m@stervision archives 2003c

★ ★ ★ ★ ★ =すばらしい
★ ★ ★ ★ =とてもおもしろい
★ ★ ★ =おもしろい
★ ★ =つまらない
=どうしようもない



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男人四十(アン・ホイ)

アニタ・ムイが死んだ。2003年12月30日。享年四十。おれは、こないだ「ワンダーガールズ 東方三侠」のレビュウで〈女優は休業状態〉などと失礼なことを書いてしまったので、お詫びと追悼を兼ねてアニタ・ムイ(梅艶芳)の近作をご紹介する。 ● [輸入DVD観賞]まずは2002年の春に公開された「男人四十」。主演は1995年の「ハイリスク」以来6年ぶりの本格主演となったジャッキー・チュン(張學友)と、アニタ・ムイ。2003年には映画出演はないはずなので(撮影順がどうだったかは知らねども)これがアニタの遺作の1本ということになる。監督は「女人、四十。」のアン・ホイ。プロデュースはアン・ホイと「つきせぬ想い(新不了情)」のイー・トンシン(爾冬陞) さらにジェイコブ・チャンが行政監製(ライン・プロデュサー?)としてクレジットされている。こうして香港映画界の三大良心が結集したからは「しみじみ染みる佳作」であるのは当然で、そして言うまでもなく「地味ぃな映画」である。映画は最後まで静かなペースで進み、台詞はたぶん同録で、誰も台詞を怒鳴ったりしない。いや、それどころか「台詞の途切れた気まずい間」なんてのまであったりする。これらの特徴は一般に香港映画とは無縁のもので、おれはあんまり「沈んだ顔でうじうじ悩むジャッキー・チュン」や「化粧っ気のない顔でぼそぼそ喋るアニタ・ムイ」などというものを観たいとは思わないので、むしろ台湾映画ファンの皆さんにお勧めする。 ● 主人公は公立高校の古典教師。40歳になったばかりで、いまだ2DKの団地住まい。よく「四十にして惑わず」と言うが、大学時代の同級生がみな高給取りになった中で、同窓会でも独りだけ取り残された気がする。それで証券マンになった友人が「今日はおれの奢り」というのを意固地になって割り勘にさせたり。家庭には高校を出てすぐ結婚した元・同級生の妻(アニタ・ムイ)と、息子が2人。今年、大学を卒業する上の息子は出来がよくて安心だが、下の息子は誰に似たのか勉強も出来ず大学進学もおぼつかないありさま。教師の職に誇りは持っているが、近ごろの生徒たちは漢詩なんてものに興味は示さず、とりたて教師を尊敬するでもなく、空しい気持ちが無いといえば嘘になる。人生の秋を迎えた目には、街の景色すら鮮やかさを失ったように見える。 ● それでもおおむね平穏に過ぎて来た かれの日常にささやかな波風が立つ。自分が古典の教師を目指すきっかけともなった高校時代の恩師が癌で入院し、余命わずか…と知った妻が「病院に通って世話をしたい」と言い出したのだ。じつはかれの妻は高校時代、その教師と付き合っており、かれはいわば「捨てられた彼女を引き受けた」形で結婚したのだ。「きみのしたいようにすればいいさ」とは答えたものの、胸の奥に澱のように溜まっていた苦い思いが口の中に湧いてくる。そんなかれの前にひとりの少女が現れる。よく職員室にも顔を出し、クラスの中でも自分になついて来る18歳の少女=彩藍 チョイラムだ。「彼女が先生にお熱なのは公然の秘密みたいですよ」と同僚の女教師から聞かされて、それまで「教え子」としてしか認識してなかった彩藍が、なんだか急に眩しく感じられる。──あの頃、恩師もまた妻のことをこのような目で見つめていたのだろうか。 ● …と、ストーリーを書くと、こないだまたテレビでやってた「高校教師」みたいな〈教師と女生徒のラブ・ストーリー〉かと思われそうだが、ぜんぜん違う。2人が付き合ってることが学校にバレてスキャンダルになったり、デートしてるところを女房と鉢合わせして修羅場を迎えたりとゆーよーな展開にはならない。映画は、ただ四十男の心に生じたさざなみを捉えることに専念する。演じたジャッキー・チュンは1961年7月10日生まれだから、本作が撮影された2001年7月末の時点で まさしく40歳になったばかり。もともと演技力のある人だからメリハリよりもニュアンスを要求される類の演技も達者にこなしている。かれが高校時代の想い出を息子に語る名台詞>「彼女は(教室の)最前列に座ってた。おれは2番目だ。そうしていつも彼女のポニーテールを見ていた。いま思えば、彼女の顔が見たくて教師になったのかもしれんな」 ● そのポニーテールの娘──妻を演じるアニタ・ムイはこのとき37歳。ほんんど全篇ノーメイクで「生活に疲れた主婦」を演じている。いや名演には違いないんだけど、たとえば初めて「恩師=かつての不倫相手」のことを聞いたとき一瞬だけ瞳のなかに情熱のきらめきが見えるとか、病室でぽつねんと寝たきりの恩師の顔を見ているうちに、かつて自分が入院したときに付き添ってくれた、心の底から心配そうな男の子の顔…いまの夫のことを思い出すとか、なんかもう少しほしい気がしてならない。いや、これがジャッキー・チュンの視点で語られる〈男人四十〉の話だってのは百も承知だが、でも、せっかくアニタを使ってるんだからさ。ねえ? ● 2人とも本作の演技で、その年の香港アカデミー賞の主演男優/女優賞にノミネートされたのだが、なんと助演女優賞部門と新人女優賞部門にダブル・ノミネートされて、しかもどっちもみごと最優秀を獲ってしまったのが、本作でデビューしたカリーナ・ラム(林嘉欣)である(レスリー・チャンと共演の「カルマ」が2作目にあたる) カナダ生まれの、撮影当時たぶん23歳。(以下「カルマ」のレビュウからコピペするが)お母さんが台湾人と日本人のハーフだそうで、なるほどヴィヴィアン・スーをさらに薄倖顔にして、水野美紀を1/4ほど混ぜたみたいな顔してる。 夫婦の上の息子に、ティ・ロン(狄龍)の息子=ショーン・タム(譚俊彦) 主人公の親友で、同級生のなかで唯一、水商売に進んだスナックのマスターの役に(しんねりした映画の中で、ひとり陽気に騒いでくれるので、この人が出てくるとほっとする)香港映画界の山崎邦正ことエリック・コット(葛民輝) ● 英語タイトルは「七月のラプソディ」 脚本のアイヴィー・ホー(岸西 ♀)は本作で最優秀脚本賞に輝いた。このような比較は無意味だとは思うけど「女人、四十。」のヒロインの悩みごとがボケた舅の世話だったのに「男人四十」の悩みは女子高生との恋愛ゴッコ…って、なんか不公平な気もするなあ。 あと、ひとつ残念だったのは(おれは広東語も北京語も解さないので香港映画の輸入DVDは英語字幕で観てるんだけど)主人公が古典の教師ということで李白や杜甫の漢詩が重要な場面で主人公の心象風景として使われるのだ。だけど、漢詩を英訳で読んでもピンと来ないから、最初に英語字幕で大意を掴んでから、もう一度もどって中国語字幕に切り替えて字面を確認したりして、いまひとつまだるっこしい。こればっかりは英漢字幕が一緒に見られたビデオ時代のほうがよかったですな。映画館でちゃんとした日本語字幕つきで観たら ★ ★ ★ ★ だったかも。 ● 以下、余談だが、本作を製作した星皓電影(FILMKO PICTURESは2000年に誕生したばかりの新しい会社で、フェラーリF360を乗りまわす なんとまだ20代という若社長 アレキサンダー・ウォン(王海峰)をイー・トンシンとジェイコブ・チャンが騙くらかして 意気投合して設立した映画会社である。契約監督にはアン・ホイのほか、ツイ・ハーク、スタンリー・クァン、ダンテ・ラム(林超賢)、ロー・チーリョン(羅志良)といった名前が並ぶ。香港版のディレカンと言ってもいいかもしれない。ちなみにレスリー・チャンの遺作「カルマ」もここの製作。すると次の遺作になりそうなのは…(<よしなさいって

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鍾無艶(ジョニー・トー&ワイ・カーファイ)

[輸入DVD観賞] アニタ・ムイ、サミー・チェン、セシリア・チャンという現在の香港映画を代表する3女優が競演した華やかな古装片コメディ。製作・監督はジョニー・トー(杜[王其]峰)+ワイ・カーファイ(韋家輝)のゴールデン・コンビ。ジャッキー・チェンの「アクシデンタル・スパイ」と同じく2001年の旧正月映画に公開され、興行成績はその年の4位。この年のトップは「少林サッカー」なのだが、杜韋班も旧正月に本作、春にアンディ・ラウ×サミー・チェンの「痩身男女」、そして夏にはアンディ・ラウ×反町隆史の「フルタイム・キラー(全職殺手)」とラウ・チンワン×イーキン・チェンの「デッドエンド 暗戦リターンズ(暗戦2)」を同時公開して、この4本で香港全体の年間総売上の4分の1を稼いでしまうという当たり年だった(ジョニー・トーが「ザ・ミッション」「PTU」といった趣味の映画を撮れるのは背景にこうした商業的成功があるからだ) ● 時は、斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙の七国がならび立ち、覇を競う戦国時代。愚かで好色な斉の宣王(男役のアニタ・ムイ)は狩りの最中に道に迷い、盗賊の支配する夜叉山へと入り込む。山中で、巨石を鎖でがんじがらめにして宝刀を突き立ててある塚を発見して、誰がどー見てもなにか邪悪なものを封印してある塚なのに愚かにも…てゆーか、愚かなのでその剣を抜いてしまい、閉じ込められていた齢三千歳の妖怪狐を逃がしてしまう。そこへ現れる夜叉山の盗賊の98代目の頭目=鍾無艷 チョン・モウイェン(男装してるけど女役のサミー・チェン) 好色な宣王は美しい鍾無艷にひと目惚れ。ぜひ妃にと懇願すると、鍾無艷は先祖から「そなたは斉の宣王と結ばれる運命」と予言されていたと驚くべきことをのたまい、結婚を承諾する。ところが鍾無艷にひと目惚れしたものが、もう1人いたことから話はややこしくなる。そう、例の妖怪狐である。妖怪狐は人間の男の姿(男装のセシリア・チャン)で鍾無艷に愛を迫り、拒否されると腹いせに鍾無艷に呪いをかけて彼女のこめかみ醜い赤い痣を作る。宣王への恋心が消えないかぎり痣も消えぬ。さらには可憐な侍女=夏迎春 ハー・インチュン(女装のセシリア・チャン)に化けて宣王の心を虜にしてしまう。宣王はただ好色なだけじゃなく男のクズのような性格なので、醜い痣のできた鍾無艷をサッサと捨てて夏迎春を妃に迎える。それでも運命をまっとうせんと鍾無艷は王宮へと乗り込んでいくが…。 ● 古装片といっても旧正月用のコメディだから、ただ「昔の服を着てる」ってだけで「時代劇」ではない。七ヶ国対抗オリンピックがあったり、戦争のカタが万国対抗麻雀でついてしまったりするバリー・ウォン的世界である。舞台はほとんど宮廷内で、合戦シーンは影絵──中国式の、ステンドグラスみたいな色味が透けてるやつね──で処理される。あくまで眼目は女優3人の魅力でみせる三角関係コメディである。 セシリア・チャンは妖怪狐なのでになってサミー・チェンに迫ったり、になってアニタ・ムイに甘えたり拗ねたり駄々をこねたりワガママを言ったりする。 男装の麗人=川島芳子など、男装を持ち芸のひとつとするアニタ・ムイは愚かで好色で、そのうえ臆病者で卑怯という、カッコイイところのまったくない役を嬉々として怪演し、それだけでなく劇中で女装も披露するし、その他に斉の始祖=桓公の霊の役で白髪&白鬚の老人姿にもなる。 サミー・チェンだけは一貫して役だが、鍾無艷は武芸全般に優れた女傑なので、おとこ女キャラいじらしい女心の使い分けが必要となる。こうしたセックスの混乱はまるで宝塚のようだが、もとは黄梅調というのか中国歌劇(?)の有名な演目らしく「梁山泊と祝英台」の例からもわかるように、男の役を女優が演じるというのは伝統に則ってるのかもしれない。 ● ただ問題は、この芝居の「宣王」というのは、いわば上方歌舞伎の和事でいう「なよっとした二枚目」で、片岡仁左衛門あたりが得意とする「女ったらしの甲斐性なしの小心者で、まったく頼りにならないんだけど、その場かぎりの真心だけはあるので憎みきれない大店の三代目の若旦那」に相当するキャラだと思うのだが、アニタ・ムイは(志村けんのバカ殿様じゃないんだから)あんまり下品に演りすぎ。可愛い娘を前にして鼻息フーフー言わしてるみたいな。あれじゃ単なる「ひとでなしのスケベ親父」だ。本来ならばレスリー・チェンレオン・カーフェイが「臆病な二枚目」として演じるべき役で、本作のアニタ・ムイの演技では「なぜサミー・チェンがあれほど虐げられても宣王への愛を貫き通すのか」に説得力がまったくない。つまりラブ・ストーリーとして成立してないのだ。いくら旧正月のコメディとはいえ、その基本は抑えてくれないと。 ● 無理があるといえば、サミー・チェンのほうも右目の上に桜の花びらの形の痣があるくらいじゃぜんぜんキレイなんだけど、まあこっちは映画の嘘ってことで。それにたしかに手近に、着物の裾をはだけたセシリア・チャンが艶然と微笑んでたりしたらとりあえずそっちから手をつけるかって気もするし(火暴) とはいえ本作ではベテランのアニタ姐とメキメキ売り出し中のセシリアを向こうに回して堂々のヒロイン扱いで、その証拠に主題歌も挿入歌も歌っているのはサミーなのである。1990年代を「たまに映画にも出るトップ歌手」として過ごしてきた彼女が2000年、アンディ・ラウとの「Needing You(孤男寡女)」でついに女優としてもブレイク。本作は、いままで等身大のOL役でファンの共感を得てきた彼女が初めて挑むコスチューム・プレイ、しかも剣戟シーンもある凛々しい女英雄の役ということで「女優」としての力量を試されたわけだが、みごとに乗り切ってみせ、翌年の香港アカデミー賞では、本作と「痩身男女」「ファイティング・ラブ」で主演女優賞のノミネート枠5つのうち3つを独占するという快挙を達成した(あとの2つは前出のアニタ・ムイ「男人四十」とシルビア・チャン「地久天長」ね。結果、最優秀はシルビア・チャンに持っていかれちゃったんだけど) 劇中で「せめてひと晩だけキレイになりたい」という鍾無艷の切なる乙女心に応えて、桓公の霊が秘薬を授ける。「これを飲めば本当にキレイになれるのね?」「ただし副作用がある」「それは…?」「来世で太る」──という、明らかに「痩身男女」を意識したギャグがあるんだけど(上のほうに書いたように)本作公開の時点ではまだ「痩身男女」は公開してないんだけど…!? 謎だ。 ● 宣王を諌める丞相にラム・シュー(林雪) 後半で登場する「顔に痣のある勇者」にレイモンド・ウォン(黄浩然) ちなみに本作は(旧正月映画だからもちろん)ハッピーエンドになるんだけど、その後も宣王の行いは改まらなかったらしく、史実では次の代の途中で臣下(本作に出てる、いつも下痢気味の田将軍ってのがそうだと思う)に国を乗っ取られちゃうのだった…。

