驚きに目を見開いて立ち尽くす少女の眼前に広がったそれは,まさに海の縮図

だった。見るものを圧倒する巨大な水槽の中では,色とりどりの魚達が館内に

静かに流れるクラシックに合わせるかの様に,水中で音も無く舞っていた…。

 

銀の小さなその身を寄せ集め,刻々とその形を変えつつ,互いを守りあう小魚

達の群れ…,極彩色の体を誇るかのように,優雅に泳ぐ南洋の魚達…,切り取

られた海の中を,鋼の弾丸のようにやって来ては去っていくクロマグロの一群

…。

 

そして,その間をまるで小さき者達を睥睨するかのごとく,ゆっくりと泳ぎ去

るサメや海亀達…。

 

「………凄い………。」

 

瞬時にその光景に魅せられたアスカは一言,感動に打ち震えつつ小さな声でそ

う呟いた。震える足でほとんど無意識に水槽に駆け寄ると,アスカはガラスの

壁面に顔を押し付けんばかりに寄せ,そのどこか神々しい景色を,余すところ

無く視界に納めようとした。

 

ガラスの小箱の中の海は,命に満ち溢れていた…。

 

 

 



 

「月光浴(後編)」

 



 

 

 

「凄いね…。」

 

いつの間に傍に来たのか,シンジがアスカのすぐ脇に立って,微笑みながらア

スカと同じように水槽を感嘆の面持ちで見つめていた。

 

「こんなに…」

 

「えっ…?」

 

小さくやや擦れた声が,アスカの唇を割って出る。シンジはその微かな声に,

顔をアスカに向けた。水槽を照らすぼんやりとした照明に照らされて,少女の

シミ一つ無い白い肌が,真珠の様に輝いていた。

 

そんなアスカの姿にシンジの胸の奥が,本人もやっと気付くか気付かないか位,

微かに熱を持った。

 

「こんなに…綺麗な所だったなんて,…アタシ…知らなかった…。」

 

「アスカ,水族館来たの初めてなの?」

 

「うん…。」

 

少年の問いに答えながらも,アスカは片時も水槽から目を離そうとはしなかっ

た。少女は,その海と同じ色の,澄んだ碧い瞳をキラキラさせながら,口元に

シンジが見たことも無いような優しい微笑を浮かべて,一心に水槽の中を泳ぎ

続ける魚達を見ていた。

 

「アタシの生まれた街,海が無かったから…。」

 

過ぎ去った幼少の時を思い出すように,少しだけ寂しげな遠い目をして,アス

カは小さくつぶやいた。

 

潤んだ瞳で美しい水槽を見つめるアスカの心からは,先程まで抱いていた,シ

ンジを強引に誘惑してやろうなどと言う気持ちは,すっかり消え去っていた…。

 

「……綺麗…なんて綺麗なんだろう…!」

 

今はただ,少しでもこの美しい光景から目を離したくなかった…。

 

そんなアスカの姿と仕草を,頬を桜色に染めてぼんやりと見ていたシンジの心

臓が,僅かに鼓動を強めた。

 

(…アスカって…,こんなに…可愛かったっけ……?)

 

初めて目にするアスカの優しげな笑顔に,シンジは淡い驚きを覚えた。同時に,

そんなアスカを,何故か………『愛しい』……と思った…。

 

今までシンジはそういう目でアスカを見た事が無かった。確かに他人に夫婦み

たいだとからかわれるようになるくらい,シンジはいつもアスカの近くにいた

し,優しくもした。

 

だが,それは友人として,同居人として,仲間として当然の事だと思っていた。

そこには,アスカに対する特別な感情など,差し挟んでいないつもりだった…。

が,

 

(…不思議な気分だ……,凄く…胸が痛い…。)

 

シンジ本人も知らないうちに,アスカの事を同僚や同居人としてでは無く,一

人の『女の子』として意識していたのかもしれない。何かしてあげた時に,ア

スカが自分に見せた照れ隠しの仕草や,恥ずかしそうな笑顔を見て,嬉しくて

…舞い上がってしまった事もあった。

 

その時は,単に喜んでもらえた事に対して,嬉しくて自分がそんな反応をした

のだと思い込んでいたが,今思えば,その嬉しさは,ミサトやレイの笑顔を見

た時に感じた嬉しさとは,何か根本から違う,形容しがたい熱を帯びた嬉しさ

だったような気がした…。

 

(…よく…わからないや…。)

 

自分の胸に漂う気持ちを,言葉に上手く表現する事が出来ず,鈍い自分に珍し

く軽い苛立ちを覚えたシンジは,小さく頭を振ると,このモヤモヤとして掴み

所の無い気持ちを振り払おうとしてみたが,モヤモヤはまるで蜜のように少年

にまとわりつき,離そうとしなかった。

 

(アスカ…。)

 

冴えない顔を上げた先には,アスカがいた。少年の困惑など知る由も無いアス

カは,ガラスの向こうに泳ぎ去る海亀や魚に手を振ったりしながら,無邪気な

笑顔を浮かべて,水槽の中の海に夢中になっている様であった。

 

(…この気持ち…,君のせいなのかい…?アスカ…。)

 

頬を赤く染めて困惑の面持ちで,アスカを見つめながら,シンジはぼんやりと

そんな事を考えていた。

 

「!!」

 

静謐に包まれていた空間に,突然ドヤドヤと足音や喧騒が響き渡る。

 

夢中になって魚達を見るアスカと,そのアスカを見つめるシンジを,突如現れ

た人の波が包み込んだ。団体客が到着したのだろう。かなりの人数がまるで巨

大な波のように,不意に二人を飲み込もうとした。

 

「あっ…!?シンジぃ…!」

 

シンジの見ている前で,人に背や肩を押されたアスカの上体がグラリ…と大き

く揺れる。

 

「アスカっ!!」

 

不意の事に,大波に飲まれ少年の名を叫びながら,転覆しかけた小船のように

転びかけたアスカに向かって,シンジは迷惑そうな視線を向ける団体客を,そ

れこそ必死で押しのけながら,無我夢中で手を伸ばした。

 

急な事であったはずなのに,ほとんど無意識であったはずなのに,少年の体は

恐ろしい速度で動き,伸ばした手は雑踏の中から,しっかりとアスカの手を選

んで掴んでいた。

 

掴んだ手と手から,互いの肌の温もりが伝わった…。

 

「アスカ!!大丈夫!?」

 

初めて掴んだアスカの手…。想像していたよりも小さくて,柔らかくて,温か

かったアスカの手…。

 

流れ続ける人の波間からアスカを引き寄せると,シンジは驚いて声も出ない少

女を,己が身にしっかり抱いて人波から守った。

 

(シンジ…,アタシの事…守ってくれてるの…?)

 

それは,団体客が通り過ぎるまでの,僅かな時間であったかもしれない。意外

にも逞しいシンジの腕に抱かれたアスカは,このまま時間が止まってしまえば

いいとさえ思った…。

 

初めて抱かれた暖かな少年の腕は,アスカに限りない安心を与えたと同時に,

心臓の鼓動を限界まで押し上げた。

 

(シンジ…,シンジ…,…シンジぃ…!)

 

恥じらいも忘れて,アスカは赤くなった顔を少年の胸に必死に押し付け,心の

中で愛しい人の名前を叫び続けた。

 

やがて,団体客の群れが通り過ぎた後の,静寂を取り戻した巨大な水槽の前に

は,その事に気が付かずに,アスカの事をしっかりと抱き締めて守り続けるシ

ンジと,キュッ!っと目を閉じてシンジの背に両手を廻し,耳まで赤い顔を少

年の胸に押し付けているアスカの姿があった。

 

ぱらぱらと二人の脇を通り過ぎる入館客が,必死に抱き合う二人の様を微笑ま

しげに見ながら通り過ぎて行く。

 

他人の目に映るその姿は,どう見ても恋人同士にしか見えなかった…。

 

静けさを取り戻した館内に柔らかに流れるクラシックが,少年の耳からジワリ

…と脳に染み込み始め,シンジはその音に意識を戻した。次の瞬間,両腕の中

に,柔らかな温かみを感じ,シンジはゆっくりと自分の胸元に視線を移した。

 

「………………!!」

 

腕の中には,硬く目を閉じ小さく震えながら,自分の胸にしがみついているア

スカがいた。

 

その儚げな姿に,シンジは息が詰まりそうになった。

 

「うわぁぁぁっ!!!ごごごごごめんっ!!急に…こんな事しちゃって…!」

 

(アスカ…!何で,何で…僕,こんな事…!)

 

無我夢中だったとは言え,女の子を抱き締める事も,こんなにも儚げなアスカ

を見るのも初めてだったシンジの心臓は,ほとんど破裂寸前の状態だった。慌

ててアスカの背から離した手が微かに震えている…。

 

そんな少年の動揺に気付いたのか,アスカは薄らと目を開けると,震える艶や

かな唇を少しばかり開いて,

 

「シンジぃ………。」

 

少年の名を呼びつつ,しっとりと潤んだ瞳で,離さないで…,と訴えながら,

シンジの背に回した手に,微かに力を込めた。

 

「アッ,アスカぁ…!?」

 

どう対処してよいか解らず情けない声を挙げるシンジの胸元で,アスカは再び

目を閉じ,シンジの胸に顔を預けると,熱を帯びた吐息を吐いた。

 

先程まで抱いていた,シンジを誘惑してやろうという,言わば下心から発した

行為ではない。押し寄せる人混みに飲まれ,危うく転倒しかけた自分を,必死

になって助け出して守ってくれた,シンジの優しさに少しでも答えたくて,ア

スカの体は極自然に動き,ありがとうの気持ちを込めて抱きついたのだ。

 

(どっ,どうすればいいんだろう…!こういう時…。)

 

アスカの背後で所在無さげに手をわなわなさせながら,シンジは少ない経験を

フルに呼び起こし,次の行動をどう起こすべきか必死になって考えていた。

 

胸の中で震えるアスカは,いつもの自信に満ち溢れた彼女とは違い,やけに

小さく,愛らしくて…。

 

(抱き締めたい…。…アスカに少しでもいいから…触れたい…。)

 

シンジの体は結論を待つまでも無く,ほとんど無意識にアスカの体を,まるで

精緻な硝子細工を掴む様に,震える手で恐る恐る,優しく抱き返した…。

 

何故かそうでもしないと,この少女が自分を置いてどこかにいってしまいそう

な気がした…。離れたく,離したくなかった…。

 

「アスカ…。」

 

耳元でそっと囁かれた自分の名前に,アスカはゆっくりと顔を挙げてシンジを

見た。

 

「シンジ…。」

 

自分の気持ちをどう理解してよいのかわからないのか,シンジは赤い顔に恥ず

かしい様な,どこか困った様な表情を浮かべて,その黒く澄み切った瞳にアス

カを写していた。

 

じっと見つめられる事に恥じらいを憶えて,アスカは赤く染まった顔を微かに

伏せた。

 

(かっ,可愛い…!)

 

アスカの仕草にシンジは息が詰まりそうなくらい胸が苦しくなった。シンジの

良く知っているアスカは,明るくて,元気で,活発で,ちょっぴり怒りっぽい

…,鎖に繋がれることを嫌がる,猫の様に自由な女の子だった。が,今のアス

カはシンジの抱擁を素直に受け入れ,あまつさえ,離れ離れになるのを拒むか

のように,しっかりとシンジに抱きついていた。

 

「アスカ…僕…。」

 

(もしかしたら…)

 

「何…シンジ…?」

 

(これが…『好き』って…気持ちなのかな…?)

 

アスカの微かな問いに,シンジは沈黙で答えた。合わせた体越しに,互いの心

臓が恐ろしいくらい脈打っているのがわかる。ほとんど同時に二人はコクン…

と小さくノドを上下させると,それが合図であったわけではあるまいが,互い

を見つめ合う二人の距離が,どちらかとも無くゆっくりと縮まって行った…。

 

(アスカ…!)

 

(シンジ…!)

 

二人の唇がまさに重なろうとした瞬間,何か異様に熱のこもった視線を感じ
て,二人は動きを止めると,恐る恐る視線の先に目をやった。

 

「…………!!」

 

視線の先に広がったあまりの光景に,二人は絶句した。

 

いつの間にやってきたのか,二人は遠足中と思われる幼稚園児の集団にぐるり

と取り囲まれていたのだ。どの子も興味津々といった感で,目を真ん丸くして

声も上げずに,ジーーーーー…っと二人の挙動を見つめている。

 

よく見るとその後ろで数人の保母も,こちらは明らかに好奇心一杯の目で,ヒ

ソヒソ話しながら二人のラブシーンを今か今かと見ていた…。

 

二人の顔がそれこそお湯が沸かせそうな位,熱く赤く染まった。

 

「みっ,見られてる…ね…。」

 

「うっ,うん…。」

 

数十個の無遠慮な目に見つめられて,シンジとアスカは真っ赤な顔を見合わ
せ,抱き合ったまま固まってしまった。

恥ずかしいなんて物ではない。子供たちの視線にはなまじ邪気が無いだけに
,その純粋な瞳に見られると,何だか物凄く悪い事をしているようで,離れ
たほうがいいのでは?と二人とも微かに考えてはみるのだが,

 

(よく解らないけど…離れたくない…!)

