第10使徒、ゼルエル。
  侵入を許したジオフロントにて、待ち伏せた上での先行攻撃という圧倒的優位な立場で挑んだ一戦。
  しかし結果は、傷ひとつ付けられなかったどころか、両腕、頭部を切断されての惨敗ぶり。

  「チクショウ…。」

  薄暗い非常電源に照らされた弐号機のエントリープラグ内で、幾度目かの黒星を喫したアスカは悔し涙に暮れていた。
  挫けそうになる心をかろうじて堪えながら、司令部へ敵戦力の報告だけは遂行せねばと通信回線を開く。

  <<乗せてください!>>

  突然、ノイズ混じりにシンジの叫び声が飛び込んできた。
  苦渋にしかめられていたアスカの顔が驚きに変わり、視線が上がる。

  <<なぜ、戻ってきた。>>

  アスカの心の声を代弁するかのような、ゲンドウの声。

  <<僕は……。>>

  ――エヴァに乗るのが、苦痛なくせに。
    なんでいつも、アンタは。

  <<僕は初号機パイロット、碇シンジです…!>>

  怒号のような、泣き叫んでいるかのような、シンジの咆哮。

  ――バカ。
    そのまま逃げちゃえば、楽だったのに。

  そう思う心と裏腹に、アスカの視線は熱く。
  小さなウィンドウに映し出された、碇シンジという男に注がれていた。









  あんただけにそっと。

  第二話:遥かなる影









  最強の使徒、ゼルエルの襲撃から数ヶ月あまり。
  敗北のエントリープラグ内から昼下がりの教室へと、舞台と月日は移された中、アスカの視線の先にあるものは今も変わらない。

  碇シンジ。

  些細なことで自分自身と戦って、そのたび一々落ち込んで。
  やめればいいのにわざわざ困難を選んで、挫折して。
  それでも這いつくばって、無様にも前へと進もうとする。

  そんな、ものすごく疲れる生き方。
  だから、バカシンジ。

  いつしか退屈な授業中は、そんな不器用な男の背中を眺めるようになっていた。
  既知の羅列に溢れた黒板から、少しばかり視線をシンジの背中に移すだけで、不思議と退屈さは霧散する。

  それは一年あまりに及んだ使徒との抗争を終えた、現在でも。

  ――ずいぶんとまぁ、調子の良さそうなことで。

  おそらくはチルドレンの責務から解放されたことへの安堵の表れなのだろう。
  日を追うごとにシンジの肩から力が抜けていっている様に、頬杖をつきながら彼の背中を見つめるアスカが内心で愚痴をこぼす。

  ――こちとら一息つくどころか、尚更張り詰めてるってのにさ。

  パイロットの任期中は同じ境遇に立ち、同じ苦悩と重責を背負い、同じ死線を潜り抜けてきたというのに。
  未だ安息を得られないでいるアスカは、およそ一抜け状態な様相を呈しているシンジが腹立たしい。

  "アスカだって、エヴァに出会ってからの月日は、無駄なんかじゃないよ、きっと…。"

  数日前、帰りの電車を待っていた駅のプラットホームで、シンジから贈られた言葉が脳裏に浮かぶ。

  ――エヴァに出会って、アンタに出会って、この有り様でしょうが。
    無駄に出来るんなら、無駄にしたいっつーの。

  黒板へ端末へと、忙しなく板書作業をしているシンジの背中に目掛けて、今日何度目かの溜息が放たれた。




  …




  学校での終礼の後に二言三言交わしたこと以外、特に会話らしい会話もなく。
  夕暮れの朱に染まる第3新東京市の家路を、アスカとシンジが歩んで行く。

  住まいが同じであるのだから帰路が同じであることは勿論のことであるが、お互いの護身的な意味合いもあり、
  ミサトの指導下のもと、二人は登下校を共にすることが義務付けられている。

  「………。」

  「………。」

  黙々と先頭を立って歩くアスカと、その後ろを歩いているシンジ。
  二人の間隔、およそ10メートル。
  何かにつけて夫婦漫才だとからかわれがちな昨今、周囲に誤解を招かない為だと、アスカによって設けられた規定の一つ。