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ファイト・バック・トゥ・スクール3
秘密指令は氷の微笑(バリー・ウォン)

[DVD観賞] 香港で女優をする以上、避けて通れないのが「バカ映画」への出演・・・というわけでバカ映画の極め付き、チャウ・シンチー主演の1993年の旧正月映画(これは日本版のDVDが出てます) 「逃學威龍三之 龍過鶏年」という原題からも明らかなように、もともとは「チャウ・シンチー刑事が高校生になりすまして疑惑の学園に潜入捜査する」というコンセプトのアクション・コメディだったはずで、前2作は「デッドヒート」「フィスト・オブ・レジェンド 怒りの鉄拳」のゴードン・チャン(陳嘉上)が監督なこともあって要所要所にはアクション・シーンがあり、チャウ・シンチーがブルース・リーばりの体技を魅せる場面もあった。ところがこのパート3でそれまで製作を務めていたバリー・ウォンが監督にまわるや「学園に潜入する」という大もとのコンセプトはアッサリ忘れ去られ、アクションのかけらも無い「氷の微笑」(1992)のパロディ映画へと変貌した。 ● 大富豪が一流ホテルの客室でセックスの最中にアイスピックで殺された。「映画と同じ殺害方法だ」 で、たまたま被害者と瓜二つだったチャウ・シンチー刑事が、夫の死をまだ知らぬアニタ・ムイのもとへ夫を装って潜入する…。つまりチャウ・シンチーがマイケル・ダグラス、アニタ・ムイがシャロン・ストーンである。言っとくけどエロは無いぞ。香港映画だから基本的に乳は見せないし、有名な「取調室でのノーパン脚組みかえ」シーンはもちろんあるけど、そこでの眼目はアニタ・ムイのスカートの中を見せることではなく、ズラリと並んだ刑事たちが一斉にコケるギャグにある。てゆーか、チンミー・ヤウ主演ならともかくアニタ・ムイでエロをやられてもこっちが困るわけだが(火暴) でも、エロのない代わりに、アニタ・ムイはラブコメの定番=替え玉コメディのヒロインとして終盤にはしっとりとした情愛を見せる。ラスト近くのチャウ・シンチーに気持ちを残したまま別れを告げるシーンなど、ちょっといま観るのは堪まらないものがある。アニタのファンには今回レビュウした3本の中では本作が「ちゃんとヒロインをやってる」という意味でいちばんのお勧め。 ● ギャグに関してはさすがバリー・ウォン。もうほんとうに、よくこれだけ次から次へとクダらないことを考えつくものだと感心するほどの充実度で、アニタ・ムイもゲーブル髭の男装を見せるし、チャウ・シンチーは足の指で箸を持ってラーメン喰ったり(←ちなみにこれは重要な伏線だったりする)、みずからの大ヒット・キャラ=賭聖(「ゴッド・ギャンブラー 賭聖外伝」1990、「ゴッド・ギャンブラー2」1990)に扮して、相手方のエースの4カードにエースの6カードで勝ったりしちゃうわけだ。腹が痛くなるほど大笑いして映画館を出た瞬間に内容を忘れる…という理想的な旧正月映画。 ● 本作の瑕瑾は、チャウ・シンチーの名コンビ=ン・マンタ(呉孟達)が今回なんらかの事情で出演できなかったようで、いつもの「善意の間抜けっぷりがいつも足を引っ張る相棒」の役まわりは香港の海老一染太郎ことナット・チャン(陳百祥)が勤めている。 前2作に引き続きチョン・マン(張敏)が、チャウ・シンチーの恋人役で出演して男装のアニタ姐に誘惑されそうになったり。じつは彼女、本作では「特攻!BAD BOYS」「ミラクル・マスクマン 恋の大変身」のイップ・ワイマン(葉偉民)と並んで「副導演」にもクレジットされていて、この頃から裏方の仕事に興味あったのかな? シンチー&アニタ夫妻の胡散くさい友人をスキンヘッドと怪しいカツラで怪演するのはアンソニー・ウォン。 ジーン・トリプルホーンの役に「不夜城」のキャシー・チャウ(周海媚) ● この日本版のDVDシリーズには特典としてチャウ・シンチーの新録インタビューが収められていて、シンチーはギャグともマジともつかぬ調子で淡々と「過去の自作がいかに出来が悪いか」を語るわけだが、本作に関しても「続篇を撮るのも大変だから3作目はもっと大変だよね。もちろんこの作品もいい共演者に恵まれた。でも・・・つまらなかったね」とにべもない。「なにか面白いエピソードはありましたか?」と訊かれて、「面白いエピソードか。面白いエピソードは・・・ない」 それじゃインタビュー終わっちゃうので、質問に窮したインタビューアーが「じゃ『ゴッド・ギャンブラー2』はなぜあれほどヒットしたんでしょう?」と尋ねたら、「あの当時は観客の見る目も低かったから(あの程度の映画でも)面白いと思ったんだね」だって。

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ちなみに前作「ファイト・バック・トゥ・スクール2(逃學威龍2)」には、冒頭の警察署内の場面で、自分の情婦を苛めてチャウ・シンチー刑事とン・マンタ刑事にボコボコにされるやくざ役で、2003年の12月9日に上海で客死した台湾人カースタント・マン、ブラッキー・コー(柯受良)が出演している。「スパルタンX」や「悪漢探偵」の昔から出ている人なので香港映画ファンならば顔を見れば「ああ、この人!」と判ってもらえると思う。日本での知名度はそれほどでもないが、故国・台湾はもちろん中国や香港では、本職のカースタントで「初めてバイクで万里の長城を跳び越えた人」そして「初めてクルマで黄河を跳び越えた人」として、ひょっとするとレスリー・チャンやアニタ・ムイと同じくらいの有名人らしい。 ● 日本にいてもこれだけ悲しいのだから、中華圏の人たちにとって2003年は春先のSARS騒動から始まってさぞや辛い1年だったと思う。華やかな祝いごとであるはずの香港アカデミー賞式典でまたアニタ・ムイとブラッキーの追悼をしなきゃいけない関係者もさぞや気が重いだろう。でも、今年こそはそんな悲しいニュースを──香港だけじゃなく世界のどこからも──聞かずに済む一年であってほしいと心から願う。

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ジョゼと虎と魚たち(犬童一心)

孤児院から脱走してオババのもとで人目に触れぬまま、学校にも行かず育った下肢麻痺の若い娘が、18、9にして初めて外界と男とちんぽに出逢う話。つまり「カスパー・ハウザーの謎」+「スプラッシュ」である。 ● ジョゼが歩けないのは、つまり彼女が人魚だからだ。ジョゼが海を恋しがるのは、魚たちに会えなくて憤慨するのはそこが彼女の故郷だからだ。遠い昔、愛する王子の裏切りで海の泡と消えた人魚姫が、ながいながい年月を光の届かぬ暗く冷たい海の底で過ごして、いま再びヒトの姿に生まれ変わったのがジョゼなのである。クミコというのは人間の名前。だからカレから名前を聞かれたとき彼女はほんとうの名を教えた。前回の失敗で懲りたジョゼは「足は要らないから舌をおくれ。愛する人に『行かんといて。…ここに居(お)って』と伝えられる言葉をおくれ」と魔女に頼んだ。魔女は代わりに人魚姫から輝く美貌と心蕩かす笑顔とゆたかな美乳を取り上げた。だからジョゼはしゃべる。活き活きとネイティブの大阪弁で憎まれ口をきく。キッツい厭味をいう。言われたら倍にして言いかえす。そしてヤらしい愛の言葉をささやく…。 ● でも結局[今度も王子は隣の国のお姫さまのところへ行ってしまった。魔法のナイフで王子を刺し殺せば、もう一度人魚に戻れることは分かってる。でも、もう海の底には戻れない。まぶしい空にぽっかり浮かんだ白い雲を見てしまったから。吹き抜ける風の心地良さを知ってしまったから。だからジョゼは不老不死の命を捨てて、このままヒトとして生きていくことを選んだ。この町で。この大阪の町で。動かぬ足を引きずりながら] ● 余分な夾雑物を排して主役2人の心情に寄り添った純度100%の恋愛映画。いかようにもファンタスティックに持っていけるモチーフを、あくまで恋愛のリアルにコダわって描く。その現実性が切なさを倍増させる。そしてまた本作は、あの池脇千鶴ちゃんをハダカにしたけしからん映画でもあるわけで、これで監督が大林宣彦だったりしたらその邪心に怒り心頭のところだが、「大阪物語」「金髪の草原」と池脇千鶴 一筋の犬童一心ではしゃーないか。池脇千鶴の大阪弁が素晴らしいが、じつは三池組と同じく、東京&周辺部ロケによる贋・大阪映画である(犬童一心は世田谷出身) 妻夫木クンの自然な芝居も(憎たらしいけど)素晴らしい。 妻夫木クンたら(劇中の)キンパツの弟もハンサムな憎たらしい兄弟なのだった。 隣の国のお姫さまにクレアラシルのCMの上野樹里。1986年生まれということは・・・撮影時16歳!? じゃ妻夫木のヤローは16歳のコを相手にあんなことこんなことを…!? 王子さまの「最初の愛人」に東京乾電池の江口徳子@兵庫県出身。おれのような東京もんがイメージする「関西の大学生のカノジョ」にドンピシャリの見た目とキャラが素晴らしい。ヌードあり。

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東京ゴッドファーザーズ(今敏)

