人里離れた二子山山中だった。

「恥ずかしくって、なにが悪いのよ……。ムカつく……。」

深緑が密生する山奥。自力でこしらえた焚き火だけがパチパチと音を鳴らす、安閑恬静の地。
誰にも追いかけられず、誰にも責められない。自ら望んで行き着いた場所で、アスカを包み込んでいるのは悲壮の気配、その一色。

「アタシだって、アイツと結ばれたいわよ……。ただ、まだ勇気が足らないってだけで……、いつかは、ちゃんと……。」

いつか。きっと。そのうち。やがては。将来的に。
10年後かも20年後かもわからない、あるいは果たせずに終わるやもしれない、その場しのぎの言い訳。
このようなことを繰り返すだけでは輝ける未来は訪れない。アスカは頭を振って弱音を払いのけ、星がきらめく夜空を見上げた。

「いつまでもこんなんじゃ、ダメだわ。せっかく安全な場所まできたんだから、いまのうちに免疫つける訓練しとかないと……!」

おそらく次にシンジに会ったら、抱きしめられる。その確定的近未来はもう、割り切って受け容れるしかない。
ならばその時に耐えうる鋼の心臓を構築することこそ、いまのアスカに残された最後の道である。

「えぇっと…、結婚したらまず、苗字が変わるのよね。………恥ずかしいケド、練習しとくか……。」

思いつくかぎり、手当たりしだいの免疫をつけなければ。
アスカは地面にちょこんと指先を立てると、“碇アスカ”となぞった。
なにげに今までやりそうでやらなかった密事だったりする。

「う……!?」

しかし完成した途端、全身から火の手が上がった。本格的に結ばれたような実感が沸いて心臓が急加速。
24にもなってどれだけウブなのかと、早くも挫けそうになってしまった。

「く、くそっ…!なんの、これしき…!」

負けじと歯をくいしばって我慢の子。何事も慣れるためには数をこなさねばならない。
アスカは四つん這いに構えると、指先をズンと地に直立。いざ、一心不乱に“碇アスカ”と書き連ねて行く。

「ち、ちくしょう……。アタシってば、イヴの夜になにやってんのかしら……。」

闇と静けさに包まれた夜の二子山に、しばしガリガリと地面を穿ち続ける、不気味な物音が鳴り響いた。





「よ、よしっ…。いくら書いても、もう全然恥ずかしくなくなったわっ…。」

時間にして三十分ほどの間か。
ついに苗字変更に免疫をつけたアスカが一息つく頃、焚き火のまわりには軽く三桁を数える“碇アスカ”のサインが集結していた。
そのおびただしい数たるや、見る者に呪術の類を思わせるほどの圧巻。
彼女が免疫をつけたというのも、一時的にゲシュタルト崩壊を起こしているだけの可能性が高い。

「フ、フフ……、これで少しはバカシンジを見返してやった気が………って、あれ?」

なにはともあれ、一段落。自らの頑張りを労おうとしたアスカは、しかし、はたと気付いた。
よくよく考えてみれば、苗字変更は結婚後の話。
喫緊に解決すべき問題は“碇アスカ”の筆記練習などではなく、碇シンジからの抱きしめプロポーズの方である。

「こ、こんなコトしてる場合じゃないってのにっ…!」

またも夜の山林にドタバタとのたうつ騒音がこだまする。

「くそっ……、でも落ち込んでる場合じゃないわよ。このまま野宿なんてゴメンだし、今晩中に堂々と家に帰ってやるんだからっ…。」

落ち込んでは立ち直り、落ち込んでは立ち直り。しかし今度こそ醜態は晒すまいと跳ね起きる。
すると再起したアスカの前に、さらなる疑問の壁が立ちはだかった。
さながら最初からあるべくしてあった、当然の結末との見方が正しいのかもしれない。

「アイツからのハグに慣れる……?」

他に誰もいないこの場で、どうやって?
真に免疫をつけるためには、その場面の想像だけでは不十分。
実際に本人から抱擁の感触を得る以外に免疫をつけられるわけもなく、心臓強化トレーニングは最序盤で行き詰まる運命だったと思い知る。

「結局、アタシ一人がどれだけ悪あがきしたって、シンジがいなけりゃなにも変われない、か………。」

自分で自分のからだを抱きしめるなんて考えも浮かんだが、愚考だった。あまりにも惨めすぎる。
ここでついに万策尽きたアスカは無力感に襲われ、焚き火のそばで背中から倒れ込んだ。
視界に広がる夜空は、さきほど見上げた時よりも星を減らしたように思える。

