静寂と暗闇に支配された深夜。すべてが寝静まるこの時間、薄暗いリビングにひとり。
  開け放たれた冷蔵庫の前で、膝を抱えたアスカが座り込んでいる。

  「………。」

  扉の中から溢れ出した冷気が、アスカの体に浴びせられる。
  思考で煮やされた頭の芯から、緩やかに熱気が引いていくのが心地よい。

  寝付けぬ夜に、頭を冷やそうとするアスカの悪しき習慣。
  冷蔵庫本来の扱い方であるはずもなく、万が一この家の台所を担う主に現場を見られようものなら、
  神聖なる食材置き場になんてことをするのだと、こっぴどく叱られることだろう。

  「バカシンジ…。」

  冷蔵室の内部電灯にボンヤリと照らされながら、今日も健全たる睡魔の邪魔をする忌まわしき人物への恨み言を漏らす。
  以前もこうしたことは極希にあったが、ここ最近は連日と冷蔵庫のお世話になるものだから恨めしさも一層。

  繰り返される日々の中、就寝前のベッドの上で、アスカはふと自らの未来像を思い描く時がある。

  以前のアスカであれば、いつか願望は叶うのだろうか、果たして幸せになれるのだろうかと、
  懸念の先はすべて自らの身のこと以外に他ならず、およそ世間一般の人間も同じことだろう。

  しかし、今のアスカが描く未来像とは、自らの身のことではなく、彼の行く先。
  彼の描く幸福のパズルの中に、自分というピースが存在しているのか、否か。そこが最大の焦点とされていた。

  「………。」

  先日、思いがけず握り締められた手のひらに視線を落とす。
  何も、初めてのことではなかった。
  沈み落ちていくしかなかったマグマの中、救いを求めて差し伸べたこの手を、繋ぎ止めてくれた命の恩人。
  エヴァからフィードバックされたあの時の握力は、なんと心強いものだっただろうか。

  既に手を繋ぐどころか、既に命すら繋がれていたのだから。
  灼熱の世界で一度死に、灼熱の世界で今一度の生を得た存在であるのだから。
  冷蔵庫から送られる体感的な冷風が、果たして心の奥底で滾るマグマにまで及ぶのかは疑問である。

  ――そうよ。
    勝手に命、救っといて。

  命の恩人なのだからと言って、恩着せがましいことは今まで一切ないのだから、その人物は優しい心の持ち主なのだと分かる。
  だが、ほんの少しくらい恩に着せて来てくれたっていいではないかという煮え切らぬ想いが、アスカを悩ませる。

  何もしない、何もされないよりかは、よっぽどマシなのだからと。
  チルドレンという存在意義を欠いた今、歯がゆい日々を送らされているアスカには、尚更そういった欲求が込み上げてくる。

  ――あの時だって。
    アイツは。

  唇を指先でなぞるアスカの脳裏に、屈辱の過去が蘇った。思考が更なる猛りを誘う。

  もっと、もっと、冷やさなければ。外からも、内からも。

  アスカは思い出したように立ち上がると、冷凍室からアイスキャンディーを取り出した。

  どうやら今宵も、寝不足になりそうだ。









  あんただけにそっと。

  第三話:氷中に活を









  明くる日の夕方。煌びやかな照明に照らされたスーパーの店内。
  華やかに陳列された食材に囲まれた中、ゆっくりとカートを押すシンジの隣でアスカが歩いている。

  「はい、これとこれ。あとこれもね。」

  「………。」

  なんの躊躇いも逡巡もなく、瞬く間に商品の山が築かれていく買い物カゴに、シンジは憂いの陰を落とす。
  彼の持律を蹂躙する、とても看過しがたい破戒的行為が今、目の前で繰り広げられているのだ。

  一家の家計を担う者として、シンジは隣を歩く破戒者へ疎むような眼差しで訴えかける。
  買い物というものは本来、厳格に臨むべき真剣勝負でなければならないのだと。

  記憶した他店の折り込みチラシの価格と値札を照合させながら、鵜の目鷹の目で凌ぎを削る神聖なる駆け引きの場。
  1円単位の世界に生まれる高揚や虚脱など、様々な浮き沈みを味わってこその醍醐味であり誉れであり礼儀。

  そんな美学を理解しようともせず、物欲のまま手当たり次第に買い込むアスカの存在は無粋以外の何者でもない。
  ましてや彼女のように別々の商品を一度に両手で鷲掴むなど、業罰に等しい。らしい。

  「…これだからアスカと買い物するのは嫌なんだ。」

  「あん?何か文句あるって?」

  小声でこぼされた愚痴を地獄耳で捉えたアスカが、そっぽを向くシンジをギロリと睨みつける。

  「買いたい物を買うのが、買い物でしょうが。何が悪いっての。」

  噛み付きながらも、後ろ手でホイホイと商品を投げ込むアスカ。思わずシンジが青筋立つ。
  どうやら買い物云々以前に、カゴに物を入れる行為に快楽を得ているようである。

  「なんの考えもなしにその場の衝動だけで手に取るのは、買い物とは言いません。」

  「失礼な奴ね。これでもちゃんと値札は見てるのよ。」

  「アスカの場合は、本当に見るだけじゃないか。」

  必要最低限を心掛ける節約家シンジと、半ばストレス発散の大人買いを目的とする浪費家アスカの意見は永遠に相容れない。

  「はっ。相変わらずケチな男。そんなこと言ってるからモテないのよ。」

  「だいたい、買い物くらいひとりで済むのに。」

  日用品や食材の買い出しはシンジ一人の役割であったが、最近は連日としてアスカに同行されている。
  家政夫として忙しない一日を送る中、唯一の憩いの時間を奪われているシンジは珍しく根に持った様子だ。

