*** 注意 *** 
本作品はミステリ作家・北川歩実の作品を原作としたダークSSです。
社会的に問題ある表現が含まれており、フィクションの一つとしてそれらを許容できる方のみ、お読み頂く事を強くお勧め致します。
レイ・マユミ好き、及び愛犬家の方は特にご注意下さいませ。





















I Need You.


        
by.Atsu







「ではこちら3冊、2週間後の23日までにお返し下さい。ありがとうございました」
彼が私に微笑んだ。
私もできる限りの笑顔を浮かべ、彼の誠意に応える。
もちろん、彼にとっては誰にでも向けている表情なのだろう。何処ぞのファーストフードでは0円の、大量生産品の笑顔。
しかし、その笑顔ですら私をこれほどに焦がれさせるのだ。
もしこれが、私だけに向けてくれた笑顔なら。私のためだけに誂えてくれた笑顔なら…あぁ。
そんな妄想に身を委ねながら、私は彼に背を向けた。


輝く雲が眩しかった。
沈み行く太陽からの光を浴び、紅く色付いた雲が今日は一際美しい。
これなら今日は行けそうだ。そう思い始めた矢先、彼が図書館から出てくるのが見えた。
同僚らしい男の人に挨拶し、一人静かながらも揺るぎない足取りで繁華街へ。
女の身には少し速いペースだ。
…もし私が横に並ぶようになったら、この速さも私に合わせてくれるんだろうか。
そんなことを思いつつ、私は彼が背負うグレーのリュックを目印に歩みを続ける。


繁華街で肉や野菜を購い、本屋でちょっと立ち読み。
それから人の波を掻い潜って家路へ。閑静な住宅街へ。
そんな彼と付かず離れず、適切な距離を保ちながら進む私。
流石に4回目ともなると手馴れたものだ。
信号待ちの間に見失い、殆ど半泣きになった1回目からは少なくとも成長している。
「…成長?」
我ながら可笑しくなってきた。
想う相手とまともに向き合わず、ストーカーよろしく付いて回ることを成長と呼ぶ私自身が。
そんな私が、彼の傍らに立つ日なんて来るのだろうか。

「無理」

ああ、きっと誰もが断言する。私だって問われればそう答えざるを得ない。
目を始め、様々な点でコンプレックスを持つ私に今彼と向き合う勇気はない。
分かってる。自分でも痛いくらいに分かってる。
それでも私は彼を追う。
諦めるには昂ぶり過ぎた想いのため。もしかしたら勇気に、私の“力”になってくれるかも知れない“何か”を得るため。
私は彼の背中を追う。


住宅街の人通りは少なかった。
後ろに人がいる。すれ違う人と目が合った。…それで追跡を断念した前2回の轍は踏まずに済みそうだ。
しかし油断は禁物。いつ何処から人が出てきて、電柱の陰に潜むこの変な女に目を留めないとも限らない。
気を引き締めた私は更に周囲に目を配り、前行く彼との距離を慎重に見定める。
ここに入って15分ほど。そろそろ、望みの場所に来てもいい頃だ。

…彼の背中が動きを止めた。
心臓が竦み上がるような感触が私を襲う。
彼はそんな私に頓着することなく、少し軋む門扉を開けて中にその姿を消した。
落ち着け、落ち着けと必死に自分を抑えつつ、また周囲の人無きを確認しながら私は電柱の陰を後にする。
足音を立てないように、しかし出来るだけ早く前へ。彼の消えた門扉の前へ。
そして門の前で深呼吸をすると、改めて目の前の表札を確認する。
「“碇”…。やっと見つけた…」







僅かに作った門の隙間に滑り込み、音を立てないよう気を付けながら再度門を閉める。
後は立ちさえしなければ、まず外から発見されることはない。勿論外出中の家主に見つかることもない。
まして「何処にいても何処にもいない」とまで揶揄されたことのある私ならば尚更、見つかりはすまい。
…回数を数えることすら諦めた自嘲気味の笑みを漏らし、私は前回前々回は空だった郵便受けに近付く。
無論手紙を盗んだりはしない。ただ、彼の下の名前が知りたいだけだ。
彼は最近、夜ごと夢の中で会いに来てくれる。
私を意外なほどの力強さで抱き寄せ、あの細身の身体で包み込み、顔いっぱいの微笑みと共に愛を囁いてくれる。
私も――文字通り――夢中で彼を抱き締め、初めて会った時から持っていた想いを彼にぶつける。
そのシーンで口にするのが「碇君」では、ちょっと他人行儀が過ぎるのではないか?

「…碇、シンジ、か」
3通の手紙を元の順番通り、郵便受けに戻す。
これで下の名前を知った。ついでに、一応調査済みではあった居住状態も確かめられた。
彼は一人暮らし。正確には一人と一匹暮らし。
「カヲル」とかいうらしい柴犬が彼のパートナー。
その名前は門の横の犬小屋で知った。長いこと使われていないと見えるその小屋からして、カヲルは彼の家の中にお住まいってことになる。
結構な待遇だ。
しかも、カヲルと遊んでいる時の彼の顔。屈託のない心からの笑顔。無限の信頼と安堵感を湛えた、私が欲して止まない顔。
近くの公園でじゃれ合う彼らを見るたび、私の胸はちくちく痛んだ。
たかが犬には過ぎた扱い、と思ってしまう私は狭量に過ぎるのか?犬如きを妬み嫉む、人として間違った存在なのか?
しかし、それでも私はカヲルへの嫉妬が収まらない。
カヲルが羨ましい。私もカヲルになりたい。カヲルのいる位置に立ちたい。
そんなことを思い浮かべつつ、私は主なき家に何となくの視線を走らせる。

「?」
ふと、玄関横の窓が僅かに開いてることに気が付いた。
今までも開いてたのか、今だけ開いているのか。気になった私は中腰のまま窓に接近する。

閉め忘れた訳ではなく、敢えて開けたような感じだった。
外窓も中の網戸も開けようとする途中で止まり、ストッパーか何かが金属質な音を立てる。
窓自体には鉄格子がはまっているから誰かが進入する気遣いはない。
となれば換気のために開けたのだろうが、しかしそれでは網戸まで開ける理由にはならない気がする。
何故だ?

