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横須賀線私記

(1995年) 
 
 1 横須賀駅

 横須賀に生まれ育った私にとって,鉄道といえば京浜急行と国鉄横須賀線であった。
 私の家は京急の横須賀中央駅に近い高台にあり,横須賀線に乗るときには横須賀駅までバスに乗っていった。横須賀線はもともと軍港のために作られたので,横須賀駅も町外れの海のそばに位置している。バスで繁華街を抜けて米軍基地正門前(バス停の通称は「ベース前」といった)を過ぎると,いまは大規模スーパーがそびえている場所に,かつては造船所のガントリー・クレーンが電車の骨組みのような形の威容を見せていた。次いで右手に海が見えてくると間もなく横須賀駅に着く。

 子供のころは,横須賀線で,伯母2人といとこたちの住む鎌倉へよく出かけた。私が小学校の低学年だった1950年代の後半は,昼間の運転間隔が30分ぐらい開くこともあったように思う。「ただいまより,川崎停車の東京行きの改札を始めます」と声がかかるまで,改札の右脇にある木のベンチで待っていたのである。(戦後,ごく一部の横須賀線・東海道線電車が川崎に止まるようになった。全部が止まるようになったのは1960年である。今日の百万都市川崎の華麗な姿からは想像もできないが。)

 杉崎行恭『日本の駅舎』には,駅舎100選の中に,横須賀駅も取りあげられている。確かに風格のある建物だが,がらんとしていて薄暗い感じがした。今は外壁を塗りなおし,中にはコンビニもできて,ずいぶん明るくなったが,周りに何もないせいか,なお若干のわびしさを感じさせる。
 横須賀駅は,「階段のない駅」として,一部では有名である。1989年の横須賀線100周年の記念スタンプにも,このキャッチフレーズが入っていた。横須賀までは複線だが,その先,久里浜方向は単線になるので,線路のうちの1本は行き止まりの頭端式ホームになっている。横須賀線を通学に使っていた中学の最後の半年と高校のころ,階段がないのを幸い,よく駆け込み乗車をした。電車通学の私立小学校の女の子が走ってきたが間に合わなくて泣き出してしまい,車掌さんがあわてて車掌室経由で乗せてから発車したこともあった。

 いつかも鉄道フォーラムのどこかの会議室で話題になったように,2番線は行止り,3番線は久里浜方向に直通し,1番線はない。順序からいえば2番線の向かい側に1番線があったのだろうが,設備かなにかを収めてあるらしい建物があって,ホーム跡らしきものはわずかな石積みのみである。私が幼いころ,すでにそういう状態だったように思う。
 反対の3番線の向こうには,貨物の線路が広がり,その向こうにも貨物の作業に使うホームのようなものがあった。

 2 海軍

 東海道線を行く「鉄道唱歌」は,途中横須賀線にも立ち寄る。支線としては最も詳しい扱いである。鎌倉でかなりゆっくり遊んだ後,10番では

汽車より逗子をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大を

と横須賀にやってくる(鉄道唱歌が発表された1900年当時,途中駅は鎌倉,逗子のみだった)。
 今も横須賀駅の前は岸壁で,米軍や自衛隊の艦船の姿が見られる。駅を出て海に向かって左手の方へ行くと,例の「なだしお」の所属している潜水艦指令部がある。右手は臨海公園で,幕末に横須賀に軍港を開いた小栗上野介(こうづけのすけ)とフランス人技師ウェルニーの胸像が建っている。かつて原子力潜水艦寄港反対の集会が開かれていたところである。
 たぶん戦争の少し前から,横須賀駅の海側には塀が作られて,もはや「わが軍艦の壮大」を一般人が見ることはできなかった。電車の中でも,横須賀・田浦間では,海側の窓のよろい戸を下さなくてはならなかったそうだ。