  「好きな買い物が出来た上に、荷物持ち付き。こんなチャンスは無駄にできないでしょうが。」

  「はぁ…。これだもんなぁ。」

  「いつまでもグチグチ言ってんじゃないわよ、男のくせに。」

  がっくりと肩を落としているシンジの背中をバシバシと叩きながら、アスカが次なる進路を指差す。

  「さあほら、次、アイス売ってる所。」

  「えっ、もう全部食べたの!?」

  アイスキャンディーやらシャーベットやら、昨日アスカが両手一杯になるほど買い込んだ氷菓子。
  それをどうやったら一日で消費できるのかと、シンジは落胆から一転、アスカの絞られた下腹を凝視した。

  「……昨日、あんなにたくさん買ったのに。」

  「好んで食べるから好物なんでしょうが。当然のことでしょ。」

  「でも、冷たいものばっかりは…。おなか壊さないでよ?」

  「その時はアンタの面倒になるだけよ。ほら、さっさと行く。」

  「えー。でもでも、少しは日を置いておなかを休ませてあげなきゃ駄目だって。」

  「あーもう、女々しい奴ね。荷物持ちのアンタが動かなきゃ買い物にならないでしょうが。」

  売り場に赴くことにシンジが躊躇いを見せる中、その背中をアスカが後ろからグイグイと押し進めていく。

  「…そういえば、アイスで思い出したんだけど。」

  「ん?」

  「最近、やたら冷蔵庫の食品が傷むんだよね…。」

  はぁ、と溜息を漏らしながら憂慮を漂わせるシンジの背後で、アスカの肩がギクリと竦み上がった。
  連日連夜の悪しき習慣がもたらす副作用を、とうとう感付かれてしまった。

  「ア、アンタ神経質だから、考えすぎなんじゃないの。気のせいでしょ、気のせい。」

  「やっぱり故障かなぁ…。あの冷蔵庫、とっくに保障も切れてるし、新しいの買おうかな。」

  「だ、駄目よ…!ほどよく涼しいくらいのアレが、気に入ってるんだから。」

  シンジが故障を懸念したことに対し、アスカはまるで体感的な感想を述べて抗議する。
  噛み合わない、見当違いな返球に違和感を抱いたシンジの耳が、ぴくりと反応を示した。

  「まるで…、エアコンみたいな言い方するね…?」

  「うっ…!」

  鋭い不可視のボディーブロウに背中を丸めながら、失言に気付いたアスカが咄嗟に口を押さえる。
  普段より周囲からは鈍感と称されているシンジだが、自らのライフワークに害を及ぼす事柄に関しては
  鋭敏に第六感が働いているらしく、早くもアスカを冷蔵庫の冷却低下に関わる重要参考人として分析したようだ。

  「涼しいのが気に入ってる…?なら、冷房をつければいいじゃない…。僕は、冷蔵庫の話をしているんだよ…?」

  ゆらりと、不気味なほどゆっくりとした動作で振り返られ、アスカは思わず後ずさった。
  怪談を語るようなおどろおどろしい声色。瞳に鬼火を携えたシンジが核心に踏み込んでくる。

  「ぐっ…、か、勘違いしただけよ。ペンペンが涼んでいたのを見たことあったから。」

  「冷蔵庫より、よっぽど彼の自室の方が涼しいようだけど…?」

  「た、たまたまアタシがその現場を見たってだけの話よ。これだからしつこい男って大嫌い。」

  詮索の的となることを嫌ったアスカはシンジの手からカートを強奪すると、素知らぬふりで氷菓子の売り場へと先立った。

  「……、怪しい……。」

  逃げるように遠ざかっていく背中を見送るシンジは、まだまだ取り調べの余地があると疑惑の念を深めるのだった。




  …




  第三新東京市郊外にそびえるマンション、コンフォート17。またの名を、葛城邸。
  アスカと共に夕飯の買い出しから帰宅したシンジは、早速と料理の準備に取り掛かり始めていた。
  買い出し中に帰宅していたミサトを交え、今日は久々に三人揃っての夕食の席となる。

  「ひっさびさにシンジ君の夕飯が食べられるわね〜。今日はなぁに?」

  「さばの味噌煮です。せっかくミサトさんと夕飯を一緒にできるので、お酒に合うものを。」

  「やった!さすが私が認めた男!無敵のシンジ様!」

  万歳三唱のミサトから快哉を浴びながらシンジが台所へ向かうと、珍しくもアスカがコンロの前に立っている。
  蒼い瞳を輝かせながら掲げているのは極上霜降りステーキ肉。どうやら先ほどスーパーでチョイスしたものらしい。

  「牛肉は使わないよ?」

  「アンタは勝手に作って食べてなさいよ。アタシはこれに決めたんだから。」

  「え……、アスカ、料理できるの?」

  得意満面にコンロの火を付けるアスカに再び疑惑の眼差しが向けられる。このかた一度として料理姿を拝見したことがないのだから仕方ない。
  一度だけ文化祭の時に出し物の下準備として果物の皮むきを教えたことがあったが、すぐさま指を切って断念されたものだった。

