真っ白い爬虫類を思わせる巨躯と、不釣合いの大きな翼を持つ、最後の使徒。
  不気味な笑みを思わせる大きな口、その咥内に光の粒子が収束し、何度目かの閃光攻撃が放たれた。

  夜の闇を切り裂く、一文字の光の槍が、瞬く間に標的である初号機との距離を詰めていく。

  「綾波!準備は!」

  「いつでも。」

  レイの確認を聞くより一瞬早く、差し迫った光の槍を、寸での所で身を反転させて回避する初号機、シンジ。
  遠心力をそのまま生かして投げつけたソニックグレイヴは見事に使徒の翼に直撃し、空中からの撃墜に成功した。

  「当たった…!」

  「ターゲットの落下地点補足。発射。」

  初号機の攻撃が命中するのと、まさに時を同じくしてレイの零号機がグレネードランチャーを放った。
  着弾までのタイムラグを狙い定めた通り、使徒が大地に接触した瞬間という絶妙のタイミングで弾頭が命中した。

  大きな爆炎が立ち上る中、体の大部分を破壊された使徒が、自己修復状態へ移行する為、動きを止めた。

  息を荒げているかのように大きく開閉している使徒の口から、剥き出しとなったコアが覗いている。
  垣間見えた、絶好の勝機。

  「アスカ!今だ!」

  「弐号機、今よ。」

  振り返ったシンジとレイの視線の先には、既にポジトロンライフルを狙撃体勢で構えている真紅の弐号機。アスカの姿。

  ――これが、最後の使徒…。

  震える指。
  震える瞳。
  照準カーソルは点滅を繰り返し、しきりに補足完了を知らせている。

  ――これが、パイロットとして、最後の…。

  心に立ち込める暗雲。色あせる視界。硬直する筋肉。
  プラグスーツの内側でじっとりと噴き出す、不快な汗の感触だけがはっきりと感じられる。

  『アスカどうしたの!今しかないわ!』

  『何をしている…!』

  司令室からの通信音声がひどく遠くに聞こえる。
  激しく繰り返される呼吸に反し、肺に酸素が届かない。

  ――セカンドチルドレン、惣流アスカ。
    いままでの、すべては。
    適格者としての、自分の為に。

  今、ほんのちょっとの力を引き金に込めれば、世界は救われる。

  ――戦いが、終わる。
    すべてが、終わる。
    アタシの、存在意義すらも。

  照準の中で自己修復を始めた使途が、ゆっくりと、元の形態を取り戻してゆく。
  ニヤリと歪んだ口の奥に収束する光の粒子。閃光攻撃の予兆。

  背中に氷を押し付けられたような、死の予感が全身を駆け巡る。

  ――やられる…!

  瞬間。

  金縛りの全身が弛緩し、弾かれたようにトリガーが絞られた。

  解き放たれた凄まじい威力を誇った陽電子の柱が、吸い込まれるように使徒のコアへと突き刺さる。

  トドメの一撃。

  使徒の爆発の炎に照らされた、赤黒い夜空をボンヤリと眺めるアスカの耳に、オペレーターからの勝利報告が聞こえてきた。

  『最終使徒、殲滅。』

  こうして人類は、もとの平和な日常を取り戻し、惣流アスカの日常は、今日ここに終わりを告げた。









  あんただけにそっと。

  第一話:砂塵の願い









  一年余りに及んだ使徒との抗争の末、種の存続というかけがえのない権利を勝ち得た人類。
  戦いの終結の速報に世界中が酔いしれている最中、称えられるべき立役者であるネルフは勝利の余韻に浸る余暇もなく、
  膨大に積み重なった戦後処理作業という新たな強敵を迎えて、本部施設内はどこかしこも一層の喧騒に包まれていた。

  そして、勝利の担い手となったパイロット三名、綾波レイ、碇シンジ、惣流アスカ。
  帰還後はゲンドウから短い労いの言葉を贈られたこと以外、普段と何ら変わりはなく、帰路に向けて更衣室での着替えを済ませていた。

  「…………。」

  「…………。」

  女子更衣室で、アスカとレイ。最後の戦いを終えた今日もまた、普段と同じく。
  お互い会話を交わすこともなく、黙々と帰り支度を済ませていく。

  「…………。」

  「…………。」

  脱いだプラグスーツを丁寧に折り畳み、滑らかに制服の袖に腕を通していくレイの着替えは、一挙一動、実に整然とこなされる。
  対照的に、離れたところのロッカーで着替えているアスカは、普段よりも明らかに荒々しさを増していた。
  険しくも悲壮に満ちたその横顔、生地が破けんばかりの粗暴な動作のひとつひとつから、彼女の鬱積した感情の度合いが推し量れる。