 

(やだぁ!!絶対やだ!せっかくこんなにいい雰囲気になったのにぃ!!!シ

ンジぃ…離れたくないよぉ…!)

 

どうしても納得できず,お互いの背に回した手を,何となく緩めては力を入れ

るを繰り返していた。

 

「どっ,どうしようか…?」

 

「…。」

 

(どうしようって…こんな状態じゃ追っ払うに追っ払えないし…。)

 

視線に耐え切れず二人は少しでも顔を隠そうと,互いの額をコツン…と合わせ

る。幾分か周囲の視線が遮られるが,二人の顔がより近くに寄ったことで,返

ってこの無遠慮な観覧者共の興奮の度合いを高めてしまったようだ。

 

見ている女の子達などは抱き合いながらキャーキャー!と歓声を上げてはしゃ

いでいる。

 

(この…!見世物じゃないのよっ!!)

 

全く静止せずに一緒になって騒いでいる保母,にさすがにアスカも我慢の限
界が来た。極力シンジの視界に入らないようにしながら,キツイ顔で群衆を
睨んだ。

 

「ちょっ,ちょっと…,アンタ達いい加減に…!」

 

微かに声を荒げたアスカに,さすがにこの場を邪魔していることの重大さに気

付いたのか,

 

「あっ,こっ,こらっ!もうみんな駄目でしょ!!ほらっ!行きますよ!もう

…すいません,邪魔しちゃって…。あっ,どうぞ続けて下さい…!」

 

保母の一人が上ずった声で,責任を残らず子供たちに押し付けると,まるでア

ヒルの群れでも追い立てるかのように,ギャーギャーと不満げな声を上げる子

供たちを連れて,そそくさと立ち去っていった…。

 

静寂の戻った大水槽前に,再び抱き合ったシンジとアスカの二人が残された…。

 

(続けられるわけ…)

 

(ないじゃないっ!!)

 

園児と保母の一群が去った彼方に,震えながらシンジは困った様な顔を,アス

カは怒りも露な顔を向ける。すっかりぶち壊されてしまったムードを修復する

ことが出来ず,視線を互いにの顔に戻すと,二人は小さくため息を付いて,ど

ちらからとも無く離れた。

 

「………。」

 

「………。」

 

何となく気まずい空気が二人の間に流れる…。

 

やや上目遣いに赤い顔で見つめあった二人は,どう,会話を切り出してよいも

のかわからず,沈黙を続けるしか無かった…。

 

(シンジの体…温かかった…。)

 

数分前まで体を重ねていた感触が,ありありとアスカの肌の上に残っている。

少しでもその感触を逃したくなく,アスカはそっと自分の体を抱いた。細くて

華奢で女の子みたいだとばかり思い込んでいたシンジの体は,

 

(…逞しくて,アイツの腕の中だったら,何が起きても大丈夫って…思えるく

らい…,安心出来た…。…でも…)

 

意外なほどの安心感と,熱い疼きをアスカのその小さな体に残した。

 

叶うなら,もう一度戻りたかった…。

 

だが,二人の間に開いた隙間は,たった半歩踏み出せば埋まってしまうほどの

距離であるにも関わらず,何か見えない壁でもあるかのように,互いの接近を

阻んだ。

 

(もう…,抱き締めて…くれないよね…。)

 

微かに潤んだ瞳で見たシンジは,どうしていいのか解らないような,ひどく困

った顔をして,アスカを見ていた。

 

実際,シンジの頭の中は軽い混乱状態だった。成り行きとは言え,アスカを抱

き締め,未遂に終わってしまったとは言え,キスしようとしたのだ。混乱する

な,と言うほうが無理な話だ。

 

(アスカ…,僕,どうしたらいいんだろう…?)

 

シンジの頭の中には,とんでもない事をしてしまったと考えている反面,何
故,抱き締めていた手を離してしまったのだろうという激しい後悔もあった
。離してしまった己の腕に残った少女の柔らかな抱き心地は,服に移ったア
スカのシャンプーやコロン,微かな汗の匂いと合わさって,シンジの心を甘
美に溶かし,少年をさらに後悔の淵に沈めた。

 

(もう一回抱き締めたら…,怒られるよな…。やっぱり…。)

 

進展のない時間と,見えないシンジの心にいらだったアスカは,寂しそうにそ

の豊かな赤毛をかきあげると,

 

「……行こう…。ぼーっと突っ立ってても…しょうがないわよ…。」

 

「えっ,アスカ…!?」

 

くるりと背を向け,驚いたようなシンジの声に振り返りもせずに,少し重い足

取りで歩を進めた。

 

(鈍感シンジ…。やっぱりアンタ…バカよ…。アタシの気持ち…何にもわかっ

てない…本当のバカよ…。)

 

アスカはちょっぴり悲しかった…。

 

今この瞬間ほど鈍感なシンジが情けない思ったこと事は無い。とっさだったと

は言え,一度は自分の事を抱き締めてくれたのに,離れ離れになったら温かい

言葉の一つもかけてくれない。何も行動を起こそうとしない。

 

(いきなり…好きだって…,言ってくれなくてもいいの…。でも……,何か,

一言くらい言ってよ………!)

 

寂しげなアスカの背に,シンジの胸は先程の痛みとは違った痛みで,張り裂け

そうになった。いくら鈍感なシンジでも,理由等解らなくとも,自分がアスカ

を悲しい気持ちにさせてしまった事くらいは,痛いほどわかった。

 

(アスカ!待って!!ごめん!待って!)

 

心の中で叫んだとて,彼女の足が止まるわけはない。微かに歯噛みして,シン

ジは震える足を一歩踏み出した。振り返る前のシンジの脳裏に焼きついたアス

カの顔は,シンジが今まで見たことの無いくらい,寂しげな顔だった。

 

(アスカのあんな顔…,見たの…初めてだ…!)

 

「アスカ!」

 

トボトボと力なく歩くアスカに,シンジは必死に駆け寄ると少女の行く手に立

ち塞がった。いきなり名を呼ばれた上に,突然視界にシンジが現れたので,ギ

ョッとしたようにアスカが足を止める。

 

「何よ…。そんな大声出して…。」

 

軽く目を伏せて,少しばかり不機嫌そうにシンジから視線を逸らすと,アスカ

は小さな声で答えた。

 

「あっ,あの…。アスカ…。」

 

僅かにうつむき加減になりながら,シンジは心の底から,それこそ持てる勇気

を総動員してアスカに対峙した。

 

体の脇にピッタリと付けた両手が,所在無さげに握られたり開かれたりしてい

る。アスカには見えてはいないが,シンジの両手は緊張のためか,汗でじっと

りと濡れていた。

 

「もう…何なのよ…!はっきりしなさいよ!男でしょ!?」

 

モジモジしているシンジに苛立たしげな視線を向けると,アスカは吐き捨てる

ようにそう言った。

 

男でしょ!?その一言にシンジの顔が上がる。意を決したのか,シンジは緊張

と羞恥で震える右手を,アスカのそれのすぐ傍に差し出すと,

 

「あの…,手………。」

 

蚊の鳴くような声で呟いた。あまりにも小さすぎた言葉と,差し出された手の

意味が解らず,アスカがシンジに怪訝な目を向ける。

 

「手が何よ!?」

 

「……手,繋いでもいいかな…?」

 

アスカの鋭い言葉に,微かに身を震わせたが,シンジは臆することなく少女に

向かって,先程よりもしっかりと手を伸ばすと,はっきりそう告げた。

 

好きとか嫌いとかそんなことはどうでもよかった。ただ,今は少しでも離れた

くなかった。答えを持たぬ,自分の心が導き出したそんなあいまいな衝動に従

って,シンジが精一杯の勇気を振り絞って動いた結果がこれだった。

 

「……えっ…?……今……何て …?」

 

シンジの口から紡ぎだされた言葉に,アスカは自分の耳を疑った。

 

あれ程求めて止まなかった手が,あっさりと,それもシンジの意思で差し出さ

れたのだ。目の前で小刻みに震えている手を,アスカはしばし呆然と見つめた。

 

アスカがそんな心境に佇んでいるとは知らないシンジは,手を差し出したまま

呆けた様なアスカに,

 

「だから…!アスカと…手…,繋いでもいいかなって…。」

 

怯えを含んだ目を向けた。

 

(どっ,どうしちゃったの…?急に…!?)

 

シンジの見せたこの行為に目をしばたたかせながら,差し出された手とシンジ

の顔を,アスカは驚いたように何度も見比べていたが,

 

(何だかよくわからないけど…,嬉しい…!シンジから手,繋ぎたいなんて言

ってくれるなんて…!)

 

理由は分からなかったが,シンジのこの急な変化にアスカの頭は疑うよりも,

とっさにこの状況を素直に受け入れる事が最善と判断した。ムクムクとアスカ

の心の中に歓喜が湧き上がる。

 

が,同時に今日も含めて,これまでこの鈍感な少年に振り回されて来た積年の

怒りが,アスカの心の中で悪戯心に小さな火を灯した。

 

「へぇ…〜〜〜〜♪シンジ,アタシと手,繋ぎたいんだぁ…♪どっしようかな

ぁ〜〜〜〜〜〜?」

 

腰に手を添えて,小悪魔的などこか勝誇った笑みを浮かべると,アスカはニヤ

ニヤしながら恥ずかしさでうつむき加減のシンジの顔を,下から覗きこんだ。

 

覗き込まれたシンジこそたまったものではない。いきなり豹変したアスカの機

嫌に,訳も分からず顔を赤く染めて,微かにそっぽを向く。

 

「もう…からかうの,止めてよ…。」

 

(だ〜れが止めるもんですか!今まで散々アタシのこと振り回してくれた罰よ

っ!思い知ったか!………愛しの…バカシンジ…♪)

 

「ねぇえ…。もう一回言って♪無敵のシンジ様はぁ,アタシと何がしたいのか

しらぁ!?」

 

シンジの心底弱りきった顔に見向きもせずに,アスカは高笑いしたいのを必死

で堪えながら,猫なで声でシンジの赤い顔にほとんどくっつけんばかりに,満

面の笑みを浮かべた自分の顔を寄せた。

 

「……だから……手…繋ぎたい…って…。ひどよ …アスカ…。」

 

(なんで急にこんなに嬉しそうな顔になるんだよっ…!さっきまで,あんなに

寂しそうな顔してたのに…,…女の子って…全然わかんないよ…。)

 

恥ずかしさで自分の胸に顔をくっつけそうになる位までうつむいて,シンジは

体を小刻みに震わせながら,ほんのちょっとだけアスカにこの一言を放った事

を後悔した…。

 

(ひどいなんてよく言えるわね!アンタが今までどんだけアタシの心を惑わせ

て来たと思ってんのよ!)

