変転のビートルズ

『窓』11 1978  

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 作曲家で絵もよくする小倉朗氏と話していて,話題がピカソのことになったことがあった。「ピカソってェやつは,本物の天才だね。ひとつのスタイルで有名になっても,決してそれに安住しないで,次々と新しいことをやる。いくら年をとってもね。」 天才の証明としてのきわまりない変転――僕はそのとき反射的にビートルズのことを思いうかべた。
 1963年に「プリーズ・プリーズ・ミー」の大ヒットによって若者のアイドルになったとき,だれが1970年の解散直前のビートルズの音楽を想像することができただろう。僕は,そして僕の世代は,このビートルズの音楽の変転とともに十代の後半から二十代のはじめにかけてをすごしたのである。
 「ビートルズ革命」(ジョン・レノンの著書のタイトル――ただしこれは邦訳者が勝手につけたもの) というやや大げさな言葉もあるとおり,ビートルズの影響は非常に広範囲に及んだが,もっとも強く,かつ持続的な影響を受けたのはやはり僕たちの,あるいは僕たちの少し上の世代だった。
 僕自身はそれほど熱心なファンだったわけではなく,「ビートルズこそわが青春そのものでした」なんていうせりふを素直に吐ける立場にはないけれど,ビートルズが活躍しているあいだ,常にビートルズの音楽を気にかけずにはいられなかったのである。

 日本でビートルズの名が知られてきたのは1964年になってからだったと思う。僕が学校の友だちと初めてビートルズを話題にしたのは64年春,中学3年の1学期だった。(僕のいた学校は2学期に引っ越しをしたから,古い方の校舎を舞台にしたこの記憶はたしかに1学期のことだ。)中学3年といえば,クラスの中でも心身の発達段階には大きなバラツキがあり,当時身長が152センチしかなかった僕は当然かなり子供の部類に属していたが,ラジオでききかじったビートルズのことが話題になったとき,クラスの「大人組」の連中が,こいつ意外と知ってるな,という顔で僕を見たりした。
 そのころの僕は,まだビートルズの音楽に特にひかれていたわけではなかったし,今思い返しても,ビートルズは他のロック・バンドと質的にそう異なった音楽を奏でていたわけではなかった。しかし,ビートルズはそのころすでに,その長い変転の道――ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード――を歩みはじめていたのだ。
 いろいろな人が指摘しているように,65年の「イエスタデイ」からビートルズの音楽は大きく変わっていった。しかし,そのきざしは64年の「アンド・アイ・ラブ・ハー」にすでにあった。他のミュージシャンがさかんにビートルズの曲をとりあげるようになったのもこの曲あたりからだ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーの生み出した曲が,音楽としての価値をみとめられ,一人歩きをはじめたのである。
 1965年,高校1年のとき,僕は学校のブラス・バンド部の有志で小さなバンドを作った。いわゆるグループ・サウンズの時代が始まっていた。僕はそこではじめてビートルズの曲を演奏した。「抱きしめたい」とか「プリーズ・プリーズ・ミー」など初期の曲ばかりだったが,サクソフォンで吹いてもなかなかおもしろく,ビートルズの曲のもつ可能性を少し理解できた。僕たちは文化祭に出演する予定で練習を重ねたが,結局学校側がエレキ・ギターの使用を認めなかったために,公開の演奏をすることなくこのバンドばつぶれた。