  そんなアスカが掛け違えたシャツのボタンの修正作業に追われている一方、レイは一足先に帰り支度を済ませたようだ。
  いつもならばそのまま立ち去るところだが、どういうわけかその場に留まっており、じっとアスカを見つめている。

  「…………。」

  「……何よ。」

  無口で無表情ながらも、人の心を見透かしているかのような、独特の眼差し。
  纏わり付く視線に苛立ちを覚えたアスカが鋭い眼光を返した折、レイの口から予想だにしない一言が返された。

  「辛そうね。」

  その言葉に一瞬、呆気にとられた顔を経て、アスカの顔が憤然たる面持ちへと変わる。
  嫌悪の対象としているレイに気遣われているという事実は、アスカの奥底から憎悪の念を掻き立てるには十分な引き金だ。

  「良くなると、いいわね。」

  突き刺ささる敵意を物ともせずに二言目を紡ぐと、レイはまるで心の在り処を示すかのように、片手を胸に当てる仕草を見せた。
  慈悲をも感じさせる、凛とした口調。母性をも感じさせる、柔らかな眼差し。
  レイの優しさすべてが、アスカを追い詰める。

  「うるさい、アンタなんかに心配されたかない…!」

  「私だけじゃない。碇君も、きっとみんなも。」

  「っ…余計なお世話よ!」

  無表情ながら、暖かく炎のような赤い瞳から放たれる、真実を語る眼差しが、冷たく氷のような青い瞳を劣勢に立たせる。
  これまで"人形"と蔑視していたレイの意外な人間味に触れ、動揺を悟られることを恐れたアスカは、逃げ出すように室内を後にした。

  「あっ…。」

  更衣室の外で二人を待っていたシンジが、突然飛び出してきて走り去るアスカに声を掛け損なう。
  何事かと口をぽかんと開けたまま、続けて歩み出てきたレイと共に佇み、遠ざかるアスカの背中を見送る。

  「アスカ、どうしたんだろう。」

  「彼女、負傷してる。あとで診てあげて。」

  「えっ…!」

  「司令に呼ばれてるから、私はこれで。」

  「ちょっ、綾波…。」

  負傷ならリツコに報告した方が適切ではないかと言うより先に、レイは別れの目配せをすると、静かな歩みでその場を立ち去ってしまった。
  一概に負傷と言われても、その詳細が明かされていない上に、医療知識もろくにないシンジに診断を任せられても困りものである。

  「な、なんだよ一体…。」

  事態を把握する由もないシンジは当然、困惑したまま取り残されることになる。
  二人の帰り支度を待っていたはずが、あっという間に置いてきぼりの立場に回されてしまうのだから報われない。

  「よう、シンジ君。苦戦しているようだね。」

  「あ、加持さん…。」

  成す術なくレイの背中を見送っていた折、不意に背後から掛けられた声に振り返る。
  長髪を縛った髪に、無精ひげ。腕まくりした紺のYシャツにぶら下げられた、緩みきったネクタイ。
  規律正しいネルフ職員の中でも特異的なその風貌は、振り向けば一目で加持リョウジであると分かる。

  「休憩ついでに立ち寄ってみたら、君たちの姿が見えたんでね。揉め事か?」

  「そういうわけじゃないんですけど、僕にもよくわからない状況で…。」

  「そうか。とりあえず、座ろうぜ。」

  トレードマークと言える独特のニヒルな笑みを携え、持っていた缶コーヒーを手渡しながら、加持は傍らのベンチへ腰を下ろす。
  予め缶コーヒーを二本用意していた辺り、どうやら始めからシンジに用事があって来たらしいことが伺える。