制作:マッドハウス

おみごと!の一言。 「パーフェクト・ブルー」「千年女優」に続く今敏(こん・さとし)監督の長篇アニメーション。おれは「パーフェクト・ブルー」を未見のままで、「千年女優」については出来の良さは認めるものの「アニメでやる必然性」が感じられないのが致命的だと思った。その点、本作こそ まさにアニメーションでなくては成立しない話である。…などと書くと、おいちょっと待てコラ、時空が自在に入り乱れて宇宙ロケットまで出てくる「千年女優」が非アニメ的で、現代の東京で3人のホームレスが捨て子の赤ん坊を拾う話のどこに「アニメでなくてはならない必然性」があるんだよ! こっちこそ実写で出来るじゃねえか・・・などと思われる方もいそうだが、いやいやアニメ向き/非アニメ的の違いというのは、それがSFであるとか物語がハデだとか地味だとか触手の先がペニスになってる妖獣が出てくるとかいった事柄とは無関係なのだ(…いや、ちょっとはあるかな) ● 「アニメーションであることの強み」とは言うまでもなくそれが実写ではないことだ。つまり現実問題として東京の街はあれほど美しくないし、もちろん都合よく雪景色になってくれたりもしない。そして事実としてホームレスはやっぱり臭くて汚いのだ。3人のホームレスの声を演じた江守徹・梅垣義明・岡本綾それぞれ本人が出演してオール・ロケで(「天使」や「落下」のシーンにはCGを使用して)撮ることも可能だろう。だがそれでは話が重くなってしまう。江守徹は必要以上に落魄の哀しみを滲ませるだろうし、梅垣義明のメイクの浮いた脂でギトギトした顔はアップに堪えない。本作がファンタジーとして成立しているのは──観客が そのあまりに出来すぎた話を受け容れられるのは、ひとえに「アニメーションというフィルター」を通して観ているからなのだ。 ● 「千年女優」で鼻に付いたアニメ村的な手癖も本作ではほとんど気にならない。今敏は抑えに抑えた演出で(「カウボーイビバップ」「白線流し」の信本敬子の脚本による)ストーリーを語ることに集中して、終盤の追っかけアクションでようやく動画としての魅力を全開にし、それに続くクライマックスのサスペンスに繋げて(詳述は避けるが)女装オカマのハナちゃんがふわりと浮き上がる「一瞬」に映画の時間を止めてみせる。その瞬間にかれが(=観客が)目にする風景!──これこそアニメーションの持つ力。みごとなオルガズムの瞬間である。 ● 声優陣の仕事も現在 望みうる最高の水準。 江守徹はもともと1人芝居で2時間もたせてしまうほどの台詞術を持つ俳優なので今さら驚きはしないが、WAHAHA本舗の梅垣義明のウマさにはビックリした。これ、まさかプレスコではないと思うが、少なくとも梅垣義明=女装オカマのハナちゃんだけは完全にアテ書き/描きである。なにしろ劇中に越路吹雪の「ろくでなし」を歌うシーンがあるのだから(!) 家出少女を演じた岡本綾もじゅうぶん「プロの声優」として通用する。 拾われる赤子の「声」には「クレヨンしんちゃん」のひまわり役でお馴染みの、こおろぎさとみ。 脇をかためる飯塚昭三・加藤精三・石丸博也・屋良勇作・大塚明夫・山寺宏一といったベテラン陣も持てる力を存分に発揮している。なかでも大塚明夫の演じた町医者は儲け役で、出演は1場面&台詞はわずか3つか4つなのだが強い印象を残す。 ひとつ不思議だったのは「行き倒れのホームレス老人」のキャラクター・デザインが、やぶ睨みな目ん玉など 明らかに三谷昇をモデルにしているのだが、なんで本人に声を頼まなかったんだろ? ● 音楽は前作の平沢進(P-MODEL)に続いて今度は鈴木慶一&ムーンライダーズ。 オープニングのクレジットが、街の看板やネオン文字になっていてとても洒落てますな。 これ、聖夜から元旦までの話で、日本映画にはめずらしい心あたたまるクリスマス・ファンタジーで、しかも第九も聞けるのでこの年末にゼヒ。

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阿修羅のごとく(森田芳光)

原作:向田邦子 脚本:筒井ともみ 音楽:大島ミチル
美術:山崎秀満 衣裳:宮本まさ江 撮影:北 信康 録音:橋本文雄

おみごと!の一言。 脚本家・筒井ともみ と組んで近過去の時代の空気を再現する試み。つまりやってることは「それから」(1985)と同じなのだが、当時は背伸びしたディレッタントにしか思えなかった森田芳光も五十を過ぎてこうした素材を自然に撮れるようになったわけだ(正確に言えば「自然であるように見せかける技巧を観客に気付かせないだけの熟練を身につけた」ってことなんだけど) ● 昭和54年から55年にかけての物語…というと えらい昔のことのようだが、西暦で言えば1979〜80年。つまりケラの「1980」と同じ時代の話なのである(本作の四姉妹の末っ子・深田恭子と「1980」の三姉妹の次女・ともさかりえは同い年という設定である) 田舎からテクノポリス=TOKIO に憧れて上京してきた高校生がいる一方で、このように東京土着の家族がつつましく暮らしてもいたわけだ。美術・背景・小道具など、すべてにおいて本作のスタッフワークの完成度の前では「1980」など児戯に等しいのだが、昭和55年(1980)に高校3年生だった者(おれだ)の実感としては当時を忠実に再現しているのは「1980」のほうである。これは単純に おれの年齢が森田芳光よりケラに近いというだけではないと思う。本作で描かれている家庭像はまるで「サザエさん」そのまんまなのだが、当時すでに「サザエさん」はフィクションでしかなかった(ちなみに、もちろん黒木瞳がサザエさん長澤まさみがワカメちゃんね。小林薫がマスオさんで、仲代達矢&八千草薫が波平&フネ夫妻。ね? でしょ? そんで大竹しのぶの見合い相手の益岡徹がアナゴさんだ) …えーと何の話だっけ? そうそう、そもそもすでに「阿修羅のごとく」に先だつ向田邦子 脚本の大ヒットドラマ「寺内貫太郎一家」(1974)においてすら、小林亜星を家長とする喧嘩ばかりしてる大家族を「かつてあったユートピア」として描いていたのではなかったか。 ● おれの目には映画「阿修羅のごとく」に出てくる登場人物たちは昭和40年代(以前)の日本人に見える。そして森田芳光はそうした詐術を意図的に行っている。森田は技巧を尽くした人工の極致である前作「模倣犯」でちょうどひと回りしたんだと思う。数々の映画賞に輝いた「家族ゲーム」(1983)の衝撃があまりに強くて、森田芳光というと〈技巧派〉の印象が付いてまわるが(←おまえがそう書いてんじゃねーか!)、この人の原点=デビュー作は、下手っぴぃな二つ目落語家とトルコ嬢の恋と青春、の…ようなものを描いた「の・ようなもの」(1981)である。あるいは8mm時代の「ライブイン茅ケ崎」(1978)を挙げてもいい。ロマンポルノ時代の「(本)噂のストリッパー」「ピンクカット 太く愛して深く愛して」もまた根底にあるのは下町人情コメディのテイストだった。森田芳光はいま一度そうした軽妙な、おもろうて やがて哀しきヒューマン・コメディを撮ろうとしたのだと思う。だが、2003年の日本映画でそんなものをただ作ったら、それは単なるアナクロでしかない。そこで必要になったのが「昭和の時代」というフィルターだったのだ。 ● …と、まあ、そんな理屈は抜きにして本作はただただ名優たちの役者芝居を楽しめばよろしい。森田芳光の管理主義的演出に力負けしない俳優がこれだけ勢揃いする機会なんて滅多にありゃしないんだから。板東三津五郎とか よく松竹が貸してくれたよなあ。 なかでは、やはり深田恭子がミスキャストだった。百戦錬磨のベテランに囲まれて 誰がやっても難しいポジションなのだが、ここは本当に[10日間、絶食してる]ように見える人で、かつ終盤の○○のシーンでスパッと脱げる人でないと(後ろ姿で構わんので、あそこで白い裸身を見せるのと見せないのとでは感動の度合いが違ってくる。←いやほんとだって! おれの私利私欲で言ってんじゃねえってば) あと中村獅童はキャラ作りすぎ。キャラを作るのはいいが、それが「地」になっていないと(たとえば田口浩正は本当はああいう人ではないのだが、スクリーン上では完全にああいう人に見えるでしょ?) いやそれにしても食いものが(それを食べる音が)みんな美味そうな映画だった。終わって思わず蕎麦屋を探しちゃったぜ。

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アイデン&ティティ(田口トモロヲ)

ばちかぶりのトモロヲ監督作品・・・だったら良かったんだけど、素の「田口トモロヲ」自身の真面目さが裏目に出てしまったようだ。「ロックとは何か?」なんて簡単に答えの出るもんじゃないし、またそれ以上に真剣に答えを追求するよーな問題じゃないだろう。ロックなんてもっとイーカゲンなもんだし、本作に「ロックの神様」として登場するボブ・ディランだって流行りもの好きのスケベ親父じゃないの。伝えたいメッセージや自分の思ってることを言葉/曲にするのがロックというなら、ロッド・スチュアートはロックじゃないのか。酒飲んで女抱いてドラッグ吸って友人としてはサイテーで、でもひとたびステージに立てばロックとしか言いようのないオーラを放つ。それもまたロックじゃないのか。なにもパンタやチャーや遠藤ミチローだけがロックじゃない。白竜だってロックだし、ジョニー大倉だってロックだし、内田裕也だってロックだし、安岡力也はヤクザだけど、ガクトだって(たぶん)ロックだし、陣内孝則だって(もしかしたら)ロックなんだよ。 ● ロックとは何か?──残念ながら この映画が2時間かけて描いたものはエンドロールにかかるディラン1曲に敵わない。だが、それゆえにこそ、容易に予想できるプロデューサーの「いやー、原曲使っちゃうとDVD出すのが大変なんですよ。予算てものもありますし、カントク、ここはひとつスピードウェイのカバー・バージョンってことで…」などとゆーギョーカイ的な牛のクソに屈することなく、幾多の障害をクリアして本物の「ライク・ア・ローリング・ストーン」を使うことに成功したスタッフの熱意と努力に敬意を表して星3つ付けておく。 ● ということで、おれにはうだうだ悩む主人公よりも、即物的な中村獅童のヴォーカリストや、ヴィジュアル系カリスマ・ロッカーから深夜番組のタレントとして生き延びる奴のほうが、よほどロックという感じがした(後者の役は及川光博だったら良かったのに) 麻生久美子のヒロイン像もあまりに理想的すぎて面白くない。「神様」と「女神さま」に温かく見守られる主人公…なんて甘やかし過ぎだろ。ファンタジーにしてどーするよ? ※星3つ付けてる割りには批判的な感じだけど〈監督〉田口トモロヲの次回作はぜひ観たいと思っている。

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赤目四十八瀧 心中未遂(荒戸源次郎)

