月が見ていた …。

 

少女を…。

 

いや…,その少女が月を見ていたと言うべきか…。

 

薄暗い部屋の月光差し込む窓辺に,小さな椅子に腰掛け,物憂げなその顔を頬

杖して,少女は銀光降り注ぐ天空の月を見上げていた…。

 

少女の持つ瑠璃色の瞳が月光に映え,月長石のような燐光を放つ。夜風に揺れ

るその燃え立つような豊かな赤毛は,銀の光を浴びてどこか鉱物的な輝きを見

せていた。

美しい少女だった…。

 

「綺麗…。」

 

薔薇色の,小振りなその唇から小さく洩れた甘味を帯びた声が,砂糖菓子の様

に夜空に溶けていく…。

 

じっと月を見つめていた彼女の瞳から,突然涙が零れた。理由は少女にもわか

らなかった。何故か悲しくて,何故か寂しくて…。月の光に映えて銀に光る涙

の粒は,夜風と少女の体温によって,ゆっくりとその姿を消した…。

 

− 綺麗な月…。でも,月を見ていると寂しい気持ちになるのは,何故なんだろう…? −

 

「アスカ…。」

 

− 月の光って…,綺麗なんだけど,ちょっと冷たい感じがする…。−

 

「ねぇ…アスカ…。」

 

− 見ていると寂しい気持ちになるのは,この冷たい光を浴びてるせいなのかな…?−

 

「アスカってば…!」

 

− …。−

 

「もう…,アスカぁ!」

 

「うるっさーーーーいっ!!何なのよっ,さっきからぁ!せ〜っかく人がロマ

ンチックな気分に浸ってるってのにぃ!邪魔しないでよねっ!!!!」

 

 

 



 

「月光浴(前編)」

 



 

 

 

背後から間断なく浴びせかけられ続けるシンジの呼び声に,月に見入っていた

アスカは,何とかこの神秘的な時を守ろうと,しばらく無視を決め込んでいた

が,ついに堪えきれなくなり,怒りの形相で体を震わせながら抗議の罵声と共

に振り返った。

 

「晩御飯出来たよ。」

 

振り返った背後では,何大声上げてるんだよ…?と言わんばかりに,キョトン

…,としてシンジがアスカを見ていた。アスカの高ぶった感情とは対照的に,

極めてのんびりと反応したシンジに,勢いを奪われてしまい,アスカはがっく

りしてうなだれた…。

 

「ったく……!アンタって…ほんっと,デリカシーとかムード無いわよね!」

 

「お腹すいたから早く作れって言ったの,アスカじゃないか。」

 

さっさと飯を作れと命じておきながら,自分はお月様を悠然と眺めていた事実

を突きつけられ,アスカのシンジに対する芥子粒の程の良心が,チクリ…と痛

む。シンジの指摘にアスカが小さく引いた。

 

「そっ,そりゃそうだけど…,人がせっかく満月を楽しんでるんだからさぁ,

もう少しマシな声のかけ方ってもんがあるでしょ!?」

 

「…そんな難しい事言うなよ…。それよりご飯冷めちゃうよ。今日はアスカの

好きなハンバーグだよ。」

 

うなだれていたアスカの顔がゆっくり上がる。キラリとシンジを見た瞳には期

待と喜びが込められていた。

 

「……本当?……」

 

シンジの手作りハンバーグは,落ち込みかけたアスカを奮い立たせるのに十分

な力を有していたようだ。とにかくマメなこの少年は,家事全般を得意として

おり,今やこの家ではガサツな女性陣二人にとって,無くてはならない存在と

なっていた。

 

特にシンジは,料理に異常なまでの才を持っているようで,新鮮な牛肉100%を

包丁で叩いて作るシンジ特製ハンバーグは,アスカを魅了して止まない料理だ

が,いかんせん作るのに手間がかかる為,よほど時間に余裕がある時にしか食

膳に上らないのが,玉に瑕な料理でもあった…。

 

(忙しいのに作ってくれたんだ…。………しょうがないなぁ …,許してあげるか…!)

 

邪気のない笑顔を向けるシンジとハンバーグへの期待感に,アスカも少しだけ

怒りが和らいだのか,薄っすらと笑みを浮かべる。

 

「うん!ほら,早く行こうよ。っと,それからアスカ…。」

 

「何よ…?」

 

軽やかに椅子から腰を浮かしかけたアスカに,シンジはふと思い出したように,

 

「今日は小望月(満月前日の月の旧暦日付名)だよ。満月は明日。」

 

「………。」

 

シンジの一言に自分のロマンをあっさり否定され,せっかく鎮火しかけていた

アスカの怒りが再燃する。怒りにフルフル震えながらアスカは,おもむろに履

いていたスリッパを脱ぎ,ギュッ!と握り締めると,背を向けて歩き出したシ

ンジの後頭部を,

 

スッパァーーーン!!!

 

高々と振り上げたスリッパで勢い良く引っ叩いた。

 

「痛っぁぁぁぁぁ!何するんだよ…,急に…!」

 

「うるさいっ!この無神経男!!アタシのロマン返せぇーーーっ!!」

 

 

 

 

 

 

不気味なほど静まり返ったキッチンに,カチャカチャ…と食器同士が打ち合う

澄んだ音だけが響き渡っていた。

 

三人そろっての葛城家の食卓は,少しばかり険悪な空気に包まれていた。もっ

ともその緊張感を作っているのはアスカ一人なのだが…。

 

缶ビール片手に何となく声をかけ辛くて,黙して皿に目を落としていたミサト

は,険悪な雰囲気を解決する糸口が無いものかと,上目遣いに目だけ動かして

部屋をぐるりと見回したが,

 

「…。」

 

視界に入ってきたのは,鋭い目つきで何やらピリピリした空気を周囲に放って

いるアスカと,そんな空気が全く読めないのか,至って穏やかな顔つきで食事

を続けるシンジであったため,だめだこりゃ…,と言わんばかりに小さく嘆息

すると,ミサトは再び視線をお皿に戻した。

 

先ほどシンジに心地よいムードを台無しにされた怒りの余韻が冷めないのか,

ハンバーグの美味しさに,思わず緩みそうになる頬を必死になって押さえなが

ら,アスカは怒ってるのか笑ってるのか判じがたい顔で,食事を続けていた。

時折,顔を上げてシンジを睨むのだが,その都度シンジは,

 

− どうしたの?−

 

と,アスカの心情などまるで理解していないかのような,無邪気な笑顔を返す

ため,アスカの顔には徐々に赤みが加わり,益々良くわからない表情になって

いくのだった。

 

「何よぉ,二人とも…。また喧嘩したわけぇ!?もう…ご飯の時くらい仲良く

してよね…!」

 

不可思議な顔で食事を取るアスカに,いい加減この緊迫した空気に我慢が出来

なくなったミサトは,温くなったビールをグイッ!とあおると,いささか呆れ

気味に小さく酒臭い息を吐いた。

 

「アタシ,何にも悪いことしてないもん!」

 

ミサトの言葉にアスカは口に入れかけたハンバーグをお皿に戻すと,プイッ!