そう思った瞬間、“何か”が突然窓から突き出した。
中腰だった私は驚きにバランスを崩し、両の掌を地面に擦り付ける。
ざりっとした感触が神経を擦過し、思わず眉を顰めてしまう。
「何なの、一体…」
こびり付いた小石を払い落とし、私は睨み付けるように“何か”を見上げた。
円らな眼の柴犬が、嬉しそうに私を見下ろしていた。







携帯電話が振動と共に音楽を奏でた。
液晶画面には見覚えある女性の名前。
僕はちらっと山岸さんの消えたドアを見やり、通話キーと受話音量上げボタンを同時に押した。
「もしもし、綾波?」
『今、大丈夫?』
「大丈夫だよ」
『午後、時間空いてる?』
区切った言葉で単刀直入。綾波は今日も綾波だ、と当たり前のことを思う僕。
『ダメ?』
「理由によるけど。何かあったの?」
『…エヴァの具合、また悪くなったの』
「!」
携帯を持つ手に力が入る。
『午後、どうしても出かける必要があるの。でもエヴァをこのままにはできない』
「どんな様子なの?無事なの?」
『朝からずっと苦しそうだった。戻して、震えて、止まらないの』
「医者には見せたの?」
『いつもの発作、いつもの薬で大丈夫。それだけだった。あの医者、信用できない」
選択肢は僕しかない、という空気が受話器から伝わる。
そこまで頼られては、また内容的にも、断る訳にはいかないようだ。
「ちょっと待ってて?」
保留キーを押し、僕は丁度部屋に戻ってきた山岸さんに声をかけた。
「あのさ、映画観に行くの、来週じゃダメ?」






空は気持ち良く晴れていた。
「シンジ君、やっぱり優しいんですね。他所の犬のためにそこまでするなんて」
横を歩く山岸さんの笑顔に曇りはない。1週間前からの先約を差し置くなんて、などの怒りは微塵も感じられない。
やはり、僕なんかよりずっと人間が出来ているようだ。
「ホントごめんね。でも、放っておけなかったんだよ。もうあんな思いはしたくなかったから」
「あんな思い?何か前にあったんですか?」
「……そっか、まだ話してなかったよね」
ふっと息を吐き、瞑目。
そして僕の愛犬、カヲルがこの世を去った時の記憶を引っ張り出した。



カヲルは、殺された。
いつも散歩に行っていた近くの公園。そこで僕はカヲルを鉄柵に繋ぎ、その場を離れて買い物に出かけた。
人込みの中に繋ぐより、多少なりとも自然の中で。その程度の軽い気持ちでのことだった。
…少し時間を潰して戻ってきた僕を、カヲルは痙攣と吐血で迎えた。
毒だ。毒入りクッキーを食べたんだ。落ちてたクッキーに、毒が入ってたんだ。
野次馬の声とカヲルの様子は僕から正常な思考力を奪った。
毒なら吐かせるべきか?何か飲ませて薄めるべきか?どこで?家で?医者で?エヴァを運ぶ?医者の方に来て貰う?
混乱しきった僕は結局、自分では何一つすることができなかった。
近所の人が近くの獣医に運ぶのを、そこの時田獣医師が諦めを漂わせながら治療するのをただ見ていただけだった。
人間だってあの状態では助からない、君のせいではない、と獣医には慰められた。
でも、だったらせめて安楽死の決断くらいは下せたはずだった。
――もしかしたら助かるかも知れない。これだけ吐いて、下痢してるんだ。毒だって抜けるさ。抜けて、元のカヲルに戻ってくれるさ。
起きもしない奇跡を妄想する主人の横で、カヲルは三日三晩悶え続けた。
そして、4日目の朝日を見ることなく事切れた。


「そう、僕は逃げたんだ。カヲルからも、カヲルの命の責任からも、…何もかもから逃げたんだよ」
「シンジ君…」
「一番の親友だったのに。何よりも大事に思ってたのに。最後の最後に、あんな苦痛を…」
鼻の奥がツーンとしてきた。
女の子の前で。もう随分時間が経つのに。男なのに。
必死に自分を叱咤するも、一度緩んだ涙腺を抑えることはできなかった。
「ご、ごめんね…。情けない所見せちゃって…」
身体ごと顔を山岸さんから背け、僕はハンカチを目に当てる。

ぎゅ。

「………」
「ごめんなさい。私にできるのは…これくらいなんです」
言って山岸さんは腕に力を込め、更に包み込むように僕を抱き締めた。
決して感情表現が得意でない彼女の、精一杯にして最大限のやり方。今の僕には最高の慰め。
「ありがとう」
僕は向き直り、彼女を抱き締め返した。
何故、彼女はこうも抱き心地が良いのだろう?カヲルがそこにいるような気にさせてくれるのだろう?
頭の片隅にそんな考えをよぎらせつつ、僕はしばらく彼女に甘え続けた…。


「それでね」
「はい」
頷いた山岸さんの顔は少々赤い。僕も同じくらい赤いのだろう。
…彼女の唇の味を頭から追い払い、僕は言葉を続ける。
「犠牲になったのはカヲルだけじゃなかったんだよ。他にも3匹、毒入りクッキーを」
「そんなに?」
「野良犬が二匹、飼い犬が一匹。そのうち、命を取り留めた飼い犬が」
「今からお見舞いに行くエヴァ、でしたっけ?」
先回りした山岸さんが顔を傾げる。
「じゃあ、前からお知り合いだったんですか?そのエヴァの飼い主の…えーと」
「綾波。綾波レイ。別にそんな前からって訳でもないんだけど」
実際、綾波と知り合ったのはいつだったろうと振り返ってみる。
元々顔と名前は知っていた。1週間に一度は図書館で応対していたからだ。空色の髪と陶磁器のような白い肌、紅玉の瞳は一度認識すれば否応無く目に付く。
それからしばらくして、カヲルと散歩をしてる時に妙にすれ違うようになった。
そして犬同士が妙に懐き合っていたこともあり、二言三言ながら喋るようになった。
更にそれが変化したのは忌まわしいあの事件の時。
毒の犠牲になった愛犬達のためにソファに並び、無事を願っていた時に名を覚え、ずっと昔からの友人のような感覚で接するようになった。
愛犬の運命が分かれてから一時疎遠になったが、僕が落ち着いた今はこうして時々会うようになっている。
山岸さんという人がいても、それを変える気は僕にはない。
何を疚しく思うことがある?綾波はお互いの痛みを共有する、大事な僕の戦友なのだから。
…そう考える辺りがホント鈍感だよな、と以前ケンスケには言われたが。
「あ、着いたよ。あそこの家」
思索を止め、僕は山岸さんの先に出た。