 

まだまだ許す気の無いアスカは,とぼけた表情で腰に当てた片手を今度は耳に

添えると,十二分に聞こえているにも関わらず,

 

「良く聞こえませんわねぇ〜〜〜〜〜?もちょっと大っきな声で言ってみまし

ょうか?ほらぁ,んん?」

 

アスカの言葉にシンジは盛大に嘆息すると,グッ!と下腹に力を込めて先程よ

り大きな声で,途切れ途切れにほとんど吐き出す様に,

 

「……僕は…アスカと手を…繋ぎたい…です!!」

 

言い切ってシンジはギュッと目を閉じた。もうどうにでもなれと言った感じで

ある。

 

だが,こうしてからかわれている事に少しばかりの後悔はあったが,不思議と

不快感は覚えなかった。からかわれながらも,シンジは心の奥で楽しそうに自

分を弄んでいる,アスカの姿を可愛いと思っていた…。

 

「ん〜…,ま〜だ小さいわね…。」

 

(…可哀想だから…ぼちぼち勘弁してあげようかな…。)

 

目を閉じるシンジの前で,アスカは大袈裟に腕を組んで難しい顔をして見せ
た。まだやるのぉ…?と,目を開けてアスカの顔を見たシンジが情けない声
を上げうなだれる。

 

その仕草のあまりの可愛らしさに,アスカはクスクス笑うと僅かに頬を染め
て,ハイ…,と雪のように白いしなやかな右手を,そっとシンジの鼻先に突
きした。

 

「えっ………?」

 

「あんまり納得いかなかったけど,アンタが情けない声あげるから,特別に
手,繋いであげる。光栄に思いなさいよ。こんな美少女と手繋げるなんて。
この果報者♪」

 

差出された手から,先程シンジの服から失われたアスカの匂いが濃く香る。脳

髄の奥深くに刻み込まれた,アスカを抱いた時の甘美な記憶が蘇り,シンジは

赤くなった顔で,彼女の手をおずおずと握った。

 

「…アスカの手,温かいね…。」

 

先程となんら変わらぬ柔らかさと滑らかさ…温かさに,シンジの口元が自然に

ほころんだ…。

 

その優しげな微笑に,今度はアスカが顔を真っ赤に染めた。アスカの好きな

,シンジの優しい笑み。まだ,棘だらけの獣だった頃,何度この笑みに救われ

た事か。

 

− この人は,シンジは…アタシの全てを許してくれる…。−

 

じっとシンジを見ていたアスカの目の端に,小さな涙の粒が浮かんだが,シン

ジは気付かなかった。シンジに見えないように慌ててその小さな涙の粒を拭う

と,

 

「バカ…!恥ずかしい事…言わないでよ…。…当たり前でしょ…,生きてるん

だから…。」

 

生きてるんだから…,そう言って困ったような笑みを返すと,アスカはシンジ

の手を強く握った。シンジも同様に強く握り返す。

 

「そうだね…。」

 

(アスカ…僕…。)

 

にこやかに微笑むシンジに,アスカは気恥ずかしさを覚えて,赤い顔を僅かに

背けると,彼女にしては珍しく緊張で上ずった声で,

 

「ほっ,ほら…!優しいアタシがせっかく手を握ってあげたんだから,ボケボ

ケっとしてないで,さっさとアタシのことエスコートしなさいよ!」

 

グイッ!と,シンジの手を引っ張った。初めて見る,こんなにも恥らうアスカ

の顔と仕草。いつも家で賑やかに怒ったり笑ったりしているアスカとは全く違

う,そんな彼女の仕草にシンジの心は舞い上がった。

 

(僕,もしかしたら…君の事が好きになったのかもしれない…。)

 

「うん,わかった。それじゃ,行こうか!?」

 

そう言うと,シンジは少しだけアスカの手を引いて,少女の体を自分の傍に引

き寄せた。

 

(…でも,まだ自分でもよく分からないんだ…。)

 

「うん!」

 

抗うことなく,嬉しそうな顔で軽やかに返事をすると,アスカはシンジの手の

力に従い,その身をピッタリと少年の傍らに付けた。

 

(アスカ…,君をもっと知りたいんだ…。)

 

握り合った互いの手は緊張のためか,微かにしっとりと汗ばんでいたが,そん

な事に気にも留めず二人は,今度は離さないと言わんばかりにしっかりと手を

握り合った。

 

繋ぎ合った互いの手から温もりと,…ほんの少し,想いが伝わった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水族館本館と海獣を飼育しているブロックを繋ぐ,海岸に面した吹き抜けの通

路を,シンジの手をしっかり握って引っ張りながら,アスカは疾走していた。

 

「ほらぁ!急ぎなさいよ!早くしないとイルカショーが始まっちゃうわ!」

元気一杯に走るアスカに手を引かれながら,アスカとは対照的にシンジは息も

絶え絶えになりながら,必死に追走している。

 

あの細くて小さな体のどこに,こんな体力があるのだろうとシンジが訝るぐら

い,アスカはさっきから疾走を続けていた。

 

「ちょっ,ちょっとアスカぁ…!きゅっ,休憩しようよ…!もう…僕…,は
っ,走れないよっ!」

 

「な〜に甘えた事言ってんの!男でしょ!?なっさけ無いわねぇ!」

 

ほんの気持ち程度速度を緩めて,アスカは背後のシンジに呆れたような視線を

送った。

 

 

 

大水槽の前で手を繋ぎ合った後,二人は改めて今日の予定を立て直したのだ。

休憩スペースに設けられたベンチに腰かけ,仲良く水族館のパンフレットを見

ながら,アスカは上機嫌だった。

 

『どこも面白そうねぇ…!へぇ…クラゲだけの水槽なんてあるんだ…。後は…

……ん!?』

 

ぱらぱらとパンフレットを楽しげにめくっていたアスカの手がピタリと止まる。

 

『…「人とイルカのコラボレーション・ショー,ショースタジアムにて公開中
!」…「他では絶対に見れない,癒しのイルカショーをご堪能下さい!」
かぁ…。』

 

パンフレットに記載された,『イルカショー』の六文字に,アスカの目が釘
付けになった。

 

『ねっ,シンジぃ,このイルカショーって何?』

 

興味深げにイルカショーの文字を指差すアスカにシンジは,

 

『あぁ,それ?イルカとかアザラシなんかの海の動物達が,色んな芸を見せて

くれるショーだよ。』

 

シンジの説明にアスカの目が好奇心でキラキラ光り始める。期待と興奮を込め

た眼差しをシンジに向けると,

 

『へぇぇ〜〜…!アタシ,これ見たい!!』

 

イルカショーの説明と開催時刻の記載されたページを,シンジの鼻先に突き出

した。

 

『うん。僕も見たいな。特にここのショーは凄いらしいから,楽しみだね。』

 

『よし!そうと決まったら早速行動開始よ!ほら,ショースタジアムに行くわ

よシンジ!』

 

シンジの手を取ってすっくと勢いよく立ち上がると,驚くシンジの手をアスカ

は力強く引っ張り,少年をベンチから立たせようとした。

 

『えぇ!?アスカ,いくらなんでもまだ早いよ。開始まで…ほら!二時間近く

あるよ!?』

 

目を丸くしながらパンフレットの開催スケジュールを指差すシンジを,アスカ

は腰に両手を添えたお決まりのポーズで呆れたように軽く睨む。

 

『アンタバカぁ!?こういうものは早めに行って,最高の場所で見るのが醍醐

味なのよ!』

 

睨まれたシンジはアスカの言っている意味が理解できず,目をしばたたかせた。

 

『最高の場所って…?』

 

『そんなの一番前に決まってるじゃな〜い!』

 

(一番前って…,濡れるんじゃないのかな…?)

 

小学生の頃見たイルカショーで,最前列で見ていたクラスメートがイルカの特

大ジャンプが生んだ水しぶきをまともに浴びて,全身濡れ鼠になって騒いでい

たのを思い出し,シンジの心に一瞬不安がよぎったが,

 

(まぁ,いざとなったら,僕がアスカをかばって濡れればいいか…。)

 

そんな健気な事を考えながら,シンジはまだ見ぬイルカショーを想像して,一

人興奮しているアスカを嬉しそうに見つめていた。

 

が,事はそう安直には行かなかった…。

 

水族館を初めて見たアスカが,当然イルカショーだけで満足するはずが無く,

シンジの手を引っ張りながら,ショースタジアム目指して走り始めたアスカ
は,道すがら面白そうな水槽を見かけると,急ブレーキを掛けて水槽の前に
走り寄り,10分でも20分でもその前で夢中になって魚を見続けたのだ。

 

(アスカ,本当に楽しんでるんだな…。誘って良かった…。)

 

体力に余裕のあるうちはシンジも,そんなアスカの行為を微笑ましく見ていら

れたが,アスカの勢いは以降全く衰えず,疾走→急ブレーキ→立ち尽くす→疾

走…を繰り返した…。

 

(まっ,まだ走るの…!?)

 

たまったものじゃないのはシンジだ。夢中で見ているアスカは疲れをほとんど

感じていないようだが,元々新聞屋のオマケをもらって来ている感が強いシン

ジは,水族館に対して彼女ほどの思い入れは無い。

 

いきなりエンジン全開で走り始めたと思ったら,突然なんの断りも無く,それ

こそつんのめる位の勢いで止まるのだ。どんなに体力があってもこれでは持つ

はずが無い。

 

ショースタジアムを目前にして,シンジはへとへとに疲れきってしまっていた。

 

 

 

「…そんな事言ったって…,さっきから走ったり止まったりで,僕もうへとへ

と……」

 

「あーーーーっ!」

 

シンジの泣き言になど全く耳を貸さず,アスカは不意に大声を上げ,またもや

急停止したかと思うと,目をキラキラさせながら,吹き抜けの途中に設けられ

たペンギンの水槽を指差した。

 

「シンジぃ!ほら,見て見て!ペンギンさんだよっ!」

 

アスカはしっかり握ったシンジの手をグイグイ引っ張りながら,ペンギンが飼

育されている水槽の前に誘った。

 

ガラス張りの半地上半海中のその水槽の中では,数種類のペンギンが地上で
は,ノロノロとコミカルな動きを見せている反面,水中ではまるで空を飛ぶ
様に泳いでいた。

 

何か不思議なその光景に,アスカはすっかり夢中になっているようだった。よ

うやく止まれたと,傍らでシンジは額に浮いた汗を拭いながら,呼吸を整える。

 

「ペンギンって…家にペンペンがいるじゃないか?」

 

微かに荒い息で苦笑するシンジに向かって,アスカは首を大きく左右に振ると,

 

「アイツとここにいる子達とは違うの!うっわ〜一杯いる…!あっ!?子供の

ペンギンだぁ。隣にいるの,あの子ママなのかな?可愛いーーー!!ねっ!?

可愛いね,シンジぃ!?」

 

「うっ,うん…!」

 

シンジは満面の笑みを浮かべているアスカの言葉に,顔を真っ赤にして小さく

答えた。

 

入り口にあった大水槽の前から,シンジにとっては新鮮な驚きの連続だった。

様々な魚達が展示されているエリアを通り,水槽を覗き込むたびに歓声を上げ

るアスカ…。

 

普段のアスカはシンジから見ると,どちらかと言えば素直な部類には入らない

女の子だった。だが,今シンジの目の前にいるアスカは楽しげな声を上げ,水

槽から水槽へまるで蝶が花の蜜を求めて飛び回るかの様に,軽やかな足取りで

動き回っては,シンジに心底嬉しそうな笑顔を見せていた。

 

アスカの表情の変化がそのままシンジの心の動きになった。美しい魚達を見て

うっとりするアスカを見れば,シンジも嬉しくなり,巨大なサメやエイを見て

怯えるアスカを見れば,シンジの心も彼女の心情と同じ色に染まった。

 

疲れた体を水槽脇の柱に寄りかからせながら,シンジは疲れが吹き飛ぶような

笑顔を浮かべているアスカを,愛しげに見ていた。

 

(アスカ…。君と一緒にいる事が,こんなに楽しいなんて思いもしなかった…。)

 

少年にとって,水族館はもはやどうでもよい存在になっていた。刻々と変わる

アスカの表情を見つめ,自らもその色に染まることに,シンジはえも言えぬ嬉

しさを感じていた。

 

終わらないで欲しかった,終わらせたくなかった。ただ,今こうして二人で時

間と気持ちを共有している事が,たまらなく幸せだった。

 

少年は初めて他人と,それも異性と心を一つにする事の楽しさを知った…。

 

結局,アスカのこの気まぐれな行動に,二人がショースタジアムに到着したし

たのは,ショーの開始5分前とぎりぎりだった。ショースタジアムはかなりの

人でごった返していたが,最後列付近でどうにか二人分の席を確保すると,二

人は仲良く手を握り合ったまま腰を下ろした。

 

「席が空いていて良かったね。」

 

「あ〜ぁ…。本当は一番前で見たかったんだけどなぁ…。シンジがグズグズし

てるからいけないのよっ!」

 

にこやかにスタジアムを見回すシンジとは対照的に,望み通りの席に座れなか

ったのが不服なのか,責任の所在をすっかりシンジに擦り付けて,アスカはち

ょっぴり面白くなさそうな顔をしてシンジを軽く睨んだ。

 

「そうだね,ごめんね。」

 

睨まれた当のシンジは,アスカの無茶苦茶な文句にひるみもせずに,必要も無

いのにあっさりと謝ると,ニコニコしながらそのままジー…っと,隣で不思議

そうな顔をしているアスカを見つめた。

 

てっきり泣き言の一つも返ってくると思っていたアスカは,あっさりと謝った

上に,瞬きもせずに自分を見つめるシンジに,怪訝な顔で首をかしげた。

 

「?………何…,ジー…っと見てんのよ…?」

 

にこやかな表情を崩すこと無いシンジに,アスカは目のやり場に困って,桜色

に染めた顔を伏せた。

 

(そんなに…見つめないでよ…。バカ………。)

 

伏せた視線の先には,互いに繋ぎあった手があった。アスカの小ぶりな掌が,

温かなシンジのそれにすっぽりと包まれながら,見つめられた緊張のため小鳥

の様に震えていた。

 

(何か…シンジ朝と違う…。優しいのはいつもの事なんだけど…。)

 