  「ステーキなんて要は焼いて食べるだけでしょ。料理の内にも入らないじゃない。」

  「そんなことないよ。味付けで誤魔化せない分、火加減とタイミング次第じゃ台無しに…。」

  「はいはい、御託はもういいの。素材が良ければ味も良いに決まってるんだから。このアタシみたいに。」

  「………。」

  唯我独尊、即ち馬耳東風。
  どうなっても知らないよと言いたげなシンジは、とりあえず自分の予定していた献立に取り組むのだった。


  …


  「いっただっきまーす!」

  「い、いただきます。」

  ミサトとシンジの前には丁寧に盛り付けられたさばの味噌煮とお煮しめ、なめこの味噌汁、そして御浸しが並ぶ。
  喜び勇んで口に運んでは、ウマイを連発するミサトとは対照的に、シンジは気まずい表情だ。

  「………。」

  シンジの席の隣に座っているアスカの皿に乗せられた、どす黒い物体。
  かつて極上霜降り肉と呼ばれていたそれ。

  焼くだけだと高を括っていたものの、よもやトングで直火焼きを始めたのだからシンジも目を疑った。
  フライパンでは時間が掛かるからとの理由らしいが、火の玉にしてしまっては不器用以前の無効試合。
  料理という行為に対する生まれながらの適性の無さを浮き彫りにさせた形だった。

  「あの、さ。一応、アスカの分も作ってあるから、よかったら…。」

  プライドに障らぬよう、怒りを招かぬよう、恐る恐る。
  黒い物体の前で暗い陰りを見せているアスカへ、慎重な物腰で予備の選択肢が提供された。
  悪い結末を予想して予め三人前を作って保険を用意しておく辺り、シンジのお人好しも底知れない。

  「…いらない。ダイエット中だし丁度いい。」

  シンジの助け舟に乗ることは、失敗を受け入れることと同様。
  他人の舟に乗るくらいならクロールで泳ぎきってみせるとばかりに意地を張る。

  「それでも、少しでもいいから、おなかに入れておかないと…。」

  「うるさいわね。お風呂入ってくる。」

  先立つプライドにより提案を退けると、アスカは早々に席を立って風呂場へと向かっていった。
  もはや葛城家では定番である二人のやりとりを無事に見届けたミサトは、やれやれと肩を竦ませて見せる。

  「相変わらずというか、アスカも意固地ねぇ…。」

  「ふん、三十路のミサトには、味噌煮がお似合いよ。ついでにサバでも読んでなさい。」

  「んなっ…!ま、待ちなさい!」

  聞き捨てならぬ駄洒落を吐かれ、あかんべ一発、ピシャリと脱衣所の仕切りが閉められた。
  行き場のない怒りをぶつけるかのように、ミサトの手の中のアルミ缶がグシャリと握りつぶされる。

  「むっかつくわねぇ〜、仮にも上司に向かってさ。やっぱりちょっと躾が必要ね。」

  「す、すみませんミサトさん。アスカが失礼なことを…。」

  「ほらまたそうやって、シンジ君に謝られるしさぁ。だからあいつの躾が必要だっていうの。」

  まるで自分の監督責任だと言わんばかりにシンジから頭を下げられるミサトは、頬を膨らませてご立腹の様子。

  「はぁ、シンジ君もシンジ君で、ちょっと問題ありなんじゃないかしら。」

  「う…、そうですか?よくアスカから鈍すぎるとは言われているんですが…。」

  「ん〜、それついては私も同感。別に悪いこっちゃないんだけど。」

  幾度目かの鈍感という称号の授与に、明らかにしょぼくれたシンジが肩を落とす。
  鈍感なことに鈍感な割りに、密かにコンプレックスは抱えていたらしいことが見て取れる。

  「これでも、気をつけてはいるんです…。でも、いつもアスカを怒らせてしまって。」

  「相手がシンジ君なだけに、余計そうさせるんでしょうねぇ。」

  アスカの怒りも単なるマシンガンではない。矛先が他者とシンジとではその性質が違うのだと、暗に仄めかすミサトだったが、
  それは彼自身が気付いてこそ真価が問われるものだからと、いつの時もアスカに関する直接的なアドバイスは避けられている。

  「ミサトさん、ちょっと出掛けてきます。ついでに、ビール買ってきましょうか?」

  「うん?」

  普段から人一倍マナーに厳しく、食事の途中で席を立つなど普段ならありえないシンジからの突然の申し出。
  ミサトは箸を口に運んだまま、意外そうに眉を持ち上げたのだった。




  …




  シンジが外出してから、しばらくの後。

  「あがったわよ。」

  バスタオルを身に纏ったお馴染みの格好で、アスカが脱衣所から姿を現した。
  気取るように髪を掻き上げながら颯爽と登場したものの、間もなく食卓の席にシンジがいないことに気付く。

  「残念。シンジ君はお出かけ中なのでした。」

  少し意外そうな顔できょろきょろと見回しているアスカに、ミサトはあえてシンジの行方を伏せて不在だけ知らせておく。
  あらかた食事を平らげた今、先ほどの三十路発言の仕返しも含めて次の肴をアスカに決めたようだ。

  「あっそ。」

  一方のアスカは素っ気無い振りで冷蔵庫に向かうと、牛乳を取り出してパックのまま豪快に飲み干していく。
  堪える空腹を満たすかのような尋常ではない飲みっぷりに、見物するミサトは苦笑を禁じえない。

