m@stervision archives 2005a

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



★ ★
エレクトラ(ロブ・ボウマン)

X-MEN 3」のレビュウを書いてて思い出した。「アメリカン忍者2005」という邦題でも良かったんじゃねえか?という一作。「デアデビル」のスピンアウトとして製作されたが、劇中にデアデビル(とその中の人)への直接の言及はないので独立した作品といっていいだろう。例によって未読なので、これが原作コミックスにもある設定なのかは不詳なのだが、この世界では「善なる白忍者」と「悪の黒忍者」の戦いが続けられていて、白忍者の総帥がテレンス・スタンプで、ビルの屋上の忍者屋敷を本拠地とする黒忍者の頭目がケイリー=ヒロユキ・タガワ。本作のヒロイン=釵(さい)使いのエレクトラは白忍者側だが、怒りと憎悪の感情をコントロールできず破門となり、金で雇われるヒットマン稼業に身をやつしている……という設定。白忍者はキマグレという(「スター・ウォーズ」におけるフォースのような)神秘のパワーを用いるのだが、これきっと脚本家の知り合いの日本かぶれのアニヲタ外人かなんかが「ハガクレ(葉隠)」と言うつもりで間違って「キマグレ」って教えちゃったんでしょうな。 ● 予告篇で、忍者の身体から獣が飛び出す映像を見て、おっ、石川賢「野獣戦線」のパクリか!?と思っていたが、実際に観てみると川尻善昭の「獣兵衛忍風帖」のパクリであった。これアメリカじゃ「NINJA SCROLL」のタイトルでビデオが発売されてて業界人は全員観てるのでパクられても不思議じゃないんだが、そのパクり方もせこくてストーリーじゃなくて敵方の異能忍者のキャラが「獣兵衛忍風帖」からのイタダキなのである。すなわちボブ・サップが演じた岩の肌を持つ怪力忍者、躯中にいれた蛇の刺青がうごめき出す幻術使い、そして毒の息を吐く死神くノ一の3人だ。しかし「NINJA SCROLL」はハリウッドで実写映画化が進行中って聞いたおぼえがあるけど、あれはどうなっちゃったんですかなあ?(ディベロップ無限地獄に陥っちゃった?) ● 主演のいかつい肩幅のジェニファー・ガーナーはあいかわらず体の動きが鈍重。本人はほとんどアクションやってなくて、スタントダブルと編集による誤魔化し。顔が写るので本人が演じてるカットはすべてスローモーションという有様。なんでこんなんでアクション映画の主演を受けますか?

★ ★ ★
レイクサイド マーダーケース(青山真治)

原作:東野圭吾「レイクサイド」

シネマヴェーラの薬師丸ひろ子特集で落穂拾い。お受験合宿で起こったある殺人にまつわるサスペンス。フジテレビ製作で、演出の青山真治、撮影のたむらまさき(田村正毅)とも、手堅く娯楽映画として仕上げ、おれたちだってやりゃ出来るんだよってとこをみせる。はい、たしかに。畏れいりやした。ひとつタマゲたのが、合宿先の別荘に訪ねてきた「夫の愛人」を見たヒロインの薬師丸ひろ子の目が一瞬、赤紫色に光って、彼女の回想らしきフラッシュバックが入るので、観客たるおれは「ああ、この2人のあいだには夫の知らない因縁があるのだな」と了解したのだが、なんとラストシーンで薬師丸は緩やかな千里眼の持ち主だと明かされるのである(!) え゛じゃあ、あのフラッシュバックは回想じゃなくて未来予知だったの!? な、な、なんでそこで突然、超常的な要素が入るのよ? そこまでやりきれない現実をリアリズムで描いてきて、なんでそこに着地する!? ● あと、映画の「構成」としては間違ってないので星は減らさないが、本作の脚本で最終的に提示される「親としての愛情の在り方」は絶対にまちがってると思うぞ。

★ ★ ★
兜王ビートル(河崎実)[ビデオ作品]