  「………。」

  不意にチラリと、アスカが振り返る。
  ん?と顔を上げるシンジを一瞥した後、再び前を向いて歩き出す。

  登下校の最中、2〜3回と繰り返される同様の行為。
  シンジとしても特に気に留めない、毎度のやりとり。
  ただ一つ、前を行くアスカの顔が不満げにしかめられている点だけが普段と異なっていることに、後ろを歩くシンジは気付かない。

  ――勝手に期待してるのはアタシ、か。

  地面に投影された、シンジの身に一方的に寄りかかるアスカのシルエットが思い返される。

  しかし今のこの状況を、改めて省みて、果たしてどうだろうか。
  先立って歩みを進める自分と、それを追う形で後ろからついてくるシンジという、この構図。
  期待どころか、むしろ遠ざけているのは、他ならぬ自分であると言えるのではないだろうか。

  「………。」

  そう、願望と恐怖が両立している二律背反な感情を誰よりも、自ら噛み締めているからこそアスカの表情は浮かばない。
  近すぎず、遠すぎずのこの距離は、碇シンジという人物に対して接する時、これまで幾度と無く付き纏ってきたジレンマの表れ。

  「………。」

  だが、しかし。

  再び足を止めて、顔だけ振り返る。
  再び触れ合う、視線。

  ――遠い。

  いつもはこれで満足できているはずの距離なのに。
  まるで胸の奥に小さな隙間が作られ、その間を木枯らしが吹き抜けていくような一抹の寂しさに見舞われる。

  チルドレンの役割を終えた今、それを超える願望の存在に気が付いてしまったからなのか。
  数日前、帰りの駅のホームで身を寄せたあの時、心の中で何か綻びが生じてしまったのか。
  冷たく凍るこの心が、温もりを得る心地よさを知ってしまったためなのか。

  何はともあれ今のこの距離は、今のアスカには、ひどく物足りないものを感じさせていた。

  「どうしたの?アスカ。」

  普段とは違い、横顔だけ振り返ったままのアスカは一向に歩き出そうとしない。
  それを気にかけたシンジが足を止めて様子を窺っている。

  「………。」

  アスカの唇が、僅かに噛み締められる。

  自分が足を止めれば、シンジもまた足を止めて距離を保つことへの煮え切らぬ想い。
  この距離を保てといった取り決めを忠実に守っているだけだというのは分かっているのだが、
  時として彼の正しすぎる気遣いは、アスカの内に理不尽な感情を駆り立てることになる。

  そうしてしばらくお互いの間に沈黙が流れていた折、思い切ったようにアスカがシンジの方へ振り返った。

  「やっぱり、不安だわ。」

  「え?」

  「この距離のことよ。」

  「あれ、そうかな。それじゃあ…。」

  「あ〜違うわよバカ、そういう意味じゃない。」

  決められた距離よりも近付き過ぎてしまっていたのかと、よもや後退して更なる距離を取り出すのだから困り者のシンジである。
  アスカは相変わらず的外れな解釈を見せる彼に対して呆れを覚えつつも、慌てて呼び止めるのだった。

  「アタシたちはお互いの護身の目的で、一緒に登下校してるのよね。」

  「うん、そうだけど。」

  「だから…、咄嗟の時にこの距離だと、危ないでしょってこと。」

  「……?まあ、そうなのかな。」

  他の生徒に勘違いされるとイヤだし、アンタの後追いなんて格好は癪だから10メートル後ろからついてきなさい。
  そう自分に言いつけたのはアスカなのにと、腑に落ちない提案理由を述べられたシンジは頷きながらも釈然としない様子だ。

  「アタシがいいって言ってんだから、とにかく距離を詰めんのよ。」

  「詰めるって言っても、どの辺りまで?」

  「この可憐でか弱い美少女を、卑劣な暴漢の魔の手から守れそうな距離まで。」

  「………。」

  「返事は。」

  「はい…。」

  訝しげな眼差しを送るシンジが、半ば強要された形で要件を飲まされる。
  その気になれば大男の一人や二人くらい、容易く返り討ちに出来るくせにという突っ込みを入れたい所ではあるが、
  異議を唱えた所で可憐でか弱い少女とやらから痛烈な折檻が下されるだろうことは、さすがのシンジとて分かりきっているようだ。