 横須賀線が明治のかなり早い時期(1889年)に開通したのも,その後,常に鉄道の先進的な技術や新しい車両が投入されてきたのも,ひとえに横須賀鎮守府(ちんじゅふ:海軍の首都防衛本部というところか)と海軍工廠(こうしょう:軍用艦船の造船・修理所)の存在によるものだった。戦前ずっと,2等車の客のかなりの部分は海軍の将校だった。戦時中,横須賀線の2等車はいったん廃止になったものの,海軍の要請ですぐ復活したという。
 海軍の基地は,戦後そのまま米軍基地となった(後に,一部は自衛隊が使用)。 戦時中,米軍は,日本占領のときには横須賀を基地にすることを予定して,横須賀への空襲はほとんど行わなずに「温存」しておいたのである。横須賀線にも多くの米軍関係者が乗るようになった。白い帯の進駐軍専用電車が走ったこともあるという。私の記憶でも,少なくとも昭和30年代までは,米兵は金持ちで,いつも2等車というイメージがあった。

 戦後50年,冷戦は終わったものの,米軍基地は返還されそうにない。しかし,地元の経済や市民生活と基地とのかかわりは,終戦から十数年間とは比較にならないほど小さいものになった。かつて米軍兵士相手の歓楽街だった「ドブ板通り」も,今はほとんど普通の街になった。
 米軍基地では,始業や終業のサイレンが,朝8時,昼0時と0時45分,夕方4時45分に鳴り,町中に聞こえていたが,今はどうなのだろうか。

 海軍といえば,大正時代には,芥川龍之介や内田百*間も海軍機関学校の教官として横須賀線の客となった。芥川は当初横須賀に下宿し,次いで鎌倉に住んで横須賀線で通った。当時の2等車の様子が,短編「蜜柑」に描かれている。
 鉄道作家の元祖として有名な内田百*間は,芥川の推薦で海軍機関学校のドイツ語の教官となり,5年間にわたって,週1回,東京の小石川から通った。東京駅7時の汽車に乗り,8時42分ごろに横須賀着,すぐ人力車に乗って,9時から授業をしたという (「乗り遅れ」による)。
 ちなみに,これはずっと後になって知ったことだが,私の通った小学校は,この海軍機関学校の場所に開設されたもので,古い建物は海軍時代以来のものだった。

 3 衣笠・久里浜

 横須賀から先,久里浜までは単線で,1944年に開通した。戦時中に新線建設が行われたのは,もちろん軍のためである。レールは「単線化」された御殿場線のものが使用されたという。丹那トンネルの開通によって御殿場線が支線となってから10年後のことである。(京浜急行の堀ノ内・京急久里浜の開通も,同様に戦時中のことである。)
 横須賀と衣笠の間に,2084メートルの横須賀トンネルがある。これだけでもかなりの難工事だったに違いない。

 私のところからは,衣笠へはバス,久里浜へは京急の方が便利だったから,衣笠や久里浜で乗り降りしたのは,たぶん,それぞれ片手で数えられる回数しかない。
 久里浜駅で思い出すのは,高校のとき属していた吹奏楽部で,久里浜少年院を訪れて演奏したことだ。久里浜駅に集合し,少年院の迎えのトラックの荷台に揺られて行ったのである。「久里浜少年院」と大書したトラックに制服の高校生が乗っていたから,当然,道行く人が振り返った。

 4 京浜急行と横須賀線

 横須賀,久里浜から横浜,東京へのルートについて,京浜急行と横須賀線は競合関係にある。とはいうものの,東京湾沿いに北へ向かう京急に比べて,横須賀線は鎌倉,大船経由なので距離が長く,スピード,フリークェンシー,運賃など,どれをとっても京急のリードは揺るがない。
 しかし,私の幼いころの京急は,都心乗り入れのはるか前のことで,特急もまだ十分に整備されてはいなかったし,運賃も特に安いわけではなかった。そのため,横浜へ行くときは京急を比較的よく利用したが,新橋・東京,またはそれより北に行くときは横須賀線に乗る方が普通だった。私の父は,横須賀線で新橋までの定期を持っていて,毎日ではないが通っていた。それが京急の定期に切り替えたのは1962年ごろだっただろうか。死者161名を出した1963年11月の横須賀線鶴見事故のとき,父が「あのくらいの時間の横須賀線にはよく乗ったものだ。あぶなかったなあ」と言っていたのを思い出す。