とそっぽを向いた。

 

完全にへそを曲げてしまったアスカの態度に,シンジが困ったような笑顔を浮

かべる。

 

「シンちゃん何かやったの?」

 

「いえ…それが…。何で怒ってるのか僕にもさっぱ…イテッ! ……ちょっと何

するんだよ,アスカぁ。」

 

アスカの投げたハンバーグの付け合せのプチトマトが,シンジの額のど真ん中

に命中する。ちょっぴり悲しい顔をして,シンジはテーブルに転がったプチト

マトを拾い上げると,ヘタを取って自分の口に放り込んだ。

 

「だめだよ,食べ物を粗末にしちゃ…。」

 

「シンジのバカ!トマトは粗末にしちゃいけなくて,アタシのロマンは粗末に

してもいいってわけぇ!?」

 

「別に粗末にしてるわけじゃないけど…。」

 

「粗末にしてるじゃない!普通ああいう場面では知ってても黙ってるもんなの

よっ!」

 

「だって本当の事じゃないか。満月は明日,今日は小望月なんだから。」

 

シンジの言葉にバンっ!と盛大な音を立てて,テーブルを両手のひらで思いっ

きり叩くと,アスカは椅子から腰を半ば浮かせ,シンジの顔に自分の顔をくっ

つけんばかりの距離まで寄せて,赤い顔で睨み付けた。

 

「そう言うのを『いらぬお世話』って言うの!乙女のロマンチックな時を台無

しにした上に,鹿爪らしく『今日は小望月だよ。満月は明日。』な〜んて講釈し

ちゃって,無神経も甚だしいのよっ!」

 

「一体全体何の話よ?乙女のロマンだの満月だの小望月だのって…?」

 

「別に!ミサトには関係ないでしょ!?……もういいわよっ!!」

 

不思議そうに自分に顔を向けるミサトに,皆まで説明する気は毛頭無いらしく,

アスカは鼻息も荒く席に戻り再び箸を取ると,仏頂面で食事を再開し始めた。

 

取り付く島も無いくらいご機嫌斜めになってしまったアスカに,二人は小さく

嘆息した。仕方なしにシンジも食事を,ミサトは本日二本目のビールを冷蔵庫

から取り出して,晩酌を再開するのであった。

 

 

 

 

 

 

(それにしても…,本当にロマンチックのかけらも無いんだから…!)

 

食後のデザートに,たっぷりの生クリームが添えられた,シンジお手製の焼き

たてのシフォンケーキと紅茶を頂きながら,アスカはミサトと談笑する少年に

チラリと不満げな視線を送ってから,心の中でため息を付いた。

 

(このアタシが涙まで流したってのに,ぜ〜んぜん食いついて来ないなんて,

どういう神経してんのかしら!?ったく……!)

 

ふっくら焼きあがったシフォンケーキを大振りに切って口に運ぶと,アスカは

怒りと共に飲み下した。今日のシフォンケーキは特にアスカ好みの味に仕上が

っているようだ。

 

美味しい…♪と思わず笑みがこぼれそうになるが,今は僅かでも怒りを継続し

たく,アスカは頬の緩みをグッとこらえた。

 

(バカシンジ…!こんな美少女が物憂げに月に見入ってるんだから,もうちょ

っとロマンチックな言葉,かけてくれたっていいじゃない…!)

 

最後の一口となったケーキに,ありったけのクリームをつけて口に放り込む。

ひんやりした生クリームは,アスカの体温でゆっくりと溶け出し,甘いもの好

きのアスカを思わず恍惚とさせ,すでに希薄になりつつある怒りをさらに薄め

た。

 

(………アタシ…,魅力無いのかなぁ ………?)

 

空っぽになったお皿を見つめたアスカの胸に,急に空しさが加わる。二人に見

えないように,手に取ったフォークでお皿に残ったクリームを使い,アスカは

『シンジ』とお皿の上に小さく書いた。

 

「…。」

 

アスカは寂しげな瞳でぼんやりとクリームで書いた,シンジの三文字を見つめ

ていたが,不意に自らの行為に気恥ずかしさを憶え,頬を薄っすら桃色に染め

た少女は,慌てて文字をフォークで消し去った。

 

グチャグチャになってしまったシンジの文字が,ちょっぴり可哀想だった…。

 

(…アタシだって…,別に見たくて見てたわけじゃ…ないんだから 。)

 

アスカとて何の意味も無く月を見ていたわけではない。月を見ていた少女には,

ある思惑があった…。

 

誰にも言えない…。だけど…本当はある人に伝えたい想いが…。

 

 

 

 

 

 

−何だか,ぼーっとした男の子ね…。−

 

約一年前。それが,二人が初めて出会った時の,アスカのシンジに対する第一

印象だった。

 

幼い頃から勉強ばかりで,あまり同年代の男の子と話した経験の少ないアスカ

だったが,そんな数少ない経験の中で出会った男の子の中でも,シンジは異彩

を放っていた存在であった。

 

−顔は…まっ,まあ…,割と好みだけど…。 ……こいつ…何か楽しいでもあっ

たのかしら…?−

 

シンジは,とにかく笑顔を絶やさない少年だった…。

 

それにひどく優しかった…。

 

大抵の同年代の男の子は,アスカの端麗な容姿に魅かれて甘い言葉を携えて近

寄ってくるものの,少女の棘を含んだ言葉と,暴風雨のような性格にさらされ

ると,恐れをなしてほうほうの体で逃げ去っていくのが常だった。

 

−まっ,どうせコイツも,アイツ等と同じなんだろうけどね…。…男なんて …!−


甘い言葉で近寄ってきておきながら,自分の激しい性格を知ると尻込みして逃

げていく男達の背に,アスカは冷眼を向けた…。

 

− ママを捨てたみたいに…,アタシの事も捨てる気なんでしょう…!?−

 

