岐阜県根尾谷の淡墨桜は,ここ数年の懸案だった。今年も,インターネットでときどき開花情報を見ていたら,4月4日ごろに咲き始めのマークが出た。6日にはもう六分咲きだ聞いて急に落ち着かなくなり,週末の10日に行く予定を立てたが,週間天気予報によると,天気がよいのは8日と9日しかない。思い切って8日に出かけることにした。
6:56 の「のぞみ」で東京駅を出発した。当然のことながら,いかにもビジネスマンという感じの背広姿の人が大部分である。しかし,どうも車内の雰囲気がいつもとちょっと違う。もしやと思ってあらためて時刻表を見たら,「700系のぞみ」という注があった。
外は抜けるような青空である。実際には次の「ひかり」でも樽見鉄道の同じ列車に間に合うのだが,この季節,樽見鉄道は混むだろうから早めに着いたほうがよかろうと思って,大垣で30分の余裕がある「のぞみ」にした。結果としては,これは正解だった。
8:32 名古屋着。日差しは春だが,風はけっこう冷たい。8:39 の東海道線快速米原行きに乗り継ぐ。高架から見下ろす沿線は,ビルの間の桜がどこも満開だった。尾張一宮では「ワイドビューひだ」の通過待ちがあった。穂積を過ぎてふと右下を見ると,樽見鉄道の青い客車がカーブして東海道線から離れていくところだった。9:08 発の列車だろう。
9:15 大垣着。いったん改札の外へ出てみたら,樽見鉄道の机が出ていて,おばさん2人が樽見行きの切符を売っていた。
樽見鉄道は1日から20日まで「桜ダイヤ」の期間中である。JRと共用の改札口を入って,5番線ホームの先,切り欠きで作った6番線に,2両のロングシートの列車がすでに入線していた。発車10分前には座席がうまり,まもなく通路も立っている人でいっぱいになった。
9:46 発。2両だが,貫通路はなく,通り抜けはできない。「ワンマン」という表示になっているが,後ろの車両には車掌がいるらしく,いろいろなアナウンスがある。列車はしばらく東海道線と並行して名古屋方向に戻るように走り,やがてJRと分かれ始めたところに東大垣駅があった。交換駅の東大垣を出ると,「まもなく揖斐川を渡ります」というアナウンスがあり,鉄橋を渡り終えて左へ大きくカーブして北へ向かう。
立ち客が多いので向こう側はなにも見えないが,座っている身としてはぜいたくはいえない。北方真桑(きたがたまくわ)で上りと交換した。本巣でも交換があり,運転士と車掌が交代した。反対側を,けっこう長い貨物列車が通っていった。
根尾川沿いに桜と菜の花があちこちに咲いていて,明るい田園風景が広がっている。沿線だけでなく,木知原(こちぼら),谷汲口(たにぐみぐち),神海(こうみ)などの駅も桜に囲まれていた。谷汲山華厳寺へ行くバスが出る谷汲口でかなり下車客があって,向こう側が見えるようになった。谷汲口では,あせたあずき色の古い車両が桜に囲まれるようにして留置されていて,思わぬ華やかな衣装を着せられてとまどっているかのようだった。
JR時代の終点だった神海で最後の交換があり,次の鍋原(なべら)から本格的に山の中へ入って,トンネルと鉄橋が連続する。根尾側の水は緑がかった青で美しい。日当(ひなた)到着のときには「この駅は険しい上り勾配の途中にあります」という説明があった。
「断層公園」のある水鳥(みどり)を出て,トンネルをくぐり,10:50 終点樽見に到着した。
さっそく,案内の矢印に従って淡墨桜を目指す。坂を登り,みやげ物屋の間を抜けると,そこが淡墨桜を囲んで作られた公園だった。ほとんど白に近い花が,のたうち回っているかのような枝に咲いている。複雑な形の幹にはたくさん添え木があてられている。少し昔の文章を読むと,この桜は妖艶な感じだったというが,今日は明るい陽光のもと,むしろさっぱりとした感じに見える。