失敗した。いや、たまたまなんだけど国立劇場で尾上菊五郎主演の「二蓋笠柳生実記」を観た次の日に「赤目四十八瀧心中未遂」を観に行ってしまったのだ。だから本作での(娼婦役なので厚化粧した)寺島しのぶが白塗りした菊五郎にしか見えなんだ。可哀想にみごとなまでにお父ちゃん似なんだよな>寺島しのぶ。だからお母ちゃん似の弟=菊之助のほうが女っぷりはずっと上で、吉原の見世先で寺島しのぶと菊之助が並んでたら、おれは迷わず弟のほうを選ぶね(火暴) ● (c)UREさんであるところの「蒸発旅日記」に続く21世紀ATGの第2弾。あるいはさらにジャンルを特定するならば「蒸発旅日記」に続くつげ義春 復刻版の第2巻である。ちょっと待てこれは車谷長吉の直木賞受賞作の映画化だろ。いやそうなんだけど「生活力のないインテリ男が放浪の途中でシュールな異世界に紛れこむ」という物語設定はまさしく「つげ義春もの」なのだよ。寺島しのぶばかりがクローズアップされてるからてっきり彼女が主役なのかと思ったらそうじゃなくて主役は「書く気を失くして蒸発した作家」のほう。寺島しのぶは「なんでか知らんけど甲斐性なしの主人公に惚れちゃう地元の商売女」の役まわりなのだった。ね? つげ義春でしょ? ● 釜が崎(通称カマ)こと大阪市西成区あいりん地区から流れ着いた先は兵庫県尼崎市(通称アマ) 新人・大西滝次郎 演じる主人公は、大楠道代のホルモン屋の女将に、ぼろアパートの2階の陽の当たらぬ畳の腐りかけた六畳一間で日がな一日、ホルモン用の臓物を捌いて串に刺して1本5円…という仕事を世話してもらう。ところがそのアパートに住んでるのは内田裕也の金髪ぼさぼさ髪の彫り師とか沖山秀子のおっかないびっこの婆ァパン助とか寺島しのぶのチョーセン人パン助(ム所帰りのキチガイやくざの兄貴あり)とかなのだった・・・ってギャグですか? これってコメディ映画だったの? だって笑うだろ。内気で優柔不断な主人公がキョーレツなキャラばかりの集団へ放り込まれて弄られたおす…ってシチュエーション・コメディの基本パターンじゃんか。ここで「なにを言うか失礼な! これぞまこと偽りのない尼崎の現実である」と車谷長吉と尼崎市民の皆さんは仰有るかもしらんが、悪いがおれにはとてもこの世のものとは思えんよ。おまけに主人公の「唯一の友だち」は三省堂の新明解国語辞典で、かれは「新解さん」と名付けたこの辞書にだけ話しかけるのである。おまえは赤瀬川原平か!(じっさい「新解さんの謎」が参考図書としてクレジットされている) ● おれは劇団「天象儀館」時代の荒戸源次郎を知らんので、あるいはこーゆーのが本来の荒戸源次郎の世界なのかしらんが、ちょっとシュールさの匙加減が失笑ものであった。いまどき幻視する主人公のアップに「めまい」ズームを使うってのもなあ。しかも大仰に「赤目製作所 提唱」というクレジットで始まって 【提唱】(1)新しい考えを人に先立って主張すること (2)禅宗で教義の大綱を示し説法すること[大辞林より]、ラストにはエンドマーク代わりに金文字でドドーンと「合掌」と出るんだぜ。もう椅子からコケたよ おれは。でもそのわりには細部にはいい加減で、ドアタマは、片手に虫取り網を持ったランニング・シャツの少年が色つきの下敷きで日蝕をあおぎ見る印象的なシーンから始まるのだが、下敷きを空に翳す少年→欠けた太陽のアップ…と切り替えして、再びカメラが少年を捕らえると少年は蝶を追って走り出すのだが、えーとキミ、いま持ってた下敷きはどこに仕舞ったんだね? それとか主人公の部屋で大楠道代が剥いたみかんの皮を灰皿代わりにタバコを吸っていて、そのシーンは「みかんの皮に捨てられた2本の吸殻」のアップで終わるんだけど、この女はちょっと吸ってすぐ消すタイプのタバコ呑みらしく吸殻は2本ともほとんど減っていないのに、なぜかみかんの皮には大量の灰が載っているのだ。えーと、その大量の灰はどこから出現したんですか?(←こーゆーのは助監督がバカなのかね?) ● おお、そうだ。まだ本作最大の欠陥のことを言ってなかった(まだあるのか!?) じつは本作は2時間40分もあって──いやそのこと自体は(こうしたアート系の映画では)出来がよければ欠陥ではないのだが──1時間半ほどの「長屋ものコメディ」のあとで突如として、…てゆーか、まあ、タイトルが「赤目四十八瀧心中未遂」なんだから必然ではあるのだが、主人公と寺島しのぶの「死出の道行」が1時間ほど続くのだが、そこに至るまでに2人の間の感情がまったく醸成されてないので、2人の逃避行にまったく説得力がない。なんでヒロインが男に惚れたのか解からないし、男の気持ちにいたってはこの男がなにを考えてるんだか皆目見当がつかないのだ。駄目じゃんそれじゃ。「心中もの」になってないじゃん。というわけで一般の映画ファンの方にはお勧めできない。寺島しのぶのハダカ目当てと刺青女マニアの皆さんは「マニキュアのシーン」が終わったら帰ってよし(そこならまだ2時間以内だし) 後のシーンは見るだけ無駄。まあ、前半だけやったら星3つサービスしたってもええけどな。

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ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS(手塚昌明)

手塚監督になって3本目。今回は前作「ゴジラ×メカゴジラ」からストーリーが繋がっている、直接の続篇である。海底に眠っていた初代ゴジラの骨からメカゴジラを作ったという前作での設定を受けて、本作ではインファント島からモスラに乗ってやって来た双子の小美人が「ゴジラの骨を海に返してください」…って、それは大きなお世話だ。今回、モスラの設定は明らかに最初の「モスラ」(1961)に準じているのだが、それならばゴジラがいくら日本の国土を踏み潰そうが「インファント島の護り神」であるモスラとは何の関係も無いはず。しかし戦後の栄養事情の改善は南洋のインファント島にも及んでいるようで、初代・小美人のザ・ピーナッツと較べると今回の「ロボコン」の長澤まさみちゃん他1名の場合、同じような衣装は着ててもスタイル向上は著しいのだった:) ただ、せっかくへそ出しルックになってるのに引きの画ばっかりなんだよな、ぶつぶつ…(←だってカメラが寄ったらコビトだって判んないし) ● 小美人の2人が訪ねるのは「モスラ」の主人公だった中條博士(小泉博)その人! あれから40年。すっかり白髪の老人となっての登場である。いきなりリビングルームのテーブルの上に出現した小美人に博士が「おお、キミたちは!」と驚くと、きれいなユニゾンで「覚えていてくださったのですね!」って、そりゃフツー、身長21cmの双子の美人に会ったら一生 忘れませんて。てゆーか、ということはザ・ピーナッツと長澤まさみちゃん他1名は同一キャラという設定なの?(それとも「小美人」は同一の魂が転生を繰り返すとゆー設定なのかな) ● というわけで、作り手が東宝特撮怪獣映画の先達に相応の敬意を払っているのは結構なんだが、この映画「最初の怪獣アクション」まで30分以上あるのだ。結局それがイコール「メインの戦闘シーン」で、その場面が延々と45分も続く。それじゃあ小さなお友だちは飽きちゃうでしょ。もっと本質的なところを真似しなさいよ。それでいて手塚演出は、メカゴジラの操縦士が(メカゴジラの体内ではなくて)上空の支援機のコックピットで操縦していることも、メカゴジラの[体内に閉じ込められた]整備士がいったいメカゴジラの[どの部分に閉じ込められているのか]も明らかにしない。それって演出家が観客に伝えるべき最も基本的な部分じゃないか。 ● 結局やはり脚本なのである。「決戦!南海の大怪獣」(1970)(おれは未見)のカメーバを登場させてガメラに対抗心燃やす暇があったら伊藤和典の脚本をもっと研究しなさいよ(大人向けにしろ、ということではないよ) あと言っとくけど、カメ型 巨大生物を目撃したヒロインが「あれはカメーバですね」と言うと、隣のヒネクレ者の隊員が「もう少しマシなネーミングはなかったのか」…って、それは絶対にやっちゃいけないことだろ。 それとかアメリカの原潜が(アメリカ領である)グアム島沖でゴジラに襲われて消息を絶ったりしたら「海自と空自で探索」どこの騒ぎじゃなくて(グアム島に配備されている)アメリカ海軍の潜水艦部隊や沖縄の第七艦隊が出ばってくるだろ。もう少し考えて作れよ。「ゴジラ」シリーズを一貫して製作している東宝映画の富山省吾は、おそらく「次はまたモスラで行くか」と怪獣の順列組合せ的発想でしかモノを考えてない気がするが、2年、3年先のことを睨んでプロの脚本家に発注するぐらいのことをしてみろよ。 ● 今回、ゴジラのデザインはやけに首が太くて、なんか首の横にエラがあるみたいで格好わる〜。 前作の主役だったのに今回は出演しないのか!?と危惧された釈由美子はちゃんと出演してました(アメリカへ研修に行くということで壮行会のシーンがある) ちゃんと見得をキメるシーンもあって、まあこの人もたいがいダイコンなほうだが、新任の吉岡美穂 隊員の前ではものすごい名優に見えてしまうから不思議(吉岡美穂もCMとかだとイイ感じなんだけどねえ) あと今回、ゴジラは国会議事堂 周辺を破壊するんだが(おれの見間違いかもしれないが)なんか議事堂のすぐ隣に聖路加ツインタワーが建ってたような…。するてえとアレですか。「ゴジラ」の東京は皇居のない東京なんですか!?

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精霊流し(田中光敏)

まるで「昔の日本映画」を観てるようだった。いや、褒めて言ってんじゃねーぞ。昔の日本映画では、こういうベタな演出とベタな演技が普通だった。だが、大きく違うのは昔の監督には「ベタな演出」で一瞬にして客を泣かせるだけのテクニックがあったし、昔の役者には「ベタな演技」に人生の真実を滲ませるだけの技量があったということだ。「精霊流し」にあるのは二流の演出と品のない演技、そして芯を欠いて曖昧模糊とした物語だけ。監督は「化粧師」のCM/TVディレクター 田中光敏。脚本も「化粧師」のTBS系(?)脚本家・横田与志。 ● 輪郭のまったくはっきりとしないストーリーをえいやと分けると「バイオリニストを目指して上京した主人公の青春立志篇」と「松坂慶子の哀しい女一代記」、そして「主人公と居候先の従兄とヒロインが織り成す三角関係ラブ・ストーリー」の3つになる。その他に従兄の「母恋し物語」と、就職先の社長の「東京立志伝」まで入ってるので似たような軸がいくつも交錯して、結果この映画で何がいちばん言いたかったんだかサッパリ解からんようになってしまってる。んでまた出てくる男が揃いも揃って、大学生にもなって「酒井美紀よりママのほうがスキ」という重度のマザコン野郎ばかりで──いや、そりゃたしかに昔の裕次郎の映画とかも今の視点で見るとビックリするくらいマザコンなんだけどさ──朝のテレビドラマのような説明台詞を除くと、台詞の大半は母親への怨みつらみと母親自慢に終始するのだ。でもまあ、よくしたものでカノジョの酒井美紀はファザコンなのだった。<いやだからそういうことじゃないから。 ● なんだかんだ言っても長崎県&長崎市 全面協力による精霊流しのクライマックスには(おれのようなヒネクレ者を除いて)かなりの人が泣かされるのだろうが、あそこにしたってインスト版で泣かせておいて、エンドロールにさらに さだまさしの歌…ってのはクドすぎ。てゆーか、バイオリンで話を始めてるんだから、ラストは(精霊流しの後のエンドロールでもいいから)主人公がバイオリンで母を送らなければ映画が終わらんでしょーが。 ● 俳優陣には名優と呼んでよい人たちも含まれているのだが、演出家のコントロールが未熟なせいで下品な芝居の大安売り。いくら回想シーンとはいえ松坂慶子が「高島礼子の妹」という配役にも無理がありすぎ。唯一(おそらく作り手の意図しないところで)面白かったのは「主人公の老父」を演じる田中邦衛がひさびさに東映やくざ映画時代の、考えなく口を滑らせて事態をさらに悪化させる「うっかり八兵衛」キャラだったこと。 時代風俗を再現した美術・小道具は健闘していた。

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木更津キャッツアイ 日本シリーズ(金子文紀)

脚本&部分演出:宮藤官九郎

千円札を窓口に出して「木更津1枚」…って、なんか電車の切符買ってるみたいだな。オープニングは意表をついて今から30年後の2033年、〈哀川翔 主演1000本記念作品〉を上映中の木更津東映から。1000本てアナタ…と思わず笑ったけど、考えてみたら あと30年で900本だろ? 1年30本…。あり得るじゃねえか(火暴) ● 人気テレビシリーズの映画化。完全にコアなファン向けに作られていて(例によってテレビ版を観てない)おれはその半分も楽しめてないと思うが、それでも面白かった。「化粧師」「無問題2」でもモグラみたいな顔のグラビアガールという印象しかなかった酒井若菜がこんなにバケてるとは! それと、おお! あれはわが青春のズリ…あ、いや青春のアイドル=森下愛子サンではないか! もうとっくに四十は越えてるはずなのになんなんですかあの可愛らしさは!? これ、おそらくテレビ版のファンなら ★ ★ ★ ★ ★ なのではないか。とくに冒頭の破壊的な傑作ギャグはレギュラー・キャラを知ってないと笑えないので、どれか1話だけでもいいから事前にテレビ版を観ておくことをお勧めする。内容についてはチラシ裏面解説の締めのパラグラフが秀逸なので、ここに引用しておく>[はたしてキャッツはロックフェスで新曲を披露することができるのか!? オジー復活の謎は!? そしてぶっさんの恋のゆくえは!? いったいどこに向かってスケールアップしていくのか誰にも分からない波乱万丈の展開が待ち受けていた…] ● HDビデオ撮り。フィルム変換に金をケチってるのか えらい寝惚けた画面で、ピントが甘く見えて気になって仕方がない。これならいっそビデオ/DVDになるのを待ったほうがキレイな画質で楽しめるかも。あと「ルールズ・オブ・アトラクション」でも使っていたテープ巻き戻し回想(=「物語の語り手」が変わったときにキュルキュルキュルと画面が高速巻き戻しされて「ストーリーの分岐点」まで戻ったところで今度はいままでとは別の道筋が語られる)を多用してるんだけど、これってテレビ版のときから? 監督はテレビ版から続投の金子文紀(TBSディレクター。「ケイゾク」「池袋ウエストゲートパーク」など案の定、堤幸彦作品を多く担当している模様) 脚本の宮藤官九郎と片山修(TBSディレクター)が「部分演出」としてクレジットされている。

