【あんただけにそっと。】第四話

  確無き幸は、後の不幸。


  願いは、願うだけのものとして。
  望みは、望むだけのものとして。

  叶ってほしいけど、叶ってしまうことが恐ろしい。

  故に、付かず離れず。

  金や石のように変わることのない、そんな不変の付き合いを、永遠と。


  「………。」


  ネルフでの定期健診を終えた後である、この帰りの電車内においても。
  唯一乗り合わせているシンジの傍ら、シートに腰掛けるアスカはあえて軽くスペースを置いている。

  「………、マヌケな寝顔しちゃってさ。」

  膝に乗せた鞄に頬杖を付き、穿つように送り続けられているジト目が一つ。
  その先には走行の揺れに合わせて、お馴染みのウォークマンを耳にしたまま、こくりこくりとかぶりを振るシンジの姿。
  傍目にも眠りの世界の住人であることが窺い知れる。

  「……、どうせ、アタシの夢でも見てんでしょ。」

  今は心地良さそうに弛緩させた寝顔を晒している人物と、共に歩んできたこの一年余り。
  人類救済という名目の下、あまりにも非日常的で、あまりにも濃密すぎた時間を共有してここまでやって来た。

  それらを通じて、アスカはこの男のことを熟知してしまっている。それはもうイヤというほどに。
  だから電車に揺られていると睡魔に襲われてしまう体質の持ち主だということは、とっくに知り得ているのだが。
  例によって他の乗客は誰もいないこの状況下。こうして今、二人きりの空間が設けられているのに。
  それを今日もいつも通り無下にされているのが気に食わない。

  胸中を語るなら、不満の一言。

  ――怖くて立ち往生してるクセに。
    現金な女だわ。

  ぼんやりと、空虚に染められた碧眼。
  その視線の先が、ふと対面の車窓へと移された。

  そこには目にも止まらぬ早さで流れ去る街の夜景と、大小色とりどり、ネオンの流星群。
  進行方向から現れては、瞬く間に後方へ流れ去って行く、それら。

  かつてこの激流のように、血眼で駆け抜けてきたアスカにしてみれば、今の穏やかな日々は確かに心休まるもので。
  どろりとした泥水に浸かるような。緩慢な時の流れの中に身を置いてみるのも一興。
  それはそれで、満更でもないものだった。

  「………。」

  ただ。

  だからこそ。

  この胸に密かに抱いた、なんの変哲もない、ちっぽけな願いさえ叶ってくれたなら。
  冷たく渇いたこの心さえ、温かく潤ってくれたなら。それだけで。

  ――贅沢はいらない。
    他の、何もかも。

  確無き世に求めるものは、ただ一つ。

  “永遠の蜜月”

  後にいかなる不幸も訪れない、悠久が約束された幸せの時。

  仮に“それ”さえ叶ってしまえば、アスカは笑顔を増やせる自信がある。
  彼の力を借りずとも早起きするし、掃除も快く手伝ってやれるだろう。
  料理は無理かもしれないけど、家政夫としての働きを労って、一日の終わりにマッサージくらいはしてやってもいい。
  無闇な天邪鬼もできるだけ封印に努める。
  我が侭に付き合わせる回数だって減らせるはず。
  登下校で鞄を持たせたりしないし、風呂上りにバスタオル姿でうろつく必要もない。

  他にも魅力に溢れた特典の数々。それらを用意して待つ身のアスカであるのだが。
  肝心の引換所の入り口にガードテープを張り巡らせた上で、シャッターを降ろしてしまっているこの現状。
  これでは鈍感な当選者が、その気になる以前の問題である。

  「………。」

  例えるなら、車窓の外側、視界の端に捉えた夜空の月。
  冷色を纏って頑なに留まり続けるその姿は、ひたすらに立ち止まり続ける心と似て。

  どちらとも、永遠の距離。
  付かず、離れず。






  「………、気に入らないわね。」

  ふとして、アスカは確かに、青白く輝く夜空の宝石を睨み付けていた。
  冷淡としていた碧眼に反逆の意思が宿り、しめやかな滾りを見せる。

  ――どうせ願うだけで終わるんなら。
    とことん願い倒してやる。

  おもむろに頬杖を解き、睡眠中にある想い人を起こさぬよう、距離を詰める。
  ひょっとした車両の揺れで、体の一部が触れ合ってしまうかもしれない、至近距離にまで。

  ――アンタにとっちゃ、呪いみたいなもんだろうけど。
    アタシにとっちゃ、どうやら願掛けらしいから。

  アスカは視界に大きくなったシンジの横顔を一瞬、責めるような眼差しで射抜いた後。
  眼前の頬に唇を寄せ、そして僅かに伸ばした舌先を、そっと触れさせた。

  ――アタシに選ばれたこと。
    後悔させてやる。

  なぜ、唾である必要があるのか。
  その辺の由来についてアスカは詳しく知らないが。
  いつぞや加持から聞いた話によれば、その“作法”はこれで正しいはずだった。

  「……、いい気味だわ。」

  確無き幸は、後の不幸。

  ならばせめて。

  お気に入りに唾くらいは付けておいたって、罰は当たらないはず。









  あんただけにそっと。

  第四話:確と信じて









  「あちゃ〜、やっぱ離婚したか。」

  およそ男女の破局を耳にした時、往々にして人々は同種の第一声を吐く。
  「やっぱり」「そうなると思った」「分かってた」等など。
  皆一様に我こそ先見の明があると言わんばかりの勝手無責任な占い師を気取るのだ。

  朝食の焼き魚を摘んでいるミサトも多分に漏れずその一例にあり、ニュース番組の芸能情報を扱うコーナーにて
  人気アイドルの早期離婚が報じられるやいなや、早速と得意満面を咲き誇らせている。

  「やっぱ人間同士、長い付き合いとなれば中身よね。外見なんざぁ、どうせ最後はみんな皺くちゃなんだから。」

  これまた語り尽くされた至言を我が物顔で垂れながら、かぶりを縦に振ることで自ら賛同者に転じ、我納得。
  そんな凡百の形骸反応を眼中のものとせず、冷蔵庫からヨーグルトを手に戻ってきたアスカは冷めきった顔だ。

  「まったくさっぱり理解できないわ。」

  カップの蓋をベロリと剥がし、その裏側に付着した残骸を舌でペロリと一舐め。
  お行儀が悪いとシンジが口酸っぱく注意しているその作法、未だ矯正の兆し無し。

  「どいつもこいつも、どうせ別れるクセに、なんで結婚すんのかしら。」

  要は自業自得だと鼻息荒く一蹴。
  相変わらず物事をひねくれた視点で見るアスカに対し、ミサトの鼻息はフッと笑い飛ばすものだった。

  「これだからお子様はねぇ。」

  「あん?」

  カチン。と、口に運んだスプーンが前歯に挟まれた。
  ギロリと獣じみた眼光が飛ばされるも、的とされた相手には暖簾に腕押し。

  「酸いも甘いも、そんなのぜ〜んぶハナから覚悟の上で始めるのが交際だもの。
   別れるも別れないも事前にお互い織り込み済み。その先に結婚って形があるだけなんだから、おかしいことなんて何もないわよ。」

  「むぅ…。」

  艶やかな桜唇がへの字に曲がり、その内に用意された弁舌が縮こまる。

  「だっかっらっ♪その覚悟が持てない軟弱者同士、いつまでも仲良くしましょーねっ?」

  「むむむ…。」

  「はいそれじゃっ、味方同士、宣誓の握手っ。」

  ビシッと敬礼一発。にょっきり手を差し伸べてくるのはアスカよりも遥かに腕っ節の強い自称軟弱者。
  おどけた態度ではあるものの、実際に現在進行形で男難の相が出ている張本人なだけに、不吉な現実味がその手に宿されている。

  「やーよ。自分の手でも握り合わせてたらいいのよ。」

  「あら、つれないわねー。エヴァだけがお友達じゃなかったっけ?」

  わざとらしく頬を膨らませてご機嫌斜めを演じていると、制服に着替えたシンジが部屋から出てきた。
  すかさず身をくねらせながらミサトが擦り寄って来て、些か腰が引けている。

  「ねぇねぇ、シンジ君はどうなの?」

  「なんのことですか?」

  「将来、結婚とか考えてたりする?」

  「えっ…。」

  おそらくは無意識での脊髄反応。
  その時シンジがふとアスカを見やった動きは、ごく自然な流れに乗っていて。
  幸か不幸か、食卓の彼女からは後方に位置していた為に、その視線の運びだけでは気付かれる事はなかったが。

  「そうですね、叶うなら、結婚できればいいですよね。」

  「まぁー。シンジ君は素直でいいなぁ。」

  照れくさそうに頬を掻いて答えるシンジには、ミサトもニッコリと純粋な笑顔を咲かせて頭を撫でてやる。
  意固地なアスカに見せるおとぼけ系皮肉屋上司とは、天と地ほど対応に差が表れているから分かり易い。

  「でも急にどうしたんですか?そんなこと。」

  「それがねー?アスカが結婚しないみたいなこと言うもんだから、シンジ君はどうなのかなって。」

  カチン。と、金属と前歯の接触音が再び。

  「しっ…しないなんて言ってないでしょーがっ…。」

  「そぉ?そういう風に聞こえちゃった。ごめーんネ。」

  ぺろっと舌を出してカマトト顔、そして自分の頭に拳をコツン。
  やはりここにも対応の差、モーゼが割った海の如き溝が認められる。

  「ふん…。さあ、とっとと学校行くわよ、シンジ。」

  「うん。」

  空にしたヨーグルトのカップをゴミ箱に仕舞い込み、シンジと合流。
  手をひらひらさせて見送るミサトに挨拶を交わした後、今日も玄関は二人揃って跨がれた。







  「アンタ、また後ろに寝癖残してるわよ。」

  「あれっ、本当?」

  周囲にちらほらと登校中の同校生徒が散見される中、アスカによるシンジへの施しは一瞬だ。
  ひょいと眉を持ち上げたシンジが後頭部に手をやるより早く、櫛を持ち出した白磁の腕が紫電一閃。
  ピタリと元の角度に居直った頭髪を確認した碧眼の侍は、軽く鼻であしらって刀を納めた。