  「それじゃあ、とりあえず隣を歩かせてもらうよ。」

  「えっ。」

  「近ければそれだけ、お互い安全だからね。」

  「……、ちょっと、待ちなさい。」

  シンジから思わぬ大前進の提言を受けたアスカが思わずタイムを要求する。

  ――やっぱり、変だ。

  最後の使徒を倒した後、ゲンドウからチルドレン解任を言い渡された時のような違和感が、アスカの心に立ち込める。
  衝撃に備えて身を強張らせていた所を、思いのほか弱い力で叩かれたような、あの肩透かし感。

  以前なら考えるまでもなく却下するはずのシンジの提案も同様、抵抗感は依然大きいものの、
  別に許してやらなくもないかなと、少なからずも自らの意思に選択の余地が生まれていることに躊躇いを覚える。

  「アスカが嫌なら別だけど。」

  「むむむ…。」

  別に、いいわよ。

  喉元まで込み上げているシンプルなその一言が、なかなかどうして。
  シンジの要求にすんなり承諾のサインを出してしまうのが癪に障るという稚拙な意地が、アスカを唸らせる。

  「………。」

  「アスカ?」

  しかし、据え膳食わぬはアスカの恥。この機を逃せば、二度とシンジの口から同様の提言が出てくることはないだろう。
  シンジの口どころか、アスカの口からなどはまずあり得ないわけであり、事実上のラストチャンス。
  願い、破れてきた過去の望みの数々を思い起こすことで、アスカは決断する。

  「気が乗らないけど。どうしてもってんなら、別に…。いいけど?」

  しばらく逡巡した結果、予定されていた言葉よりもずいぶんと遠まわしな承諾が出された。

  「よかった。それじゃあ、行こうか。」

  困惑を押し隠しているアスカの心情など知るはずもなく、シンジは隣に位置すると、爽やかな面持ちで帰宅の再開を告げた。

  「………。」

  心を乱されたことで僅かに劣勢を感じたアスカだったが、返事となる皮肉を思いつくより先に歩き出され、渋々と歩みを同調させる。
  口をへの字に結んだ顔をシンジから背けることで、せめてもの不服の意思表示としたようだ。

  ――まったく。
    気に食わないわね。

  意気地なしのシンジなら、せいぜい距離を半分ほどに縮めるくらいだろうという目論見を裏切られたことへの反発感。
  殊更シンジからの善意に限ってはプライドの感度が強くなりがちなのが惜しまれる。

  「バカシンジのくせにさ。」

  「へ?」

  「ふん、なんでもないわよ。」

  ようやく出された悪態も、日頃使い古されているお決まり文句であっては威力に欠けるというもの。
  現に隣で、なんで怒っているのやらと、あっけらかんとしたシンジが物語っている。

  ――なによ。
    調子づいちゃってさ。

  心なしか嬉しそうな面持ちのシンジを隣に据え、半ば嫌々といった態度を演出しながら歩いていく。

  惣流アスカにとって、碇シンジという人物はあくまで自分の手のひらの上で踊らされていなければならない存在なのだから。
  その手のひらにいるはずの者の言動により、手のひらの主が振り回されてしまっては本末転倒というものだから。

  故に、アスカは気に食わない。




  …




  夕焼けに照らされた、緩やかな傾斜道。
  二人肩を並べて歩き続ける。

  「…………。」

  「…………。」

  辺りに木霊するセミの鳴き声の中、同じ歩幅、同じ歩調で。
  お互い特にしゃべる理由もなく会話はないが、それが二人の居心地の悪さに直結することもなく。
  ただ、穏やかな顔で歩くシンジの隣のアスカだけが、何やら難しそうな顔でチラチラとお互いの足元に目を配っている。

  「足、ちょっと早いわよ。」

  「ん…、そっかな。」

  ふと足並みが乱され、若干シンジが前にリードしかけた所を、すかさずアスカが追いついた。

  「気をつけなさいよね。」

  「ご、ごめん。」

  注意を受けるシンジは、先ほどからアスカが肩を並べるラインの微調整に腐心していることに気付いていない。
  後ろに下がられるならまだしも、前に出られることはプライドが許さない為、細心の注意が払われている。

