埒外な読書

音楽書以外については、すべてこの辺でくだを巻いてます。


1999.1.15 徳永恂 著「ヴェニスのゲットーにて」みすず書房、1997

以前書いた読書メモをそのまま掲載する。メモなので、まとまりはないが、気になるポイントごとにはなっているはずである。

なお、この本の白眉は、マルクスのテクストを詳細に検討しながら、彼のユダヤ人問題との距離の取り方とその歴史的な帰趨をあぶり出したくだりである。興味のある方はこの部分だけでもご一読をお薦めする。

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紀行文的なロマンチシズムがやや過剰なくらいの出だしからは想像できないほど、示唆のある本。

シモン・ヴィーゼンタールのアメリカ先住民への聴き取り調査プロジェクトが言及され、カトリック布教と二重写しになったユダヤ人の約束の地への旅と しての「新大陸発見」、その図式の背後に置き去りにされているもの、つまり、その対立・矛盾がそのまま持ち込まれた先である「先住民の地」からの視線が、 図らずも浮かび上がって来る。それは最終的には、近年の文化的実践とカウンター・ポリティクスの戦略論としての「想像の共同体」の胚胎する、ある「危う さ」を撃つのではなかろうか。

19世紀前半の無神論に基づくキリスト教・ユダヤ教批判が微妙に分化し、反ユダヤ主義が確立していく過程。その触媒として遠景に仄見える進化論、人類学の影。

Aufhebenとは、19世紀前半の deconstructionであったのだろうか。対立する2項それぞれの内的矛盾から、それぞれの項を無化してしまう手法。にもかかわらず、いつそれが 「より上位の立場に内包され、解消される」という用法に変質したのか?それは「ユダヤ人=遅れた民族」というレッテル貼りの成立や、その背後にある進化論 の影響と無関係ではあるまい。

現代の deconstructionは問題の解消を求めないこと、解体することのみの肯定という面で「前史とは異なる」との主張がなされているが、それ自体が 「前史の終わり」を期待するある種の終末論に規定されていないか? そうでなくとも、ポスト脱構築というべきスタンスには、ジェイムソンの「大文字の歴 史」にしろ、「反=反エセンシャリズム」的な「想像の共同体」実践にしろ、新たな「主体的な構築」への傾向が見て取れるように思う。それが前世紀と同様の 結果に導かれることはないのか。その点についての検証が現時点で十分なされているとは言い難いと思う。

マルクスが「ユダヤ人問題」を特殊問題と位置づけて、より一般的な命題(人間一般の「疎外」からの解放、とでも言おうか)の中へと解消することによ り、そして、マルクス自身がユダヤ人に関して徹底的に無関心であったことにより、単に「ユダヤ人問題」は軽視され、温存され、後の反ユダヤ主義の温床と なったこと。現代に引き付けて例えると、「エコロジー原理主義者」が現実社会の諸問題、特にジェンダー/セクシュアリティ問題や階級問題を過小評価しがち な危険に、どこか共通する点がある。これは「エコロジー原理主義者」が、リベラルを自認する者たちと別に、保守的な層を少なからず含んでいることの理由で もあろう。

気に留めたいフレーズ。「西洋哲学は、全てある意味でプラトンへの注釈である、と言えるだろうが、それとは異なった視点からこれを捉え直したい。」 なるほど、全てはプラトンへの注釈とは、けだし名言。それに対して外からの視線、徳永氏の場合はユダヤからの視線によって別の解釈を与える、という目論 み。それは、思想史研究者としてはすぐれて批評的なスタンスだと言える。ただ、今この時代の世界のなかの日本で生きている、この自分(たち)の、切実な問 題意識にとって、これは不十分と言うしかないだろう。もし、単にプラトンへの注釈としての「正統な」思想の流れを拒むのであれば、それは自分の今いる位置 から発想し、ゼロから厳しく組み立て直すしかないはずだ。決して、ユダヤの視点を借りていればそれで済むというものではない。

困るのは、こういう発想をした隙に、反動的・国家主義的な歴史観が滑り込んで来やすいことだ。日本の場合特にやっかいなのが、この反動的・国家主義 的な歴史観というのが、日本の伝統的な思考方法や生活観・自然観・社会観などに取材にしているのではなくて、あくまでも「西欧列強」に並ぶためのイデオロ ギーとして、既に埃をかぶっていた皇国思想を引っ張り出して捏造したものに過ぎないということだ。それは単に西欧の帝国主義を鏡とした映し絵であり、その 限りにおいて、当の西洋思想の産物以上のものではないのだ。かといって、維新前の江戸期の価値観や思想は、断片的に今に痕跡をとどめているに過ぎない。あ る意味、我々は「思想の焼け跡」から、真にこれからの時代に耐えうる、強固な思想を作り出さねばならない立場にある。「思想など作り出すこと自体ナンセン スだ」という主張も成り立つだろう。しかし、そんなニヒリズムが機能するほど有難い世の中ではない(バブルは終わった!)。高度成長期のような激しさは欲 しくないが、しかし強靭さは必要だろう。自らの空虚と向き合う強靭さ。それをもって、新たな思想を焼け跡にでっち上げる。たとえ掘っ建て小屋であっても、 ちょっとした自負さえあればいい。その際に、ユダヤから見た西洋思想への眼差しが役に立つなら、礼を尽くして借用しよう。そういうスタンスがあってはじめ て、徳永氏の問題意識は、今ここで生きる我々の問題につながるのだと思う。

(End of Memorandum, 98.06.29)



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