 66年6月,ビートルズは日本へやってきた。僕のクラスがらも2人が学校を半日欠席して東京の日本武道館へ出かけていった。(この年8月のサンフランシスコでのコンサートを最後に,ビートルズは公開演奏をしなくなった。)
 当時僕はブラス・バンド部のキャプテンをつとめていた。グルーブ・サウンズ(これもビートルズの影響なしには成立しなかった)やフォーク・ソングなど「自分でする音楽」が浸透し,一般の生徒がブラス・バンド部の音楽にはあまり関心を示さなくなる,という現実に直面して僕は大いに悩んだ。
 しかし一方ては,その年の秋,友人とまたバンドを組んで,メンバーの一人の家の経営する店の倉庫の2階の一部屋で練習をし,クリスマスにはそこでささやかな演奏会を開いた。なにしろかなり固苦しい学校だったから,ブラス・バンド部の現職のキャプテンという立場上,学校に知られるとまずい,というのでこっそり宣伝するのに苦労した。女の子の観客を集めるのも大変だった。この演奏会で,僕たちは当然のこととしてビートルズの曲を何曲か演奏した。
 ビートルズはなおも歩みつづける。「ミシェル」「ガール」「エリナー・リグビー」などの美しい旋律がヒットした66年につづき,67年の曲では「愛こそはすべて」が印象的だ。この曲は,まずフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」をもじった前奏にはじまり,4拍子と3拍子が不規則に交代してあらわれる。終りの方ではイギリス民謡「グリーン・スリーブズ」とかビートルズ自身のかつてのヒット曲「シー・ラヴズ・ユー」など,いろいろな曲が断片的に次々と「引用」される。この自作の引用というやり方は,クラシックの方ではブルックナーやりヒャルト・シュトラウスがよく用いた方法だ。
 そして67年夏には,ビートルズを売り出した立役者である敏腕のマネージャ−,ブライアン・エプスタインが急死する。ビートルズの解散はこの時決まったといえるのかもしれない。

 68年,僕が大学に入ってまもなく,大学はいわゆる学園紛争の舞台となった。(これも,ビートルズとともに,僕たちの世代を象徴する大きなできごとだった。)この年ビートルズは,最大の傑作(と僕が今でも思っている)「ヘイ・ジュード」を世に送った。バリケードの中のクラス討論のあいまに,「ヘイ・ジュード」の最後の長いリフレインが何回くりかえされているか,を話題にしたこともあった。
 ビートルズの最初の本格的な伝記であるハンター・デヴィス著『ザ・ビートルズ』(1968,邦訳は69年草思杜刊)によると,最初のLP「プリーズ・プリーズ・ミー」の吹込みはたった1日で終り費用は400ポンドだったが,67年の「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」には,4か月と2万5千ポンドを要したという。絶え間ない変転のための産みの苦しみは大きかった。
 このあとビートルズは「アビイ・ロード」,「レット・イット・ビー」という,昔楽的に密度の高いLPを出して,70年春に事実上解散したわけである。

 さて,いろいろなことを書いてきたが,僕自身はビートルズそのもののレコードを1枚も持っていない。(有名な曲はほとんどFMからカセットに録音して持っているけれども。)そのかわり,ビートルズ以外のミュージシャンの多彩な演奏のレコードでジョンとポールの音楽を楽しんできたのである。1968年4月の統計では,「イエスタデイ」は119種,「ミシェル」は80種のレコードが出たという(デヴィス(前掲書)による)。それから10年,今ではもうその何倍かの人々がレコーディングしたことだろう。
 僕が耳にしたそのうちのほんのわずかのレコードの中にも,壮麗なボストン・ポッブス管弦楽団,ハープシコードを生かした典雅なポール・モーリア楽団,完全にジャズにしてしまったデューク・エリントン楽団の「抱きしめたい」など,楽しいものがたくさんあった。
 中でもおもしろかったのは,まず,アイリッシュ・ガーズ・バンド,つまり英国の近衛兵の軍楽隊の演奏した「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」――いろいろなスタイルのマーチに化けた「ヘルプ」「ア・ハード・デイズ・ナイト」など10曲からなる。次いで弦楽四重奏による「バック・イン・ザ・ビートルズ」――こればすぎやまこういち編曲による日本製のレコードで,演奏者はロック・アカデミー・クワルテットとしてあるが,実は外山滋弦楽四重奏団がやっているそうだ。最も純粋に音楽そのものを伝える弦楽四重奏というアンサンブルできくと,ビートルズの音楽の姿がよくわかる。
 最近では昨年11月に出た「グロリュー/ビートルズを弾く」がめっぽう楽しかった。日本では全く無名だったベルギーのピアニスト,フランソワ・グロリューが,いろいろな大作曲家のスタイルでビートルズの曲を弾いているのである。ショパン風の「イエスタデイ」,バッハ風の「ヘイ・ジュード」,ブラームス風の「ガール」といった具合で,あまりのおもしろさに僕は買って帰った夜は3回つづけてくり返して聞いた。これは大いに売れたそうで,この3月には続篇が出た。
 ミュージシャンのヤル気をかきたてる曲の提供者として,ビートルズは今なお大きな存在である。