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イン・アメリカ 三つの小さな願いごと(ジム・シェリダン)

いや、そりゃいくらおれが涙もろいからって「泣ける映画 イコール 良い映画」とは限らないことは知ってるよ。「泣かせ」というのはひとつの演出技術に過ぎないことも頭では理解してる。でもさあ。これだけ泣かされちゃったら素直に降参するしかないでしょ。上の女の子が学芸会でイーグルスの必殺の名曲「ならず者」を歌うシーンなんて、あたかも落ち込んでる家族を元気づけているように見える卑怯な編集のせいもあって、はっきり言ってリンダ・ロンシュタット版よりも泣けたもの。本作の唯一の欠点は、観たあとぐったりしてしまって何もする気にならないということで、おれはこの日、続けてあと2本ハシゴする予定だったんだけど、とてもそんな気になれなくて、かと言って人混みの電車に乗るのも余韻が醒めそうで、結局、皇居の周りをとぼとぼ歩いて帰ったよ。 ● すこしばかりの希望と家族の絆のほかには何も持たず…いや、それどころか幼い男の子を病気で失うという計り知れない喪失を抱えてアメリカに渡って来た、アイリッシュの4人家族。カナダ国境から観光ビザで入国して、そのままNYのヘルズ・キッチンに不法滞在。父ちゃんは売れない俳優で、オーデション通いの日々。教師の職が見つからず「ヘヴン」という名のカフェ・パーラーでウェイトレスをする母ちゃんの稼ぎだけではゴミ溜めアパートの家賃の支払いがやっとの最低生活。それでもまだ「生活の辛さ」を感じぬほど幼い2人の姉妹の健気さに救われてなんとか生きてきたが、いよいよ追いつめられて、わずかに残った希望も儚く潰えそうになったときに起こる小さな奇蹟…。 ● アイルランド人監督ジム・シェリダンの新作。正直言って「マイ・レフトフット」や「父の祈りを」は(観てるときはそれなりに感動はしたけど)それほど好きな映画ではない(「ボクサー」は未見) 辛い話を辛く語る映画はあんまり好きじゃないのだ。だけど本作は違う。「リービング・ラスベガス」「モンスーン・ウェディング」のアイルランド人カメラマン、デクラン・クインの力もあって、従来のリアリティ重視の重厚なトーンに、絶妙なマジック・リアリズムのタッチがミックスされ、心あたたまる御伽噺として観られるようになっている。全篇に、上の女の子のナレーションが加えられているのも そうした印象を強めている。御伽噺だからあまり細かいことは言いっこなしで、不法入国/滞在者の子どもが私立小学校に入学できるのか?とかアクターズ・ユニオンの問題はボカされる。また何より、上の娘が肌身はなさず持っているハンディカムは、この映画の背景となった〈「E.T.」が初公開されたころ〉に貧乏人の娘が所有するには高価すぎるオモチャだと思うけど、いいのだこれは御伽噺だから。 ● じつは、かなりのモチーフがジム・シェリダン自身の実体験に基づいているのだそうだ。かれは1981年に実際に妻と2人の娘を伴ってカナダ経由でNYに渡り、ヘルズ・キッチンの安アパートからNYUの映画学科に6週間かよった。脚本はジム・シェリダンと、かれの(いまはそれぞれに映画監督/脚本家の卵となった)2人の娘が共同で執筆した。3人目の娘は実際にNYで生まれた。ジム・シェリダンは実際に夜店のボール投げで全財産をなげうった(もっとも真実は[本当に全財産をスッてしまった]そうだが:) そしてジム・シェリダンはアイルランドで(子どもではなく)実の弟を脳腫瘍で失った(この映画は、かれ──フランキー・シェルダンに捧げられている) 本作がある種のノスタルジーに彩られた御伽噺であるにもかかわらず、こんなにも人の心を打つのは──こんな言い方は自分でもクサいと思うけど──そこに作り手の心がこもっているからだ。お正月最高の暖房器具。 ● お父ちゃんに、ちょっとスティーブン・レイに印象が似てるパディ・コンシダイン。 お母ちゃんに超短髪のサマンサ・モートン@騎乗位の激しい濡れ場あり。 いつもハンディカム片手の物静かなお姉ちゃんを演じるサラ・ボルジャー(11歳)と おしゃまで元気な妹のエマ・ボルジャー(7歳)は、アイルランド在住の本物の姉妹。いや、もうほんとに天使のように可愛らしいぞ。 正体不明の気難しい隣人に扮したアフリカ人俳優 ジャンモン・フンスーがいつものように場をさらう。

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ミッション・クレオパトラ(アラン・シャバ)

製作:クロード・ベリ

モニカ・ベルッチは偉大である。絶世の美女たるクレオパトラを演じて どこからも文句の出ない人選が他にあろうか。このような箸にも棒にもかからぬ、楊枝の先ほどの価値もない作品に出ても、しっかりハミ乳&背中ケツ割れドレスを纏ったりミルク風呂に入ったりして我々の眼を楽しませてくれるのだ。普通なら10分で退場してるとこなんだが「まだこのあともモニカ・ベルッチさまの御出ましがある」という思いだけがおれを最後まで劇場内に留めた。 ● ここを読んでおられる皆さん全員が御存知のように、この映画は(ギャガが宣伝しているような)モニカ・ベルッチ主演作ではない。「アステリックスとオベリックス」という凸凹コンビが活躍する人気漫画の映画化 第2弾である(げっ。凸…もとい、デブのほうはジェラール・ドパルデューだったのか!) 漫画とはいっても「メタル・ユルラン(=ヘヴィ・メタル)」系のフレンチ・コミックスではなくて、原作未読ながら映画から判断するとユーモアのセンスは「のらくろ」と同レベル。やつら本当にこれで笑うのか!? これが2002年の公開時には7週連続ナンバー1で、年間成績 第1位。しかも「タイタニック」に次ぐ歴代興行記録の2位ってんだから、やっぱフランス人とは未来永劫、友だちにはなれんな。 ● あと関係ないけど劇中で「いつまでたっても仕事をしない、まったくアテにならない職人」の例として「二輪戦車の修理屋」が何度も(ギャグとして)引き合いに出されるんだけど、現代フランスのクルマ修理事情ってそんなにヒドいのか?(メーカー修理とかないのかな)


ミシェル・ヴァイヨン(ルイ=パスカル・クヴレア)

製作・脚本:リュック・ベッソン

前にBBSにも書いたが、レース映画/カーアクション映画ってのはたとえ本篇が大したことなくても予告篇だけは面白そうなもんなんだが「ミシェル・ヴァイヨン」の予告篇にはおれのハートのタコメーターはピクリとも動かなんだ。だが実際に観てみれば それも道理。本作はじつはレース映画でもカーアクション映画でもないのだ。これはハリウッドのアメコミ映画化ブームに便乗して「流行もの大好き!」なリュック・ベッソンがフランスの超人気コミックスをちょちょいと映画化した実写版「チキチキ・マシン猛レース」である。善いもんも悪人もブラック魔王みたいなセコい妨害工作に血道をあげるばかり。レースをしろよ レースを! てゆーか、アンタらそんなことして勝って嬉しいか!? ● 監督はクルマのCMを450本以上も手掛けた「ベテラン」だそうで、クールな(つもりの)ルックも画面から熱気を奪うだけ。平日夜、20〜30人の観客で埋まった日比谷映画の、うすら寒い風 吹き抜ける場内にはどっかのオヤジの鼾が響いていた。作り手たちがあまりに愚かなので星1つとする。あ、ちなみにテレビ放映の際には、相手チームの女オーナーはぜひ小原乃梨子さんにドロンジョの声でお願いしたいですな。どーせ観ませんけど(観ないんかい)

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ブルース・オールマイティ(トム・シャドヤック)

おっ。またUIPのロゴが新しくなった。おおっ。しかも最初に日本語タイトル(と「字幕:戸田奈津子」)が出たぞ。メジャー系の配給会社で日本語タイトルが出たのって史上初めてなんじゃないか!? ● 「エース・ベンチュラ」のトム・シャドヤックが監督、「ジム・キャリーのエースにおまかせ!(エース・ベンチュラ2)」のスティーブ・オーデカークが共同脚本(てゆーかたぶんギャグ担当)…というジム・キャリーの特質をよく知るスタッフによる新作コメディだが、やはり「ライアー・ライアー」(監督:トム・シャドヤック)以降のハートウォーミング路線である。せっかくジム・キャリーに「神の力」を与えたというのにクレージーなギャグは見られずじまい。後半でお行儀よく改心しちゃうのもなんだかなあ。いや、もちろんラストは改心しなきゃ映画が終わらないんだけど、その前に(神の力を乱用した報いで)主人公をもっとヒドい目に遭わせないと。 ● 脚本がダメダメなのに、なんとなく「名作」を観たような気にさせられてしまうのは、ひとえに「神」に扮したモーガン・フリーマンの説得力である。この名優にかかると、たいしたことは言ってないのに、ものすごい箴言を聞いた気になってしまうのだ。畏るべしモーガン・フリーマン。 ● あとこの映画、最近はなんでも簡単にCG合成できちゃうからってブルーバック使いすぎ。ナイアガラの滝ぐらいロケに行けよ。

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チャーリーと14人のキッズ(スティーブ・カー)

どんなものにも順番はある。勝者の陰には敗者あり。さりとて有楽町はニュー東宝シネマ、正月休み明け平日夜の最終回の客席は、おれを入れて13人だった。うわ。タイトルより少ないじゃんか。有楽町/日比谷の映画館はチェーンマスターなので新聞広告でも最初に大きく載せられるし、雑誌の紹介記事とかでも「ニュー東宝シネマほか」と書かれる。だからどんな腐った 苦戦してる映画でも最低20〜30人は入ってるものなのに…。そもそもエディ・マーフィーというスターは日本じゃUIP宣伝部が育てたよーなもんなのに(ひところのポスターには「ビバリーヒルズ・コップ」の、指で岡本理研ゴムの商標を作ったエディの写真が必ず入ってたの、覚えてます?)エディの名を出さず子どもウリで「14人のキッズ」なんてタイトルを付けて、しまいにゃエディ・マーフィーの写真が載ってないチラシまで作って、ファミリー映画として宣伝した甲斐もなく「ファインディング・ニモ」の前に手も足も出ずのKO負け。まあ、相手が強すぎましたな。 ● 製作・監督・衣裳・音楽はすべて「ドクター・ドリトル2」のスタッフ。おれは「ナッティ・プロフェッサー クランプ教授の場合」に辟易して以来、続篇も「ドクター・ドリトル1・2」も観に行ってないので、エディ・マーフィーのハートウォーミング路線は ほぼ初めてだったのだが(なにせ746人 入る客席にぽつんぽつんと13人だから)笑いは いまひとつハジけないものの、子どもとの相性はなかなかイイ感じじゃないの。エンドロールに流れるNG集を観ると、14人の幼児たちを相手にしての撮影は実際に託児所を経営するくらい大変だったようだけれど、エディは自然に子どもたちに溶け込んでいるように見受けられる。口八丁手八丁タイプの黒人コメディアンから、大げさなリアクションと間で笑いを取る白人型コメディアンにうまいこと転身したようだ。(そういえば典型的白人型コメディアンであるスティーブ・マーチンもこんど「一ダースなら安くなる」のリメイクに挑んでますな) ● 14人の子役のなかにはダコタ・ファニングの妹も出てるけど、さすがにまだ幼児なので天才の煌きは感じられず。 大人のキャストでは「スタトレ」おたくの保父さんを演じるスティーブ・ザーンが儲け役。 でもいちばん印象に残ったのは、なんといっても巨乳シングル・マザー役のライラ・アルシエリ! イタリア人の父親と黒人の母親から生まれたのが、浅黒い肌のゴージャス美女(photo 1, photo 2, photo 3, photo 4, photo 5) 蠱惑的な笑顔がタマりません。調べてみたら「トリプルX」の最初のほうでヴィン・ディーゼルに「あなたをモデルにしたゲームを作りたいのウッフン」とか言い寄ってたネエちゃんですな。アメリカではハワード・スターン製作のテレビシリーズで、パロディ版「ベイウォッチ」こと「SON OF THE BEACH」の水着美女として(スケベ男のあいだでは)有名らしい。 それとあと、憎まれ役 アンジェリカ・ヒューストンのメガネっ娘秘書を演じてた(レイチェル・リー・クックからジェニファー・ラブ・ヒューイットにモーフィングする途中みたいな顔の)レイシー・シャベールはちょっと注目かも。<アンタ、子ども映画 観に行って なに見てんですか。 あ、そうそう。おれと同世代の人にはチープ・トリックも特別出演してるぞ。