「エヴァが自由に動かせるって、あれだけ粋がってたクセに……。肝心の自分自身が自由に動かせないなんて、バッカみたい……。」

本当は結ばれたいし、思う存分に抱きしめられたい。でも恥じらいが邪魔をして、素直な気持ちがからだに反映されない。
過去にエヴァでのシンクロ率不振が原因で荒れていた頃、レイから言い渡された忠告が十年の時を経てなお、アスカの心境に当て嵌まり続けている。
結局、心を開かなければエヴァはおろか、自分のからださえもままならないのだ。
仮にこの場にレイがいたとして、もう一度同じ台詞を言われたとして。その時アスカはもう一度、彼女の頬を張れる自信と資格を持ち合わせていない。

「自分から逃げ出すアタシは、自分のパイロット、失格だわ。」

ここにきて、いまだにインターフェイス・ヘッドセットを身に付けている現状がひどく愚かしく思えてきた。
これは元々エヴァとシンクロするために作られた物。自分のからださえシンクロできない者が、どうしてこのような代物を身に付けられようか。
よくも長年おこがましく頭に乗せてこれたものだと、アスカは自らを責め苛んだ。

「これこそ、恥よね。」

空笑いを浮かべながら、恥の象徴と化したヘッドセットを外しにかかる。
自分にこれを所有する資格はないと思い知った今、いつか素直になれる日がくるまで、ここに埋めておこう。
そう思って外した二つともを手に取ったアスカは、それらを見て目を見張った。

「まさか……?」

円錐状の先端で小さく点灯しているライト。底面に小さく浮かび上がっている、『GPS』の文字。
これまで一度もお世話にならなかったゆえに失念していた機能だが、これでまた不覚が続いた。
タイミング的にこの位置測位機能を発動させているのはシンジとみて間違いないことはアスカにもわかる。
いつから発動されていたのかは知る由もないが、いま現在、絶賛追跡中であることは間違いない。

「く、来るわっ……。ここにっ……。」

焚き火が照らす身の周り以外、四方八方が闇のカーテンに囲われた山中。
ぐるっと360度、いついつどこから現れてくるのかと思うと気が気ではない。
もし背後を許して抱きしめられようものなら、恋にはノミの心臓が即時爆発してしまう。

「うぐぐっ……。」

しかし、もはや万策尽きた身。これからまた逃走する気力も潰えている。
アスカは所在無げにうろついたあと、とうとう観念した様子で座り込んだ。覚悟を決めたよいうより、やぶれかぶれの心境に近い。
どうせ抱きしめられるなら明かりはできるだけ少ない方がマシとの判断も働き、焚き火にも砂がかけられた。

「自分のからださえ自由にできないなら、いっそのこと、シンジの手で葬られたらいいのよ。
 そう、死のうは一定。惣流アスカは今日この日まで、必死に生きた。それだけでいい。この生涯は、輝いていたはずだわ。」

平たく言えば、もうどうにでもなれ。ただし、最期は潔く正座で迎える。
アスカは暗闇の中、ただ静かにその時を待った。







往生を決めたアスカの場所から、およそ100メートルほど離れた地点。
シンジ、トウジ、ヒカリ、さらに助っ人として呼ばれたケンスケの四人で編成された追跡隊が緊急会議を開いていた。
携帯GPS端末を頼りにここまでやってきたのは良いものの、いざ目標のアスカを目前にしてメンバーの意見がまっぷたつに分断していたのだ。

「この暗闇の中で正座して待ち構えてるんだぜ……。惣流が正気でいるとは思えないよ。」

持参した暗視ゴーグルの倍率を調整し、今一度アスカを確認したケンスケが慎重論を唱える。
隣りで頷くトウジも賛同者して意見を述べた。

「ありゃやっこさん、相当覚悟キメてる顔やで。ひょっとしたらシンジと無理心中を企んでるのかもわからん。」

「それか無防備に思わせて、周辺にトラップが仕掛けられている線も考えられるな。」

一寸先も見えない闇の中、思い詰めた表情で正座しているアスカの目論見はどこにあるのか。
ランタンを囲って推察を交わす四人のうち、トウジとケンスケの二人は“罠”との見解で一致している。
対して真っ向から異論を唱えているのはシンジとヒカリの両者。

「あなたたちねぇっ、黙って聞いてれば言いたい放題、日頃からどれだけアスカを凶暴に思ってるのよ?!」

「そ、そうだよ。ヘッドセットも外してるから僕らのことにも気付いてるだろうし、ただあそこで待ってるだけだよ。」

こちらはシンジすら圧倒される剣幕でヒカリがアスカ擁護を買って出ているが、反対意見の二人は渋い顔を見合わせるだけだ。

「あのなぁ、ワシらはあくまでシンジの身を案じてるだけなんやで。万が一のことがあったらどないして責任取るつもりや。」

「あのねぇっ、碇君を大事に想ってるアスカが、あなたたちが考えるような万が一なんて起こすはずないでしょっ。
 おまけに当の碇君が大丈夫だって言ってるのに、それが信じられないっていうのっ?」