 両者の線路が平行している横浜・品川間では,これよりずっと激しい競争を繰り広げてきた。この区間では,スピードの点では,途中川崎にしか止まらない横須賀線が長年リードしてきた。1968年になって,京急が快速特急(途中,京急川崎にのみ停車)を走らせてようやく対等に戦えるようになり,また都営地下鉄経由で都心直通を実現した。
 横須賀線は逆に,1980年の東海道線との分離によって,新川崎経由の遠回りのルートを通るようになった。

 横須賀線と京急本線は,横須賀で2回クロスする。1回は東逗子・田浦間で,切り通しのような谷を直線で走る横須賀線の上を,京急がほぼ直角に渡っていく。このあたりは,春は梅や桜が咲き,東京より一足早い春を見せてくれる。もう1回は,地図の上でしかわからないが,横須賀・衣笠間のトンネルの中である。さらにもう1回出会う直前で,終点久里浜駅となる。
 あとは,東逗子・逗子間で,京急逗子線と交差する。この近くには逗子の車両基地から京急への渡り線があり,京急金沢文庫にある東急車両製造の工場への出入りに使われる。標準軌の京急は,この区間,3線になっている。

 こうした次第で,京急と横須賀線は,横浜以南では接続駅を持たない。高校のころ,京急の安浦以南の友人たちは,京急の汐入から10分ほど歩いて横須賀駅に行く者が多かった。汐入付近の山を崩して接続駅を作るという構想もあるようだが,実現性はあるのだろうか。

 5 田浦・東逗子・逗子

 横須賀からの上りは,トンネルを4つくぐって田浦に着く。このあたりのトンネルは新旧さまざまでどれも個性があり,トンネル博物館の様相を呈している。
 田浦駅のホームは両側をトンネルにぴったりはさまれていて,11両編成の最後尾の車両はホームからはみ出してトンネルの中に停車し,ドアを開閉しない。赤れんがのトンネルと横須賀線電車の組合わせはなかなか絵になる光景で,『鉄道ピクトリアル』の横須賀線特集(88年)の表紙と,JTB時刻表の94年12月号の表紙は,ともにトンネルを出て田浦駅に入ってきた電車の写真である。
 昔風の駅の風格を伝える田浦駅は,横須賀線開通から15年後に,おそらくは海軍の要請で設置された。いまは,乗降客が横須賀線でもっとも少ない駅となった。この駅も私は数えるほどしか乗り降りしたことがない。

 田浦からトンネルを2つくぐって小さなサミットを越えると,右手奥に池子の森に続く緑が見え,ほどなく東逗子に到着する。もとの沼間(ぬまま)信号所の場所に戦後1952年に作られた駅で,西大井および新川崎,東戸塚に次いで新しい駅ということになる。これも地味な駅ではあるが,こちらは周囲の宅地化がずいぶん進んだ。ここからは鷹取山などへのハイキングにたびたび出かけたことがある。
 京急逗子線の下をくぐると逗子の車両基地が広がる。右側には,米軍池子弾薬庫へ通ずる貨物側線がある。間もなく逗子,1980年以来,久里浜からの電車は大部分が逗子止まりで,乗換えとなる。
 駅前からは,葉山や横須賀の西側,三崎方面へのバスが多数出ているが,夏は渋滞が激しい。京急の新逗子駅までは徒歩5分ぐらいである。