そんなくだらない男達の姿に,事故で正気を失いやがて命まで断ってしまった

優しかった母と,残された自分を捨てた父親の姿が重なったからだ…。

 

拒絶を繰り返していたこの少女は,いつも一人だった…。

 

本当は優しくしてもらいたかった…,

 

誰かに傍にいて欲しかった…。

 

居場所が…欲しかった…。

 

−どうせ…シンジもアタシの事なんか,見てくれないんだ…。−

 

だが,アスカの暗い予想に反して,少年は逃げなかった。それどころか,常に

この傷ついた少女を慈愛のこもった目で見守り,アスカの繰り広げる理不尽な

言動の全てを許してくれた。

 

シンジからこれまでの男からは感じたことのない暖かさを感じ取り,アスカは

困惑した。

 

− 何で…?−

 

シンジに出会った頃のアスカは,いわば傷を負った棘だらけの獣だった。この

獣は手酷い傷を負って,一人,孤独と言う名の森を行くあてもなく彷徨っていた。

 

アスカにとって,シンジはそんな暗い森の中で見つけた,暖かな,たとえて言

うなら春の陽だまりの様な存在だったのだ。

 

— 何で…コイツ,こんなに優しいの…?−

 

初めアスカはこの陽だまりの余りの居心地の良さに恐怖すら覚え,何度か陽だ

まりを,その身にまとった棘で傷つけようとした。が,陽だまりはそんなアス

カの棘に怯みもせず,この傷ついた少女をその温かな慈愛の手ですっぽりと,

棘ごと包み込んで労わった。

 

− 何でだろう…。コイツと一緒にいると…凄く安心する…… ……。−

 

いつしかアスカの怯えは影を潜め,陽だまりの下で過ごす時間が長くなるうち

に,少しずつではあるがアスカの心に負った傷は癒え,身にまとった棘が剥が

れ落ちていった…。

 

− アタシ…,アンタの傍にいてもいいの…?−

 

傷もすっかり癒え,落ち着いてこの陽だまりを観察する余裕が出来たアスカは,

この陽だまりに自分以外にも傷ついた者が,その暖かさを求めて時折姿を見せ

る事を知った。

 

− ………アタシだけに…特別優しくしてくれてるんじゃ …ないんだ…。−

 

その事実に行き当たった時,アスカはひどくガッカリした…。

 

− そんなの…イヤ…!−

 

同時に面白くなかった…。

 

−誰にも渡さない…!ここはアタシの,アタシだけの場所なんだ…!やっと …

やっと見つけた…,アタシの…大切な…居場所なんだ…! −

 

いつしかアスカは,この陽だまりを独り占めしたいと考えるようになっていた。

それが,シンジに対する恋心だと気が付いたのは,つい最近のことだった…。

 

だが,恋するアスカの前にとんでもない恋敵が立ち塞がった。それは,自分以

外にシンジに恋する魅力的な女の子などと言う生易しいものではない,アスカ

自身もどう戦ってよいのか頭を悩ます相手。

 

それは,どんなにアプローチしても,アスカの恋心に全く気が付いてくれない,

純粋だが,恐ろしく鈍感な少年…。

 

アスカの恋敵は,シンジ本人だった…。

 

 

 

 

 

 

「アスカ,美味しかった?今日のは上手に焼けたと思うんだけど…。」

 

先ほどから会話に加わらず黙々とケーキを頬張っていたアスカに,シンジが少

しばかり心配そうな目を向ける。

 

完全に自分の世界に没頭していたアスカは,驚いてビクッ!と体を震わせると,

無理矢理作った不機嫌そうな目でチラリ…とシンジを見て,

 

「…まあまあね…。ちょっと甘すぎるかしら…。」

 

愛想無く答えてアスカは手にしていたフォークをテーブルに放り投げた。美味

しくないわけなどない…。本当はもっと素直に,

 

− 凄く美味しいわよ!−

 

と,答えたかったが,先ほどの一件に加え,生来の素直の無さが,アスカの口

調に苦さを加えた。

 

「そっかぁ…,今日のはアスカの好みに合わせて作ったつもりだったんだけどな…。」

 

(えっ…!?)

 

ちょっぴり残念そうに目を伏せたシンジに,アスカは驚いた顔を向けた。

 

(アタシの…ために…!?)

 

「あ〜らら!いいんだいいんだアスカぁ♪シンちゃんに優しくしてもらっちゃ

ってぇ!お姉さん寂しいわぁ…。シンちゃぁ〜ん…アタシにも優しくしてぇ…♪」

 

「黙んなさいよっ,この酔っ払い!!………シンジ… …!」

 

酔眼で茶化すミサトを,少年の優しさに潤んだ瞳で鋭く睨み付けてから,アス

カは注意深く自分の感情を怒りで包んで隠し,シンジを真剣な眼差しで見た。

見つめられたシンジは,相変わらず邪気のない笑顔をアスカに返した。

 

「何?アスカ?」

 

「なっ,何で…,そんなことしてくれたのよ…?」

 

見つめられたシンジは,笑顔を収めると申し訳なさそうな顔を僅かに伏せると,

 

「あっ…,さっきの…お詫び…。せっかくアスカが気持ちよく月見てたのに,

なんか僕,台無しにしちゃったみたいだからさ…。」

 

(シンジぃ…。)

 

「はは…ごめんね。こんな無神経な男で…。」

 

軽く頬を染め,シンジはケーキ位でアスカのご機嫌を取ろうとした自分に,卑

しさを覚えたのか,恥ずかしそうに鼻の頭を掻いて,力の無い声で自嘲気味に

笑った。

 

(ごめんね…,謝らなきゃいけないの,アタシの方なのに…。シンジ…何にも

知らなかったんだもんね…。)

 

そんなシンジの誠実な態度に,自分の希望ばかり通そうとして,少年に無理難

題を押し付けてしまったアスカの胸がチクリ…と痛んだ。

 

本当は声を大にして謝りたかった…。でも出来なかった…。生来の強情っ張り

に加え,長年己のプライドだけを頼りに生きてきたアスカの口は,主の心の声

と正反対の物言いをしてしまうのが常だった。

 

「いっ,いまさらこんな事でアタシのご機嫌取ろうとしたって遅いわよ…!」

 

アスカの棘を含んだ言葉に,シンジは少しだけ悲しそうな目をしてアスカを見

た。そんなシンジを見た少女の胸が,先程よりもさらに激しく痛む。

 