去年,小田原の長興山の,同じように孤高のしだれ桜を見た。これを見ないでこの淡墨桜を見たのだったら,もっと感激したのだろうなと思った。
桜の向かい側にはみやげ物屋が立ち並んでいて,淡墨とうふ,淡墨まんじゅう,淡墨だんごなど,淡墨ブランドのオンパレードである。この桜をつとに紹介した宇野千代にちなむ「グッズ」もある。桜果汁入り「桜アンバー」という大垣の地ビール(正確には発泡酒)を見つけて飲んでみた。フルーティでさわやかな味でだが,アルコールは6%以上ある。
なお,駅のポスターも含めて,地元では文字はすべて「淡墨」で統一されている。インターネットで検索したときいまひとつヒットが少なかったのは,「薄墨」で検索したせいかもしれない。
滞在40分ほどで駅に向かって引き返す。少し落ち着いた雰囲気のところで昼食をと思い,駅近くの旅館のレストランに入ったら,「昼は2500円のお弁当だけなんですが」という。しかしまあ,たまにはそういうのもよかろうということにして座り,先ほどと同じメーカーの発泡酒「柿ラガー」を飲む。柿のほのかな甘みがなかなか効いている。亭主らしき人に聞いたら,もう一種類マタタビのビールがあり,それには「ボクが採ってきたマタタビが入っているんですよ」とのこと。
柿ラガーのあと,その名も「淡墨桜」という地酒を飲んでいるうちに,弁当が出てきた。コイとこんにゃくの刺身,アマゴの開き,ニジマスの甘煮,山菜と菜の花の和え物,柚子の皮をクルミとみそで煮込んだ「ゆべし」など,すべて山の幸の立派なものだった。
当初,大垣まで戻ってから,名鉄の揖斐線にでも乗ってみようかと思っていた。しかし,持参の資料を見たら,樽見鉄道の木知原(こちぼら)では,川を挟んで対岸に名鉄谷汲線が走り,赤石駅に近いと書いてあったので,天気もいいし,木知原で下車することにした。
12:50樽見発の列車に乗り,木知原には13:17着。桜と菜の花に囲まれた木知原駅を出てゆく青い列車を見送った。
対岸へ渡る赤い欄干の橋が,だいぶ下流の方に見えている。川沿いの道は,車がけっこう通るものの,快適な散歩道である。樽見鉄道の線路がだんだん登りになり,やがて道路の上を乗り越していく。万代橋という新潟を思わせる名前の橋を渡ると,名鉄の線路が見えた。踏切まで来て,赤石駅はどこだろうときょろきょろしてみたら,すぐ手前の民家のかげのようなところにホームと待合室があった。昼間は上下それぞれ1時間に1本で,次の新岐阜行きは14:26でだいぶ時間がある。その前の14:58の反対方向の電車で2駅先の終点谷汲(たにぐみ)まで行き,折り返すことにする。
やってきた電車は,緑の野によく似合う赤い車両の2両編成,ロングシートで路面電車ムードだが,駅間距離は一人前で,林の中をかなりの勾配で上っていく。着いた終着駅の谷汲はちゃんとした駅舎とバスの発着場があり,そばの公園では桜やモクレンが咲いていた。
折り返しは黒野行きで,14:18 発,座席はおばあさんたちでいっぱいだった。窓の方を向いて正座しているおばあさんが一人いた。赤石駅の手前では,対岸に,樽見鉄道の青い客車5両を赤いディーゼル機が引いていくのが見えた。川に沿って両側に鉄道があるのはライン川が有名だが,日本ではほかにどこかあるのだろうか。
ジャンクションの黒野で,揖斐線の新岐阜行き「急行」に乗り換える。丸窓のある2両編成で,やはり路面電車風だが,クロスシートである。かなりの立ち客がいる。細い鉄橋で川を渡ってまもなくの駅でやっと座れたと思ったら,とたんにうとうとしてしまい,気がつくともう岐阜市内線を走っていた。15:25 ごろ,新岐阜着。
せっかくなのでその後も名鉄に敬意を表して,15:41 の特急に乗る。路面電車から特急へ,同じ名鉄の両極端を経験したことになる。