  ――なかなか、難しいわね…。

  ただ隣同士で歩くことがこんなに難儀なことであったとは思わず、承諾を出したことへの一抹の後悔が浮かび上がる。
  そもそもの話、アスカ自身は距離が半分くらいになれば御の字と踏んだ上で提言していたのだ。
  仮に護身の為であったとしても、二、三歩くらい後ろを歩かせれば十分であり、こんな苦労を伴うこともなかった。

  ――バカバカしい。
    なんで、こんなことのために気を揉んでるんだろ。

  チラリと、瞳の動向を隠すのに便利な長い前髪の隙間から、隣のシンジへ視線を傾ける。

  「………。」

  じわりと、胸の奥底で摩擦するかのような熱の広がりを感じる。
  この存在が傍らにあるだけで、この凍てついた心に不思議と温度が宿される。
  それは、離れて歩いていては到底感じ得なかったもの。

  これだけ気を揉まされながらも放棄しないでいるのは、やはりそれだけの対価を得ているからなのだろう。
  プライドと折半の付く上で、熱を最大限に得られる最短距離は、完全に隣に位置している時なのだから。

  ――ほんと、気に入らない。

  悔しくもまた一つ温もりを知ってしまったアスカは、改めての不服を心で述べるのだった。




  …




  家路。
  帰る家を持つ者だけに示し出される、幸福の道のり。

  道中、シンジは手の負担を均等にするためか、それまで持たされていたアスカの鞄を、何気なく反対側の手に持ち替えた。
  図らずしも、並んで歩く二人の間に、お互いの空いた片手が向き合う格好となる。

  ――まずい。

  瞬間、アスカの頭にあることが閃き、即刻、アスカの意思で削除された。

  アスカは閃きに到らせた自らの鋭敏さと好奇心を呪った。
  いくらなんでもそれは無理難題であるだろうと、あらぬ失態を犯した自らの心に言いつけるが、事後であっては撤回できない。
  反射的に一瞬浮かんだだけの衝動的な欲求は、焚かれたフラッシュで焼き付く残影の如く、色濃く脳裏に焼き付いてしまっていた。

  "もしも、手を繋いで歩いてみたのなら"

  隣同士で歩けているだけでも、以前の自分からは考えられぬほどの躍進であり、プライドの許容範囲ぎりぎり一杯の奇跡的現状である。
  だというのに、一度温もりを覚えた冷たき心は、更なる温度を欲してやまないでいる。

  ――増長しすぎだってば…。

  なんとか無心に努めようとする意思に反して、浅くなる呼吸、音を増す鼓動、分泌される唾液、じわりと汗を帯びてくる手のひら。
  主人に無断で臨戦態勢に突入する自律神経が恨めしい。

  ――無理。
    絶対無理。

  しかし、行動に移す為の許可を下す最終権限はアスカの確固たる意思にある。
  冷たい氷の檻に囲われた、この心。
  捕らわれた囚人がいくら喚き立てた所で、看守であるアスカがNOという意思を決め込んでいるかぎり、実現には及ばない。

  「…ったく。」

  調子に乗った心への制裁とばかりに、今回ばかりは心を閉じ込めている氷の檻の冷却度合いを強めていく。

  「うん?」

  「なんでもない。」

  厳罰を受けた心はほどなくして本来の冷たさを取り戻し、無事に静まり返った。

  「はぁ…。」

  増長しやすい心を囲う氷の檻に施された、プライドという名の強固な錠前に、憂いの溜息を一つ。
  幼少の頃、チルドレンに選出されてからというもの、未だに破られたことのない信頼と実績を兼ね備えたこの錠前。
  アスカ本人とてこれを開錠することは容易な代物ではなく、おかげで心は万年凍土に寝かされている。

  「そうだ、夕飯なんだけど、何かリクエストある?」

  「…特にないから、なんでも。」

  「じゃあ久々に、アスカの好きなハンバーグにしよう。」

  「…別に、好きじゃないし。」

  「そう?ハンバーグの時は味付けに注文が多いから、てっきり。」

  「アンタの勝手な思い込みでしょ。バカバカしい。」

  冷却を強めたせいで、普段よりキツイ対応が表に出てしまう。
  好物を見透かされたことさえ気に食わず、心にもなく否定の言葉を口にしていた。

  「そ、そっか。えっと…、じゃあ、何にしようかな…。」

  アスカへのとっておき料理という自信を否定され、シンジは少し物悲しそうに視線を落としながら別の献立を考え始める。
  そんなシンジの失意の色を如実に察したアスカの心は、一層に凍てつき始める結果となる。

