手にした願いはすべて、指の隙間からこぼれ落ち、風に吹き去られるだけの空しき砂塵。
今まですべては、そうだった。

「………。」

ゆらりと湯面が波立つ浴槽にひとり。虚ろげに天井を仰ぐアスカは片手を持ち上げて、幾度目かの湯を掬っていた。
砂も湯も同じこと。手のひらに乗せ、そして握り締めてやれば、結果は見るまでもない。
吹き去られる砂と同様、例外なく流れ去る手のひらの感触が、その都度の証明。不変の問答として繰り返されている。

結局、行く末、結末はすべて同じ。
掴んだところで、それは一時のこと。

何事も永遠に手中に収めておくことなど不可能。そういう取り決めで世界が成り立っている。
それならば、永遠なき幸せとは、どれだけの価値があるのだろうか。
いつか吹き去る砂に価値はあるのか。いつか流れ去る湯の温もりに価値はあるのか。
いつかそれらが去り行く感触を味わう分だけ、辛いだけではないのか。
手のひらから水滴を滴らせながら、アスカは自らに問い掛け、そして苦々しく顔を歪める。

「ふん……。どの口開いてエリートだとか抜かせるんだか……。ただの臆病者の間違えでしょ……。」

最近になってアスカは鏡を嫌うようになった。元より好かない自分が、より嫌いな自分と化した姿で見つめ返してくるのだから直視に堪えない。
だから仕方なく、代わりに映し鏡として使っているのが天井だ。それも出来るだけまっさらな部分を好み、そこを絞って見つめるようにしている。
染みや汚れの類があると、そこに自らの汚点を投影してしまいそうになるから、それでは正常な思考が保てない。
そしてそんなアスカが今、浴室のまっさらな天井に思い浮かべている、「好きな自分」。
それは先の電車内で、突発的な衝動でシンジに膝枕をこさえている、第三者視点での自らの姿。
あの時まもなくしてシンジが眠りに落ちたあと、駅に着くまでの長い間。対面の車窓に映し出された「好きな自分」とずっと見つめ合っていた。
その表情、呆然とした眉目の角度から半開きの唇の割合までをも、浴室の天井に鮮明な記憶のフィルムとして蘇らせている。

「どうせ、無駄なのに……。それなのに、あんなコト……。」

天井に映る、好きな自分に問う。
あのようなことをしてしまっては、関係の前進に繋がってしまう。失った時の反動をより大きくさせてしまう。
どれだけシンジが道を誤らず、どこまでも誠実に生きる人間であったとしても、生きている以上、何かしらの形で必ず終焉が待っているのに、なぜ。
如何様なトラブルを免れたところで、寿命などという無粋な限界が待ち受けているわけで、最後は誰しもが死に瀕し、離別する。
それは前を向いて進もうとするアスカにとっては大変重い足枷となる世の計らい――。

だが。

「どうせ、無駄なのに……。こんなコト……。」

どうせ何をしようとも。何事も最終的には無に帰すはずなのに。
それなのに、なぜ。この手のひらは、ただ無駄でしかないものを、ひたすらに掴もうとしているのか。
一定の速度を緩めることなく、繰り返し。そしてまた繰り返し。
数えていれば三桁目となる湯を静かに掬い上げて、また握り締めて。
それでも止むことなく、飽くことなく、また繰り返して。

「だって……。アタシだって……。幸せってのがどんなものなのか……。一度くらい、知りたいわよ……。」

いくら勉学を積み重ねたところで、どれだけ頭脳を鍛え上げたところで、唯一、得られないでいるその知識。
湯の熱に浮かされたように呟きながら、その手はためらうことなく湯を掬い、これを掴んではこぼれ落とし。
また湯を掬っては、これがこぼれ落ち。幾度となく掬っては、それを握って、それをこぼれ落とす。
いずれも流れ去らずに湯船と溶け、身を温めるべくして留まり続けるから、諦めきれない。

「………………知らないまま、死ぬのはゴメンだわ。」

まっさらな天井に思い描いているのは、好きな自分の姿と、もう一人。いつしかその隣りに、好きな人。
黒々と塗りつぶされた未来への恐怖に、抑え難い人間的な欲望の光が追いついて来る。
次第に握り締める力が強くなり、呼吸の一つ一つが深く、大きなものへと変化する。
薄い湯煙ただよう空間に、ひときわ熱い吐息がゆらいだ。









あんただけにそっと。

第五話:結びの条件









一日最後の行事である入浴を終えれば、その日の残すところは就寝のみ。
その予定時刻である22時を迎えるまでシンジとアスカは各々自由に時間を潰すことになるのだが、残業のミサトが場に欠いた夜の風景は、
割と物静かに時が進められるものである。
作為的に立てられる物音といえば、襖に寄り掛かって料理雑誌を読むシンジがページを捲る時くらいのものだろうか。
穏やかな静けさに包まれたこの場面で、仮に会話が生じるにしても、大抵はアスカを起点にして始められることがもっぱらであるが、
今回においては珍しくシンジからのきっかけとなった。

「…っ…。」

しかしきっかけとは言っても、正確には言葉なき含み笑い。
ささやかなその仕草を目ざとく察知し、口から言葉を発するのはやはりアスカが先だった。

「なに人のコト見て笑ってんのよ。失礼なヤツね。」

「ごめん。それって僕の癖に似てるから、ついさ。」

「それ」と言ってシンジが示唆しているのは、テーブルに頬杖をつきながら、もう片方の手を緩やかに開閉させているアスカの仕草。
手を開いては閉じ、開いては閉じての繰り返し。
他人が自らと同じ癖に浸っている姿を見るのは滑稽に映るようで、シンジは可笑しそうな顔を隠し切れないようだった。

「アスカはどうだか知らないけど、僕はひょっとしたらって思った時なんかについ、そうやって手を動かしちゃうんだよね。」

「むっ…。」

そうして打ち明けたシンジの発言は、アスカの寝耳に水を浴びせる形となった。
ひょっとしたらと思って動かしていた手の仕草が、図らずしてシンジの二番煎じという事実を知り、持ち前の天邪鬼が首を擡げてくる。

「アタシは今日、たまたまよ。別にマネしてやってるワケじゃないし、アンタの専売特許でもないでしょうが。」

「それはまぁ、そうだけど。でも、偶然だね。」

シンジはお目当てのレシピが載ったページにしおりを挟んで閉じると、おもむろに手のひらを開閉させ始めた。
広げた手のひらに目を落とし、握っては掴み、開いては離す。
何度か繰り返した末、最終的に握り締めて固定された一連の仕草を見届けたアスカは、素っ気ない風に肩を竦めて言い放った。

「アンタもずいぶん空しいおまじないを思いついたもんよね。そんなもんいくら繰り返そうが、現実には何も反映されないってのに。」

「む…。じゃあ僕も訊くけど、アスカはどういうつもりで手を動かしていたのさ。」

「別に、どうってコトない。アタシもアンタと同じコトを思ってやっただけよ。」

悪態を吐いた直後に同属宣言とは、いともたやすく話の道理を外してくれる。
むくれ顔から数瞬の内に毒気を抜かれたシンジは中途半端な面持ちとなっていた。

「アンタ、この癖が身に付いたの、いつから?」

言いながら居場所を変えるべく席を立ち、シンジの隣りに腰を降ろしたアスカはぶっきらぼうにして襖に寄り掛かる。
遠慮なしの負荷を受けた襖が外れてしまうのではないかとシンジは身構えたが、思いのほかアスカは軽いようで何事もなく、
それよりも先にフッとした笑いが漏れてしまって堪えようがなかった。

「アンタってヤツは、ホントに失礼ねェ。一度ならず二度までも、人の顔見て笑うんじゃないわよ。」

「いや、ごめん。僕が癖を身に付けた時期だなんて、そんなこと聞いてくるの、アスカが初めてだったから。」

「むむ…。」

そこで一旦、アスカが口ごもったのは、初めての尋問者となった戸惑いか、それとも気恥ずかしさによるものか。
いずれにせよ彼女が素直に心情を表へ出せるわけもなく、曖昧に唸って場をしのぐのみ。

「でも言われてみれば、いつ頃からだったかな…。たぶん、5、6歳の辺りだとは思うんだけど、時期はいまいちはっきりしないな。」

「…ふぅん。それはたいそう、年季の入ったおまじないなこって。」

「うん。たまに褒められたりした時なんかに、ひょっとして人に認めてもらえるんじゃないかって思うとさ。つい、こうやって動かして。」

記憶は過去を遡りながら、シンジは二度目として自らの手を動かし始めた。
五指を折りたたんでは掴み、逆に開いては離す。一度目と同じ数だけ動かし、そして最後もやはり一度目と同じ姿、握り締めたままでの終着。
思い切りよく“ひょっとして”を握り締めるシンジの手の動きは、半信半疑に揺れるアスカの目に心強く、それでいて羨ましい気概に映る。

「…ま、暗示だって過ぎれば毒でしかないんだし。いつかヘマしないように気をつけておくことね。」

マイナスの暗示に囚われ過ぎてヘマ寸前の者からありがたい忠告。
受け取るシンジは素直にかぶりを縦に振った。

「分かってるよ。あの縞々の西瓜みたいな使徒に取り込まれたのもそれが原因だし、あのあとアスカにもこっぴどく叱られたからね。」

「…分かってンなら、まーいいケド。」

「でもそれとは関係なく、もうやめることにしたんだ、この癖。」

そう言って話を終えたつもりでいたシンジが再び料理雑誌を開いて目を落とし始める。
が、会話の打ち切りを認めないアスカによって雑誌を取り上げられてしまい、続行を余儀なくされた。

「重い腰あげてわざわざ病室まで見舞いに行って授けてやった忠告だってのに、関係なくとはなによ。ずいぶん蔑ろに扱ってくれるわね。」

“アスカに叱られたから”
“でもそれとは関係なく”
この二つの繋がりが摩擦となり火種となり。なにかとシンジに対して発火性の強いアスカのはらわたを沸々として煮えくり立たせる。

「い、いや、そうじゃなくて。あの時アスカから無茶するなって言われたのは反省になったし、すごくありがたかったんだけどさ。」

いち早く怒気を察して穴埋めに転じるシンジも気が気ではない。お目当てのレシピにしおりを挟んでおいたのがここで災いしたのだ。
当該ページが人質とばかりにアスカに鷲掴まれ、気に召さない返事をしようものなら即刻八つ裂きを辞さない構えが展開されている。

「アタシの忠告はありがたかったケド、それを上回る理由があって、そっちを優先させた。そーいうワケよね。」

「あの…、そのレシピ、明日のお弁当で使うから、できれば破かないで欲しいな…。」

「答えるなら早くする。でなければ破るわよ。」

伊達に長年しゃかりきになって操縦桿を握り締めてきた身ではない。
強靭な握力を誇る手のひらに力が込められ、レシピの掲載ページが徐々に形を歪めて切り離されて行く。
ミチミチと悲鳴を上げて苦悶の皺が刻まれていくその光景を見たシンジは、与えられた時限はわずかだと察して身を乗り出した。

「い、言うよ。言うけど、怒らないでよ?」

「へえ。それってば、アタシが聞けば怒りそーなコトなんだ。へーえ。」

ミチミチと引き千切れる音が一層に強まる。

「だって、アスカって綾波の名前を出すと、いっつも不機嫌になるじゃないか。」

「なっ…。」

それがミサトや加持だったのなら、まだしも。アスカ自らの忠告を上回る存在として挙げられたのがレイとあっては話も違ってくる。
冷色を強めた瞳が細まり、完全に本体から分断されたページがグシャリと両手で丸め込まれたのもまた、必然の成り行きと言えるだろう。
それでも八つ裂きにされていない以上、引き伸ばせばまだ救いの道はある。シンジはその顔に焦燥を混ぜながら打ち明けた。

「綾波が言ってくれたんだ。アスカと一緒にいれば、きっといつか父さんからも認めてもらえるくらい、成長できるんだって。
 僕もアスカと一緒にいられたらいいなって思ってたから、その、すごく励みになって……。」

シンジが両手を伸ばし、紙を丸め込んだアスカの両手の甲を、そっと包み込んでくる。
だが、これはレシピを破かせないための、ただそれだけで終わる、なんの情も含まれていない、無味乾燥の措置。
きっとそうなのだとアスカは自らにうそぶきながら、シンジの視界から外れる方向へ、努めてドライに顔を背けていた。

「………。ホントにアンタって、自分勝手。なんの許可もなしに、人を勝手に成長のダシに使うなんて。」

「ダ、ダシに使うだなんて、そんな人聞きが悪いように言わないでよ。」

「フン…。ファーストも勝手に余計なコト言ってくれるわね…。」

リビングテーブルに置かれたグラスの中。そこに積まれた氷がわずかに溶け出し、カランと音を立てたのと同時。
頑なに閉じ合わせされたアスカの手のひらが解かれ、その内に囚われていたレシピがようやくシンジへと突き返された。