「そりゃもちろんシンジのことは信用しとるで。ただ惣流の方が信用ならんっちゅうだけや。」

「あぁ〜〜もう〜〜頭きたっ!この分からず屋っ。明日はあなたのご飯抜きだからねっ。」

「なんでやねん!?そりゃお前おかしいやろっ。とんだとばっちりやっ!」

ここでアスカ派魂を復活させたヒカリがカンカン状態に。他の二人を差し置き、本日二度目の夫婦喧嘩に突入した。
ガミガミと反駁を応酬してエスカレートして行く鈴原夫妻の隣りで、冷静な意見交換に努めているのはシンジとケンスケ。

「ケンスケ、心配してくれるのはありがたいんだけど、僕なら本当に大丈夫だから。」

「いや、でもなぁ……、う〜〜ん……。」

追跡隊の隊長気取りでいるケンスケとしては、大切な隊員を無防備で戦地に送り出すのはどうしても気が進まない。
作戦の最高責任者として、仲間は誰ひとり傷付けずに帰還させてこそ胸に誇れた勝利。
かといって隊員であるシンジの意気込みを無下にすることも躊躇われ、最終的にはその熱意を買ったケンスケが折衷案を出した。

「よし、それならフル装備で行ってくれ。一戦を予想して持ってきた、とっておきがあるんだよ。」

「えっ?」

合流当初から気になっていたケンスケのショルダーバッグがジッパーを解放。
中から現れたのは、なんと物々しいタクティカルベストと弾帯。これを見たシンジが目を剥いた。
これからプロポーズに行く者がこんな格好で行けるわけがない。

「ちょ、ちょっと待ってよ、こんな格好で行く方がよっぽど警戒されるって…!」

「備えあれば憂いなしさ。さぁ、遠慮するなって。危ない時は役立つぞ。」

抵抗するシンジの事情などお構いなし。ぐいぐいと装備を押し付けてくるのはメガネの隊長。
しかしメガネだからといって侮ることなかれ。現在では戦自に入隊している彼なりに体術はそれ相応の心得がある。
必死に身を捩じらせるシンジの一手先を予測し、巧みな身のこなしで正確に対応。
これを着せればシンジにもミリタリーの良さが伝えられるかもしれないとの曲がった熱意も相俟って、秘めたポテンシャルも存分に発揮。
着々とミリタリー化計画が進められて行き、シンジ陥落も時間の問題かと思われた、その時。

「相田君も〜っ、いいかげんに、しなっさいっ!」

「うげっ!」

仲間のピンチにすかさず割り込んできたのはおさげの元委員長、同志ヒカリ。
助太刀のアイアンクローをケンスケの顔面に炸裂させ、目標沈黙。シンジの身柄を救い出した。

「まったくもう、この二人は。友達思いはいいんだけど、どうしてこうも見当外れなのかしら。」

ちなみにもう片方の手にはトウジの顔面が捕らえられており、夫婦喧嘩の方もすでに決着済み。
いささか力尽くの観が強いが、これにてアスカ派完全勝利となり、その功績者であるヒカリが主導権を確保。
敵じゃなくて良かったと怖気づくシンジに向かって素早い指示が飛んだ。

「さぁ、碇君、いまのうちに行って!」

「は、はいっ。ありがとう、行ってきます…!」

「アスカをよろしくね。」

泡を吹いている親友二人の容態に後ろ髪を引かれながらも、シンジはアスカの元へと急いだ。
ひょっとして一人で来た方が手間が省けたような気もしたが、そこはあまり考えないようにした。







「ん……?」

アスカが正座の姿勢を続けてから、どれくらいの時間が経過した頃だろうか。
前方からざくざくと地を踏みしめる足音が聞こえてくるにつれ、淡い光が視界に近付いてきた。

「とうとう、おいでなすったわね……。」

張り詰めるアスカの緊張がピークに達する。
視界に捉えたランタンの光が大きくなり、ついに闇からシンジが現れた。

「アスカ、こんなところでなにやってるのさ。山奥に一人でいるなんて、危ないよ。」

「ぬぬ……。」

目の前までの接近を許したアスカの上半身が、ぐぐっと後方に傾く。
これから抱きしめられてプロポーズされるのだと思うとまた逆走しそうになるが、今度ばかりは正座を死守し、座して死を待つ。
幸いシンジが持つランタンがアスカの赤面を吸収する暖色の照明という点だけが、この死地におけるせめてもの情けだった。

「さぁ、ほら。立って。」

目の前に差し出された手を見て、ゴクリと波打つアスカの喉元。
早くも警戒に値する一幕がきた。

――こ、この手が起点かしら?
  手を取った途端に引っ張られて、抱きしめられちゃうとか。
  まさか、そういうのじゃないでしょうね……。

そこまで深読みするも、いや、シンジとてそこまで性急には出てこないだろう。
いや、それでもいきなりプロポーズを申し出てきた男なのだから、ありえない話でもない。
いや、それでも。いやいや。でもでも。
相手の出方、そのタイミングが不明な以上、一挙手一投足に神経を尖らせるアスカはすっかり疑心暗鬼。