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コール(ルイス・マンドーキ)

えーとすいません。おれアタマ悪いんで よく理解できなかったんすけど、普通に家族3人が揃ってる日曜日の晩に押し入って、月曜の朝イチで旦那に銀行に行かせて金を引き出すのと較べて「3人の家族を3人の誘拐犯が別々の場所で別々に誘拐する」という、手間が余分にかかってリスクも大きい方法にいったいどんなメリットがあるって? ● 原題は「TRAPPED(罠にハマって)」 なにせ監督が(「エンジェル・アイズ」はまあまあだったけど)「メッセージ・イン・ア・ボトル」「男が女を愛するとき」のルイス・マンドーキだからダサくて鈍重な演出に加えて、ジョン・オットマンがことさらに下品な劇伴の付けかたをするもんだから、なんかものすごーくアタマ悪ーい感じのB級映画になっている。携帯電話が重要なアイテムとして駆使されるのにリダイヤル機能については誰も思い至らないとか、セスナ機の「エンジン停止のサスペンス」が意味ねー!とか、言いたいことは色々あるのだが、なかでも観終わって唖然とするのは「じゃあ[最初の4家族]は、いったい何だったんだ!?」ということである。途中で明かされる[犯行の動機]が、映画の前提となる設定を完全否定してるのだ。駄目じゃん。 ● スクリーン上のクレジット順では6、7人目の助演なのだが、日本では完全にダコタ・ファニングが主演扱い。たしかに実際に映画を観ればそうしたくなる気持ちもわかる。ケビン・ベーコン、シャーリーズ・セロン、コートニー・ラブという濃すぎる3人と、神経過敏なテディ・ベアのような演技がトレードマークのプルイット・テイラー・ヴィンスに挟まれて、ダコタちゃんの演技がいちばんナチュナルなのだから。ひと言も台詞を発せずに「顔に希望が満ちてくる瞬時の表情の変化」だけで観客を(=おれだ)泣かせてしまう技量たるや畏るべし。ご本人も宣伝のために来日して、ロクに遊ばせても貰えず(←当サイト推測)朝から晩までインタビューを受けたらしく、年末は見る雑誌 見る雑誌をダコタ・ファニングの写真が飾ってた。どれもみんな口を閉じたお澄ましスマイルなのは何故?と思ったら、彼女いま九つで、乳歯が生え変わる時期らしく上の前歯がそっくり抜けちゃってるんですな(どっか1誌だけ歯っ欠けの笑顔を載せてたのだ)

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デッドロック(ウォルター・ヒル)

はっきり書くと訴訟沙汰になっちゃうのでポスターやチラシ裏の解説のどこにも名前は出てこないんだけど、これは「婦女暴行罪で服役中のマイク・タイソンと獄中で試合をして、チャンプを打ち負かしたやつがいるらしい」という都市伝説の映画化である。いや、ほんとにそんな都市伝説があるのかしらんが、そんなことがあったら…と想像するだけでワクワクするじゃないか。 ● 原題は「議論の余地なく」とか「文句なしの」といった意味の「UNDISPUTED」。もちろん後ろにCHAMPという言葉が省略されてるわけである。レイプで訴えられて収監された世界ヘビー級の現役チャンピオンに巨漢ヴィング・レイムス。檻の中のチャンプに〈黒い中学生〉(c)映画秘宝 こと、ウェズリー・スナイプス。拳ひとつで天下を獲った自信から驕り高ぶった王者と、半年に1度の刑務所対抗マッチで10年間無敗を続け、余暇にはマッチ棒で仏塔(パゴダ)を作る、静かなる男。はたして本当の王者はどっちだ!?というわけだ。どっちも何も、てめぇネタバレしてんじゃねえかって? いやいや、こういう映画はそーゆーんじゃないからさ。最後にどっちが「勝つ」かなんて5分も観てりゃ、…てゆーか、設定を聞いただけで解かるわけだし。それよりも、いかにして「勝つ」のか…とか、ジャンル映画の定番描写を楽しむもんだからさ。大丈夫、木戸銭ぶんはきっちり楽しめるから(ただし、こーゆー「男の映画」にまるで興味がない人には、どこが面白いんだかサッパリ解からないと思うけど) ● あるときは鬼の看守長、またあるときは熱血レフェリーにマイケル・ルーカー。 タイソンと同房の強面囚人にウェス・ステューディ。 獄中マッチの仕掛人で、ジョー・ルイスの昔からのボクシング・ファンという服役中の老マフィアにピーター・フォーク(!) こーゆーポジションにこーゆー人がいてくれると、やっぱ映画が締まるな。 そして何より、製作・監督にウォルター・ヒル! もう10年近く迷走を続けてきたアクション派 監督が(本人には不本意かもしんないけど)やっと本分であるB級アクションの世界に戻って来てくれた(製作のミレニアム・フィルムズはNU IMAGEのアヴィ・ラーナーの別会社である) べつに深みのある脚本じゃなし、隠れた傑作とまでは言えないけど(コザカシいMTVスタイルのオープニング・クレジット以外は)まあまあ合格点でしょう。 ● 昨秋に改装して以来、初めて銀座シネパトス3に足を運んだのだが、おお、テケツ(=チケット売場)人がいる! おおお、内装がお洒落なミニシアターみたいだ! おおおお、椅子がシネコンと同じだ! だけどこの椅子、肘掛けに大型カップホルダーが付いてるんだけど(椅子は変わっても前後の間隔はあんまり変わってないから、カップホルダー分だけ前に突き出すと通れなくなっちゃうので)通常サイズの肘掛けの、前半分がヒョウタン形にくりぬかれていて、それはいいんだけど、フツーに肘を立てると肘が穴にハマっちゃう肘掛けってのは、どーなのよ?

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1980(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)

劇団「ナイロン100℃」の主宰にして小劇場界の大人気かつワーカホリックな劇作家/演出家 ケラリーノ・サンドロヴィッチ(100%日本人)の映画デビュー作。もちろん脚本も本人。タイトルは「イチキューハチマル」と読む。 ● ドラマとしては三人姉妹もので、ウディ・アレン「インテリア」からのあからさまな引用もある。おれはケラと同い年なので1980年を舞台にした風俗映画として楽しんだが、青春回顧ドラマとしてはちょっと弱い。これは多分、映画とナマの舞台との違いで、舞台の場合は生身の役者が目の前で汗を流して「人生を生きている」ので、それまでナンセンスな不条理劇が続いたとしても、ラストに ほんの微量の抒情を置けば、なにがしかのエモーションは観客にダイレクトに伝わる。ところが映画の場合は、もう少し論理的かつベタ押しをしないと「泣ける」ところまでは行かないのだ。軽い風俗劇ならこれでOKだけど、今回ケラは明らかにラストのYMOで泣かせようとしてるでしょ? ● さて、なんといってもケラの本領はナンセンスな笑いにある。自分の事務所に「シリーウォーク」と名付けるほどのモンティ・パイソン ファンで、その上、この人は世界的にも有数のサイレント喜劇(のプリント)のコレクターである。本作でも芝居で培ってきた不条理ギャグが炸裂…と言いたいところだけれど、やはり初めての映画で勝手が違ったのか、微妙に間をはずしている。全員がその劇団のファンで笑いたくてウズウズしてる観客を相手にするのと、ケラの芝居なんて観たこともない人が大半の映画の観客では方法論自体を変える必要もあるだろう。まあ、ケラは頭の良い人なので、次回作ではきっちり修正してくることだろう。 ● 三姉妹の長女=ズボラな性格に無自覚な高校教師に、ケラとは「劇団健康」以来の盟友=犬山イヌコ。この人は板の上では紛れもない天才なんだけど、映画/テレビになっちゃうとリアリティ的にビミョーなんだよなあ(同カテゴリーの人に古田新太がいる) その高校に教育実習生として現れて全校をパニックに陥れる失踪B級アイドル=次女に、ともさかりえ。やたら惚れっぽくて、好きになっちゃうとヤリたい気持ちが抑えられないというキャラが、どことなく貧乏劇団の主宰の押しかけ女房(?)になってしまったともさか本人のキャラとダブっていて可笑しい。 そしてその私立高校に通う三女に蒼井優。高校生には分不相応な16mmの自主映画で、脱ぐ脱がないで揉めてる聖子ちゃんカットの高校二年生…って役柄はアレだな、きっと成蹊高校 映研出身の元にっかつロマンポルノ女優、山本奈津子がモデルだな(そうかあ?) ※ちなみに蒼井優は残念ながら脱いでません。 ともさかりえが、その「妹」としてデビューするきっかけになった演歌歌手に及川光博(ミッチー) いやあ、この人、なに演らせても本当にチャーミングだなあ。映画にもどんどん出てほしいぞ。 みのすけ・手塚とおる・大倉孝二・秋山菜津子・峯村リエ・松永玲子etc.現役&元劇団員も総出演。 ● 時代考証は(消せないビルとかを除けば)小道具から手にした雑誌、電車の中吊り、そしてもちろん流行っていた音楽に至るまで、かなり頑張っている。ただ1980年当時の名画座だけは残ってなくて池袋のシネマ・ロサ2(地下のほう)でロケしてるのだが、1980年当時のシネマ・セレサは邦画ピンクを上映していたポルノ映画館だったはず。当時から改装してなくて1980年に「チェコアニメ祭」をやってておかしくない映画館…というと選択肢は三百人劇場しかないと思うんだが。 ライブハウスのシーンでは当時、ケラが率いていた「有頂天」みたいな曲を演ってるバンドも出てくる。 ちなみに23年前から何ひとつ変わっていないものが1つだけあって、それは喫茶ルノアールの店内なのだった。畏るべし>ルノアール。 ● HDビデオ撮り。フィルム変換に金をケチってるのか えらい寝惚けた画面で、ピントが甘く見えて気になって仕方がない。てゆーか、本作はこんなソフトフォーカスの柔らかい色味ではなく、テーマ的にも安っぽいペナペナのプラスチックのケバケバしいカラーで表現されるべきではなかったか。であるならば「本作の正しい上映形態」はHDビデオ上映かDVD観賞にこそあるのかも知れない。

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バッドボーイズ 2バッド(マイケル・ベイ)