(ごめん…シンジごめんなさい!そんな目…しないで…!悪いのは アタシな

んだから…。…………アタシ…本当に…,素直じゃないよね…。)

 

「…でっ,でもまあ…今回だけはアンタのその姿勢に免じて,特別に許したげ

る…!優しいアタシに感謝しなさいよっ,バカシンジ…!」

 

(……あの時ね…,シンジにも,ちょっとだけロマンチックな気分に,なって

欲しかったの…。)

 

ありったけの素直さを心の奥からかき集めて,アスカはシンジの視線から逃れ

るようにプイッ!とそっぽを向くと,少しばかり震える声でそう答えた。

 

(そしたら…アタシ…,シンジに自分の気持ち,伝えられると思ったから…。

素直になれそうな気がしたから…。)うな笑顔をアスカに向けた。

 

「本当!?ありがとう…アスカ…!」顔が眩しくて,恥ずかしくて,アスカは顔を赤く染

 

「それと!今度はもっとアタシを満足させられるケーキ作んなさいよっ!わか

った!?」

 

「かけらも残さず食べといて,よっく言うわねぇ…アンタも…。」

 

息巻くアスカに酔っ払い呼ばわりされて,少しばかり面白くなさそうに二人の

様子を窺っていたミサトが,アスカの言葉にやや呆れた感じに肩をすくめる。

 

「のっ,残すのがもったいなかったからよっ!大体,今日のケーキアタシには

甘すぎだったの!」

 

アスカの苦しい言い訳に,腕を組んで宙に視線を漂わせながら黙考していたシ

ンジは,

 

「甘すぎか…。ちょっと,待ってて!」

 

そう言とキッチンに走り込んでいった。突然のシンジの行動にキョトンとする

アスカと,シンジとアスカをそれぞれ見て,ニヤニヤするミサトの視線を浴び

ながら,シンジは暫しガスレンジの前でせわしなく手を動かしていたが,

 

「これでよし…!ねっ!アスカ,これだったらどうかな!?」

 

「何…これ…?」

 

シンジが手にしてきたミルクパンの中には,真紅の液体が入っていた。その香

りから察すると,どうやらフランボワーズソースの様だ。

 

「木苺のソースだよ。これなら適度に酸味があるから,ケーキの甘さを抑えて

くれると思うんだ。…あっ…でも…ケーキが無いか…。」

 

アスカを喜ばせようと,作ったソースだったが,いかんせんかけるべきケーキ

は焼き皿にもアスカのお皿の上にも残されていなかった。自分の早とちりに,

せっかく上手く行くと思ったんだけどなぁ…とシンジはうなだれた。

 

「あらぁ,シンちゃんの分が余ってるじゃない。味見だけならそれでもいいん

じゃないの?ねっ!?アスカ?」

 

ニコニコしながらミサトはすかさずそう言って,チラリとアスカに意味深な視

線を送った。

 

(何だってほんっとに素直じゃないんだから…!アスカぁ…ぼやぼやしてると,

レイにシンちゃん取られちゃうわよ…。アンタのその健気な気持ちにちったぁ

協力するけど,も少し素直になんなさいよ。)ね二人に気付かれない程小さな声で呟いて


「でも…,これもう口付けちゃってますし…。」

 

(シンジと…間接キス…!)

 

「それで…いい…。」

 

「えっ!?」

 

小さなモゴモゴと言うアスカに,シンジは意外そうな,ミサトはよく言った!

と言わんばかりの視線を向けた。二人の視線を浴びてアスカの頬が林檎のよう

に赤く染まる。

 

「それでいいって言ってるの!あっ…アンタの食べかけで,我慢してあげるか

ら…。」

 

「…そう?じゃあ,せめて口付けた所だけでも切り取って来るよ。」

 

(あっ,コラっ!ちょっと,何言ってんのよ!そこが無いと貰う意味が無いの!!)

 

「いいわよ別に!も〜じれったいわねっ,さっさとよこしなさいよっ!!」

 

そう声を上げると,アスカはシンジの諾否も確認せずに,少年のケーキ皿をふ

んだくって自分の前に置き,もう絶対に返さない!と言わんばかりに赤い顔で

シンジを睨んだ。

 

睨まれた当のシンジは何でアスカが自分の事を睨んでいるのか全くわからず,

ミルクパンを握り締めたまま,不思議そうに小首を傾げていた。

 

「まぁ,アスカがいいならいいんだけど…。何か…悪いな…,食べかけ押し付

けちゃったみたいで…。」

 

食べかけとは言うものの,別にシンジの歯形が付いているとか言うわけではな

い。単に,シンジの口に入ったフォークで切られているというだけの話しなの

だが,僅かでもシンジに触れられると言う興奮から,アスカの心臓はドキドキ

と切なげに鳴っていた。

 

そんな興奮しきっているアスカの真横にやって来ると,シンジは僅かに残され

たシフォンケーキに,適量のフランボワーズソースをかけ回し,

 

「ちょっと待ってね。」

 

と言うと,冷蔵庫からガラスのコップに活けられた,瑞々しいミントの葉を取

り出して来て,ソースをかけられたケーキの上にそっと飾った。

 

(今回ばっかりは,ミサトに感謝しとかないとね…。)

 

流れるような手付きと,決して手を抜かないシンジの気持ちに,アスカは知ら

ず知らずのうちに,うっとりと少年を見上げていた…。

 

(シンジ…アタシ…,アタシね…)

 

「ハイ,出来たよ。僕の食べかけで悪いんだけど…。」

 

「あっ…,ありがとう…。」

 

自分でも驚くくらい,アスカは小さな声で素直にお礼を告げると,微かに震え

る手でフォークを取り上げ,爽やかな香りを放つ紅いソースのかかったケーキ

を一口分,それもシンジが口を付けた部分が出来るだけ入るようにして切り取

り,その小さな口に運んだ。

 

「どっ,どうかな…?」

 

無言でゆっくりと咀嚼を繰り返すアスカの顔を覗き込むようにして,シンジは

不安げな顔をアスカに寄せた。シンジの息が頬にかかる位の距離まで顔を寄せ

られ,アスカの頭の中は真っ白になってしまっていた。

 

恥ずかしくて…味など解らなかった…。

 

「……美味しい…。」

 

それでも何とか振り絞って出した,アスカの消え入るような一言に,シンジは

その端正な顔に満面の笑みを浮かべ,頬を染めながら,

 

「本当!?良かった…!!」

 

(アタシ…,アンタのその優しい所が,大好きなんだ…。)

 