  ――シンジ、アタシ。
    ハンバーグが、食べたいよ。

  心で思うならいざ知れず、なぜ、単純なその欲求を素直に言葉へ変換できないのか。
  そんな理由など、アスカ自身も分かりきっている。

  そう、分かりきっていることなのだ。

  プライドという名の心の錠前が、もはや疎まれる存在でしかないことを。
  熱を求める心の欲求に対して最終権限でNOの審判を下しているのは、己の意思と偽る、この忌々しき錠前なのだ。

  脆弱な心の防衛に当たり、囲う氷の檻の唯一の弱点となる熱を退け、融解を恐れている。
  これ以上碇シンジに傾倒して、万が一その支えを失った時、今度こそ取り返しのつかない事態になるのだぞと、
  脆く寂しがりやなアスカの心に、鉄格子越しに懸念と題した恐怖を刷り込ませる。

  そう、錠前の姿をした看守は、アスカに幾度となく優しく語り続ける。

  期待は当てにならない。期待はするな。期待は未来の痛みなのだと。
  砕け散る願望の破片は鋭利な刃物となり、あなたを傷付けるのだと。
  これは硝子のように割れやすい、あなたの心を護る為なのだと。

  気高く美しいあなたは、孤独だからこそ保たれるのだと。

  「………。」

  自ら突き放したシンジ以上に落胆を滲ませ、アスカは地面の一点を見つめながら想いを馳せる。

  離れた距離に満足できず、今こうして肩を並べて歩くに到った。
  ならば、肩を並べるだけで満足できなくなった、その時は。

  ――期待したって、こうして痛みになって返ってくるだけじゃない。
    どうせ、アタシは……。

  無垢で素直なアスカの心は、看守の脅し文句を鵜呑みにし続ける。
  極寒に支配された世界の中、ひとり、膝を抱えて身を震わせながら。

  これまでと、同様に。
  これからも、きっと、同様に。

  役割を果たさぬアスカの手のひらが、歩調に合わせて空を切った。




  …




  「………。」

  「………。」

  夕暮れ時もピークに差し掛かり、周囲は色鮮やかな紅の度合いを強めていく。
  先の和やかなムードから一転、お互いに落胆の色を湛えて家路を歩く、シンジとアスカ。

  「……?」

  ふと、辺りに一陣の風が吹き抜け、道路の両端に植えつけられた街路樹たちが音を立てて靡き始める。
  背後から頬をかすめて飛んでいく緑葉の一枚を、アスカは何気なしに目で追った。
  不規則に乱れる風に弄ばれ、転々と舞っていく葉を見ている内、周囲に存在しているあらゆる物の影が伸ばされていることが見て取れる。

  背後ではずいぶんと夕日が傾いているのだなと、同様に伸ばされているだろう自らの影に視線を移した時。

  ――何よ。これ。

  アスカの意識は、長く伸ばされていた自身の影の行方に釘付けとなった。

  朱に染まるアスファルトに映し出された、アスカの影と、その隣を歩くシンジの影。
  手を少しでも意図して動かそうものなら触れ合いそうなほど、近くに置いた距離なのに。

  二人の影は、見事なまでの、平行線で。
  ほんの一部として、交わることもなく。
  それがまるで二人の辿る未来を象徴するかのように、伸ばされて。

  ――いやよ。
    そんなの。

  以前のアスカであれば、さして気にも留めなかった事象であっただろう。
  しかし、存在意義が立ち代り、心が大きな様変わりを見せ始めている今、何かとシンジとの関係に結び付けて連想されてしまいがちになる。

  「………。」

  元より願望に対しては非常に神経質でデリケートなアスカの心が、平行線の影に不吉な兆しを抱かせる。
  たまらず影に接点を作ろうと反射的に伸ばされそうになった片手を、かろうじて寸前で堪えた。
  警笛を鳴らすかのように、心の錠前が再び軋み立てた為に。

  ――シンジ、気付いてよ。
    アタシ、コケにされてるのよ。

  自然の織り成す偶然の産物とはいえ、碇シンジという人物と真剣に渡り合っている最中、プライドと理性に入念に掛け合わせ、
  苦心に苦心を重ねてようやく肩を並べて歩けるようになったところだというのに、このような光景を見せ付けられてはたまらない。