製作:ジェリー・ブラッカイマー

1作目は「出来の悪いアクションだなあ」としか思わなかったので、おれとしては何の思い入れもない8年ぶりの続篇なのだが、本作の冒頭に往年の「ドン・シンプソン/ジェリー・ブラッカイマー・フィルムズ」のロゴが出たときは「おっ」と思った。そうかまだ当時はまだドン・シンプソンが存命だったのだな。8年の間にジェリー・ブラッカイマーは(最近 興行力がパッとしないスピルバーグを抜いて)名実ともにハリウッドのタイクーンとして君臨(本作のエンドロールにはブラッカイマーの個人アシスタントが6人もクレジットされている!) マイケル・ベイは(当時からPV監督としてはぶいぶい言わせてたものの)映画界では新人だったわけだが、いまや「ザ・ロック」「アルマゲドン」「パール・ハーバー」のスーパーヒット監督である。ウィル・スミスとマーティン・ローレンスについては言うまでもないだろう。つまり本作は、この製作&監督&主演の4人のやることに誰も異を唱える者がない環境で、思う存分、好き勝手に作られた映画ということである。 ● そうして出来あがったものは、捜査過程や謎解きは二の次で、ド派手な爆破シーンと荒っぽいカーチェイスと過剰なバイオレンスと死体冒シ賣ギャグなどの悪趣味で構成された「2時間の刑事アクション」・・・の後ろに更に「ランボー」のコンバット・アクションと「香港国際警察 ポリス・ストーリー」の集落崩壊カーチェイスを継ぎ足した不思議な映画となった。脚本はなんとロン・シェルトン。<アンタ今回 楽して儲けましたなア。 ● アクション映画としてもとりたてて傑作とは言えないが「商品」としては誰にも文句は言わせないだけの迫力がある。CG合成なしには物理的に不可能な視点/移動を空間/時間の制約を超えて自在にあやつるアニメのようなカメラワークは(好き嫌いは別にしても)技術的にすばらしい。同時期に同じフロリダでロケしていた「ワイルド・スピードX2」と較べても上手さには格段の差がある。なかでものっけからワン・シークエンスでツカミのギャグ&大アクションを見せつつ三池崇史「DEAD OR ALIVE」の冒頭10分なみの情報密度で一気に登場人物紹介と背景を説明してしまう冒頭15分には圧倒された。このシークエンスが終わって、のんびりとプールに浮かぶマーティン・ローレンスを俯瞰でとらえたカットで思わず「ふぅ」と溜息をついたほど。──ただし、画面で起こっていることを100%フォローするためには観客に相当の動体視力丈夫な三半規管が必要とされるだろうが。 ● マスコミ試写の段階では(つまりアメリカ公開版のままだと)R-15指定(=15歳未満は入場禁止)だったらしいが最終的にはPG-12指定(=12歳未満は保護者同伴)に規制を緩めての公開となった。さすがに日劇チェーンの正月映画が小中学生 入場禁止じゃマズかろうが、規制を緩めるためにはおそらく残酷描写の一部をカット(あるいは修正)してるはず。つまりアメリカ公開版での死体描写とかはもっとエゲつなかったのだ多分(そういう次第なので本作はご家族連れでの観賞には向きません) ● 前作は、それでもまだティア・レオーニをヒロインに据えて黒2白1の割合だったわけだが、本作ではガブリエル・ユニオンをヒロインに起用して黒100%の主演陣となった。さらに言うなら今回は悪役にすらアメリカ/ヨーロッパの白人は出てこない。これはつまり8年の間にそれだけ黒人/ヒスパニック等、白人以外の観客層が広がったということでもあるし、またおそらくは、この8年間のあいだに音楽チャートが(演者が黒人だろうと白人だろうと)完全にブラック・ミュージックの天下になったこととも関係して、アメリカの白人層にも「黒人=カッコイイ」という等式が抵抗感なく受け入れられるようになったということなのだろう。いやだって作ってるほうはバリバリの白人商人(あきんど)なわけで、当然そういったマーケティング調査には人一倍、敏感なはずだしね。 ● 日本での宣伝に関しても、駅のデカい看板やポスターの絵柄と同様に新宿プラザの絵看板もやはり英語タイトルがデッカくて、カタカナは看板のすぐ下まで近寄らないと読めないくらいの大きさで目立たないように入ってる。そもそも「バッドボーイズ 2バッド」という邦題のセンスからしてそうなのだが、宣伝コピーも「死んでもおまえをリスペクトする」とソニー・ピクチャーズ宣伝部は完全に日本の若者黒人層をメイン・ターゲットにすえてるわけだ。UIPの「8 mile」は恐ろしいことにそれ来ちゃったわけだが(おれが観た歌舞伎町の劇場は満員だった。おそれいりました>UIP宣伝部)、本作に関してはその作戦もうまいことターゲットに到達しなかったらしく、公開1週目の平日の夜の回、新宿プラザ劇場(1008席)の客席稼働率は5%以下であった。このあとも1月17日からヘナチョコ・タイムトラベルSFの「タイムライン」、2月28日からラッセル・クロウ船長の海洋・コスチューム・アクション「マスター・アンド・コマンダー」と、日劇チェーンはしばらく閑古鳥の日々が続きそうですな…(そのあとは 4/24「ホーンテッド・マンション」→ 6/6「デイ・アフター・トゥモロー」→ 7/10「スパイダーマン2」と続くので持ち直しそう。「バッドボーイズ 2バッド」はソニー配給なので、てっきりアタマに「スパイダーマン2」の予告篇が付いてると思ったのに付いてなかった。ちぇっ) ● なお後世の記録のために書き記しておくと1作目のタイトル表記は「バッド ボーイズ」と間にスペースが入るのが正しい。この確認のために昔のチラシを発掘したので、せっかくだから裏面のキャスト紹介の文章を書き写しておく>[「リーサル・ウェポン」「ダイ・ハード3」を超える刑事コンビとしてアメリカで大人気のホット&クールな二人 マイク&マーカス。マイク演じるウィル・スミスは、ラッパーとしてグラミー賞を2回受賞、3大ネットワークのNBCで5シーズン続いている自らの番組をもち、映画「BAD BOYS」ではワールドワイドに進出、3大メディアを制した天才ブラック・アーティスト。一方のマーカスを演じるのは、「サタデー・ナイト・ライブ」出身で、エディ・マーフィの観客動員数を軽々と破った90年代トップのブラック・コメディアンとして人気うなぎ登りのマーティン・ローレンス。 / この二人がとにかく若い! 30代から40代のアクション刑事スターがカメラワークでごまかしながら動くアクションと違い、20代の二人が、陽光輝くマイアミの空の下、黒人ならではのしなやかさで走る!跳ねる!飛ぶ! まさに今登り調子の者だけが持つ爽快で躍動感あふれるアクションが、スクリーンに炸裂する!!] …なんか旧き佳き時代の宣伝文という感じだが、1995年にはまだ映画宣伝はマーケ屋の手には握られてなかったわけですな。

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マトリックス レボリューションズ(ウォシャウスキー兄弟)

製作:ジョエル・シルバー

続きものの映画の登場人物が、途中から別の役者に代わってしまうことはそう珍しいことではない。理由はスケジュールやギャラの問題、あるいはプロデューサーと揉めたり…といろいろ。現にこの「マトリックス」でも1作目の黒人オペレーター役の俳優がギャラで揉めて別の役者に交代させられている。ま、黒人なんてみんな同じよーな顔してるんだから俳優が代わったって誰も気付きゃせんと思うんだが、ウォシャウスキー兄弟は律儀に別のキャラとして(従兄弟だっけ?)脚本を書き直した。 ● そこでオラクルである。ミステリアスな女預言者を演じていた役者が2作目の撮影後に亡くなってしまったのだ。物語の重要なキーとなる役だから こればっかりは「別のキャラにする」ってわけにはいかない。そこでウォシャウスキー兄弟はどうしたか? かれらはなんと先代とは似ても似つかぬ黒人女優をキャスティングして、平然とオラクルの服を着せてオラクルの台詞を喋らせるのである。当然われわれ観客は訝しく思う。劇中でこの「新オラクル」と面会した登場人物も同じように感じたらしく、思わず「あなたは誰?」と尋ねる。すると新オラクルはこう答えるのだ──「オラクルよ。こうなってしまった理由はうまく説明できないけれど」<おい! ● よくもまあ、いけしゃあしゃあと! 結局、おれが「マトリックス レボリューションズ」でいちばんウケたのはここだったのだ。はっきり言ってあとは退屈。3部作の完結篇となる本作では、いよいよザイオンの存亡を賭けた一大戦争シーンがあるわけだが、人物以外はほとんどCGで描かれるうじゃうじゃと襲いくる烏賊ロボット群団と、連射連射で迎撃するロボジョックス部隊の戦いは、まるでゲーセンで他人のやってるゼビウスを後ろから見てるよーなもんで、それで手に汗にぎれる人にはいいんだろうが、おれはそれじゃあ興奮できんよ。 ● 物語の結末の付け方も期待はずれで2作目のラストのように鬼面人を威すこともなく無難なセンに落ち着いた感じ。てゆーか、おれ、あの結末がどーゆーことなんだかよく解からんのだが…。前作のレビュウで褒めた「物語としての新しさ」の部分もあっさり覆されちゃうし、「マトリックス」の大きなウリだったはずの「目を見張る革新的ヴィジュアル」も今回はネタ切れのご様子。無理して3作目を観なくとも…最初の2本で止めといたほうが幸せかもよ。最後に業務連絡。今回、モニカ・ベルッチはおっぱいの谷間を見せるために出てくるだけ。序盤に登場するインド人女性の役はどーせならアイシュワリヤ・ラーイを出せば良かったのに。 ● 最後にオマケとして、おれの予想したラストを書いておく(予想は外れちゃったのでネタバレではないけれど、少なくとも「こうはならない」ってことは判ってしまうので観賞後に読まれたし)>[おれはタイトルが「レボリューション」と複数形になってるのはつまり「永久革命」を描くんじゃないかと思ったのだ。だから最後にキアヌ・リーブス=ネオはザイオンを救えない。必死の抵抗も空しく、アーキテクトの目論見どおり人類は滅びる。レクイエム。長い暗転。パッと目が開くとトリニティが覗き込んでいる。「待ってたわ、ネオ。さあ行くわよ!」 カメラが引くとネオの格好をしたトム・クルーズがすくっと立ち上がる。威勢のいい音楽イン。画面カットアウト。エンドロール…が流れるバックには「マトリックス」3部作の映像がダイジェストで流される(ただし、ネオの顔はすべてトム・クルーズになっている) エンドロールが終わり、音楽も終わる。黒画面。パッと目を覚ましたジョージ・クルーニーの顔のアップ。カットアウト。画面に「KEEP ON FIGHTING.」のミドリ文字。

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ほえる犬は噛まない(ポン・ジュノ)

冒頭に「この映画に登場する犬はすべて医学的に安全に管理され、傷つけられることはありませんでした」とクレジットが出る。そこに「キャイーン」とまるで腹を蹴られたような犬の鳴き声…。韓国語では「フランダースの犬」という、内容とはまったく関係ないタイトルがつけられた、これはジャズの変格ビートに乗せて語られる、洗練された現代的なブラック・コメディの傑作である。 ● 主人公は団地住まいの大学の研究員。同期の連中が次々と教授になっていくというのに世渡りが下手なので、いまだに非常勤講師のまま。とーぜん稼ぎなどないに等しいから腹ボテの女房に食わせてもらってる身の上。年上の女房にアゴで使われても立場上 言い返すことも出来ず、また教授への推薦を受けるのに必要な「学長への150万円のワイロ」を工面する目処もつかず、ストレスは溜まる一方。そのうえ団地じゃ飼っちゃいけないはずのワン公がきゃんきゃんきゃんきゃんうるさく吠えたてるのでいらいらいらいら。だからゴミ捨てに出た帰り、目の前に可愛らしい仔犬がチョロついてるのを見たとき、ついフラフラと…。 ● などと書いてしまうと、いかにも額からアブラ汗を流してワナワナと震える主人公の、キレる寸前の表情を魚眼レンズで捉えたような画像が浮かんでしまうかと思うが──いや、じっさい監督が堤幸彦やSABUだったらそうするんじゃないかと思うんだが──この(本作撮影時30歳の)新人監督はそうした定型をひょうひょうと回避していく。このあとストーリーは、もうひとりの主人公である西田尚美みたいな団地管理事務所の熱血グータラ女(ペ・ドゥナ!)や、ワンちゃん大好きな食いしん坊の警備員のおじさんを巻きこんで、思いもつかない方向へと走り始める。いや、笑った笑った。筒井康隆/山下洋輔ファンにお勧めする。 ● 「ユリョン」「モーテル・カクタス」の脚本家チームの1人でもあるポン・ジュノの長篇デビュー作。マンガ好きだそうだから筒井康隆というより石井克人(「鮫肌男と桃尻女」「PARTY 7」)あたりと近い位置に居るのかも。ただ日本の自意識過剰インディーズ監督たちと大きく違うのは、ポン・ジュノの場合、卓越したグラフィカル・センスを持ってることは明らかだが、それはあくまでストーリーの進行(あるいは転換)を効果的に伝えるためにのみ奉仕しており、また登場人物たちは揃いも揃って身勝手でプチ強欲なやつらばかりなのだが、それが決して変人キャラ図鑑に堕することなく1人1人の感情がヴィヴィッドに伝わってくる。つまり──本来それが当たり前のことなのだが──「ヘンな画」や「ヘンなキャラ」を描くことが目的になっていないのだ。賄賂を使って出世する動物虐待のダメ男を主人公に据えて、それでも観客を味方につけるなどという離れワザはなかなか拝めるものではない。・・・と、ここまで書いてもまだ「韓国映画はアクの強さがちょっと…」という御仁もおられよう。大丈夫。安心してくれい。本作は──韓国映画なのに──誰も台詞を怒鳴らない(!)のだ。観終わって胃にもたれることもなく、しかし舌の上にはいつまでも絶妙な味わいが残るという得難いひと皿。ぜひ先入観を捨てて御賞味あれ。 ● 2000年の東京国際映画祭のシネマ・プリズム部門(=現在の「アジアの風」)で上映された際に来日したポン・ジュノは、当時 本作が韓国で大コケしたばかりでしょげかえっていたが──日本の観客に大ウケしたのをとても喜んでいた── 2003年に封切られた次回作「殺人の追憶」が興行記録を塗り替えるような大ヒットとなり、みごと雪辱を果たした。韓国人にもようやくこのソフィスティケーションが理解できるようになった…って、こってすかね。

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フォーン・ブース(ジョエル・シュマッカー)