嬉しそうにアスカを見ていた…。

 

「ごちそう…さまでした…。」

 

すっかりおとなしくなってしまったアスカは,最後の一口を名残惜しげに口に

入れると,ゆっくりと,飲み込んでから,赤い顔で上目遣いにシンジを見つめ

た。

 

「はい,お粗末さまでした。また,時間を見つけて焼くから。今度は作り直し

無いようにがんばるよ。」

 

「うっ,うん…。」

 

「…どうしたの…?さっきから,何か元気ないけど…。」

 

妙にしおらしくなってしまったアスカに,シンジが不思議そうな顔を向ける。

相も変わらず鈍いシンジにミサトは軽く吹き出すと,ニヤニヤしながら片手で

顔をパタパタ扇ぎながら,

 

「はぁ〜…どーしちゃったのかしらぁ…!?この部屋なんか熱いわねぇ♪」

 

アンタも前途多難ねぇ…,と言わんばかりの視線をアスカに送った。ミサトの

言葉にアスカの顔が一層赤く染まる。

 

「ちょっ,ミサト!!」

 

「そんなに暑くないと思いますけど…。二人とも変なの…。じゃ,片付けちゃ

いますから,お皿,貰いますね。」

 

椅子を蹴って立ち上がり,ミサトに掴みかからんばかりの勢いを見せたアスカ

だったが,そんな赤い顔をチラリとシンジに向けると,少年はミサトの言わん

とすることが全くわかっていないのか,屈託のない笑顔を二人に見せると,さ

っさと食器の片づけを始めてしまった。

 

少しは自分の気持ちをわかってもらえたのでは?と一瞬考えたアスカは,がっ

くりと肩を落とす。

 

「相変わらず難敵ですねぇ〜♪アスカ選手…!?」

 

「…うっさいっ!」

 

(…見てなさいよ鈍感バカシンジ!絶〜っ対振り向かせてみせるんだから…!)

 

耳元に顔を寄せて,ヒソヒソとさも面白そうに声をかけるミサトを鋭く睨んで,

その視線をそのままシンジに向けると,アスカは闘志の炎をその目にメラメラ

燃やしながら,歯をギリギリ…と悔しげに噛んだ。

 

そんな恐ろしげな形相を背後から向けられているとは全く知らないシンジは,

鼻歌など歌いながら洗い物などしていたが,不意に何か思い出したようにその

手を止めると,

 

「っと…そうだ,アスカ,明日の土曜日って,何か用事入ってる?」

 

エプロンの裾で濡れた手を拭いながら,アスカの方を振り返った。慌ててアス

カが表情を比較的温和なものに切り替える。

 

「なっ,何よ急に!……別に,何にも無いけど…。」

 

「これ…今日,新聞屋さんにもらったんだけど…。」

 

そう言うとシンジはエプロンのポケットから,何かチケットのような物を取り

出して,テーブルの上に置いた。

 

手にとって見たアスカの目が軽い驚きに見開く。シンジが取り出して見せたの

は,先月オープンしたばかりの水族館のチケットだった。

 

「ご招待券…?新江ノ島水族館って,これこないだオープンしたばっかりの所

じゃない!?」

 

「うん。一年契約したから,サービスだって,二枚だけくれたんだ。アスカ,

一緒に行かない?」

 

「えっ…!?」

 

さらりと言ったシンジの言葉に,アスカは頭の中が真っ白になり,手にしてい

たチケットがハラリ…とテーブルに落ちた。アスカの手から落ちたチケットを

拾い上げたミサトの口からも,驚愕と羨望の声が上がる。

 

(えぇーーーーーーっ!!!こっ,これってぇ…,)

 

「すっごぉ〜いっ!!いいないいなぁアスカ…!シンちゃんさっきからアスカ

にば〜っか優しくしちゃって…。アタシのは?」

 

(デートの…お誘い…???)

 

しきりにはやし立てるミサトの言葉など耳に入っていないのか,呆然とシンジ

の事を見つめながら,アスカはデート…デート…と小さな声で,うわごとの様

に繰り返していた。鈍感男のシンジから,まさかお誘いがかかるとは夢にも思

っていなかったアスカは,完全に自分を見失っていた…。

 

「あはは…すいません…。このチケット,学生用なんです…。」

 

申し訳なさそうにミサトに頭を下げるシンジの一言に,現実に引き戻されたア

スカは,一瞬,学生だったら誰だってよかったの!?っと,むっ!としたが,

理由はともかく,いの一番に自分を誘ってくれたシンジの心遣いと,ここで騒

いでせっかくのデートがふいになっては取り返しがつかないと判断し,ひとま

ず喉まで出かかった怒りをぐっ!と飲み込んだ。

 

「う〜ん…,シンちゃん,アタシ,中学生に見えないかな?」

 

「…ちょっと…,無理だと…思います…。」

 

「ちょっと返してよ!!アタシのよっ!そのチケット!!」

 

チケットをヒラヒラさせながら,困った様なシンジの顔を覗きこんでいるミサ

トの手から,必死の形相でチケットをふんだくって,しっかりと両手で抱きか

かえると,アスカは真っ赤な顔で鼻息も荒くシンジを睨んだ。

 

「シンジ!!」

 

「んっ,何…?」

 

「ちょっ,ちょうど明日は暇だから…いっ,一緒に行ってあげても…いいわよ

…!あっ,勘違いしないでよねっ!?これって…別に,デートとか,そんなん

じゃないんだからねっ!たまたま,アタシが暇だっただけなんだから…!わか

ったっ!?」

 

「…うん…。何だかよくわからないけど…,ありがとう,アスカ。」

 

(やったぁーーーーーーーっ!!!シンジとデートよっ,デート!!何着て行

ったらいいかな?う〜!!明日が待ち遠しいよぉ!!!)

 

行きたいのか行きたくないのか良くわからない返事を返すアスカに,シンジは

不思議そうに首を傾げたが,すぐに洗い物の途中であった事を思い出し,いそ

いそと流しに戻っていった。

 

(鈍感すぎるのも考え物よね…。女の子一人これだけ翻弄するなんて,気付い

てないとは言え,シンジ君…,君も罪な男ねぇ…。もう少し女心の機微を察し

てあげなきゃ駄目よ…それとアスカ!)