  「ったく。こんなズボラが結婚願望を語るんだから、とんだお笑い草よね。」

  「アスカこそ、少しくらい料理が出来なきゃお嫁に行けないよ?」

  「お嫁なんか行かなくたって死ぬワケじゃないんだし、それでも充分楽しく生きてやろうじゃない。」

  「ん〜…、どうせなら家族を作って楽しく暮らしたいなって、僕はそう思うけどなぁ。」

  希望的観測を語るシンジは、麗らかに目を輝かせて軽く青空を見やっている。
  いつかそんな時が訪れますようにと、天に祈りを捧げているような、そんな健康的な横顔。
  惜しむらくは、それを見つめるアスカの眼差しがジットリと陰湿かつ、うさんくさいと顔に大きく書いてある点だ。

  「どーせダメなアンタに愛想尽かして、奥さんだってその内出て行くに決まってるわ。
   仮に子宝に恵まれたって、いつかきっと一家離散の危機が待ち受けていて、破滅の人生を歩くのよ。」

  「そ、そんな酷いこと言わないでよ。」

  「無いとは限らないでしょ。意気地なしのクセに、その覚悟はあるのかしらね。」

  そう言って覚悟を試してくるのは、永遠が約束されない未来に尻込みしている張本人。
  他人の描く明るく健全な未来を無闇に砕きたがるのは、自らの土俵に引き込みたいが故か。
  それにシンジも独り身を決めてくれた方が、この先アスカが付き纏う上で幾分か心が軽くなるのは間違いない。

  「でも…、どうせなら、気持ちいい方を考えたいじゃないか。」

  「だーかーら。気持ちいい方選んで、その先に落とし穴があったらどうするかって訊いてんの。」

  「それは…、なんとかよじ登って、それからまた頑張れば…。」

  「さらにその先で、絶対に超えられない、再起不能の壁に突き当たったら?」

  「…むむ……。」

  こんな全否定のもしもを食らっては、シンジならずとも返す言葉を失ってしまう。
  対してアスカが勝ち鬨となる笑みを差し向けているが、これは誰にも褒められない退行的勝利に他ならない。

  「どうしてそんな悪い方ばっかりで考えるのさ。」

  「事を起こす前に、その後のリスクを先立たせて考慮するのが生きる上での定石でしょうが。」

  「だからって、いくらなんでも大事に捉えすぎだと思うけど。」

  「アンタねぇ。絶対に失くしたくない人と結ばれる決断をするんだから、そりゃ一大事でしょうに。」

  「???」

  文字通りクエスチョンマークを頭上に飛び交わせているシンジは実に訝しげだ。
  その後頭部に先ほど鎮めた寝癖がむくむくと持ち上がり始めるが、すぐさま櫛が抜刀され、紫電一閃。
  誰の目にも止まらない光速の一太刀を持ってしても、そこに浮かぶクエスチョンマークは払い落とせない。

  「なんか、アスカはおかしなこと言ってるよね。」

  「何よ。そりゃあちょっとは否定的かもしんないけど、正論じゃない。」

  「だって、絶対に失くしたくないくらい大切な人だったら、どうしてその人を信じてあげられないのさ。」

  「むっ…。」

  それまで勝ち誇っていたアスカの顔も、片眉が跳ね上がったことでその均衡が崩された。
  打って変わって思案に耽った面持ちとなり、歩みを止めようとしない彼女の身をシンジが慌てて引き止める。
  危うく赤信号を渡らせる所であった。

  「ちょ、ちょっと、気をつけてよアスカっ…。」

  「………。」

  いくら温和なシンジとて、ここは厳しく詰め寄るも、口をへの字に曲げたアスカはじっと見つめ返してくるだけ。
  しばし停滞した時が訪れ。やがて信号に青色が灯り、どちらともなく歩み出す。

  「……、半信半疑。」

  「…?」

  何を指している言葉か分からなければ、当然とそれを訊く顔で振り向く。
  と、見慣れた碧眼は湖面の如き平静さを伴って、その歩む路面と平行線、遥か遠くを見定めていた。

  「きっかり半分ずつなら、今のアタシは疑を選ぶ。」

  「………。」

  「その方が、痛手を負わずに済むもの。」

  先刻引き止められた際に握られていた手のひらを、そこでふと解く。

  「……、そうかもしれないけど。それでアスカは、満足できるの?」

  答えは明白。解いた手のひらに意識を傾ければ、それだけで自ずと証明されている。
  うっすらと温もりの引いていく、この確かな喪失感と言ったら、危うく居ても立ってもいられなくなりそうで。

  「…満足、できるわけないじゃない。」

  「それなら――」

  言い返し掛けた所で、通学路における最後の信号が目前に迫ってきた。
  見るとちょうど青から変わって、黄信号。
  点滅の時間を合わせてもこの距離ならば、青信号も同然。
  迷いなく小走りに切り替えたシンジは悠々と渡り切った。

  「よかった。あそこの信号、長いから。」

  同伴の者も同じ判断を下していたはず。そう思ったからこそ、口にした言葉。

  「………。」

  だから、左右を確認した後、背後に振り返った視線の先。
  横断歩道を挟んで佇んでいるアスカを見た時、シンジは困惑を隠せないでいた。

  赤信号が灯った歩道の上を、当たれば命を奪いかねない鉄の塊が行き交う中。
  それらを挟んだ安全地帯で、二人の瞳は外される事なく、交錯し続けて。

  「さあ、安全な道を行くわよ。」

  やがて信号が一巡し、確かな青。
  それをきっちり確認した後で追いついて来たアスカの提言に、逆らう権利も必要性も持ち合わせていないシンジは、
  ただ腑に落ちない顔を作りながら、その歩みを同調させていた。




  …




  授業中ともなると、既に勉学を修めた身であるアスカは、いかに持て余した時間を有用に消費するかが最大の課題となる。
  まずはマジメに授業に取り組む姿勢を見せてみるものの、その後に辿る道は決まって形骸化した一本道。

  人の集中力は三分間がピークだと言われているように、その辺りから徐々に姿勢が曲がり、やがて頬杖を付き。
  いくつか欠伸を漏らしながら、退屈そうに足をぶらぶらさせた後、耐え切れなくなってシンジの背中を眺め始めるのだ。

  そして最後の戯れとしてシンジの端末にメールを飛ばす事になるのだが、内容はどれも他愛のない駄文雑文に溢れ返っており、
  時に理不尽な叱咤罵倒も含まれ、真っ当に勉学に励んでいる彼としては厄介極まるスパムメールに等しい。
  しかし無視しようものなら頻度が増すから困ったものだし、教師から難問を当てられた時、希に助け舟が出されるから何とも扱いづらい。

  「……ん。」

  この日の四時限目となる授業も十分ほど経過した頃、シンジの端末の画面端に便箋のマークが点滅した。
  タイミングからして中身を見るまでもなくアスカだと分かるが、メールのチェックに入って確認する。

  【 シュレーディンガーの猫。箱を開けられた猫は死んでいる? 】

  内容は、かの有名な量子力学論。シンジもテレビや雑誌などの雑学特集で知り得ている一説だ。
  こうした突飛な切り出しは今に始まった事でもないので、シンジにはそれがいつもの雑談メールの類に映る。
  板書をする片手間で返信を繰り返す内、結構な腕前となっていたタイピング技術で手早く処理する事にした。

  【 死んでたら可哀想だから、生きてるよ 】

  カタンとエンターキーを押して送信。
  例の如く電光石火で返信が届いた。

  【 感情論で決め付けんな、アホ 】

  ムッとシンジの唇が尖り立つ。
  二つの結末が重複しているなら気分の良い方を取ったまでなのに。
  と、間を置かずして連続の返信が届いた。

  【 答えは誰にも分からない。それなら、箱の中にいる内は、その猫は何者? 】

  こうしている内に板書の遅延が気になる所ではあるが、今回は一考を交える余地があるようだ。
  生きているか死んでいるか分からない存在があったとして、それは一体何かとシンジは考える。

  「むむむ……。」

  曖昧なものを明確にしろと言うのだから無茶な要求であって、語義矛盾も甚だしいのだが。
  ともかくとして猫関連のことで記憶を洗って行く内、やがて先日の買い物での出来事に思い当たった。

  それはいつものスーパーへの買出しに向かう途中、ふとしてアスカが回り道を提案してきた日のこと。
  特に急ぎの用でもないし、テナントの入れ替わりを確認してみたかったシンジは異議もなく、二つ返事で飲み込んだ。
  すると予想が的中。元はコインランドリーだった小さなテナントが、今風の流行を取り入れた華やかな小物屋に変貌を遂げていたのだ。
  早速とアスカに頼み込んで入店し、胸をときめかせて物色する中、一際目に付いたのは、今にも動き出しそうなほどリアルな猫の置物。
  もし値札が付いていなかったら、実際に手にするまでその真偽は晴れなかっただろう――。

  と、手頃な例証を見つけたシンジは早速と端末を叩きだしていた。

  【 たぶん、猫の置物 】

  送信。

  「……?」

  即時返信が売りの相手にして、今回はやたらと時間が設けられている。
  機を見るに敏として板書を再開していると、その内しばらくして返信が届いた。

  【 箱の中身が、人間だったら? 】

  今度の設問は逡巡を挟む必要もない。
  猫が人に変えられただけ。答えも単純な応用を利かせ、言い回しを変えるだけで事足りる。

  【 人形かな 】

  送信。

  「………。」

  またしても返信に遅れが生じているようだが、シンジはやはり板書を急ぐのみ。
  そして次なる返信が来たのは優に20分が経過し、メールでの話題を忘れそうになりかけていた頃だった。