  「お行儀が悪いわねぇ。シンジ君がいたら怒られるわよ。」

  「ハン。いつからアイツがアタシの躾役になったのやら。」

  牛乳を飲み干し終えると、アスカは再び脱衣所に消えていく。
  今度はタンクトップとホットパンツといういつもの部屋着に服装を改めて出てきた。

  「なんで一旦、バスタオル姿で出てきたのかしら。お姉さん気になるなー。」

  「アタシの勝手でしょうがっ…。いちいち、うるさいわね。」

  「せっかくの眼福を逃しちゃって、シンジ君かわいそうに。」

  「だから、シンジは関係ないってば。」

  やたらと絡むミサトの一言一言に含まれる的確で粘着質な成分は、徐々に、だが確実に標的の形勢を不利にさせていく。
  ミサトとのやりとりがデメリットにしか働かないと踏んだアスカは、距離を置くように食卓から離れた所のソファに寝そべり、
  別段観る気もないテレビをつけることでお茶を濁し始めた。

  「………。」

  しかし、画面を見続けるアスカの心持ちは悪い。シンジの所在を未確認でいることの不快感が拭えない。
  一体彼は、どういうつもりで、どこへと赴いて行ったのか。
  いずれ帰って来るのは間違いないし、取るに足らない瑣末な懸念であるのは分かるのだが、しかし、どうしても。

  ミサトが知っている事実を自分が知らないでいるこの状況が気に入らない。
  まるで二人の間に高低差が形成されており、高みから俯瞰されているような居心地の悪さ。
  アスカの周囲に流れる空気が急速に息苦しいものになっていく。

  …

  無言の根競べも、五分ほど経過した所。

  「…アイツ、どこ行ったのよ。」

  アスカが音を上げることで決着がついた。

  「むふ、気になる?」

  ロングパットが時間差を経てホールインするようなカタルシス。待ってましたとばかりに、笑いを堪えるミサトはご満悦だ。
  元作戦部長という経歴が示す通り、こと企みに関してはアスカの明晰な頭脳をもってしても敵に回すと怖いこの相手。
  アスカのシンジに対する複雑な心情も概ね察していることも相乗し、アスカにとっては数少ない天敵に位置付けられている人物である。

  「別に…。」

  「そう?ならいいじゃない。」

  「ぐ…。お、教えなさいよ。」

  「行き先、気になるんでしょ?」

  「………。」

  「こりゃ、先が思いやられるわね…。」

  ぶらさげられるどころか、差し出されたニンジンすら跳ね除ける。
  素直に頷けば済むものを、こんな些細なことでも稚拙な意地を示し続けるアスカの態度に、ミサトはやれやれと天を仰いだ。

  「そんなアスカに愛想尽かして出ていっちゃった、とでも言っておきましょうか。」

  「っ…!」

  真剣に悩みの種と立ち向かっている者に対して、それを知った上で弄ぶかのような無責任な発言。
  弾かれたように身を起こしたアスカが、憎悪を込めた眼差しでミサトを睨み付けた。

  「性悪女…!」

  腹の底から絞り出したように言い放つと、アスカは抱えていたクッションを床に叩き付け、苛立ちを顕わに冷蔵庫に歩み寄っていく。
  冷凍室から袋詰めにされた氷菓子の束がごっそりと取り出された。

  「…それ、全部食べる気?」

  アスカの手にしている袋には、優に20は越えるだろう氷菓子の数々。一人で食べるには尋常ではない量だ。
  自傷行為の予兆を危惧したミサトの目が細められる。

  「まったく、あなたって子は…。少し目を離してると、すぐ変な悪知恵ばっかりつけて。」

  「………。」

  「シンジ君とは、少しはうまくいってるんだと思ってたのに。」

  正確には、以前にも増して熱の帯び易くなった心への戒め行為。
  何はともあれ、おそらく自室に閉じ篭って食べる気なのだろう。
  踵を返してリビングを離れようとするアスカだったが、ミサトとのすれ違いざまに手にしていた袋を取り上げられてしまう。

  「返せ…!」

  「だーめ。あなた、ただでさえ寒がりなんだから。」

  咄嗟にアスカが掴みかかって取り返そうと手を伸ばすが、ミサトは椅子に座りながらも巧みな身のこなしでかわしていく。

  「アタシのお金で買ったんだから、返してよ…!」

  「お金は気持ちのいいことに使うものよ。苦しめてどうするの。」

  「余計なお世話よ、この酔っ払い…!」

  「そうそう、お金ってのは、気持ちよく酔っ払う私みたく使いなさい。」

  のらりくらりと緩急をつけてかわし続けるミサトの動きはさながら酔拳の様相。
  アスカもアスカで正確に狙いを定めて伸ばした手で袋を捕らえかけるのだが、直撃までとはいかず紙一重で逃がし続ける。

  「ほいっと。」

  「!?」

  切羽詰る攻防も、隙ありとばかりにアスカの頭の上に缶ビールが置かれ、終止符が打たれた。
  中身の液体を被るという本能的な恐れが、体の動きをピタリと止まらせる。

  「あら、冷たいの、好きじゃなかったっけ?」

  「くっ…!」

  冷や水をかぶるならむしろ本望ではないのかと、受けた行為の裏側にある皮肉を悟ったアスカが一気に激昂した。
  触れてはならない瞬発信管への接触。怒りを爆発させると全く同時、頭上の物を目の前の人物目掛けて握り潰しながら投げ捨てていた。

  「……あちゃー。」

  頬を掠め、流れ弾を被った台所の水切り棚の方へ、しまったと振り返るミサトは渋い顔だ。
  衝撃で乗せられていた食器が床に落ち、派手な音と共に破片が撒き散らされている。

