マーラーの夏

『トラベラー』32(トラベラー同人会) 1980  

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 この夏はマーラーとともに始まった。7月はじめのある夜,レナード・バーンスタイン指揮,ニューヨーク・フィルハーモニックの演奏するマーラーの交響曲第1番を聴きにいったのである。レコードではずいぶん親しんでいたバーンスタインだが,ナマ演奏に接するのは初めてだった。拍手にむかえられて登場したとき,彼の髪がまっ白だったので私は少々とまどった。考えてみるとかれはもう六十歳になっていたのだった。

 第1交響曲はマーラーの青春の総決算ともいえる曲であり,同時に私にとっても,大学のオーケストラでの生活のひとつの頂点をなした思いでの曲である。60年代に始まった「マーラー・ルネサンス」の波は日本の楽壇にもおしよせ,アマチュアの学生たちにも影響を及ぼすようになっていた。72年1月の私たちのマーラーは,マーラーの交響曲の「学生オーケストラ初演」となった。

 その夜のバーンスタインの音楽は,その白髪にもかかわらず,きわめて若々しくしなやかで,しかも昔録音した同じ曲のレコードに比べると,テンポはややおそめで,スケールの大きなロマンを歌っていた。なにしろ,かつて懸命に練習した曲だから,曲がすすむにつれて当時のことが次第に頭の中によみがえり,ソロがあるとその時同じパートを奏していた友人たちの顔が浮かんできたりした。そういえば,あのころマーラーのレコードで,一番よく聞いたのはバーンスタイン指揮のものだった。それはわれわれだけではない。世界的に見てもマーラーの交響曲の再評価にバーンスタインの果たした役割はきわめて大きいのである。

 今や,東京にある8つのプロのオーケストラの曲目を見ても,マーラーの登場しないシーズンの方が少ないくらいになった。プロだけでなく,去年の1月には,私の後輩たちがマーラーの交響曲第6番をきわめて立派に演奏した。そのとき私は,これをいちばん喜んだのはやはりマーラーではないかと思った。マーラーは晩年の不遇の中で,どういう文脈だったかは忘れたが,「やがて私の時代が来るだろう」と言った。死後60年にして,この予言は実現したのである。

 ニューヨーク・フィルの演奏会から約1か月後。私は今所属しているオーケストラの合宿に出かけた。場所は八ヶ岳のふもとの清里,ちょうど十年ぶりである。十年前には大学のオーケストラの合宿で来たのだった。当時は大学紛争後のいわば混乱期にあり,一時はその存続すら危ぶまれたオーケストラを何とか再建の軌道にのせようと必死だった。人数も減り,演奏技術も低下した苦しい状態での合宿だった。それから2年半後にマーラーの交響曲を曲がりなりにもできるようになるとは予想もしなかった。

 そういう時代を共にした連中が中心になって卒業後に結成したのが今やっているオーケストラである。これもはじめはほんの二,三十人で始めたのがいつのまにか大きくなり,今では七十人を越える一人前のオーケストラになった。私は合宿のあいだ中,この同じ合宿場にもっと少ない人数でやってきた十年前のことを重ね合わせて考えずにはいられなかった。

 九月に入ってまもなく,朝比奈隆指揮の大阪フィルハーモニーが東京へやってきて,マーラーの交響曲第6番を熱演した。それが私の夏の終わりだった。

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