原作:永井豪 脚本:中野貴雄

不勉強にもおれは知らなかったのだが、映画としての企画以前に、スペル・デルフィンの主宰する大阪プロレスに永井豪キャラ・デザインによる〈兜王ビートル〉という覆面レスラーが実在するんだそうだ。本作はその兜王ビートル本人が主演する特撮ヒーローものである(プロレス界を舞台にしてはいるが、まともな試合シーンは無いので「プロレス映画」とは言えない) 昔から「漫画家が考えた覆面レスラー」という系譜があって、その代表例が梶原一騎のタイガーマスクと、永井豪の獣神サンダーライガー(ともに新日本プロレス) ともにフィクションを超えて実際に「チビッコの人気者」となり、その人気を受けてまた人形(フィギュア)が売れ……と、大成功を収めたわけだが、この兜王ビートルも何匹目かのドジョウを目指してるわけですな。東京じゃ三沢光晴のプロレスリング・ノアに、そのものスバリ、原作者公認の〈ムシキング〉って覆面レスラーが登場したみたいだし。 ● さて、本作の主人公=兜ユウイチは、悪の親玉(にしてキャラクター・マーチャンダイズ・ビジネスの銀河系総元締)=魔蟲王(マムシ王)に捕らえられ、カブト虫のDNAと融合した改造人間にされながらも、組織を抜けて正義のために(リングの上で)闘っている……という設定。つまり「タイガーマスク」とゆーか「仮面ライダー」とゆーか、テレビ版「デビルマン」とゆーか。なに、最初の2つは豪チャンの原作じゃないって? 気にするな。「悪の集団に属していた主人公が、脱走して正義のヒーローとなる」というプロットはぜんぶ同じだ。今回、単なる見かけだけの安っぽいパロディに終わらず……あ、いや、安っぽいパロディには違いないんだけど、まがりなりにも「ヒーローもの」として成立しているのは、こうしたジャンルの「劇構造」をきちんと把握している中野貴雄が脚本を担当したことが大きい。河崎実も、いつもの河崎実とは思えない締まった演出で──といっても「いつもが10ユルユルだったら今回は6ユルユルぐらい」という意味であって「普通の映画」に較べたらはるかにユルユルであることには変わりはないんだが──最後まで比較的ダレることなく観ていられる。それって褒めてるんだか。 ● もちろん根っからの特撮&アイドル専科の河崎実であるので「サイケな背景に昆虫の黒い影絵」というウルトラなタイトルバックから始まって、悪の手先のゴキアブラー(ゴキブリのかぶりものを着た人。前から思ってるんだけど中野貴雄ってネーミングの天才だよな)は画面に登場するたんびに「ゴキアブラ〜」と悪役声で自己紹介するし、カンフー映画における「老師」の役回りであるところの「兜王の師匠」には、あの「人間風車」ビル・ロビンソンその人を引っ張り出してきてクッダラない台詞を英語で喋らせ、ショート丈のスポーティなジャケットにチェックのパンツ、それに白いベレー帽という正統的な永井豪ファッションで登場するヒロインは「週刊スープレックス」の新米記者のドジッ子である。演じる中川翔子は、さいきん売出し中のオタク・アイドル。このコの場合、「オタクのアイドル」じゃなくて「アイドル本人がオタク」というレアなパターンで、映画の中で自分に求められている役割を完璧に理解して、アイドルアイドルしたお芝居を的確にこなしている。ちなみに主人公は(覆面レスラーであるので)最後まで素顔は見せません。

★ ★
スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐
(ジョージ・ルーカス)

