埒外なシネマ

たまに観たからってついデカい口を。


1999.10.11『天使にラヴ・ソングを2』(9/17放映)

そう、この映画にはあのローリン・ヒルが生徒役で出演しているのである。そこでの彼女の役どころは、歌手になりたいのだけれど、亡父はそれで人生を 棒に振った、成功したければ勉強しろ、とキャリアウーマンらしい母親に止められ、でもやはり自分には音楽しかないと思って、制止を振り切ってクワイヤに参 加する生徒。したがって、今これを見ることは、そこにヒル自身を重ねる「メタ・シネマ」の楽しみであったりする。

このエピソードは映画の重要な軸の一つだと思われるが、そこに、黒人社会の生活レベル底上げの手段に関する「白人社会同化指向」から「独自性の追求 も含めた多様な指向性」への転換が描かれているとも言える。脇役でアフロセントリズムどっぷりの生徒が出てきて皆にからかわれるが、それもこのプロットを 浮き立たせる仕掛けかも。

それより何より、音楽的に楽しいのがこのシリーズの妙。吹き替えはラップがださくて(笑)、結局音楽のところは英語に切り替えて見ていたが、話し言 葉〜ラップ〜ゴスペルの「地続き感」が味わえてなかなか楽しい。それから、主役が尼僧に身をやつしたショー歌手(ウーピー・ゴールドバーグ)という設定の せいでもあるが、ゴスペルを黒人音楽の一大メルティング・ポットとして、これにR&Bもラップも、あるいはクラシックさえも融合させるような形で 劇中音楽が書かれている。この点には異論もあるのかも知れないが、黒人音楽の様々なフェイズが一望に見渡せる本作は、この方面に縁遠い人にもいい入門にな るのでは。


1999.8.19 『火垂るの墓』で泣いたらアカン(8/6放映)

戦争の悲惨を伝えるアニメというと、必ず出て来るのだが、今回初めて見た。しかしどうもねえ、感心しない。

実は、見ようと思ったのには理由がある。
宮崎駿があるところで、同じジブリ作品の(監督は高畑勲だが)『火垂るの墓』を語気荒く、というか 文字だから本当はどうかわからないんだが、そう思えるような口調で批判していたのだ。確か「あれはウソですよ。海軍将校の子息が飢えるなんてことはありえ ない。必ず優先的に食料とか物資が回って来る。一番先に犠牲になるのは、そうではない、一般の人々なんです。戦争とは、そういうものなんです」みたいなこ とだったと思う(稲葉振一郎『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』(窓社刊)所収のインタビューより、うろ覚え)。

その頃は、宮崎-高畑は結構ソリが合わないらしいという話も知らなかったので、ひどく驚いたものだった。と同時に、宮崎のやけに力の入った正論に深く頷いたものである。

なので、予め「それってそんなにひどいのか」という偏見がある上で、観たことにはなるのだが。

結果は、想像した以上にボロボロであった。

父の出征中に、母を空襲で失った兄妹が二人きりでさまよい、妹が飢えていくという話だが、何でそんな家の子なのに飢えるのかと言えば、身を寄せた親戚の家にいびり出されたからなのだ。それって戦争のせいとちゃうやん。もうそこで全ての前提が崩れてる。

それに、実は貯金とか山ほどあるのに、それをほとんど取り崩さず、盗みを働いたりしている。それってどういうことよ。あるいは、栄養失調の妹を診せ た医者に、注射や薬の一つもなく帰されたというのに、その貯金使ってでかい病院に入れようとも考えない。おまけに妹が飢え死んでもお兄ちゃん、ピンピンし てはる(笑)…まあこれは原作ではなくて脚色のミスかも知れないけど。

百歩譲って、「戦争になると人心が荒んで、その皺寄せの犠牲になるのは子供なのだ」というお話だとしても、とてもそうは読めません。そう読むにはディテール無さすぎ。単にオトナたちや兄の愚かさの犠牲になっただけという話。

