m@stervision archives 2007/2008

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



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ダークナイト(クリストファー・ノーラン)

スーパーマンと違って生身の人間であるバットマンは空を飛べない。かれにできるのはマントを広げてムササビのように滑空すること。あるいは高いところから飛び落りること。そして着地の痛みに耐えること。それだけである。この映画でもバットマンは数度にわたって敢然とビルから飛び降り、あるいは摩天楼を滑空して、悪人を退治し、ヒロインの命を救う。だがやがて最後にかれは重力に負けて力なく地面に落下することになる。「狂気は重力のようなもの。人はひと押しで落ちていく」──そう言って嘲笑するジョーカーは、このとき逆さ吊りにされている。だがカメラはいつしか上下反転してジョーカーの顔を正位置で捉える。まるで、この男の前では重力など無意味だ、とでもいうように。 ● 前作「バットマン ビギンズ」を「こいつには二度とコミックスの映画化を手掛けて欲しくない。続篇を作るなら頼むから監督を変えてくれ」とまでコキおろした以上、ここで おれは自らの不明を恥じねばならぬだろう。畏れいりました。「ダークナイト」は前作のリアリズム路線をとことんまで突き詰めた果てに生まれたクライム・サスペンスの大傑作であり、このうえなく切ない三角関係のラブ・ストーリーだ。またアメコミ映画としても「ビギンズ」とは比較にならないくらいカッコいいビジュアルにあふれている。アクションの見せ方が(前作よりマシとはいえ)あまり上手くないのは相変わらずだが、ここまで見得が切れるなら納得だ。 ● 監督みずからが認めているとおり、これは「スパイダーマン」より「ヒート」に近い映画だ。今回の〈ゴッサム・シティ〉にはアーカム・アサイラムのあるマンハッタン(のような)島も、ブルース・ウェインの父が建設したという設定のモノレールも出てこない。実際、背景にはCGはまったく使ってないと思う。現代のシカゴでそのまま普通にロケして、このコンクリートとガラスの、あなたの住んでる街となんら変わらない大都会が〈ゴッサム・シティ〉なんですよ、と。ノーランはこの物語を絵空事にしたくなかった。観客に正面向いて問うているのだ。あなただったらどうする?と。そして容易に答えの出せない問いをつきつけられた観客は、「ゴッドファーザー」のクライマックスにも匹敵する戦慄のカットバックによって心をいたぶられ(それも2度も!)、あげく「ゴッドファーザー」のラストにも通ずるなんとも言えぬ苦い想いをいだいて映画館を後にすることになる。超重量級の衝撃。体調の良いときにお出かけなさい。 ● んで、新しくシネコンとして生まれ変わった新宿ピカデリーで観たんだけど、ここってチケットをモギらないのね。2Fロビーにテケツと売店があって、そこからエスカレーターで上階3フロアに分散している各スクリーンに上がっていく仕組みになっていて、そのエスカレーターの乗り口に係員が立ってるんだけど、チケットは確認するだけでモギらない。最初は「ああ、スクリーンの入口に別の係員が立っていて、そこでモギるんだろう」と思ったら、上の階にも誰もいないの。このときだけじゃなくて、もう何回も通ってるけど、一度もモギられたことがない。いや、チケットは普通のキリトリ線が入ってるやつなのよ。たしかに日時がデッカく入ってるから、モギらないからといって2度観ができるわけじゃないけど、チケットをモギらない映画館なんて初めてだ。半券 取っとかなくて、税務署とかOKなのかね? ちなみに おれはもういい大人なのでやらないけど、学生諸君はタイムテーブルとにらめっこしてうまく予定を組めば1枚のチケットでハシゴし放題だぞ!

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家族の四季(カラン・ジョハール)