いや、とにもかくにもこれほど壮大な「映画イベント」を30年という時間をかけて完結させた偉業に対しては心からの ★ ★ ★ ★ ★ を献上したいと思うし、SFXヴィジュアル玉手箱としては他の追随を許さぬレベルではあるので、その前ではルーカスの演出と脚本のまずさなど大した問題ではない……というのが前2作に対するおれのスタンスだった。だが、今回は敢えて ★ ★ をつけたい。このエピソード3では「絵」よりもドラマのほうが重要だと思うからだ。 ● それまで「主人公」として描かれたきた人物が、悪の道に堕ちて、師を、友を、妻を裏切り、ジェダイを皆殺しにしないと最初の「スター・ウォーズ」に繋がらない……という暗黒パートである。エピソード1と2は、このクライマックスのための前フリに過ぎないとさえ言える。話自体は絶対に面白いはずなのだ。ルーカスも前作までは避けてきた残酷描写を解禁したのは、エピソード3が文字どおりの肝腎要だと自覚してる証拠だろう。それでこの体たらく。なんだか世間では「ルーカス、やれば出来るじゃん!」って評価のようだけど、皆さんそれ、ドラマを脳内補完してませんか? おれは、ぜんっぜん出来てないと思うんだけど……。 ● だいたい序盤の活劇は要らんだろ。おれなら いきなりジェダイ評議会のシーンから入る。居並ぶジェダイ・マスターたちの前で憮然として立ち尽くすアナキン……がファースト・カットだ。「なぜですか!? 不公平だ。なぜ私だけマスターになれないのですか!」 続いてのシーンでは、ホモの老人が美しい若者を撫でまわすようなねちっこさでパルパティーン最高議長ことイアーゴが、若き将軍オセロの心に疑惑と嫉妬の種を植え付けていく「ときにアナキン、お前の愛するパドメは近ごろずいぶんオビ=ワン・ケノービと親しくしておるようだが……」 帰宅したアナキンをパドメが責める「ジェダイ評議会に楯突くなんて! あなたは間違ってるわ。さっきもオビ=ワンが心配して訪ねてくれたのよ」 アナキンの脳裏にベッドで抱き合う妻と師のイメージが浮かぶ。その瞬間、かれの胸に、自分を裏切った2人への憎悪の冷たい炎がともる……。 ● そう、なにも「妻が死ぬ夢を見たから、愛するものを死から救う力が欲しくて」などという七面倒くさい理屈をつけずとも、古来より人の心に巣食う緑色の眼をした怪物にかかれば1人の若者を暗黒面に堕とすことなど造作もないこと。さすれば終盤、火山の星に訪ねてきた妻の船にオビ=ワンが乗っているのを見たアナキンは、ためらうことなく自らの手で妻を斬り殺すだろう。そしてオビ=ワンとの対決→復活を経たラストシーン。旗艦のデッキからデス・スターの建造を眺めるシスの暗黒卿の師弟。ダース・シディアスが後ろに控えしベイダーに「彼女が恋しいかねDo you miss her ?)」と尋ねる。生命維持マスクから漏れるスーハーという呼吸音に混じってジェームズ・アール・ジョーンズの声が答える「感情とは弱き人間のもの。今の私には無縁Emotion is a human thing. That's a weakness. And I have none, my master.)」 その非情な声に満足したシディアス卿のフォッフォッフォッという高笑い。 ● ……ま、おれの妄想はさておき、やっぱりルーカスは描くべきドラマを描ききれていないと思う。現状のストーリーラインで行くにしても、たとえば「悪夢から目覚めたアナキン」のあとには「深夜の執務室で呪(しゅ)をかけるパルパディーン議長」のカットが必要だろうし、全宇宙の命運を賭けた悪の親玉との対決だってのに、たった5分しか闘わずさっさと退却しちゃうヨーダ師父には「瀕死の重傷」でも負っていただかないとジェダイ評議会のメンバーに面目が立たんだろ。コメディ・リリーフたるC-3POR2-D2漫才コンビもほとんど活躍しないし、何より問題なのはパドメのキャラクターが前2作とはまったく別人になってることだ。夫の帰りを待ってメソメソしてるような女(タマ)かよ。元・女王の威厳と誇りはどこへ行った? 本来の彼女なら「自由は万雷の拍手の中で死んでいくのね」とかカッコつけてほざいてる間には、立ち上がって民主主義を擁護する一席ぶつはずだろ(なんかDVDの「削除シーン」にはそれらしい場面があるようだが) ルーカスは今回せめて脚本だけでもプロの手を借りるべきだった。いや、それこそアカデミー作品賞だって狙えるような素材を、むざむざ「夏のイベント・ムービー」で終わらせてしまうのは本当に勿体ないと思うのだ。 ● フィルム版を観賞。あとから日本語吹替版も観たけど、アナキン役(「ロード・オブ・ザ・リング」のフロドも演ってた浪川大輔)はちょっとアニメ演技すぎると思う。最初から感情込めすぎ。

★ ★ ★ ★ ★
宇宙戦争(スティーブン・スピルバーグ)