「い、いいわ。自分で立つから。」

とりあえず、その場しのぎの無難策。力を借りずに自ら立ち上がると、シンジの手が引っ込んだ。
これで手を取るリスクは消えたが、しかし「立って」と言ったシンジの要求は満たされたことになる。
一つ、彼の中で準備が進められたことに違いはない。

――や、やっぱりちょっと予定変更っ……。
  このまま、やられっぱなしってのはシャクだわっ……。
  どうせ負け戦なんだし、それならコイツにもたっぷり恥をかかしてやるっ……。

窮鼠猫を噛む。トドメを刺される前に、せめて一矢報いたい。
往生際の悪さには定評のあるアスカはここ一番とばかりにふんぞり返り、ビシッとシンジを指差した。

「アンタッ、一体これからアタシになにするつもりっ?」

まずは野暮な質問をぶつけることによって、相手の面子を潰しに掛かる。
効果のほどは定かでないが、一度目を瞬かせたシンジはけろりと答えた。

「うん……、これからアスカに、最後のプロポーズをしようかと思って。」

「うっ……。」

結果、効果なし。シンジがひるんだ様子は微塵も見受けられない。
むしろ「最後」と付け加えられたことで、もう後が無いという示唆。
どちらかというとアスカの方に重いプレッシャーが圧し掛かった結果となっている。

――さ、最後だなんて言うんじゃないわよっ。
  これで今生の別れみたいな気がして、切なくなるでしょうがっ…!

こうした台詞を内心に留めるだけで、口から出せない人格形成が実に惜しまれる。
それでも敗戦確実な試合運びの中で、あくまでも居丈高を崩さないでいるのはアスカがアスカたる所以。
ダイヤモンドよりも硬く、そして石よりも価値がない天下一品の意固地を掲げ上げ、どこまでも素直になれない女が最後の突っ張りを放った。

「へ、へっへーん。ここで聞いて驚きの事実を教えてあげるわ。アタシ実はヒカリの家でコッソリ盗み聞きしちゃってたのよね〜。
 だから知ってるわよ。アンタ、今からアタシを抱きしめようってんでしょ。」

ここぞとばかりに語気を強め、お見通しとばかりに見せる笑み。
この笑みがまたなんとも見事なまでに意地汚い。
留まることを知らない天邪鬼パワーはさらなるトドメの一手さえも躊躇わないようだった。

「まったくさぁ。他人から教えてもらった手段で女を落とそうなんて、恥だとは思わないワケ?
 男なら男らしく、自分で思いついた手段でモノにしてこそカッコがつくってもんなのにさ。あ〜あ、残念無念ってカンジ。」

さすがは不沈空母の異名を持つ女。頑固な人間は世に多かれど、最後の最後で格の違いを見せた。
まさしく不純度100%。コールタールをも思わせる、黒も黒の真っ黒い、超のつくブラック発言。
抱きしめられる前に終わった――と、言った本人すらも太鼓判を押すほどの突き抜けっぷりを披露。

――アタシってヤツは、ホントに……。

後悔のあまりに卒倒しそうになったアスカは寸でで踏みとどまり、シンジの顔を見やった。
きっと嫌われたに違いない。そう思ってのチラ見は、しかし。シンジもシンジで格の違いを見せつけていた。
後光すら錯覚しそうになる凛然たる佇まいで、じっとアスカを見つめる眼差しは真剣そのもの。
たかが口から出まかせの悪態などでは揺るぎもしないとでもいうような、不動尊の男がそこにいた。

「……アスカ。」

「っ!」

神妙に呼ばれて思わず、内心で「ゴメンナサイッ」。見えない数珠をする。
身を竦ませるアスカの前で、シンジはゆっくりとランタンを地面に置いた。
両手を自由にした身で、改めて面と向かってアスカに迫る。

「僕はね、最後の最後はアスカを捕まえてからプロポーズするんだって、誰に言われる前に、そう決めてたんだよ。」

「な……。」

前置きとなる告白を受けて、アスカが硬直する。
相手がなにかと分かり易い人物だけに、反面、本気で言っていることも手に取るように分かってしまう。

――コイツ。アタシがなに言ったって、その気だ。
  く、来る。そんな目してる。
  わ、分かり易すぎる……。

ジリッと足が一歩うしろに下がったが、それ以上の距離を詰めてシンジが迫った。

「強引に迫るのは嫌いだけど、仕方ないよね。だって、それ以上に、諦めるのは嫌だから。」

もはや夜目でも瞭然に赤くなったアスカは顔を反らすほどの自由も失った。
緊張であごがカチカチとふるえてしまって、言葉を出すのも一苦労の様相だ。

「それじゃあ、アスカ。今度はどこにも行かないで、ちゃんと返事を聞かせてください。もちろん、断ってくれても構わないから。」

とうとう、時間一杯。
正面からがっしり肩をつかまれたアスカは、それだけで意識が薄れかけた。
顔からは次から次へと汗が噴き出し、ぼたぼたと地面に落ちては池を作っているが、待ったなし。

――し、死ぬ……!
  恥ずかしくって、頭がおかしくなって、きっと死ぬ……!
  で、でも、ここまできたら、どうにか生き延びて、せめて、返事だけは……!
  そうじゃないと、今日これまでの苦労が、ぜんぶ水の泡……!