  【 もしその箱の中に、アタシが入ってたら? 】

  「………、はぁ?」

  これにはさすがのシンジも眉目を怪訝に捻じ曲げていた。
  中身は前回と同じ人間ではあるが、それが近く親しい人物とあっては、ここで同じく人形と答えてしまっては無礼極まりない。
  シンジは答弁を取り下げて、シンプルな所感をぶつけるだけだ。

  【 なんでそんなとこにアスカがいるのさ 】

  ここで電光石火の返信が蘇った。

  【 いるからしょーがない 】

  首を傾げて返信。

  【 そしたら箱を取って、こんにちはって 】

  過去最速の返信が飛んできた。

  【 死ぬかもしんないでしょーが!!アホか!! 】

  ガチャガチャとけたたましいタッチ音が撒き散らされたことも相俟って、その怒りの度合いは容易に推し量れるというもの。
  文字を読んだだけで耳をつんざく怒号を覚えたシンジがおっかなびっくり背を丸めていると、送信元の異なる四通が同時に届けられた。

  【 性懲りも無く、電子空間でも夫婦喧嘩かいな、おめでとさん 】
  【 ただでさえ売り上げが下り坂なのに、露骨なのは勘弁してくれよ 】
  【 アスカを泣かせたら承知しないからね 】
  【 心の壁を視て 】

  最後のメールはシンジの及び知るところではないが、いずれにせよ彼が優先すべき返信先は一つである。

  【 そんなとこにいるなんて、きっとアスカの勘違いだよ 】

  すると数秒を置いて、反論が返された。

  【 根拠は? 】

  目には目を。反には反を返すまで。

  【 それは別に無いけど。無い根拠だって無いじゃないか 】

  決着のつかない水掛け論の様相。
  そこで機を図ったように鐘の音が鳴り響き、四時限目の授業は久々にシンジの返信を最後に幕を閉じた。

  が、議論はまだ未着陸。ここで易々と閉幕が許される可能性は極めて低い。
  相手が何事も白黒ハッキリつけないと気が済まない性格であることはシンジも重々承知の上。
  右後方4時より、今度はその頑なな弁舌を持って延長戦を挑みにやってくる見通しは濃厚であり、
  それまでの数秒間のハーフタイムの内に板書を完成させなければ――と、傍らに人の気配を感じたと同時、端末の画面が叩き伏せられた。

  まさに最後のエンターキーが押され、即座に両手を引っ込めた瞬間。間一髪の逃げ切りであった。

  「アンタに殺されるなんて、まっぴらよ。」

  見上げるとそこにはやはり、仁王立ちの箱入り娘が厳として見下ろしてきている。

  「こ、殺すだなんて…、何をそんな、物騒な…。」

  「箱を開けられたらきっと、そーなるからよ。」

  「……、そんなこと言われたって…、うーん…、よく分からないな…。」

  なぜこのような決着の見えない問答に、これほどまでの執念を見せるのか。
  意図が掴めないシンジは頭をグシグシと掻き毟りながらも、昼休みに突入した事で鞄から弁当箱を取り出した。

  「とりあえずさ、お昼にしようよ。」

  「…臨むところだわ。」

  手入れの行き届いた自慢の頭髪を翻し、自分の席から椅子を抱えたアスカが戻ってきた。
  どう見ても昼食を同席しながらとことんやり合う姿勢であり、それを見せ付けられたシンジは思わず天を仰いだ。

  「ねえ、私もお昼一緒していい?」

  シンジの席にガツンと椅子を隣接させたアスカの傍ら、いつの間にかヒカリがやって来ていた。
  心配そうな面持ちを隠せていない辺り、先ほどの授業中での一悶着を気にしているらしいのだが、
  ヒカリの作る手の込んだ弁当は見るのが楽しみだとして歓迎を表するシンジを他所に、当のアスカは困惑色を浮かべていた。

  良かれと思っての申し出だとは分かるのだが、そっと耳打ちで「碇君が傷付けるようなこと言ったら私が助けるから」等と
  思っても無い助太刀宣言を授かってしまっては、どうにも彼女が勘違いをしているように思えてならない。

  「それで一体、今回はどんな揉め事?」

  気後れしているアスカを無言の了承と受け取ったヒカリが、早速と弁当を並べながら切り出してきた。
  流石はクラスの調律を司る万能ヘルパーとして頼られる存在。毅然とした気風で解決に意欲を見せている。

  「いや、それが…、シュレッダーの猫?だっけ?」

  しかし何事も始まりが肝心だと言うのに、あえなく不発弾を生み出す不器用なスターターが一人。
  開幕にして脳天唐竹割が炸裂する不穏な駆け出しとなり、面食らったヒカリは早くも鼻白んでいる。

  「んな箱に入れられたら、開けるまでもなくお陀仏でしょうがっ。」

  「ちょ、ちょっとアスカったら…、大丈夫…?碇君…。」

  「なによ。ヒカリも協力するんじゃなかったの?」

  「で、でも、さすがに暴力は駄目よ…。」

  持ち掛けたのはあくまでも話し合いでの弁護であって、武力行使の協同要請は管轄外である。
  親友を泣かせまいと息巻いて席に割って入ったは良かったが、実際にこうして涙目でいるのはシンジなのだから、
  ヒカリはのっけから雲行きの怪しい展開を覚悟せざるを得ない。

  とりあえずクラス委員長たる責務を果たすべく、機転を利かせてここは仲介役に立場を改めることで一連の成り行きを窺ってみた所、
  曰く「生か死か分からない箱の中身は確かめるべきか否か」との、難解な題目で揉めていたことがヒカリにも及び知る運びとなった。
  てっきりシンジのデリカシー不足を起点にした痴話喧嘩と思い込んでいたのだから、真相を聞いて肩透かしを食らった様子だ。

  「う、うーん…、私はアスカみたいに頭がいいわけじゃないけど…、ずいぶん難しいこと考えるんだね…。
   答えがないものを問題に出されちゃったら、私でも答えられないよ。」

  「ほら、委員長だってこう言ってるよ。」

  「むむ…。」

  当初は味方で参戦してきたはずのヒカリも、事が知れたらすっかり相手側に陣取っているからアスカは不服も不服だ。
  賛同者を得たシンジがここぞとばかりに語気を強めているのも鼻に付くが、2対1ではなかなか分が悪い。

  「それに、そもそも碇君になんでそんなこと訊くかも分からないし…。」

  「むぐ…。」

  「どっち付かずの問題なら、どちらか納得する方を、アスカが好きに選んだらいいんじゃないかな…。」

  「うぐぐ…。」

  至極真っ当、そしてごもっともな御意見につき、アスカはぐうの音も出ない。
  傍聴人であるシンジも合間に相槌を入れることで、味方の説得力向上に努めている。

  「ア…アタシはただ、日がな能天気に平和ボケしてるコイツのフンドシを締めてやる為に、
   開けたらいつ不幸が訪れてもおかしくない、無常の箱の中で暮らしているんだってコトを、教えてやったまでよ。」

  戦況不利と見たのか、一旦煙に巻いて議論を打ち切りたい気配が見え隠れしている。
  しかし即席で作り上げた盾を持ち出した所で、その強度はたかが知れたもの。

  「駄目よそんな言い方。それならちゃんと幸せがあることも言わないと、ただの脅かしになっちゃうじゃない。」

  偏ったものは、かくもあっけなく崩れ去る。
  その事を家族を支える上で最も肝に銘じるべき訓示とするヒカリに公平性を欠いた議論は通じない。
  家族の素行を叱り付けるが如く、アスカに対してもぴしゃりとお灸を据えるのだ。

  「なんか私、分かってきちゃった。結局アスカは、碇君を通じて自分を納得させたいんだね。」

  「んなっ…!」

  クラスを、そして一家を纏め上げる司令塔。
  その熟練の洞察力がここに光った。

  「欲しい物が手に入らないからって、その不満を碇君にぶつけて駄々こねて。
   どうりでノゾミがコダマお姉ちゃんにおねだりする時の顔に似てると思った。」

  「んな、な、な…。」

  なにしろ勉学と家事をこなす一方で、クラスメイトや家族仲のトラブルをザラにこなしている多動な身の上。
  大小姿形様々、過去問題解決してきた引き出しの多さは、同年代では群を抜く実績の持ち主。
  十五にして百戦錬磨の母親然としてアスカに立ちはだかる様は、傍観するシンジの目に神仏めいた後光を映し出していた。

  「いい?アスカ。とりあえず箱の中に幸せと不幸があって、それはこのお弁当箱みたいなものだと思って。」

  ここにきて俄然お節介魂を燃やしたヒカリがちょいと指差したのは、この場に置いて未開封の弁当箱。
  そこにある関連性を見出せず、目をぱちくりとさせているシュレーディンガーの少女に向かって、
  まるで絵本を読み聞かせるように、ゆっくりと、そして懇切丁寧に諭し始めた。

  「例えば、ある日。お腹がペコペコでたまらない二人のアスカが学校にいました。
   待ちに待ってお昼休みがやってきて、碇君がそれぞれお弁当を持って来てくれました。
   すぐにでも食べたい気持ちは山々だけど、ひょっとしたら苦手なピーマンが入っているかもしれません。
   だけど、それでもお弁当箱を開けて食べないと、お腹は満たせません。さあ、アスカたちは考えます。」

  「むむむ…。」

  唸り声を深めるノゾミアスカ。
  毒ガスが噴出されるかもしれない密閉空間、そこで迎えるのは生か死かという極限の次元から、
  ずいぶんと幼稚な領域に引き落とされた感も否めないが、根本的な論点は共通に思えるから口を挟めない。

  「一人のアスカは、苦手なピーマンを頑なに嫌がるあまり、お腹を空かせて倒れちゃいました。まぁ大変。
   もう一人のアスカは、空腹に耐えかねて、我慢して食べてみることにしました。
   やっぱりピーマンが入っていて苦かったけれど、他の大好物も食べることが出来て大満足。よかったね。我慢したご褒美だね。」

  「むー…。」

  「苦いも甘いも含めて、楽しみなお弁当。そういうことにしましょうよ。ね?」

  そうしてヒカリが辿った結論は、今朝も耳にしたミサトと同じ着地点。
  一時的とは言え、へそ曲がりのアスカを封じた奇跡を目撃したシンジは、すっかり心服した様子で感極まっている。