  「アスカはどうした?」

  「それが、何も言わずに先に帰ってしまって。綾波からは、アスカが負傷しているから診てくれと言われるし…。」

  「ほう、レイから頼み事とは珍しいな。」

  コーヒーを口にしながら、加持は軽く驚いたようにひょいと眉を持ち上げる。

  「まぁ、アレだな。世界は救われたが、君にはまだもう一つ救うものがあるわけだ。」

  「えっ…、使徒がまだいるんですか?」

  「ハハ、確かに使徒みたいなものかもな。それも君にしか手に負えない特別な相手だ。こいつはなかなか手強いぞ。」

  「僕にしか…?」

  「なぁ、シンジ君。」

  さっぱり事態が飲み込めないといったシンジに、苦笑いを浮かべながらも、しみじみとした口調で加持が語りかける。

  「君という男が居てくれたこと、本当に感謝するよ。」

  「加持さん…。」

  「君のおかげで、ようやく俺も代役を降りられるってもんだ。」

  「何を…さっきから一体、なんの話ですか。」

  「アスカのことさ。」

  「えっ、アスカの…?」

  使徒の話からなぜアスカの話に繋がるのかと、素っ頓狂な声をあげるシンジに加持は再び苦笑いを浮かべる。

  「あえて、多くは言わん。前にも言ったろう。君にならできる、君にしかできないことがあるってな。」

  そう締めくくり、気合いを入れるようにシンジの背中を平手で叩くと、組んでいた片足を跳ね上げて反動をつけながら立ち上がる。
  そして飲み終えた空き缶をゴミ箱に投げ入れると、片手をひらひらとさせながら仕事場へ戻っていった。

  「あいつは根っからの冷え性だ。あっためてやれば大丈夫。」

  最後に贈られた餞別のアドバイスを受け取りながら、シンジは腑に落ちないといった面持ちで本日三度目となる背中を見送った。

  「冷え性…。」

  ここは常夏、第三新東京市。



  …



  場所は移り、夜の静寂に包まれた駅のプラットホーム。
  ネルフ本部関係者御用達の為だけに作られた駅ということもあり、無駄に広く作られたプラットホームには一般人の姿がないのは勿論、
  今日は終戦日とあって全職員が残業に駆り出されている為、現在は完全な無人駅と化している。

  ただ、ひとり。

  ホームの椅子に腰掛け、膝に乗せた鞄に頬杖をつきながら、一時間に数本しか来ない帰りの電車を待つアスカの姿を除いて。

  「アスカ。」

  加持と別れた後、一足遅れて到着したシンジが、まもなくアスカの姿を発見して声を掛けた。

  「………。」

  アスカから返答は無いものの、紅茶色のロングヘアーに、特徴的な真紅のヘッドセットは彼女以外の何者でもない証明。
  遠目にもシンジは確信を持って歩み寄っていくと、次第にアスカの姿が大きくなるにつれ、俯き加減のその顔に険しさが伺い知れてきた。

  「アスカ?」

  「…うっさいわね。聞こえてるわよ、バカシンジ。」

  ネルフ本部での先程の様子から、決して機嫌が良さそうでないことは察していたが、開口一番でお決まりの文句が飛び出すとは思わず。
  一年以上の歳月の中、戦友として苦楽を共にしてきた仲であるからもはや慣れたものとはいえ、やはりシンジは苦笑を禁じえない。

  「あまり嬉しそうじゃないんだね。戦いが終わったのに。」

  アスカの機嫌の程を計り知れたシンジが、一人分席を空けた所に腰を下ろすと共に、ほっと胸を撫で下ろす。
  およそ彼女が真に失意の底に暮れている時は、悪態を吐く気力すら失せてしまうことを知り得ているからこその安堵。
  今は多少憂慮の気を漂わせているものの、突っ張った返答が出来ている辺り、それほどの心配はなさそうだ。

  「アタシには、戦いが…。エヴァのパイロットとしての自分がすべてだったのよ。」

  「たしかに、使徒との戦いが僕らの日常で、チルドレンの存在意義ではあったけど。」

  幼少の頃よりチルドレンとして選出され、今現在に至るまでパイロットとしての訓練を積んできたアスカにとっては、
  今までの人生はすべて、エヴァに捧げてきたものであると言っても過言ではない。

  そんなアスカのエヴァに対する、尋常ではない思い入れの強さを身近で感じてきたシンジだからこそ。
  ここは慎重に言葉を選んで紡いでいかなければならないと、続ける言葉に注意を払う。

  「でも、僕らの日常が終わったから、大勢の人々の平和な日常が始まる。
   生きていれば、新しい道を探せるチャンスはいくらでもあるだろうし。僕は、悪い気はしないな。」