 昭和の初めごろ,横須賀線の1等車で横浜や東京に通っているうちに自然に顔なじみになった人たちによる「汽車会」というグループの新年会が,毎年葉山の老舗割烹旅館「日影茶屋」で開かれていたという。私の小学校のときの同級生にその日影茶屋の社長の息子がいた。彼は父親を早く亡くすなどして苦労したようだが,後にアメリカ人のタレントと結婚して話題をまき,自分が社長になってからは,フランス料理の店「ラ・マーレ・ド茶屋」を各地に開くなど,手広く活躍している。
 葉山に御用邸があったので,昔はお召し列車がたびたび逗子にやってきた。1926年暮,大正天皇が死去したのも葉山でだった。このとき,柩は,日影茶屋の前を通って,新しく砂をまいた道を逗子駅まで運ばれ,逗子からはお召し霊柩列車に乗せられて原宿へ向かった。

 6 車両

 1925年に電化された横須賀線は,最初は電気機関車だったが,1930年からは電車で運転されるようになった。国鉄の最初の中距離電車だった。最初のころは故障が多く,補助の電気機関車がついて運転されることもあったという。

 クリームと紺色のいわゆるスカ線色の電車が登場したのは,戦後の混乱がようやく治まってきた1949年で,以後50年代から60年代にかけて横須賀線の顔となったのは,正面が流線型で2枚窓の湘南型の70系だった。70系は,スマートな横須賀線というイメージを作るのに大いに貢献した。私の小学生のころの記憶にある横須賀線もこの車両である。
 その後の主役となる113系は1964年から投入された。ちょうどそのころ通学に横須賀線を使い始めた私は,新型車両の車内の目が覚めるような明るさに驚いた。外観は少し角張った形になり,70系のスカ線色よりだいぶ明るい色になった。友人との会話で,今日は新車だとかそうでないとかいうことが話題になった。

 横須賀線と京浜急行の車両は,対照的な色をしている。しかも,どちらも緑の中で鮮やかである。この美しい色の車両が,私の鉄道への興味を育てたのかもしれない。

 しかし,いま横須賀線に増えてきているステンレス車は,スカ線色の帯を巻いてはいるものの,これまでの美しさはない。特に,ロングシートだったりすると,本当にがっかりする。

 7 鎌倉・北鎌倉

 横須賀が,戦後の軍の解体,京急の成長と共に,横須賀線の中における地位を低下させていったのに引きかえ,鎌倉の重要性は増す一方である。それは,1980年に運転系統が逗子でほぼ分断されて逗子・久里浜間がローカル線化したために,ますます顕著になった。

 鎌倉は海以外の三方を山に囲まれた天然の要塞で,どこかの切り通しを越えないと入ることができない。逗子を出た横須賀線の上り電車は,名越(なごえ)の切り通しの下をトンネルで抜ける。トンネルを出て山が遠のくと,左右に寺の屋根がちらほら見え,向こうに海がかすかにきらめき,間もなく右に大きくカーブして,由比が浜から八幡宮へ至る若宮大路をガードで越える。ああ鎌倉だなという感慨のわく一瞬である。左下に江ノ島電鉄の線路を見下ろしながら鎌倉駅に着く。

 今の駅舎が完成したのは1984年で,1914年以来使われた前の駅舎の面影を残して新築された。改築前の鎌倉駅は,今よりずっとこじんまりした駅だった。皆のんびりしていたと見えて,鎌倉に住んでいる私の伯母など駅の反対側へ行くときには,自由通路を回るのを嫌って,顔見知りの駅員さんに「ちょっとあちらへ」と言って改札を通るのだった。
 先に触れたように,鎌倉へは小さいころからたびたび行った。たぶん1955年ごろだと思うが,鎌倉で人力車に乗ったことがある。母の友人宅を母と訪ねての帰り,どしゃぶりの雨になって,電話で人力車を呼んでくれたのである。今思えば,明治以来活躍してきた人力車の最後の姿だった。

 鎌倉から北鎌倉へ行く途中には扇ケ谷トンネルがある。その手前,左手の道路際の崖に洞窟があり,入口に赤い鳥居が見える。鎌倉時代の紀行文学『十六夜(いざよい)日記』の著者,阿仏尼(あぶつに)(藤原為家の妻)の墓である。