こと今回にかぎっては「スター・ウォーズ」なんぞ後回しだ。トム・クルーズもダコタ・ファニングも関係ない(ほんとはちょっとある なにしろ おれは27年前から「未知との遭遇」派だかんな。その監督がいよいよ宇宙人の地球侵略ものSFを撮るってんだ。これは何をおいても初日に駆けつけずばなるまいよ。当然 わがフランチャイズたる歌舞伎町で観ようとしたんだが新宿プラザは最終回6時15分で終映8時半……って「ドラえもん」かい! 夏なんだから連日レイトショーぐらいやらんかい! 仕方ないので日比谷スカラ座で初日夜8時の回を観賞(みんな日劇へ行ったせいか場内ガラガラだったぞ。大丈夫なのか!?>UIP宣伝部) ● スピルバーグみずから「どういう話かなんてオチも含めて皆さんご存知でしょ?」と宣言してるかのごときファーストカットで幕を開けるストーリーは、「斬新なアレンジ」や「現代的な新解釈」は施されておらず、驚くほど原作に忠実。1953年のジョージ・パル版の映画では〈空飛ぶ円盤〉になっていた例のアレもデニス・ミューレン率いるILMとスタン・ウィンストン スタジオの熟練の技で画面狭しと大暴れ。観客席に恐怖をまき散らす。トレードマークの〈窓やドアの隙間から差し込む強烈な光と大音響〉の演出も大盤振る舞い。そう、「ジョーズ」や「ジュラシック・パーク」も相当コワかったけど、今回、スピルバーグは箍(たが)が外れたかのような「ポルターガイスト」以来の〈ホラー魂〉大爆発なのだ(……なに?「ポルターガイスト」はトビー・フーパー監督作品だって? いや、まあ、その、あれだ) アメリカじゃPG-13指定(13歳以下は保護者同伴)になってるけど、これたしかに10歳未満の子は観たら夜泣きすると思う。ジョージ・パル版の映画からの引用も多々あるが、それよりむしろ、ジョージはジョージでもジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」ものに驚くほど似通っている。でまた「これは絵空事じゃないんだよ」と言わんばかりに被災描写に9.11のイメージを反映させる凶悪な演出。とってつけたようなハッピーエンドが何の救いにもなってない〈ダーク〉スピルバーグ全開の傑作。ぜひ映画館の大スクリーンで。 ● 「未知との遭遇」の頃といちばん大きく違うのは「父親のいない子ども」だったスピルバーグ自身が「父親」になったこと。だから今回の映画も一貫して父親=トム・クルーズの視点から語られる。といっても間違っても「宇宙人をやっつけちゃうマッチョな父親像」なんかじゃない。幼い娘を連れてただひたすら逃げまわるのだ。トレーラーハウスよりちょっとだけマシな家に住んでる(TIVOも持ってない)ホワイト・トラッシュの港湾労働者。いい歳して興味があるのはクルマだけ。離婚された女房から週末だけ預かった息子と娘からも軽蔑されて、人類滅亡の危機だってのに頼ってすらもらえない。かれが(元)妻の実家のあるボストンを目指すのは、逃げるにせよなんにせよ、この子どもたちを女房に返さなきゃとても自分の手に負えないから。もちろん逃亡劇の最後にはかれは「父親」になるのだが、なにしろ演じてるのがトム・クルーズだから、最初っからちょっとカッコ良すぎるんだよね。これがジョン・キューザックか、いっそビリー・ボブ・ソーントンだったら、もっとリアリティが出たのにな。あと感心するのは、前作「ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ」じゃ、そろそろ〈女〉の萌芽を感じさせたダコタ・ファニング(撮影時11歳)を、とりたて賢くもなくオシャマでもなく、ほんとうに普通の「怖がってる子ども」として撮っていること。スピルバーグって、ほんとロリっ気が皆無なんですな(てゆーか、そもそも女を撮ることに興味がない) ● 御存知のようにジョー・カーナハンがビビッて「MI:3」の監督を降板しちゃったのでスケジュールがポカッと空いたトム・クルーズと、「インディ・ジョーンズ4」がまたまたまた延期になったスピルバーグが急遽、製作を決めたのが本作である。公開まで7ヶ月しかないのに これだけ特撮ショットの多い超大作のプリ・プロダクションを始めるって時点で有り得ないスケジュールなのだが、なんとスピルバーグとそのクルーはわずか72日間で(実写部分の)撮影を終えてしまったのだそうだ。つまりスピルバーグは「デビルマン」と同期間で「宇宙戦争」を作っちゃうのだ。おれが「デビルマン」の監督だったら恥ずかしくとても生きてらんないね。 ● 文句を付けたいところも無いではなくて、エレクトロニクス機器がぜんぶダウンしてんのに、なんであのハンディカムだけイキてんのか?とかは、まあ見ないフリしてもいいけど、なんでトムの(奪った)クルマだけはエンジンがかかるのか?ってとこだけは(それが科学的に正しくなくたって構わないから)ひとこと説明しといてほしかったなあ。例えばトムがアナログ派でエンジンから電子部品をいっさい外してたとかなんとか……。エンドロールに(「スポンジ・ボブ」と並んで)「美少女戦士セーラームーン」の映像使用クレジットがあったけど、どこに写ってた?


バットマン ビギンズ(クリストファー・ノーラン)