「男なら、一度コレと決めたダシは最後まで、責任持ってきちんと使いなさいよ。」

「えっ…。」

「でなかったら、アンタの料理の腕前なんて、死んでも認めてやらないんだから。」

そうして最後まで憮然を装ったまま、自室に向かったアスカは後ろ手で襖をピシャリ。
その背中を見送ったシンジはしばらく呆然と固まった後、徐々に顔を綻ばせながら、「まごころ弁当」との見出しで始まるレシピを
静かに引き伸ばし始めていた。







「出汁がよく染みてる。おいしい。」

屋上の地べたに綺麗な正座を作り、膝に乗せた弁当箱を突付くレイが、口にした出汁巻き卵の感想を必要最低限に述べる。
いつもならば窓際の席でただ青空を眺めるだけで終わる昼休みを、こうして校舎の中で最も陽に近い場所で過ごすのは彼女自身これが初。
普段は無縁である昼食にありつけているのも、すべては前方で手すりに寄り掛かって赤毛をなびかせている少女、
アスカからの呼び出しが起因となっていた。

「意外だわ。アタシからの呼び出しに応じるなんて…。」

パクパクと規則的に箸を運ばせるレイにアスカの凝視が突き刺さる。
人形だの平手打ちだの、色々と負の付き合いを踏んできた相手なだけに、すんなり屋上に姿を現した時にはアスカもさすがに瞠目を隠せなかった。
「半分だけ食べていい」と言って渡した弁当にしても、一口目から無警戒に箸を運ばせている。
もし自分がレイの立場だったなら、まず弁当に盛られた毒を疑うだろう――と、アスカはそこまで考えて自らの猟奇性に嘆きたくなったりもした。

「アンタ、昼はいつも抜いてるようだったけど、そんな青っちろい体でダイエットでもしてるワケ?」

女番長さながらに見下ろしてくる人物に対し、箸先をくわえたレイは赤い目玉を向かい上げ、静かに首を横に振る。

「それじゃあ、なんともないような顔して、ホントはおなかペコペコでしょうがなかったってワケだ。」

言われた通り、すべては半分だけ。従ってご飯の中心に箸で縦割りの溝を作っていきながら、レイは引き続き首を否に振る。
それを見て早くも理解の追い付かない連続否定を食らったアスカはお手上げとばかりに肩を竦めてみせた。
なにせ他人の心が読める人物だ。仮に霧を食べて生きる仙人じみた存在だったと聞かされても驚くような話ではない。
そんなどこかしっくりこない、現実離れした諦観を漂わせるアスカを他所に、レイはゴソゴソとポケットを漁り始めた。

「これを服用しているから、平気。これさえあれば、肉体を維持できるから。」

「……、はァ?」

「水槽の外で暮らしていくには、色々と制約が不可欠。」

まともに口を開いて返事をしたと思えば、相変わらずの謎々しさ。
手のひら一杯に掴んだ大量の錠剤がお披露目されるも、打者であるアスカにはさっぱりだ。
レイは素直に投球をしているつもりなのだろうが、その球筋がまるで見えてこない。

「おいしいお弁当を分けてくれたお礼に、あなたにも私の大事なものをあげる。
 心を温めてくれた相手には、ちゃんとお返しを。碇君がそう言っていたわ。」

ここでようやくアスカの目にも消える魔球の正体が見えてきた。曰く、こうして錠剤の山を差し出されているのは返礼品としてなのだと。
しかし得たいの知れない薬物を贈られても始末に困るものだし、なにもアスカは謝意を受け取りたくて弁当を分けてやったのではない。
即座に赤毛が左右に振られようとも、それは相手に対する嫌悪によるものではなかった。

「お礼なんていらないわよ。アタシはただ、アンタに借りを返してやろうと思っただけなんだから。」

心を見透かしてくる相手を前にして、アスカはあえて多くを語る必要はないと理解している。
口数を要さなくとも勝手に汲み取ってくれるのだから、その点においては手間の掛からない便宜が利いていると言えるだろう。
そんなレイが朴訥として返してきたのは、金色のころもに包まれた玉ねぎのリング揚げをきっちり半月に齧ったあとだった。

「あなたのそばにいなければ。そう碇君に言ったことが、なぜ借りになるのか、私には分からない。」

「ふん。こちとら他人の心が読めなくたってね、アンタがアレにお熱なコトくらい、とっくにお見通しなのよ。
 それをあっさり諦められちゃ、気味が悪くて寝付きも悪くなるってモンでしょうが。」

恨まれて枕元に立たれてもイヤだしね。
アスカが内心でわざとそう声高に放った言い掛かりは無視して、レイは淡々としたリズムを崩さず咀嚼と会話を交互に続ける。

「いいえ。碇君を諦めることは、私には出来ない。」

「ぬっ…!」

「だからこそ、碇君はあなたのそばに。あなたが碇君のそばに居て欲しい。」

「…あァ?」

一転、二転と眉をひねくり上げ。弁当を取り返そうとして進めた足は、しかし直後に中止され。
心情が落ち着かないアスカのことなどは斟酌せず、レイはさも当然と言い放った。

「私では、碇君のすべてを受け容れてしまうから。それでは彼は成長できないわ。」

「………。」

「私ではなく、時に彼と衝突できる、あなたでなければ。」

口元に米粒を。唇に青海苔を付けたレイが、真正面から見据えて告げてくる。

「……なるほどね。アンタはアイツさえ良ければなんでもいいワケで、そのためにアタシをダシに使おうってワケだ。」

「そうね。それでもあなたは、それでも碇君を見放せない。心を視れば、そう分かる。」

「…ぬぬっ……。」

「あなたは私にとって、とても都合のいい存在。」

そう言うとレイは先ほど半分だけ齧った出汁巻き卵を摘み上げ、ちょうど赤い瞳と水平の位置にまで持ってきた。
アスカは自らの姿と重ね合わせて見られているのだと知り、すぐさま息巻いて身を翻した。

「フン…。別にアンタみたいな女に好かれようなんて、微塵も思っちゃいないけどさっ…。
 やっぱりアンタとはこの先も一生、うまくやっていけそうにないわっ…。」

色とりどりの衣類が入り乱れる洗濯機の如き胸中。遥か高みから校庭を見下ろすアスカは、その顔を複雑怪奇に歪ませていた。
シンジにとって必要な歯車だと認められたのは良しとして、しかしレイの思うままに利用されているような気がして素直に喜べない。
それでもレイはただ率直に物申しているつもりなのだと分かるだけに、そして悪意がないと分かるだけに、それだけ余計に始末が悪い。

「少しはマシになったと思ったら、これだもの。相変わらず人間味が無い女。」

しかし口の不便さにおいてはお互いさま。真なる欲望を押し殺す人間味の無さにおいてもお互いさま。
相打ち気分のアスカは疲れたように手すりにしなだれ、最近は増加傾向にある溜息をここにまた一つ増やした。
レイが弁当を半分平らげるまでの間、眼下に広がる校庭の風景を眺めながら頭を休めることにする。

「……ウズラの卵のはんぶんこは、至難。」

「………。」

「……ちくわとチーズとキュウリの組み合わせ、三味一体。」

「………。」

「……海苔で書かれた元弐号機パイロットの名前、味と無関係。」

五感を休ませているアスカの耳に届いてくる、レイのポツポツとした感想。そのたびに否応なく赤毛に隠れた聴覚が刺激される。
見て見ぬふりと同じく、聞こえたものを聞き流すというのも地味にストレスな忍耐作業だ。

「……つるつるしたウグイス豆、滑落注意。」

「………。」

「……ふっくら柔らかい出汁巻き卵、美味。」

「………、んァ?」

ここでピクンと地獄耳を立たせたアスカが何かに弾かれたように振り返った。
たしか出汁巻き卵が選ばれたのはこれで二度目。一度目ですでに半分齧られていたはず。
無駄に養われた疑心が即座に反応を示し、それを察知したのか、口に出して問いただされるより先にレイがジリッと数ミリ後退した。

「半分だけだって、そう言ったはずよねェ。」

確信の足取りでヅカヅカと接近。上から覗き込んで見ると、アスカの思った通り弁当箱の中から出し巻き卵が姿を消している。
今頃はすでに食道を通って胃袋に到達、あとは消化を待つだけといったところだろう。
これにはさすがのレイも言い訳できるはずもなく、迷うことなく謝罪へと転じていた。

「…ごめんなさい。半分だけでは、物足りなくて。」

「ごめんで済んだらバカシンジは要らないわよ。」

償いのつもりなのか、再び山ほど差し出されてきた錠剤をアスカは冷静に拒否した。
しかし口約束を破られた憤りはあるにしろ、不思議とそこに不快感はない。

「…ふん。まぁいいわ。言われたコトに従うだけの機械仕掛けじゃないだけ、まだマシってものだもの。」

「………。」

「ただし、そうと分かった以上、残りはここで見張らさせてもらう。時間もあまり無いんだし、ちゃっちゃと食べちゃいなさいよ。」

思いがけず手にした優位。相手の自殺点によって反転攻勢を強めたアスカが仁王立ちで監視態勢に入る。
と、その頭上に閃光が走り、電球が灯った。見張る弁当箱の中身に思わぬ付加価値、さらなる攻めどころを発見したのだ。

「……………フッフ。」

唇を一文字、それも最後のトメをこれでもかと強調させたアスカは込み上げる笑みを堪えた。
焦った様子で箸を走らせるレイの姿も滑稽であるが、それ以上に最後に待ち受けている難題に彼女がどう対処するのか、楽しみで仕方なかった。

「さぁ、どうしたの。箸が止まってるわよ、ファースト。」

「………。」

弁当の中身をほぼ全て半分に平らげ、いざ最後の砦としてレイの前に立ちはだかっているものはミニハンバーグ。
本日のおかずのメインにして、レイが最大級の嫌悪を抱く肉食材が使われた、その一品。
生まれてから十五年、一度も肉類を口にしたことがないとの自己申告に証される通り、箸先を擦り合わせて躊躇しているその仕草は、
最近低調気味だったアスカの気分を遥か天頂へと誘わせるものだった。

「へぇ。よっぽどキライなんだ、肉。」

「………。嫌いなだけで、食べられないわけじゃない。と思う。」

「ふふん、強がらなくたっていいのよ。誰にだってイヤなコトの一つや二つはあるんだし。それで足を止めたくなる時だってあるんだし。
 そう、たとえば誰かさんが言うような、一本足のカカシみたいにね。」

ズンと沈んだレイの周囲をアスカが軽快に歩き回る。

「しっかしやりきれないわねー。アタシをダシに使ってくる人間が、食わず嫌いのひとつも治せない、頭のおカタイ女だなんて。」

「………。」

「そりゃあアタシだって石頭だとは思うケド。でもどうやらお互いサマだし、もうカカシだなんて呼ばれる筋合いはないわよね。」

レイの正面から始まり、高説を垂れながらグルリとコンパスさながらの軌道で一周。
そしてさらに半周ほど背後まで回り込んだところで、アスカはレイの後頭部ががくんと沈み、背がうずくまるのを見た。

「なによ。言い返せないからって、そんなに落ち込むコトないじゃない。」

ただカカシとの揶揄を取り消してくれたら良いのだからと心で呟きながら、ポンと肩を叩く。
が、その手を離れたレイがさらに前のめりとなった。相手からの接触を嫌ったというよりは別の意思が働いての動きだ。
仕舞いには四つん這いになって身を震わせるありさまで、異変に気付いたアスカは正面に回り込んだ。

「げほっ。」

顔色を窺おうとしてアスカが身を屈めたのと、レイが盛大に咳き込んだのは同時だった。

「どうしたってのよ。」

「〜〜〜……。」

西瓜畑で収穫作業を共にした時には息一つ乱さなかった人物が呼吸を荒げ、額に脂汗を浮かべている。
直射日光にやられて具合でも悪くしたのかとアスカが勘繰っていると、震わせた指先でレイが弁当箱からハンバーグを摘み上げた。
見ると綺麗な歯型のアーチを描いて齧り取られているのが分かり、それがこの事態を招いたのだと推し量れた。

「アンタね、そんなに苦手なら無理して食べなくたって――」

「…もう一度。」

制止の呼びかけなど意に介そうともせず、残りすべてをパクリと一口。形だけ顎をいくつか上下させ、ゴクリと嚥下。
結果として「半分だけ」の誓約をここでも破られた形になったが、アスカはその点について叱責を挟む気など生じなかった。
むしろその半分だけすら口に果たせずリタイヤという姿こそ望んでいたわけで、同じ石頭同士として丸め込んでやろうと企んだ者にとっては
思いも寄らぬ顛末、梯子を外された格好となった。