念願かなってシンジに抱きしめられた状態、そこにプロポーズまで襲来する究極の合わせ技二本を喰らってして、果たして返事ができるだろうか。
「はい」とたった一言答えようにも、抱きしめられた時点で気絶してしまうようでは意味がない。

――せめて、返事だけ。
  プロポーズを聞き終えるまで、死力を尽くして堪えるしかない。
  やってやる。
  やってやるわ。
  やるしかないのよ、アスカ……!

誠実な眼差しを至近距離から浴びせられ、ぐわんぐわんと視界が揺れる。
これから起こることは想像でも妄想でもない。すべてが現実だ。
起こるべくして起こる、運命によって強制された現実を、アスカの心臓は受け止めきることができるか、否か。

――なにされたってアタシの勝ち……!
  なにしたってシンジの負け……!
  それだけ念じていれば、なんとか……!

24年の人生で最大の正念場。
こころもとない闘志を燃え上がらせるアスカの眼前で、いざ、結びの一番が始まろうとしていた。

「アスカっ。」

切迫した声で名が呼ばれると同時。
固く目を瞑ったアスカのからだが抱き寄せられ、すっぽりとシンジの両腕に収まった。

ぎゅっ

「あふっ。」

開幕直後に勝負あり。
抱きしめられた瞬間、燃やした闘志は麗しき薔薇の花びらとなって乙女の胸に舞い散り。
沸点を超えた顔面からは、雲を思わせるほどの巨大な蒸気が噴出した。

――あぁ。
  これがゆめにまでみた、シンジの、ハグ。

念願かなって、シンジの胸の中。しかし意識は旅立ち、今日の日はさようなら。

――ほらみなさいよ。
  だから、いわんこっちゃない。
  うれしすぎて。
  はずかしすぎて。
  たえられるわけ、ないっての。

白目を剥いたアスカの口から、するっと魂が抜け出た。











ざざーん

赤い大海原をかきわけて日本を目指す空母、オーバー・ザ・レインボウ。
狂いそうなほど青く澄んだ空の下で、黄色のワンピースが一際目立つ少女が、三人の少年たちと対峙している。

「アタシは栄えあるエヴァのパイロット。セカンドチルドレン、惣流アスカラングレーよ。アンタたちは?」

「おう、ワシは鈴波トウジや。金は貸さんぞ。」

「俺は相波ケンスケ。相棒の名前はシャーリーン。よろしくな。」

「えっと、サードチルドレンの、式波シンジです。」

「へーぇ、アンタが噂のサードか。」

お目当てを見つけるなり、フッと鼻で一笑。高を括るようにふんぞり返ってツカツカ接近。
きょとんとしているシンジに対し、様々な角度からガンを飛ばしていたアスカだったが、そのうちにポッと頬を赤らめた。

――しょ、初対面だってのに、おかしいわね。
  ひょっとしてこれが、一目惚れってヤツ?

なんだか妙な胸騒ぎに駆られる。
一目惚れのようなときめきを覚える一方、不思議と顔馴染みのようにも思える少年との初顔合わせ。

「アンタ、どっかでアタシと会ったっけ?」

「いや、惣流さんとは今日初めて会ったはずだけど。」

「ム……?」

少年の口から“惣流さん”と呼ばれて、またもや違和感。
初対面なら当然のはからいだが、どうにも釈然としないむず痒さを拭えない。

「ま、まぁいいわ。とにかく、これから戦いの中で協力しあう仲になるワケだし、同僚同士、握手でもしときましょ。」

「うん。」

気前よく差し出し合った手のひらを握り合わせる。

「これからよろしくね、惣流さん。」

「ええ、よろしく。シンジ。」

言った直後、はっとなってアスカが口をおさえた。

「ち、違うのよっ!日本人は知らないだろうけど、海外じゃ名前で呼び合うのはフツーなもんでっ!」

「そうなんだ。日本だと初対面で名前を呼ばれることは少ないから、ちょっと驚いちゃうね。」

「そ、そうでしょうね。ただ、うっかりだから。それ以上でも以下でもないから。勘違いしないでよね。」

その後は同い年の四人で他愛のない雑談を交わして終わり、貨物である弐号機と共に日本へ到着した。

「んん……、眠れないわね。」

来日当日、急遽住み込むことになった葛城家での夜更け。
ベッドに横たわるアスカは何度目になるかわからない寝返りをうっていた。
慣れない熱帯夜のせいもあるが、なにより同居人となったシンジのことが頭から離れない。

「式波シンジ……、式波シンジ……。なによこのしっくりこないカンジ……。語呂が悪すぎて寝付けないわ……。」

他人の名前にとやかく言う筋合いがないのはアスカも承知だが、どうにもこうにも気が収まらない。
壁に向かってブツブツと不満をぶつけていると、背後でボスッとベッドが沈んだ。

「えっ…?」

「ごめん、こっち見ないで。」

驚いたことに、シンジがベッドにやってきていた。

――まさか、夜這いーっ?!
  初めて会った、その日に?!

