MICHILYN Webmaster's Review 2 

「起源なき論争」に臨む覚悟が、私達には要るのではないか。
〜大日向雅美著『子育てと出会うとき』
(NHKブックス、1999) を読む (2000.6.26)


1. どんな本?

本書の冒頭のインパクトは強烈です。常識では考えられないような行動をした母親の例が次から次へと出てきます。定期健診に子供を連れていくのを忘れて、のみならず「案内の『持ちもの』に書かないのが悪い」と保健所を責めてしまう母親。講演会を聞きに来て、いかに子連れ可とはいえ、大声で泣き出した赤ん坊をあやしもせずじっと演台を見つめて聞き入る母親。などなど。

確かに彼女らの行動は、一つずつ取ってみれば「非常識」と切って捨てたくもなりそうなものですが、大日向氏は豊富な聞き取り調査や統計データを引きながら、それらの背景に彼女らを追い詰めている一つの支配的な考え方、いわゆる「母性神話」が根強く存在することを指摘します。すなわち「女性にとって子育ては楽しみのはず」という周囲の思い込みが、彼女らの直面する孤独や困難が気づかれにくい状況を作り、それをますます深めてしまっている、というわけです。

本書は基本的には、そうやって悩みや焦りを抱えたまま孤立している、子育て中の主婦たちにターゲットを絞っていますが、主婦以外の人にも多く示唆するものがあると思います。


2. 豊富なデータに基づく合理的な結論としての「母性神話批判」

本書の優れたところは、数多く引用された統計データにあります。いかに「今子育て中の母親でこんなことが起こっています」と言っても、身近にあった2、3の例というのでは、一般的にそう言えるのか偶々そうなのか判別もつきません。しかし大日向氏は自身の調査記録や、更には政府が実施した大規模な調査の数値を援用し、実に説得力のある現状分析を行います。

特に、日本の共働き男性の家事(含む育児)時間が、妻が専業主婦である男性と全く変わらないというデータ(P. 51)は衝撃的です。共働き家庭でさえ、家事育児は女性が一身に背負い、男性は関心も理解も示さないといった状況が蔓延していることが伺えます。

また興味深いのは、大日向氏が母親支援の立場に立っているのは、心情的あるいは感情的な動機よりむしろ、調査データを極力合理的に判断しようとした結果からだと思えることです。本書には時々、大日向氏自身が今どきの母親に対して感覚的について行けない、もっと言えばこれではダメだと思っている様子が顔を出します。特に、完璧主義的子育てへの反動のように「完璧ママじゃなくて何が悪いの」とタガが外れ、子供に手を上げることを肯定的に捉える一部の傾向に対しては、弱い立場の子供へストレスを向けるべきでないと厳しく批判しています。

ですが、総合的に状況を判断すれば、もっと母親たちをサポートすべきだ、というのが大日向氏の持論であり、ある意味彼女は心情的な違和感を抑え込んでこの主張を強く打ち出しているように思えるのです。それは、彼女らへの非難を強調することは結局母性規範の強化につながり、却って状況を袋小路に追い詰めることになるという冷徹な現状認識に基づいた考えであって、彼女自身が働く母親であることから来る立場的同情とは一線を画すものだと言えます。


3. 論点(1) --- 母性神話の解読

では大日向氏は母性神話の解読について、どのように論じているでしょうか。

挙げられている事例は、江戸時代に宿直の下級武士が子連れで泊まり込んだ話や、明治・大正期の村落共同体の子育てど、なかなかバラエティに富んでいます。これらにより、時系列で遡れば、育児が母のものとされること自体がごく最近の発明であることが示されます。

しかし、大日向氏の議論にはいくつか、「脇の甘さ」が見えるのも事実です。

母性が大部分、社会的変数に過ぎないと論証する部分で、バダンテールの『母性という神話』に大きく依拠した議論がなされますが、この部分の説得性にはやや疑問があります。これは、時代と社会による母性の変遷についての唯一の研究ではないはずですし、そういった関連知識なしで読んでも、ここで挙げられている例(18世紀フランスの子育てに関する史料)には異なった読み方がありうるように思えます。つまり、大日向氏自身も触れているとおり、その史料で採り上げられた人々の属した階級や、史料を記した人(おそらく官吏)の視点、更には当時の社会経済状況を考慮する必要がありますし、そのような「子供を大事にしない」子育てについて当事者がどういう意識でいたか、仕方ないと思いつつやっていたのか、あるいは何も思わずただ普通にそうしていたのか、といった点については議論の余地があると思えるのです。

このような史料は、育児における親の「役割分担」が社会的変数であることは十分示せても、「母性概念」や「母性規範」の変遷にまで踏み込むためには、より精緻な議論が求められると思います。