「邪魔してしまったようね」
初対面の挨拶をする山岸さんに、相変わらず抑揚の無い声で綾波が返す。
だが、淀んだ眼差しで震え続けるエヴァを目にした僕にフォローする余裕はない。
シベリアンハスキーだったか?とにかく美しかったエヴァの毛並みは所々汚れ、悪臭を放っていた。
そして当のエヴァは身体を捩じらせ、頻りに首を振っては口から掠れた音を搾り出している。呼吸が相当苦しいようだ。
「酷い…」
「毒の後遺症みたい。退院して元気になったと思ったけど、時々こうなるの」
「薬は?薬は何か飲ませてないんですか?」
「飲ませた。後は効いてくるのを待つだけ。医者が嘘を言ってなければ」
これ程の後遺症を持ちながら退院させたことへの怒りか、綾波の口調は辛辣そのものだ。
「…日が落ちる前には戻れると思う。お願いしていい?」
「分かった。何かあったら連絡するよ」
「このまま行きたくはないんだけど」
「分かってる」
「ジュースは冷蔵庫の中。飲んでも構わないから。それと、椅子は用意したのよ。無理して立ってることは無いわ」
「あ、す、済みません」
綾波、山岸さんが嫌いなのだろうか。
ふとそう考えた僕を尻目に、綾波は意外な程のスピードで場を後にした。


「犯人、まだ分からないんですか?」
ジュース――律儀にも一度ここを出て買ってきたもの――を持ってきた山岸さんが問うた。
顰めた眉はエヴァの発する据えた臭いのせいだろうか。
「まだだよ。全然分からない」
「でも、毒の種類が分かれば絞り込みも進むのでは?」
「“農薬じゃないか?”警察で聞けたのはそれだけだった」
「“じゃないか?”って…」
「そんな態度なんだよ。人間相手の犯罪じゃないから、ね」
そう、犠牲者が人間なら警察だって本気で調べたはずだ。
だけど今回は犬。どれほど大切に思っていても、家族と同等の存在であったとしても、警察が人間と同程度の労力を割いてくれるとは思えない。実際割いてくれない。
だから、農薬の種類の特定も流通経路の調査も為されることはまず無いと思ってよい。
「人間だったら死刑もあり得るけど、犬だったら器物損壊罪の懲役3年だかが限界。その差がもろに出たって感じかな」
一度下火になっていた憤りが再びこみ上げてくる。
警察は期待できない。しかし、僕にできるのは近所の聞き込み程度のものだ。
綾波も綾波なりに色々調べているようだが、結果にはそう期待できまい。
つまり、犯人はこのままのうのうと暮らし続けることになる…。
「この人犯人じゃないか、って人はいないんですか?」
また山岸さん。
「いなくはないよ。怪しい、程度なら片手に余るくらいは」
飼い犬の糞も始末しない飼い主が多くて困る、とぼやいていた老人。浪人したのは夜鳴きする犬どものせいだ、と犬に投石したという青年。子供の時噛まれて骨折して以来の犬嫌いだ、と話していた主婦。裏山での動物虐待が趣味と噂の少年グループ。その他もろもろ。
何処かから入ってきた変質者の可能性まで考えれば、絞り込みなんてとても不可能だ。
農薬も同じ。
この辺には割と農家が多いし、ガーデニング用って名目なら一般人だって農薬は手に入る。店を変えて少しずつ買って行けば、犬の致死量を用意するのは容易だろう。
「じゃあ、犯人探しなんて…」
「分かってるよ。到底無理だろうね。でも」
ジュースを一息に飲み干す。
「このままにはしたくないんだ」
椅子に敷かれていたクッションを抱き締め、山岸さんは何か考え込んでいた。






「今日はお疲れ様でした」
机の上に三つ指を付き、山岸さんが頭を下げた。
照れながら僕も曖昧なお辞儀を返す。
ここは彼女の住むアパートの部屋。
あの後無事に持ち直したエヴァを帰ってきた綾波に引き継ぎ、映画の後行くはずだった店での夕食ののち、誘われるまま僕はここにお邪魔している。
落ち着いた色調の家具用度、壁際にずらっと並ぶ本棚、そして動かない自転車のような(名前は知らない)トレーニングマシン。
向こうの棚の上には、ただの霧吹きとしか見えないものが御神体の如く飾られている。
整頓されてるのに混沌としてる、しかし何処か山岸さんらしいと言えば納得してしまいそうな、極めて不思議な内装である。
…不思議と言えば、この部屋に立ち込める香り。お香か何かを焚いた香り。
最近話題のアロマテラピーって奴だろうが、でもこれは癒しというより逆に…
「どうしたんですか?」
「あ、ううん。随分色んな本読んでるんだなぁって思って」
膨らみかけた妄想を何とか押しのける。
「そんなことないですよ。推理小説とか歴史本とか、そんなのばっかりで。もっと真面目な本読めって話ですよね」
「これだけ読んでれば充分だよ。あと、なんか匂いに関する本が多いね?」
「これでも花屋の店員さんですから」
『フェロモンの科学』がどれ程花屋に必要なんだろうか?
「でも、読んでいると結構面白いんですよ。例えば、“匂いが無い”状態は正確には存在しないって知ってますか?」
「どういうこと?」
「無味無臭って言いますよね。でも、実は匂いに関する物質は至る所に存在していて、常に働いている鼻の感覚器官はそれを全部認識してるんですよ」
「ふーん?」
「具体的に言いますね。その物質が鼻の中に入って、数百万個もあるという“匂いを感じる細胞”にくっつくと電気信号が発生します。それが脳に伝わると…」
「“匂い”として感じる、って?」
先回りしてみる。
「その通りです。でも、一々その電気信号を受けて“あの匂い”“この匂い”って感じてたら脳がパンクしちゃいますよね。だから、人によって違う“電気信号の大きさ”のボーダーラインが決まっていて、それを越えたものだけ“匂い”としてその人に認識されるんです」
「そのボーダーラインが、鼻の良し悪しの差を作るってこと?」
「ヒトと犬の差を作る、とも言えますね」
ちょこんと彼女は首を傾げた。
「あ、これは私なりの理解ですから正確かどうかは知りませんよ?私、あまり頭が良くないので」
「ううん、凄く分かり易かったよ。僕にこれだけ素早く理解させるなんて大したもんだよ」
褒め言葉になるのか、これ。
「ふふっ、ありがとうございます。…それで、中には匂いとして感じられない匂いもあるんですよ」
「?」
「“ほら、これが極上の香りだ。嗅いでごらんよ。何も匂いがしないから”。アラビアのローレンスが書いた本に出てくる言葉の通りの存在、それが“フェロモン”です」
思わずさっきの本に視線が行く。
「これは鼻の中にあって、でもさっき言った“匂いを感じる細胞”とは別の細胞によって電気信号になり、効果を発揮します。だから匂いがしないんですよ…理論的には」
「へ、へぇ」
「それに、人間には動物ほどの影響を与えません。それでも“極上の香り”であることには変わりないんですよ。様々な記憶と本能を呼び覚まし、時に安らぎを、時に興奮を与える素敵な香り…」
急に“オトナのオンナ”を漂わせ始める山岸さん。
ドギマギした僕は慌てて話題を変えた。
「や、山岸さんって、ひょっとして犬嫌い?」
「どうしてですか?」
「いや、今日綾波…さんの家でちょっと思ったから。それこそ臭いのせいもあったんだろうけど、でも雰囲気的にそれ以外の理由もあるっぽいと言うか」
「そんなことはないですよ?ただ、エヴァが私をずっと睨んでいた気がして」
「睨む?気のせいでしょ?」
「いいえ。多分、私が嫌いなんでしょうね」
意外なセリフを口にする彼女。
「どうして?逆に気に入ってたから、なのかもよ?」
「気に入られる覚えはないですから。逆ならありますけど」
「逆って?」
「ご主人様…綾波さんの敵ですから、私」
「え?」
平然と彼女は言い切った。
「利口な犬ならご主人様の考えていることくらい分かります。だから、綾波さんに嫌われてる私はエヴァにも嫌われてるんですよ」
「君が何を言ってるのか分からないよ…?」