  それも先刻、自らの失言によって気まずい空気が漂っていた矢先の出来事。
  アスカにとっては屈辱以外の何者でもない。

  「……、……シンジ。」

  「なに…?アスカ。」

  恐る恐るといったシンジの口調からは、理不尽な不機嫌さを醸しだしていた先ほどのアスカへ対する慎重な姿勢が窺い知れる。

  「……アタシ、怒ってないわよ。」

  「う、うん…。」

  「本当…、怒ってないんだから。」

  「僕も、なんというか…。何かと至らないで、ごめん。」

  「バカ。またすぐ、そうやって…。」

  伸ばした影で皮肉る斜陽の日差しに、少しでも仲を保つ姿勢を見せることで抵抗を試みたものの、どういうわけかシンジから謝られる始末。
  食い違う、ちぐはぐな関係が今後も永らく続くことを示唆するかの如く、更にじわりと、影の丈が伸ばされた。

  ――チクショウ…。

  不吉に伸ばされる影よりも、何よりも。アスカは自身が不甲斐ない。
  何も複雑なことではなく、シンプルな一つの答えがあるだけの話。
  少し、ほんの少しだけ。
  触れ合う部分を作り、二つの影に橋を渡してやれば、それだけで気が済むことなのだ。

  「っく…。」

  空いた片手を握り締めることで、意を決する。
  こんなくだらない事象ひとつに敗北を喫するわけにはいかない。
  自らの狭き心が敗北を認めたのは唯一、他ならぬ隣を歩くこの男だけであり、許容可能なスペースは生憎と一人分だけである。

  ――簡単な、ことなんだから…。

  肩を並べて歩くということにしたって、こうして一度経験してしまった今では、何のことではないと振り返る。
  あれだけ躊躇い、思い悩んでいたことが嘘のようにさえ思えるではないか。

  喉もと過ぎれば、熱さ忘れる。
  良薬、口に苦し。
  雨降って、地固まる。

  先人の生み出した偉大な諺の数々を、ギシギシと盛んに軋み立てる心の錠前に言い聞かせながら、
  アスカは恐る恐ると、空いた片手を隣のシンジの手のひらへと伸ばし始めていった。

  「……アスカ?」

  不意に、制服の袖を握られたシンジが、何事かと隣のアスカへ顔を向けた。

  「……ちょっとした、トラブルの解決。協力して。」

  「えっ…、どうかしたの?」

  俯き加減のアスカは意図しているのか、絶妙の角度で覆う長い前髪に表情が隠されており、シンジからは窺い知ることができない。

  「………。」

  アスカがなけなしの勇気を振り絞った甲斐もあり、長く伸ばされた二つの影は、晴れて接点を持つこととなった。
  心の底で大きな安堵を得た一方、しかし今度はシンジへの接触の口実に追われることになるのだから皮肉な状況が続く。

  「これは……、その。」

  最後の見物とばかりに、逃げ場なく照らし出す陽の光が、更なる影の伸びしろを見せる。
  瀬戸際に立たされたアスカも負けじと頭脳をフル回転させ、行為に至った理由となる弁明の言葉を探し出す。

  ――これしかないか。
    やっぱり。

  護身というキーワードへの帰結。
  今こうして隣合わせでいることに至った口実がお互いの護身の為であるのだから、それに準じない手はない。

  「……今、尾行されてるから、守ってやろうと思って。」

  「!?」

  思わぬ拍子に危機的な知らせを受けたシンジが、咄嗟に身を背後に反転させた。

  「ちょっ…とと、こら…!」

  袖を掴んでいたアスカの身がシンジを軸に半円を描くコンパスのように引っ張られることとなり、
  つんのめりそうになりながらその勢いに追いつく。

  「ど、どの辺りに潜んで…!」

  今では"元"チルドレンの一学生の身であるとはいえ、腐っても鯛。
  人類に及ぼした多大な功績によるブランド力は確かであり、他の一般人に比べれば遥かに誘拐等の標的に成り得る存在であると、
  日頃からミサトより危険性を説かれていた甲斐もあってか、アスカの方便も殊更シンジには覿面に通じたようである。