  「やっぱり、委員長は頼りになるなぁ…。僕も見習わないと。」

  「碇君だって他の男子に比べたら、すごくしっかりしてると思うわよ。それよりほら。お弁当頂きましょ?」

  パカパカと二つの弁当箱が事もなく開封される中、しかしやはりと言うべきか。頑として動きを見せないでいるのはアスカ。
  この期に及んで唇を逆ブリッジに折り曲げ、頑固一徹、未だ納得の兆しを見せていない。

  「僕が開けてあげるよ。」

  見かねて横から伸びてきた腕にピクッと背筋を反応させるも、抵抗せずそれを見届ける。
  かくしてシュレーディンガーの弁当箱が開かれ、その中身を確認したヒカリがニコリと母性的な笑顔を咲かせていた。

  「アスカ、良かったじゃない。苦手なのが無くてっ。」

  いつも昼を共にする身ともあれば、相方が好物とする献立で埋められていることが窺い知れて然り。
  声を弾ませるヒカリ前にして、しかし如何ともし難いことに、この彷徨える相方はどこまでも頑迷固陋であった。
  弁当を引き合いに出されたことで、むしろ食べづらそうにして拗ねている。

  「明日はどうだか分からないわよ。納得できない。」

  「もう…、アスカったら…。」

  果たしてかつての誇り高い上昇至上主義は一体どこへ消えてしまったのか。
  それもこれもやはり、“永遠の確証”が得られないでいる所以なのだが、
  少なくとも明日はどうか分からないという認識だけは、この無常の世に正しく反映されることになる。




  その明くる日。

  地上の人々の暮らしとは一線を画す、第三新東京市のもう一つの活動拠点。ジオフロント。

  その一角にある西瓜畑にて。“明日は分からない”とボヤいたアスカの予言は見事現実のものになっていた。
  それも弁当の良し悪し等ではなく、真の意味で“苦手な”、それも大苦手な者と場を共にする事態と相成ったのだ。

  「ホンット…、ツイてない。」

  土にまみれた手で額の汗を拭うアスカは、たまらず天を仰いで訴える。
  よくもこれほど不運の星の下に産み落としてくれたものだと、秀麗な眉目を汗泥に汚して後悔を滲ませている所以は、
  遡ることおよそ一時間ほど前の事。

  一昨日行われた健診の報告、そして更新されたIDカードを受け取るため、再びシンジとネルフ本部に来たまでは何事もなかったのだが。
  優先業務に追われるリツコの拘束が解かれるまでの時間潰しとして、加持のオフィスを訪ねたのが過ちであった。

  『暇なら二人とも、俺の畑仕事を頼まれてくれないか。』

  そう言われて頼まれた仕事というのが、加持が趣味の栽培として手掛けている西瓜畑の収穫作業。
  日頃の鬱憤を聞いて欲しかったアスカには野暮も極まる頼まれ事であったが、シンジが即答で承諾した傍ら断るわけにもいかず、
  やむなく億劫にしながらも、西瓜の収穫、及び倉庫への運搬作業に勤しむハメとなっていた。

  しかし、ここまでならまだしも。
  結果としてアスカの後悔はさらなる飛躍を遂げることになる。

  「……ぬぅぅ。」

  もはや何度目になるか分からぬ、恨みがましき一瞥。
  その宛て先となっているのは、この場に居合わせている元零号機パイロット、レイ。
  畑に向かったシンジとアスカに先立ち、同じく加持によって駆り出されていた存在なのだが、
  アスカの内で膨れ上がった後悔の9割方がこの現状に集約されていることは言うまでもない。

  他にも、汗水流して泥まみれになっている自分とは違って、どういうわけか汗ひとつかかず新品でいるところだとか、
  ちらちらとシンジを気にしているらしい素振りだとか、とにかくこの赤毛少女に不満を挙げさせたらキリがない現状に在る。
  それもこれも一方的な敵意の所以だが、そのような意識を持たぬレイの身に立てば単なるとばっちりだから災難である。

  「……アスカ、あんまり睨んじゃ駄目だって…。」

  この場で唯一の男であるシンジが、露骨にレイを睨みつけて作業を進めているアスカに苦言を漏らす。

  「うっさいわね。アンタはどうあれ、アタシは気に入んないのよ。あの女。」

  「もうエヴァは関係ないのに、どうして仲良く出来ないかなぁ…。」

  当事者以外にはギスギスと重苦しい空気が展開される中、しかし収穫の手が休められることはない。
  各々の心中に大差はあれど、さっさと終えるに越したことがないのは共通項であるからだ。
  時折、収穫鎌の反射光を目暗ましに利用したアスカの嫌がらせがレイに入ること以外、進捗自体は順調に果たされている。

  ――ファーストはあれを運んで13個目。
    アタシはこれを刈り取って16個目。
    大丈夫。
    このペースでいけば、勝てる。

  何の得にも成り得ない、相変わらずの一人相撲。
  栄誉なき勝利を目指してアスカが意気込みを見せていると、ふとその視界を影が覆った。

  「アスカ、ちょっといい?」

  何事かと見上げてみると、歩み寄って来たシンジがハンカチを手に、それを顔に近づけてくる。

  「な、なによっ…。」

  磁力反発を受けたように素早く身を退けるアスカ。
  物騒にも収穫鎌の刃を差し向けて身構えているが、相手の布きれ一枚がどうして凶器に見えようか。
  対決姿勢を取られたシンジは咄嗟に両手を上げてしまっている。

  「そ、そんな驚かないでよ。」

  「用件を先に言いなさいよ。」

  「用も何も、顔が汚れてるから拭いてあげようと思っただけだよ…。」

  「……ぬ…。」

  思わぬ厚意に際して生まれた、数瞬の膠着。

  確かにアスカの所持しているハンカチはすでに汗泥にまみれて使用限界を超えたものだし、
  それ以降は汚れた手で拭っていたものだから、当然と顔は酷い有様になっている。
  きっとそれを見かねての助け舟。
  しかしそこへ素直に乗じることが出来たなら、彼女自身、これほど難儀な性格に困っちゃいない。

  「……染み込ませた薬品で気絶させて、その間にイタズラしようったって、そうは問屋が卸さないわよ。」

  「………。」

  メビウスの輪の如くひねくり返った性根が今日も冴える。
  この厄介な少女と一年以上、もうすぐ二年近くなるほど住まいを共にし、世話係としてあくせく日々を送る少年のなんと我慢強いことか。
  超の付くドケチで知られる鈴原トウジから「忍耐地蔵」と称され、その供え物として焼きそばパンを驕られた逸話が良い証左。
  頬に痛烈な紅葉を咲かせながらも笑顔で登校した一昨日、同情を誘った相田ケンスケから鉄十字勲章を授与された経歴も記憶に新しい。

  「あのさ…、僕が今更、そんなことすると思ってるの…?」

  何の逡巡も見せることなく、あっさりと紅茶色のかぶりがコクリと縦に振られる。
  普通にそう思っているのか、或いはそうであって欲しいのかは、いざ知れず。

  「なんたって未遂の前科があるんだから。アレを忘れたとは言わせないわよ。」

  アレと暗に責めれらているのは、かつてのユニゾン訓練中に唇を迫られた一件。
  同じ寝込みを利用した、一昨日の電車内での“願掛け”は都合よく棚上げされているらしい。

  「もう、それ何回言うのさ。ずいぶん前の話なのに、根に持つなぁ。」

  「とにかく、ハンカチは要らない。余計なお世話よ。」

  「受け取るだけでも?」

  「お生憎さま。借りは作らない主義なの。」

  ふふんと胸を張って見せてその実、身の回りの世話を任せきりにしている者が口に出来た主義ではない。

  「頑固なんだからなぁ…。」

  「それはお互いさま。」

  シンジの嘆息を無視して、アスカはそこで見切りをつけると、クルリと踵を返した。
  するといつの間に忍び寄っていたのか、目の前にレイが佇んでいる。

  「…?」

  じぃっと、冷淡ながらもいたいけな瞳で見つめられるが、謂れも無いアスカにその意図は計り知れない。
  シンジに引き続きこちらも無視を決め込んで収穫を再開するも、レイがその場を立ち去る気配は無く。

  「なによ、いつまでもカカシみたく突っ立って。ジオフロントにカラスは来ないわよ。」

  「………。」

  例え饒舌を武器に挑んでくる相手を前にしても、レイが凛としたその姿勢を崩す事はない。
  常として他人から寄越された言葉はその内容に関わらず、すべて平等の目の篩に掛けられる。
  そこに何も残らなければ破棄、必要性の粒が認められたのなら、それに対して最低限の舌を持って返すのみ。
  パイロットとして、そして一人の戦士として戦場を駆る中、一弾として目標を外さなかった命中精度に証される通り、
  的確で核心を突くその物言いは、天然性の寸鉄殺人。

  「一本足。」

  一言で、十二分。
  二言ならば、更に。

  「私より、あなたの方がカカシに見える。」

  そこで肝を冷やしたシンジが思わず間に割って入ろうと試みたが、一足遅れを取った。
  せめて怒りを顕わに詰め寄っているアスカを引き止めようとするも、仲介は無用だと言わんばかりに押し返される。

  「…優等生のクセして。喧嘩売ってくれるなんていい度胸じゃない。」

  用途は違えど切れ味は同じ、そんな刃物を手に凄んでくる人間にも対しても、やはりレイは平等で。
  例によって静かな佇まいを持って、あくまでもハンカチを差し出すだけだ。

  「人間なら、二本足で前に進める。以前のあなたは、そうだった。」

  「〜〜〜…っ。」

  「でも今は、カカシ。」

  よもや人形と称してきた人物からカカシ呼ばわりされようとは。
  しかし歯を食い縛って面前での脅しを強めようとも、内心で気圧されているのはアスカである。
  この遠慮なしに心の中心を抉ってくる不快感ときたら、かの忌々しき光翼型使徒の光線攻撃が思い重なって仕方がない。