 

洗い物を再開し始めたシンジの背を,ミサトはやれやれ…と少し呆れた様に見

てから,アスカに視線を戻した。

 

(アンタもせっかくシンジ君誘ってくれたんだから,変な小細工しないで,あ

りのままの自分を彼に見せてあげるのよ!素直にしてればアンタ十分可愛いん

だから。シンジ君そういう女の子に免疫ないからイチコロのはずよ…って…。)

 

こちらはと言えば,デートに誘ってもらった事が余程嬉しかったのか,真っ赤

な顔をテーブルに伏せて,こみ上げてくる笑顔を隠しながら,嬉しさのあまり,

時折足をバタバタさせたり,エヘ…♪エヘヘ…♪と妙な含み笑いを洩らしてい

た。

 

どうやらアスカの頭の中では,すでに明日のデートの予行演習が始まっている

ようであった…。

 

(だめだこりゃ…。)

 

ミサトは二人から顔を背けると,本当に大丈夫かしら…?と小さな声で呟いて

大きく嘆息した…。

 

 

 

 

 

 

相模湾内の海岸線に長々と伸びた白い砂浜のほぼ中央に,その水族館は羽を広

げた水鳥の様に,優雅なその姿を来訪者達に見せつけていた。

 

白亜に包まれたそれは,燦燦と降り注ぐ真夏の太陽光を受けて,目にもまぶし

い位輝いている。水族館に着いた二人は,優美なその外観にまず圧倒された。

 

「綺麗な建物だね。さすがに出来たばっかりって感じだなぁ。」

 

「ふ〜ん…。意外と空いてるのね。オープンしたてだから,もっと混んでると

思ったのに。」

 

額に浮いた汗をバッグから取り出したミニタオルで軽く拭いながら,アスカは

水族館の周囲を見回した。

 

「まだ開館の一時間前だもの。ちょっと家を早く出過ぎたかもね。………そう

いえばアスカ,今日はワンピースじゃないんだね?」

 

建物から視線をアスカに移したシンジは,おやっ?といった感じで,しげしげ

とアスカを見つめてから,にっこり笑った。

 

「…今頃気づいた訳ぇ…?ったく…どこに目ぇ付けてんのよ …!」

 

シンジの言葉に頬を染めつつも,小さく溜息をついて,アスカは口をとんがら

せて拗ねるように少年を睨む。

 

(鈍感…!…アンタのためにがんばってお洒落したんだから!… …早く気が付

きなさいよね…。)

 

アスカは赤と白のストライプのビビットボーダーの上に,淡いネイビーブルー

のコンパクトジャケットを羽織り,脛辺りまでの白のパンツを身につけていた。

パンツの裾にわずかに付けられたレース地のフリルが愛らしい。全体的に海を

イメージしたコーディネートの様で,手にしたバッグもそれに合わせて,麻製

のかごバックとこれまた夏向きの涼しげなものだった。

 

(大変だったんだから…,これ選ぶの…!)

 

 

 

昨夜,シンジにデート(シンジ本人にデートの自覚がないのが,アスカにとっ

ては痛い所なのだが…。)のお誘いを受けてから,アスカの部屋はまるで戦場の

様な有様を呈していた。

 

部屋に戻ったアスカは,それこそ持っている衣装を総動員して,あーでもない

こーでもないと,衣装をとっかえひっかえして,鏡の前で一人懊悩していた。

 

ようやく今着ている組み合わせに満足すると,次はお化粧の練習,その次は髪

型の工夫…といった感じでほとんど一晩中,部屋の中を所狭しと動き回り,よ

うやく全てに納得がいって,アスカがベッドに入ったのは,三時を少し回った

頃だった…。が,

 

− ねっ,眠れない…!−

 

ベッドに入っては見たものの,興奮のためかほとんど眠りに付くことが出来ず,

結局アスカは日の出と共にベッドから跳ね起きると,グーグー眠っているシン

ジを叩き起こし,さっさと準備をするように厳命した。

 

− ずいぶんお早いお出かけね…。−

 

寝ぼけ眼で大あくびを繰り返すミサトの見送りを背に受けて,これまた眠そう

なシンジの服を掴んで,ずるずる引きずりながら,アスカは元気一杯に家を後

にしたのだ。

 

 

 

そんな風に相当に気合を入れて準備しただけに,中々それに気付いてくれない

シンジの鈍感さが,アスカには少しばかり面白くなかったが,ここでいきなり

怒鳴りつけて,始まったばかりの大事なデートを滅茶苦茶にするわけには行か

ない。

 

(本当はもっと厳しく言いたい所なんだけど,今日は勘弁してあげる…!)

 

厳しい顔を収めると,アスカはしおらしく目を伏せて,潤んだ瞳でシンジを上

目遣いに見つめた。

 

(ここで少しでも可愛らしい所見せておいて,アタシ以外の女に目が行かない

ように,しっかり首に縄付けとかなきゃ!)

 

「何かアタシがいっつもワンピースばっかり着てるみたいな言い方じゃない

…!…他にもお洋服色々持ってるんだから…,もっと良く見てよ …。」

 

アスカらしからぬ仕草に,シンジは少し驚いたように軽く目を見開いた。恥ず

かしそうにシンジも顔を伏せると,頬を僅かに桜色に染めて,

 

「ごめん…。ワンピース姿のアスカもいいけど,今日のその服も良く似合って

ると思うよ。とっても可愛いね。」

 

にっこり笑みを見せたシンジの言葉に,アスカは耳まで真っ赤になった。

 

(かっ,可愛いね…って,言ってもらっちゃった…。)

 

いきなり真っ赤になってモジモジし始めたアスカに,シンジが怪訝な顔を向ける。

 

「アスカ…どうしたの?いきなり真っ赤になっちゃって…… …?あっ!もしか

して,日射病!?」

 

(はぁ!!?違うぅ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!アンタバカぁ!?いきなり日射

病なんかになる奴が何処にいるのよっ!!!)

 

的外れのこの一言にアスカはがっくりとうなだれた…。

 

予想に違わぬシンジの難攻不落ぶりに,アスカは今日のデートに何か不安なも

のを感じずにはいられなかった。

 

「大丈夫!?ちょっと涼しい所で休んだほうがいいよ!」

 

「えっ!?ちょっとちょっとシンジ,何処行く気!?」

 

(アンタの『可愛いね』の一言に反応したんじゃない!!もうちょっと状況を

見なさいよねぇ!!この鈍感!!)

 

アスカの心の叫びなど全く分かっていないシンジは,心配そうな面持ちでアス

カの背を押して手近な木陰に連れて行き座らせると,タオルで顔を仰いであげ

たり,冷たい水を飲ませたりと献身的な介護を繰り広げ始めた。

 

(優しいのは嬉しいんだけど…,アタシの気持ちにも少しは気付いてよぉ…!)