  語るシンジの穏やかな口調からは、過酷だった使命から解放されたことへの、清々とした想いが表されている。

  「尤も、非日常な日常に浸りすぎたせいで、これから本来の日常の生活が訪れるっていうのには、実感が沸かないけれどね。」

  自分なりの無難な言葉を選び、自分なりの感想を述べたつもりだったが、一つ席を置いた隣のアスカから返事は無く。
  一向に頬杖の姿勢を保ったまま、ぼんやりと中空を眺め続けている。

  「………。」

  「………。」

  果たして聞いていたのか、それともお気に召さぬ内容だったのか。
  何かしらのリアクションも示さないアスカの心境を、シンジにはおよそ計り知ることができず。

  「あの…さ。気に障ること言ってたら、ごめん。」

  結果、また自分は機嫌を損ねるようなことを言ってしまったのかと、勝手な自責を抱いてしまうことになる。

  「…ったく、すぐにこれだから。」

  相変わらず内罰的なシンジに、やれやれと溜息を一つ。
  アスカはおもむろに頬杖の姿勢を崩すと、背もたれによりかかって夜空を見上げた。

  「別に、ありだと思うわよ。それはアンタ個人の考えであって、アタシがとやかく言う筋合いは無いもの。」

  「そ、そっか。よかった。」

  「ただね、アタシが不機嫌そうだからって、どうせアンタはまた余計な気遣いしてくれてるつもりなんだろうけど。
   これは、アタシの問題なのよ。アタシ個人の。アンタの意見は参考にならないの。」

  夜空に散りばめられた星々を見つめる蒼眼の眼差しに、力が込められる。
  数多に点在する星の一つ一つが輝ける未来の数々だったとしても、アスカの心が揺るぐことはないのだろう。

  「それは、そうだろうけどさ…。」

  「アタシにとって、人類の救済なんていう使命はオマケみたいなものだった。
   エヴァのパイロットであることが何よりも重要で、たった一つの存在意義だった。」

  「………。」

  「それが終わったのよ。受け入れたくないに決まってるでしょ。」

  「むむ…。」

  まるで今までの全てが徒労に終わったと言わんばかりの言い草に、シンジは否定したい衝動に駆り立てられる。
  だがこれはあくまで個人の考えであって、他人の意見は参考にならない。そう前提されている以上、フォローの芽は摘まれている。

  「でも、平和を勝ち取った結果が、しかめっ面じゃあ…。」

  よほどアスカの持論を少しでも良い方向へ持っていきたいのか、珍しくもシンジが食い下がる。

  「なに、文句あんの。」

  生意気な意見者へ、リクエスト通りのしかめっ面で一睨み。

  「だってアスカも苦労してきたんだし、これじゃ甲斐がないというか、割に合わないというか…。」

  「アンタ、勘違いしてる。」

  双方の意見の食い違いの底にある、根本的な相違を見かねたアスカは、一呼吸おくと、再び夜空を扇ぐ。

  「別に、アタシは怒ってはいないのよ。ただ正直、迷ってるのよ。」

  「迷ってる?」

  「そう。今のアタシ自身に、アタシ自身が理解できないでいる。そのことを消化しきれないでいるだけ。」

  「うーん…?」

  文字通りクエスチョンマークを浮かべるシンジを他所に、アスカの心情は、極めて複雑な様相を呈していた。

  ――やっぱり、認めたくないわよ。
    こんなの。

  パイロットの解任を受け、つまりはチルドレンとしての御役御免を言い渡された後だというのに。
  なぜ自分は今こうしてシンジと普通に会話を交わしているのだろうかと、改めて戸惑いを覚えさせられる。

  唯一無二の存在意義が消失したはずの現実に対して、あまりにもあっさりと受け止めてしまっている自分。
  てっきり完全に折れてしまうと思われていた心が、思いのほか平然と機能してしまっている。

  アスカが真に受け入れたくないものとは、まさに今、この現状を指していた。

  「……むぅ、よくわからないな。」

  「そりゃそうよ。アタシ自身わからないんだから。」

  要は、最大となる新たな願望の誕生。

  執着してきたチルドレンという濃霧の中を彷徨う内、ふと芽生えていたその願望は、その時小さなものだった。
  それがいざ霧が晴れてみて今、大地深くに根を張る巨木を成していたと思い知らされては、戸惑いの大きさも相応だ。

  「むむむ……。」

  そんなアスカ自身、複雑極まる自らの心に整理が付かないでいるのだから、他者であるシンジが解消できるはずもなく。
  無駄な節介だとも知らずに、隣のアスカの眉間のしわを取る為には、果たしてどうしたもんかと頭を悩ませるのだった。