「…ア…アンタバカ…?」

涙すら浮かべたレイは危うく戻しそうになる口を押さえながら応じた。

「やっぱり、苦手。でも、我慢すれば、なんとか食べられる。」

「…ぐっ……。」

優位を失って怖気づくアスカを差し置き、額に汗まみれの前髪を張り付かせたレイは身なりを正すべく、改めて正座に戻る。
呼吸を落ち着けながら箸をケースにしまい、弁当箱を閉じ。結び目まできちんと元通りにナプキンで包んでから、元の持ち主へと返された。

「ありがとう。ご馳走様。」

「……、最後のはどう見ても、ご馳走じゃなかったでしょうが。」

差し出された弁当箱を受け取りながら、しかしアスカは気まずそうにして視線を泳がせた。
どこまでも真っ直ぐに見つめてくるレイと目を合わせられないでいるのは、この場において敗北を認めている所以。
それぞれ立つ者と座る者。前者として相手を見下ろす立場のアスカであるが、現状では見上げる者の方が圧倒的優位にある。

「……アタシ、あっちの日陰で食べるから。アンタは教室に戻ってなさい。」

「そうする。でもその前に、ひとつだけ。」

「いらない。」

踵を返したアスカは歩み出す。敵対者から距離を取るべく、退路へ向けて。
頭上に昇った太陽の位置関係上、目指す方向に日陰が作られていなくとも、それが自らの発言の反故に繋がろうと構わない。
そんな離れ行く者の背に、レイは容赦なく釘を刺す。

「食わず嫌いの石頭は、あなただけ。早く二本足に戻ってもらわないと、碇君が心配。私が困る。」

だいぶ距離を取ったはずのアスカの耳に届いた声量は、ただでさえ平時レイが放つ消え入りそうなほど小さなものを、さらに細く薄めたもの。
それでも耳に届いてさえすれば、それだけで役割を果たした代物にある。言伝において声量は重要ではない。レイはそのように理解していた。

「…畜生っ。日本人てのは、どいつもこいつも、他人の節介ばかりっ…。」

バタンと屋上の扉が閉じる音に重ねてアスカの鬱積が吐き捨てられる。
開けた弁当箱から摘み上げる、半分だけのどれもこれもが、無味の物体として喉を通り抜けて行く。

「半分だけじゃ物足りないコトくらい、分かってるわよっ…。」

唯一完全な形状として残されていたハート型の人参が、半信半疑の口内へと消えた。







カツン コツン

アスカに蹴り飛ばされた石ころが音を立ててアスファルトの地を跳ねて行く。
危うく前方のカップルの脇にそれたから事なきを得たものの、同伴者として帰路を歩くシンジが黙っているはずもない。

「な、なんてことするんだよっ。」

「ちゃんと当たらないように計算してるわよ。アタシのコトが信用ならないってんなら別だけど。」

「そういう問題じゃなくてっ…。」

言っている内にまたも足元に石ころが迫ってきた。自称エリート少女が凶行に使う第二弾として見据えているのは間違いない。
それに先んじて素早い判断と対処に出たのはシンジだ。小走りに先行して危険物をポケットへ没収。
抗議の眼差しを向けて合流を待つが、やって来るアスカから反省の色など見受けられるわけもなく、しれっとして肩を竦ませている。

「そりゃあ迷惑よね。そんな硬いもの、人様にぶつかったら怪我だもの。」

「分かってるなら、どうして。」

「頭が硬くて、ぶつかれば迷惑でしかない。まるでアタシみたいでムカついたからよ。別に誰かを狙って蹴ったワケじゃない。」

「なっ…?」

シンジが耳を疑ったのも当然だった。アスカが自らを卑下するなど前代未聞、出会ってから今まで一度として聞いたことがない。
スタスタと追い抜いて行く赤毛の後頭部を唖然と眺めたあと、シンジは我に返って追いついた。

「な…なに言ってるのさ。なんかアスカらしくないよ、そういうのは。」

「アタシだってこんなコト、言いたくて言ってるワケじゃないわよ。
 でも事実だし。直すように努力はしてるけど、それも一人じゃままならないし。
 だからちょっとくらい鬱憤を晴らしたって、構わないでしょ。」

素直になりきれないのなら、せめて助けを乞う。一人で塞ぎ込むのではなく、打ち明ける。これはアスカなりの前進だった。
そしてレイの口からだけではなく、シンジの口からも「衝突関係」の是非を聞いてみたい。そんな二重の思惑も働いていた。

「……それは、確かに。アスカは頑固だとは、思うけどさ…。」

あくまで瞳は前方に。しかしアスカの意識はすべて隣りの人物へと注がれる。

「でも、エヴァのことでいちいち弱音を吐く僕なんか、とっくに愛想尽かされてもおかしくなかったのに。
 それをしつこいくらい叩き直しに来てくれたのは、アスカが頑固でいてくれたおかげなのかなって、そう思うし…。」

「………。」

「ぶつかるのが迷惑だって言うけれど、それすら無くなっちゃったら悲しいなって、僕はそう思うっていうか…。
 こんな風に考えられるようになったのも、きっと、アスカのおかげだと思うから…。」

夕焼けの空を天井に、二人の視界に迫り来る、住み慣れたコンフォートマンション。
何度も出入りを繰り返したエントランスを潜り抜ける中、シンジの言葉に耳を傾けるアスカはその一言一言を頭で咀嚼し、ぼんやりと考えていた。
以前は後方を歩かせ、今は隣りに並んでいるこの人物は、すでに遥か前方を歩いているに相応しい二本足の持ち主ではないのかと。

――なによ。
  意気地なしの、バカシンジのクセに。
  勝手にアタシをダシ抜いて、置いて行こうなんて。

自然と歩む速度が弱まり、やがて止まり。シンジにリードを譲る形となる。

「……アスカ?」

「…いいから、アタシの前を歩きなさいよ。」

「いや、でも…。」

立ち止まって歩き出そうとしないでいるシンジの背中に、ズシンとアスカの額が押し付けられた。

「突っ立ってないで、さっさと進む。カカシじゃないんだから。」

強引に足を踏み出し、シンジもろとも前進。
何事かと振り返ろうとするシンジの努力も、そこはしっかり両肩を掴まれているために叶わない。

「ちょ、ちょっとアスカっ…。」

「石頭なんだから、こうして背中を押してやるくらいしか使い道はないでしょうが。」

「いや、あのっ、前っ…! むぐッ。」

視界一面をシンジの背で占めているアスカなのだから、当然と進行方向の状況を知る術は持っていない。
ドカンと聞こえた音と、額に伝わった衝撃を受けて初めて、シンジがエレベーターの扉に衝突したのだと察した。

「バカね。ぶつかりそうならもっと早く言いなさいよ。」

「そんな、いきなり背中を押されたんじゃ無理だって。」

「いきなりとはなによ。ずっとそうして来たでしょうが。」

「うー、鼻がジンジンする…。」

打ち付けられた鼻頭の赤みが痛ましい。シンジは今度こそスイッチを押して正式に吊り篭の中へと踏み入れた。
二人きりの密室となってもアスカが背面からの拘束を解くことはなく、ピタリと石頭がくっ付けられたまま。

「…で、アンタ。お礼は?」

「え?」

「いままで散々、意気地なしの背中を叩いて押して来てやったアタシに対する、見返りはあるのかって話よ。」

言っていることは横柄に聞こえる反面、高飛車で知られる彼女にしては声色弱く、抑揚に欠いている。
それでもチンと鐘が鳴って扉が開けばグイグイと押し始めるし、その原動力となる脚線の交差は力強い。

「もちろんアスカには感謝してるよ。だからこれからも、身の回りのお世話でコツコツ返させてもらおうかなって。」

「…ふん。ケチ臭いわね。男なら気前よく、ドカンと一気に返しなさいよ。」

「ケチ臭いなんて言われても、僕にはそれしか…、あっ、止まっ…!」

首だけ振り返っていた顔を前方に戻すと、視界一杯に迫った玄関扉。
停止を求める間もなく、エレベーターの扉に引き続き、二度目の正面衝突が慣行された。
今回は鼻頭をかばって顎を引いた代償に、もろに頭蓋を打ち付けたシンジが瞳に火花を散らす。
たまらずぐらりと姿勢を崩したところをアスカに支えられるが、背を押す彼女が発端であるだけに、有難味がいまいちはっきりとしない。

「アンタバカ? せっかく背中押してやってんのに、これじゃまるでアタシが悪さしてるみたいじゃないのよ。」

「ご、ごめん…。今のはつい、うっかり…。」

「ったく、やっぱり平和ボケしてるわね。ホラ、ビシッとする。」

玄関のカードリーダーを認証させ、これにて最後の障壁をクリア。
依然として後ろから推進力を与えられるシンジはソファに二人分の鞄を置いたあと、台所の前に来たところでストップを申し立てた。
そこでいつも通り入念にうがいと手洗いを施し、さて新たな問題解消に取り掛かる。

「えっとさ、いまから夕飯の準備をするつもりなんだけど。」

「で?」

「あの…、とりあえずアスカも着替えたりしてさ、楽にしてくつろいでいてよ。」

鋭利な刃物と火を扱う場面に際して、アスカを後ろに貼り付けたままという不慣れな格好を続けていては、如何様なトラブルとも成りかねない。
故にシンジとしては、それとなくやんわりと諭し、あわよくば離脱して頂く方向に舵を取りたいところであるのだが。

「なるほどね。アタシの後押しはもう必要ないし、用済みのダシガラってワケだ。」

傍から見ればまさしく天邪鬼の権化。
しかしそのように見えようとも、アスカの声色には全くと言っていいほど感情が込められていない。
むしろ意固地な自分を論破して、頑なな心を打ち砕いて欲しいと望んでいるのだから。
この期に及んで無理して急造した悪態に、相応の色を塗布してやる価値などどこにもないと割り切った上で、そう言っていることなのだから。

「もう。どうしてそんな意地悪に言うかな……。」

「アンタが、ハッキリしないからよ。」

そこで一つ間が置かれ、はぁ…、と。
押し付けた額から伝わる筋肉の伸縮運動から、その時シンジが溜息をついた動作がアスカに伝わった。

「用済みだなんて、思ってもないこと勝手に言われても困るよ。僕にとって、アスカは必要な人なんだから。」

「………。」

「いままでもそうだったし、これからも。」

アスカの背筋が強張り、シンジの両肩を掴む指に力が込められる。
その胸の中で長い間ずれ続けていた何かが繋がり、重たいだけの塊めいた何かが抜け落ちた。

「……これからもって、いつまでよ。」

「それは、ずっとだよ。アスカが嫌だって言うなら、諦めるけど。」

「…ふん。どうせまた、人の顔色窺って、聞こえのいいコト言ってるだけに決まってる。」

「そんなことないよ…。嘘ついたって、どうせアスカにはお見通しされるんだし、あとでこっぴどく叱られるだけなんだから。」

「…必要な人って言ったって、ミサトやファーストとか、数多にいる人間と同列、その内の一人としてでしょ。」

「それは大切な人たちは沢山いるけれど…。でも、そばにいて欲しいのは、アスカだよ。」

「………。折れないヤツね…。」

一枚、二枚と、アスカの弁舌が削がれ落ち。か細く縮まる一方の声色は、二の句の盾を築くことの厳しさを物語る。
それでも、そうなればそうなるほど。窮地に立たされ、背水に追い詰められ、断崖に迫られるほど。
辛くて悔して、耐え難いはずなのに。アスカはその心の内で、えもいわれぬ熱情を滾らせていた。

そもそもどうして自分はこれほど意固地になっているのか。
なにを恐れ、なにを慄いているのか。その必要性と確証はどこにあるのか。
本当は面と向かって受け取るべき言葉の数々を、なぜこうして自ら背中越しを強制する形で聞いているのだろうか――と。
膨らむ熱情を押さえ込むことなく、その行方を自然に委ねることで。難しい理屈など無くとも身も心も軽くなる。

――砂みたく、すり抜けない。
  割れもしなけりゃ、折れもしない。
  ホントになんなのよ、アンタ。

硬い意思をぶつけられたことで、硬い心がひび割れる。
しばらく無言でコバンザメよろしく貼り付いていたアスカはふと身を離し、振り返るシンジに背を向けた。

「……ねぇ。バカシンジ。」

「…うん?」

「開く価値は分かるけど。閉じる価値って、なにかしら。」

そう言い残して自室へ向かい、後ろ手に襖をピシャリ。
……と思ったシンジの予想を裏切り、何を思ったか襖を開け放ったままでアスカが制服を着替え始めた。

「ちょっと…!」

血相を変えたシンジがフライパンを放り捨てながら走り寄り、部屋主に代わって襖をピシャリ。
閉じる寸前に色々と肌色が見えた気がするが、そこはあまり見なかったことにする。