 1972年夏,大学の管弦楽団で演奏旅行に行ったときのことである。ある都市で中学生むけのコンサートを開いた。そこではオーケストラで使う楽器をひとつずつ紹介したのだが,僕はオーボエの紹介のときに,ふと思いたって「イエスタデイ」を吹いてみた。いくらスタンダード・ナンバーになっているとはいえ,大ヒットしたとき小学校半ばぐらいだったはずの生徒たちがどのくらいこの曲を知っているか不安だったが,吹きはじめてすぐその心配は消しとんだ。生徒たちの顔に「あ,知っている曲だ」という反応があらわれ,終って盛大な拍手で報われたのだった。そのころの中学生ももはや成人に達する今では,ビートルズの「現役時代」を知らないさらに多くの新しいファンが育っていることだろう。
 しかし,当然のことながら,僕たちの世代――つまり,戦後のベビー・ブームのとき生まれたやたらと数の多い年代――と,今の大学生以下の世代とでは,ビートルズの受けとめ方には違いがある。ビートルズの音楽の波瀾に富んだ変転を同時代者として見てきた僕たちは,たとえば63年の「抱きしめたい」と69年の「ゲット・バック」を,同じ平面上においてながめることはできない。知らない間に時間軸の中に位置づけて,通時的観点から見ているのである。
 もちろん,変転が常に進歩だったわけではないし,好みはまた別の問題だが,初期の曲と後期の曲とでは,表面的には同じように単純なメロディの曲でも,聞く時の心構えはちがってくる。それはベートーヴェンの晩年の作品,たとえば,おだやかな悦びに満ちた変イ長調のピアノ・ソナタ(第31番)を聴くとき,どうしても居ずまいを正してしまうのと同様である。ビートルズの8年の変転は,ベートーヴェンの35年間の変転にも相当するのである。
 ミュージック・ライフ編『ビートルズの軌跡』(新興楽譜,1972) によせた渋谷陽一の「前書き」に次のような印象的な一節がある。

 いろいろなところでビートルズが語られた。日本でもビートルズに関する文章は数えきれないほど発表されている。そういった文章には,他のミュージシャンやグループについて書かれたものとは異なる一つの特徴がある。それはビートルズに本当に狂った年代の人間の書いたものはほとんど“私のビートルズ”を書いているということだ。……
〔それは彼らが〕客観的な位置づけをする能力をもたないということではなく,他の対象に対してはできてもことビートルズとなるとメロメロになって“私のビートルズ”を語ってしまうということだ。

 はじめにも書いたように,僕はビートルズにそんなに「メロメロになった」覚えはないけれども,つねづね,ビートルズっていうのは何でこんなに気になる存在なんだろう,と思っていた。グロリューのレコードだって,これがビートルズでなかったらとても買う気はしなかったに違いない。
 そもそも,相手がビートルズでなかったら,この小文を書きはじめることもなかっただろう。こうして僕もまた,“私のビートルズ”(の一部)を書く結果になった。ビートルズとはなぜ特別な存在なのか,という謎は,結局のところますます深まるばかりである。

[注] ウェブページ掲載にあたり,改行を増やし,また表記を若干変更しました。

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