震える手で軽くシンジの手を握り直すと,臆することなくシンジも握り返して

きた。二度三度と繰り返すと,同じように少年も繰り返す…。

 

(少しは…アタシの気持ち,気づいてくれたのかな…?………… だったら…嬉

しいな…。)

 

掌を緩めては握るだけの,たわいも無い行為の繰り返しだったが,何故かひど

く幸せだった。

 

「えっ…!…いっ,いや…,その…」

 

穴が開くほどアスカの事を見つめていた自分に全く気がつかず,彼女にそう指

摘されて,シンジも同じように顔を真っ赤にして目を伏せた。

 

「…そういう顔してるアスカも…,可愛いな…って思って…。」

 

恥ずかしそうな笑みを浮かべながら,シンジはその顔を隠すようにステージ側

に向け,空いた方の手で頬を掻いた。

 

シンジは不思議だった。今朝まではアスカの無茶な言動に,仕方ないと諦観の

苦笑を浮かべるだけだったが,今では彼女の全てが愛しい。笑った顔も,怒っ

た顔も,嬉しそうな顔も,寂しそうな顔も…,ほんの些細なアスカの挙動です

ら,少年の心を歓喜で甘く溶かした。

 

(こんなに優しい気持ちになったの…初めてだ…。)

 

見つめる程に,不思議なくらい,少年の心は凪の海のように穏やかになった…。


もし許されるのなら,いつまでも見ていたかった…。

 

「はぁぁぁ!!??かっ,可愛いって…!あっ,アンタ…バカぁ…!?……な

っ,何…,急に言い出すのよ………!!」

 

そんなシンジの心境の激変を知らないアスカは,シンジの言葉に首まで真っ赤

に染めた顔を,さらにうつむかせて隠すと,力一杯シンジの手を握り締める。

 

(どっ,どうしちゃったのよシンジ!?…………かっ,可愛いだなんて… ……

…。…もう…,バカぁ…!いきなりなんて事言うのよ…!恥ずかしいよぉ …

…!)

 

湧き上がる恥ずかしさを少しでも隠そうと,口から出たお決まりの台詞には,

アスカ自身もびっくりするくらい力がこもっておらず,上ずった声を上げる舌

は,情けない位回っていなかった。

 

「じょっ,冗談でも…そんな事,言わないでよね…!」

 

「冗談なんかじゃないよ!」

 

しどろもどろなアスカの抗議の声に,シンジは鈍感な彼にしては驚くほど早
く,キッパリと答えた。

 

「えっ………?」

 

顔を上げると,驚きに軽く見開いた目で見た先には,

 

「冗談で…こんな事言わない…!………アスカは…。」

 

見たことも無いくらい真剣なシンジが,その澄んだ黒い瞳でアスカの事を見つ

めていた。

 

(アスカ…。)

 

眼差しに抗うことが出来ず,沈黙したままアスカもしっとりと潤んだ瞳で少年

を見つめ返した。小さな心臓がまるでダンスでも踊っているように,胸の奥で

トクトク…と激しく鳴いていた。

 

「………。」

 

(シンジ…。)

 

いつの間にか,ショーの開始を告げると思しき音楽や人工の波音が,場内に静

かに満ちていたが,二人はそれに気付く事無く互いを見つめ合い続ける。

 

燦燦と照りつける太陽の下,いまや遅しとショーの開始を待ちわびる観衆の熱

気に包まれる中,二人の周囲をそんな熱気に流されることの無い,水晶のよう

に透明で澄んだ空気と,それを打ち負かさんばかりにたぎった炎の様な感情の

入り混じった,不思議な空間が包んでいた。

 

何も聞こえない。

 

何も見えない。

 

ただ,互いの姿と声だけが,闇夜にぼんやりと浮かび上がった月のように鮮明

に浮き上がって見えた。

 

(今朝まで,君は僕の中でとっても小さかった…。でも,今は違う…。同じ君

の筈なのに,昨日から,君は何一つ変わっていない筈なのに…。だけど…今は

こんなに…。)

 

愛しい,愛しい,愛しい…。

 

シンジの心の中にその言葉だけがシンジの心の奥底から,マグマのように熱く

湧き上がってくる。水槽の前で抱き合ってから,ずっとシンジの心の中にあっ

たこの気持ち。

 

最初は輪郭もはっきりせず,淡く,希薄な気持ちだった。初めて味わうその甘

美で不思議な味わいに困惑もした。だが,今は違う。たった数時間の間に,小

さな粒の様だった微かな想いは,はっきりと,シンジの心の中で形を成して,

今や少年の心を押し潰さんばかりに膨れ上がっていた。

 

ドキドキと,骨を伝って響く自分の心臓の激しい音が耳に痛いくらいだった。

 

紅潮しきった顔でシンジは,しっかり握ったアスカの手を自らの胸元に両手で

優しく引き寄せると,

 

(この気持ちに偽りはないよ…。はっきりとわかるんだ…。僕は……僕は…)

 

「………君は…その…,………凄く …綺麗だ…………!」

 

ショースタジアムの中心に据えられた大型のプールから,突如,巨大な水飛沫

を上げながらイルカが三頭躍り出た。

 

宙を舞うその体から零れ落ちる幾千の水滴が,陽光を受けて真珠の粒の様にキ

ラキラ光りながら重力に引かれ落ち,水面に巨大な波紋を呼ぶ。観衆が驚きに

目を見張る中,回転を繰り返しながら,巨大な海の獣は波紋を破って再び水飛

沫と共に水中に没した。

 

「シン…ジ…。」

 

湧き上がった観衆の声と拍手に邪魔されること無く,シンジの言葉はっきりと

アスカの耳に焼き付きこだまする。シンジに手をとられたまま,アスカは小さ

く少年の名をつぶやいた。

 

何か言おうと思ったが,言葉が続かなかった。青い瞳を湛えた大きな目を,驚

きと恥じらいにパッチリと見開いて,微かに口元を震わすだけのアスカに,シ

ンジは柔らかく微笑むと手にしたアスカの手を,さも愛しげに撫でた。

 

(アスカ…,僕は………君の事が好きです…!)

 

繰り返されるイルカのジャンプと,観衆達の楽しげなざわめきは,どこか遠
く,二人の耳には届かなかった。

 

互いを見つめ合う二人を抱いて,世界はただ静寂だった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れの海辺の道を,新片瀬江ノ島駅に向かってシンジとアスカは歩いていた。


アスカの左手には水族館でシンジに買ってもらった,ペンギンのヌイグルミ
が,右手はシンジのそれとしっかり握られていた。

 

(大収穫だったわ♪このデート!)

 

無論,ペンギンのヌイグルミの事ではない。水槽の前でシンジに手を繋がな
い?と言われてから今に至るまで,アスカは終始上機嫌だった。

 

初めて目にした水族館が楽しかった事もあったが,それに加えて,アスカの目

から見ても,シンジが相当に自分の事を意識し始めてくれた事がわかったからだ。

 

(イルカショーは全然見れなかったけど…,凄くいいムードだった…。……シ

ンジ…今朝まであんなに鈍感だったのに…。)

 

互いに『好き』と言うまでには至らなかったが,イルカショーで見つめあって

過ごした後の,アスカに対するシンジの接し方の変わりようは驚くべきものが

あった。

 

アスカが何かシンジにしてもらいたい事があるような素振りを少しでも見せる

と,まるでアスカの心を読んでいるかのように,シンジはその希望を寸分の誤

りも無く実行に移した。

 

鈍感だとばかり思っていた頃からは,想像もつかないシンジの態度に,アスカ

はその度に目を丸くしてただ驚くしかなかった。

 

それだけではない。

 

(あんなに積極的になってくれたシンジ…,初めて見た…。)

 

まだ多少の恥じらいが残ってはいるものの,混雑している場所ではアスカの事

をぴったりと自分の体にくっつけて守ったり,それこそはぐれそうな位混み合

っている時などは,みんな見てるからやめてよ…!と恥ずかしがるアスカをち

ょっぴり強引に抱き寄せると,人ごみが去るまでずっと抱きしめたりした。

 

(恥ずかしかったけど,アタシ,本当はとっても嬉しかったんだよ…。シンジ

…。)

 

微かにうつむき加減のアスカの顔にかかっていた艶やかな赤毛を,少しばかり

強めの海風がフワリ…となびかせる。髪の下から覗いた,端整なアスカの顔は

真っ赤に染まっていた…。

 

恥ずかしくて,でもとても嬉しくて…,思わずシンジの手を取る自分の手に力

がこもった。

 

そういえば…,とアスカは繋いだ手に目をやった。

 

この今繋いでいる手。水族館を出る際,さり気なくシンジから握って来たの
だ。そこには何のためらいも無かった事をアスカは思い出した。極自然に,
当たり前のように繋がれた互いの手。昨日までは千里の隔たりがあった二人
の距離は,いつの間にかほとんど無くなっていた。

 

ただ,少しばかりの遠慮と不安が,『好き』と告白するタイミングを奪っていただけだ。

 

(告白までは行かなかったけど…,これって,かなり進展したって事よね!?)

 

シンジからいつもとは違った質の優しさと愛情を感じ,アスカは幸せ一杯だっ

た。

 

(シンジ,今日はデートに誘ってくれて,ありがとう…。)

 

そんな感謝を込めて,ニコニコしながら隣を歩くシンジに目をやると,

 

「どうしたの…?」

 

少年は恥ずかしそうに頬を染めて,にこやかな笑みをアスカに返した。

 

(…また,誘ってくれるかな…?そしたら…アタシ…。)

 

「なんでもない…。」

 

(シンジに,『好きよ…』って言うんだ…。)

 

シンジの優しい笑みに,アスカは少年と同じように頬を赤く染めると,口元に

微笑を残したまま,顔を夕闇迫る海に向けた。

 

水平線上に微かに残った太陽が,穏やかな波間をオレンジ色に照らしながら刻

一刻と海に溶けてゆく。遥か頭上には,今度こそ本当の満月が溶け行く太陽に

別れを告げるかのごとく,淡い光を放っていた。

 

「ねぇ,アスカ…。」

 

そんな事を考えながら,ぼんやりと海を眺めつつ歩んでいたアスカに,シンジ

が不意に声をかけた。

 

「ん…何?」

 

振り向いた先では,シンジが飛び切り真っ赤な顔でアスカの事を見ていた。微

かに震えている自分を,不思議そうな目で見ているアスカに,シンジは緊張で

どもりながらも,

 

「あっ,あの…さぁ…,アスカさえよかったら…,また,一緒に……, …二人

で遊びに行ったりとか…しない…?」

 

「え…!?」

 

そう言うと驚きに目を見張るアスカの視線に耐え切れず,シンジは恥ずかしそ

うにうつむき,アスカの返答を待った。断られたらどうしよう…とも思った
が,言わずにはいられなかった。この甘美な時間を再び味わえるのなら,不
安もあったが賭けてみる価値は十分にあると,シンジは考えていたのだ。

 

(お願い…!断らないで………!)

 

祈るような気持ちで待つ少年の周囲を,沈黙と時間が刻々と流れてゆく…。二

人の靴の立てる足音と,風に乗ってやってくる波音が,痛いくらいに耳に響い

た。

 

「………。」

 

アスカは答えない…。握っていた手に僅かに力がこもっただけで,アスカは何

の反応も示さなかった。

 

(ダメ……かぁ……。)

 

アスカの沈黙を拒否と判断したシンジは,いくらなんでも性急であった自分を

嫌悪し,顔を伏せた。吹き寄せる海風のせいか,それとも落胆のためか,シン

ジの瞳が少しだけ潤む。

 

そんな情けない自分をアスカに見せたく無く,シンジは無理に笑顔を作ると,

ハハハ…と力なく笑った…。

 

「あっ,だっ,ダメならいいんだ…。……ごめん…,急に変な事言っちゃって

…。忘れて…」

 

「いっ,いいわよ…………。」

 

シンジの言葉をさえぎるように,小さく,どうにか聞こえる程小さく上がった

アスカの声に,シンジはびっくりして顔を上げると歩みを止めた。

 

「えっ………?いっ,いいの……!?」

 

驚きに見開いた目を向けた先では,何故かちょっぴり怒っているような顔をし

て,口を真一文字に閉じたアスカが,上目遣いでシンジを見ていた。

 

(また,アタシの事,誘ってくれるの…?)

 

そうでもしないと,嬉しくて涙がこぼれてしまいそうだった…。

 

そんなアスカの心境までは分からないシンジは,アスカのこの意外にも素直な

承諾の言葉と,しおらしい仕草に頭の中が真っ白になってしまっていた。

 

(そっ,空耳じゃ…ないよね……?)

