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渡辺元嗣インタビュー

以下は廃刊した「ZOOM UP」誌の渡辺元嗣 特集頁に掲載されたものの無断転載である。言うまでもないがインタビュアーはおれではない。まだ「渡辺元嗣」と表記していて、当時、若干30歳。1984年、初の商業長篇「女教師 淫らな放課後」(東映セントラル)でデビューして以来、3年間で13本のピンク映画を監督し、第一次絶頂期を迎えていた頃である──。


ここより転載開始

ぼくはアイドル映画を撮りたいんです。ピンクもアイドル映画のつもりで撮っています。とにかく女の子を可愛く描きたいのだ。 ● ぼくの作品のヒロインは、一部を除くとみんな「未来」なんだけど、その由来は、元キャンディーズの美樹ちゃんなんだ。じつは学生時代、彼女の大ファンで(日芸の)卒業制作の「夏の夜空に未来が見える」のとき「未来」と書いて「ミキ」と呼ぶ名前をヒロインの名前にしたんだよね。それがそのままピンクでは「ミライ」になったってわけ。 ● 「夏の夜空に未来が見える」って作品は「マイ・フェア・レディ」の現代版みたいな内容でね。それがのちのちは「痴漢電車 発車一分前」になるんだ。ついでに言うと、いまだに「夏の夜空〜」を超える作品はないと友だちによく言われるし、自分でもそう思うな。ぼくの原点ともいえる作品ですね。 ※「夏の夜空に未来が見える」は1989年11月に中野武蔵野ホールの渡辺元嗣 特集でレイトショー上映された。 ● 初代の未来は1本目「女教師 淫らな放課後」の山地美貴ね。あのときは未来えらびに難航してね。やっと山地美貴に決まったんだよね。ぼくは彼女のことを暗いイメージで捉えていたんだけど「ファンタジックな映画に出るのは初めて」と言ってね、乗ってくれたし、よくやってくれました。ぼくも現場では「明るくね、明るくね」としか言わなかったな。 ● 二代目が2本目「純情姉妹! チー坊とマーコ」の早坂明記。おもしろい話があるんだ。彼女、ミュージカルを勉強してるって言うんで、歌はうまかろうと思って友だちの女のコに曲を作ってもらい、主題曲を歌わせたんだよね。そしたらスタジオ中がぶっとんじゃった。いやいや、あまりにヘタなんでね。ハハハ……。結局、主題曲は作ったコに歌ってもらうことになっちゃった。いま思えば楽しい想い出さ。 明記は4本目「痴漢電車 発車一分前」でも使って、田舎娘がシティガールになっていくという話をやってもらったんだけど、このときの明記はホントによくがんばってくれたよな。演技的にもバツグンに良かったと思うね。 ● 三代目がいよいよ大滝かつ美になるわけだ。5作目「痴漢電車 いけないこの指」、7作目「ロリータ本番ONANIE」、8作目「痴漢電車 気分は絶頂」と3本の作品の「未来」役だった。かつ美には入れ込んだなァ……。特に7作目、8作目のときはかつ美を可愛く可愛く撮りたかったもんね。ぼく自身も作品的に最も高揚した時期だったなあ。惚れてたのかなァ……やっぱり。撮影が終わっても現場から帰したくなかったもんね……。 10本目の作品のときは、かつ美がピンクをやめるって言うんで引退記念映画にするつもりだったんだ。ところが電話がかかってきて「渡辺さん、ごめんなさい。わたし、愛に生きるわ」だもんね。あの頃からかな、女優に入れ込めないというか、悩む時期が始まったのは。ガックリきちゃってね。失恋? そうかもね……。 ※結局、10作目「痴漢電車 スカートの中」は石上ひさ子主演で撮影された。 ● かつ美以後は、橋本杏子、石上ひさ子、岡田きよみの3人に未来をやってもらって、みんなそれぞれ良くやってくれてんだけど、ぼくの中に迷いがあって今いち乗りきれず、みんなに悪いことしちゃったと思ってる。でも、杏子の未来ではお嬢ちゃんアクションという新ジャンルに挑戦できたし、まだまだこれからですよ。明るく楽しい作品を作り続けます。(1986年、秋)