  「限界を超えてしまわないように、気をつけて。」

  「…ぬぅぅ。」

  「押し殺すあまり、心を壊してしまっては、本当に人ではなくなってしまうわ。」

  この人物は本当に他人の心が視えるのか。
  具合の悪さに耐え切れなくなったアスカは、ついに胸倉を掴んで挑み掛かった。

  「アタシだってっ…、何も好き好んでやってるワケじゃっ…。」

  立ち去る気配がない上に、放っておいたら余計な説教を垂れる、実に厄介なお人好し地蔵。
  皮肉にも胸倉を掴み上げた事で上体が反らされ、向けられる紅玉の角度は、大上段から見下ろされているかのよう。
  表情の無い面持ちは、反面、ありとあらゆる表情が当て嵌まり。嘲笑、冷笑、哀れみ、慈しみ。
  探りを入れれば入れるほど、それだけアスカは自らが瀬戸際に追い込まれて行く実感に苛まれ。

  陽が落ち、闇が勢力を増すと共に、満ちる潮に足場を奪われるように。
  じわりじわりと募る難攻不落の暗鬱を取り払ったのは、第三者による意外な横槍であった。

  「…綾波、カカシだなんて、そんなこと言ったら失礼だよ。」

  思い切り掴み上げていた握り拳に、そっと温かい手のひらが被される。
  それだけで、拳は元の手のひらに戻されて。

  「アスカは人間なんだから。」

  肩を抱かれて、場を制するように身を退けられる。

  ライバルのブラウスが乱れたままだが、放っておいて良いのだろうか。
  与えられる動力に身を任せる中、ふとしてアスカはそんな懸念を浮かばせていた。

  「アスカ。綾波も、悪気があって言ってるわけじゃないんだよ。
   僕と同じで口下手っていうか…、あれでいて結構、お節介焼きだったりで…。」

  「………。」

  「えっと…、それより、ほら。早く収穫終わらせようよ。」

  無理して作っていると分かる笑顔を浮かべながら、シンジは収穫鎌を手にして西瓜を刈り取った。
  口よりも体を動かす事。それこそが、この場の沈静化への一番の手段であると判断したのだろう。
  レイも粛々として持ち場に戻って行ったようだが、アスカとしてはそんな事はもうどうでもいい。

  心を停止させている自分を人間だと言ってくれた人物を、ただひたすらに、懐疑に満ちた眼差しで見下ろすばかり。

  「…ねぇ。」

  「うん?」

  西瓜を抱えて立ち上がった所を狙い、クイと袖を引っ張って引き止める。

  「…箱の中に人間が居て、それはきっと人形だって、アンタはそう答えたわよね。」

  そう言って、あくまでも眉目は居丈高な角度に。
  しかしどこか愁眉を漂わせながら、そして僅かに縋るような声色で。

  「ん…、昨日のメールの?」

  「そう。それで、その箱の中にアタシは居ないって、そう答えたわよね。」

  「うん。」

  あの“箱”論争は、ヒカリの素晴らしき弁当箱論を持って決着したもの。
  そう思っていたシンジは今更顔で振り返っている。

  「…その根拠を、まだ聞いてない。教えて。」

  「根拠って言ったって…。」

  ほぼ敬遠と言えるほど迂遠なボールに対しても。
  シンジは伸ばしたバットを振りかぶり、それが芯に当たるものだと信じて返すのみ。

  「僕がそう信じてるからって、それだけじゃ駄目?」

  「………。」

  「開けたらアスカが不幸になる箱なんて、そんなの嫌だよ。」

  そこでふと引き止めていた手が離され、それを機にシンジは倉庫へ向かって歩き始めた。
  程なくしてその背後から、西瓜を両脇に抱えたアスカがどかどかと足音荒く追いついて来る。

  「…言っとくケド。」

  「?」

  「重いわよ。」

  短い警告が発せられた直後、それまで順調な足取りだったシンジの膝が、がくんと大きく折れ曲がった。
  アスカが無理矢理に西瓜を押し付けて来たのだから、当然の身体反応。
  ただでさえ大玉に育った、加持が自慢とする代物だけに、いきなりの三倍増では厳しい総重量となる。

  「ちょ、ちょっと…!何さ、いきなり…!」

  「まだまだっ…。」

  一気に苦戦を強いられたシンジを尻目に、アスカが小走りに畑へ飛んで行く。
  続行を告げ残したのだから、再び戻って来たその両脇にはやはり西瓜が抱えられていて、

  ずしん

  と、更に二つ追加で押し付けられたシンジの膝が、更なる深度を見せた。

  「こんなモンで済むと思ったら、大間違いなんだからね。」

  「なっ何がッ…どういうことだよっ…!?」

  突如として混迷の海に突き落とされたシンジは、その身に掛かる負荷も相俟って必死の形相である。
  そして何としても落として粗末にはすまいと辛抱している、その姿。
  日頃から食事時、食物に宿る有難味や神性を説いている者なりの踏ん張りではあるのだが。
  いずれにせよここが彼の持てる力の限界であり、更なる一撃は必然としてトドメとなる。

  「半信半疑。確かめさせてもらうわよ。」

  「っ!?」

  限界なのだから。

  それを超えた先には、当然として不可抗力の結末が待っている。

  誰だってこれ以上は無理だと思った所で、背後から飛びつかれたらたまったものではないし、抗えない。

  だから、シンジは崩れ落ちてしまって、その身で収穫物を押し潰してしまっても、それで責められるべき立場には居ないのだ。

  だって、精一杯の死力を尽くしたのだから。

  畑の地に顔面から突っ伏してしまっても、それは誇るべき栄誉の末路である。











  …











  「だいぶ時間を潰されちまったな。」

  長丁場の仕事終わりに新婚の同僚に捕まっていた加持は、ようやく会議室を抜け出すことに成功した。
  やれ嫁がどうだの、やれ赤子がどうだのとのたまっていたが、早くも大半を忘れてしまっている。
  凡百で無難な道を選んできた男のノロケ話に興味を持てという方が難しいのだ。
  それよりも今は日課である気晴らしのガールハント、それこそが先決とされていた。

  「今期の新人は別嬪揃いと聞いたが、はてさて。」

  格調高いネルフに努める職員は、男女問わず高水準でその規律が保たれている。
  どこぞの風紀の乱れきった社員の蔓延によるせいで、清掃員が月に山ほど見つける避妊具の始末に苦心するような職場ではない。
  それこそ唯一風紀を落とし得る者といえば、それはこの男くらいのもの。

  まさしくここは加持好みの精練されたガードの固い、聡明な女性が自然と集められてくる桃源郷。
  彼が西瓜を趣味に栽培している主な理由にも、その分厚く重い外郭に覆われた内にある甘味という点に、
  男のロマンを感じて止まないでいることに他ならない。

  かくしてこの日も飽き足らず、お固い美女を捜し求める加持は足繁く通っているスポットを目指す。
  普段はだらしなく緩められたネクタイもこの時ばかりはキッチリ締め直し、お目当ての釣堀となる休憩所へ。
  悠々として向かう途中、すれ違う女性陣たちはいずれも清楚な黒髪で溢れて―――、と、その中でも一際目立つ異色の頭髪が目についた。

  「うおっ。」

  甘美な西瓜たちが行き交う通路の中、ふとして捉えた、鋼の外殻で身を包んだ超重量の西瓜。
  思わず驚嘆を発してしまったのはその少女を見つけたからではなく、その隣に並列して歩いて来る少年の身なりだ。
  なんとも頭のてっぺんから、足の爪先まで。加持が自ら栽培した西瓜の物と分かる残骸と、その畑の土くれの混合物に汚染されている。

  「あ、加持さん。」

  それでもその少年シンジは加持の存在に気付くなり、ぱっと顔を咲かせて会釈を垂れ。
  語られずとも、その身に降りかかった惨状の原因が隣接している少女アスカによるものだと窺い知れるだけに、
  加持は目頭が熱くなる思いをグッと堪えて一つ頷いた。

  「シンジ君。君のノロケ話なら、いつだって喜んで聞いてやるからなっ…。」

  「え?」

  「本当に感謝しているよ。」

  開口一番、激励を受けて熱く交わされた握手。
  心当たりの無いシンジは狐につままれながらも、二度目として頭を下げた。

  「あの、すみません。見ての通り、手違いで西瓜を粗末にしてしまって…。」

  「いや、何の事は無い。どうせコイツの仕業だろう。」

  呆れ顔でコイツとされたアスカは当然とむくれ顔である。
  昨日と言い今日と言い、どうにも責められる機会が増えていて雲行きが悪い。
  先ほど確認した生徒手帳のカレンダーには大安と記されていたが、これまでの経緯からして眉唾以外の何物でもなかった。

  「アタシは単に、コイツが嘘つきかどうかを試してやったまでよ。実際に嘘だったし。」

  「他人をとやかく言う前に、お前がまずどうにかするのは自分自身だろうに。」

  「…ふんだ。自分らしく、地で行くのが一番よ。」

  「やれやれ。相変わらず度し難い。」

  自分らしくを貫いて、日々コツコツと苦心を積み重ねているのは自分自身。
  そんな不器用な鋼の西瓜はさておき、ちらりと視線を移した加持が懸念の矛先とするのはシンジの方だ。

  人にしても物にしても支えが肝要とされるように、問題を抱えた者と、それを支える者が居たとして、
  天秤に乗せた負担の塊が傾きを見せるのは往々にして後者である。

  その思い入れが強ければ強いほど尚更。傍目にもアスカへのそれを顕著に呈しているシンジの方こそ、
  一見して温和を保ちながらもその実、多大な苦心を抱えているのではないかと、女たらしな人物が珍しくも男の前途を気に掛けている。