  「さあ…、アタシをからかって…、満足できたでしょ。返して。」

  誰しもが少なからず抱く敵意も、その矛先は必ずしも一つとは限らない。
  己を戒めるように噛み締められた唇、手のひらに爪を食い込ませるほど強く握り締められた拳。
  憤然の裏に悲壮を漂わせるアスカから放たれる敵意の矛先は、果たしてミサトだけのものだろうか。

  「アスカ……。」

  自らを憔悴させてまで尚も居丈高を貫くアスカを見る度、ミサトは改めて思い知らされる。

  アスカの抱える最大の癌は、願望を危険分子として捉えてしまう、人一倍及び腰な心の在り方にあるのだと。
  願望を掴んだ手が、狭すぎる心の瓶から抜け出せないでいる。かといって、あんまり力を入れると割れてしまう。
  不器用にもがくその様は、ミサトの心を哀れみに染め上げるのだった。

  「……バカな子ね。」

  ミサトは返却を求めて差し出された腕を掴むと、ぐいっと強引に引き寄せた。
  思わぬ引力を受けたアスカの身が宙に浮き、倒れ込むような形で抱き止められる。

  「な、何すんのよ、離して…!」

  「じっとしてなさい、今、返してあげるから。」

  駄々をこねる子供をあやすような口調でそう告げると、一瞬抵抗を止めたアスカの首筋に氷菓子が押し当てられた。

  「ヒッ…!」

  「バカアスカ。少しは素直になりなさい。」

  悲鳴を上げた本人から抗議の声が上がるより先に、ミサトは冷たさの残る皮膚にそっと償うように口付ける。
  次なる攻撃に身を強張らせるアスカの頭をよしよしと撫でつけながら。

  「シンジ君ね、さっきあなたが焦がしたお肉を買い直しに行ってるのよ。」

  「何よ、急に…。」

  「きっと今日の献立はアスカの苦手なもので、あなたが食べたがっていたものなら食べてくれるんじゃないかって。」

  「………。」

  「シンジ君なら、きっとおいしく焼いてくれるわよ。それで、温まりなさい。」

  「……、イヤよ…。」

  「大丈夫。アスカは、冷たくなんかないんだから。」

  この歳になってまで未だ加持に対して素直になれない自分よりかはよっぽどマシではないかと、密かにミサトは口元を自嘲に歪ませる。
  人は努力する限り悩めるものであって、その努力は必ず報われる。今までこれだけ努力してきたあなたなのだから安心しなさいと、
  言葉や理屈ではなく、触れ合い撫でることで説得を深める。

  「私なんかより、よっぽど温かいじゃない。」

  耳元で言い聞かせるように優しく囁くと、最後にミサトはアスカを思い切り抱き締めた。

  「本当はこういうこと、シンジ君にお願いしたいんだけどね。今日のところは、私で我慢してちょうだい。」

  固い抱擁を受けたアスカが目を見張る。
  一体ミサトはどれだけ自分のことを見透かしているのかという脅威じみた戸惑いに、ついに抵抗する気力も潰える。

  ――アタシはミサトのこと、何も知らないのに。

  天敵とは言ってみたものの、所詮はアスカの勝手による位置付け。
  ハリボテに対して滑稽な一人相撲を演じていた姿を、第三者の視点で眺めさせられるような、白けた脱力感が身を襲う。

  「さーてっと。アスカに悪いことしちゃったし、お邪魔虫は外に飲みに行くかなー。」

  ひょいと席を立ったミサトはアスカの身を解放した後、その場で大きく背伸びを一つ。
  進路を塞いでいることに気づいたアスカは、バツの悪そうに俯きながら玄関への道を譲った。

  「うむ、苦しゅうない。」

  「………。」

  始終に渡って思うままに振り回されてしまったことに、アスカは腹立たしさを感じないわけではない。
  しかし、事の発端は自らの稚拙な意地であったことは明らかであり、挑発を受けたとはいえ
  激情に身を任せて物に当たってしまった狭量さなど、今は敗北感を携えながら玄関に向かうミサトの背中を見つめる。

  「…ミサト。」

  「んー?」

  「アンタこそ、気遣いすぎじゃない。」

  「ふふ、親思う心に勝る親心ってね。」

  振り返ってウインクをするミサトの後ろ姿が、閉まる玄関のドアに消えた。

  「……はぁ。」

  溜息ひとつ。

  アスカはしばらくその場に佇み、やがてとぼとぼと力ない足取りでリビングに戻る。
  これだけ打ちのめされた気分を味わうのは、ゼルエル戦で惨敗した時以来である。

  ――なにやってんだろ、アタシ。

  台所の床にしゃがみ込み、散らばっている食器の破片を傍らのゴミ箱に詰めていく。

  ――これじゃ、単なるお荷物じゃない。

  シンジの行方が気になるのかという問いかけに対して、素直に頷いていればこんな苦労もなかったはず。実にお粗末な発端。
  あそこでくだらない意地を張った為に、アスカ自身が余計な心労を負ったことはおろか、ミサトに借りまで作ってしまう始末。

  ――アイツなんか、もっとそうよ。

  ミサトへ気苦労を負わせたのは今回に限った話だが、日頃から理不尽な我が侭を言い付けられているシンジからすれば、
  惣流アスカという人物など常に足枷となる存在ではないだろうか。
  寝付けぬ夜、シンジの幸せの一部を担えるかと思い悩んでいたが、むしろ自分がいない方が彼は幸せなのではないかと思い至る。