「な、なに考えてるんだよっ…。」

「意外ね。アタシの裸なんて興味ないんだと思ってた。」

「馬鹿言わないでよ。女の子が人前で無闇に肌を見せるもんじゃないよ。」

「まったく。いっちょまえに結婚願望は語るクセに、これだから呆れるわね。先が思いやられるわ。」

何事もなく部屋着で出てきたアスカに、シンジの鼻先がピンと爪弾かれた。











年中無休。

そう言って差し支えないほど、如何なる日においてもシンジの朝に例外はない。
たとえ休日とあっても、朝日の知らせが届かない部屋とあっても、正確無比の体内時計が早朝6時に目覚めを促すのだ。
無論、他の誰に躾けられた習慣でもなく、一家の家事を担う者としての使命感。それのみによって律動する仕組みになっている。

「んんっ……、今日はよく寝られたな……。」

日曜である本日においても平日通り。秒針までもピタリ正真正銘の6時ジャストに目を見開いての起床。
夢の余韻に浸る間もなく、早くも頭の中では朝食に関する議案が練られている。
まずは和食か洋食かの二者択一から始まり、完璧に暗記している冷蔵庫の在庫との打ち合わせ。
さらに食材の消費期限や栄養面でのバランスを熟慮した上で導き出されるのは、最善となる朝の献立だ。

「鰤の照り焼きとキュウリと鶏肉の塩いためともやしとわかめのお浸しと大根とじゃがいもの味噌汁と梅干しとちりめんじゃこの菜飯と……。」

読経の如くブツブツと呟きながら襖を開けるのも毎朝のこと。
しかし開けた視界の先には、いつもとは異なる朝の風景が広がっていた。

「グーテンモルゲン。遅いわよ。」

見ると台所の前に、この時間帯には現れないはずの人物、アスカが包丁を握り締めて佇んでいる。
休日に早起きとは、これまた珍しくなんと殊勝な。と、そんな関心よりも先にシンジが取った行動は、おっかなびっくり両手を上げることだった。

「と、とりあえずさ、話し合おうよ。」

「あ?」

「その…、アスカからなにか文句を言われるのは構わないんだけどさ。さすがに包丁で脅かされながらっていうのは、ちょっと…。」

「〜〜〜…。」

かくしてアスカが青筋立ち、眉間のわなわなとした躍動を以って一日がスタートした。
刃物を持てばなんでも真っ先に凶器と見なされてしまうとは、一体どれだけ猟奇的な女として見られているのだろうか。
それも分かり易いようにとエプロン姿でいるのに、それでも察してもらえないのだから重ね重ね報われない。

「日本人の心情ってのは、察しと思いやりじゃあなかったのかしらねェ…ッ。」

「う…?」

「ええい、もういい。別に怒ったりも殺したりもしないから、さっさと顔洗って戻って来なさいよ。」

窓から差し込む爽やかな陽光がキラリと包丁を光らせる。それを妖光と見たシンジがコクコクと頷いて洗面台へと駆け込んだ。
洗顔、歯磨き、寝癖直し。手短に身支度を整えてからリビングに戻ると、先ほどとは装いを改めたアスカが憮然として待っていた。
手にしていると警戒を招くという不本意な理由から、問題の包丁はまな板の上に突き刺して。
そして台所に立つ女として気付いてもらえなかったのがよほど悔しかったのか、エプロンも丸めて床に投げ捨てられていた。

「安心なさい。アンタを殺す時は素手でシメるって決めてるんだから。刃物なんざに頼るほどヤワじゃないわよ。」

刃物どころか素手ですら致命の凶器。こんな表明を受けてどう安心しろというのか。

「なっなんだよ、やっぱり怒ってるじゃないか。」

「いいから、早くこっちに来なさいよ。アタシはただ、アンタから料理を教わりたいだけなんだから。」

「………え?」

殺すだのシメるだの、剣呑な流れから急転直下の様変わり。
直前に殺害手段を述べた少女は腕組みしながらも伏し目がちにして、ほんのりと頬を赤らめている。

「…なによ。アタシが料理を作ったら悪いっての。」

「いや…、そんなことはないけど。どうしてまたそんな、急に。」

季節が常夏に固定されたこの国において、女心と秋の空という諺が風化されつつある昨今。
180度の心変わりについて説明を求めてくるシンジに対し、アスカの回答は咳払いを交えたあとだった。

「別に。ただもうエヴァには乗らなくなったワケだし。愚民を助ける必要もなくなったんだし。
 ここらで一つ欠点の克服ついでに、やりごたえのある修練に励んでみるかって、そう思っただけよ。」

と、人一倍意地っ張りな少女にして、その口から繰り出されるのは偽りの建前。

「それに日本人の考え方とやらじゃ、心のありかは胸の内じゃなくて、おなかの内らしいじゃない。
 腹を割って話せるような人間を腹心だとか言うし、逆に信用ならない人間を腹黒いヤツだとも言うし。
 だから他人のおなかすら満たせないようじゃ、この先この国で暮らす以上、見くびられそうで癪なのよ。」

もっともらしい理屈を連ねているが、単にアスカはシンジへの歩み寄りの糸口として手料理を選んだに過ぎなかった。
どの道もはや前進する以外に道は残されていないのだし、与えられるばかりというのも性に合わない。
私はお前の愛玩動物ではないのだ――と、極論の鞭で自らを奮い立たせて面と向かうが、しかしシンジの着眼点は別のところに置かれていた。

「この国で暮らす以上ってことは、じゃあこの先もずっと、アスカは日本に居てくれるんだ。」

「ふん。邪魔ならすぐにでも帰ってやるわよ。」

「いや、ずっと居てくれたら嬉しいなって、そう思ってたからさ…。よかった。何事も信じてみるもんだね。」

「………ぬぐぐッ…。」

時にシンジの率直な物言いは話の腰を折り砕き、アスカの饒舌をその口内に縫い付ける。
ほっこりと顔を安堵に綻ばせている点にしても、それを見せられるへそ曲がりな少女は一層に歯切れを悪くするだけだ。

「と、とにかく。なにがなんでも料理の腕前を身に付けてやるんだから、アンタにはタダ働きで協力してもらうわよ。」

「もちろん。でも僕が見ていないところでは、勝手に包丁と火は使っちゃ駄目だよ。慣れないうちほど怪我には気を付けないといけないし。」

「ぬぅぅ。子供扱いするんじゃないわよ、バカシンジ。」

言われて苦笑いを交えながら、ようやくここでシンジがエプロンを身に着けてやる気を出し始めた。
ついでに床に投げ捨てられているもう一着を手に取り、アスカにも着させてやる。

「似合うね、エプロン。」

「いまさら遅いわよ。」

ポコンとおたまで頭が叩かれ、指導開始。
なにかと気性の荒い生徒を台所に立たせたシンジは冷蔵庫の野菜室を漁り始めた。
まずその中から手始めとして取り出されたのは、じゃがいもと大根。

「じゃあ、はいこれ。まずは野菜の皮むきから。」

「基本中の基本ね。これくらいシンジがいなくたって、お茶の子サイサイだわ。」

「えっとそれで、包丁の持ち方なんだけど…。」

「皮むきだけなら、そんなもん必要ないわよ。」

「…?」

そんなバカなと隣りへ振り向くと、じゃがいもに爪を突き立てたアスカがガリガリと表面を掻き毟っている。

「ちょ、ちょっと待って。包丁でのやり方を教えるからさ。」

「剥けりゃなんでも一緒でしょ。これなら指を切るリスクもないんだし。」

「それは…、そうかもしれないけど…。」

使う道具が爪とは作法もへったくれもない。が、たしかに剥けているから否定も難しい。それも包丁より早い猛烈な剥ぎ取りを見せられたら尚更だ。
最悪ピーラーの投入を考えていたシンジだったが、予想外の形で杞憂となってしまった。

「しっかし落ちぶれたもんよねぇ。選ばれしチルドレンともあろう者が、イモの皮むきに勤しむハメになるなんて。」

「そう? 僕は嬉しいけどな。いつかこうして普通に暮らせたらいいなって思ってたから。」

「ミサトが聞いたら、さぞかし喜ぶでしょうね。」

「いや、アスカと暮らせたらって話だよ。」

「…………。……ホラ、剥き終わったんだから、無駄口叩いてないで、次。」

「あ、うん。」

それとなく肩透かしが見舞われながら、次なる指導要領へと移る。

「次は野菜の切り方だけど、まずはまな板に対して体を少し斜めに向けて立ってみて。」

「ん…、頓珍漢で斜め上なアンタみたいな角度で、こうね。」

「……。で、垂直に見下ろすようにして、左手の指を丸めて添えながら、まずは薄切りを一つ作ってくれるかな。」

「アタシが使徒から精神攻撃を受けてるのに助けに来てくれなかった薄情者みたいな薄切りね。了解。」

「………。」

いちいち嫌味に結び付けないと気が済まない性格はこの際無視して、シンジは包丁の動向を見守ることに専念した。
そしてゴクリと固唾を飲んだと同時、ズドンとじゃがいもが一撃。晴れてアスカの人生で初となる渾身の落とし切りが決まった。

「どうよ。」

「もうちょっとお手柔らかにかな。強すぎず弱すぎず、こればっかりは慣れが必要だからね。」

「ふーむ。」

初撃で得た手ごたえを元に硬度と切れ味を分析。そして日頃から見ているシンジの料理姿、その挙動を参考にしながら二撃、三撃と試し切り。
何度か繰り返すにつれ、だんだんと刃音が静かなものになってきた。
包丁の上下運動も必要最低限のものとなり、刻む速度も上昇。無駄な動きが省かれて、みるみる内に洗練されて行く。
結果的に見て苦戦と言えたのはこの一つ目のじゃがいもくらいのもので、残りは全て難なく仕上げるまでに要領を得たアスカだった。

「ま、エリートのアタシが本気を出せば、ざっとこんなもんよね。」

じゃがいもに続き大根の薄切り、次いでそれらの千切りまで滞りなく修了。難航を覚悟していたシンジの予想は見事に覆った。
なんともあっけなく、まな板には均等に切り分けられた食材が整列してしまったのだ。

「さすがアスカっていうか…、出来るのを隠していたわけじゃないよね?」

「そんな無意味な隠し事するワケないでしょ。ただ今までは学ぶ意欲と価値を見出せなかったってだけよ。
 エヴァの操縦とは無関係の技能だし、誰かのために作ってやろうなんて思ったコトもなかったし。」

言うなれば、およそ0か100。興味が無いものにはとことん興味が無いし、興味が出たものには全身全霊を以って注ぎ込む。
やる気にさせたのは誰のおかげとは白状せず、アスカが目指すのは次なるスキルアップだ。

「で、お次の課題は? ていうか、これは一体なんの料理なのよ。」

「これは味噌汁の具材だよ。簡単だし、アスカにも出来そうだと思ってさ。」

「…なんか癪に障るわね、その言い方。」

その後も完成に向けてシンジの指導のもと、着々として料理実習が進められて行く。
火の扱いや作業の手順などは言われた通り忠実に従い、しかし味付けに関してはマニュアル通りでは面白くないとしたアスカの提言によって、
調味料の分量だけは本人の手による試行錯誤が繰り返された。
小皿によそって味を見てみれば首を左に傾げ、右に傾げ。途中、それとなくシンジから零されるヒントを思考に織り交ぜながら切磋琢磨。
完璧主義の少女がなんとか納得の味に漕ぎ付けたのは、同時進行で動いていたシンジが他の献立を食卓に並べ終えた頃だった。

「よし、納得。出来たわ。」

「よかった。それじゃ、ご飯にしようか。」

自信を見せるアスカの手で味噌汁がそれぞれの席に運ばれ、これにて朝の食卓を彩る役者が勢ぞろい。
きちんと手のひらを合わせて「いただきます」と一礼を揃えたのち、それぞれ青と赤の箸を持って食に臨む。

「…ぬぅ……。」

しかし開始直後、箸を運ばせながらシンジの動向を横目で盗み見ていたアスカから不服の唸りが上がった。
処女作である味噌汁よりも先に、ファーストチョイスとして他の品へ箸を向けられたことが気に食わなかったらしい。

「…味噌汁、早く食べないと冷めるわよ。」

「…ん? うん。それじゃあ。」

楽しみは最後に取っておきたい派のシンジだったが、他ならぬアスカから促されたら異議なく予定も変更する。
一度お茶で味覚をリセットした後、いざ味噌汁へと手を伸ばし、しかしその手首がわしっと掴まれた。