突然山岸さんが立ち上がった。

え?と思う間に彼女は僕の隣に来て、眼鏡を外して机の上に置いた。
体温も感じそうな至近距離だ…。
「本当に、分からないんですか?」
「う、うん…」
「鈍感」
視界と唇が塞がれた。
同時に彼女の柔らかい掌が両頬を優しく包み、撫ぜる。
一拍遅れて、部屋に漂っていたお香と彼女の匂いが僕の中に流入する。
…あぁなるほど、お香の元は彼女自身だったのか。
そんな“理性”はすぐに溶けて消え、僕は誘うように離れた唇を自ら塞ぎに行く。
後はただ、本能のままに従う自分があるのみ。


その夜は随分長かった。







次に綾波と会ったのは早朝散歩の途中だった。
彼女と初めて会ったのもこの時間帯だったっけ…と思いながら、待ち構えていたような犬連れの彼女に手を振る。
「おはよう、綾波」
「おはよう、碇君」
「エヴァ、今日は元気そうだね」
「ちょっと、話したいことがあるの」
彼女はさっさと近くの公園に入って行った。やっぱり今日も綾波は綾波だ。
ただ、今日の綾波は何か雰囲気が違う…。


「エヴァ達の事件、何か進展はあった?」
ベンチに座るや否や、彼女が口を開いた。
僕の神経が一気に張り詰める。
「…いや、何もない。手がかり一つ見つからない」
「“変質者による無差別毒撒き”。そう思ってる限りは進展はないわ。恐らくずっと」
「え?」
「私、あれから見方を変えてみたの。犯人の真の狙いについて」
「真の狙い?」
「あれは無差別ではなかった。“本命”と“その他大勢”が存在していた。そういうことよ」
…野良犬二匹はカモフラージュ。犯人の本当の狙いはエヴァかカヲル。彼女の話を要約すればそういうことだ。
しかし僕はそれを否定する。
理由は簡単。どちらも拾い食いするような躾はされてないし、取り立ててクッキーは好物ではなかったから。
わざわざ目の前にばら撒いたとて、食べるかどうかは極めて怪しいはずなのだ。
「あなた、大切なことを忘れてる」
「え?」
「拾い食いしない犬が“実際に”食べたのよ。これがどういう意味か、分かるでしょ?」
「あっ!」
驚きと呆れが僕を襲った。
何故思い当たらなかったんだろうか。カヲルは地面に落ちてたクッキーを食べた訳じゃないのだ。犯人はカヲルに、「直接」食べさせたのだ。そしてエヴァにも。
「エヴァが公園にいたのは朝だけ。しかも私がずっと傍にいた。仮に私が気付かない内に食べさせられたとしても、倒れたのは夕方だったのよ」
「そう言ってたね」
「なのにカヲルが食べて、倒れたのは碇君が離れていた1時間ほどの間…。計算が合わないわ」
「た、確かに…」
盛られたのが同じ種類の毒だったことだけは分かっている。ならばお互いの犬が倒れるまで、それ程のタイムラグがあるのはおかしい。
それに、クッキーは結局公園の中からしか見つかっていないのだ。
「家の中で飼っていたあなたと違って、私は外だった。隙を見てクッキーを食べさせる時間は幾らでもあるわ」
「…じゃ、じゃあ何?僕と綾波か、カヲルとエヴァか、どっちかに共通の恨みを持ってる奴が犯人だってこと?」
ふるふると綾波は首を振る。
「本当の狙いは、カヲルよ」
「えぇ!?」
驚く僕に構わず、綾波は推理を続ける。
「野良犬は勿論巻き添え。でも犠牲になった飼い犬が一匹じゃ怪しまれる。だからエヴァも狙われた。そう考える方が自然だわ」
「で、でも!」
「エヴァはこの通り生きているわ。もしエヴァを狙ったのなら、もっと強い毒が使われていたはず」
「………」
「カヲルに合わせた毒が使われた。そういうことよ」
綾波はあくまでクールだった。
いつも変わらないその表情が、今ばかりは妙に苛立つ。
「そこまで言うなら、容疑者も調査済みなんだろうね?僕かカヲルに、そこまでの恨みを持ってる奴」
「恨みだけとは限らない。愛憎は常に表裏一体なのよ」
「?」
気勢を削がれた僕に、綾波は唐突な話題を持ち出した。
「最近、こんな話を聞いたわ。あの事件の頃、何度か碇君の家を覗いてた女性がいるって」
「!?」
「1回なら偶然、でも同じ場所で2回3回はおかしい。当然ね」
「……」
「更にその人、こうも言ってた。最近碇君と一緒にいた女性とそっくりだって」