BATMAN BEGINS」というタイトルは、じつは後半部分が省略されていて、この作品の正しいタイトルは「BATMAN begins at about an hour laterバットマンはだいたい1時間後に始まります)」という。じゃそれまでの1時間余は何を観せられるのかというと「金持ち坊っちゃんの自分探し」と、善だの悪だの正義だのといった(脚本を)書いた本人が思ってるほどには深みも真理もない退屈な禅問答が延々と続くのだ。お目当てのバットマンは映画が始まって1時間以上経つまで出てこない。こーゆーのってさあ、初めにツカミで一発、派手な魅せ場をブチかましといて、その後で回想に入ってくってのが定石なんじゃねーの? ● 輪をかけてサイアクなのが、ようやく始まった「バットマン」が、リアリティ重視だかなんだか知らないが「漫画の映画化」に欠くべからざる要素である見得外連とは無縁のギスギスした鈍重な代物だったこと。バットマンのアクションは(悪党どもにとって)「動きが素早すぎて何が起こったのか判らない」ことを表現しようとして、単に「画面で何が起こったのか判らない」状態になってるし。バカ。観客には見えてなきゃ意味ないんだよ。バット・モービルを軍用装甲車みたいな無骨で粋のカケラもないデザインにして、カーチェイスをリアリティTVの「追跡!警察24時」てな感じで撮ることが「リアリティ」だと思ってるんならクリストファー・ノーランは、娯楽映画のことを1ミリたりとも判ってない。バットマンが自分でシコシコとコウモリ手裏剣を研磨したり、軍用防弾服をエアブラシで黒く塗ったりする貧乏くさい姿なんて見たかないんだよ。なぜ「コウモリ」なのか!?とか、そんなの追求しなくていいんだよ。そうして「リアル」に描こうとすればするほど、チベット忍者に武術を習ったり夜中にコウモリの格好して出かけたりするバカバカしさが浮き彫りになるだけだということが、なぜ判らん? てゆーか、ゴッサム・シティの悪と闘うより前に、ウェイン社は武器の海外輸出やみれっての。 ● クリストファー・ノーランはもう一度「スパイダーマン2」でも観てコミックスのリアリティについて勉強して来なさい……と、普通なら書くところなんだが、こいつには二度とコミックスの映画化を手掛けて欲しくない。続篇を作るなら頼むから監督を変えてくれ。

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フォーガットン(ジョセフ・ルーベン)

いやだってあの予告篇のラスト・カットって完全なネタバレじゃん。まさか、あのまんまじゃないよなあ……と思って観に行ったら、ヒロインが自分からそっち方面のことを匂わせるので、ああこりゃまた判りやすいミス・リーディングだぜ。最後にもう1回ドンデンがあるなふんふんふん、と思ってワクワクして観ていたら……、どぅワッハッハッ! バッカでぇー!(←褒めてる) 赦す! 赦すぞおれは。「ドリームキャッチャー」とか好きな人は必見。 ● ということで内容は素晴らしいが(ちょっと嘘)タイトルはいただけない。「フォーガットン」なんて「ダブル・ジョパディー」以来の気持ち悪い「英語」タイトルだと思う。なんで「フォー」って音引きが入るのよ? フォガットンにせよフォゴットンにせよ、アクセントは「ガッ/ゴッ」にあるはずなのに、音引きがあるせいでみんな「フォー」にアクセントを置いて「4ガットン」って読んじゃうじゃんか。わけわからん。

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交渉人・真下正義(本広克行)の前半

織田裕二の度を越したワガママのために モノ作りのハードルが高すぎてなかなかクランクインの見込みの立たない「踊る大捜査線3」に代わって製作されたスピンオフ第1弾。チェーンを移動しつつ続映に続映を重ねて、次の「容疑者 室井慎次」と併せワザで優に本篇1本分ぐらいの売上げを稼いでしまいそうな勢いなのだからフジテレビのプロデューサー・亀井千広の商才は大したもんですな(……って、うわっ、「ローレライ」と夏の「星になった少年」もそうじゃねえか。なんだなんだ東宝は今年はフジテレビ4本で宮崎アニメ分を稼ぎ出そうってハラか?) ● 今回、座付き作家の君塚良一は「原案」にまわり、代わって脚本に起用されたのは十川誠志。調べてみるとアニメ系の脚本家のようで代表作は「逮捕しちゃうぞ THE MOVIE」……って、ああ、なるほど。あれはモロに劇場版「機動警察パトレイバー」+「踊る大捜査線」だったからなあ。そう、今回の「交渉人・真下正義」は最初っから最後まで「機動警察パトレイバー」1作目(押井守/脚本:伊藤和典)の臆面も無いパクリ 勝手リメイクなのだ(御丁寧にも犯人の周りにはカラスが舞い飛んでいる!) ● いや、だけど前半は素晴らしいと思ったよ、前半は。キャラクター設定&キャスティングの定石をきちんと踏まえて、その上でキャラクターに頼らず話を転がしていくスリリングな導入部には本格的「地下鉄サスペンス」の傑作誕生の予感すら感じられたほど。ところが後半、一転して話が「暴走地下鉄」からどんどん離れて行き、最後まで地下鉄司令室に踏みとどまって事件を解決すべき立場の主人公が、自分の為すべき仕事もわきまえず ふらふらと地上に迷い出るあたりから映画は迷走を始め、しまいにゃヒッチコック「知りすぎていた男」のあの有名なクライマックスまでパクりだす始末。しかもアンタ、そのサスペンスがどうやって解決されるか想像つきます? なんと[後ろからこっそり羽交い絞め]にするのだ(!) ああビックリした。ギャグ映画かと思ったぜ。自動小銃を乱射する「警視庁選り抜きの狙撃隊」ってのも初めて見たな。それとか、最後までパクッたまんまの結末や、洒落ても粋でもないエピローグも含めて後半の出来は相当。平均したら、せいぜい星2つってとこか。 ● ビデオ撮り。画質は上々なんだけど、地下鉄のグリーンの制服を目立たせなくするためだろうか「銀残し」っぽい彩度の低い画調にしようとして色調整にしくじったらしく(おれは日比谷スカラ座で観たんだけど)なんだか画面がえらく黄色がかっていて、登場人物の顔色がみんな黄疸みたいだったぞ。あと、真下正義は〈交渉人〉としては優秀かしらんが「ジャーガーノート」も「オデッサ・ファイル」も観てなくて「深夜プラス1」すら読んでないってのは男として失格だと思うが。