「食べる前には、いただきます、でしょ。」

「それは今、アスカと一緒に済ませたけど。」

「いいから、改めてもう一度言うのよ。」

「……? えっと、じゃあ、いただきます。」

おそらく穴が開くほど見つめるとはこのことだろう。それほど真剣な眼差しと念でアスカが隣りにある横顔を穿っていると、
まもなく味噌汁を口にしたシンジから満を持しての感想がもたらされた。

「んぐッ…熱いっ…!」

「………。」

世の中決して思い通りに出来ていない。他人に寄せた期待が必ずしも望んだ形で報われるとも限らない。
それらをきちんと理解しているアスカなのだから、人生で初めての手料理でまず始めに顔を顰められようとも、憤りはグッと我慢できるのだ。
なんのことはない――と無我無心。一度も心得たことのない禅の境地を勝手自ら作り上げ、ギュッとシンジの横っ腹を抓るだけで事は済む。

「ん、でもすごくおいしい。アスカは味付けも上手だね。」

「トーゼン。なんでもござれよ。」

たかが穀潰し、されど穀潰し。毎日三食バリエーション豊かな手料理にありつけるという恵まれた境遇にいるならば、
その者の舌と味覚も自然と肥えてくるというものだし、いざ作る側に回った際にも味の調整に一役買うというものだ。

「なんか自分で作った味噌汁よりも、あったまる気がするよ。」

「お世辞言ったって、何も出てこないわよ。……まぁ、おかわりなら、あるケド。」

「本当? 嬉しいな。それならあとで、おかわりいただくよ。」

「…ふん。よそるのは自分でやりなさいよ。」

毒気を吐いて気恥ずかしさを中和させながらも、発言とは裏腹に、アスカの内心は忘れて久しいほどの浮つきようだった。
自らの手で作り上げた料理が想いを寄せる者の腹の中――、日本人が心の所在としている箇所に収まっているのだと考えると気分が良い。
そればかりか栄養分として消化吸収されているということは、必然的にシンジの身体発育の一助ともなっているわけで。

――アタシの努力が、コイツの体の一部になる。

新たな発見に胸が熱くなる。
もしこれで料理の腕前に確固たる自信を付けられるようになったのなら、レイや彼自身が打ち明けるように“心の成長”を促す役割のみならず、
身の成長までをも司る絶対的な歯車としてこの先付き添えるのではないか。そんな野心すら芽生えてくる。

――絶対に必要とされる女。
  絶対に捨てられない女。

目標に注ぐ惜しみない努力と、限りない研鑽。本来の持ち前であり、それゆえ失敗時の反動で大害を伴う諸刃の剣。
過去母親とエヴァに向けて失敗し、もう絶対に引き抜くまいと鞘に収められていた、それ。

「この前のステーキもそうだったけど、アスカは火加減さえコツを掴めば、絶対に料理が上手くなれると思うよ。」

「…そうね。気を付けたいわね。火加減。」

嬉しそうに味噌汁を啜るシンジを横目で見るアスカは何気ないようでいて、その瞳の奥には独占欲の黒炎が滾る。
かつて人形をあやしている母親を、かつて物言わぬ弐号機を、満たされない瞳で見つめていた時と同じ色。
しかし今回は最後とだけあって、解禁された黒炎の勢いは過去の二つを遥かに凌ぎ、凍てついた心の奥底から“剣”が引き抜かれて行く。

「シンジ。これ食べ終わったら、昼食の準備がてらに料理の特訓再開よ。」

「うん、いいけど、あんまりいっぺんにして無理しないでよ。根を詰めすぎてもよくないし。」

「他人のコトで根詰めすぎて、寝不足になってたトウヘンボクに言われたかないわよ。」

「うぐ……。」

冷たい瞳にゆらめく、最後の炎。
薪としてくべられているのは、本人も気付かぬほど型破りの熱誠か、或いは底なしの執着か。
はたまた、その両方か。







一度これと決めたらとことん突き詰める。0か100かの少女が、200を発揮した。
それだけ料理の腕前におけるアスカの上達ぶりは、見るも目覚しい躍進を遂げた。
執心を向けた物事に関して徹底的に取り組む性格であることは、飛び級で大学まで修めた彼女の経歴に示される通り。
大量に買い込んだ料理本を元に自習に励むのは当然のこと。腕の立つシンジから受ける直接指導の他にも、柔軟な発想を得るためとして、
同じ料理愛好家で知られるヒカリの家を訪ねることもしばしば。思いつく限りの手段を尽くし、利用できるものはすべて利用して挑みかかった。
そうして二週間も経過した頃にはかなりの腕前。
「花嫁修業」などと言って茶々を入れてくるミサトを、ついには味で黙らせるほどまでに腕を上げたアスカが台所にいた。

「ミサト、いつまでもレトルトに頼ってるようじゃ、加持さんの胃袋は捕まえられないわよ。」

「うぅ、シンちゃん、アスカがいじめるぅー。」

「…すみません、ミサトさんも少しは料理が出来るようになった方がいいと思います。レトルトすらアレっていうのは、ちょっと…。」

「うわーん、シンちゃんまでぇ。」

よよよ…と即席の涙を流す三十路の大根役者。わざとらしい演技にシンジが苦笑をもらすも、それも一時のこと。
次第に元の思案顔へと立ち戻り、台所に立つアスカの後ろ姿を眺め始める。

「あの、アスカ。僕も手伝おうか?」

「一人でやらせろって言ってるでしょうが。いつまでもアンタの手を借りてたら上達しないんだし、何度も言わせるんじゃないわよ。」

「そ、そっか。ごめん。」

アスカの進言によって、三日前より夕飯時の台所は彼女一人の独壇場となっている。
同時にそれまで補佐役として隣りに立っていたシンジは御役御免となり、今や出来上がりを待つだけの身として食卓の席に座するのみだ。
それでもアスカが気になって止まないのか、そわそわと腰を落ち着かせないでいる様子はミサトの興味を引き、面白そうに眉を持ち上げさせていた。

「シンジ君も心配性ね。そりゃあ危なっかしいでしょうけど、ああなったらあの子なにも聞かないし、観念して任せておいてあげたら?」

「いえ、器用なアスカのことですから、怪我の心配はもうないんですけど…。ただ、その、なんというか…。」

「ん〜?」

たとえば包丁の切り傷が原因で救急搬送されるアスカだとか、無茶な火加減が原因で頭髪を引火させたアスカだとか。
大方そんな人身災害に懸念を抱いているのだろうとしていたミサトだったが、どうにもシンジの様子が当て嵌まらないでいる。
はてさてと詮索の切り替えに乗り出していると、完成したシチューを三人分、両手と頭に乗せたアスカがやって来た。

「今宵もパーフェクトな出来になったわ。あまりの美味に窒息したって恨むんじゃないわよ。」

「わぁ〜、いい匂い。この時点ですでに安心保証の香だわね。」

「フフン。味オンチのミサトに褒められても嬉しくないけどね。」

「うぅ、シンちゃん、またアスカがいじめるよー?」

「…め、面取りまで…。」

運ばれてきたシチューの出来栄えに三者三様。煮崩れに相当する具材すべてに施された面取りに目を奪われているシンジの耳に、
わざとらしく泣き縋るミサトの声は届いていないようだった。

「それにしてもあのアスカが、ここまで料理上手になるとはねぇ。」

味付けは無論のこと、肝である煮込みと具材の柔らかさ、付け合せで出されたフランスパンとの相性も申し分なし。
ペロリと一番乗りで平らげたミサトは太鼓判を押した上でデザート代わりのビールを煽っていた。
いつも通りのんべんだらりと満腹後の余韻に浸りながら、しかし横目できっちり捉えているのはシンジだ。
出血サービスだと言って皿洗いまでこなしているアスカの背をチラチラと見やりながら、しょんぼりと背中を丸めている姿が気に掛かる。

「こら少年、辛気臭いぞー? せっかくご馳走してもらったあとなんだから、笑顔、笑顔。」

「そ、そうですね、すみません。」

言われて無理やり笑顔を作るも、せいぜい苦笑止まり。すぐにまたしゅんとした佇まいに戻ってしまう。
それを直接見たわけでもないのに背中で含み笑いを見せたのはアスカだ。

「フフ。アタシには分かるわよ。」

キュキュっと皿の表面に指を滑らせ、横顔だけ振り向いてのしたり顔。
皿洗い中でなければビシッと指差しポーズが決められていたところだろう。

「ホントはおかわりしたいクセに、先立つプライドから言い出せないでいるのよね。とんだ負けず嫌いだわ。」

言いながら洗った包丁を華麗に回転させて水を切り、ナイフスタンドにストンと収納。
一寸の狂いもない曲芸と同様、的確に心情を代弁してやった気でいるアスカの自信に反し、シンジの顔色は晴れないままだった。

「アスカの料理が上手になるのは嬉しいよ。ただ、その、あんまり一人きりで頑張られても困る、というか…。」

「はぁ?」

「ははぁ。」

図星を撃ち損じたアスカに代わり、次鋒として詮索の的を絞り込んだミサトが確信の弦を引いた。

「ねぇアスカ。もっと上達したいなら場数を増やす意味で、明日から朝と昼も担当してみない?」

「ん…? まぁ、面倒だけど修行にはなるわね。別にそれでも構わないわ。」

「じゃあ決まりね。てなわけでシンジ君、そういうことだから。」

幸い料理の得意な少年と暮らすようになる以前は、レトルトの女王として不名誉な地位を築いていたこの女性。
まな板に向ける包丁の扱いにおいては経験浅くとも、生憎と人に引っ掛ける鎌の扱いには長けている。
それも相手が十五の子供とあればちょろいもの。年功に勝る鎌をチョイと振りかぶってやれば、純朴な少年は内情を露に迫ってくるという寸法だ。

「だ、駄目ですよそんなのっ。なにを勝手に決めてるんですかっ…。」

「あら、やっぱり。」

「ただでさえ夕飯だけでもなのに…。アスカもミサトさんに言われた通り作らなくていいからね。」

「な、なによ急に。ヘンなヤツね。」

ガラリと佇まいを変えたシンジが一気に捲くし立てる。エプロンで手を拭いていたアスカも突拍子な剣幕にたじろいだ。
一方で柳に風としているミサトはさらなる詰めの手をためらわない。

「ま〜でも、めでたくアスカも自炊できるようになったのは喜ぶべきことよね。
 掃除や洗濯にしたって、たまたま家事を受け持ってくれるシンジ君がいるからやろうとしないだけで、元々なんでもやればデキる子なんだし。
 これで今後はいつ一人暮らしになっても、まるっと安心だわね。」

「ん…、まぁ、そりゃあね。」

やればできる子。
そう言われて当然だという努力による実績があるアスカは胸を張って答えようとして、しかし寸でのところで明言を避けた。
たしかに家事に関しては出来る人間が一人いれば充分だという認識から億劫にしているだけで、手伝ってやろうと思えば手伝えるのだし、
元々ドイツで義父母のもとに暮らしていた頃は、上手いこと取り入れられようと、良い子ぶってそれなりにこなしていたものだった。
価値なき技能と見下していた料理にしても、今やすっかり習得し、お手の物にしつつある。
だが、それがどうして将来的に一人暮らし前提の話に結び付けられ、それで「安心」などと勝手に結論付けられなければならないのか。
「一人でやるしかない」と思ったことは多かれど、「一人でいたい」と望んだことは一度もないアスカであるのだから、
ミサトの発言内容には不承知な謂れも見受けられ、結果として不明瞭なニュアンスで受け流すに留まらせていた。

「誰の手も必要としない、逞しく、確固として自立した人間っ。やっぱりアスカはそうでなくちゃ。」

「ぬ……。」

ミサトからの妙な激励が続く。
自立とは依存の対置、他を寄せ付けぬ孤高。言われて悪い気はしないが、喜べる気位でもなく、アスカはここでも相手の出方に慎重になる。

「文武両道、さらには家事もこなせる無欠の女の子。まさに他者の付け入る隙なしってとこかしら。」

「アンタ、なにが言いたいのよ。」

「ん、要するにね。」

褒め言葉も度が過ぎれば信憑に欠き、相手の不快を誘う挑発と変わらない。
ひょっとしてミサトは料理の腕前を上げた自分の才覚を妬み、皮肉を言って負け惜しみを吐いているのではないのか。
そんな子供じみた妬みなどまさかと思いつつも、睨みを利かせたアスカが真意を訊ねると、ミサトから茶目っ気たっぷりの笑顔が返された。

「なんでも一人で出来ちゃう人間に対して、シンジ君が思い付く厚意の幅は狭いって話よ。」

「はァっ?」

「それも唯一勝る取り得だった料理ですらお株を奪われたんじゃ、立つ瀬も無くなっちゃうし、居場所に困るってもんでしょ?」

完璧な人間などこの世にいるものか。そう反論するより先に、アスカはこの場において無言でいるシンジの胸倉を掴み上げていた。
黙ってテーブルの一点に目を落としている姿が、まるでミサトの言い分が本音であると認めているように見えて、不快で仕方なかったのだ。

「アンタ、ミサトに言い返しなさいよっ…!」

「で、でも。僕がアスカに出来ることって、他には…。」

「…こんちくしょうが〜…っ。」

ただ純粋に、良かれと思って。
前進の一歩目として手料理を振る舞ってやりたいだけだった思い付きが、まさか相手を追い詰めるハメになろうとは。
惜しみない努力の先にアスカが想定していたものは、こんな落ち込んだシンジの顔ではない。まさしく心外としか言えない結果に奥歯が軋む。

――人のコトは信じてるとか抜かせるクセにっ…。
  肝心のアンタが自信持てないでどうすんのよっ…!