 北鎌倉駅の直前で,線路は円覚寺の境内の高い杉の木立を横切る。これもかつての軍の力によるものである。しかしそのおかげで,車窓からも深々とした緑を見ることができる。下り電車に乗ってきたとき,大都会を抜け出してやれやれという感じがするのも,緑に包まれたこの北鎌倉の駅である。ここは山にはさまれたところで,確かに線路を引く場所に苦労しそうではある。
 北鎌倉のホームは狭く,改札口はいちばん鎌倉寄りにある。明月院のあじさいが咲く6月の日曜日など,下りの後ろの方で降りた乗客が駅を出終らないうちに次の電車が到着することもあった。

 私が高校生のころ活躍していた同世代の女優・内藤洋子は,鎌倉に自宅があり,北鎌倉の女子高に通っていた。もちろん,毎日きちんと通っているはずもなく,また隣の大船へ通う私の通学とは時間帯が少し違っていたので,なかなかその姿を拝むことはできなかった。学校ではしばしば,「今日は(内藤洋子に)会った」「1mの距離まで近寄った」などという情報が交換された。これは,鎌倉・横須賀方向から通う者の特権だった。私が実際に彼女を見たのはほんの数回に過ぎなかったが,みな同じ制服を着ている中で,彼女はさすがに目立って美しかった。

 8 東海道線との分離運転

 横須賀線は,長年東京駅に発着し,横須賀(または久里浜)まで直通で走ってきた。線路名称の上では横須賀線は大船・久里浜間であるといっても,普通の利用者には,横須賀線が東海道本線の支線であるという意識はまったくなかったといってよいだろう。保土ヶ谷・戸塚のように,戸籍上は東海道線だが止まるのは横須賀線のみという駅さえあったのである。しかし,実際には横須賀線と東海道本線は同じ線路の上を走っていた。特に新幹線開通前には東海道の長距離列車もたくさんあって,神業のようなダイヤが組まれていた。

 長年の懸案だった線路の分離が実現したのは,1980年10月のことだった。大船から鶴見付近まではそれまでの東海道貨物線を改良し,鶴見からは東海道線と別れて品鶴貨物線を経由したあと,品川で再び出会い,次いで地下の新線に入って東京駅で総武快速線と直通するルートをとるようになった。横須賀線の歴史上最大の変化といってよいだろう。このとき東戸塚・新川崎の駅が開業し,戸塚には方向別のホームが設けられて東海道線電車も停車するようになった。
 子供のころ,横須賀線に乗ると,今の東戸塚あたりで上り電車の左手下に見え隠れする貨物線は,ちょっと気になる存在だった。本線よりトンネルが長く,ちらりと見えるレンガのトンネル入口がいわくありげだった。やがてそこを横須賀線が走ることになろうとは思わなかった。

 80年のこの分離は,横須賀線の乗客の間での評判は決してよくなかった。川崎に止まらない上に,遠回りのため5分余分に時間がかかるようになったのである。総武線直通になっため,東京駅から座れないし,その東京駅は地下の深いところにあって,他線への乗り換えが不便である。
 横須賀や東逗子からの利用者にとっては,運転系統が逗子で分断されてほとんどの場合逗子での乗り換えが必要になった。このことが事前に公表されたとき,横須賀市の議員などが国鉄へダイヤ再検討の申し入れをしたこともあったように思う(しかし,京急利用者の多い横須賀ではそれ以上のことはなく,横須賀からの直通電車が若干増えたに留まった)。
 横須賀線の電車に掲げられた木更津・君津・上総一宮などという行き先表示を実際に見て,私も正直なところ,横須賀線がまるで違うものになったことを感じた。「古きよき時代」だったかどうかはともかくとして,ひとつの時代が終わったのだった。