  「ん…、えっと、まぁ、あの曲がり角の辺りに。」

  そんなシンジの必死な形相に手応えを感じたのか、途端に適当な言い草になってしまうのだからアスカも現金なものである。

  「アスカ、手、離して。」

  「っ…。」

  袖を掴んでいた手が強引に振り払われ、解かれたアスカの片手が宙に舞う。
  失意の念が頭を過ぎったのも束の間、掴むものを失った手のひらは、シンジの手のひらによって握り直された。

  「気が付かなかったよ…。早くこの場から離れよう。」

  「え、あ…。」

  手を取られたことに苦言を呈するより早く、すっかり警戒感を強めたシンジに手を引かれ、早足での家路を急かされる。

  「ちょ、ちょっと、アンタね…。」

  振り解きたい衝動に駆られるが、頻繁に後ろを振り返りながら周囲に注意を払うシンジの真剣な様子を見れば、毒気も抜かれてしまう。
  アスカは少し嘘が過ぎたかなと省みたものの、しかし背後に不吉な未来を照らす斜陽という忌むべき追跡者がいたのも事実。

  ――鵜呑みにしちゃって。
    ほんと、単純な男。

  シンジがアスカを引っ張って行くという、なんとも珍しい光景が展開される最中。
  内心で悪態を吐きながらも、手を引かれるアスカはまんざらでもない面持ちで、彼の後ろをついていく。

  隣を歩く。
  手を繋ぐ。
  手を引かれる。
  前を歩かれる。

  かつて心の錠前が大きな恐れを抱かせていたそれらのタブーが、シンジによって、いともあっけなく破られていく。
  要は、アスカの心の錠前の制御が及ばないシンジからの働きかけであれば、それらは容易く叶えられていくわけで。

  ――結局、簡単なことばかり。
    単に、アタシが怖がりなだけで。

  尤も、シンジがアスカの手を握る理由が、単なる危機回避の為であるということはアスカ自身も分かっている。
  それでも、形だけでも叶ってしまったことは、アスカにとっては明日の不幸が気掛かりなほどの僥倖を思わせる。

  「………。」

  アスカは今一度、接点の作られた長い影を眺めながら、握り合わせた手のひらの温もりを確かめる。

  体のほんの一部を触れ合わせているだけのことが、こんなにも心地良いものだとは。
  つい先程まで、歩調を整えることで苦心し、隣の影との接点の作り方であれだけ葛藤していた時間は遥か過去。
  あまつさえ、今では手すら繋いでいるというのに。

  ――こんな厄介な女に望まれちゃうんだもの。
    同情するわ、アンタには。

  手を引くシンジの後ろ姿を、自嘲的な笑みを浮かべたアスカが、まじまじと見つめていた。


  …


  本当は、手なんて繋ぎたくないけれど。
  手のひらを握り締められるものだから、仕方なく。

  本当は、後ろをついていくなんていやだけど。
  手を引っ張られるものだから、仕方なく。


  …


  一時的に熱を帯び始めたこの心も、いずれ再びその冷たさを取り戻していくのだろう。

  囲われた氷の檻の中、痛むほど冷たい凍土に寝かされて。

  それでも、力強く握り締められた、この手のひらの温もりを覚えていられる限りは。

  少なくとも、凍てつかずには済みそうだ。












  02: freezing point.



  拙作をお読み下さった方へ、掲載の場を提供して下さっている怪作さんへ、誠に感謝致します。

  ガス抜きと銘打ちつつ、なんだか胃の重たいLASな気が…。
  反省を踏まえまして次回は元気印のミサトさんを交えての、ちょっぴり明るいお話となりますのでご容赦を。m(_ _;)m

  よろしければ、お叱り・ご感想など頂けると幸いです。

  紅鮭 "benizake" : benizake02@yahoo.co.jp


今回のアスカはまだトゲトゲしいようですね。このアスカはハンバーグが好きじゃないのかー…と思ったら、ツン状態だったのですね。
やはり冒頭の件、しっくりこない感情が残っていたのでしょうか。

でも反省して無理矢理距離を縮めてみたり、少しデレていますね(^^)

次回アスカはハンバーグを食べてくれるでしょうか…シンジは作るとも言ってませんから、それは難しいかもしれません。

皆さんも紅鮭さんに感想を送って続きを書いてもらいましょう。