アスカにとってシンジの料理の腕前などは、取るに足らない付加価値の一つであって、弁当に入れられた緑のギザギザ級にどうでもよいものだ。
それをまるで自らに成せる唯一の価値、最後の居場所とでも言うような見当違いの思い込みを勝手にされているのではたまったものではない。
次第にアスカの周囲からドロドロとした不穏なオーラが流れ出し、そこで見かねたミサトがまあまあと宥めに入ってきた。

「駄目よアスカ。女の子がそんな怖い顔するんじゃないの。」

「うっさいわね。これはアタシとバカシンジの問題よ。」

「私だってシンジ君の悩みをただ代弁したわけじゃないのよ。ちゃんと元気付けるために言ってるんだから。」

「ふん。のんだくれの策なんてアテにならない。」

すると両手で「T」の字、タイムを求めたミサトがひょいと席を立って自室へと引き篭もる。
しばらくガサゴソと漁る音を立てたあと、再び姿を現した家主の手には二枚のチケットが握られていた。
よほど保管環境が悪かったのか、しわくちゃになったそのチケットには、新作の映画タイトルと「無料招待券」の記載が見て取れる。

「はいこれ、シンジ君にプレゼント。」

そう言ってそれぞれ一枚ずつではなく、ミサトはあえて二枚ともをシンジに手渡してきた。

「もらい物なんだけど、一人で観に行くのもアレだし、よかったら使って頂戴ね。」

「えっ…、ありがとうございます。」

「さぁーて、明日は日曜出勤だし、私は先に寝かせてもらうわね。おやすみなさい。」

女心に疎いシンジへのアドバイスはあくまでも最低限。多くは語らずにその場から踵を返したミサトは、揚々とした足取りで自室の奥へ。
襖が閉まった直後に響き渡ってきたいびき声を背に、シンジは手渡された二枚の映画チケットを不思議そうに見つめ始めた。
それを機に、胸倉を掴み上げていたアスカもコホンと咳払いを一つ。元の冷静な佇まいを取り戻し、対面の席へと身を移した。

「ったく。ミサトも余計なマネしてくれるわね。」

ぶすっと不貞腐れてジト目。それでもアスカがテーブルの下でぶらつかせた素足は、時折偶然を装ってシンジの足と接触が図られていた。
家事炊事以外にも自分が受け取るべき、望むべき厚意の形は無限にある。もっと視野を広く持つのだと言い聞かせるように、素足で当てつけて。

「たしか、アンタが観たいって言ってた映画よね、それ。」

「うん。でも、どうして二枚もくれたんだろ。」

「二枚もいらないんだったら、一枚捨てりゃいいじゃない。」

「そんな、もったいないよ。せっかく譲ってくれたんだし。」

「なら、誰かを誘うなりして、有効に活用する手段を考えなさいよ。」

軽く当てられるだけだった素足の動きが、ゴツゴツと脛同士をぶつけさせるものに変わってきた。
「誰かを誘うなり」と言った直後に合わせ、自らの存在をアピールするように、ゴツゴツと。

「でもな…、僕が観たい映画でも、相手が観たい映画とは限らないし、誘ったら迷惑にならないかな。」

「それは半信半疑ってトコかしら?」

「そうだね。でも、あんまり考えても仕方ないし、それなら…。」

ふとチケットから目を上げたシンジの瞳が、正面にある瞳と合わさった。
望み通りの展開とはいえ、さすがのアスカもグッと息詰まる。

「ねぇ、アスカ。明日の日曜日、予定ある?」

「……別に。暇っちゃ暇だケド。」

「そっか。それなら、つまらない映画かもしれないけど、よかったら一緒にどうかな。」

「…ふん。」

明確な返事が成される代わりに、シンジの手からチケットが一枚ひったくられた。







「おまたせ。」

約束の映画観賞へ出掛ける翌日の午後。
先に支度を終えてリビングにいたアスカの前に現れたのは、いつも通り、至ってシンプルな出で立ちのシンジだった。
ポロシャツとジーンズ。それだけとしか他に言いようがない格好。今朝方アスカが発見した後頭部の寝癖もそのまま残っている。

「なんかアンタの外着って、制服かポロシャツのイメージしかないのよね。」

「そうかな。特に意識はしてないんだけど。」

「ま、下手な一張羅で分不相応に着飾る男よりはマシだけどさ。んじゃ、行くわよ。」

出掛けの前にお互いチケットの所持を再確認。マンションを出ると、今日は一段と盛んな陽光が遥か頭上より、強烈な勢いのまま降り注いできた。
ちなみに朝と昼の料理当番だけは必ず果たすべき責務として譲らなかったシンジの意向により、午後の上映時間に合わせての出発となっている。

「それにしてもアンタってヤツは。たまの出掛けくらいお昼は気晴らしに外食したかったのに、何をムキになっているのやら。」

駅に向かう途中、足元の石ころをヒョイと飛び越えたアスカが言わんとしているところは、先ほど食べ終えたばかりの昼食に対してのものだ。
今朝の朝食に続いて二度に渡り、食卓を埋め尽くすほどの豪華料理の大軍勢がお披露目されたのだから、呆れて苦言の一つも呈したくなってくる。

“唯一勝る取り得だった料理ですらお株を奪われたんじゃ、立つ瀬も無くなっちゃうし、居場所に困るってもんでしょ?”

昨夜ミサトが内情を突き止めた一件がシンジの中で大きく尾を引いているのは疑いようもない。

「今度あんなフザけたフルコース出したら、承知しないわよ。」

「…だって、仕方ないだろ。僕には他に取り得もないんだし。」

拗ねたように言って、自信なさげに視線は下ろし気味。
ふと視界に入った石ころを蹴ろうとしたシンジだったが、寸前でアスカの足先に奪われて空振りに終わった。

「ハン。最近は成りを潜めてると思ったら、やっぱり健在だったってワケね、その内罰芸。」

「う…、芸風みたいに言わないでよ。」

「いいわ。久々に本気でイライラしてきた。」

駅の改札を抜け、階段を上がって辺りを見回すと、電車を待つ人影はまばらに散見できる。
おおよそ十人を数えない程度の人気だと分かると、アスカはシンジの胸倉を引っ張ってプラットホームを移動した。
四方八方そこかしこ、機敏に動く青い目玉のお目当てとされているのは、この場で誰の視界からも外れた物陰だ。

「ちょ、ちょっとアスカ、引っ張らないでよっ…。」

抗議の声など当然のように無視。アスカは周囲から死角となる柱の影を見つけるなり、そこにドンとシンジを張り付けた。

「アンタが自分を卑下すんのは勝手だけどね。そうすればそうするほどアタシをコケにしてるってコト、分かって言ってるんでしょうね。」

「ど、どうして。そんなつもりで言ってるわけないよ。」

「アンタがどういうつもりでも。その取り得のない駄目男にエヴァで負けたアタシは、それ未満になるってコトでしょうが。」

「んな…。」

思いも寄らぬ表明を受けては、誰とて顎を取り外した顔になってしまうし、鈍器で頭蓋を叩かれてしまう。
舌鋒鋭く挑んで来る相手の態度にしても、至って真摯な成分であるなら尚更の説得力で突き刺さる。

「アタシの命にしたって、いつまでも自分を矮小に見て抜け出せない、救いようのない人間に救われたことになる。
 バカシンジの分際で、人を侮辱するのも大概にしなさいよ。」

面と向かってぶつかり合う、水平に位置した青と黒の瞳。
前者はその意思の固さを誇示するような不動の鋭さで。後者はその動揺の丈を表すように揺らめいて。

「もうアンタ一人の問題だと思ったら大間違い。いまさらこんなコト言わせるんじゃないわよ、コンコンチキ。」

言いたいことを綺麗さっぱり言い放つ。なにかと胸の内に秘めるばかりだった昨今においては、なかなか上出来と言えるのではないか。
意地っ張りな少女が自らの思い切りにある程度の評価を与えていると、まもなくして電車が走りこんできた。
猛烈な風圧に衣服と頭髪を揺らされる中、胸倉を掴み上げられたシンジは、ただ愕然と見つめ返してくるばかり。
そこに追撃の余地を見出したアスカから、かねてからの一言が放たれる。

「いい加減、少しは自信持ったらどうなのよ。バカ。」

「………、アスカ…。」

車内に引きずり込まれたシンジの背後で、発車のアナウンスと共に自動扉が閉じた。
柱などの死角に恵まれたプラットホームと違って、乗車後は身を隠せる物陰が存在しない。
周りの乗客から寄せられる好奇の視線を嫌ったアスカは平静にシンジの拘束を解き、乱した襟元を元通りに整えてやった。
一方でされるがままのシンジといえば申し訳なさそうに俯いて、力なく、かろうじて搾り出した言葉で返すだけだ。

「…なんていうか、アスカには色々と気を遣わせちゃって、ごめん。」

「フン。どうせ洗濯機と掃除機と台所がない場所じゃ、なにも出来ないアンタなんでしょ?」

「………。」

「ハナから見返りなんて期待しちゃいないから、謝らなくたっていいわよ。」

ガラス越しに景色が流れるドアの前に並び立ち、周囲の人間には聞こえない声量でのせめぎ立て。
しばらく二人の間に沈滞した空気が流れ、一つ、二つと各駅停車を繰り返し。何度目かのドアの開閉を経て、目的の駅で降車した。
再び炎天下で燃えるアスファルトの上、今度は休日の人出で賑わう繁華街を二人並んで歩く。

――期待してないなんて。
  最後に少し、きつく言い過ぎたかな。

お互いの足元を見て歩調を合わせることに専念していたアスカが、ちらりと左側、すぐ隣りを歩く少年を見やった。
久しぶりに振るった鞭撻がどのような結果をもたらしているのか。ひょっとしたらさらなる自信喪失に拍車をかけてしまったのではないか。
すっかり根付いた疑心暗鬼が不安を喚起させるが、判断を下すには視界に捉えた横顔だけでは情報量に乏しい。
やはりここは少しフォローなり、訂正の言葉を加えておくのが無難か。
唇を僅かに開き、あとは切り出すタイミングだけを計っていたアスカだったが、その数瞬の気遅れがシンジに先を譲る形となった。

「っ…。」

不意に襲われたのは、シンジ側に位置した手。それまで空を切るだけだった左の手のひらを、そっと握られる感触――。
いつぞや不吉に伸びた影を見た夕暮れの帰り道で、そして先日赤信号を渡りそうになった時と、過去二度の経験を踏みながら、
未だ慣れないでいるその温もりが身を伝う。

「……っなにすんのよ、きゅうに。」

「…その……、アスカにはなんてお礼を言ったらいいのか分からないし…、それ以上の言葉が見つからなかったから……。」

何もないこの場で思いついた返礼が、手のひらの接合なのだとシンジが言う。
柔らかく握られた手のひらから伝わる体温が少し増したように思えて、アスカはますます身が硬縮し、歩き方がぎこちなくなる。

“いっちょまえに結婚願望は語るクセに、これだから呆れるわね。先が思いやられるわ。”

襖を開けて着替えを慣行した時、慌てて襖を閉じてきたシンジに言ってやった台詞が手痛いブーメランとなって突き刺さる。
過去に唇を重ねておきながら、手のひらを握られることに緊張を走らせるとは、きっと他人が聞けば何をいまさらな話、
順序不同の恥じらいだと思われるのだろう。

――畜生。慣れっこないわよ。
  離したくない相手から、握られてくるなんて。

すり抜けるだけの砂塵しか掴んでこれなかった手のひらを、純然たる思いで願望の方から握り締めてきてくれる。
今まで一度として叶うことのなかった果報なのだから、早々に免疫を付けろという方が難しい。