  「うーむ…。」

  「あっ、汚くてすみません…。」

  有無を言わさずハンカチでシンジの顔の泥を拭ってやると、やはりとして加持が顔を顰めた。
  うっすらとではあるが、目の下に隈が浮かんでいる。

  「…これから二人とも、何処へ向かう途中だ?」

  「リツコさんのオフィスです。健診の結果と、更新したIDカードを受け取りに。」

  「そうか。なら、これからみんなで飯でもどうだ?手伝わせた礼に驕らせてくれ。」

  気だるそうに首を鳴らしながらそう告げると、加持はせっかく締め直したネクタイを掴み、踏ん切りを付けるように引っ張った。
  それまで途中だったナンパをお流れとしたようだが、なにしろシンジには一方的に恩義を寄せている身。
  やたらめったらと始終アスカに付き纏われていた当時と比べ、こうして仕事終わりに自由な時間を設けられるようになったのも
  全てはこのあどけない顔をした菩薩様のお陰であり、せめてその恩義に報わんとする、当然とした人情の発動であった。






  「まあ。今日は随分と前衛的な格好ね。」

  合流場所である食堂にて、悠然と遅れてやって来たリツコも開口一番でシンジの身なりを評していた。
  ちなみにアスカから猛反発が上がったものの、労働の対価は平等に支払われて然りとした加持の一声によってレイも同席となっている。

  「…ぬぅぅ。」

  「………。」

  IDカードがそれぞれに手渡され、リツコが三人の身体に異常が認められない報告を述べる中、
  ひたすらレイに送り続けられている不穏な視線が一つ。
  出所は言うまでも無いが、一通りの説明を終えたリツコが錠剤をシンジに寄越した事で、鬼哭の眼差しもそこで中断となった。

  「副作用は一切無いから、安心して頂戴。」

  「お手数すみません。助かります。」

  「でも今回限りよ。若い内から薬に頼るのは、あまり関心しないわ。」

  ぺこりと頭を下げて受け取るシンジの姿に、ますますもって怪訝に捩れるアスカの眉目。
  三人とも健常との結果を受けた直後なだけに、その光景が辻褄の合わないものに映る。

  「なによそれ。アンタどっか具合でも悪いワケ?」

  「いや、えっと…、なんでもないよ。」

  そう言って苦笑いを浮かべながらハンバーグ定食を突付いているものの、元より隠し事が苦手な性格である。
  茶化して逃れようとしているのは明白で、そこを易々と看過するアスカではない。
  キッと矛先をリツコに変えると、無益な問答を嫌った効率至上主義者があっさりと口を割った。

  「不眠症でお悩みの患者さんに、そのお薬を提供しただけよ。」

  「…?!」

  「リ…リツコさんっ…。」

  再びシンジを見やるアスカは呆気に取られた顔だ。
  そしてその視界に映るシンジは抗議を述べながらも、その頬が些か赤い。
  口裏を破られた憤りというより、羞恥の色である、それ。

  「ア…アンタ、まさか…。」

  すっかり鼻白み、青ざめてしまっても無理は無い。
  不眠症という事実もちょっぴり心配ではあるのだが、それよりも過去を遡った聡明な頭脳が重大な問題点を掘り当てていたのだから。
  そこで思い起こされたのは、一昨日にネルフ帰りの電車内で実施した、あの“願掛け”行為。

  “マヌケな寝顔しちゃってさ”
  “どうせ、アタシの夢でも見てんでしょ”

  そして、そう、毎朝ヨーグルトの蓋裏を舐めるように、ペロリと、頬を。

  完全に寝入っているものとしていたあの状況が、ここに来て怪しいものとなってしまった事実を知り、思わず視界がぐらりと歪む。
  が、怪しいだけなら今こうしてシンジが頬を朱に染め、気まずそうにチラチラ目配せしてくる理由に説明が付かない。
  無意識に視線をシンジの頬に集中させていたアスカは、込み上げてきた気恥ずかしさから顔を背けていた。

  「こ、こっち見んじゃないわよっ…。」

  「ご、ごめん…。」

  まるで伝染したかのように青から赤へと移り変わり。晴れてここに熟れたトマトが二つ揃った。
  ずるずるとラーメンを啜っているレイはそれらを実に興味深そうに、そして交互に見つめている。

  「なぁレイ。この二人をどう視る?」

  こちらはトンカツ定食を頬張る加持。
  箸でシンジとアスカを指しながらの気楽な口調に対し、レイは依然として朴訥に、そして敢然として。

  「碇君は、人間。元弐号機パイロットは、カカシ。」

  「その心は?」

  「歩み寄ることが出来るか、どうか。」

  「上出来だ。」

  座布団一枚とばかりにトンカツを一切れプレゼント。
  好物のラーメンに異物を投入されたレイは明らかに難色を示していた。

  「不眠の原因も、大方アスカ絡みの事だろう。」

  「い、いえ、決してそれだけっていうわけじゃ…。」

  「お互い、駄目な人を見捨てられない立場の人間として、苦労させられるものね。」

  リツコの席から同情票となるカキフライが贈られるが、シンジは困るだけである。

  「そんな…、駄目なのは僕の方ですよ…。それが悔しくて、不甲斐なくて、それで眠れなかったりしますし…。」

  「妬けるわね。愛だわ。」

  「全くだ。」

  チッと舌打ちが同時二発。
  紅潮の限りを尽くして固まっているアスカは頭を抱え込んで「仏滅だ」等と繰り返し呟いている。

  「して、レイ。カカシとやらに固執している理由は何だ。」

  「っ…!」

  そこで再びアスカの顔色が蒼白に舞い戻った。この加持の核心に突っ込んだ指示は不味い。
  硬直を解き、慌てて顔を上げて見ると、そこには既にこちらに向けられている紅玉の瞳。
  再び光翼使徒のイメージが脳裏で思い重なった時、アスカは考える前に回避行動に出ていた。

  やはりこの読心術を持ち得た人物には適わない。
  彼女の居合わせる会食に参加すべきではなかったのだと、今一度後悔を噛み締める。
  先立つプライドで負けじと意地を張って参じたが、ここが潮時だと敗戦の見切りが付けられた。

  「おいこら、待て。」

  しかし席を立って場を後にしようとするアスカだったが、実質3対1の状況下。
  まずレイが追い詰め、察知したリツコが逃がすまいと襟首を掴み取り、そしてガシャリと加持の手錠が下される。
  流れるような連携で後ろ手に拘束された後、更に椅子と連結されてしまい、あえなく自由を奪われた。

  この場で唯一、蚊帳の外。
  部外者としてそれら一連の出来事を目の当たりにしたシンジは、ぽかんと口を半開きにして呆けている。

  「あ、あの…、僕の目には、アスカが何か悪いことをしたようには見えなかったんですが…。」

  「すまんな、シンジ君。健全な話し合いの場を続けるには必要な処置だ。」

  神妙な顔で諭してくる加持の傍ら、早速と容疑者Aが吠え立てた。

  「シンジッ!ボケっとしてないで早く助けなさいよっ!」

  「そ、そうは言っても…。」

  究極の場面にて誰を信じるかと問われたなら、シンジはアスカサイドを取る方針で固めてはいるのは事実。
  しかしこの場においては、冷静な観点で見るとどうにも迷いが生じてしまう。
  まさかレイ、リツコ、加持らが三人揃って気が触れたとは思えず、その思惑を確認するまで判断を保留しておきたいのだが。

  「加持さんは右の脇腹に古傷があるからそこを狙うのよっ!それでひるんだ隙に股間を蹴り上げて鍵を奪うのっ!早〜くっ!」

  要求される内容が実に穏やかではない。
  ガシガシと膝でテーブルの裏面を突き上げて喚き散らす姿を見せられては、この場における信用が右肩下がりに転げ落ちて行く。
  困りかねて加持の方へ助けを乞うと、安心させるように一つ頷かれ、そして隣に居るレイの肩がぽんと叩かれた。

  それを合図と受け取ったのか、能面と揶揄されがちな少女がコクリと一つかぶりを振り、そして機械的にパカリと開いた唇。
  僅かに覗けたその口内に、アスカは絶望の闇を見た。

  「永遠に続く幸せ。それを望んでしまうのは、困難だわ。」

  「!」

  そこで雷に打たれたように背筋を伸ばし、直後、一気に脱力。ついにアスカが大きく項垂れた。
  心の持ち様のみならず、ここまで詳細に覗けるなど反則技である。

  「あら、素敵ね。そういうロマンチックな悩み、私は嫌いじゃないわよ。」

  「どうせそんなこったろうと思ったよ。生真面目過ぎるのも大概だ。」

  「……??」

  それぞれの賛辞と苦言が入り混じる中、レイの秘密性能を知らぬシンジだけが首を傾げている。
  一体何を題材にして会話が成されているのか分からないが、とりあえず隣で生気を失っている様子のアスカが気に掛かり、
  安心させてやるように背中を撫でてやると「バカ」とだけ短く返された。

  「随分と臆病風を吹かせるようになっちまって。らしくないじゃないか。」

  「………、仕方ないでしょ。もう、失敗できないんだから。」

  苦渋を滲ませて吐き捨てるアスカに、加持はせせら笑って見せた。

  「あのなぁ、それなら既に失敗した俺はどうなんだ。お陀仏か?」

  すると今度は、その加持をリツコがせせら笑う。

  「まだ復縁の機会が残されている加持君はいいわよ。可能性がゼロに等しい私はどうすればいいのかしら。」

  「ご愁傷さまだな。」

  「失礼ね。二百まで生きてやるわ。」

  口を尖らせて反駁しながらも、リツコは至って真顔を崩さない。
  トライアンドエラーが付き物の研究者として、諦めの悪さこそが最も要される資質の一つ。
  現実的ではない数字を耳にして苦笑いを浮かべた加持は、そのままシンジの方へ向き直った。

  「なぁ、シンジ君。」

  「はい?」

  「ある日アスカが家を飛び出して、それで戻って来なかったらどうする?」

  ぎょっとしたのはまたしてもアスカである。
  すぐさまシンジの口を塞いでやりたいところだが、生憎と両手がお縄の身。
  ともすれば最早抵抗する気力も尽きたのだし、ここは往生して耳を傾けてみたくなったりするのが乙女心であったりするわけで。