製作:ヤーシュ・ジョハール 脚本:カラン・ジョハール

8/30から9/19までシネマート六本木で開催の〈ボリウッド・ベスト〉の1本として、2004年と2002年の東京国際映画祭で上映された「KABHI KHUSHI KABHIE GHAM...(カビ・クシ・カビ・ガム=時に喜び、時に悲しみ)」がついに公開される! えらいぞ!>パンドラ。 ● かれこれ1年近くも放っぽっといたこのページを更新する気になったのも、ひとえにこの娯楽映画の大傑作を皆さんに見逃して欲しくないが故である。単にボリウッド映画の頂点であるだけでなく世界最高峰のエンターテイメント。ミュージカル・シーンにおける、ボリウッド映画の粋を極めた撮影・照明・美術・衣裳・音楽・振り付けの一糸乱れぬコラボレーション。ハリウッドの絶頂期のそれをも凌駕する華やかな群舞シーンの、体が自然に動き出す高揚感。あのルノワールの「フレンチ・カンカン」のフィナーレにも匹敵する幸福感が一度ならず、二度、三度と観客を包み込むのだ。騙されたと思って観に行ってくれ。 ● ストーリーの骨格はごくシンプル。貰い子でありながら実の子以上の孝行息子だったマハラジャの長男が、生涯で初めて父に背いて貧しい下町娘と恋愛結婚。父は長男を勘当、長男は家を去る。10年後、大学生となった(実子である)次男が、兄と兄嫁を「家」に連れ戻すため、親には留学と偽ってロンドンへ渡る──。物語の根本原理は「家族一緒ではない幸せなど幸せではない」という固いヒンドゥー的信念であり、これが西欧の映画であれば、貧しい娘がさまざまな障害を乗り越えて大富豪の長男と駆け落ちして異国の地で恵まれた暮らしを送る……というのは「ハッピーエンド」以外の何ものでもないわけだが、本作のヒロインにとってあくまでそれは「完結していない幸せ」でしかない。カレの両親の祝福を受けられないうちは、彼女は「妻」ではあっても「嫁」ではないからだ。劇中、何度もくりかえされる主題歌のサビ >「♪これが運命 時には喜び、時には悲しみ ♪いつでも一緒に 嬉しいときも、悲しいときも」 ● 主役の「長男夫婦」には、これが5、6度目の共演となるシャー・ルク・カーンカージョルのゴールデン・カップル。本作が凄いのは、普通なら「演技のうまい助演俳優」が演じる「両親」の役に、1970年代からの国民的スーパースターであるアミターブ・バッチャンと(その実生活での妻でもある)演技派女優 ジャヤー・バッチャンを連れてきたことで、日本でいえば織田裕二高倉健が初競演するみたいなことなのだ。さらに後半で活躍する「次男坊」には「アルターフ 復讐の名のもとに(ミッション・カシミール)」の若手No.1スター=リティク・ローシャン。そのGFとなる「兄嫁の妹」に新進スターのカリーナ・カプール。そしてゼイタクにも前半にのみ登場する親の決めたシャー・ルクの許嫁(いいなずけ)に「何かが起きてる」より美貌150%アップのラニ・ムカールジを配する万全の布陣。ボリウッド映画的には、これでコケたら何やっても来ないというほどのオールスター・キャストなのである。 ● アミターブ扮する「父親」の役名を、この映画の製作者であり実の父でもあるヤーシュ・ジョハールからとって「ヤーシュ」と名付けたカラン・ジョハールの演出も、まだこれが2作目とは思えぬほど自信に満ちており「スターの力」を全面的に信じて、現在の日本でやったら出来の悪い大映ドラマにしかならないであろう大メロドラマ演出を敢行する。すなわち、画面に美女が登場するならば(屋敷の中でも)風が吹いて髪がゆれるのだし、父親が怒るときは雷鳴がとどろくのだ。 シャー・ルクとカージョルの役名は「ラーフル」に「アンジャリ」と、前作「何かが起きてる」のまま。 カージョルに至っては(スターばかりで固めてコメディ・リリーフを配置する場所がなくなってしまったので)ヒロインなのにコメディ・リリーフまで兼任。下町の大衆食堂の看板娘で、おっちょこちょいで素っ頓狂で、けたたましくて早とちりの鉄火肌のお転婆で、異国の地でも決してサリーを脱がない熱烈な愛国者というキャラを大熱演。観客を笑わせて泣かせて大車輪。 ● 父親のアミターブ・バッチャンは他を圧するさすがの存在感。「厳格で威厳ある父親」というみずから規定したキャラクターに自分を嵌めてしまう男の哀しさを見事に演じる。息子との和解に際しての名言。父さんはぼくのことを怒ってるとばかり……という息子に、ぽろぽろ涙を流しながら「ばかな。年長者の怒りは愛情の一部だ」 そして現実の妻ジャヤーが演じる「妻」の名演! 「インドの妻」なので夫のいうことには逆らわない。芝居の八割方が「ただ黙って見つめる」というものなのだが、その目から全身からあふれ出る「母の愛」たるや! まさに客を泣かすに台詞は要らぬというやつである。そして、それまで夫の言うことに100%服従してきた彼女が、最後に夫になげかける痛烈な長台詞>「夫は神。夫の言うことはすべて正しい──そう母から教わった。たしかにあなたはいつも正しかった。生後2日のあの子を我が家に連れてきた──正しい。あの子は家族の一員になり、私の生きがいとなった──正しい。でも、あの子は家を出て行った──間違い。あなたが追い出した──間違い。母と息子の中を引き裂いた──間違い。家族はバラバラになってしまった──間違い。夫が神ならどうして間違ったりする? 神は間違ったりしない。あなたはわたしの夫だけれど、神ではなかった。ただの夫だった!」 いや、参りました。こりゃもう諸手を挙げて降参するしかない。まさに世界最強のファミリー映画である。〈インド映画界の根本理恵〉こと松岡環の日本語訳も ことごとく素晴らしい。 ● 10月にはシネマート心斎橋、その後、シネマスコーレでも公開されるようなので、大阪と名古屋の方も必見。