意味を理解するまで数秒を要した。

「それ、もしかしてマユ…山岸さんのこと?」
「怒ったのなら謝るわ」
「彼女が、カヲルに毒を食べさせたって言う気?」
「その可能性がある。それだけのことよ」
バカバカしい。
僕は綾波から顔を背けた。
「彼女と知り合ったの、いつ?」
「………あの事件のあと」
カヲルがいなくなってから一週間は経ってただろうか。
本屋でぼーっとしていた僕に、声をかけてきたのが彼女だった。
――偶然お見かけしたのでつい、声をかけてしまったんです。ご迷惑でしたか?
綾波同様によく本を借りに来ていた、同い年くらいで髪の綺麗な眼鏡の娘。
山岸マユミという名前も、だからその時は既に承知していた。
勿論僕の名前は向こうは知らないはずだったし、業務以外で喋ったのはそれが初めてだった訳だが。
それから一緒にお食事でもって話になり、TEL番メルアドを交換し、次の約束を取り交わし…。
いつのまにか彼女から離れられなくなっていた。
「随分、いいタイミングに声をかけたのね。碇君が誰かの温もりを欲していた、その時に」
「…何が言いたいの?」
「ずっと見張っていれば、偶然の出会いを必然に変えるのも簡単でしょう?」
むらと怒りが湧き起こった。
「山岸さんがストーカーだとでも?一万歩譲ってそうだとしても、何でカヲルに毒を盛る必要があるの?」
「覗いてる所を見られた。碇君が出かけてても、カヲルは留守番してたんでしょう?」
「そんな理由で?しかも犬なんだよ?オウムや九官鳥じゃないんだよ?」
「疚しいことをしてる人間は必要以上に臆病になるの。そして臆病は時に蛮勇に変わる。目先のことしか考えなくなって、後のことが視界からも頭からも消えるの」
「………」
「あるいはもっと別の理由かもしれない。心の支えを失った人間は代わりを欲する。そこで自分が“代わり”になるのは普段よりずっと簡単なこと。これを発展させれば、その支えを自分で外そうと思っても不思議じゃない」
「……!」
「“カヲルは大事な犬なんだ。幼馴染のアスカがドイツに越す時にくれた、僕の10年来の親友なんだ”。それほどの存在を失った時に近付いてくれば、例えどんな…」
「綾波ッ!」

沈黙が降りた。

「…私だって、心からそう信じてるわけじゃない」
「僕は全く信じてない」
「なら、試してみましょう。違うと分かれば安心できる。そうでしょう?」
「でも!」
「彼女のこと、信じてるんでしょ?」
紅玉の瞳が僕を見詰める。
抗いの言葉は、結局僕の喉から出なかった。






「オレンジジュースでいい?」
「ありがとう。美味しそうですね」
マユミはにっこり微笑んでグラスを取り、こくこくと喉を鳴らした。
何か子犬を感じさせる仕草だ。
「…こうして見ると結構古いんですね、この家」
続いて、今気付いたように僕の住む家の感想を漏らす。
「築30年くらい?もっとだったかな?とにかく古いのは古いよ」
「そんなに?引っ越そうとか思わなかったんですか?」
「別に思わなかったな…。親戚の叔父さんが“ちゃんと管理できるなら住んでいいぞ”って言ってくれた家なんだよ。だから家賃もないし、犬も飼えるし。特に不自由は感じなかったよ?」
「でも、広いと逆に不便じゃないですか?二人三人で暮らして丁度いいくらいですよ、ここ?」
「…あ、もしかして一緒に住もうって言いたいの?」
「!」
たちまちマユミが紅潮する。
その困ったような表情が堪らなく可愛い。思わず抱き寄せたくなるくらいだ。
しかし今は、今だけは控えねば。
「でね。実は今、新しい犬を飼おうかって思ってるんだよ」
「え?」
「実は綾波…さんが今度引っ越すかも知れないらしくて。それでエヴァを引き取ってくれないかって言うんだよ」
「随分急な話なんですね?それに、…シンジ君はいいんですか?」
「カヲルの代わりなんていない。そう思ってたけど、でもエヴァならいいかなって最近思うようになって」
マユミは随分驚いているようだ。
「それで綾波さんと話して、とりあえず明日まで預かることにしたんだ。傍に置いて、僕が飼いたいと思い続けられるかどうか。エヴァがここを気に入るかどうか。それから判断しようかなって」
「………」
絶妙のタイミングでインターホンが鳴った。
綾波だ。


「連れてきたわ」
「ありがとう」
久々に掃除したカヲルの犬小屋の横で、綾波はエヴァの引き綱を離した。
続いて僕に視線を寄越す。
分かってるわね?との声が頭に響く…気がした。

彼女が犯人なら、手ずからカヲルとエヴァに毒クッキーを食べさせたはず。
と言うことは、自分が差し出した時に食べてくれるよう予め馴らしていたはず。
ならば看病してた碇君より、(碇君によれば)何もしていなかった彼女に強く懐くはず。
それが綾波の推理だった。

くぅん、と一声鳴いたエヴァは犬小屋を無視し、…僕を一瞥して無視し、真っ直ぐにマユミに駆け寄った。
尻尾ぱたぱた鼻すりすり、それはもう力いっぱい甘えてる感じだ。数年来の飼い主飼い犬の関係であるかのように。
綾波の、言った通り…?

「ちょ、ちょっと、何で私、こんな…」
「随分気に入られたのね。それとも、餌でもねだっているのかしら」
「え、餌ですか?…ちょっと待ってて」
じゃれ付くエヴァを慌てて離し、マユミは僕の家に入った。
そしてさっきのジュースの隣にあったお菓子―ドーナッツだ―を取って戻ってくる。
「どうぞ、エヴァさん」
「……」
エヴァは、食べようとはしなかった。




次の朝が来た。
この前のお香の代わりとしては充分なマユミの肢体の柔らかさ、彼女自身の不思議な匂い。
この二つに完全に屈し、吠えなかったエヴァに感謝する夜を過ごした僕には少々光が眩しい。
それでも何とかシャワーで汗と眠気を落とし、二人分の朝食を整えて片方を食し、外出の準備を整える。
あとは。