  …


  お互い腕組みの格好で、同じしかめっ面。
  しばらく二人の間に沈黙が流れ、やがて思いついたようにシンジがポンと手を叩いた。

  「よし、わかった。」

  「…ん?」

  「とりあえず、僕はおいしい夕飯を作ろう。」

  「フッ…なにそれ。アンタバカ?」

  開き直った顔で出された頓珍漢な提言に、思わずアスカが噴出した。

  「まったく…。そのテキトーさがうらやましいわね。」

  「む。これでも僕にだって、悩み事はあるんだよ。」

  「鈍感なところとか?」

  「それもあるし、他にも色々とね。」

  「ふぅん。」

  実に素っ気無く、実も蓋もない、それだけで終わる短いやりとり。
  しかし、それまで二人の間に流れていた堅苦しい雰囲気は、不思議と霧散していた。

  会話が途絶えた後でも、居心地の悪さは見当たらず。
  晴れやかな表情のシンジの隣で、アスカの表情も心なしか穏やかなものになっているようだった。


  …


  かすかに遠くから聞こえて来る、鈴虫の小さな羽音以外、なにごともなく。
  闇と静けさに包まれたプラットホームに二人。シンジとアスカ。
  迎えの電車が訪れるまで、今しばらくの間。

  「ねぇ。」

  不意に、なにげなく漏らされたアスカの言葉に沈黙が破られ、シンジの視線が向けられる。

  「アンタはこの一年間、エヴァで何を手に入れた?」

  どこか試すかのような、お馴染みの挑戦的な視線でシンジに返す。

  「そりゃあ、沢山あるよ。沢山、大切なことを学べた。」

  「具体的に、どんな?」

  「エヴァはもちろんだし、ミサトさんや綾波、アスカ、加持さん…、沢山の人たちと出会えて。
   辛いことも多かったけれど…、色々な経験が出来て。僕は、以前よりも成長できたと思う。」

  「………。」

  「少なくとも、先生の所にいた時よりは、ずっと…。」

  振り返る過去の思い出を噛み締めるように、整然と語るシンジの反面、耳を傾けているアスカは虫の好かない顔だ。

  「…三番目とか。腹立つ。」

  「三番目?」

  「なんでもないわよ。ウスラトンカチ。」

  「なっ…。」

  敏感すぎるアスカのアンテナは別にして、真面目に答えさせた挙句にウスラトンカチとは酷い扱いである。
  シンジは理不尽な評価に不服ながらも、抗議した所でどの道取り合ってくれるわけでもなく、渋々と苦情を嚥下する他にない。

  「じゃあ…、アタシと出会って、何を手に入れた?」

  「え?」

  続く問いに思わず顔を向けるが、シンジの視線の先のアスカは、素っ気ない様子で長い頭髪の毛先をいじっている。

  「うーん、そうだね…。」

  しばらくの間、シンジは穏やかな眼差しで、アスカの横顔を眺め続ける。
  そうすることで、この激動の一年間、アスカと共にした時間を振り返っているのだろう。

  しかし視線は交わされていないとはいえ、あんまり長いこと見つめ続けられていては、さすがのアスカも居心地が悪い。

  「な、なによ。」

  たまらず苦言を呈し、ジロリと睨みを利かせてお茶を濁す。

  「いや、色々あったなぁって。」

  「アタシの顔見つめてたって、どうせ、しかめっ面の思い出しかないでしょ。」

  「そんなことないよ。」

  シンジは苦笑いしながら視線を夜空に移して、過去を懐かしむかのように、遥か遠くの星々を眺める。

  「アスカには、パイロットとしての自覚と誇りを教わったかな。
  使命を果たす責任や重要性。僕にはない、前向きな強さとか。」

  「…ふぅん。」

  シンジの言葉を聞いていたアスカの顔に、どこか自嘲的な笑みが浮かんだ。

  「アンタが思ってるほど、アタシは強くないわよ。エヴァでは結局、最後までアンタに勝てなかったしね。」

  「それは…、あくまで数字の話じゃないか。経験やテクニックは、全くアスカに及ばないし。」

  「フン。謙遜なさること。」

  「アスカこそ、何を手に入れたのさ。」

  それまで問いかけに対しては逐一熟考を置いていたシンジとは異なり、アスカからの答えはあっさりと返された。

  「アタシは…、エヴァにかけても結局、なにも残らなかったわ。」

  「え…。」

  「今までだってそう。いくら頑張っても、欲しいものは何ひとつそう。
   いくら勉強しても、いくら鍛錬しても、いくら容姿を磨いても。
   やっとつかんでも、砂みたく指からすり抜けてさ。」