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たとえ明日が来なくても(ニキル・アドヴァーニー)

製作:ヤーシュ・ジョハール 製作・脚本:カラン・ジョハール

「明日が来なくても」のタイトルで2004年のFILMEXで上映。同年の東京国際映画祭でも追悼上映がなされたインド映画界の名プロデューサー、ヤーシュ・ジョハールの遺作となった2003年作品。前2作を監督した息子のカラン・ジョハールが製作と脚本を担当し、それまでずっと助監督を務めてきたニキル・アドヴァーニーが本作で監督デビューした。全篇、ニューヨークが舞台となっており、よくある「B班が風景を撮って来ただけ」のレベルを大きく超えて、全キャストが参加しての大々的なニューヨーク・ロケを敢行している。 ● 本作の語り部となるのはメガネっ娘のヒロイン。母の経営するカフェ・レストランを手伝いながら、ニューヨーク大学の夜間MBAクラスに通う頑張り屋さんだが、このところレストランは閑古鳥で借金ばかりが嵩んで差し押さえ寸前。父のいない家庭では「進歩的な母」と「インドから来た旧弊な祖母」の諍いが絶えず、祖母は弟ばかりを猫可愛がりし、養女である妹に冷たくあたる。ほんとうは明るい娘なのに、恋をする暇もなくて眉間に皺ばかりが増える。そんな時だった──「ペイルライダー」で少女の祈りに応えてクリント・イーストウッドが現れたように──まるで家族の祈りに応えるかのように1人のずうずうしい隣人が現れたのは。インドから叔父さんを訪ねてきたというかれは、少しばかりハンサムなのを鼻に掛け、自信満々のお調子者で、相手の返事も聞かずにずかずかとこちらの懐へ入り込んできて、またたく間に皆の人気者になってしまう。ヒロインはそんなの男が軽薄さが大キライだった。 ● ……と、ここまで30分近く経過しても、不可解なことにこの映画の主旋律(メインテーマ)が聞こえてこない。ヒロインと隣人が恋に落ちるだけじゃ3時間の映画にはならない。インド映画の「文法」からいけば、そこには何かとてつもなく大きな障害があってしかるべきなのだが、それが見えてこないのだ。双方とも「強力な恋のライバル」もいないし「店を乗っ取ろうとするマフィア」も出てこない。まあ、勘の良い観客なら1時間ほどで「はは〜ん」と気付くかもしれないが、登場人物の口からはっきりと「この物語の目指すところ」が語られるのは、なんと開映から1時間半を経過した前半のラストにおいてなのである。うーむ。畏るべしインド映画。1時間半の前フリ! ● ヒロインを演じるのは、天下御免の片エクボにド迫力ボディ──笑えば敵なしのプリティー・ジンター。今回は前半と終盤は泣いてばかりなので、チャームポイントの笑顔が堪能できるのが ほんのちょっと。悲しい。 「ずうずうしい隣人」の形をとって現れるヒロインの守護天使には もちろんこの人>シャー・ルク・カーン。今回はほとんど全篇、口八丁の冗談ヤローなので、シャー・ルクはラスト15分しか「仕事」をしないのだが、その15分でかっちり場をさらい、それまでの3時間を「シャー・ルク・カーンの映画」に変えてしまうのは、さすがスターの底力。 そしてヒロインの母に前作「家族の四季」に続いて出演のジャヤー・バッチャン。プリティーと顔の輪郭が似てるので本物の母娘に見える。 ● 星3つの評価だが、じつは事前の期待度からいくと「期待はずれ」と言ってもよい出来。全篇NYロケで頑張ってるのは伝わってくるのだが「西欧の若者風俗」はインド映画の最も不得手とするところ。ミュージカル・シーンでも〈「プリティ・ウーマン」のサビとギター・リフを活かしたインド歌謡〉などという力ワザで無理やりねじ伏せようと努力はしてるのだが、やっぱ基本的に、この人たちのアメリカの音楽シーンに対する理解が「サタデー・ナイト・フィーバー」とジョルジオ・モロダー止まりなんだよね。レトロやキッチュを狙ったわけじゃなく、真面目にやってディスコ・サウンドになっちゃうのだ。酔っ払ってデカい黒人に「モハメド・アリ?」と訊いたりするギャグ・センスも、インドでやってる分には笑えるけど、それをNYでやられちゃうと……。結局、全篇中でもズバ抜けて素晴らしいシーン/ナンバーは、本拠地ボリウッドのスタジオで撮影した純粋インド歌曲/衣裳による群舞シーンなのだ。ラニ・ムカールジカージョルまでカメオ出演するこのダンスシーンはひとときの至福。