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真夜中の弥次さん喜多さん(宮藤官九郎)

「映画」というより深夜テレビの15分ドラマ──画質も内容も。ビデオ撮りのピント甘々ボケボケ。前半のままだったら星1つだが、後半で(話が)少し持ち直したのと研ナオコに免じて大まけで星2つ。タイトルの原典は「真夜中のカーボーイ」だと思うけど、これ、たぶん、弥次喜多もエクスカリバー伝説もオイルタンクを星条旗に塗り分けたハーレーの映画のことも裸の女のシルエットがくねくねするオープニング・クレジットで有名なシリーズも、いやもっと言えば「てやんでえ」とか「べらんめえ」の本来の使い方も知らないコたちが見てギャハハと笑ってるんでしょうなあ。作るほうとしちゃどうなんだろ、そーゆーの。

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クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶ ブリブリ3分ポッキリ大進撃
(ムトウユージ)

ムトウユージって誰? allcinema ONLINEによるとテレビ版「クレしん」のディレクター陣のひとりで、他の演出作品に「クマのプー太郎」「少年サンタの大冒険!」「みすて・ないで デイジー」「HAUNTEDじゃんくしょん」「パニポニ」「コレクター・ユイ」「アーケードゲーマー ふぶき」「グリーングリーン」「UG☆アルティメットガール」など。劇場作品は「Piaキャロットへようこそ!! さやかの恋物語」に続いて2本目……って、ひとつも見たことないや。 ● 結局、水島努が「ヤキニクロード」と「夕陽のカスカベボーイズ」の2本で降板。監督がムトウユージに交代してのシリーズ第13作は「クレしんを子どもの手に!」プロジェクト第1弾(当サイト推定) だから当サイトの評価が低くったって気にするな。どうぞお子さんを連れて映画館にお出かけなさい。おれが観に行った映画館では、前の回を観ていた4つ5つくらいの男の子が「もう1回観たい」と駄々をこねてお母さんを困らせてたぞ。その子ったらさあ。舞台にしがみついてカーテンの下りたスクリーンに必死で手を伸ばしてんの。ね? この映画にはそれだけ子どもたちを夢中にさせる楽しさがあるって証拠でしょ? ● いちおう「大人の評価」も書いておくと、楽しいギャグ映画で通しておいて、ラストにとって付けたように「オトナ帝国」をリプライズするってのは、なんかさもしい感じがして厭だ。それと今回は「アニメーションの魅力」が冒頭の「みさえの朝」のシーンだけで、本篇中では(怪獣アクションという素材にもかかわらず)ついに最後まで動画のめくるめく快感というものは味わえなかった。水島努はアニメーターとしては優秀だったってこってすかね。


隣人13号(井上靖雄)