[プロフィール]1957年(昭和32年)12月2日、東京渋谷にて生。いて座のO型。身長188cmという業界一の大男。好きなもの=アイドル。今は原田知世と南野陽子。目標=アイドル映画を撮りたい。 ● 小学5年のとき、映画監督の偉大さに目覚め、監督志望となる。卒業文集になぜか「映画会社を作りたい」と書く。中1で初めて8ミリを撮る。卒業文集に「日本映画を復興させる監督になる」と書き、大見得を切る。大学はもちろん日大 芸術学部 映画学科 監督コース。 ● 学生時代、獅子プロダクションにバイトに行く。(獅子プロ主宰の)向井寛に付き、その映画創りの力量に驚き、ピンクに目覚める。1980年、大学卒業と同時に迷うことなく獅子プロ入社。デビューまで4年近くの助監督生活を送る。最も多くついたのは稲尾実(現在の深町章)監督。1983年9月、初のピンク「移動売春 いってもいいとも!」を監督。オムニバスの一篇であった。1984年1月「女教師 淫らな放課後」で本格的デビュー。

転載ここまで


文中で触れられている作品の内容を簡単に紹介しよう。 ● デビュー作の「女教師 淫らな放課後」は、流れ星にぶつかって以来、強力な浮力を持つようになってしまった高校教師(螢雪次朗)のザーメンを燃料として、女子高生3人組(山地美貴ほか)が手作りの自転車型 宇宙船で月へと飛んでいく……。「E.T.」の日本公開は1982年12月であった。 ● 2作目「純情姉妹! チー坊とマーコ」は、精神文明が進みすぎて子どもが生まれなくなってしまった星からやってきた2人の女性エイリアン(田口あゆみ&杉本美央)が、地球の男どもの精子を狙う……という話。 ● 4本目の「痴漢電車 発車1分前」は文中でも語られているとおり、山出しの田舎娘(早坂明記)が街へ出て来て華麗に変身、初恋の相手と再会して……という「マイ・フェア・レディ」なシンデレラ・ラブストーリー。 ● 5作目「痴漢電車 いけないこの指」は、世界でいちばん惨めな男を幸福にするために遣わされた天使(田口あゆみ)がヒロインの「メリー・ポピンズ」もの。 ● 7作目「ロリータ本番ONANIE」は、愛する人と結ばれることなく失意の中で死んだ少女(大滝かつ美)が、30年ぶりに幽霊としてこの世にまい戻り、恋人を探して男と交わっては「この人じゃない……」とペニスを切り落とす……というホラー・コメディ(ビデオ題「少女バンパイア あなただけ今晩は」) ● 8作目「痴漢電車 気分は絶頂」は当サイトが認定する渡辺元嗣の最高傑作である。大富豪の令嬢・未来(大滝かつ美)が乗務したスペースシャトルが墜落。奇跡的に命は助かるが記憶喪失となって(ドリフの爆弾コントみたいな恰好で)街をさまよう。そんな彼女に手を差し伸べたのは、うだつのあがらぬストリップ小屋のサンドイッチマンの松太郎(螢雪次朗)だった。財産を狙う継母と情夫のさしむけた殺し屋に狙われたりしつつも、最後には彼女の記憶が戻りハッピーエンド。ふたたび、独りさびしく渋谷の街角でストリップ小屋の看板を持ってたたずむ松太郎。ふと人混みが途切れると、そこには未来の姿が。渋谷の夜空に流れ星がひとすじ……。 ● 10作目の「痴漢電車 スカートの中」は、大正の天才詩人・中原松太郎に憧れる少女・未来(石上ひさ子)の目の前に、松太郎本人(螢雪次朗)が人力車型のタイムマシンに乗って出現する。じつは未来は松太郎の恋人の孫娘であるらしい。行方不明になったタイムマシンをさがすうち、恋におちる2人……。