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グラインドハウス[U.S.A.バージョン]
(ロバート・ロドリゲス/クエンティン・タランティーノ)

しょーがないから払ったよ>3,000円。だいたいTOHOシネマズ六本木ヒルズという劇場選択が間違っとるでしょーが。なぜ三軒茶屋中央でやらんのだ!? 場末のB級映画2本立てを再現……てことで、おれは1980年代に歌舞伎町で観たXX・ベスト・アクションとか思い出して大変 楽しく観たけれど、そのコンセプトが正しく再現されているなら、それはつまり「あー楽しかった」で忘れちゃうような2本立てなわけで「年間ベストワン!」とか、そーゆーんじゃねーだろーと。執拗なフィルム傷&コマとびエフェクトも、なんか厭らしい感じだし。てゆーか、おれなんかタランティーノ篇の後半、疲れて寝ちゃってたよ。<おい! ……ま、それもまた、場末の2本立ての正しい観賞法ってことで。

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トランスフォーマー(マイケル・ベイ)

あれ、なんでだろ? 期待してた半分も面白くなかった。てゆーか、部品数 多過ぎだよね>変形ロボット。あんまりフクザツな変形をするので、ウリであるはずの〈変形(トランスフォーム)の面白さ〉が消えてしまってる。そのうえ絵作りが下手すぎて画面で何が起こってるのかよーわからん(ゲーム眼の子どもたちなら付いていけるのかしらん?) 戦闘場面でのロボットの敵味方の区別がつかないし、そもそも脚本が小学生レベルだ。エメリッヒ映画より低レベルってどうなのよ? 元ネタが幼児向けロボットだからって、映画まで幼児向けにしなくったっていいと思うんだが……。

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女帝 エンペラー(フォン・シャオガン)

中国映画界の偉大なる田吾作=フォン・シャオガン(馮小剛)監督の新作。原題「夜宴」。古代中国の宮廷を舞台にしたガートルード主役の「ハムレット」の翻案。てゆーか「ハムレット」の設定を借りたチャン・イーモウのゴージャス古装片の露骨なパクりである。そうなると当然、愛と野望の女=ガートルードは誰がどー見てもコン・リーの役なんだけど、彼女が本家チャン・イーモウの「満城尽帯黄金甲 CURSE OF THE GOLDEN FLOWER」のほうに出演しちゃったので、仕方なく「コン・リーの役」をチャン・ツィイーで代用するはめになり、案の定、チャン・ツィイーじゃ「ワガママな姫君」はできても「女帝」の迫力は到底ムリで、キーキーした声を張り上げて精一杯ニラんで見せるものの、安手のキャバレーのホステスにしか見えず、無残な結果となった。 ● でまた、フォン・シャオガンがいつもの「始皇帝暗殺」のセットを総天然色の美術・衣裳とCGで飾り立て、スローモーションを駆使してチャン・イーモウを気取ってみるものの、いかんせん演出(と編集)の間がダサくてセンスなさすぎ。やっぱ人間、向き不向きってものがあんのよ。垢抜けない野暮天が分不相応な洗練に欲を出しても恥をかくだけ。 ● 弟王クローディアスに、やや無駄遣い気味の名優・葛優(グウ・ヨウ)。 ハムレットに香港からダニエル・ウー(声は吹替え) 狂わず自殺もしないオフィーリアに周迅(ジョウ・シュン)。 その父、老臣ポローニアスに馬精武(マー・チンウー)。チャン・イーモウ×コン・リーの「紅夢」で旧家の主人を演ってた人ですね。 その息子レアティーズに中国映画の人気若手男優、黄暁明(ホァン・シャオミン)。なるほどなかなか良い男。センの細い二枚目ではなく、時代劇にふさわしい骨太な芝居をしていた。