奥手そうに見えたが、判断を誤った。パニック寸前のアスカは身をカチコチにしながら申し出た。

「あの……、式波、くん……?」

戦々恐々として訊ねてみると、シンジが煩わしそうに咳払いを一発。
心臓が跳ね回っているアスカはそれだけでビクッと背を縮めてしまう。

「今日さ、僕のこと、シンジって呼んだでしょ。」

「……え、ええ。」

「これからも特別に、シンジでいいよ。」

ドギマギの真っ只中、シンジからそうお許しが出された時、不思議とアスカは胸のすく思いだった。
これから気兼ねなくファーストネームで呼ばせてもらえるなんて、願ったり叶ったり。姓で呼ぶ違和感も晴れて、ありがたき幸せ。

――やったわ。これで式波なんて呼ばずに、シンジって呼べる。
  それってなんか、しっくりくるカンジ。

胸のつかえが一つ取れたような気がして、心が躍る。
しかし次にシンジから放たれた一言は、アスカの上機嫌を完膚なきに叩き潰すものだった。

「その代わり僕も、バカアスカって呼ぶから。」

「んなっ、なんですってぇ!?」

正体不明の違和感、ここに極まれり。
たまらずアスカがベッドから飛び起きると、部屋中のそこかしこに亀裂が走りまわった。
壁やら床やら、周囲すべてが崩壊し、見渡すかぎり一面の闇に放り出されたアスカはこの時、すべてを悟った。

「ああ、そっか……。これはアタシが夢みた世界。もうひとつの可能性、だったのね……。」

しんみりと真顔で言ってみると、背後から何者かが急接近。頭を叩かれてすっ転んだ。
何事かと振り返ってみると、もう一人のアスカがぷんすかとお冠の様子でハリセンを振りかぶっている。

「アンタ、バカァ!?こんなトンチンカンな世界、誰が夢みるかっての!
 シンジに抱きしめられて気絶したアンタが現実逃避で造り上げた世界でしょうがっ!」

「うぐっ……!」

「あわてて造ろうとするから全然つじつま合ってないし、不整合に限界がきてアンタ自分から世界壊しちゃってるじゃないのよ。
 まったく、しょーもないったらありゃしない。」

「うぐぐ〜……。」

速射砲のごとく放たれるお小言が次々と図星に突き刺さる。
もう一人のアスカはしょぼくれたアスカの襟首を掴むと、手にしたランタンの光が照らす方向へと引きずり出した。

「さぁ、茶番はここまでにして、とっとと現実に戻るわよ。本物のシンジが返事を待ってる。」

「ぐうぅ……。アタシの心に逆らうなんて、アンタ一体、何者よ。」

「はぁ?この期に及んでなにトボケてんのよ。」

引きずられて行く途中、横顔だけ振り返ったもう一人のアスカは自慢げに言い放った。

「アンタ、好奇心に殺されたいから、抱きしめられたんでしょ?」











「はっ……!」

一度吐いた魂を、もう一度吸い込んだアスカが現実に回帰した。
奇跡的にも、シンジに抱きすくめられたままの状態で意識を取り戻すことができたのだ。

――き、奇跡だわ……!
  で、でも、はやくっ。
  プロポーズするなら、さっさとしなさいよ……!
  いつまでも抱きしめられたままじゃ、また意識がっ……!

現実に立ち戻ったのは良いものの、依然窮地。再び恥じらいだす心が熱暴走を始めた。
きつく抱きしめられる力が頭を溶かす。全身を包む温もりが意識を現世から遠ざける。
これでまた自己防衛のために現実逃避の世界を構築しようとしていたアスカだったが、間一髪。
ほんのわずかの意識が残るうち、シンジの口から滑り込みのプロポーズが届けられた。

「どうか、僕のお嫁さんになってくださいっ……!」

そう耳元で熱く囁かれたと同時、紅茶色の長髪がハリネズミの如く爆散。
さらなる劫火に身を焼かれたアスカが再び全意識を至福の地にさらわれそうになるも、犬死は繰り返すまいと、ここで咄嗟の機転が働いた。
全身を抱擁されたこの体勢中、唯一自由の利く指先で自らのふとももを抓りあげることで痛覚を刺激。
気絶寸前の土俵際にて数瞬の急ブレーキに成功し、かろうじて返事を間に合わせることができた。