  「いや…、それは困りますよ。なんで急にそんなこと言うんですか?」

  「仮の話だよ。さぁ、どうする?」

  「…そ、そんなぁ…。」

  実に分かり易く、そして嫌そうな顔をしてくれる。
  見物しているリツコが鼻で嘲笑った事に気付いたアスカは、早くも恥辱のあまりに死にたくなってきた。

  「たぶん…、そのうちお腹を空かせて戻って来ますよ。だいたい、夕飯は遅れても8時くらいが我慢の限界なので、その辺りに…。」

  「いやいや、それでも戻って来ない時の話をしているんだよ。さぁ、どうする。」

  「そ、それってずるくないですか。」

  一瞬、加持が笑いを堪えた。シンジは気付いていないようだが、アスカはそれをしかと見た。
  そしてシンジがまた分かり易い顔になった。リツコが鼻で笑っている。アスカは死にたくなる。

  「えっと、じゃあ…、参ったな…。とりあえず荷物をまとめて、探しに行って…、あ、その前に警察に届けを出して…、
   いや、その前にネルフに連絡しなきゃ。それでまず、委員長の家に行って、何か事情を知らないかを聞いてから…、
   それから、トウジとケンスケにも協力してもらって……。」

  「あぁ…、すまんが、そういう段取りとか前置きはいいんだ。」

  「でも、一大事ですよ。加持さんにも捜索をお願いしないといけないですし、その時は宜しくお願いします。」

  「そ、それは結構なんがだな。とりあえず、何があってもアスカが絶対戻って来ない時が訪れるとする。まずそう考えてくれ。いいな?」

  「理由は何ですか?具体的に言って下さい。」

  「いや、なぁ…、そこは何でも適当でいいんだ。頼むよ、シンジ君。」

  「でも…、適当で居なくなるのは、変ですよ。」

  なんとも要領を得ない押し問答が続く。

  アスカの説得が主軸のはずなのに、思わぬ所で回り道に出くわした加持は頭が痛くなる展開だ。
  しかしなんといっても三食洗濯掃除付き、そんな贅沢三昧を心血注いで日頃提供しているシンジにも言い分があるわけで。
  納得のいく前提もなしにそれらの努力を蔑ろにして話を進められては不愉快極まりなく、仮の話でもそこは譲れない意地がある。

  ともあれ、その間にもリツコの吸殻が一つ二つと増えて行き、不毛なやりとりを嫌った加持はついに切り出した。

  「よし、例えばこうしよう。ある日突然、アスカが他の男と駆け落ちしたとする。」

  「んなっ…。」

  絶句したシンジが身を飛び上がらせて、激しくアスカに詰め寄った。

  「ど…どうしてっ?!」

  「アッ…アンタバカァッ!?」

  どうやらこの少年は現実と架空の区別が苦手らしい。
  困窮極まった顔で迫られても、アスカはぐるぐると目を回して、その顔面に朱を上塗りするだけである。

  「アタシがそんなの知るかっつーのッ…!仮の話だって言われたでしょうがッ…!」

  怒りやら羞恥やらで紅潮に沸くアスカを他所に、すっかり茫然自失となったシンジは、ふらりと加持の方へ向き直った。

  「そ、その男の方は、どんな人ですか…?」

  「だから…あのな、落ち着いてくれ。そんなもん俺は知らないし、この話とは無関係でだな…。」

  「し、心配だな…。お風呂の温度を間違ったら、怒鳴られますよ…?
   寝ぼけてリビングで寝ることもあるから、夜は予めそこに布団を敷いておかないといけないし…、
   毎朝食べるヨーグルトは曜日ごとに味の好みが違いますし…、柔軟剤だって洋服ごとにちゃんと決まってるのに…。」

  「お〜い…赤木〜…助けてくれ…。」

  話の本筋が霞むほどの、脱線に次ぐ脱線。
  尋問の腕前にはお墨付きを得ている現役諜報員が、とうとう自信を無くして頭を抱え込んでしまった。
  しかしこんな厄介事は金輪際、いくら金を積まれたとしても二度と御免であり、
  あくまでもこの場で落着させ、今後未然のものと定めておかなければならない。

  そしてそれはリツコも同調する立場のようで、見かねて助け舟を出して来た。

  「こうしましょう。今アスカが忽然と神隠しに遭ったと思って。はい、シンジ君はその時どう思うかしら。」

  「そんなの…、納得行かないから信じたくないです。」

  「つまり、居なくならないと信じてる。そうよね?」

  「それはそうですよ…、僕は今の生活が好きですし…、そう信じたいに決まってます…。」

  「…あぁ、普通はそう思うもんだ。」

  そこでむくりと復活した加持が再度アスカを見据える。
  無限とも思われた迂遠の旅路を経て、だいぶ消耗している様子が隠せない。

  「それをお前ときたら、どうだ。悪い思い込みばかり量産して。それを勝手に決め付けて。
   石ころだって蹴飛ばされりゃ動くってのに、お前は打ち捨てられた杭頭よろしく微動だにしない。」

  「………。」

  「永遠がないからこそ、人はそれを信じるんだろう。ヘマしても諦めなきゃいずれ元通りになる。そう信じてるんだからな。」
   悪いことだって永遠には続かない。だってそう信じてるんだから仕方ない。愚かな人間様万歳だ。」

  加持はアスカの席へ箸を伸ばすと、本人の許可なくハンバーグの横取りに乗り出してきた。
  それに気付いて阻止に動いたのはアスカではなく、横から現れたシンジの箸。

  「お前が愛して止まない永遠ってのは、信じることから始まるんだよ。」

  「………。」

  「私なんて、今じゃそれだけが支えで生きているようなものね。
   無駄だと分かっているのに、我ながら往生際の悪さには辟易させられるものだわ。」

  意外な犬食いで完食一番乗りとなったリツコは、既に二桁に上る煙草に火を点けながら空笑いを浮かべている。
  その悠然とした物腰を見るアスカの眼差しは、やはり半信半疑の域を抜け出せていないようでいて。

  他方で加持の横取りを許すまいとしているシンジも、箸を両手持ちにして苦戦を強いられている。
  とても相手の力が片手のものとは思えず、熾烈極まるジリ貧の真っ最中。

  「ア、アスカのハンバーグを盗らないで下さいっ…。」

  「駄目か?」

  「僕のをあげますからっ…、どうかそれでっ…。」

  「そうか。それなら、物々交換だ。」

  代案を得た後、軽く弧を描いて狙いを変えた加持の箸。
  シンジのハンバーグを摘み上げると同時、その手の内からポトリと鍵が落とされた。

  「…あ……。」

  「そっちに回り込むのも面倒だ。君が外してやれ。」

  その提言を受けて理解を得たシンジは早速とアスカの手錠の鍵穴に差し込み、半回転。
  晴れて自由の身となったアスカは諜報員の商売道具をポイと投げて返した。
  ニヤリとして受け取った加持は、リツコから煙草を一本せびると火を点けて吹かし始め、
  それを幕と見たのか、アスカが颯爽として席を立つ。

  「シンジ、帰るわよ。」

  「えっ…、食べないの?」

  「煙草くさい中で食べたって、おいしくないでしょ。家に帰ってからアンタが作りなさい。」

  「でも。せっかくお金を出してもらったのに、悪いよそんなの…。」

  と、申し訳なさそうに加持とリツコの方を見やると、なにやら二人して思い切り煙草を吸い込み始めている。
  シンジが疑問符を浮かべているとほぼ同時、肺四個分の濃煙が吹き付けられてきた。
  日頃テレビで副流煙の恐ろしさを植え付けられている無垢な少年は思わず椅子から転げ落ちる。

  「ゲホッ!ゴホッ!ひ、ひどいですよっ。」

  「ほら、尻餅ついてないで立って、さっさと退散するわよ。」

  涙目で咳き込んでいるシンジを立ち上がらせると、アスカはその袖を引っ張って、今度こそ立ち去って行った。

  「やれやれ、これで感奮興起となればいいんだが。」

  ここに大仕事を一つ済ませた気でいる加持は、一度その場で大きく背を伸ばして我が身を労った。
  ついでにボリボリと頭を掻き毟った後、しばし一服に浸り、そしておもむろに灰皿へと吸殻を差し込んだ。

  「リッちゃん、相変わらず吸い過ぎだろう。」

  長丁場を物語るように、その灰皿には既に溢れんばかりに築かれた吸殻の山。
  長寿二百年を宣言する人物にしては、あまりにも過ぎた、その数。

  「仕方ないでしょう。いくら尽きても、忘れられないのだから。」

  「……、違いない。」

  憂いと共に吐き出された紫煙がくゆる中。
  箸を構えた蒼髪の少女が一人、どんぶりの底に残された異物、豚肉の揚げ物と対峙していた。












  …













  一定の間隔で刻まれる、不変の振動音。

  それらを奏でながら、列車は確かな速度で進んで行く。
  敷設されたレール上で走り続ける事を天命と信じ、定められた進路を抗えぬ運命と受け止めて。
  乗車する二人がこれから歩むべき帰路に向かって、今日も愚直に走り続ける。

  「………。」

  「………。」

  シンジの隣にはアスカが。
  アスカの隣にはシンジが。

  いつもよりも、近い距離。
  昨日と同じ今日は無く、今日と同じ明日も無い。
  無常の世が授け与えた、この距離。

  「………。」

  「………。」

  流れる夜景を背景に、対面の車窓にうっすらと映し出されている二人の姿。
  お互い無言ながらも穏やかに。車窓の外の夜景を眺め続けている内、ふとしてアスカがその口唇を開いた。

