埒外なナイトライフ

なーぃとらいふ、おおおなーぃとらいふ。
滅多に夜遊びしないもんだから、たまにした日にゃそれはもう。


1999.3.14 フレンチのささやかな愉しみ

先日、実に久し振りにフレンチを食べに行ったのである。子供が実家で聞き分けよく留守番していてくれるようになるまでには、予想以上の紆余曲折があった。この日が来るのを、どれほど待ち焦がれたことだろう。

こんなことを書いておいて何だが、私は別にグルメという訳ではない。食べ歩いて店の評価を客観的に云々するような知識は、まるでない。ただ、食べる のは好きである。食べるのが好きな人であれば、フランス料理を味わっている時間はとても愉しいものに違いない。(ただ、店の選択を誤ると大変である。これ は後述。)

グルメではない私たちなので、食べに行く店は1つしかない。偶々、以前住んでいたところの近くで見つけたのである。自転車で買い物に出た帰り、それ はふと目に飛び込んできた。ちょっと横道に入ったところにある、白熱灯に照らされた渋い看板。店の窓を隠すように巡らされた垣根と、控え目な電飾。何とな く、「これは我々夫婦の新しい娯楽の一つとなる」と直感した。そんな保証などどこにもないのに(笑)。

ただ、そうした外観すべてにこまやかな気配りが行き届いており、なおかつその趣味がキンキラでもファンシーでもなく、シックな佇まいだったことに心 を惹かれた。初めて足を運んだ日は、丁度開店○周年記念期間中で、グラスワインを何杯も振舞ってくれた。それだけでも初めての客たる私には嬉しかったが、 そのワイン選びの目が確かなこと、料理に間違いがなくしかも創意があることは予想以上であり、驚きだった。また、客をくつろがせようという姿勢に徹した サービス陣は、プロのサービスとはこういうものなのか、と感嘆させるものだった。

それまで、フレンチのコース料理など結婚式でしか食べたことのなかった私たちが、たまの記念日の度にこの店に足を運ぶようになった。

そうやって気がついたというか、知ったのだが、フレンチの大きな愉しみの一つは、ゆったりとした時間そのものにあるのだ。食前酒から始めて全ての皿 が終了するまで、デザート前のオプションのチーズを取ると軽く3時間にはなる。その時間を愉しむということはつまり、会話を愉しむということに他ならな い。いつもの家事でバタバタしながら、或いは片付けのはかどらない部屋で窮屈そうにしながらの会話ではない、ちょっと日常の自分たちを一歩離れたところか ら見ての会話は、疲れてへなへなと座り込みそうな気持ちをリフレッシュし、また歩き出す元気を取り戻させてくれるような気がする。

そういう時間を愉しみ、絶対に自分たちでは用意できないような創意と技巧の盛り込まれた料理を頂く。ゴルフやら麻雀に月々何万円かを注ぎ込む人がいることを思えば、年に2、3回程度のフランス料理など、大した贅沢ではないように思えるのだ。

*

ところで最後に、注意書きを一つ。ここでの事例は、偶々見かけた店が良質だったという、運の良いケースに過ぎない。私たちが初めてその店を訪ねたと きも、これで値段なりのことがなければ、それは捨て金と割り切るつもりではあった。だから、この方法はあまりお勧めできない。かといって、よく売られてい るガイドブックの殆どは、面の割れた審査員が採点しているので、一般人の私たちが行っても同等の対応を受けられないで不快な思いをさせられる可能性があ り、非常にリスキーである。

ところが嬉しいことに、ガイドブックのこうした問題点に不満を持つ一般の自腹族の人たちが、自前でウェブサイトを立ち上げて、独自のランキングをつ ける試みを展開しているのである。ここの方が名の通ったガイドよりずっと信頼できることは、サイトを訪ねて頂ければ一目瞭然。新たにフランス料理を試して みたい方は、是非ここをご覧になることをお勧めする。
ジバラン http://www.jibaran.com/


1999.1.27 ニューハーフダンサーのショーを見てきた 〜新宿「黒鳥の湖」

勤め先の新年会の催しで、「黒鳥の湖」というショーパブに行ったのである。はとバスの有名な「夜の東京コース」である。ニューハーフダンサーのショーを見るのは、4年ほど前に納涼会で六本木にある「金魚」に行って以来、2度目になる。

ご存知ない方のために説明すると、「金魚」は比較的新しい店で、ステージの仕掛けも大掛かり。一方の「黒鳥の湖」は老舗と言われる新宿・歌舞伎町の 店で、狭いかわりに客席通路などを効果的に使い、ハリセンかますなどして観客との一体感を盛り上げる。そしていずれも、芝居仕立てのダンスショーである。 ダンサーはよく訓練されていて、よく息切れしないなぁと思わせるほど激しく動き回る。別にエロティックな表現に満ちている訳ではないし、ニューハーフかど うかというのは、ショー自体を楽しむ上では殆ど意識しないくらい、完成度は高い。

興味深かったのは、彼らの動きや表情が、何と言うか、どんな女性よりも「女性らしい」のだ。世の中で「女性的なもの」として流通している記号に溢れ ていると言ってもいい。ここで、観る側は彼らが生物学的には「男」である(性転換手術をした人も一応そういうことにしておきます)という事実を知っている ので、奇妙な感覚に襲われることになる。それは、女性の典型的な属性と思われているこれらのしぐさ、表情、身なりそして容姿は、まるっきり後天的、社会的 に形成されたものだということが、そこで具体的に示されているためだ。

こうした感じは、今回見た「黒鳥」も以前見た「金魚」も変わらなかった。ただ、「金魚」を見た頃には、男にまつわる属性が耐えられないからといっ て、それとポジ-ネガの関係にある女の属性の典型を身にまとう、ってのは何かちがうな...などと、今から考えると随分失礼なことを思っていたのだが、今 はもっと素直に見られた。ああ、生物学的に女である人の大部分よりも、この人たちのほうが「女」というステレオタイプに肌が合うんだなあ、と。それでこう やってショーやって自分たちの場所を確保しているのだから、これって本当に「ひとつのあり方」だと思うのだ。彼ら(彼女ら、でもいい)からはそういう自信 がひしひしと伝わって来る。

とはいえ、ショーの意匠で一つ、どうしても引っ掛かる点があった。今回見た「黒鳥」では、井上陽水の「少年時代」をBGMに、子供時代の純真さを思 い出すサラリーマンの酔っ払い、というエピソードがあり、この中で主人公が結婚して子供を設けて云々、というシーンがあるのだが、これをニューハーフの人 が演じるってのはどういう感じなんだろう。実は「金魚」でも似たシーンがあったので驚いたのだが。

性の制度を巡る問題は、大きく3つの分野に分けられる。それは「セクシュアリティ」「ジェンダー」「リプロダクション」だが、この3つめ、つまり生物学的な再生産(出産)に関わるところばかりは、生物学的な与件を超えられないのではないか。叶わぬ望み、みたいな。

ん、でも貰いっ子すればいいのか。そうとも言えるなあ。うーん混乱。

ただ、「女になりたい」と「母になりたい」と「子を産みたい」はそれぞれ重複しつつも、別々の求心性を持つ欲求だと思うのだ。そのことが図らずも浮かび上がって来る、そんな気がしたステージであった。

そんな穿った見方をしてて楽しいのか、と訊かれそうですが、そりゃもう楽しかったです、めちゃくちゃ。機会があったら是非行かれることをお薦めします。



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ただおん

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