「…………ひゃ、……ひゃいっ。」

言った。ぎりぎり言い切れた。呂律は怪しいが、イエスの意思に成り得る音声は返せた。
これでもう思い残すことはなにもない。
目標を達成してなにもかも真っ白に染まったアスカは天竺へ向かうべく、心おきなく意識をシャットダウンさせた。







気絶したアスカを背負ったシンジが友人らのもとに戻ると、一斉に祝福の声が浴びせられた。
ケンスケ提供の発炎筒を手に万歳三唱。祝砲の照明弾が夜空を切り裂いた。ついには感極まったシンジが「ありがとう」と繰り返して涙ぐむ一幕も。
途中アスカが目覚め、一部始終を見られていたと知って三度気絶したハプニングを除けば、温顔が尽きない大団円でイヴの夜は幕を閉じた。

確かに。
少なくとも、その場では。

意識を失っているアスカ以外、その場にいた誰もが疑いようもなく、満場一致でこれにて一件落着だと思い込んだ。
まさかこのあとに新たな問題が控えていようなど、このとき誰が予想できただろうか。
晴れて結婚の約束を交し合った二人にそんな野暮を思いつく者など、いるはずもなかった。

「…………。」

しかしどうだろう。家に帰るなり首ねっこを掴まれたシンジは今、リビングにて正座を命じられている。
仁王立ちで見下ろしているアスカといえば険しい顔だが、やたらと頬が赤い。
件の婚約指輪も左手の薬指にきっちりとはめられており、説教されるのとはまた違った、異質な空気が流れている。

「あの……、ご用件は……?」

シンジが物怖じしながら訊ねてみると、ひとつ間をおいて返事がよこされた。

「…………、アタシたち、結婚するのよね。」

「う、うん。あとは籍を入れれば、正式に。」

「…………、でも、もう約束してるから、すでに夫婦も同然よね。」

「……そう、だね。そう考えると、なんか実感しちゃって、ちょっと恥ずかしいけど。」

照れ笑いを浮かべて恥じらうシンジに呼応するように、アスカもまた赤面を強める。
しかし二人の内面では決定的とも言える温度差があった。
赤面は仲良く揃えようとも、婦となる彼女の周囲に漂っているのは、あまりにも深刻で重苦しいオーラだ。

「にやけてる場合じゃないわよ、アンタ……。」

「え……?」

「夫婦よ、夫婦。コトの重大さが分かってンの……?」

さらに赤くなったアスカが風呂場の方を差した。いささか指先をふるわせている。

「アンタ、今日だいぶ走り回ったし。お風呂、入るでしょ。」

「うん、そのつもりだけど。」

「そしたらアタシも、一緒に入らなきゃならない……。恥ずかしいケド、夫婦なら、致し方ないわ。」

その時、シンジはアスカがなにを言っているのか分からない様子だった。
あんぐりとした顔が風呂場に向けられたが、なにも釈然とさせずに戻ってきた。

「いや、あの……、夫婦だからって、一緒に入る必要は――」

「――あるわよね。お風呂に一緒に入る覚悟もなしに、夫婦仲になんて、なれっこないもの。」

異論を遮られての断言。シンジは目の前のアスカがどこか様変わりしているように思い、眉を潜めて訝しんだ。
ドラマや映画でラブシーンが映り次第、即座にテレビを消すなりしていた人間とは思えない、大胆すぎる主張が論じられている。
追い打ちをかけるように、彼女の次の台詞がその変貌ぶりを決定付けた。

「夫婦水入らず。身も心もハダカの付き合いが出来てこそ、夫婦ってなもんでしょうが。」

つまり。プロポーズにイエスと答えた時点で完全に吹っ切れて心変わりした、ニューアスカがいるというわけである。
しかしこのニューアスカが色々とまずい出来。
どうせ結婚するならばと、今度は勝手に思い込んでいる“私的夫婦像”を果たすべく、そのルールの中にシンジを捻じ込もうとしている。

「さぁ、アンタも腹を括りなさい。アタシだってハダカを晒すのは恥ずかしいケド、夫婦ならお互いの背中を流し合わなきゃならないわ。」

「夫婦なら」を免罪符に掲げつつも、青い瞳がよこしまにギラついているのは何事か。
脱衣所に向けてグイグイ腕を引っ張られるシンジは必死の思いで踏みとどまった。

「ちょ、ちょっと待って!やっぱり今日はもう遅いし、お風呂はいいやっ!」

とてもではないが心の準備不足につき、この危険なエスコートには従えない。
もとより彼は享楽的な楽しみが目的でプロポーズを迫ったのではないのだ。ただ純粋に、アスカの気持ちを知りたい一心で動いた一日だった。
もちろん結婚によって生活も変化することくらい理解しているが、それは緩やかなものであってもらわないと困る。