  「今日は、寝たフリしないわけ?」

  そう意地悪っぽく言及してやると、ギクリと肩を竦ませている車窓のシンジ。

  「あれはっ…、寝たふりじゃなくって、瞼を閉じれば少しは休まるかなって、そうしていただけだよ。」

  「ふぅん。どうだか。」

  見定めるかのような眼差しで返して、不敵な笑みを浮かべるアスカ。
  シンジの耳からイヤホンを片方奪ってみると、案の定、そこからは何も聴こえて来ない。

  「アタシが買ってやった新型だってのに。もうお釈迦にしたのかしら。」

  「ち、違うよ。たまたま、止めていただけで。」

  こうして冗談を言って軽く凄んでやると、面白いように容易く動揺が引き出せるからアスカはやめられない。

  「退屈だから、なんか曲かけなさいよ。」

  「う、うーん…。」

  いきなりそんな申し出をされてもシンジは困ってしまう。
  今セットされているアイドルソングはお気に召さない公算が高いからだ。
  無難な採択が取られた結果、落ち着いたジャズ系でまとめられたものに取り替えられる運びとなった。

  「ねえ、アスカさ。」

  「なに。歌聴いてんだから、短くしてよ。」

  片耳のイヤホンから聴こえてくる流麗なピアノの旋律と、可憐な女性の歌声。
  それらに鼻歌を重ねているアスカと対照的に、シンジはやや言い出し辛そうな面持ちだ。

  「……あの、もし失敗したら、ごめん。」

  「……、短すぎるっての。」

  突然ぺこりと頭を下げられて、それだけ言われても思い付くものは何もない。

  「いや、夕飯のハンバーグだけど、しばらく作ってなかったから、うまく焼ける自信がなくて…。」

  アスカが眺める、車窓の外に浮かぶ、満月。
  その下に映し出されているシンジが不安そうに頭をかいている。

  「……呆れた男。そんなコト真剣に考えてるようだから、寝付きも悪くなるのよ。」

  「そ、そっかな…。」

  文字通り呆れ顔のアスカが腕組みした指で、トントンとリズムを刻む。
  しばし沈黙を置いた後、その顔色を思慮に入れ変えて切り出した。

  「大体、何時間くらい寝てるのよ。」

  「…それは…、薬も貰えたことだし、きっと寝不足はもう大丈夫だよ。」

  「違う。大丈夫かどうかじゃなく、睡眠時間を訊いてるの。正直に白状なさい。」

  日頃シンジに対しては、誤魔化しやはぐらかしの常習犯であるというのに。
  都合の良い時だけ発揮させられる、異常なまでの執拗さ。
  あまり余計な気遣いを与えたくないシンジは困り果てた様子だが、相手方が譲る気配は微塵もない。
  しばらく視線を泳がせた後、躊躇いを全面に押し出して、おずおずとして申し出た。

  「………、その…、三時間くらい、かな…。」

  「………。」

  短い。アスカはそんな所感が口を突いて出そうになった。
  同じ理由、同じ寝不足同士として。その倍の時間は寝られている身の者として。
  たちまち胸の内に暗雲が立ち込め始める。

  「…最近、アスカが悩んでいるように見えて…、それを考えると、どうしても…。」

  続けられたその言葉に示されているのは、苦悩のリンク。

  アスカが悩めば、シンジも悩む。
  アスカが辛ければ、シンジも辛い。
  アスカが苦しめば、シンジも苦しむ。

  理屈は簡単だし、そこまではアスカの想定内。なのだが。

  “いつかシンジの口から拒絶の言葉が出るまで、足枷の如く付き纏う”

  それまで掲げて来たこのスローガンの行く末が、ここに来て懐疑的なものになってしまった。

  確かに色恋沙汰にはド級の鈍さを見せる相手だが、他人の心の痛みには過剰なほどの鋭敏さ。
  そして心身ともに健全が持ち味であるこの成長期に、これほど睡眠時間を削ってまでの辛抱強さ。
  以前彼が語ったように、単なる“世話好き”の範疇を超えている事実を認めざるを得ない。

  ――コイツ、ひょっとして。
    アタシを嫌う以前に。
    倒れるんじゃないの。

  言い換えるなら、“シンジが倒れるまで、足枷の如く付き纏う”。
  そんなスローガンの変更は、アスカの望む所ではない。
  単に口頭で拒絶されるより、遥かに心痛ましい結末が目に見えているからだ。

  なぜなら、苦悩がリンクしているのは、アスカも同じなのだから。

  とっとと見切りを付けてもらって、面倒な女だと啖呵を切って絶縁を申し出てくれた方が、余程気楽に諦めが付く。
  そこでリンクは途切れるのだし、その後はお互いの事で苦しまずに済む。シンジの肩の荷も落ちて、それでアスカも一安心。

  だが、体を悪くされ、最悪倒れられようものなら始末に悪い。
  リンクが続けられたまま、アスカの心労もひたすらに嵩み連なるばかり。
  きっとその後は巨大な後悔の海の中、延々と押し寄せる自責の波に打ちひしがれるばかりで身が持たないだろう。

  自ら縁を切るハサミを持たぬ身として、シンジの手で切ってくれぬ限り、行き着く先は共倒れ。

  残された道は必然と“付かず離れず”の関係のみとなるが―――、この世に永遠に続くものは何も無く。
  皮肉な事に、それはアスカ自身が人一倍に深めている認識。

  「………。」

  気付けば腕組みした中から片手を上げ。その親指の爪先を、アスカはもどかしげに齧っていた。

  ――無茶をされたら、困る。
    なにより、アタシのコトで。

  車輪の走行に併せ、僅かな慣性が生まれる電車内。
  幾度目かの揺れに乗じて、アスカはどこか茶を濁すように苦言を呈した。

  「……ったく。アタシも落ちぶれたものね。アンタなんかに心配されるなんて。」

  重苦しい空気が覆い始めた場において、ひとまずとして、苦し紛れで捻り出されたこの悪態。
  どうせまた“世話好きだから”等と、野暮な返答を述べられるのだろうから、それでオチとして、有耶無耶にしてしまえばいい。
  そう思ってジロリと横目を流してみたアスカの目論見は、かくもあっけなく瓦解する事になる。

  「……だって、仕方ないよ。駄目な僕がここまで成長できたのは、アスカのお陰なんだから…。」

  「………。」

  まだ二年と経たぬ付き合いの仲。
  語り出したその口調は、まるで幾度もの周回を経て来たような遠い過去を振り返るように、しみじみとして。

  「だから、せめて。夕飯のハンバーグは、成功させなくちゃ。」

  車窓に薄らぼんやり映し出されている、もう一人のアスカ。
  そこの彼女に向けられたのは、些か憔悴を滲ませているものの、それでもふんわりとして柔らかな、微笑み。

  「………っ…。」

  紅茶色の長髪が垂れ掛かる、今は硬縮している胸の内。そして絞り上げられた気管が発言の邪魔をして。
  かろうじて視線だけを外した、窓越しの外界。
  そこに広がっているのは、、第三新東京市の見事な夜景。
  色とりどりの宝石を散りばめたような、光彩陸離のキャンパスが、緩やかな速度で流れて行き。
  その内、突如としてカーテンが幕引かれるように、列車がトンネル内へと突入した。

  「………。」

  「………。」

  反響効果の後押しを受けて、一段とけたたましさを増した車輪の音が鳴り響く中。
  トンネル内に設備されたナトリウム灯の放つ、橙色の光で染め上げられた電車内。
  同じ暖色にその身を染められたアスカが、その内、ぽつりと呟いた。

  「……青でも、黄でも、赤でも無い。アンタはきっと、橙色。」

  「……?」

  「真っ暗なトンネルの中でも、遠くまで照らすことが出来るし、気分が和らぐ。そんな色だから。」

  光の波長によって変化する、闇の中での明瞭性、及び心理的作用。
  理解を得ないシンジが振り向いた時には、そっとアスカが距離を取っており。
  その動きに気付いた時には力強く袖を引っ張られ、導かれた方向へと倒れ込んでいた。

  「アス―――」

  強烈な引力にバランスを崩され、その頭部が軟着陸した場所は、お世辞にも柔らかだとは言えない、引き締まった膝の上。
  呆気に取られて見上げるシンジの頬が朱を帯びるが、橙の色調作用によって全ては単色に塗り上げられた、その世界。
  対向車両とのすれ違いも加わり、爆発的な轟音の中で聴覚の均衡も奪われて。
  しばしの間、黒曜と蒼碧の瞳が強いられたのは、ひたすらに交錯する運命の刻。

  そして、

  ( バカシンジ )

  そう名を呼ばれた回数は、およそ星の数ほどか。
  だから、轟音以外の音が許されないこの場で、アスカの唇の動きを見たシンジは、自らの名が紡がれたとは分かり得たのだが。
  しかしその頼りの視覚もやがて、額に添えられているだけだった手のひらが滑り下りた事で、瞼を閉ざされて。

  「…このアタシが膝枕を提供してやってんだから、ありがたく思って、寝なさいよ。」

  トンネルを抜け、単色と音の一極支配が止んだと同時。
  平常を取り戻した車内で呟かれたのは、いつもの居丈高な口調。
  その顔を上げ、その碧眼が見つめる先は、やはりとして、夜空に浮かぶ満月。

  「……意気地なしのクセに、意地張っちゃってさ。」

  見つめる先には、青い月。










  恨みがましきは、確無き無常の世。

  ならばいっそ、世を捨て、身を捨て、戯れに。

  見つけた青い月を、黄金の蜜月と見立ててみるのも、悪くはない。

  いつか落ちて、永遠の地になると信じて。

  それが互いの安息に繋がるのなら、それで。










  「……あんまり、無茶すんじゃないわよ。」

  「……アスカが、心配だからだよ。」


  苦悩の裏側で見つけた、真逆のリンク。

  眼下にある、異性にしては艶やかな唇を、いつまでも。

  一対のスターサファイアが、その冷色の底に灼熱の揺らめきを伴わせて。

  どこまでも愛しげに、ただただ、熱い眼差しを送り続けていた。












  04: blue moon.



  拙作をお読み下さった方へ、掲載の場を提供して下さっている怪作さんへ、誠に感謝致します。

  紅鮭 "benizake" : benizake02@yahoo.co.jp


紅鮭さんが第四話を投稿してくださいました。

素敵なお話を読ませてもらいましたね。ぜひ紅鮭さまに感想メールを送りましょう。