エロチック乱歩 人間椅子(佐藤圭作)[ビデオ上映]

たぶんつまんないんだろうなあ……と思いながら観に行って、やっぱりつまらなかった。とても悲しい。あ、いや、映画がつまらなかったってことより「おまーらどーせ乱歩でエロチックとか付けときゃほいほい観に来んだろ」と客をナメきった三文プロデューサーに足もと見られて、実際そのとーりに観に行って、しかも小沢真珠は乳すら出さないんだぜ。そこまで馬鹿にされて、それでも結局もう一本の「屋根裏の散歩者」も観に行っちゃうのだきっと。まるで料金安めのラブホテルで「課長ったら、どーせ奥さんと別れる気なんてないんでしょ」と心ではわかっていながら抱かれてしまう不倫OLたいな、そんな おれの映画人生が悲しいのだ(大シ立) ● 画質はDV画質。つまり観ていられないほどヒドくはないが、お世辞にも「画質が良い」とは言えないレベル。監督・脚本は[短篇処女作「二花子の瞳 にかこ、の、ひとみ」で国内外から絶賛を浴び]たらしい新人・佐藤圭作。まあ、やろうとしてることは判んないでもないんだけど「マトモな商業映画」のレベルには演出も脚本も撮影も出演者もすべてが圧倒的に実力不足。まあ、10年後くらい続ければ傑作を撮れることがあるかも知らんけどな。

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秒速5センチメートル(新海誠)[HDビデオ上映]

新海誠というひとりアニメ作家の評判は知ってたけど、おれはこの手のアニメに興味がないので今まで1本も観たことがなかった。コレもシネマライズでやってるときはスルーしてたんだけど、ビデオシアターであるライズXでのHDビデオ上映ってとこに興味が湧いて、どんなもんじゃい?と観に行ってみた。結論から言うと従来のSD映像とどー違うのかよーわからんかった。唯一、HDの威力が発揮されてるように感じたのはコンビニの棚の描写ぐらいで、それって押井守「イノセンス」と同じやん。コンビニの棚にしか寄与しないHD映像……ダメじゃん。 ● え、中身? 中身のほうは3話オムニバスがそれぞれ「プロローグ」→「サブ・ストーリー」→「テレビドラマ最終回のラスト20分の回想シーン」って感じで、みごとに「本篇」が無い。もちろんそれは意図的なもので、本篇を描かずともテレビドラマのフォーマットになじんだ観客ならば山崎まさよしの主題歌バックで回想シーンを流せばパブロフの犬のように自動的に泣いてくれるはず……という監督の読みなんだろうけど、生憎 おれには効かなんだ。てゆーか、新海誠のファンの皆さんには悪いけど、こんな話の行方なんて心底どーでもいいとか思っちゃったよ。 ● アニメとしては、たしかに背景美術は素晴らしかった──たとえ風景写真をフォトショップ加工してるのだとしても、だ。でも背景の巧さ/緻密さにくらべてキャラクターの絵が稚拙じゃない? あと何度か出てくる「主人公の勉強部屋の横位置」のパースが変。正面に窓があって上手の壁に向かって主人公が座る勉強机、下手の壁に本棚というレイアウトなんだが、本棚の側板とか台形になってんですけど。 第2話の舞台が種子島で、劇中の背景で宇宙ロケットが打ち上げられるんだけど、ロケットの排気音ってあんなに小さいかぁ? それとロケットの排気雲は空にあんな影を作らないと思うけど。てゆーか、てっきり第3話で主人公が宇宙飛行士になるんだと思ってたらロケットぜんぜん関係ないのね。ほんとにただの「背景」だったのね。 あと、エンド・クレジットに「アフレコ演出:三ツ矢雄二」と出て、へぇ〜と思った。声優やめちゃったの?