「アンタねぇ、夫婦なら同じベッドで寝なきゃならないってのに、汚れたまんまじゃお互いイヤでしょうが。」

片やニューアスカの方は止まらない。自前のローカルルールをまるで常識とでも言わんばかりに、堂々と二発目の爆弾発言を投げつけている有様。
連続の爆撃を受けて完全に追いつけなくなったシンジは、目を白黒させて驚嘆を張り上げた。

「寝るのも一緒だなんて、そんなっ、急に言われてもっ…!」

「〜〜〜…。」

ゴロゴロゴロ……と。遠くの空で轟いた雷鳴。
辺り一面に自然界のフラッシュが焚かれた瞬間、リビングの壁には確かに鬼の陰影が焼きついていた。

「アンタァ〜〜……。結婚したら色々な面で密接な関係になるから、その覚悟を決めるためにアタシは今日これだけ苦心したってのに……。
 まさかアンタはそこらへんの事情をまったく考えずにプロポーズしましたなんてコト、言うんじゃないでしょうねェェ……。」

雷雲に稲妻が走り、鬼の形相がシンジに迫る。

「い、いやっ、それはだからっ、そういうのはこれから少しずつ、正しい段取りを踏みながら、用法用量を守って徐々に適切にと思って……。
 い、いきなりなんでもかんでもっていうのは、恥ずかしすぎるっていうか……。」

「〜〜〜っ、いきなりプロポーズしてきたアンタが言うかっ!」

奇しくも落雷の閃光が空手チョップの着弾と重なった。
しかしお互い理にかなった主張を展開していた途中だっただけに、このチョップはいささか見切り発車。殴られた側が気の毒と言える。
その証拠に、お返しとばかりにシンジが放った言い分はアスカの痛いところを突くものだった。

「な、なんだよっ。アスカだってこれまで何度も僕の気持ちを伝えても、『へー』とか『ふーん』とかしか言わなかったくせにっ。
 だから僕も今回ばかりはと思い立って、勇気を出してプロポーズしたんじゃないかっ。」

「ぐッ……。う、うっさいわねっ。とにかくアンタも“いきなり”の苦しみを味わったらいいんだわっ。」

反論に苦しくなったアスカは風呂場引きこみ作戦を取りやめ、逆に自ら飛び掛って行った。
不意を突かれてたじろいだシンジの懐めがけ、突き刺すようなスピアータックルを決めてのマウントポジションを奪う。
こうなると瞳のギラギラ具合も、さらに危ないギンギラギンに進化。
人間、タガが外れるとこうも変われるものである。

「な、なにするんだっ。暴力反対っ…!」

「ふん。心配なんて無用でしょ。アタシと結婚する覚悟があるんなら、当然アタシになにされたっていい覚悟もしてるハズだもの。」

無慈悲の腕力でポロシャツが破られ、ボタンが弾け飛ぶ。
男にしては肌理のよい胸元がはだけ、そこにツツツと指をなぞらせるアスカが嗜虐的に舌なめずりした。

「やっぱりアタシは逃げるより、攻める方が似合いよねぇ。そう思わない?」

「思わないっ、思わないからその指先やめてっ。こそばゆいっ……!」

「それとこれも今だから言うケド。昔っから、ずっと思ってたのよ。アンタのカラダ、カジりごたえがありそうだって。」

かくしてシンジにはなんの得にもならない素性が明かされ、覗けた口内でキラリと光る犬歯が舞い降りた。

「――――――!!」

窓の外に落ちた巨大な稲柱。辺りに響き渡る轟音が、シンジの悲鳴のなにもかもを消し去った。
彼にだって、恥じらいはある。











助けを乞う叫び声と共に、激しくドアが叩かれる。
その間柄を夫婦に変えた男女二人が、本日二度目のご来訪。

「トウジー!お願いだからかくまってよ!アスカに襲われる!」

「ヒカリー!玄関開けたら絶交だからね!こらバカシンジ、逃げんな!もっとカジらせろ!」

騒ぎを聞いて玄関に向かっていたヒカリだったが、どうしていいか分からず寝室にUターンした。
寝ているトウジの身を揺さぶり、判断を求める。

「ねぇ、ちょっと、どうする?」

味方につくべきは、シンジ派か、アスカ派か。
当の二人が婚約を決めたことでどちらにも属さぬ身となった亭主が返した一言は、あくび混じりながらも的確だった。

「どうでもええわ。」












curiosity killed the cat.



タイトル通りストレートに書きました!クリスマスである必要がないように思えますが、気のせいです…!
拙作をお読みくださった方へ。掲載の場を提供してくださる怪作さんへ。誠に感謝いたします。
(怪作さん、投稿ミスの件は本当に申し訳ありませんでした…!)

紅鮭 "benizake" : benizake02@yahoo.co.jp



紅鮭さんからクリスマス記念のお話をいただきました…読者が転がるかと思ったら、アスカが周囲の者を巻き込んでごろごろ転がるようなお話でした(笑

素敵なお話でした。ぜひ紅鮭さんに感想メールをおねがいしますー。めりーくりすますー。