  ――アタシがいなければ、こんなことは…。

  こうして割れた食器の破片が作り出されたのも、他ならぬアスカの所業によってのもの。
  シンジのお気に入りであるこれらが紛失したと知らされたら、きっと彼はこんなことを言うのだろう。

  "僕も、なんというか…。何かと至らないで、ごめん。"

  数日前の帰り道、理不尽な怒りをぶつけられたシンジから言われた謝り文句と同様。
  料理に失敗して自尊心を傷つけられたことへの腹いせで、食器が叩き割わられたのだと。
  きっと彼はそのように解釈した上で、厄介なことにそれが自らの行いに起因していると受け止めてしまう性格の持ち主である。

  それは、単純に謝られることよりも、アスカにとってはより辛い配慮となるわけで。

  ――自業自得か。

  最後の破片をゴミ箱に仕舞い終えると、アスカはおもむろに立ち上がる。
  精彩を欠いた瞳が見つめる先には、先ほどミサトと争ったまま食卓に放置されている、氷菓子の数々。

  心を囲う氷の檻が、失意の淵にいるアスカを冷たいものへと駆り立てる。

  あなたは、もっともっと凍えるべきなのだと。
  淡い期待を凍らせれば、未来の失意もまた凍てつくのだからと。

  これまでと同様に、オウム返しのように、何度も、何度も。

  アスカは覚束ない足取りで食卓へ近付いていくと、少し溶けかかっているアイスの一本を手にした。

  "大丈夫。アスカは、冷たくなんかないんだから。"

  ミサトから贈られた言葉が蘇る。

  "私なんかより、よっぽど温かいじゃない。"

  蒼眼に力が宿り、奥歯が噛み締められた。

  ――負けるもんか。
    もう、ミサトの世話になんかなるもんか。

  アスカはゴミ袋を取り出すと、食卓の上にあったそれらを含め、冷凍室にストックしておいた他の冷凍菓子すべてを投げ入れた。

  ――アタシがシンジの足枷なら、なおさら引き摺らせてやる。
    アタシのことが大嫌いだと、アイツの口から言わせるまで、ずっと付き纏ってやる。

  今一度、心を奮い立たせる時。ミサトの厚意を無下には出来ない。
  自分が束になって掛かっても適わないミサトの言葉なのだから、間違いはないはずだとアスカは自らに言い聞かせる。

  覚悟を決めるように、ゴミ袋の結び目が強く引き絞られた。

  「ただいまー。」

  ――来たわね。
    バカシンジ。

  圧搾空気式の玄関のドアが開く音が聞こえ、シンジが帰宅を知らせた。
  アスカは表情を引き締め、仁王立ちの格好で迎え撃つ。

  「遅かったわね。」

  「ごめん、スーパーじゃなくて、行き付けの専門店まで行ってたから。」

  「おいしく焼いてくれないと、承知しないからね。」

  「うん、頑張ってみるよ。」

  ふんぞり返って尊大な態度を見せるアスカに、シンジは快い笑顔を作って買い物袋を持ち上げて見せた。

  「おなか空いてるだろうけど、ちょっと待っててね。」

  「………。」

  早速と台所に足を赴けるシンジだったが、袖を掴まれて引き止められる。

  「どうしたの?」

  「……、なんでもない。」

  ぽかんと呆けているシンジの側から離れると、アスカは食卓の席へ着いた。

  「早く、作りなさいよ。」

  「う、うん。」

  アスカの意を図りかねて佇んでいたシンジは、首を傾げながらも料理の準備に取り掛かり始めた。

  ――なんなのよ。
    コイツは。

  台所のまな板から小気味よい包丁のリズムが聞こえてくる。
  無茶を言って買い物に同伴し、散財させ、献立を捻じ曲げ、買い直しにまで至らしめたというのに。
  それなのに、鼻歌混じりの彼の背中はどこか楽しげですらある。

  ――アタシの面倒なんか見て、何の得があるのよ。

  自虐に陥る内心とは裏腹に、料理を遂行しているシンジの動きは右へ左へ忙しない。
  今シンジが費やしている時間と労力はすべて、疑いようもなくアスカの為のものである。

  「………。」

  一所懸命に動き回る背中を眺めているうち、アスカの中にかねてからの疑問が噴出していた。

  「ねぇ、アンタさ。」

  「うん?」

  「なんでアタシの為に、そこまでするわけ。」

  フライパンに乗せられた肉に火を通しているシンジから、その答えはあっさりと出された。

  「アスカが、嫌だって言わないから。」

  「な…。」

  ――なによ、それ。

  相変わらずアスカの投球に対して、フェアライン上と見せかけた絶妙なファールを放つシンジ。
  唖然としているアスカは、以前に偶然チェロを演奏していたシンジと遭遇した時、同様の返答を受けたことを思い出した。

  「それじゃアンタ、アタシがイヤだと言わなければ何でもするの?」

  「まぁ、僕に出来る範囲ならだけど。」

  「じゃあ、アタシがイヤだと言ったら?」

  「そりゃもちろん、すぐにでも止めるよ。」

  「それじゃあ…、あぁもう…、だから、なんでそこまでするのかって聞いてんのよ。」

  「いや、だから、アスカが嫌だって言わないから…。」

  「くっ…。アンタって奴はこれだからね…!」

  かみ合う気配が全く見えない平行線を辿る問答に、アスカの業が煮やされる。
  コンロの前でヘラを操りながら振り返るシンジは、イラついた様子で毛先をいじくっているアスカを見て訝しげだ。