「…もう、時間なんですね」
上半身だけ起こした彼女が聞いてきた。
ちらっと覗く裸の肩と、乱れて広がる黒髪がどうしようもなく煽情的だ。
しかし僕はぐっと堪え、紳士的な笑顔を彼女に向ける。
「朝食は準備しておいたから。適当に暖めて食べておいて」
「ごめんなさい。私が準備しなきゃいけなかったのに…」
「いいよ。色々疲れてるだろうし、疲れさせたの僕だし」
マユミが紅潮して俯いた。
「じゃ、エヴァに何かあったら連絡して。繋がらなかったりしたらここに書いた、獣医さんの方に」
「あの、あんまり信用できないっていうお医者さんですか?…分かりました」
「そんな酷いことにはならないと思うけど」
「大丈夫ですよ。何があっても、ね」
一瞬だけ彼女に不気味な笑みが浮かぶ。
…だが、次の瞬間には元の穏やかで優しい笑顔に戻っていた。


外に出てしばらくすると、背後に気配を感じた。
「おはよう、綾波」
「おはよう、碇君」
今朝の綾波の瞳は一際紅い。その中にあるのは…怒り?
「昨日のエヴァの様子、見たでしょう?私の言った通りだった。そんな時間も触れ合いもなかったのに、あんなに懐いていた。どう考えてもおかしいわ」
「でも、たまたま相性が良かったからとか…」
「エヴァにそれはないわ。人見知りが激しいから、以前会ってなければあんな風になることは有り得ない」
いつになく多弁な綾波が断言する。
「それに、餌を貰っても食べようとはしなかった。また毒かも知れないってエヴァが警戒したのよ」
「だったら、そもそも近付かないんじゃ?」
「感情の上では近付き甘えたい。本能では危険を察してさっさと逃げたい。それを整理できるほど犬は頭が良くない。そういうこと」
「…無理やりな論理だね。僕は信じない」
「試してみれば分かるわ。答えは今日、出るはずよ」

エヴァは神経に毒の後遺症があり、時々呼吸困難になるらしい(この前の状態だ)。
あれ以来出ていないようだが、さりとて今後も出ないとは限らない。従って、もしそれが発症して死に至っても何ら不思議とは思われない。
よくドラマであるような、ふかふか枕を顔に押し付けて生じた結果と区別する術は何も無いのだ。
――彼女はそのチャンスを逃さない。
それが綾波の言う“試し”だった。

「もう一回言っておくよ。僕は信じない。犯人はどっかの頭のおかしい奴なんだ。僕の近くにいるはずがない」
「感情は理性を曇らせる。事実を見る目を失わせるの」
「考え直して」
「よく考えた上での言葉よ?」
答えは返さず、僕は綾波に背を向ける。
「何かあったら連絡するわ。…いってらっしゃい、碇君」
何もあるわけないじゃないか。






午前の内に携帯が震えた。
しかし、僕が確認できたのは昼食時間も終わろうかという時だった。
あるはずのない連絡があったことの意味を、どうしても受け入れたくなかったのだ。
現実逃避しても無駄だと、心の何処かで分かっていたのに。
…なけなしの勇気を振り絞り、僕は一件だけ入っていた“彼女”からのメールを開く。

『予想通り。彼女のエヴァ殺害の意図を確認。ビデオ撮影とエヴァ保護には成功。彼女は逃げた模様。後で連絡下さい』

「…あぁ」
鈍器で殴られたような衝撃が頭を襲う。覚悟はしていてもやはり僕には辛すぎた。
幻視痛に耐えかね、胎児のように身を縮めて僕は悶える。
“彼女”の言葉は的中してしまった。犯人は、僕のすぐ近くにいたのだ。
何故。何故だ。何故なんだよ。



















…綾波。









カヲルが眠る、ペット用墓地の一角。
一度合わせた手を下ろした僕は、ふと背後のマユミを振り返る。
何をそんなに祈ることがあるのか、彼女はまだ合掌を続けていた。
でも、この様子ならあまり彼女を待たせなくて済みそうだ。
そう判断した僕は再度合掌し、カヲルへの語りかけを再開する。


…綾波はああ言ってた。でも、僕にはどうしても信じられなかった。
だから僕は喋っちゃったんだ。綾波に言われたこと全部、マユミ本人に。
どうしても彼女が犯人だとは思えなかったから。違うって言って欲しかったから。
マユミは始め驚いてた。開いた口が塞がらないみたいな感じだった。
それから考え込んで、こんなこと言ったんだよ。
『本当の犯人、綾波さんかも知れません』ってね。

『シンジ君は全然気付いてないみたいだけど、女の私には最初から分かってました。綾波さん、シンジ君が好きなんだって。好きだから、シンジ君の隣にいる私を憎んでるって』
『それに、私のことタイミング良いって言ったんですよね。でも、それは綾波さんにも言えるんです。彼女と親しくなったの、カヲルのことがあってからなんでしょう?それまでは挨拶程度だったのに』
『しばらく離れてたのは時期を見計らっていたんですよ。シンジ君がカヲルとエヴァに生じた差を飲み下して、わだかまり無く自分を受け入れてくれる、最も適切な時期を選ぶために』
『でも、その間に私が現れました。綾波さんにとってはホント、泥棒猫もいい所ですよね。“あの女さえ出て来なければ”って思うのは当然かも知れません』
『…それはそれとして。何故綾波さんが犯人なのか、ですよね』
『毒入りクッキーが撒かれた公園と綾波さんの家、それなりに離れてます。その間に犬を飼ってる家は何軒もあります。私が犯人だったら、わざわざ見も知らない彼女の犬を狙いはしません。もっと近い家の犬を狙った方が自然です。それはシンジ君だってそうでしょう?』
『綾波さんが犯人ならこの不自然さはなくなります。カヲルには致死量の、自分のエヴァには多少毒を減らしたクッキーを食べさせる。これでエヴァは重症とは言え助かります。更に被害者同士というシンジ君との繋がりもできて、彼女の最大の狙いも達成されます』
『でも、シンジ君と結ばれたのは私でした。そこまでしてきた彼女にすれば、私は目障りそのものの存在。だから排除しようとしたんでしょう』
『…“試し”を持ちかけたのは綾波さんの罠なんですよ。散々私が怪しいと煽る。そして実際にエヴァが死ぬ。シンジ君に私を疑わせ、仲を裂く。その後で本来座るべきだった椅子に彼女が座る』
『エヴァが私に擦り寄ったのも罠の一つです。エヴァの看病に行った時、綾波さんが私に椅子を勧めたのを覚えてますか?あれは椅子に敷いてあったクッションに、私の匂いを付けさせるための誘いだったんですよ』
『それを使えば、私に会う前から私に馴れさせることが可能です。餌の件は予め満腹にしておけば済む話ですし』
『…よく考えたものですよ』
『だから、逆に罠をかけてみましょう。シンジ君は言われた通りに仕事に出て下さい。私は残って、わざと隙を見せて彼女を誘き寄せます。その様子を抑えてしまえば…』