 

呆けたように立ち尽くすシンジに向かって,沈みゆく夕日と同じくらい赤く頬

を染めた少女は,手にしていたペンギンのヌイグルミを胸に抱くと,シンジに

向かってコクリ…と可愛らしく頷き,

 

「アンタが…その…どうしてもって言うなら…,また,デッ,デートしてあげ

ても…いいわよ…!」

 

小さな声でそう言うと,アスカは恥かしくて真っ赤な顔を,胸に抱いたヌイグ

ルミにギュッと押し付けた。

 

好きな人と行った初めてのデートで,好きな人から買ってもらったフワフワの

ペンギンのヌイグルミ…。

 

(嬉しい…嬉しい…嬉しい…!!)

 

また二人で出かけない?と言ってくれたシンジの言葉を,心の中で何度も何度

も思い出して,我慢していたのに,嬉しすぎて,幸せすぎて,アスカは青い瞳

から涙がぽろぽろこぼれるのを,抱き締めたヌイグルミで必死に隠した。

 

「あっ,ありがとう…!アスカ…!!」

 

アスカの返事にシンジは地に足が付かないくらい舞い上がった。目の端に小
さな涙の粒を浮かべながらも喜色満面の少年は,大きく腕を広げるとペンギ
ンのヌイグルミごとアスカをギュッ!と力いっぱい抱き締めた。

 

「きゃっ!?ちょっ,ちょっと,シンジ!!」

 

突然抱きつかれてビックリしたアスカは,短い悲鳴を上げて少年を振りほどこ

うとしたが,

 

(やっ,やった!やった…!夢みたいだ…!また,アスカとデートできるんだ

…!!)

 

夢中になっているシンジはそれを許そうとはしなかった。しっかりと,より抱

き締める手に力を込めた。

 

「ちょっと…,痛いって…!もうっ…!バカシンジ……♪デートぐらいでそん

なにはしゃがないでよ……!」

 

強く抱き締められた痛みに微かに顔をしかめつつも,からかい口調で嬉しそう

に声を上げたアスカの笑顔を見て,シンジは不意に抱き締めていた手の力を緩

めると,じっと腕の中のアスカを見つめた…。

 

「……?…どうしたの…?」

 

急に大人しくなって自分を真剣な眼差しで見つめるシンジに,アスカは不思議

そうな視線を向けた。そんな無垢な眼差しにシンジは緊張のためか,微かに喉

を上下させると,口元に恥かしそうな笑みを浮かべて,

 

「あっ……なっ,なんかこうしてるとさ…。」

 

「何…?」

 

「僕らって………つっ,付き合ってるように…,見えちゃったりとか…するの

かな…?」

 

そう言ってシンジはちらり…と反応を伺うようにアスカを見ると,そのまま赤

い顔を海岸の方に向けた…。不意のシンジの問いに,アスカは頬を染めると少

年の胸にそっと顔を埋めた。

 

潮の香りのする夜風が,さらさらと二人の髪をなびかせ,抱き合う二人を模写

するかの様に,赤と黒の髪を優しく絡み合わせる…。

 

いつの間にか,太陽は完全にその姿を隠していた。人気のすっかり絶えてしま

った駅へと続く海岸線の道路は,漆黒の空に浮かび上がった宝石の様な星々
と,銀色の光を優しく放つ,満月によって,静かに,そして限りなく銀色に
照らし出されていた。

 

シンジはほんの一瞬,夜空に浮かぶ月に目を奪われそうになった…。

 

が,ふと,アスカに視線を戻すと,彼女の赤い髪と,首元から僅かに覗く白い

うなじが,降り注ぐ月の光を浴びて,銀色に輝いていた。この姿に,シンジは

息が詰まりそうになった…。

 

(……綺麗だ………。)

 

自分でもみっともないなと思う位,シンジの心臓はドキドキと激しく鳴ってい

た。でも…。

 

(離したくない…!)

 

……自然と,アスカを抱くシンジの腕に力がこもった…。

 

しばしの沈黙の後,少女はそっと顔を上げた。そして,小さく一言,

 

「………うん……。」

 

月光が,彼女の素直な心を呼び覚ましてくれたのだろうか…?アスカ自身も驚

くほど,そこには何の抵抗も無かった。シンジの腕の中でクス…,と可愛らし

く笑うと,

 

「きっと…そう見られちゃうかも…。」

 

恥かしそうな微笑を浮かべたその顔は,潤んだ青い瞳を湛えて,月光の下で輝

く様な美しさを放っていた。

 

「アス…カ…。」

 

そのあまりの美しさと愛らしさに,シンジはやっと,それこそたった一言少女

の名前をつぶやく事しか出来なかった。

 

少年をじっと見つめていたアスカが,ふと,天を仰ぎ見る。わぁ……!と嬉し

そうな声を上げると,

 

「綺麗な…月…。」

 

視線を少年に戻す事無く,アスカはうっとりと漆黒の空に浮かんだ満月に見入

っていた。

至福な時だった…。

 

だが,二人の心には同時に欝懊とした不安がくすぶっていたことも事実だ。こ

の幸せな時も,いつかは終わりを告げる時が来る。確実に。それは数百メート

ル先で,この月下の中に無粋な人口の光を放っている駅に着いた時から始まる

だろう。

 

不意に,pipi…!とシンジの手に巻かれた腕時計が,この場にはあまりにも似つ

かわしくない電子音を発した。ちらりと二人が不快な視線を向けた先では,時

計が20:00を指していた…。

 

それは,二人を引き裂く宣告にも似た音…。

 

二人の生活する第三新東京市までの帰宅時間と,中学生が歩いていてもおかし

くない時間帯を考慮すると,もはや限界ギリギリの時刻だった。

 

(やっぱり…,もう…終わりなのね…。)

 

愁眉を浮かべ見合わせた顔には,悲壮感と虚脱感が色濃く表れていた。明日か

らまたただの同居人,同僚としてだけの生活が待っている。

 

以前に比べて確実に進展を遂げた二人の関係だが,このまま,またずるずると

惰性ばかりの続く以前の生活に戻る事など,一度知ってしまった蜜の様なこの

甘美な時を捨てる事などは,二人にはもう耐え切れない程に互いの想いは成長

を遂げていた。

 

(帰りたくない……!)

 

それは二人の心にほとんど同時に走った,声には出せない叫びだった。

 

(シンジぃ……。)

 

帰りたくないの…。瞳を潤ませながら,そう目で訴えるアスカにシンジは勇気

を振り絞った。アスカの小ぶりな耳に口を寄せると,

 

「海……見に行かない…?」

 

シンジの言葉にアスカはえっ…!と驚きの声を上げシンジを見た。相当に緊張

しているのか,シンジの顔は真っ赤で,きつく結んだ口元は微かに震えていた

が,アスカを見ている瞳は真剣そのものだった。

 

「でっ,でも時間が……。」

 

僅かに不安げな表情を浮かべた少女を再び抱き締めると,

 

「…帰りたくない……。」

 

普段は,どちらかといえば他人の希望に沿って行動することが多かった受動的

な少年が,少女の前で初めて口にした我が儘…。

 

− …帰りたくない…。−

 

穏やかながらも切実なシンジの言葉に,アスカは陶然となった…。

 

もう…他の事などどうでもよかった。何があってもこの人と,シンジと一緒に

居たい…。自分をしっかりと抱き締めたシンジの体をアスカも抱き締め返した。

 

強く,強く…。

 

「………アタシも………。」

 

抱き合ったせいで,アスカの顔はシンジから伺う事は出来なかったが,アスカ

の頬を伝った涙が,月明かりにキラキラ輝いていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀,全てが銀で彩られた世界。

 

防砂堤の向こうに広がった砂浜は,目にしたことの無い一種異様とも言える世

界だった。

 

一面の白砂の平原は銀の砂漠に,微かに白波を立てる海は,水銀にその姿を代

え,降り注ぐ月光のささやかな恵みを一身に受けて輝いていた。

 

「…綺麗……!」

 

そのあまりの美しさにしばし言葉を奪われ,砂丘の上に立ち尽くして二人だっ

たが,不意にアスカが感嘆の声と共に砂丘を駆け下りた。

 

サクサクサク…。

 

サクサクサク…。

 

サクサクサク…。

 

アスカが嬉しげに走り回ると,砂を踏む心地よい音が波音に混じって響き,巻

き上がった砂が,銀の粉を撒き散らしたように,涼しげな海陸風に乗って少女

の周囲を舞う。

 

(妖精なんて,見たことないけど…。)

 

砂丘の上に腰をおろし,楽しげにアスカのはしゃぐ様を見ていたシンジがほ…

っ,と小さく息を吐いた。

 

吐いた息すらも,銀色に染められてしまいそうな,月下の海岸…。

 

(きっと…こんな感じなんだろうな…。)

 

「シンジぃーーーーー!」

 

ぼんやりとそんな事を考えていたシンジを,いつの間に移動したのか,波打ち

際近くに立つアスカが手を振りながら大声で呼んでいた。その呼びかけに素早

く立ち上がると,シンジは少女の下に駆け寄った。

 

「どうしたの!?」

 

にこやかにやって来たシンジに,

 

「これ見て。」

 

そう言ってしゃがみ込んだアスカは,寄せて返す銀の波から一掬い,両手に海

水を満たしてシンジの鼻先に突き出した。

 

「海水が…どうかした…?」

 

「ただの海水じゃないの…!…ほら…,お月様…捕まえたのよ… …!」

 

「…?…お月様を…?」

 

不思議そうな顔でアスカの両手を覗き込むと,

 

「あっ……!」

 

「ねっ!?」

 

アスカの雪のように白い両手で作られた,美しい水槽に満たされた海水の水面

に,空に浮かんだ満月がくっきりとその姿を映していた…。

 

「本当だ………!」

 

嬉しそうに微笑んだシンジに,アスカは何故か悪戯っぽい笑みを浮かべると,

 

「シンジにお月様,あ〜〜げる!!」

 

言うが早いかキョトンとしている少年の顔めがけて,アスカは両手の海水を浴

びせかけた。

 

「うわぁぁっ!!冷たっ!…うぇ…しょっ,しょっぱい!!もう…,何するん

だよ…アスカぁ…!」

 

冷たい海水を顔面に浴びせかけられて面食らったシンジが,慌てて顔を拭きな

がら困ったような顔を上げると,

 

「や〜い!こっちよっ,こっち!」

 

先程までシンジが座っていた砂丘の上で,アスカが嬌声を上げながら,嬉しそ

うにピョンピョン飛び跳ねていた。からかわれた事に気が付き,ほんの少しだ

けむくれたシンジは,大きく息を吸い込むとアスカのいる砂丘に猛ダッシュし

て駆け寄った。

 

「やったな!アスカ!」

 

銀の砂を盛大に巻き上げながら走り寄ったシンジは,目を丸くしている少女に

そのままの勢いで抱きついた。

 

きゃっ!と短い悲鳴を上げてアスカがバランスを崩す。砂の上の事でシンジも

踏み止まる事が出来ず,二人は転げるようにして砂丘の上に倒れこんだ。柔ら

かな砂の上なので,痛みなど無いが,二人の倒れた衝撃で,砂が銀色に光なが

ら舞い上がった。

 

「………。」

 

「………。」

 

舞い上がった砂が落ち着くのを待って二人はそっと目を開けた。砂の上にはシ

ンジが,シンジの上にはアスカが乗っていた。しっかりと抱き合って…。

 

二人の視線が絡み合う。しばし無言で,互いの顔を見詰め合っていたが,不意

にどちらとも無く二人は笑い出した。

 

砂まみれの互いの顔が可笑しくて,二人きりの時間を過ごせている事が嬉しく

て。抱き合った手に力を込めて,二人はさも幸せそうに笑いあった。

 

ひとしきり笑い合うと,二人は思い出したように夜空を見上げた。

 

「綺麗な月だね…。」

 

「そうね…。」

 

抱き合ったまま二人はそっと上体を起こした。薄明るく光る空には,相変わら

ず美しい月が二人を見下ろしており,その煌煌たる輝きにシンジはわずかに目

を細めた。

 

「月明かりって,こんなにまぶしいくらい明るかったんだ…。知らなかったよ

…。……まるで…」

 

空に向かって愛しげな眼差しを向けるシンジを見て,アスカの胸がキュッ…!