かように、みごとなまでのやりたい放題、まさに独りファンタスティック映画祭である。脚本は(片岡修二 脚本の「痴漢電車 いけないこの指」を除いて)平柳益実がすべての作品を手掛けている。この時期のカメラマンは倉本和比人と志賀葉一(現在の清水正二)。また、1982年から1984年にかけて滝田洋二郎の「痴漢電車」シリーズで探偵「黒田一平」を演じ続けた螢雪次朗が、その勢いそのままに、純情と怪演を縦横に使い分けほぼすべての作品で主演しているのも大きい。 ● ほかのピンク映画とあまりに違う映画に対して、地方のピンク映画館からの評判はサイアクだったようで、おそらくは会社から「もっと普通の映画を作れ」という相当なプレッシャーもあっただろう。その後、即物的なエロを要求するエクセスや(当時は)保守的な大蔵映画でも撮りはじめたこともあり、また時を同じくして脚本の平柳益実がピンク映画界を離れたことで、渡辺元嗣は本来の持ち味を殺して「大人の艶笑コメディ」への挑戦を余儀なくされ、長い長い不調の1990年代を過ごすことになる(もっとも、平柳益実と入れ替わるようにして渡辺組の座付き脚本家となった波路遥(なみじ・はるか)平柳益実の変名である可能性もあるが) [追記]渡辺元嗣はちょうどこの頃、結婚したのだそうだ。 ● ピンク映画業界自体も、渡辺元嗣がデビューした1980年代前半には大蔵・新東宝・東活(松竹系)・東映セントラル・ミリオン(ジョイパック)・にっかつ買取と6系統の配給網が存在し、1年になんと200本以上のピンク映画が公開されていたのだが、1986年には渡辺のデビュー作と2作目を配給した東映セントラルがピンク映画の製作・配給から撤退、1988年にはミリオンが撤退し、1990年には東活が廃業した。1990年代前半には年間公開本数が100本強と10年間で一挙に半減した。ちなみに昨2005年は80本。どん底まで落ちて、そこからさらに10年以上も命脈を保っていること自体が奇跡と呼べるかもしれない。 ● 渡邊元嗣は、期待されながらもついに一般映画に進出することはなかった。かれはよく自分で「1970年代の東宝映画の監督になりたかった」という類のことを言うが、そこまでいかずともあと5年早く生まれていたなら滝田洋二郎と並んで、いまや日本映画の中心で活躍していたと思うのである。ほぼ同時期にピンク映画で活躍しながら、デビュー時期がピンク映画業界の崩壊と重なってしまったがために、そのわずか数年の違いが滝田と渡邊の運命を大きく違えたのではないか。渡邊と同じ1984年に大手のにっかつロマンポルノからデビューした金子修介のその後の活躍をみていると、あり得たかもしれない渡邊元嗣の幻のフィルモグラフィを夢想して、すこし悲しい気持ちになる。 ● ともあれ、渡邊元嗣は映画界から去ってしまったわけではない。48歳になったいまも現役バリバリのピンク映画監督である。そして会社の目を盗み盗み、趣味丸出しのファンタスティック映画を作り続けている。(私見では)デビュー時期のエネルギーをついに取り戻すことなく今日に至るわけだが、それでも、かれが一般映画界に行かなかったおかげで、われわれは渡邊元嗣の明るく楽しいピンク映画の数々を楽しむことができるわけだ。渡邊元嗣よ、がんばれ。48歳なんてまだまだぜんぜん老け込む歳じゃないぞ。「大人の映画」なんて還暦すぎてから作りゃいいさ。いまはまだ、後続の加藤義一や竹洞哲也に真っ向からはりあうイキのいい映画を作ってくれい。応援してるぞ。