  さらっと悲しいことを吐露するアスカの平静さに、それまで穏やかだったシンジの顔から表情が抜けていく。

  「アスカ…。」

  「フン、だからって同情なんかいらないわよ。」

  強がる言葉はむしろ、彼女を儚げに思わせる。

  そう、いつだってアスカの欲しいものは手に入らなかった。
  母親の自害から始まり、チルドレンで一番を目指すことへの挫折、果てにエヴァパイロットの降板。

  願いの存在が大きいほど、それを望む力が強いほど。
  それに裏切られた時の反動が強大になることを、痛いほどにわかってしまっているからこそ。

  故に、アスカは己の願望に期待を寄せることに躊躇する。
  今回ばかりは、本当に欲しいものが出来てしまったから。

  そんなアスカの繊細で複雑に絡み合う心模様を知ってか知らずかは、隣のシンジを見れば後者であるとすぐわかる。

  「今度こそ、望みが叶うといいね。」

  「………。」

  「アスカなら出来るさ、きっと…!」

  よもや悩みの種である張本人から、励ましのエールを贈られるのだから、アスカも報われない。
  悪意のない皮肉ほど始末に悪いものはないだろう。
  拳を握って頷いてみせるシンジの力強い眼差しが、アスカのこめかみに浮き出た血管をひくつかせる。

  「…正直、絶望的なのが現実なのよね。アンタのそーゆーの見てると。」

  「え?」

  「だから、バカシンジだっつってんの。…はぁ。」

  心底疲れた様子で天を仰ぎながら、アスカは自らを呪った。
  寄りにもよって、なぜ、こんなにも難航確実な願望を選んでしまったのか。
  かつてチルドレンとしてナンバーワンを目指していたことなど、今では軽薄な望みにさえ思える。

  揺さぶられる心は、底に沈殿している様々な想いを舞い上がらせ、アスカの口から何度目かの溜息となって吐き出されるのだった。


  …


  「そろそろ、電車が来るよ。」

  駅のホームに到着のアナウンスが流れると共に、シンジが立ち上がる。

  「………。」

  「アスカ?」

  しかし、もうひとりの乗客であるはずのアスカは、俯いたまま動かない。

  「…アタシ、次の電車で帰る。アンタ先に帰ってて。」

  「え?」

  ――アンタだって、どうせ。

  欲しいから、突っぱねる。
  今まですべて、アスカの欲したものは失われてきた。

  ならば、突き放す。
  どの道失うならば、自らの意思で切り離したほうが、ダメージが少ないだろうから。

  「次の電車まで、だいぶ時間かかるよ。乗らないと…、お腹も空いてるだろうし。」

  「うっさいわね。いいからほっといてよ。」

  食い下がるシンジに対し、煩わしいと言わんばかりに顔を背けて会話を切り上げると、そのまま瞳を閉じて居眠りを決め込んでしまう。

  「アスカ、どうしたんだよ、急に…。」

  動揺を色濃くしたシンジの声が、アスカの耳にひどく遠くに聞こえた。

  ――失いたくないから、期待しない。
    矛盾しているのは、わかってる。

  遠く、電車の迫る音が増してくる。
  遠く、凍てつく心が沈んでゆく。

  ――ああ、バカね、アスカ。
    期待しなければ傷付くことはないけれど、結局失うことに変わりはないのに。

  エヴァでナンバーワンを目指していた時のような持ち前の積極性が、シンジに対しては発揮できない。
  想いが一方通行で成立していたエヴァとは違い、対象の意思により拒まれることの痛手の深さは、実の母親で実証済み。
  願望を恐怖が上回っている限り、アスカの心は金縛り。