と締め付けられる様に疼いた。優しい顔だった…。

 

「まるで…?」

 

「月光浴してるみたいだ…。」

 

シンジの言葉にアスカは微かに驚きを含んだ視線を向けた。

 

−月光浴してるみたいだ…。−

 

ロマンチックのかけらも無いと思っていた少年の口から,こんな言葉がこぼれ

ようとは思いもしなかったからだ。

 

昨夜,ムードのかけらも無いと呆れる自分に,弱りきった表情を見せていた少

年と同一人物とは思えず,

 

「ふ〜ん……。」

 

「…どうかした…?」

 

驚きの目を向けるアスカに,シンジは不思議そうに首をかしげた。

 

「シンジ,ロマンチックな事言えるじゃない…!」

 

「……僕って,今までそんなに無神経だったかな…?」

 

シンジは真っ赤になると口元に苦笑を浮かべた。そんなはじらうシンジが可笑

しくも可愛らしくて,アスカはクスクス笑うと,

 

「色々とねっ!…でも,今の月光浴は合格よ。……確かに,これは日光浴なら

ぬ月光浴ね…。」

 

そっと月を見上げたアスカの横顔に,今度はシンジの胸がキュッ…と締め付け

られた…。

 

「ごめん…アスカ…。」

 

「……?何で,急に謝るの……?」

 

突然の言葉にアスカは驚いて少年に目を向けた。アスカを見ていた少年の目に

は,微かな後悔と含羞があった。

 

「昨日,アスカ,月見てたろ?」

 

「うん…。」

 

「あの時,僕はアスカの気持ちも考えずに無神経に声をかけてしまった…。ロ

マンチック,なんて言葉,あの時は考えもしなかったけど,この月を見ていた

ら,確かに,僕も不思議な気持ちになって…」

 

「シンジ…。」

 

「そしたら,あの時アスカに,凄く悪いことしたんだなって,思ったんだ…。」

 

申し訳なさそうな顔で頭を掻くシンジを見つめていた,アスカの顔が薔薇色に

染まり,青い瞳からぽろ…っ,と涙がこぼれた…。

 

自分の気持ちを大切に想ってくれた,シンジのその優しさが嬉しくて…。慌て

て涙をぬぐうと,

 

「バカ…,今更言ったって遅いわよっ……!ほんとに…バカシンジなんだから

ぁ…。」

 

赤く染まった泣き顔をシンジの胸に埋めて隠すと,精一杯の強がり声を上げて

アスカは涙に濡れた顔をゴシゴシとシンジの胸板にこすり付けた。

 

(あっ………!)

 

ふわりふわりと,アスカが顔を動かすたびに,彼女の豊かな髪が舞い上がり,

甘い香りを夜気の中に振り撒いた。夜露にしっとりと濡れた梔子の発する香り

に似たその甘く切ない匂いに,シンジの心は締め付けられた。

 

(アスカ…甘くていい匂い…。)

 

少し前までは,掃除に入った彼女の部屋で同じこの香りをかいでも,こんなに

も胸が騒ぐことなど皆無だった。

 

− 女の子の部屋って,いい匂いがするんだな…。−

 

ただそれだけ。そこには何の感情の波立ちもない。自分には無いこの甘い香り

に,微かな違和感と不思議さが残っただけだ。だが,今は違う。この甘い香り

はシンジを捕らえ,その心をがんじがらめに縛り付けた。

 

苦しい,でも何処か心地いい。

 

(きっと,もう…。)

 

そっと抱いた腕の中の少女の髪にシンジは鼻を埋めて,心の中でひとりごちた

…。

 

(君無しの生活なんて,考えられない…。)

 

それは甘やかな降伏…。

 

シンジは小さく歯を食いしばって。胸の中のざわめきと動悸が治まるのを静か

に待った。見上げた月と,その光が少年の心を徐々に落ち着かせた。

 

やがて,静かな波音を立てる夜の海の様に,すっかりと落ち着きを取り戻した

シンジは,

 

「アスカ…。」

 

少女の耳元で優しくその名を呼んだ。

 

「何……?」

 

「…僕,アスカに言いたい事があるんだ…。」

 

顔を上げたアスカに,シンジは穏やかにそう告げた。じっと見つめた少年の瞳

は黒く,どこまでも澄んでいた。

 

「アタシも…,」

 

吸い寄せられるように,アスカの顔がゆっくりと少年のそれに近づく。こつん

…と互いの額が合わさった。それは熱くて…,緊張のためかほんの僅かに汗ば

んでいた。

 

「シンジに言いたい事,あるの…。」

 

もう,朧げながらに分かっていた互いの気持ち。後はそれを言葉に乗せるだけ

だ。月光の下で,二人の祈願は成就されようとしていた。

 

「じゃあ…。」

 

「一緒に…。」

 

かつて二人で切磋しあったユニゾン訓練の余韻か,二人の挙措はまるで鏡に映

したように重なり,一つになった。そっと目を閉じ,静かに呼吸を整える。

 

「…シンジ…,アタシ…。」

 

かつてその少年は鈍感だった。それもひどく。何度その鈍さに振り回されたか

分からない…。伝わらぬ想いに悩まぬ日は無かった。

 

だが今思うと,それで良かったのかも知れない…。悩みの無い恋などあろうは

ずが無く,悩んで苦しんで必死で求めたからこそ,この少年を心の底から好き

になる事が出来たのだ。

 

「…アスカ…,僕…。」

 

嵐をまとった様な…,そんな形容がピッタリとくる少女だった。傷つきたく
ないから,無知ゆえに純粋ゆえに,少女は周りを傷つけて自分を守ろうとし
た。

 

自らを傷つけているとも知らず…。

 

そんな嵐の中に,わが身を省みず飛び込んだ少年を,人は呆れ顔で見たが,少

年の心は損得勘定などでは無く,仲間のためにと懸命にその嵐を去らそうとし

た。結果,嵐が去った後に残されたのは,やさしいそよ風をまとった少女だっ

た。

 

誰も目にした事がない少女の本当の姿に,少年は恋した…。

 

青い瞳の中に黒い瞳が,黒い瞳の中には青い瞳が,しっとりと潤んで互いを映

して離さなかった。映した像が微かに滲んで見えた頃,小さな声で,二人の唇

から想いが溢れた…。

 

「あなたの事が……,好きです…。」

 

言葉と…,想いを紡いだ二人の唇は,そのままそっと重なった…。

 

初めて触れる他人の唇。想像していたよりも,遥かに柔らかく,滑らかで,温

かかった…。

 

月光浴…。

 

降り注ぐ銀の光と,優しく吹き渡る海風に包まれて,二人は初めてのキスを交

わした。それは,どこか神秘的な光景ですらあった。

 

(アスカ…好きだ………!アスカ………!)

 

唇を重ねながら,シンジは力一杯アスカを抱きしめた。声には出さないが,そ

んなシンジの想いの強さに,重ねた唇の隙間から声にならないアスカの歓喜の

喘ぎが漏れる。艶かしいその声音に,少年の心は狂おしい程に猛った。僅かに

唇を離すと,

 

「好きだよ…アスカ…。」

 

少女の返事も待たず,再びシンジはアスカの唇を奪った。少しだけ荒々しく奪

われた二度目のキスに,アスカの目に驚きの色が浮かんだが,

 

(好きよ……シンジ……。大好き………!)

 

驚きを月光に映えた銀の涙を湛えた瞳の下に沈めると,アスカは少年の背にま

わされていた己が両腕を,少年の首に絡め直し,互いの唇に少しでも触れない

部分があるのを恐れるかの様に,しっかりと抱きつき余すところ無く唇を重ね

た。

 

月の光が絶えないように,その光に照らされながら,二人のキスはいつ果てる

とも無く続けられた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

波が,砂浜を洗う音が響き渡る夜の海に,二つの影があった。真昼のような月

明かりに照らされた砂丘の上に,二つの影は楽しげに語り合いながら,頭上の

満月を眺めていた。

 

砂の上に両足を投げ出し空を見上げるシンジのその両足の間には,アスカが少

年の胸に背をすっかり預け,丁度椅子に腰掛けているような体勢で,やはりシ

ンジと同じように夜空の月を見上げていた。

 

二人はたわいも無い話を交わしては笑い合い,時折,互いの存在を確かめ合う

ようにキスを繰り返していた。

 

空を見上げる事に少し疲れを覚えて,アスカはシンジの両足の間で体をクルリ

と反転させると,正面からシンジを見据えた。

 

今朝までは只の同居人,今夜からは恋人同士…。

 

(夢じゃ…ないんだよね…?)

 

求めて止まなかった期間があまりにも長かったせいか,アスカはそっと手を伸

ばすと,シンジの頬を,この現実をしっかりと確かめるように優しく撫でた。

 

そんなアスカの行為にシンジが柔らかな笑みを浮かべる。ひとしきり撫でる
と,温かなその頬の感触に満足したのか,アスカは頬を桃色に染めてにっこ
り微笑むと,そのまま顔をシンジの胸に埋めた。

 

「アタシね…,ずっと…シンジの事,好きだったんだよ……。」

 

アスカの言葉にシンジはえっ…!と小さく声を上げると,眉間に僅かに苦悩の

色を浮かべた。

 

「僕は……。」

 

言いよどんだその言葉には,シンジのアスカに対する謝意と,僅かな後ろめた

さが込められていた。

 

アスカはずっと好きだったと言ってくれたが,自分がはっきりとアスカの事を

『好き』と自覚したのは今日この日からだ。この少女の真剣な思いに対して,

自分のあまりにも厚みのない想いに,シンジは自らに微かな軽薄さを覚えた。

 

だが,この想いが決して偽りや勢いだけのものではない事を,アスカには分か

って欲しかった。

 

「アスカ…僕はね……!………。」

 

気持ちを伝えるのがさして上手くない脳をフル回転させて,舌を動かそうと開

き始めたシンジの唇は,飛びつくように抱きついてきたアスカの唇によって塞

がれた。

 

目を白黒させているシンジからゆっくりと唇を離すと,

 

「いいの…。」

 

そう言ってアスカは小さく顔を左右に振った。

 

「大切なのは,好きって気持ちで,かけた時間じゃないわ…。アタシはシンジ

が好きだし,シンジもアタシの事,好きになってくれた…。それで十分…。」

 

「アスカ…。」

 

そんなアスカの言葉が嬉しかったが,まだ不安が残るのかシンジは微かに潤ん

だ瞳を不安げにアスカに向けた。アスカが苦笑顔で小さく溜息を付く。

 

気合を入れるつもりか,両手でピチッと少年の頬を優しく叩くと,アスカはち

ょっぴり怒ったような顔で,

 

「ほらっ!そんな情けない顔しないの!…彼氏がそんなんじゃ…,アタシが思

いっきり甘えられないじゃない…。しゃきっとしなさいっ,しゃきっと!」

 

「うっ,うん…。」

 

小さく頬を膨らますアスカに,まだ愁眉の晴れないシンジは,弱々しく返事を

返した。

 

もとよりアスカはそんなシンジの態度は嫌いではない。好きになる前までは優

柔不断だと揶揄した事もあったが,要は真面目な性格ゆえなのだ。色々と真剣

に考えてしまうため,考えがまとまるのに時間が掛かってしまっているだけ。

 

そこらの軽薄な男共よりも,自分のために必死に考えてくれるシンジの態度の

方が,アスカの目には余程頼もしく映った。唯一足りない決断力は,自分が補

えばいい。人はそうやって差さえあって生きているのだと得心し,アスカはそ

っと少年を抱き締めた。

 

「焦らずに,ゆっくり理解しあって行きましょう…。…アタシ…シンジの事,

もっと知りたいんだ…。」

 

少女の優しい言葉に,ようやく愁眉を解くとシンジはアスカをそっと抱き締め

返した。

 

「うん…,僕も,アスカの事もっと知りたい…。」

 

突如,シンジの手首であの不快な電子音が響く。先程,二人を引き裂こうとし

た時計のアラーム音だ。もうとっくに帰ることの出来なくなった時間を,鷹揚

に指し示す時計に向かって小さく苦笑すると,

 

「ちょっ,ちょっと……!」

 

驚くアスカを尻目に,シンジは立ち上がりながら腕時計を外すと,何のためら

いも無くそれを夜の海に向かって放り投げた。

 

「あっ………!」

 

アスカが小さく驚きの声を上げる。

 

二人が見守る中,無粋な機械は月光を受けて,虚空に銀の軌跡を引きながら飛

び去り,小さな水飛沫を上げて海中に没した。

 

そして,二度と現れなかった…。

 

「これで邪魔者はいなくなったな。」

 

満足そうに手を叩いてみせるシンジに,アスカはさも意外そうな目を向けた。

 

「…アンタ…,意外と大胆な事するのね…!?」

 

「大胆な僕は嫌い?」

 

ようやく覗いた,少しだけ逞しいシンジの言葉に,アスカはちょっぴり呆れた

ような,それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「急に格好つけちゃって…!らしくないわよ。…ほ〜んと…,バカなんだから

…♪」

 

「そうかな…。」

 

らしくないと言われて恥かしそうに頬を掻くシンジに,アスカはぎキュッ!っ

と抱きつくと,嬉しそうに何度も少年の胸板に頬擦りした。

 

「嫌いなわけないでしょ…。格好よかったよ……。そういうシンジも大好き…

…。」

 

