オペラ掌編

『トラベラー』30(トラベラー同人会) 1977  

→昔のエッセイ目次へ  


ステージから

 ローマのホテルに着いて,まづコンシェルジュのところへ行つてだづねた――カラカラ帝浴場跡でやる野外オペラの予定を教へてください。すると何と,今年はおととひ全部終わりました,といふ。これだから音楽といふのは厄介だ。絵画なら,たとへばボッティチェルリの「春」なら,フィレンツェのウフィッツィ美術館へ行けばいつでも見られるのに。

 詩集を自費出版して友人に配つたとする。もらつた人はいつでも好きな時に読めるし,好きなだけ時間をかけられる。また,写真展を催したとする。案内を受けた人は,期間中好きなときに行けばよい。しかし,音楽会を開かうとすると,決まつた日の決まつた時間に会場まで御足労をいただかなくてはならない。しかも,ある曲が気にいつたからといつて,一人だけその曲の前にとどまつてゐるわけにもいかない。

 音楽会のステージの上で僕はいつも,音楽を支配する時の流れの不思議に思いをはせる――数十分の一秒出おくれれば人の耳にはだいぶずれてきこえる。それはもう取りかへしがつかない。それにしても,今奏でてゐるこの音楽はどこへ行つてしまふのだらう……そんなことを考へてゐると,またトチリさうになる。

(E氏)  


ミミは死なない

 プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の終幕は,薄幸のヒロインのミミが病死する場面である。ミミは若くして肺病で死ぬはずなのに,舞台を見るといい年をしたソプラノ歌手――だいていかなり太ってゐる――がたつぷりした声で朗々と歌いつづけてゐる。何たるリアリティのなさ! これがミラノのスカラ座などで上演されると,女性客――これも多くはかなりの年だ――はハンカチをにぎりしめ,「ミミ,死なないで」と絶叫するといふ。何十回となく見て,筋なんか知りつくしてゐるにもかかはらず,である。

 もつとも,考へてみると,僕らだつて内容をよく知つてゐる「時そば」だとか「道具屋」「長屋の花見」などを聞いて何度でも笑ふことができる。感動したり笑つたりといふ人間的な行為は,リアリティとか内容の新鮮さとはちがふレヴェルのことのやうだ。しかも,同じ音楽や落語を何度も聞くといふことは,同じ本を何度も読みかへすことよりも,ずつと自然で,かつよくあることのやうに思へる。他人によつて上演されなければ味わふことのできない「再現芸術」の特性がそこにあらはれてゐる。

 ミミは死ぬ。しかし明晩の舞台では新しい光を得てよみがへる。

(E氏)  


[注] 「オペラ掌編」というタイトルは,ウェブページ掲載に際してつけたものです。

→昔のエッセイ目次へ