  ――ただ、また、今まで通り、失うだけ。
    バカなアタシには、お似合い。

  かろうじて開けかけていた瞼を、完全に閉じる。
  電車が着き、シンジが離れて行くのを見る前に、いっそ自分から。

  ――本当、救いようがないんだから。

  停車のアナウンスが辺りに響き渡る中、僅かに口元を嘲笑に歪める。
  空気の抜ける音と共にドアが開き、そして再び閉じられる。

  ほどなくして発車のアナウンスが流れ、乗せた願望と共に、車輪の音が遠ざかっていった。



  …



  広いプラットホームに、ひとり。

  久方ぶりに味わう、孤独という既知感がアスカを覆い始める。
  唯一、この場に居合わせていた人物が姿を消したのだから当然のこと。

  ――シンジ…。

  後悔の念を交え、心で彼の名を呟く。

  家に帰ってからは、不機嫌さを醸していた自分のご機嫌取りも兼ねて、豪勢な夕飯の支度でもするのだろう。

  それはそれで気が利いている。

  だがアスカにとって重要なのは、そこではないのだ。

  的の外れた彼の優しさは、時としてアスカの胸を尚更に締め付ける。

  より一層、夢中にさせる、残酷な仕打ちとなって。



  …



  ぎしっ

  不意に、隣の椅子の軋む音。

  人が腰を降ろす気配。

  肘が触れ合う。

  ――っ。

  瞬間、アスカの心臓が跳ね上がる。
  思わず開けそうになった瞼を、かろうじて堪えた。

  なぜ、乗り過ごしたのか。

  体重、姿勢、息遣い、衣擦れの音から察する身のこなし。

  碇シンジ。間違いなく。

  失墜していたはずの心が浮上し、目視せずとも第六感が対象を看破する。
  幼少の頃からパイロットとしての訓練を通じて養われた感覚が、このような形で真価を発揮するとは。
  自らの現金さに呆れを覚えつつも、じわりと胸にこみあげた言い様のない熱情の前に、失意の念は過去のものとなった。

  「えっと…、あのさ。」

  遠慮がちな、シンジの声。
  心を乱されっぱなしなのが気に食わないアスカは、この期に及んで顔を背け、寝たふりを決め込んでいるものの、
  対象の言動を察知している聴覚だけは、かつてないほど研ぎ澄まされていた。

  「僕は…その。エヴァのおかげでアスカとも出会えたわけだし…。
   アスカだって、エヴァに出会ってからの月日は、無駄なんかじゃないよ、きっと…。」

  ――何よ、急に。
    日本語、しゃべってよ。

  蒼い瞳を隠した瞼が震える。
  胸が締め付けられる錯覚に襲われ、呼吸が乱される。

  「アスカに出会えて、良かったと思ってる。少なくとも…、僕は。」

  「………。」

  「あぁ、いや、僕なんかに言われても、嬉しくないよね。はは…。」

  普段鈍いくせに、妙なところで鋭敏なシンジに対するもどかしさ。
  まるで心を弄ばれているかのような、やられっぱなし的な敗北感。
  アスカの内で様々な感情が混ぜこぜになり、遂には抑えきれずに噴き出すこととなる。

  「…っ………バカ。」

  結果、言いようのない不満を解消するように、たまらずお決まりの文句が口から出された。
  意地を張って寝たふりを続けて不機嫌を表現するという、子供じみた態度をとっていた自分に対する叱咤も兼ねるのは、いざ知れず。

  「……ごめん。」

  シンジとしも、アスカの心情を察しきれない自分のふがいなさを痛感しているのか、これもまたお決まりの文句で謝り返す。

  『バカ』と『ごめん』。

  この二言のやりとりが、いつのまにか二人の間での揉めごとに対しての一応の手打ちということが、暗黙の了解になっていた。
  しかしアスカにとっては勿論のこと、シンジにとっても、言わば連続ファールの末にフォアボールでケリをつけたようなものであり、
  完全な落着とは言いきれないのも事実。

  投手は常にアスカ。打者は常にシンジ。
  出会ってから一年及び、このかた二人の間に安打は生まれていなかった。


  …


  沈黙、再び。
  なんとも言えない気まずい空気が場を支配する中、お互いが後悔の色で顔を滲ませる。
  しかし、唯一わずかに触れ合う肘から伝わる温もりだけは、どちらも離さずにいた。

  「あの、これなんだけど…。」

  不意に、シンジが何かを思い出したように鞄をあさり始める。
  その拍子に触れ合っていた肘が離され、一瞬、アスカから非難の眼差しが向けられた。

  「…なによ、これ。」

  「加持さんから、アスカのこと聞いたんだ。」

  「はぁ…?」

  罪滅ぼしの一端でも担えればと、申し訳なさそうにシンジから渡された物は、ホッカイロ。
  事を飲み込めないアスカの眉が、訝しげに細められる。

  「アスカは、冷え性だって。」

  その言葉に、アスカが理解を示すまで、およそ3秒の時を要した。

  「な…っ。」

  気を利かせた加持の意向と、それに対して斜め上なアプローチをもって台無しにするシンジが生み出す奇跡のコラボレーション。
  独特すぎる回答を繰り出すシンジの意を悟ったアスカの両目が、劇的につり上がった。