「ありがとう…。」

 

頬を染めて,シンジは胸の中のアスカをギュッと抱き締めた。これは現実,疑

いようの無い現実。腕の中の温もりはシンジに不思議な安らぎを与えてくれた

…。

 

「ねぇ…。」

 

胸の中で挙がったアスカの小さな声に,シンジは腕にかけた力を緩めた。少年

の胸からゆっくりと顔を上げたアスカは,時計の形をした日焼け跡の残るシン

ジの右腕を取り,先程までそれがあったであろう場所を優しく撫でた。

 

「…時計,今度一緒に買いに行きましょ。アタシがプレゼントしてあげる…♪

…この子のお返し……。」

 

そう言ってアスカは傍らにポツン…と置かれた,あのペンギンのヌイグルミを

手に取って,大切そうに抱き締めた。

 

「本当!?嬉しいな…!」

 

「た・だ・し!」

 

ヌイグルミから顔を上げたアスカは,キョトンとしているシンジに,悪戯っぽ

い笑みを浮かべながらウィンクして見せた。

 

「アラームなんて不愉快な機能が付いてるやつは,買ってあげないわよっ♪」

 

アスカの言葉にシンジは満面の笑みで答えた。そして,少女を抱き締めると,

もう何度目になるのか分らないキスを交わした…。

 

夜は長い…。

 

月の光が果て,再び海中から姿を見せた太陽が,空から月を駆逐するその時ま

で,二人きりの時間は続く。

 

月が,燦燦と夜空に輝いていた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

桃色の空気なんてあるはずが無いと,ミサトは今までの人生の中で見た事のあ

る空気の色を,先程から必死に頭の中から探し出そうと,無駄な努力を繰り返

していた。

 

傍らには,普段にも増してうず高く積み上げられたエビチュの空き缶の山。当

然片手にはまだ中身の残る缶が握られている。

 

………桃色の空気なんかあるはずが無い。と言うか,そもそも空気に色など付

いていない。

 

酔っているのだ。それもひどく。ほとんど自棄酒に近い状態だった。

 

休日だが朝からいささか飲み過ぎのミサトを見た人は,一瞬眉をひそめるだろ

うが,すぐに彼女に同情する事になるだろう。酔眼に空気を桃色に写して見せ

た原因が,困惑顔のミサトの前で先程からひっきりなしに嬌声を上げていた。

 

コンフォート17の朝日差し込む葛城家のキッチンには,いつもの朝と同様に,

シンジお手製の朝食が美味しそうな湯気を上げていた。

 

今朝のメニューは炊き立てご飯にカブのお味噌汁,卵豆腐に鮭の西京漬けの焼

いたもの,焼海苔,お新香,緑茶付きと目の覚めるようなラインナップだ。

 

特におかしなものは見当たらないが,おかしいのはそれを口にしている人間の

方だった…。

 

「はいシンジ!あ〜〜んしてぇ♪」

 

西京漬けを適量箸に取り,ふーふーしてから差し出したアスカの隣には,

 

「うん…こっ,こうかな…。」

 

アスカにぴったりと寄り添うようにして,まだ少しだけ恥じらいが残るのか,

顔を赤く染めたシンジが,さながら餌を待つ雛鳥のように口を開けていた。

 

ぱくりと西京漬けを口にしたシンジを嬉しそうに見て,

 

「美味しい!?」

 

ニコニコしながら顔を覗き込むアスカに,モグモグ…と咀嚼を繰り返している

シンジは目で微笑んでいたが,ゆっくりと口の中の鮭を飲み込むと,

 

「もちろん!アスカに食べさせてもらうと凄く美味しいよ。それじゃ…お返し

に…。アスカ,あ〜んして♪」

 

「あ〜〜ん♪」

 

と,こちらも嬉しそうに頷くシンジは,お返しにと同じく西京漬けをはさみ取

ると,丁寧にふーふーしてからアスカに食べさせた。アスカもさも嬉しそうに

シンジの取ってくれた鮭を口にしている。

 

「………。」

 

幸せそのものの二人を眉間に皺を寄せて無言で見比べながら,ミサトの頭の中

は酒のせいだけでは無い位に大混乱状態だった。何がどうなったらこうなるの

か皆目分からない。

 

一昨日はハンバーグとシフォンケーキを挟んで,腹の探り合いと小競り合いを

繰り返していた二人だったはずなのに,水族館に出かけて,朝帰りして来たか

と思ったらこの有様だ。

 

眠そうな目を抱えて早朝にそーっとマンションに戻ってきた二人を,心配でほ

とんど一睡も出来なかったミサトが仁王立ちで迎えた。怒りで爆発しそうな顔

で睨むミサトに,二人は怪訝な顔を向けた。

 

『連絡もしないでどこほっつき歩いてたのよっ!!』

 

と目を三角にするミサトに,しっかりと抱き合いながら,

 

『乗ってた電車が使徒に襲撃されたから帰れなかった。』

 

と小学生でも二秒で看破出来る様な嘘を,口をそろえてしゃあしゃあと言う二

人に,ミサトは二の句を付けなかった…。

 

そもそも何で抱き合って言う必要性があるのかすらも,彼女には理解不能だっ

た…。

 

以後,今に至るまで目を丸くして絶句しているミサトを尻目に,シャワーを浴

びている時以外は,二人仲良く朝食を作り,普段なら向かい合わせで座ってい

る所を,こうして隣同士ピッタリくっつき合いながら,あ〜ん♪だのいや〜ん

♪だの言いながら(甘ったるい声を挙げている張本人はアスカ)朝食を摂って

いるのだ。

 

正常な神経の持ち主なら,朝からこれではおかしくなってしまうに違いない。

ミサトの場合はそれが酒量の増加という形で現れた…。

 

「あの〜…,ちょっと…いいかしら…。」

 

もはや我慢の限界とばかりに,弱々しい声を挙げたミサトに,二人が不思議そ

うな視線を向ける。

 

「あの…さぁ…。朝帰りの…理由は分かったんだけど…。」

 

「何よ?」

 

「何ですか?」

 

無垢な瞳を向けられて一瞬ひるんだミサトだったが,ここで引き下がっては保

護者の面目丸つぶれである。行き場の無い視線を僅かに天井に這わせながら,

 

「何で…いきなりそんなに…仲良くなちゃったわけ…?」

 

さも聞き辛そうなミサトに,二人は顔を見合わせる。

 

「別に。アタシ達,昔から仲良しよね?」

 

「うん。」

 

さらりと言ってにっこりと微笑みあう二人に,もはや何を問うても無駄だと思

ったミサトは,酒臭い息で短く嘆息した。

 

「まあ…,仲がいいのは,結構な事なんだけどさ……。」

 

何とか二人をくっつけてやろうと,陰助していた頃には考えもしなかったが,

実際こうして上手くいってしまうと,これから先,同じ屋根の下であてられ続

ける日々を想像して,ミサトはうんざりしてしまった。

 

これが普段の精神状態ならまだ耐えられもしようが,寝不足の上,少しばかり

『いやな事』があった後だけに,彼女の二人から受けたダメージは大きかった。

 

「何かご機嫌斜めね…?」

 

不機嫌そうな眼差しを向けるこの家主に,アスカは椅子から身を乗り出すと,

探るような目で見た。腹の内を読まれ,渋い表情を浮かべると,

 

「そっ,そんな事…ないわよ…!」

 

ミサトは目を泳がせながらしどろもどろに顔を背けた。

 

よくよく隠し事が出来ない性分のようで,これでは何かありましたと言外に言

っているような物だ。煮えきらぬミサトに今度はシンジが舌鋒を向けた。

 

「ひょっとして……加持さんと何かあったんですか?」

 

この一言にミサトはうっ…!と小さく呻くと,微かに震える手で手にしたビー

ルの缶をクシャ…!と潰した。酔いで薄まりかけていた怒りが,ミサトの心中

で再びその濃さを増す。

 

そうよ…!と苦しげにつぶやくと,ミサトはさも苦々しげに口元を歪めた。

 

シンジの指摘通り,彼女の怒りを買っていた相手は加持だった。一昨日,シン

ジ達を送り出した後,何となく手持ち無沙汰な気分になったミサトは,

 

『たまにはあいつでもデートに誘ってやるか…♪』

 

と,加持をデートに誘ったのだ。

 

だが,ものの見事にすっぽかされた。

 

ただ,この件に関しては加持にも僅かながらに言い分があり,ミサトがお誘い

の電話をかけたのが極めて早朝であった事と,連日の徹夜で彼がひどく疲労し

ていた為に起きたいわば『事故』なのだ。

 

彼が眠りから目覚めた時には,すでに約束の時刻から二時間も過ぎていた…。

 

『やばいな…こりゃ…。』

 

眠気のすっかり覚めた頭で,加持は素早く善後策を考えようとしたが,すでに

事態が収拾不可能な時点にまで達していると判断し,

 

『逃げるか…。』

 

短くつぶやいて,すぐさまベッドから跳ね起きると,ベッドサイドのテーブル

に置かれた車のキーを引っ掴んで寝室を後にした。

 

彼が愛車に飛び乗って自宅の駐車場を出るのと,怒り狂ったミサトが加持家の

ドアに一回目の蹴りを入れたのは,ほぼ同時刻であった…。

 

「あのバカ…!!デートすっぽかして…!明日会ったらただじゃおかないんだ

から!!」

 

怒りで顔を真っ赤にしながら手をバキバキ鳴らしているミサトを見て,二人は

明日加持を襲うであろう災厄を想像して,顔を見合わせ苦笑した。

 

「ねっ,ミサト。恋人と上手くいく方法,教えてあげようか?」

 

そんな沸騰したヤカンみたいに熱くなっているミサトに,アスカが悪戯っぽい

笑顔を向ける。

 

「何よ…それ…?」

 

怪訝な表情を浮かべながらも,何となく興味深そうな視線を向けるミサトの耳

元で,アスカは笑いたいのを必死で堪えながら,あのね…,と小さな声で,

 

「…二人で,満月の光を浴びるのよ…!」

 

アスカの言っている意味がわからず,はぁ…?と気の抜けたような返事をし
て,ミサトは答えを求めるようにシンジを見た。シンジもアスカに同意を示
すように,にっこり笑って頷く。

 

「…満月って…,あの…空にある…満月の事…?」

 

「そうよ♪ね〜,シンジ!?」

 

腕を組んでしきりに首を捻るミサトを尻目に,アスカはシンジの首に両腕を絡

ませて,少年の肩越しから,困惑しきっているミサトを見てクスクス笑った。

 

(まっ,今のミサトじゃいくら考えても,わっかんないかもねぇ〜〜♪)

 

「ははは…。あんまり…深く考えない方がいいかもしれませんよ。…ご馳走様

でした。アスカ,そろそろ行こうか?」

 

慰めるような眼差しをミサトに向けると,シンジは首に回されたアスカの腕を

そっと取りゆっくりと席を立った。

 

「うん!じゃミサト,アタシ達疲れたから,これから『二人』で寝るから。」

 

シンジの言葉にアスカは頬を桃色に染めると大きく頷いた。満月の光の意味を

しきりに考えているミサトを残して,二人はおのおの食器を手早く片付ける
と,いそいそとキッチンから出て行こうとした。

 

「あっ,そう…おやすみ…。満月の光…ねぇ………?何かのおまじ ないかしら

…………んんっ!?ちょっとアスカ!?『二人』でって,どういうことよっ
!?『二人』でって!!」

 

アスカの言葉を上の空で聞き流しながら,ぶつぶつとつぶやきつつ思考をめぐ

らしていたミサトは,ようやくアスカの放った言葉がとんでもない意味を含ん

でいた事に気がつき,仰天して二人の去ったドアを振り返る。

 

が,慌てたミサトの腰が椅子から浮かび上がった頃には,二人はキッチンから

響く彼女の叫び声に押されるようにして,足音も賑やかにアスカの部屋に駆け

込むと,中から鍵をかけてしまっていた。

 

「こっ,こらぁっ!開けなさいよっ,あんた達!!!鍵なんかかけて何する気

よっ!!!」

 

閉じられたドアをガンガン叩きながら大声を上げるが,ドアは全く開かれる様

子は無い。それどころか,

 

− もう…シンジのエッチぃ〜!そんなとこ触っちゃだめだよぉ〜♪−

 

「んな…!何やってんのよ…!?」

 

ドアの向こうから漏れてきたアスカの甘ったるい声に,ミサトはドアを殴る手

を休めると,耳をぴったりとドアに付けて内部の様子を必死に窺おうとした。

 

ギシギシ…と何かが軋む音が聞こえる…。ミサトの目が大きく見開かれ,顔が

見る見る真っ赤に染まった。

 

「ちょっ,あっ,あの子達…!」

 

言葉を失ったミサトのいささか不純な想像とは裏腹に,部屋の中では顔を真っ

赤にして笑いを堪えるのに必死なアスカが,口を押さえてベッドの上で両足を

ドタバタと賑やかに動かしている。

 

「くっ,苦しいぃ…!!ミサトの奴,絶〜〜〜対エッチな事考えてるわよ…
!!おっ,お腹痛いぃぃ!!くっくっくっく……♪」

 

ギシギシ…という音はここから発しているのだ。

 

「アスカ,あんまりからかうと後が怖いよ…。」

 

傍らではだいぶ飛躍した想像をしているであろうミサトを想像して,苦笑して

いるシンジがベッドの上に腰掛けていた。

 

そうとは知らないミサトは二人がイケナイ行為に走ってると勝手に想像を膨ら

ませ,再びドアをドンドン叩き始めた。当然ドアは開くわけも無く,ミサトの

憤慨とわめき声が大きくなれば大きくなるほど,笑い転げるアスカの発するギ

シギシ…というこの意味深な音も大きさを増した。

 

「もうっ!わかったわよっ!!」

 

いくら叩いても埒が明かないと諦めたミサトは,最後に思いっきりドアを蹴る

と,

 

「避妊だけはちゃんとしなさいよね!!」

 

「何恥ずかしい事大声で言ってんのよっ!!!!そこまでやってないわよっ,

バカぁぁぁ!!!!!ミサトのエッチ!!!」

 

アスカの大声と共に,ドアの内側から,

 

ドガッシャアァァァァァァンンンン!!!