あぁ、信じたくなかったよ。
マユミは勿論、綾波だって信じていたから。大事な僕の“戦友”だったんだから。
でも、信じるべきはどっちか一人。この二人のどちらかは犯人。それはもう動かせない事実だとも何処かで理解してた。
だから僕はマユミを選んだんだ。身も心も結ばれた今となっては、もう彼女は失えない存在だったから。
カヲルは嫉妬するかもね。でも、彼女に触れ合えばきっと君も仲良くなれたと思うよ。
マユミは不思議なんだけど…何処か君と同じ雰囲気というか、匂いみたいなものを感じるんだ。
君と同じ安らぎを与える部分と、女の子特有の男を興奮させる部分と。その二つが交じり合った不思議な匂い。
ハッキリその匂いを感じてるワケじゃないんだけどね。あえて言うなら…彼女は君と同じフェロモンを持っている、と言うべきなのかな?
だから、彼女を想うことは君を思うことにも繋がる、そう思うんだ。君は彼女の中に、今も生き続けてるんだって。
上手く言えなくてごめんね。でも、君だったら僕の気持ち分かってくれるよね、カヲル。


合掌を解き、僕は立ち上がった。
マユミも既に立ち上がり、奇妙な視線でこっちを見ている。
…次の瞬間、眼鏡を外した彼女の熱烈なキスが僕を襲った。


  :
 :



シンジ君は熱心に祈っていた。
犯人は分かったよ。これで安らかに眠れるね。…そんなことを思い浮かべているのだろうか。
カヲルはそんなご主人様に何を思うのだろうか。
違う、貴方は分かってない。謎は何も解けていない。きっとそんな感じなんだろうな。

















だって、カヲルを殺したのは私だもの。





あの時カヲルと対面して以来、私は毎日時間を割いては“ある計画”のためカヲルに会い続けた。
いざ、という時のために私に馴らしておくため。そして、霧吹きの中身をカヲルにかけるため。
特に後者が計画の要。
カヲルと戯れるシンジ君、私が丁度読んでいた本、その二つから天啓のように閃いた、この計画の最大の要だった。

霧吹きの中身は、私の汗。

その為に買ったトレーニングマシンで集めて、水で薄めたもの。犬はともかく、人間にはただの水としか思えないもの。
でもシンジ君に以前説明した通り、意識はしていなくても、脳にはちゃんと信号が伝わっているのだ。ボーダーライン以下の匂いであれ、フェロモンであれ。
…シンジ君がカヲルといる時の心からの笑顔。意識して出せるものではないあれは、一つにはカヲルが彼に与えるフェロモンの影響ではないか。
そう思い当たった私は最初、カヲルのフェロモンを欲した。
それを私に付ければ私にもシンジ君の笑顔が手に入る、そう思って。
だがすぐさま、私は発想を逆転させた。

カヲルのを私が得るのではなく、私のをカヲルに与えれば良い。

汗を吹きかけたのはそのためだ。
毎日少しずつ私の匂いを、私のフェロモンをカヲルに与えれば、シンジ君は意識しないまま脳にそれが刷り込まれて行く。
意識しないまま、カヲルが与える安らぎを、私からも与えられるようになって行く。勿論その変化には気付くことなしに。
それが続けばやがて、私だけで充分な安らぎを与えられるようになる。
毎日、しかも屋内で共に過ごしていれば効果の発揮具合も早いはずだった。
それでも「いつ行動を起こすか」は慎重に見極める必要があったが、結果的には正しかったようだ。
後は綾波さんが喝破した通り。“支え”を外して、私が彼の新しい“支え”となる。

少しずつ買い集めた農薬の調合。公園の人気がなくなり、怪しまれることなくカヲルにクッキーを与えられる時間の見極め。そもそも、計画の前提たるフェロモンの有効性。
そして、綾波さんという予想だにしなかったライバルの出現。
山積みだった問題は、結局私を阻むことはできなかった。
むしろ綾波さんという“生贄”を得たことで、私は更に彼の“求め”を受けることができる。正に最上の展開と言えよう。
私のシンジ君への想いが、全てに勝ったのだ。

…だからカヲル、悪く思わないで。
彼は私が一生大事にするから。あなたが彼に与えた以上のこと、彼にしてあげるから。
安心して成仏してちょうだい。ね?


シンジ君が祈りを止めた。
早速、カヲルに誓いの証明をして見せなきゃ。
眼鏡を外し、私は彼に飛びっきりのキスをした。









綾波さんが失踪した。
それと知ったシンジ君は悩みに悩んだ末に私の勧めに応じ、私が録画した綾波さんのエヴァ殺害未遂シーンを警察に提出。
しかし直接毒撒き事件とは関係ないと判断したか、単なるお役所仕事か、警察の動きは緩慢だった。
そうでなかったのはマスコミ。
あくまで“疑わしい人物”的な呼び方をし、匿名にして、更に顔を隠した映像を流すのみであったが、その扱いは完全に犯人のそれだった。
二人の女と一人の男、ストーカー行為、自分の飼い犬を殺そうとしたこと。マスコミが飛び付くには充分なネタだ。
ここまで揃ってあのビデオがあれば、綾波さんを毒クッキー事件の犯人扱いするのは故無しとするまい。
もっとも、私が記者である友人を利用して、そのように誘導していたのも大きいだろうが…。