  「よかったら、使ってね。」

  純真無垢の微笑みも、この場面では逆効果。

  「…〜〜〜〜っ!」

  さすがのアスカとて、ガマンの臨界点である。

  「…アンタってヤツはねぇ〜〜!!」

  「え?!」

  ホッカイロを握り潰した右手をわなわなと振るわせ、アスカが言い知れぬ怒気を漂わせる。
  一方、贈り物を目の前で無残にも握り潰されたシンジは、ぎょっと目を剥いて驚くしかない。

  「アンタって、ほんっっっっとに……!」

  「え、ちょっ、アスカ!?」

  あまりの気迫にシンジは思わず防御体勢を作っていた。

  なんて惜しい。惜しい男だろうか。アスカはこの男に対して真剣なだけに、怒りの度合いも殊更。
  仮にこれがどうでもいい男だったのなら、アスカとてこんなに怒りを感じたりはしない。
  もしも目の前のこの碇シンジという人物が、アスカにとって特別でも何でもない人物であったなら、
  今頃はどんなに平穏で、穏便な生活を送れていたことだろうか。

  「…はあーー、もういいわ。」

  胸ぐらを掴まんばかりの鬼の形相で迫ってきたと思ったら、一転、脱力した様子で再びシートに腰を下ろす。
  その様子に疑問符を浮かべているシンジの胸に、ついでにホッカイロを押し付け返した。
  先ほどの乗り過ごしの一件で、少しは気が利くようになった言動を見せていたことも考慮し、
  ここは寛大な采配で差し引きゼロにしてやることにしたようだ。

  「アンタの頓珍漢っぷりも、今に始まったことじゃないし、悪気はないんだろうし。」

  正味な所、怒りの炎に呆れの冷水が勝っただけのこと。
  しかし形はどうあれ、自分に対して良かれと行動してくれたことに悪い気はしない。

  「それだけに、タチが悪いったらありゃしない。」

  「なんなんだよ、もう。」

  「でもこれでハッキリしたわ。アンタ、絶対モテない。」

  「む…。ずいぶん言うな。」

  「まったく加持さんも、バカに余計なこと吹き込まないでほしいわね…。」

  くたびれた様子で舌打ちすると、どすんとぶっきらぼうに隣のシンジに寄りかかる。

  「ア、アスカ?」

  「次の電車まで長いから、ちょっと寝る。今からアンタは枕ね。」

  「えー、なんだよそれ…。アスカが乗らないから乗り過ごしたんじゃないか。」

  「枕がしゃべらないでくれる。電車が来たら起こすのよ。」

  「はぁ…、分かったよ。」

  苦情は一切受け付けないとばかりに瞳を閉じるアスカに身を任せれ、シンジはため息を交えつつも、
  命じられた通りの目覚まし機能つき枕としての役割を担うのだった。

  ――意気地なしのくせに。
    期待だけ、させるんじゃないわよ。








  …








  気づかれないほど、わずかに。

  薄目を開けた、視界の先。

  頭上のライトに照らされて、地面に映し出される、自らの影。

  一方的にシンジに寄りかかる、その姿。

  ――あぁ、そっか。
    勝手に期待してるのは、アタシか。














  01: monorail.



  ここまでお読み頂いて下さった方、そして掲載の場を提供して下さった怪作さんへ、心から感謝致します。
  新劇場版により、まんまと再燃させられました、紅鮭と申します。

  この作品に関しましては、ひたすら緩やかなLASと言いますか、
  とにかく安心して読んで頂けるようなお話にしていければと思っております。
  憶測飛び交う新劇場版で悶々とされている方の、ガス抜きになれるような作品になれば嬉しいですね。

  作中に不慣れな所は多々あると存じますが、よろしければご意見・ご感想など頂けると幸いです。
  それでは、今回はこれにて失礼致します。

  紅鮭 "benizake" : benizake02@yahoo.co.jp


はじめましての紅鮭さまから新作投稿です。

そうですね。新しく動きが出てきて悶々としている人も多くなっているですよね。

こちらのお話では第一話めから鎮静して穏かに緩やかになっているので、安心して読めそうです(^^)

素敵なお話を投稿してくださった紅鮭さまに是非感想メールを送りましょう。