 

と物凄い音が響いた。音のすさまじさに仰天して,ドアからミサトが仰け反る。

 

…真っ赤になったアスカに放り投げられて,ドアに激突した目覚まし時計は,

断末魔の様な音を立て,二度と動かなかった…。

 

からかわれた事にようやく気が付き,ミサトが怒りで顔を染める。

 

「まったく……!!何だかよく分からないけど,これもみ〜んな月のせいって

わけぇ!?」

 

彼女が月光浴の意味を理解出来るのは,まだまだ当分先のことになりそうだ…。

 

怒りも露に大股に部屋の前から歩み去ったミサトに,アスカはドア越しにあっ

かんべ〜して見せる。可愛らしいアスカの仕草にシンジが苦笑しつつも小さく

吹き出した。

 

その微かな笑声にアスカは怒りを納めると,傍らのシンジを振り返った。すっ

かり忘れていたが,今,自分は好きな人とベッドの上にいるのだ…。そう思う

と,アスカは無性に恥ずかしくなって来て,潤んだ瞳で上目遣いにシンジを見

た。

 

「ねぇ…シンジぃ…。」

 

耳まで顔を赤く染めて自分を見つめるアスカに,シンジもまた同様に頬を染め

るとアスカを見つめた。

 

「んっ,何?」

 

「シンジはさぁ…,ミサトが…言ってたみたいな事…,……したい …?」

 

直接的な表現ではなかったものの,ミサトの言葉から彼女がどんな行為を指し

ているのかを,シンジも薄々は感じ取っていただけに,アスカのこの艶を含ん

だ問いは,シンジの心臓の動悸を早めるには十分な効果があった。

 

(多分,あの事だよな……。)

 

心の奥底に眠るシンジの『男』が,ムクリ…と首をもたげる。

 

− アスカを抱きたい…。アスカの全てを自分の物にしたい…。−

 

そんな衝動から逃れるように,シンジは僅かに目を伏せた。

 

シンジも多感な時期を過ごす健康な男の子だ。当然,周りの悪友達から様々な

情報が,彼の意思とは無関係に入っても来る。この状況下で若い欲望が猛らな

いわけが無かった。

 

しかも,目の前にいるのは,学校でも美少女の誉れ高いアスカだ。微かに上下

したシンジの喉に,アスカの動悸も激しく高まった。

 

(だけど…なぁ……。)

 

自分に向けられるアスカの美しいマリンブルーの瞳を前にして,シンジは逡巡

した。

 

ここでそういう行為に手を染めるのは簡単だろうが,果たしてそれでいいの

か?そんな事をするためだけに,自分はアスカの事を好きになった訳ではない。

 

(もっと…僕は君の事,大事にしたいんだ…。)

 

大事にしたい…。この思いはシンジの過剰に熱くなりかけた心を,良い意味で

冷ました。

 

(いつか,もっと大人になってから…。堂々と『君が欲しい』って言えるよう

になるまで…。)

 

「したくないって言えば,嘘になるけど…。」

 

シンジの口から出た言葉に,アスカの動悸が一段と高まる。『好き』といわ
れた時から,アスカもいずれはシンジと体を合わせる事になるだろうと,期
待を織り交ぜた覚悟は抱いていた。

 

(あれって…,初めての時…凄く痛いんだよね……?)

 

友人達や雑誌などから得た知識で,耳学問とは言えアスカもおおよその事は掴

んでいる。もちろんシンジの事は好きだし,身も心も彼の物になりたいとい
う,恋するものが持つ極当たり前の感情をアスカは抱いていた。

 

だだ,もう少しだけ,互いに愛しさを共有出来る時間が欲しかった。

 

体を合わせる事も,愛を育む一つの手段である事は承知しているが,ショッピ

ングに行ったり,映画に行ったり,二人っきりでどこか遠くに出にかけてみた

り,そんななんでもない当たり前の日常の中で,二人で笑ったり泣いたりしな

がら,愛を確かめ合いたかった。

 

(でもなぁ…。)

 

チラリと見たシンジの黒い瞳に中に,いつに無く強い光がたたえられているの

を見て,アスカの胸の内が熱くなった。

 

(シンジも,男の子だもんね…。押し倒されちゃったりとかしたら…どうしよ

う……。)

 

あられもない姿でシンジに抱かれている自分を想像して,真っ赤になった顔を

伏せると,緊張からアスカも小さく喉を上下させた。

 

ベッドの上になんとなく気まずい沈黙が蔓延する…。

 

ほんの僅かな時間であったのだろうが,二人にはその沈黙がとてつもなく長く

感じられた…。

 

「あっ,あのさ……。」

 

沈黙を破ったのはシンジの方だった。不意の呼びかけにアスカの心臓がドッキ

ーーン!!と大きく一つ打つ。

 

「はっ,はいっ!!」

 

上ずった声で返事をしたアスカを,シンジが驚いたように見つめた。

 

(やっ,やっぱ…,しちゃうの…?)

 

アスカは緊張しすぎて顔を上げられない。今にもシンジの手が自分に伸びてく

るのでは,と考え身を硬くした。

 

「アスカ…。」

 

優しく呼ばれた自分の名前に,アスカはビクッ!身を震わせた。恐る恐る顔を

上げると,

 

「どうしたの…?そんなに緊張して…?」

 

笑みを浮かべたシンジが,優しい眼差しでアスカを見ていた…。

 

「シンジ……?」

 

「正直ね…,アスカと…ミサトさんが言うような事,してみたいって気持ちは

確かにあるよ。だけど,そう言うのは,もっとちゃんとしてからのほうがいい

と思うんだ…。」

 

シンジの瞳に浮かんだ優しい光に,アスカは緊張を解いた。そして,改めて少

年の顔を見た。

 

こちらはまだ緊張しているのか,赤みを帯びた顔に笑みと微かな恥じらいを浮

かべつつ,目の前のアスカをじっと見つめていた。少年の体貌から立ち上る,

草原に吹く風にも似た爽やかな気に,自然,アスカの口元にも笑みが浮かぶ。

 

「ちゃんと…って…?」

 

そっとシンジににじり寄ると,アスカは甘えるように少年の胸に身を沈めた。

 

(アタシ…。)

 

シンジの言葉をみなまで聞くまでも無かった。シンジの口調と,その優しげな

眼差しから,今この場で自分を抱こうなどという気は無い事,シンジが心底か

ら自分の事を大切に思っていてくれている事を感じ取り,アスカは目の端に小

さな涙の粒を浮かべた。

 

幸せだった…。

 

(アンタの事,好きになって良かった…。)

 

「もっと大人になって…,その…,子供とか出来ても,きちんと育てられる位

になるまで…。」

 

それって…,とささやく様に言いながら,シンジの胸から顔を上げて,アスカ

は微笑んだ。

 

「………。」

 

シンジが軽い驚きに目を見開く。アスカの笑顔は,昨夜,二人で見上げたあの

月の光の様に美しく,限りない優しさに満ちていた…。

 

「…アタシと結婚してから,って事?」

 

「うん…。」

 

中学生が語るにしては,いささか遠大な話ではあるが,微塵も逡巡を見せなか

ったシンジの態度から,この真摯な少年がきっとこの約束を守ってくれると確

信し,アスカは満面の笑みを浮かべた。

 

そして,自分も必ずこの誓いを守ろうと心に決めた…。

 

「シンジにしゅくだぁ〜〜〜い!」

 

「しゅっ,宿題…!?」

 

胸元から突然挙がった言葉の意味が理解できず,シンジは困惑の面持ちでアス

カの言葉を反復した。

 

えへへぇ…♪と意味深な笑い声を挙げながら,シンジの胸元からもたげられた

アスカの瞳は,微かに涙で濡れていたが,悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。

 

「アタシが目を覚ますまでに,アタシを満足させられるだけの,素敵なプロ
ポーズの言葉を考えておく事!そしたら……」

 

シンジの胸からゆっくりと体を起こしながら,アスカはシンジに宿題の内容を

告げつつ,驚く少年の唇にチュッ!とキスした。

 

「アンタと結婚してあげる!」

 

そう言うとアスカはおやすみ!の言葉と共に,目を白黒させているシンジをベ

ッドの上に押し倒し,その胸に頭を乗せると,瞠目しているシンジを尻目に,

すぐさま小さな寝息を立て始めた。

 

「ぷっ,プロポーズって……?えええええぇぇぇぇ〜〜〜〜っ!?」

 

無論,真面目なシンジが,アスカが目を覚ますまで一睡も出来なかった事は,

言うまでも無い…。

 

 

 

 

 

 

 

さて…。

 

後に…,『碇アスカ』と呼ばれる様になるこの少女は,昔と変わらぬ優しさ
を自分に向けてくれる夫と共に月を見る度に,あの日,恥ずかしがり屋の夫
がベッドの上に正座して,ほとんど決死の思いで伝えてくれたプロポーズの
言葉を思い出しては,幸せそうに微笑むのであった…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お・わ・り

 



あとがき『時は流れる』

 

ご無沙汰しております。鳥猫です。初前後編物としてお送りしておりました,

『月光浴』その後編は如何でしたでしょうか?後編の方が長いと言う,前後編

物と謳った割には,ちぐはぐな出来になってしまいまい,初めに言わなければ

よかったなぁ…などと微かな後悔の念を抱いてしまいました。ですが,内容
に関しては無い頭を捻って書きましたので,一片の後悔もありません。

 

さて,今年の夏はコミックマーケット68に行ってまいりました。実に五年ぶり

の参加で,直前までカタログを買わないという怠慢振りだったのですが,カタ

ログを購入して確認した所,随分とエヴァサークルさんが減ったなぁ…と,寂

しい思いを抱きました…。鳥猫が学生の頃は恐ろしいくらい沢山参加されてた

んですけどね…。これも時代の流れなのでしょうか…。

 

反面,参加されているサークルさんの多くがLAS派だった事から,思わずニン

マリしてしまった自分がおりました。単純な猫ですいません…(しかもLSA推

進派なのに…。)。

 

作品を書いている時,周りから『エヴァも随分下火になったよね。』と言う
声を聞くと,鳥猫はかなり凹んでしまいます…。大好きなアニメだけに『過
去の遺物』的扱いをされてしまうと,なんだか自分の家族を馬鹿にされてし
まったような気がして,やるせない気持ちになってしまうからです。

 

事実なので仕方ないとは思いますが,食文化と同じくこういった嗜好は,当人

の思い入れが非常に強いので,他人からそれを否定されると,言われた相手は

酷く傷つきます。大切な物を持っていれば,そういった他人の痛みを理解でき

るはずなんですが,中々見えないものなのですね…。ただ,鳥猫も自分の知ら

ない所で人を傷つけているかもしれません,多分,きっと傷つけていると思い

ます。『灯台下暗し』とはよく言ったものです…。反省…。

 

長々とあとがきを綴ってしまい,失礼致しました。作品についてのご感想,ご

指導などいただければ幸いです。それでは,次回作でお会いできることを楽し

みにしております。

 

 

2005年8月15日

柴田 淳「月光浴」を聴きながら。

鳥猫

 


 

鳥猫さんか『月光浴』の後編をいただきました。

素敵なお話でありましたね。みなさまも読後には鳥猫さんへの感想メールをお願いします。

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