 そんな感慨を吹き飛ばすように,その後「新・横須賀線」は,たくましく歩み続けてきた。スピードアップも行われ,「遠回り」による5分の差は,西大井駅の追加にもかかわらずだいたい1,2分に縮まった(朝ラッシュ時)。いち早く2階建てグリーン車が投入されたし,成田空港への直通という新しい魅力も加わった。

 9 大船

 山あいの北鎌倉を出て少し周囲が広くなったところで,湘南モノレールをくぐり,大船駅の直前で東海道本線の線路の一部を乗り越える。ここでは,JRの大船工場へ向かう複雑な線路を上から見ることができる。昔はX字形に交差する線路もあった。
 名称の上での横須賀線の起点大船駅は,もともと横須賀線を分岐させるために作られた駅で,その敷地は鎌倉市と横浜市にまたがっている。

 私は,中学3年の後半と高校の3年間,横須賀から大船まで通っていた。私の卒業後,1970年に湘南モノレールが開通し,1973年には根岸線が開通してホームが増えた。根岸線が開通したときには,あの青い電車が見慣れた大船駅に来ているのを見て,実に不思議な感じがした。
 その後駅舎も改築されて見違えるように立派になったが,西口・東口とも十分な駅前広場を作るスペースがないのは相変わらずである。

 大船のシンボルは,西口の丘の上にそびえる大船観音である。ただし,もともと肩から上しかない。その形から,「親指観音」という愛称もある。親指の爪のところか顔になるわけである。建てはじめたのは戦前だったが,戦争が始まると中断され,敵機が空襲に飛来するときの目標になるからと完全に壊そうとしているうちに終戦になった。戦後,ずっとコンクリートのかたまりのような状態で放置されていたが,1960年に白い優美な姿で完成をみた。
 私が高校のときだったか,地方からやってきたらしい父子と乗り合わせた。そのお父さん,窓から大船観音が見えると子供に向かって「あれが有名な鎌倉の大仏様だよ」と教えているのである。父親の権威を傷つけるのは申しわけなかったけれど,遠慮がちに横から口を出して,あれは観音様であること,大仏は鎌倉から江ノ電かバスで行くところにあって電車からは見えないこと,などを説明したのであった。

              * * * * *                

 東京に住んで20年以上になり,このところ,横須賀の実家に帰るときはたいてい京浜急行,荷物のあるときは車で,という状態が続いている。
 私にとって,横須賀線はだんだん「鎌倉線」になった。横須賀線に乗るのは,鎌倉の美術館へ行くため,ということが多い。鎌倉では,いつもごった返している小町通りを避けて,西口側から横須賀線沿いに英勝寺の前を通っていく道が気に入っている。
 時間のあるときは,北鎌倉から歩く。建長寺入口近くの踏切りの手前から見上げる電車は,なかなかの迫力である。反対側の奥には苔むした庭が美しい浄智寺がひっそりとたたずんでいる。

 もうすぐ早春,鎌倉はいちばん美しい季節を迎える。そろそろ瑞泉寺の梅もふくらむだろう。来週は横須賀線に乗ってみよう。

 [参考文献]
横須賀線百年出版委員会(編)『横須賀線百年』(神奈川新聞社/かなしん出版,1990)
長谷川弘和,吉川文夫『かながわの鉄道』(神奈川合同出版,1978)
『日本鉄道名所 3 首都圏各線』(小学館,1987)
『JR・私鉄全線各駅停車 4 関東700駅』(小学館,1993)
『鉄道唱歌』(野ばら社,1992)
猪口信「横須賀線ものがたり」(『鉄道ファン』1977年2月号,交友社)
<特集> 横須賀線(『鉄道ピクトリアル』,1988年11月号,鉄道図書刊行会)
杉崎行恭『日本の駅舎』(日本交通公社,1994)
内田百*間『出船の記』(福武文庫,1993)
根本誠二「さまざまな観音像」(『しにか』1994年10月号,大修館書店)
三角しづ(語り),福山棟一(聞き書き)『日影茶屋物語』(かまくら春秋社,1991)
 
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(2002年3月9日形式変更)