――なによコイツ。とんだウソつきだわ。
  料理しか出来ないみたいなコト言っておいて。
  ちゃんとこういうコトが出来るクセに。

こうして手を握られることにいくら恥じらいを覚えようとも、今やアスカは自らの力で解くことが出来ない。もはやその理由を失っている。
ならばそのような人間が取るべき選択肢は一つ。相手の判断によって解かれる時を待つだけ。それまで今しばらくの羞恥だと腹を括ったアスカは、
手を握られたままの格好で抵抗を見せることなく、到着した映画館へと足を踏み入れた。

灼熱の外気とは別世界のように涼やかな館内では、すでに多数の黒山がひしめき合っている。
ほのかに漂ってくるポップコーンの匂いも、豪華豪勢の昼食を済ませたアスカの食欲中枢には無縁の刺激。
それよりも炎天下を歩き、放出した汗の分だけの水分補給を済ませたい。
財布を持って来なかったアスカの目は自然と隣人の後ろポケットの膨らみに移る。持ち主の彼はきょろきょろと館内を見回していた。

「混んでるね。どこらへんに座ろうか。」

「どこでも構わないわよ。勝手に決めたらいいわ。」

どのみち映画にはハナから興味がないのだから、とは言わず。「それじゃあ」と言って足を進める後を、手を引かれるままにアスカは従った。
導かれた中央付近の座席はスクリーンを真正面に捉え、かつ前方に通路を挟んでいるために観客の後頭部が苦にならない位置取りだ。
しかしやはり映画に興味のないアスカとしては、出来れば人目の少ない位置、最後列の端っこなどが色々と過ごし易そうに思えたりするのだが、
ともあれ額に浮いた汗をハンカチで拭っていると、察したシンジが気を効かせてきた。

「喉かわいたよね。飲みもの買ってくるけど、リクエストある?」

相変わらず飲食物に関する思い付きだけは早い。アスカはしれっと眉を持ち上げて応じた。

「なんでも構わないわ。アンタが好きに決めて。」

「分かった。じゃあ行ってくるよ。ちょっと待ってて。」

座席に半券を置いて確保の印としたシンジがその場を立ち去り、さて、握られていたアスカの左手がここで解放された。
一箇所に集められていた全神経がそれぞれの持ち場に戻り始め、全身くまなく均等に分散。正常の機能を取り戻して行く。

「………。」

思えば、繁華街の入り口から映画館までの間、ずっと。汗ばむほど長らく他人と手のひらを合わせていたのは、これが初のことになる。
記録的な感慨に満たされる一方、堪え難い射幸心も両立し、気付けば手のひらの空白を埋めるように、ぎゅっと握りこぶしが作られていた。

――温まったあとには、冷たくなる。
  だからまたいつか、温めてもらえばいいだけ。
  どうってコト、ないわ。

想い人の体温が抜け去るのと同時に、アスカは人ごみと喧騒に包まれた周囲の光景が、急速に色褪せて行く感覚に見舞われた。

――やばいな。
  傾けば傾くほど、他のものがどうでもよくなってくる。

一つのものにしか目が行かなくなる。それは相対的に他への価値観の喪失を意味する。
我ながら危うい性質。アスカは改めて自らを戒めた。

「………はぁ。どの道選んだって、同じくらい苦労するのかな…。」

シンジが戻るまでの間、適当に泳がせる視線は、どこにも視点が収まらない。
収めるべき、価値あるものが見当たらないのだから仕様がない。退屈な授業中に10時方向の背中を眺めるのと同じ理由。
仕方なく退屈しのぎに毛先をいじくったり、爪の長さを確認してみたりするが、それも長くは続かない。
きっとこのあと巨大なスクリーンに映像が映し出されたとして、そちらに向ける集中力も多くは割り当てられないだろう。
だってそれ以上に大切なものが隣りにある状況で、どう気を逸らせと言うのか。その理由と必要性が思いつかないからどうにもならない。

――夢でも見てた方が、マシだわ。

シンジが席を立ってから十数秒にして、ふわ…と、自然とあくびが出た。
なんとなしに背伸びして筋肉をほぐしていると、その行動が目立ったのか、声を掛けられた。
方角は定かでないが、こちらに向けられていることだけは分かる。
キミ、一人? と言われたのだろうか。
色褪せた世界の中、ちゃらけた男の声でそのように聞こえたが、いや、しかし、気のせいかもしれない。
ジュースを持って戻ってきた碇シンジでなければどうでもよい事象。意識せずとも、そのように脳が自動的に処理してしまう。
これ以上、この場でなにも見る価値も聞く価値もないと判断したアスカは、静かに目を閉じ、価値あるその時までなにもせず待つことにした。

――次は、いつかな。

五感を閉じ、価値なき周囲に払う意識を節約し。それらの分を肘掛に乗せた左手に傾け、閉じた瞼の中で想いを馳せる。
次にこの手のひら――左でも右でも両方でも構わない――が合わせられる機会は、数分後か、数時間後か、数日後か。
今は一時的に離されているが、きっとまた温もりを得る機会はやって来る。
根拠はないが、愚かな確信がある。そう思い込んでいるから仕方がない。
いずれ訪れるであろう近い将来に期待を寄せ、アスカはその時、ふと穏やかな笑みを零していた。







ぎしっ



すぐ隣り。左の座席が軋む音。

体重が違う。骨格が違う。

続けて故意に触れてきたと分かる、肘先の感触。

温度が違う。身の毛がよだつ。

「  、        。」

馴れ馴れしく話しかけられる声が、まるで違う。

甘やかな思慕に浸っていたところに現れた、謎の人間。

――バカアスカ。
  大人げないわよ。

どうでもよい人間に使ってやる怒りほど無益なものはない。関わる価値なしと下したアスカは黙って席を離れた。
男に声を掛けられた直後、図らずして笑みが重なってしまったのが迂闊だった。タイミング的に了承の意と受け止められても不思議ではない。
反省を噛み締めながら通路に出る。
落ち着ける場所を探すべく周囲を見渡してみると、ちょうど出入り口の方から戻ってくるシンジを見つけた。
両手で持ったカップの中身が零れないよう、慎重な足取りで階段を下って来る。

――バカシンジ。
  たかがジュース運ぶくらいで、真剣な顔しちゃって。

色褪せたアスカの視界に彩りが戻り、視点が収まった。

「シンジ、席を変えるわよ。」

「あれっ、さっきの場所は?」

「居心地が悪いのよ。」

にべもなく言うアスカが指先で、ある場所を指し示した。
その射線を目で辿れば、寄りによって誰もが避けるだろう最悪の場所であることが窺える。

「ホラ、一番後ろの席がガラ空きなんだから、あそこの端っこに座りましょ。」

「えーっ。どうしてわざわざ、あんなところに。」

「すし詰めも回避できるし、肘掛けがフルに使えて快適ってもんでしょうが。さっさと行くわよ。」

「それにしたって、なにも一番端っこに行かなくても…。とほほ。」

しょんぼりとして訴えながらも、強引に背中を押されてしまってはその方向へ従うしかない。

「スクリーンが遠いなぁ…。」

「甘ったれんじゃないの。万が一の希望を語ることさえ叶わない不幸な国に生まれた人間は世界中にゴマンといるんだから。
 平和ボケが許される日本に生まれただけ、お天道サマの采配に感謝しなさいよ。」

「うーん…、平和……なのかな。」

あれだけ使徒が何度もピンポイントで襲来してきた国を平和と言えるのだろうか。
首を傾げたシンジが過去の死闘を振り返っていると、控えめに照らされていた照明が落とされ、辺りが暗がりに包まれた。
そこかしこで飛び交っていた周囲の雑音も静まり返り、上映開始のアナウンスが流される。

「アスカ、始まるよ。楽しみだね。」

「言っとくけど、現実じゃハッピーエンドなんてあり得ないし、認めないから。」

「なっ…、始まる前からそんなこと言わないでよ。」

ズルズルとストローを吸いながら言うアスカの声が届いたのか、前方のカップルにジロリと振り向かれたシンジは慌てて頭を下げた。
なにしろこれから始まる映画はハートウォーミングで人気を博している作品だ。上映前に水を差すようなコメントはNGである。

「で、これってどんな映画よ。」

「えっと、老後穏やかに最期を迎える夫婦が、連れ添ってきた過去を回想するお話って言えばいいのかな。」

「ありきたりねぇ。どうせ作り話なら、もっと現実離れしたSFとかホラーとか戦隊モノの方が好みだわ。」

「だ、だから声が大きいってばっ…。」

本人は小声のつもりなのだろうが、いかんせん声の通りが良すぎるのが困りもの。
またも数人から刺すような視線が飛んできて、この度もシンジが謝罪代理人を努める。
いっそのこと手で口を塞いでやるのが手っ取り早いのだろうが、粛とした空気が求められる場で大袈裟なアクションはそれこそ煩われるだろう。
シンジは代わりに、「静かに」と言い聞かせる意味で、肘掛に半分ずつ乗せたアスカの手のひらを握り締めた。
それが奏功したのか、ピクンとへそ曲がり少女の肩が竦み、「ぐっ」と短く呻いたあと、それっきり大人しくなって口を慎んだようだった。





「……むむ…。」

どうやら感動的な映画らしい。
暗闇に乗じてシンジの肩に頭をもたれるか否かの採決に没頭していたアスカは、ふと周囲の変化に気付いた。
らしい、と推測で判断したのは、映画がクライマックスに差し掛かり、鼻を啜って涙を堪える観客がポツポツと現れ始めたからだ。

「……?」

となると、シンジはどうなのだろう。気になって横目で確認してみると、他の客と同じ状態だと分かった。
暗闇でも分かる、うるっとした瞳がまっすぐスクリーンを向いている。

「目にゴミでも入ったのかしら…。」

ぼそっと呟いたアスカはここで初めてスクリーンに意識を割り当ててみた。が、やはり観るに値しない内容だとすぐに判断できた。
二時間ちょうどで作られた架空の老夫婦の物語は、お互い身を寄せ合い、穏やかな寝顔のまま息を引き取るラストで幕を閉じたようだが、
どうしてこれで感動できるのか。持ち前の天邪鬼でもなんでもなく、アスカには純粋に分からなかった。

――死んだらそこでオシマイじゃない。
  なにもかも、すべて。

死は哀れむものではなく、恐れるべきもの。そんな理念を担ぐアスカに、この手の感動映画は効果なし。とうてい涙腺には響かない。
唯一刺激されたとすれば、それは死に対して抱く警戒心のみ。涙する情動などどこにもなく、ただひたすらに不吉な映像作品でしかない。
よって感動ムード一色に染まった館内の中、アスカ一人だけがスクリーンを睨みつけて異質の空気を醸している。

――こんな映画で泣きべそかく人間なんて、それだけ日頃から死を忘れるか遠ざけるかして生きてる証拠だわ。
  脅威を直視せずに警戒はできないってのに。どれだけ無警戒な人間が多いのよ。

正論を気取って毒づくが、未来の脅威を警戒しすぎたあまり、心に鉄壁の殻を作ってしまったアスカにも改めるべき点は多分にある。
ともあれ、死を美しいもののように見る周囲の空気に耐えられなくなったアスカは、スクリーンに閉幕が引かれるなり、誰よりも早く席を立った。
隣りでは座ったままのシンジが感涙を湛えて余韻に浸っていたが、お構いなしに袖を引っ張り上げ、先陣を切って外へと抜け出した。





「男のクセに。人前で涙を見せるなんて恥だと思いなさいよね。」

「ごめん。僕ってああいう映画に弱くて、どうしても。」

帰り際に立ち寄った公園に人影は少なく、シンジと隣り同士でベンチに座るアスカには好都合だった。
「歩き疲れた」とわざわざ嘘をついて休憩を求めたのも、単に映画館でもらった後味の悪さをそのまま家に持ち帰りたくない思いからだったが、
もっともそれは気難しいアスカに限った問題。
シンジの方は心を洗われた気分でいるようで、「取り得がない」と肩を落としていた出発当時と比べ、幾分か晴れやかな表情を持ち直している。

「なんかさ、どうしてミサトさんがあの映画を勧めてくれたのか、分かった気がするよ。」

「へぇ、鈍感なアンタが珍しいこと言うじゃない。聞かせてみなさいよ。」

驕ってもらった缶ジュースを煽るアスカがニヤリと笑みを見せる。
シンジは照れくさそうに頬を掻いたあと、遠くで仲睦まじそうに歩いている夫婦らしき男女を眺めながら答えた。

「大切な人と最期まで添い遂げたいなら、くよくよ考えて立ち止まっているだけじゃ駄目なんだって。
 もちろん反省することも大切だと思うけど、下を向くのもほどほどにって、そういう意味で元気付けようとしてくれたんじゃないかな…。」