 

あまりにも真剣に心配してくれるシンジに,アスカは日射病なんかじゃない!

と切り出す事も出来ず,困ったような顔で渋々シンジの看病を受けるしかなか

った。

 

結局,二人は開館までの約一時間を,木陰でたわいも無いおしゃべりをしつつ

待った。水族館の周囲を歩く人々の影が,ぼちぼちと増え始めた頃,開館を告

げる音楽が流れ始める。

 

「アスカ,本当に大丈夫?気分悪かったりしたら,すぐに言ってね。」

 

「もう…,大丈夫だから…!ほら,早く行きましょう!」

 

愁眉を寄せるシンジにアスカは精一杯元気そうな笑顔をせる。ここで体調が心

配だから帰ろうなどと言われてしまっては,元も子もない。アスカは少しでも

シンジの心配を和らげようと,勢い良く木陰から立ち上がった。

 

「そう…それならいいんだけど。」

 

早く!と言いながらアスカはシンジの服を掴んで引っ張ると,入場口に向かっ

て歩き始めた。

 

(初めから日射病じゃないんだから,大丈夫なのは当たり前じゃないの…。)

 

アスカの元気そうな様に,シンジの愁眉が和らいだ。アスカと並んで歩きなが

らシンジは,

 

「…しかし,水族館なんてほんと久々だなぁ…。」

 

(えっ…!シンジ…,初めてじゃ…ないんだ…。 ………もしかして…)

 

少しばかり昔を懐かしむように,白亜の水族館を感慨深げに眺めた。シンジの

一言に今度はアスカが愁眉を寄せた。

 

「……それって…,アタシ以外の女の子と,行ったりとか…し たわけ…?」

 

入場口に到着して,カバンから二人分のチケットを探すシンジに,アスカは恐

る恐る問うた。

 

アスカがシンジと出会ってまだ一年と少し。当然,シンジにはアスカに出会う

前の,アスカの知らない人生がある。もしシンジに過去に好きだった人がいた

ら,今でもその人の事が忘れられないでいたら,見たことも無いライバルを勝

手に想像して,アスカの心は水族館の薄暗いチケット売り場と同じ位,重暗く

沈みかけた。しかし,そんなアスカの暗さを払拭するかのごとくシンジは,

 

「…小学校の臨海学校で行ったのが初めてなんだけど…。何でそんな事聞く

の?…第一,女の子と二人っきりで出かけるのだって,今回が初めてだよ。」

 

アスカに向かってチケットを差し出しながら,不思議そうにニッコリ笑ってみ

せた。薄暗い中でもはっきりわかるくらい,アスカは喜色満面の顔を赤くして,

チケットを受け取りながら安堵の息を吐いた。

 

(そっ,そうなんだ…!…嬉しいな…。アタシが,シンジとのデート,一番乗

りなんだ…!)

 

「べっ,別に,ちょっと聞いてみたかっただけ。ふ〜ん……,そっかぁ…♪シ

ンジ,女の子と出かけるの…,アタシが初めてなんだぁ…♪」

 

急にニコニコし始めるとアスカは,ほんのりと頬を染めた顔をシンジの鼻先に

寄せ,猫なで声を上げた。

 

もちろん今日という日が自分にとって特別な日だと,少しでもシンジに気付い

てもらいたいアスカの意思表示なのだが,こんな仕草くらいでシンジがアスカ

の気持ちに気付いていれば苦労などない。

 

アスカの問いにシンジは至極真面目な顔で,しばし腕を組んで考えると,

 

「あっ…!でも小さい頃母さんと一緒に出かけた事はあるから,初めてじゃな

いか…。」

 

捻りに捻ってシンジが導き出した答えに,アスカは笑顔を凍りつかせると,心

底呆れ返った。

 

(……アタシは『女の子と』って…言ってんのよっ!!!アンタちゃんと人の

話聞いてるのぉ!!?)

 

「…。」

 

一瞬にして笑顔から怒り顔に反転させると,アスカはこの鈍感男をこめかみを

ピクピク…引きつらせながら睨み付けた。鈍感だ鈍感だと出会った頃から十分

に自覚をしていたつもりのアスカだったが,

 

(本当に…アタシの気持ちに気付いてくれる日が来るのかなぁ…?)

 

これ程までとは…と思うと,さすがに籠絡する自信が無くなってきた。アスカ

にそんな事を思われているとは毛ほども知らないシンジは,

 

「…?…何か…僕アスカの怒るような事言った?」

 

小さく首をかしげると無邪気な笑みをアスカに向けた。シンジが見せるこの笑

みにからきし弱いアスカは,これをやられてしまうとそれ以上怒ることも出来

ず,

 

「怒ってなんかないわよっ!バカ!!ほらっ,グズグズしてないで入るわよ

っ!!」

 

「ちょっとアスカ!服が伸びちゃうよ…!もう…,そんなに急がなくっても,

水族館は逃げないよ。」

 

またまた的外れな事を言いながら,目を丸くしているシンジの服をむんず!と

掴むと,大股に入場ゲートをくぐった。まあ,普通の女の子なら,いくら激し

く片想いした相手とは言えども,ここまで鈍感であると呆れて帰ってしまう所

であろうが,

 

(別に水族館なんてどうだっていいのよっ…!…冗談じゃない…!見てなさい

よ…バカシンジ!!)

 

闘争心,独占欲,達成欲の異常に強いアスカの心は萎えるどころか,死んでも

離すものかとばかりに,薄暗い通路をシンジを引きずりながら,ズンズンと進

んでいった。

 

すでにアスカの心の中では,水族館など完全にどうでもよくなっていた。健気

もここまで来ると,もはや執念に近い。

 

(このデートをきっかけに,絶対絶対絶〜〜っ対,アンタをアタシの虜にして

やるんだからぁ!!!!!)