「それで、見つかった綾波さんが認めたんですよ。エヴァに毒入りクッキーを食べさせたこと」
『毒入りクッキー?ビデオで撮影した話じゃなく?』
何度か訪れている公園で、私はシンジ君と電話越しの会話を楽しんでいた。
足元には綾波さんに捨てられた形となったエヴァ。妙に私に懐き、今も私がフリスビーを放るのを今か今かと待ち構えている。
正直シンジ君が飼おうと言った時は面白くなかったが、でもここまで懐いてくれると気持ちも変化せざるを得ない。
「この前シンジ君と会った霧島さん、彼女が独占インタビューを取ったんです。毒入りクッキーの事件を知ったのはカヲルが運ばれた後だったこと、近所の人と一緒にクッキー探しに付き合ったこと、それを見つけた後でエヴァの様子が心配だと家に戻ったこと、そこで半分にしたクッキーを食べさせたこと、それからその理由。全部認めたそうですよ」
『…マユミが言った通りだったんだ』
「あまり嬉しくはないですけど」
本音と建前はいつでも別。
これで私はエヴァの件とは無関係だと証明されたのだ。責任はわざわざクッキーを与えた飼い主にあるのだから。
これなら心置きなく、エヴァと仲良くできそうだ。
フリスビーを思いっきり放った後、私は会話に戻る。
「で、彼女は元々犬は好きじゃなかったそうなんです。それでもシンジ君が犬を飼ってたから、犬同士仲良くすることで飼い主同士も…と考えたとか」
『だからエヴァを飼い始めた?』
「それだけじゃなく、シンジ君の留守中に家に来て、密かにカヲルとエヴァを会わせていたらしいんです。犬を連れたシンジ君と会った時、すぐ仲良くなれるように」
『そうだったのか。…あの時懐いたのはそれもあったんだね』
「え?」
『何でもない』
ごまかすシンジ君だが、彼の言いたいことは分かっていた。シンジ君の家で、エヴァが私に妙に懐いた理由のことなのだろう。
…その理由に気付いたということは、私とカヲルが似てるってことも気付いたのだろうか?
ならば、フェロモンはやっぱり効果があったのだ。私は賭けに勝ったのだ。

『それじゃ、エヴァのこと宜しくね』
「大丈夫ですよ。じゃあね、愛するシンジ君」
紅潮する自分を自覚しつつ、私は電話を終えた。
でも、自分への満足も確かに感じていた。
一生一人で過ごすことも覚悟してたのに、今では身も心も許した人にあんな気恥ずかしいセリフを吐けるようになったのだ。
ここまで自分は変われるのか、自信とはここまで自分を変えるのか、と正直驚かざるを得ない。
本当に人間、何がどう転ぶか分からないものだ。


しかし、そう感慨に浸ってもいられない。
私の意図通りに動いてくれた、数少ない私の友人霧島さん。
…マユミも隅に置けないねー。そうだ、今度三人で一緒に飲もうよ。二人の馴れ初め、この哀れな彼氏無しに聞かせて欲しいなぁ。
そう言ってシンジ君に擦り寄る彼女は、明らかにシンジ君に男としての興味を持っていた。
記者である彼女は事件が事件なだけに、渦中の人であるシンジ君と接触し続けても不思議じゃない。
いや、積極的な彼女ならばそんなことお構い無しにアプローチをかけるだろう。
良くも悪くも無邪気で押せ押せ行け行けな彼女と、相当に鈍感で誘いを断れないシンジ君。
私を不安にさせるのには充分だ。
更に言えばアスカさん。シンジ君の幼馴染だと言うアスカさん。
シンジ君があれほどにカヲルを可愛がっていたのは、そのアスカさんがくれたからという理由もあったのではないか?
ならば、その彼女がもし帰ってきたら?
どんな女性なのかは知る由もないが、恐らく美人なのであろうその人がシンジ君の所に帰ってきたら?

彼の心、もっと奪っておかなくちゃ。
もっと彼の心に入り込んで、私無しには生きられないくらいの気持ちにさせなくちゃ。
もっと、今よりも激しいアプローチを。


…丁度霧島さんからの電話が鳴る。
『あ、マユミ?今大丈夫?』
「大丈夫ですよ」
言いながら私は何度目かのフリスビー投げを試みる。

きゃああぁぁああッ!

突然聞こえた悲鳴のせいで狙いが逸れ、向こうの立ち木の中ほどに引っかけってしまった。
交通事故でもあったのだろうか?
『綾波さんの話なんだけどさ。新しい話が聞けたんだ』
今更どんな話があるんだろう。
…飛んだり跳ねたり、エヴァはフリスビー取りに躍起になっている。高さからしてエヴァには難しい位置だ。
後で取ってやろうと思いつつ、私は会話に戻る。
『飼い犬に食べさせたのは確かに私。でも、クッキーを撒いたのは私じゃないって話なんだけどね』
「へぇ…?」
『なんでも、その飼い犬とは別にもう一匹犬を飼ってたらしいの』
「もう一匹?」
意外な話だった。
『犬同士が仲良くなって、飼い犬同士も仲良くなる。それだけじゃ何か弱い気がした。だからもう一歩進んだ計画を立てた…。その計画のキモがその犬らしいの』
「でも、彼女の家にはそんな犬いなかったのでは?」
『家じゃなくて、近くの空き倉庫で飼ってたんだって。結構大きくて気の強い野犬を、ね』
…何か寒気がする。
『その野犬にカヲルを襲わせる。そこを“偶然”通りかかったエヴァが助ける。そしてカヲルと、多少怪我するかも知れないマユミの彼氏を介抱する。そんな計画だったみたいよ』
「で、でも、そんな都合良く行くんですか?特定の犬を思った通りに襲わせるなんて…」
『だから訓練したんだって。カヲルのにおいを付けた布を準備して、そのにおい嗅いだら速攻襲うような訓練。仕舞いにはカヲル=餌、になるくらい躾けたとか何とか」
「!」
『で、あの毒クッキー事件がなければその計画を実行していた。逆に言えば毒クッキー事件の犯人は私じゃない。そーゆー論法みたい』
「………」
『なら最初に言えって感じだけどね。マユミの彼氏に醜態晒したのがよっぽどショックだったのかな?ホント罪作りだね、彼』
「………」
『でね、計画変更後も餌はあげてたけど、私が家を離れてからはそれもできなくなった。だからその犬が餓死しないよう世話してあげて…とも言ってたわ。犬も可哀想だし、飢えて凶暴になった犬が何をするか分からないって』
「………」
『それで杭の刺さりが甘かったかもとか、それが抜けたら外に出るのは簡単だとか色々言ってきてさ。しかもあの淡々とした語り口でしょ?マジで人も食べちゃうかも〜くらいの雰囲気感じちゃって、流石にマナちゃんも不安になったワケよ。だからマユミ、悪いけどそのワンちゃんに…」
「………」
『って、おーい?マユマユ?聞いてんのー?』


聞いてなかった。
聞こえてるのは徐々に背後から近付いてくる、荒い息遣いと低い唸り声だけ。
振り向かなくてもその正体は理解できる。
綾波さんの、そして恐らくはカヲルの、怨念そのもの。


…ねぇエヴァ、貴方は今この時のために存在していたんでしょう。
私を助けてくれるんでしょう?

引き攣った笑いを浮かべながら、私はエヴァに目を向けた。
エヴァはまだフリスビー取りに夢中だった。





…よく晴れた空が、眩しかった。



End.



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