そうして語られたのは至って凡庸な解釈。
それでも「死を美化する不謹慎な作品」と断じたアスカよりは充分過ぎるほど健全な捉え方ではある。

「アスカは、どう思ったかな。」

「ん…? そうね、アンタと違って、アタシはこうよ。」

訊かれたアスカは一度座り直すふりをして、その際に何気なく距離を詰めながら答えた。

「どれだけ大切な人と、どれだけ一緒に生きて行けたって、どうせいつかは死に別れちゃうバッドエンド。
 そんな誰しもが歩む悲惨な人生の末路をアンタに教えるために、あの映画のチケットを譲ってくれたんじゃないのかしらね。」

「バ、バッドエンド……。」

ミサトから優しく後押しされた気分でいたシンジの背を、アスカが容赦なく崖っぷちまで押して行く。
それでも聞かされたのは完全に否定できない解釈なだけに、シンジはしどろもどろに死の淵を見下ろすしか手立てがない。

「ふふ。いつか死んじゃうことすら信じたくないとまでは、さすがのアンタも言えないわよね。」

「うぐ………。」

続けて言われた通り、先日リツコから「もしもアスカが神隠しに遭ったらどうする」と問われた際に「信じない」と答えた時とは事情が違う。
信じる、信じない以前に、死は誰しもに必ず立ちはだかる絶対不可避の末路だ。迷信じみた神隠しとは根本から異なる不壊の真実。
当然それを理解するシンジも返す異議はなく、ここでも言葉を失っている。
一方でもう一度座り直す素振りを見せたアスカは、さらにシンジの方へ距離を詰めながら続けた。

「結局のところ、人生で大切な人を見つけたところで、その人と手を繋ぎ合ったところで。永遠に連れ添うコトは不可能なのよ。」

「………。」

「寿命でも、事故でも、病気でも。どれにしたってその最期は凄惨が付きものだろうし、悲しいだけだろうし。
 もし自殺なんかで終わっちゃったら、それこそハッピーエンドだなんて言えないはずだわ。正真正銘のバッドエンドよ。」

あえて自殺のくだりを強調し、三度目の座り直しで至近距離まで詰めたアスカが「死」の切り札を掲げて挑みかかる。
周囲ではせっかく小鳥が囀り、新緑の木々がそよぎ、噴水が飛沫を煌かせているというのに。それら安穏な雰囲気に出来た場が、まるで蔑ろ。
十五で語るにはあまりにも重厚なテーマでせめぎ合うこの二人だけが、全てのリラクゼーション効果をふいにして過ごしている。

「でも……。どうせいつか死に別れちゃうんだったら、それまでの間、なおさら手を繋いで歩きたいって、僕はそう思うけどな……。」

「それでも最期は体も冷たくなって、そこで手を握る力もなくなって。お互い離れ離れで他界するんだから、すべて無駄な努力に終わるのよ?」

「………それでも、無駄だなんて、そんな風に思いたくないよ。」

「ふぅん……。取り得がないとか言って落ち込むクセに、未来に対しては前向きなのね。ヘンなの。」

あんまり追い詰め過ぎてもよろしくない。アスカはそこで重い空気を打ち切るため、半分残した缶ジュースをシンジに譲り渡してやった。
なにもアスカ自身、無闇に死のテーマを突きつけているわけではない。最初から別の思惑を用意した上での、そのための流れ作りに過ぎない。

「ねぇ。アンタなら、無駄かどうか、どうやって判断する?」

「え……。」

缶ジュースを渡す際に本題を持ち掛けてみると、シンジの目線があからさまに動いた。
手を繋いで生きることは無駄か否かとの議論を交わした直後なのだから、当然と目も問題の箇所、アスカの手のひらへと移っている。

「無駄じゃないって、そう思うだけじゃ白黒つかないままでしょ。男なら行動を起こして、ハッキリ判断をつけるべきだわ。」

「………。」

「なんなら、判断材料としてアタシの手を使ってくれてもいいのよ。」

わざわざそれとなくを演じて、三度も座り直して詰め寄った成果がここに実る。
シンジ側に接する手のひらも握り易いようにと仰向けにされていて、すでにその準備は済ませてある。
あとはもうシンジ次第。アスカはただ、その時を待つだけ。

――アンタは細かく考えないで、ただ手を握っていてくれたらいいのよ。
  それでアタシは落ち着くし、気分が晴れるんだから。

アスカは待つ。
そして望み通り、シンジの手のひらはすんなりとやって来た。
猛暑の気温などよりも遥かに温かく、遥かに心地よい温もりが肌同士の触れ合いによってたちまち伝わり来る。
握り締められる力がどこまでも甘やかで、その貴さといったら言葉では尽くし難い。
今日だけで三度目だと考えると、贅沢過ぎる数ではないかとさえ思えてくる。

――見なさいよ、ファースト。
  どうしようもないアタシだけど、結構、歩けたもんでしょ。

心が浮き上がった拍子で、アスカは今の状況をレイに見せ付けてやりたい気分にすらなった。
半信半疑の壁を乗り越え、拒絶の意思を見せることなく、受容の姿勢が示せているのだから。これは紛れもない前進に違いないのだと。
きっと金輪際、顔を合わせてもカカシなどと言われる筋合いもなくなるはず。
進むべき道を前にして、立派に足が二本生えた人間なのだと、これから胸を張って対峙できる。

――ただ、惜しいわね。
  今、目の前に、鏡があったらいいのに。

仮にあったとして、きっとそこに映し出されているのは「好きな自分」。
アスカは代わりに、空を見上げた。
染みや汚れの浮かぶ天井とは違い、雲ひとつない、まっさらな青空が広がっている。

紛れもない。

アスカは、気分が良かった。

















「……ねぇ、アスカさ。」

上空に舞っていた意識を、隣人の声が地上へと引き戻す。
価値ある人物の声だと分かるので、無視は出来ない。脳がそのように処理を行っている。
アスカは空を見上げたまま、それとなく適当に返した。

「……悪いケド。ちょっと、黙っててくれる。」

いましばらく、握られる感触と温度に浸っていたい。万が一、野暮な会話で台無しにしたくはない。
しかし沈黙を要求した直後にも関わらず、その当人が呼び掛けを諦めた様子はなかった。

「ねぇ、アスカ。」

「〜……っ、なによ。」

せっかく良い雰囲気が作られていたところ。
口を開けばひねくれ文句しか出てこないアスカは出来るだけ黙したまま過ごしていたいのだが、何度も名を呼ばれるようではそうも行かない。
仕方なくアスカは心地よく色褪せた世界を中断させ、隣りの肩へと傾けかけていた頭の角度を戻し。
仕上げにジロリと睨み目を飛ばして訴えると、シンジが自信なさげに申し出てきた。

「あのさ…、僕の方からしか握ってないのに、これって、アスカと手を繋いだことになるのかな……。」

「………?」

シンジからの問いかけに、アスカは一瞬、理解が追いつかなかった。
まず真っ先に生じたのは「なにを言っているのか」との疑念。
手のひらにはしっかりと握力を感じるし、温もりだって伝わってきている。気分だって現在進行形で晴れやかだ。
それなのに繋がっていないとは、せっかくの気分に水を差す言い掛かりではないのか。

と、そこまで思い至ってアスカは、その直後。
そこまでの一切の理屈は全て自分側だけに限った話だと気付き、シンジ側の事情を何も斟酌していないものだとして破棄していた。

言われた通り、これは手を繋ぎ合っている状態ではない。
こちらの手が、シンジの手によって一方的に掴まれている、ただそれだけの状態だと思い知る。
ただ握られているがまま。相手から施された行為を、アスカは受け容れるだけでなにもせず、ただじっとしているだけ――。
これは二人の力が双方に及んでこそ成る“繋がり”とは別の形。
現にシンジの手のひらへは、何も。アスカの手のひらから、ほんの少しの力さえ及ぼされていない。

「アスカの方からも動いてくれなきゃ、無駄かどうか、……判断できないよ。」

“手を繋いで生きるのは無駄か否か”

その判断を下すために、シンジはアスカの手を握り締めることで気持ちを確かめに来ている。
振り解かれることで無駄との諦めを強めるか、それとも握り返されることで前進の励みを強めるか。
その中間地点に立たされたまま答えを待つその顔は真剣で、そして半信半疑の不安に満ちている。

なにしろ彼がいま掴んでいるものは、人の手ではない。
なにかしらの動きも見せないでいる、意思無き物体なのだから。

例えるなら、指と指の隙間からすり抜けるかもしれない、砂塵に近しい何か。とも考えれば、アスカには身近な実感が沸く。
願望の方から握られることが叶って上機嫌でいる自分とは、まるで異なる心境にシンジは取り残されている。
アスカはここでようやく想い人を遥か後方に置き去りにしたまま、自分ひとりだけが浮かれて一人歩きしている現状に気付いてきた。

――なんだ、アタシ。
  結局、ずっと、自分のコトばかり。

思えば、「必要な人」とまで決定的なことを言わせておいて、それに対してアスカ自らは未だなにも回答を示していない。
あれから二週間の間、ずっと。自らの前進の一歩目だとして料理修行に励むばかりで、その間、シンジを待たせ続けていたことになる。
もし今、気付いていないようだったなら、これから先どれだけの時間を待たせ続けていたのだろうか。
シンジが未来に対して前向きな割りに、その一方で自信が得られないでいるのも、今となっては頷ける。

――なにもしてくれない……?
  どっちが……?

彼の手のひらに、彼が掴んだ物体の正体を伝えてやるためには、今。
すり抜ける力で砂となるか。向かい行く力で手となるか。
50では成り立たぬ、0か100かの意思表示。

「………。」

しかし不思議と、思ったより。いや、思いの通り、アスカの判断は早かった。
こちらだけ一方的に相手の気持ちを把握した状況にいるから、安心して判断を下せたのだろうか。
そう考えるとなおさら罪悪感が込み上げる。

――きっと、この先も、こうやって。
  アンタのそばで、アタシも成長していくのね。

いずれにせよ母親でもなく。エヴァでもなく。そして自分のためでもなく。
ただひとりの他人のために。三番目の目標へ向けて、鋼の心が動いた。

「……死んだら全部無駄だなんて、平和ボケしてるアンタを、ちょっと脅かしてみただけよ。
 それを真に受けちゃって。これだから、バカシンジは。」

まず動いたのは、いつも通りのへらず口。

「アンタなんか。アタシがいつも決まって残すピーマンを、いつももったいないとか言って食べて始末してる貧乏性のクセに。
 買い物にしたって、呆れるくらいしつこく念入りに品定めして、納得行くものしか手に取らない石頭のクセに。
 そんな誰よりもケチくさいアンタが選んで、その手で掴んでるものなんだから。
 どうせ、この先どうなったって。無駄にはしてくれないんでしょ。」

そして、そっと。恐る恐る。
温かな手のひらを、冷たい手のひらが握り返す。
その手が掴んだものは、すり抜けないものだと伝えるために。そのための力を込めて。確かに。

「…きっと罰が当たって、先に死んじゃうのはアタシなんだから。アンタはせいぜい、覚悟してたらいいんだわ。」

「…アスカ……。」

シンジの握力が強まる。
力を上回られたことがなんだか悔しくて、負けじとアスカも握り返す。
失った時を思うと不安で、押し殺されそうな気持ちになるのは自分の方が上なのだと、そう教えるために、握力で。

「……たかが手のひら繋ぐだけで、こんなにチンタラ時間かけて。お互いみみっちい根性してるわよね。」

「……それでも、いいよ。それでも僕はこうして、嬉しいから。」

握られるだけではなく、握り返したことで、手のひらの接合から、結合へ。
どちらともなく五指を絡め合わせば、それだけで強靭な結びと変わり、意味もまた大きなものへと昇華して。

「割れ鍋に、綴じ蓋か。」

「うん…?」

「こんなアタシでも。そんなアンタでも。どうやらちゃんと、重なり合う心があるってコト。」

結び目の中心に居て、今。
冷たい湖底に沈めていた思慕はその閉じた蕾を広げ、不滅の水中花へと変わりつつあった。



















「……ねぇ、アスカさ。」

「分かってるから、口に出すんじゃないわよ。」

「二人で長生きできたら、いいね。」

「バカ。」












05: regeneration.



拙作をお読み下さった方へ、掲載の場を提供して下さっている怪作さんへ。誠に感謝いたします。

紅鮭 "benizake"benizake02@yahoo.co.jp


紅鮭さんから第5話をいただきました…これは、驚きの展開ですね。
まさかアスカがシンジ以上に料理をこなすなんて…!(笑

アスカとレイの関係も穏かに緩やかに変わっているようですし、変化が起きているんだなと感じられますね。

素敵なお話でした。ぜひ紅鮭さんに感想メールをおねがいしますー。