冒頭のCGカット。荒野の地平線に建つコンクリート小屋。上空を覆いつくす(主人公の心象風景でもある)おどろおどろしい雲がまったく動かないのに萎え萎え。いまどきマット・ペインティングかよ。以後けっきょく最後まで、この映画を好きになれなかった。子どもに対する残虐描写はギリギリのところで踏みとどまっていると思うし、エグい描写ってことなら それこそ本作にも「シャブ中の隣人」役で出演している三池崇史の「殺し屋1」のほうが よほどエグいのだが、それでも本作を楽しめないのは全体に描写(=演出方針)が下品だからだ。なんつーの。うまくいえないけど「いい歳してミミズを半分に千切ってもぞもぞしてるのを見て楽しんでる奴」って感じ? ● ストーリーをひとことで言うと「苛められっ子から精神分裂して生まれたキチガイが大人になってからかつての苛めっ子に復讐する」話である。つまりこの映画を観ていちばんスカッとする/救われるのは、いま現在 苛めに遭っている、あるいは遭ったことのある小・中学生じゃないかと思うのだ(そういう子たちには本作の「毒」も必要なものだろう) だけど、その小・中学生向けの映画が小・中学生お断りの「R-15指定」になってることが本作最大の悲劇なのである。 ● たぶんビデオ撮り。絵本アニメ・パートにゴミ/プリント傷が多いのは意図的にCGで付けてるんだと思うけど、それっていったい(「ちょっと変わったことしてみました」という以外の)どんな意図なんだろ? あと気になったのは、2階の新井浩文は そもそも何故あのアパートに引っ越してきたの? だってアイツはもともと地元の工務店に勤めてたわけだし「ガキが生まれた」とか「結婚したから」という理由だったらもう少し広い部屋に引っ越しそうなもんじゃないの。 それとこの映画、ケツがゆるいよね。せっかくの工夫したエンディングも、あんなにだらだらと長くては効果が半減だと思うけど。 あ、そうそう。主演の小栗旬の全裸ダンスがたっぷり見られるので矢口真理さんは必見だ。え。もう見慣れてますかそうですか。 ちなみにその脳内全裸ダンス・シーンは小栗旬のほうは全裸なのに(分裂したキチガイ人格である)中村獅童だけズボン穿いてんのは何故? パンツをはいたイド!? なんか深〜いフロイト的解釈でもあるんでしょうか。

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もし、あなたなら 6つの視線[オムニバス]

企画・製作:韓国人権委員会

ネット上で韓国映画のすばらしいデータベースを公開してる「ソチョン」こと西村嘉夫さんが個人でお金を出して、大阪のミニ配給会社と共同で買い付けた作品。政府の公的機関である「韓国人権委員会」がスポンサーとなって6人の監督が「差別と人権」をテーマにした短篇を競作したオムニバス映画。各エピソードは、若い女性の容姿差別をテーマにした「彼女の重さ」(イム・スルレ 20分)、性犯罪者への偏見(!?)を描く「その男、事情あり」(チョン・ジェウン 18分)、身体障碍者への差別をドキュメント・タッチで描く「大陸横断」(ヨ・ギュンドン 14分)、親の面子の犠牲にされる子どもたちの悲劇「神秘的な英語の国」(パク・ジンピョ 12分)、美人のセクハラ被害を描く「顔の価値」(パク・クァンス 12分)、そして実際にあった外国人受難を再現フィルムで描いた「N.E.P.A.L. 平和と愛は終わらない」(「オールド・ボーイ」のパク・チャヌク 28分)の以上、6篇。 ● まあ、お役所が作ったといっても あまり堅っ苦しいものではなく、ひろく映画館やテレビで商業公開/放映することにより(韓国の)国民の人権意識を高めよう/是正しようという意図のもとに製作されたブラック・ユーモアを基調とする映画である。たとえて言うなら大阪府が作った「三重駐車・四重駐車はあきまへん(二重駐車までにしとき)」とか「公園ではだかになってカラオケ歌うのよしなはれ」ちゅうピーアール映画みたいなもんでんな。<微妙に間違うてます。いや、でも、ここで描かれてることって「人類の普遍的なテーマ」というより、どー見ても韓国ローカルな問題がほとんどなんだもん。おれ、べつに韓国にも韓国人にも含むところは無いけれど──でなけりゃ こんなに韓国映画 観ないでしょ?──日本の女子高じゃ生徒の体重検査してデブを叱りつけたり美容整形断食ダイエットを生徒に勧めたりしないし、英語の発音が上手くなるようにと小学生の子どもの舌の裏をメスで切ったり、韓国語のしゃべれないネパール人を精神薄弱の韓国人と間違えて6年も精神病院に放りこんだり、人気スターに「南京大虐殺は捏造だった」と言わせて悦に入ったりしないもの。「もし、あなたなら?」とか言われたって、いや、おれ、韓国人じゃないんで……としか言えんよ。ソチョンさんのデータベースは韓国映画のレビュウを書くときに いつも参照させてもらってるので、その作者が自腹を切って買った映画ならば、褒めて書きたいのはやまやまなのだが、これ「人権意識を高める」というよりは、韓国の恥部をさらけだしてるだけなのでは? まったく韓国人てやつぁ……。<だからそれが差別なんだって!