4. 論点(2) --- 男女共同参画社会に関する議論

また本書には、女性が社会に出て働きたいというのが「当たり前」になった時代であるという主張、たとえば「女性も男性と同等の教育を受け、その結果として社会参加を求める意欲も当然高まっている今日では...」(P. 45)といった表現が繰り返し表れるのですが、これが非常に気になります。こうした物言いは、男女役割固定論に対しての有効な議論となりうるのでしょうか。そもそも固定論者の基本的なスタンスは、戦後民主主義教育そのものの再点検を視野に入れており、そのポイントは「真の平等とは何か」を考え直す点にあります。つまり、仕事でも家事でも育児でも、何でも男女どちらがやってもいいとする考え方は、男女それぞれが「本来持っている」特性を無視した悪平等なのではないか、平等といのはそういう適性を踏まえた上で各々がそれぞれの資質を最大限に発揮できることを言うのではないか、という訳です。

こうした主張に対して反論するにあたって、「今の時代は...」といった言い方はほとんど意味を成さないでしょう。生物学的な起源(といっても大方フィクションだということは論理的に読み込めばわかる話なのですが)に根拠を置く主張に対して、たかだかこの50年ばかりの日本社会の歴史を持ち出しても話になるはずがありません。しかし、大日向氏のみならず、今日表舞台に立ち現れている「フェミニズム的」主張は、無意識的に戦後民主主義の歴史を所与の前提と考えていて、そのこと自体の問い直し、あるいは現時点における読み直しを忘れているように思えるのです。

今、何故母性神話を批判したり、男女の性役割の選択の自由度を高めようとしたりしているのか。その目的は決してそのことの歴史的な必然性の証明などではなく、ごく端的に私達がこれからどう生きていくのか、どう子供たちを育てていくのか、自分たちの生はどうしたらもっと豊かになるのかというビジョンを描くことにあるはずです。そうしたビジョンを描くにあたって、歴史的発展の必然性や生物学的な与件(と思えるもの)に依拠した議論は有益でしょうか。私にはそうは思えないのです。

さまざまな史実や生物学的知見(但し十分な確実性を持った)は、その一つ一つが個別のエピソードとして、人間や人間社会がいかに多様にありえるかの証拠であり、私達が今この時点から社会を形作っていくために必要な想像力を与えてくれるものではあるでしょう。しかしそれ以上であってはならないと思うのです。確かに、個々の史実や史料の正当性を突き詰めることは大事だと思います。歴史認識に関する議論の必要性も否定する訳ではありません。しかし、歴史認識の議論にこだわりすぎることは、結局それぞれの現在の立場の正当性を争うことに議論を矮小化してしまうのではないでしょうか。私は、フェミニズム/ジェンダー研究の大きな流れを、人々がより多様なあり方を求めることによってそれぞれの潜在力を発揮させ、社会の豊かさにつなげていくこと、また、そうした多様性を包み込める社会のあり方の模索だと考えて来ました。しかし、「女性も社会参加を求めるのが当たり前となった世の中」といった言い方や、その対極にある「母性を発揮することが女性本来の資質である」といった物言いは、一つの限定された立場を「歴史的に」あるいは「遺伝子的に」(何度これがフィクションとして多くの人の命まで奪ったか、と思うと背筋が寒くなりますが)正当化することに、最終的には収斂してしまうと思うのです。

大日向氏の議論に足りない点があるとすれば、まさにそこだと思うのです。今この時の、目の前の膨大な現実から、思想を練り上げること。歴史的な(あるいは「進化論的な」)必然性に頼らず、今この時点で私達自身の望むものを、そのために必要な思想を、自前の思考によって編集すること。言っておきながらこれは大それたことだと思いますし、大日向氏らのような、それぞれの分野で十分以上の仕事を果たしておられる方にそれを求めるのは酷であろうとは思います。しかし、このままでは過去と現在におけるそれぞれの立場のの正当化に多くの力が費やされ、未来を築くための議論がおろそかにされるのではないかと懸念します。


5. 「目の前の問題の救済」に注力することのアンビバレンス

最後に別の視点から一つ、付け加えたいと思います。面白かったのは、一見大日向氏とは異なった立場から発言している林道義氏と、結論の一部分で実は接点があるように読めたことです。本書には「夫婦間の絆さえ固く確かなものとされていれば、母親の育児ストレスもさみしさも、その大半は解決されるといっても過言ではないでしょう。」(P. 42) といった、やや性急な結論と思えるフレーズが散見されます。それはもちろん、主なターゲットである主婦にエールを送るために敢えてそういう言い方をしている部分があるのですが、「専業主婦でも、社会のサポート次第で孤立感から救われ、いきいきと子育てできる」という主張自体は、林氏の提唱する「女性のM字型就労」(子供の乳幼児期は休職してその後再就職する)を具体化する際の理論的支えになるとも思えるのです。

大日向氏自身は基本的に、育児も仕事も男女とも参画できる社会を、というスタンスを表明してはいますが、悩める専業ママたちに向けて真っ直ぐに投げかけたメッセージには、上記のような可能性が含まれていることも確かで、実は氏自身この点について相矛盾した意識を抱えたままなのかも知れません。目の前の問題を解決することで、より大きな構造的な課題は温存される、という轍に陥らないように、射程の短い課題と長期的な展望とを上手く有機的に結びつけて議論をしていくことが求められているように思います。

(end of memorandum)


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