  「じゃあこうするわ。そういう返事をするアンタがイヤ。」

  「えっ!」

  機転を利かせたアスカの言葉に大きなショックを受けたシンジが体を硬直させた。
  まさかこういう言い回しをされるとは思わず、危うく落っことしそうになったフライパンを慌てて握りなおす。

  「さあ、これでその返事の仕方は無効になるんでしょ。別の言い方で表してみなさいよ。」

  「そ、そうは言われてもなぁ…。」

  「もっとこう、ほら、具体的によ。」

  「具体的に……、うーん…。」

  眉間に深いシワを寄せ、フライパンの肉に視線を落とすシンジは難しい顔だ。
  急かすように指でリズムを刻んでいるアスカの視線を背中に受けながら、精一杯に別の表現となる言葉を探す。

  「なんというか、趣味に近いって言えばいいのか…。」

  「………。」

  趣味。
  またもやアスカにとって浮かばない答えで終わりそうだと思われた時。

  「きっと、好きなんだろうね、…っ。」

  そこで瞬間的にシンジの顔がキリリと引き締まり、続く言葉が一時中断された。
  焼き加減を見極める上で、よほど重要なタイミングなのだろう。背後でガタンと椅子の跳ね上がる音を気に留めることもなく、
  神妙な面持ちでヘラに乗せたステーキ肉をひっくり返す。

  「…お世話を焼くのがさ。……よし、うまく焼けてる。」

  言いかけだった後半部分を述べながら、肉の背面の焼け具合にグッと握りこぶしを一つ。
  テーブルに身を乗り出して固唾を呑んでいたアスカが、がくりと形象崩壊した。

  「まあ、アスカにとっては余計なお節介かもしれないけどね。」

  「…〜〜〜〜〜っ。」

  自嘲的なオチをつけて苦笑するシンジの鈍感具合も、ここまで来ると凶器と言って差し支えない。
  大惨事を被ったアスカはテーブルに突っ伏した姿勢で、歯を食い縛りながらこめかみに浮き出た血管を震わせる。

  ――これでわざとじゃないってんだから、このクソバカは……!!

  単なる世話好きという発言であったのは分かるのだが、倒置法を用いるタイミングと区切り方が最悪すぎる。
  なぜ自分の為にそこまでするのかという問いかけを経た上でのことなのだから、尚更に勘違いを招くというもの。

  アスカとしても怒鳴り散らしたい気持ちはあるし、その権利は十分にある。だが、深く突っ込むべき話題ではなかったという自責の念や、
  まんまと一瞬ソッチの意味で捉えかけてしまったものだから、怒りよりも後悔や羞恥といったものの方が先立ってしまうから手に負えない。

  幸いシンジの視線がフライパンに注がれていることが救いとなり、この間にパイロット時代に嘗めた辛酸の数々を思い出すことで
  どうにか赤面だけは抑え込むことに成功した。

  「ほンと、物好きよね。アンタって。」

  十分に間を置いてから。十分に呼吸を整えてから。
  下準備に努めてから発した声も、動揺による上擦りは隠せない。

  「そうかな?」

  「そうよ。ったく…。」

  疑問は尽きない。もっとシンジの本心を探りたい。
  しかしこれ以上の追求は野暮ということにして、アスカは自らを納得させておく。

  ――捨てたのは、失敗だったかしら…。

  ゴミ袋に詰められた冷凍菓子の山を名残惜しそうに一瞥。
  野暮とは言え、これだけ遠まわしなシンジの言葉ですらこの有様である。
  万が一にこれ以上の答えを聞き出せたとして、その時一体全体どうなってしまうか分からない。

  「よしっと、出来た。」

  シンジはステーキの焼き加減にひとつ頷くと、完成した料理を手馴れた手つきで着々と皿に盛り付けていく。
  平静を装うことに手一杯なアスカとは正反対に、実にのほほんとしたその表情。

  「バカ。」

  「ん?」

  「バカって呼ばれて振り向くバカ。」

  「…アスカがそう呼ぶからじゃないか。」

  シンジは口を尖らせて拗ねながらも、自らをバカと呼称する本人の前に見事なミディアムレアのステーキをお披露目した。
  煌びやかな褐色の光沢を放つ主役だけでなく、ボイルされた色鮮やかな野菜類も付け合わされ、視覚的にも栄養的にも盤石の構え。
  不機嫌そうにツンと顔を背けていたアスカの喉がゴクリと波打った。

  「どうぞ、めしあがれ。」

  「ん、いただきます。」

  いくら相手がシンジといえども、最低限のマナーは守る主義のアスカ。
  きちんと両手を合わせて礼儀を交わした後、ナイフとフォークを手に料理を口に運んでいく。

  ――くそ。
    やっぱコイツのは美味い。

  噛めば解ける甘やかな弾力、じわりと口に広がる温かい肉汁は理屈抜きに快楽中枢を刺激する。
  氷菓子で空腹と心を欺こうとしていたのが馬鹿らしく思えるほどに。

  「はむ…、んぐ…。」

  ダイエット云々と口では強がってはいたものの、やはり空腹に耐えかねていた食欲は誤魔化せず、
  忙しなく動かされるアスカの両手が、皿と口との間を結構な速度で往復している。
  そんな豪勢な食べっぷりに気を良くしているのか、対面の席で見物しているシンジはどこか嬉しそうだ。

  「焼き加減は、どうかな。」

  食を進めている途中、不意に訊ねられたアスカは、口に運ぼうとしていたステーキの断面に視線を落として見た。
  外側から中心に向かう綺麗なグラデーション。素人目から見ても絶妙の焼き加減であることがわかる。