復讐者に憐れみを(パク・チャヌク)

「オールド・ボーイ」のパク・チャヌク監督の前作。おれは2002年の東京国際映画祭で(途中まで)観賞。「ジョンQ」で、「天国と地獄」な、誘拐&復讐ものである。 ● 以下、前半のネタを割る──。本作では、誘拐された少女が人の好い犯人の同情すべき不注意により死ぬ。おれはそういう作劇を(基本的には)否定する立場だが、百歩ゆずって、繊細な手つきで、かつ登場人物への敬意を忘れずに、それが「避けられ得ぬ悲劇」として描かれるならば、娯楽映画として許容してもよい。だが、子どもを死なせるだけでは飽き足らず、父親役ソン・ガンボの(そして観客の)悲しみと怒りに火を注ぐためだけに、検屍の場に父親を呼んで少女の屍体をメスで切り裂くさまをアップで見せたり、ましてや少女の躯が火葬されて溶けて燃えあがるのを「柩の内部カメラ」で捉える、などという演出は決して認めない。そうした描写を扇情的なウケ狙いの手段として得意気に観客に差し出すパク・チャヌクは品性下劣な人間の屑である。後半の復讐篇を見ることなく途中退出。 ● ……と、ここで終われば格好いいんだが、正直に告白するとおれには「この監督ならば後半には(復讐の前段として)犯人の恋人役のペ・ドゥナが凄絶に犯されるシーンがあるに違いない」という、これまでの経験則からくる確信に近い直感があって、出ようか出まいか5分ぐらい迷った。なんだよ。同じ穴の狢じゃんか。しかもさらに懺悔するならば、後日やっぱりそういうシーンがあると聞いて YesAsia でDVD買っちゃってたりして……。アンタほんまにサイテーやな。でも買ったはいいけど気が進まず、まだ観てないんだよな>ペ・ドゥナの乳 映画の後半部分。勝手にせえや。

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カンフーハッスル(チャウ・シンチー)

星爺、今回は本気である。そら、ブルース・リーを「神」とあがめる男がついに覚悟を決めて「功夫」という、そのものズバリのタイトルの映画を撮ったのだ。本気でなくてどうする。現代劇ではなく舞台をあえて1930年代の上海に設定し、基本となる物語は旧来のカンフー映画のパターンをそのまま踏襲。音楽も意識的に中国調にして、そのうえで持ち前のギャグと演出力と「少林サッカー」より洗練されたCGの力を借りて、「カンフー映画」をノスタルジーやパロディではない現代的エンタテインメントとしてみごとに蘇生させた。カンフー映画はつまらないから廃れたのではない。見せかた次第では今でも充分に通用することを自らの力で証明してみせたのである。下手すんとジャッキー・チェン、ジェット・リーに続く「第三の男」としてジョエル・シルバーからオファーが来そうな勢いなのだ。 ● コロムビア映画の資本が入った世界戦略作品としては100点満点をあげてもいいだろう。だが、そこがこの映画の欠点でもある。チャウ・シンチーという男はコメディ路線でブレイクして以来、一貫して30点の映画を作ることに120%の力を傾けてきた。間違ってもグレードの高い映画は撮らない。映画が感動的になりかけると大慌てでクッダらないギャグで消火してしまう。誰よりも正確で完璧に30点の映画を作る。それがチャウ・シンチーだったはずだ。30点の映画には30点の映画の意地と誇りがあり、100点の映画からは決して得られない面白さがある。だから おれたちは平均点主義の奴らから白い目で見られながらも、星爺の映画を愛してきたのではなかったか。大袈裟だってば。 ● ところが今回、本気のあまり、ついつい映画のグレードがアップしちゃったんですな。いや、もちろんクッダらないギャグも健在なんだけど「画面の見栄え」があんまり良過ぎちゃうと、チープなギャグがいまひとつハマらないのも事実。今回いかなる理由かいつものヒゲ親父=ン・マンタ(呉孟達)が出てないのも物足りない。まあ(えらく出番の少ない)ヒロインとの大団円を自分で演らないテレ屋なとこなんか、いかにもチャウ・シンチーなんだけどね。 ● 武術指導は、最初の乱戦=「ギャング対3人」の場面のみサモ・ハン・キンポーで、それ以降はすべてユン・ウォピン(袁和平)が担当。ほとんど「素」の格闘から始めて、だんだんとCGの分量を増やしていく……というコンセプトらしく、トリを務めるシンチー自身の格闘シーンに至ってはもうCGが9割といった塩梅。これって「マトリックス」や「チャーリーズ・エンジェル」でしかカンフーを見たことないような観客には正しい方法論なのかもしれないけど、CGでぴょんぴょん飛び回っても面白くないよね。だから、アクション・シーンとしては最初のサモ・ハンが振り付けた場面が圧倒的に素晴らしくて、後半に行けば行くほどつまならくなるのだ。「ドラゴンボール」のように超人化したシンチーは笑えるけど、カンフー映画/アクション映画としては邪道でしょ。 ● なお(何度も言ってるように)おれはドラゴンの遺伝子をまったく持っておらず、ショウ・ブラザーズでは張徹よりだんぜん楚原という軟弱な人間であるので、本作のツボをことごとく外している可能性もある。