 

そんな必死の形相のアスカに,シンジは引っ張られながらも,アスカのこの行

為が,単に早く魚達を見たいがための行為と勝手に解釈し,アスカよっぽど水

族館楽しみだったんだね,などとのんきに微笑んでいた…。

 

 

 

 

 

 

「結構広いのね…!アタシ達が今いるのが………あっ,ここ だ!相模湾大水槽

の一つ前の部屋かぁ…。…大水槽…ねぇ…。」

 

展示ホール前に据えられた案内板を前に,シンジとアスカの二人は思案顔でど

こから回るか相談しあっていた。

 

この新江ノ島水族館は,ウリである相模湾大水槽のあるブロックをメインに,

その他の魚及びクラゲの展示ブロック,アザラシやイルカ等の海獣とペンギン

を飼育しているブロックと,大きく三つのブロックから構成されている。

 

一応,お勧めの観覧コースがあるのだが,どのブロックからでも自由に見て回

れる様には作られていた。

 

「どこから見ようか?どのブロックも見ごたえありそうだけど,やっぱりお勧

めコースに従って行った方がいいのかな?」

 

(別にどこからだっていいわよっ,今回のデートにとって水族館はアタシとシ

ンジの関係を進展させる,小道具に過ぎないんだから。)

 

そんな思いでアスカは存外冷めた目で案内板を見ていた。大水槽なんて仰々し

く書いているが,どうせ大き目の水槽に毛の生えた程度物だろう,位の認識し

かアスカは持ち合わせていない。

 

ドイツ内陸部の街で生まれ育った彼女にとって,水族館など来るのも見るのも

初めてであったせいか,『水槽』と言ったら申し訳程度の水草に,金魚数匹が寂

しく泳いでいる絵を想像するのが精一杯だった。

 

「そうね…。シンジにまかせるわ。……ねぇ… シンジぃ…。」

 

さして気のない声で,あっさりシンジに主導権を渡すと,アスカはちょっぴり

恥ずかしそうに,甘えた声と共にシンジの手のすぐ傍に自分の右手を差し出し,

熱っぽく流し目を送った。

 

(手ぐらい…握ってくれるわよね…?)

 

「そう?じゃあお勧めにしたがって行こうか。……ん…?どうしたの?手 ?」

 

「どうしたのって…その…。」

 

少しはデートらしく手ぐらい握ってくれるかと,淡い期待を抱いてアスカは手

を差し出したのだが,元々デートだという自覚が全く無いシンジは,アスカの

そんな乙女心など理解できるはずも無く,モジモジしながら差し出された手を

握りもせずに,しげしげと眺め,

 

「別におかしな所はないけど…。どこか痛いところでもあった?」

 

(ここここの…無神経男……!アタシに…ここまでやらせとい て何で…)

 

にこやかなシンジの鼻先で,手をフルフル震わせながら,アスカは懸命に怒り

を堪えていた。

 

(何で気付いてくれないのよ!!!!このぶぁかシンジィィィィィィィィィィ!!!!)

 

怒りで手をプルプル震わせるアスカの顔は,傍目にはにこやかに微笑んでいる

ように見えたが,体からはそれこそ毛を逆立てんばかりの,凄まじい怒気を発

していた。

 

そんな怒りの化身のようになっているアスカのすぐ脇を,にこやかに駆け抜け

ようとした男の子が,何か禍々しい気配を感じてハッ!と足を止め,怯え顔で

思わず振り返る。

 

背後に小さな視線を感じ,アスカはゆっくり子供の方を振り返ると,とんでも

なく恐ろしい形相で,

 

(何ジロジロ見てんのよっ!!?このガキ!!!!!)

 

ギロッ!と睨みつけた。

 

いきなり睨み付けられた子供こそ,いいとばっちりであろう。アスカの般若の

ような形相に,子供は一瞬立ちすくみ,わなわなと震え出したかと思うと,マ

マーっ!ママーっ!っと大声で叫び,わんわん泣きながら転げるように逃げ去

った。アスカの背後で突然号泣して走り去った子供に,シンジが怪訝な目を向

ける。

 

「あの子…急に泣き出してどうしたんだろう…?ねぇ…アスカ?」

 

クルリとシンジに顔を戻したアスカは,最早怒りを通り越して笑顔さえ浮かべ

ていた。

 

「知らない!お化けでも見たんじゃないの?もう…そんなのどうでもいいから

行こう!?」

 

「うっ,うん…。それよりアスカ,さっきの手って何だったの…?」

 

(そうやって飄々としてられるのも今のうちよ…。)

 

怒りの極限に達したアスカの頭は,意外にも冷たく澄み切っていた。分かって

いた事とはいえ水族館に着いてから,鈍感なシンジに振り回されっぱなしの現

実に,アスカはもはや我慢の限界だった。もう形振りなど構っていられない。

少々荒っぽい手段も辞さないと覚悟したアスカは,

 

「何でもない!!」

 

赤い顔でそっぽを向くと,さっさと歩き始めた。慌ててシンジが後を追う。

 

(この水族館出る頃には,アンタが頭下げてアタシに手を繋いでくれって言う

ようになるんだからね…!)

 

が…,そんな邪ま(?)な思惑を抱いて,シンジと並んで歩きながら展示ホー

ルに最初の一歩を踏み込んだアスカは,

 

「………。」

 

目の前に広がった光景に言葉を失った…。

 

 

 

 

 

 

(続く)

 

 

 

 

 



ご挨拶(あとがきに変えて)

 

お初にお目にかかります。鳥猫と申します新参者です。以後お見知りおき下さ

い。もしもお初でない方がいらしゃいましたら,ご無沙汰しております。この

たび怪作様のホームページに投稿させて頂ける事となりました。まずはこの場

をお借りしまして深く御礼申し上げます。

 

さて,鳥猫初の前後編物となります本作「月光浴(前編)」はいかがでしたでし

ょうか?まだ半分ですので,いかがも何も無いのですが,我ながら相変わらず

こんなネタばかりだなぁ…と,ひねりの無い自分をいささか呆れ気味に見てお

ります。

 

鳥猫の作品は「日常」を常にテーマとしておいておりますので,全体的に緊迫

感が無いのが特徴と言えば特徴ですし,短所と言えば短所です。もう少し躍動

感のあるネタをと思いつつも,根っから戦闘シーン等を書くのが苦手ときてお

りますので,少ない作品のほぼ全てが,ほのぼのとした内容の作品になってし

まっております。

 

こんな低才の鳥猫ですが,LAS(LSA)人として精一杯がんばって行きますの

で,何卒,温かい目で見守ってやってくださいまし。今後も宜しくお願いいた

します。

 

 

 

2005年7月10日

dorlis「24時間世界一周」を聴きながら

鳥猫
 

鳥猫さまより投稿作品をいただきました。

なんとも素敵な雰囲気のLASですね。

前編というからには後編もあるのでしょうか。きっとそうでしょうね。

読み終えたあとにはぜひ鳥猫さまへ感想メールをお願いします。

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