また、仮にこれが限りなく実話に近い話だとしたところで(あまりそうは思えないが)、それをこういう形で語ることは、「政治的に」正しくない気がす る。この物語を再生産し続けることは、宮崎駿の言うところの「戦争とはどういうものか」を、単に一般的な悲惨によって置き換え、隠蔽することになるから だ。

その点で一番気分の悪かったシーンが、兄が昔の幸せだったころのことを回想する場面だ。そこでは妹が海水浴してアイスクリーム食べて(戦前だよ、これ)、お母様は高そうな着物着て日傘なんか差して子供たちを眺めているのだ。あるいは桜の木の下で父の出征を送る盛装の一家。

はっきり言って、実際に戦争で苦しんだ一般庶民は、そんな一家の子息があんな境遇に陥ることがあったなんて信じないだろうし、仮にあったとしても何 の同情も感じないだろう。だから何なんだ、こっちはそれどころじゃない苦汁を嘗めてるんだよ、というのが、大方の感想ではなかろうか。

それゆえ、何故高畑監督がこの物語(野坂昭如原作)を素材に選んだのか、よくわからないのだ。彼自身が恵まれた境遇で戦時を過ごしたのか、単に無頓 着なのか。「リアリズム」「やさしさ」あるいは「いいひと」的なイメージのつきまとう高畑作品だが、実はそのやさしさのまなざしはひどく脆弱ではないか、 という気がする。あるがままを受け入れるその視線は、そこにある根深い問題すらもそのまま見過ごし、素通りさせて、ひいては観る者にも同じく見過ごすよ う、仕向けてしまっているように思うのだ。

これ、昨今の大新聞が「不偏不党」を掲げながら、結局単に政府の言い分を垂れ流している、その構造にどこか似てないだろうか。


1999.1.6 『タイタニック』が受けるような世の中は間違っとる!

というのは連れ合いからの受け売りなんですが。でもなあ、何だあの映画は一体。

ところで、私はそもそも映画をほとんど見ない人間である。映像に興味がないとは言わないし、息を呑むような光景を求めない訳でもないが、ともかく映 画に対する貪欲さがこれっぽっちもない。それに、耳目を預けて2時間経って「ハズレ」だったときのリスクを考えると、そういうものに時間を割く勇気が出な い。そんな人間が映画を評したりしていいのか。いや、いいですよね、何たって史上最高の配収をマークした「タイタニック」だもん。

で、タイトルの解題を。要は、この映画は一面では1500人の死者が出る大惨事を描いたパニック映画でもあるのだが、その死の扱いの軽さが耐えられ ないのだ。この超豪華客船の沈没の悲劇は実はほとんど人災だったというのは周知の事実である。ならば、そういう文脈を全部ほったらかしにして描くのはどん なもんか。無念にも人生を半ばで断ち切られる人々の悲劇をまるで書き割りのごとく背景に据えて、主人公たちのロマンスはいやが上にも盛り上がるという寸 法。気分悪い。その上、肝腎のロマンスがあんなに安っちいのでは...。

こういうのを作る人がいつの世もいて、それなりに客がつくのはしょうがない。当然といえば当然。でもこれがあんなに大当たりすると、ちょっと背筋が 寒くなる。何故って、観客のほとんどは主人公二人に思い入れて、あとの死に行く1500人には何の感情移入もしない訳でしょう? 勧善懲悪ドラマで敵役が バッタバッタと倒れるのとは訳が違う。他者の死に対する感受性がそこまで希薄になっているのかと思うと、暗然としてしまう。

余談だが、この映画の音楽がエンヤの「ザ・ケルツ」に似すぎているというのは、誰か指摘してるんだろうか。あの年月の積み重ねを背負った哀感を、こんな映画の安いセンチメンタリズムに流用するなんて、ちょっとひどすぎると思ったぞ。



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ただおん

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