  「柔らかさも歯ごたえも丁度いいわよ。なにかコツでもあるのかしら。」

  「肉類全般に言えることだけど、余熱の使い方じゃないかな。」

  「余熱?」

  「うん。そこそこ焼いた所で火を止めた後、しばらく火元に置いておくことで余熱を浸透させるんだ。」

  「へぇ…。」

  何気なしに相槌を打ちながら、再び手元のステーキの断面にアスカの視線が戻される。
  しばらく見つめた後、複雑そうな表情でパクリと口に仕舞い込まれ、食事が再開された。

  「要は、中途半端に火を通して放置する、と。」

  「まぁ、そういうことだね。」

  「なんか、ものすごく納得って感じ。」

  「そう?」

  「実にシンジらしい技術だと思うわ。アンタ得意じゃない、こういうの。」

  フォークに刺さった一口大のステーキの断面を目の前に突き出され、シンジはきょとんと目を丸くしてそれを見つめる。

  「そうなのかな。ありがとう。」

  「バカ、褒めてんじゃないの。逆。」

  「え、逆?」

  「はぁ…、なんでもないわよ。」

  味は絶品。しかし焼き方の過程は気に入らない。
  アスカは今ひとつかゆい所に届かないといったムズ痒さに苛まれながらも、背を押す食欲には逆らえず、最後には綺麗に平らげたのだった。

  …

  「ごちそーさま。」

  「はい、どういたしまして。」

  ご馳走への素直な謝礼を受け取り、葛城家のシェフ兼ウェイターであるシンジは、役割を終えた皿を回収して台所で洗い始める。
  食欲を満たしたアスカはどこか満足げに頬杖をつきながら、皿を洗うシンジの背中を再び眺め始めた。

  「ねぇ、シンジ。」

  「うん?」

  「次からは、ありったけのウェルダンにするのよ。」

  「うん、分かったよ。」

  「分かってないくせに。」

  「分かってるよ。もっと火を通せばいいんだろ?」

  「どうせ、出来ないくせに。」

  「む…、出来るさ。そのくらい。」

  根拠もなく未来系で否定されるが、シンジとしても料理に対する面子がある為、おいそれと譲るわけにはいかない。
  背中越しにも彼のむくれた様子が伝わり、ふとアスカは柔らかな微笑みをこぼした。

  「そう?じゃあ…。」

  微笑みを小悪魔的なものに変えながら席を立つと、足音を立てずにシンジの背後に歩み寄っていく。
  洗い物に気を取られているのを確認した後、その耳元にそっと口を近づけた。

  「…期待してるわよ?」

  「うっわ!!!」

  突然耳元で吐息混じりに囁かれ、驚きとこそばしさを同時に被ったシンジが大きく体を跳ね上がらせた。
  その拍子に皿を持っていた手を滑らせ、シンクの中で割ってしまう。

  「な、なにするんだ!いきなり!」

  「アッハッハ!赤くなってんの。」

  吐息のかけられた耳を押さえるシンジの顔から驚きの色が消えるにつれ、次第に赤みが増すのを見たアスカは腹を抱えて笑い転げる。
  シンジは赤面しながらも、お気に入りの食器皿を割ってしまったことにお冠だ。

  「もう、酷いことするなぁ。お皿が割れちゃったよ。」

  「ああ、そうそう、アタシもさっき割ったんだった。」

  大笑いで生じた目尻の涙を拭いながらアスカは破片の詰められているゴミ箱を指差そうとしたが、その手をシンジに掴み取られてしまう。

  「怪我はしてない?」

  「………。」

  アスカの返事を待たずして、傷の有無の確認作業が始められる。指の一本一本、指先に至るまで入念なその様。
  見下ろすアスカは言葉を返さず、しばらく成すがままにさせておく。

  「…大丈夫よ。」

  片手ずつ、最後の小指がチェックされたとほぼ同時。
  本人の口からも無事を確認できたシンジが、ほっと胸を撫で下ろした。

  「良かった…。」

  「ねぇ、シンジ。」

  アスカは笑いの余韻を残した面持ちながらも、しかしどこか物悲しそうに、シンクの中に散らばる破片のひとつを手に取った。

  「アンタは、なかなか割れないね。」

  「え…?」

  「なんでもないわ。」




  …




  望みは、必ず最後に砕け散る。

  脳裏に浮かぶのは、いつかのプラットホーム。

  失いたくないから、期待しない。

  そう決めていたはずなのに。

  「とにかく、もう割らないように気を付けてよ。アスカはおっちょこちょいなんだから。」

  「………。」

  じわりと心に浸透する期待という名の余熱に、この胸はひどく締め付けられて。

  ――無責任なこと言うんじゃないわよ。
    バカシンジ。












  03: (mis)fortune.




  拙作をお読み下さった方へ、掲載の場を提供して下さっている怪作さんへ、誠に感謝致します。

  なんともネガネガしたアスカさんでお見苦しい限りですが、残り三話ほどの間、お付き合い願えれば幸いです。

  紅鮭 "benizake" : benizake02@yahoo.co.jp


紅鮭さまから連載第三話の投稿です。

シンジが主夫…というか、アスカのお母さん役をしている?(笑


そんな年じゃないからお姉さんでしょうか。

欧米暮らしで肉の焼き方は覚えなかったのですねえ…いろいろ教えてあげたりして微笑ましい。
でもまだもどかしいところがあるようです。シンジとアスカの関係みたいですね。

素敵なお話でした。投稿してくださった紅鮭さまに是非感想メールを送りましょう。