おれは携帯電話を持っていない滅びゆく人種の一員であるので外から電話をかける用があるときは公衆電話を使うわけだが最近「置いといても採算が取れない」とかで街中からどんどん公衆電話が撤去されてしまうので不便でしょうがない。ま、そのかし「電話が見つからなかった」という言い訳にリアリティが生まれるわけだが。そうした事情はNYでも同様のようで、マンハッタンの8番街で唯一 残っていた公衆電話ボックスも明日の朝には撤去されて新聞の売店になろうという、その日に事件は起こる。 ● 昔からこういうB級アクションひと筋に書いてきた職人脚本家/監督 ラリー・コーエンが、いままで数々の映画で名場面を演じてきた「電話ボックス」という消えゆく名脇役にオマージュを捧げた脚本を、ジョエル・シュマッカーが「タイガーランド」で発掘したコリン・ファレルを共演者に据えて撮った81分の小品。日比谷スカラ座チェーンで大々的に公開するようなそんな大層なシャシンではなくて、新橋文化や浅草中映で2本立ての1本として観て「おれだけの掘出し物」と、ひとり悦に入るタイプの映画である。電話ボックスに立てこもったコリン・ファレルを説得する警部の役でフォレスト・ウィテカーが出ているが、もっと無名の俳優でもよかったくらい。いま流行りの映画みたいにコリン・ファレルの驚天動地の正体が明かされたりとかジャンルの枠を踏み越えた意外な展開とかにはならず、話は収まるところに収まるわけだが最後まで飽きさせず手堅くまとまっている。電話ボックスにかかってくる正体不明の「声」は予告篇を観たときから「おお、あの特徴的な声はウィレム・デフォーに違いない!」と思ってたんだけど・・・見事にハズレでした。当てにならんなあ>おれの耳。 ● 街角から電話ボックスが消えて、こーゆー小粋なB級映画を上映する2番館も…観客も消えて、あとに残るのはテメーんちでケータイ片手にレンタルDVDを見るガキばかり…というわけですな(いや下手すんと数年先にはケータイで映画を観るのがフツーになってるかも知らんぞ)

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スティール(ジェラール・ピレス)

TAXi」1作目の監督による本来ならば「Yamakashi」がこのようであるべきであったエクストリーム・スポーツをモチーフとするアクション映画。英語圏キャスト起用した英語台詞の、カナダ・ロケによるフランス映画である。ジャンルとしてはケイパー・ムービーで、つまり「泥棒」である主人公グループをヒーローとして成立させるために、主人公グループよりも「さらに悪いやつら」を設定して観客の感情移入を容易にする…というパターンを採用している。泥棒グループのリーダーがスティーブン・ドーフで、追いつめる女刑事がナターシャ・ヘンストリッジ。この女刑事も犯人を逮捕するときのゾクゾクする興奮がタマらなくて刑事をしてる…という、つまり「似たもの同士」の2人である。ただ、そんな2人の丁々発止の智恵くらべ…というほどには脚本は書き込まれてなくて、あくまでアクション場面中心のコクのない映画なのであるが、まあ(あれが特殊撮影でないならば)大型18輪トラックの片輪走行などというスゴイものが見られるのでアクション映画ファンならば一見の価値があるだろう。 ● 以下ネタバレ。本作は主人公たちが最後に[まんまと逃げおおせる]パターンの映画なのだが、その際に かれらが[途中で死んでしまった紅一点の女性メンバー]のことをすっかり忘れてしまった風なのが後味悪い。あれだと、まるでスティーブン・ドーフと[ナスターシャ・ヘントスリッジが逃亡先で結ばれるために、彼女は脚本家に殺された]というように見えてしまう。どーせシリアスな映画じゃないんだから[機内には死んだとばかり思っていた彼女がじつは生きていて、特注ベッドに寝て笑ってる]って風にすればよかったのに。

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ひめごと(ジャン=クロード・ブリソー)

ゴメン。おれ、カイエ・デュ・シネマ(フランス版)の諸君を誤解してたみたいだ。いやだって、なにしろ2002年度 カイエ・デュ・シネマ誌(フランス版)ベストワンに選出された本作ときたら、いきなり秘密クラブのオナニー・ショーから始まって、女×女の誘導オナニー、地下鉄ホームでの露出ゲーム、オナニーを見せて五十の親父を籠絡、白昼のオフィスでドア1枚隔てての業務中セックス、レズビアン・セックスを覗かせる…etc. 終盤には、深夜のオフィスで3P、レストランのトイレで3P、そして禁断の近親相姦3P…と怒濤の3P三連チャン、締めは「アイズ・ワイド・シャット」もビックリの乱交パーティー…と、ティント・ブラス級の露出度を誇るソフトポルノなのだから。なんだキミたち、お友だちなんじゃないの:) ● でもあれだろ? どーせフランス映画だからヤる前に小難しい台詞こねくりまわして人生だの哲学だのを語ったりすんだろ? いやいやご安心めされ。たしかに屁理屈は並べたてるのだが、この映画の登場人物たちの思考/行動は「クルーエル・インテンションズ」並みの幼稚さなのだ(ただし「クルーエル・インテンションズ」が出し惜しみしてた部分はすべて見られる) じつは「ひめごと」という邦題は原題直訳で、ストーリーは「秘密クラブのストリッパーとバーテンダーとして今まで一方的に男に搾取されてきた女2人が、レズと自立意識に目覚めて丸の内OLになってゲーム感覚で上司を籠絡して支配して男に復讐しようとするのだが、創業者一族の御曹司ってのがトンでもない性悪のプレイボーイで、女2人は逆に手玉に取られて…」 えーと、あれですか監督・脚本のジャン=クロード・ブリソーってジェス・フランコの変名ですか?(違いますかそうですか) ● バーテンダーをクビになったコムスメに手取り○○取りセックスと権力のゲームを教えていく先輩格のストリッパーにコラリー・ルヴェル。つまりブリジット・ラーエの役どころですね。この女優さんスタイルは抜群なんだけど顔が(美人は美人だけど)ヘビ系エイリアンみたいなんだよな。ほらなんだっけ。タイトルが出てこないんだけど昔のSFにこーゆー顔の宇宙人が出てくる映画があったじゃないスか(SFじゃなくて怪奇映画だっけ?) コムスメのほうはサンドリーヌ・ボネール系の顔立ちの(役名もサンドリーヌだ)新人サブリナ・セヴク。ストリッパーからいきなり「丸の内のOLになるわよ」って言われて「わたしたちは美人よ。なにもOLなんかにならなくても。…ショウビズや映画では?」「そんなのスグにお払い箱よ。会社はライバルが少ないわ」 ● 御曹司ってのがまた笑っちゃうほど薄っぺらいキャラクターなのだ。9歳のときに父親の出張中に母親が死に、そのまま死体と2週間すごしたのが原因で人間的な「情」を失い、欲望のままに生きるメフィストフェレス的な超ハンサム…という設定で、なんと「捨てられて、かれの前でガソリンをかぶって焼身自殺した女が2人」もいるんだそうだ。…2人も(!) ヒロインを邸宅に招いて、妹と3人でディナーを楽しんだあと、ニヤリと妖しく口をゆがめて「さあ、祝祭を始めよう」 …プッ。あんたはアルバン・スレイですか(←誰も知らんて) この「妹」役のBlandine Buryという女優さんがジーナ・ガーション系の口元がエロくて結構ですな(フランスでは結構、人気女優みたい) ちなみにあれかね? やっぱカイエで、ジャポンな皆さんはこーゆー映画を観てるときもムツカシイことを考えてんのかね?

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昭和歌謡大全集(篠原哲雄)

全然ダメ。クスリとも笑えない。こーゆーのはもっと躁状態でカラっとやってくんないと。篠原哲雄は「なにかを描こう」という意識が克ちすぎて「なにもないこと」を描けていない。篠原哲雄は順調に「初期に何本かいいものがあったが、その後はずっとダメ」という大森一樹コースを歩んでいるように思われる。てゆーか、これ「39 刑法 第三十九条」「(ハル)」「未来の想い出」「愛と平成の色男」「キッチン」「バカヤロー!」シリーズの光和インターナショナルが製作で、脚本が「39 刑法 第三十九条」「黒い家」の大森寿美男なのに、なんで監督が森田芳光じゃないのだ? これこそ森田芳光 向きの素材じゃないか。なぜってこれは「平和な昼下がりに響いてくるヘリの音」で終わる映画なのだから。 ※あるいは堤幸彦でもいいかも。 ● ブラック・コメディとしてダメなだけではなくアクション/サスペンスの要素も全然ダメ。最初の殺人描写からしてヒドい。技術的なことをうまく表現できなくてもどかしいが、カットの繋ぎかたとか映画として成立してない感じ。特機モロバレの雨とかもヒドい。 調布駅前と東中野と西武線沿線が徒歩圏内にある(ように見える)地理感覚への無頓着も気になった。だいたい西新宿に投下した○○がなんで調布駅前のパルコの上に落ちてくるのだ? あと50ccのバイクをいまどき「ラッタッタ」って言うか? それとか「ロスの暴動」とか「ネット・コラムニスト」って、これって一体、いつの時代の映画なの? いやいや重箱の隅じゃないぞ。重要だろ そーゆーとこが、この映画には。 ● 1994年(平成6年)に書かれた原作小説を2003年(平成15年)に映画化するにあたって「昭和歌謡」をそのまま使用しているのも一考を要するところだろう。あの世代の男の子たちならモー娘とかじゃないのか。オパサンたちはジュリーやジャニーズだろう。てゆーか、そもそもこの映画において「歌」はあんな投げ遣りじゃなく、ミュージカルを作るぐらいの気概でもっと真剣に取り組むべきなのだ。そこだけマサラ映画のように群舞があったり別のロケーションにワープしてもぜんぜん構わんのだ。殺人歌唱の両輪で「昭和歌謡大全集」だろう。村上龍もすこしは文句つけろよ。主役の松田龍平のひどい音痴はありゃ何なのだ? ● それとこれは本作だけのことではないが、最近の(非・演劇系の)若い俳優ってナレーションがヒドすぎる。ナチュラルな演技も結構だが、基本的な発声訓練くらいは やってくれ頼むから。個々のキャストでは原田芳雄と古田新太がサスガにうまい。特異な顔立ちが不思議と魅力的な市川実和子は「なにかに憑かれた女のコ」というのをすっかり持ちキャラにしてしまいましたな。 [追記]BBSにて「西武多摩川線と言うローカル線が調布市(のすぐ近く)を通っています」との指摘を受けた。それは大変に失礼いたしました>篠原監督&関係者の皆さま。

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キル・ビル Vol.1(クエンティン・タランティーノ)

はじめに言っとくが、おまーら これは笑う映画じゃねえかんな。いや、たしかにおれもルーシー・リウの「ウソツケ!」にはちょっと笑いそうになったが、本篇の中でおおっぴらに笑っていいのは千葉チャンの1970年代チックなギャグシーンだけだ(もちろん千葉チャンの演技は後でシャキっと変身したときの落差を計算してのことである) おー!という感嘆の声や拍手&大向こうからの掛け声は許す。だが人を小馬鹿にしたような笑いはいかん。たとえタランティーノ本人がいいと言ってもいかんのだ。これはそういう映画ではない。だから予告篇やCMを見て「オースティン・パワーズ」のような勘違いカルチャー・コメディを期待してる向きは観ないでよろしい。あなたが観ても絶対に面白くないから。それから自由が丘武蔵野館に「幻の湖」や「恐怖奇形人間」を笑いにくる奴らは入場禁止。物語の文脈も理解できずに ただバカ笑いを続ける輩は周りの観客に迷惑だ。とくに「ラスト・サムライ」の予告篇からもう笑いはじめてユマ・サーマンやルーシー・リウが日本語を喋るたびにゲラゲラ笑い、冒頭の深作欣二の追悼字幕で笑いやがった奴ら。おまーら絶対ブチ殺しちゃる。 ● 以下は、おれは星5つ付けるくらい好きだ…という前提の上での話なのだが、それでも「キル・ビル」は1970年代末の数々のB級映画の記憶を再構成した二次的創造物でしかない、と思う。このタランティーノ版RE-MIXはセンスの良さはバツグンだが、節まわしで酔わせたり、メロディーの美しさで観客に涙させる力は持っていない。パクリ・引用おおいに結構。当時のプログラム・ピクチャーだって先達の確立したフォーマットあればこそだ。だがそれがパロディやパスティーシュを超えた本物(オリジナル)足り得るためには、タランティーノはスマート過ぎるような気がする。1970年代の東映残酷アクションやショウ・ブラザーズのカラテ映画そしてマカロニ・ウエスタンと、「キル・ビル」のいちばんの違いは泥臭さ汗臭さの有無だろう。「キル・ビル」のユマ・サーマンは名前を奪われただけでなく体臭体液も無さそうだ。流れる涙は塩辛くなく、抱かれても乾いたままで、生理の血も流しそうにない。そして彼女が流す血は怒りの涙ではない。 ● 当時の映画にあって「キル・ビル」に欠けている最大のものはおっぱいである。<結局それかい! あ、いやいや。おれはなにもユマ・サーマンの、現場で子どもに母乳を与えていたという出産直後の乳が見たくて言ってるのではないぞ。そうではなくて、こうした復讐アクションにおいて、主人公が敵方に捕まって酷い目に遭う(=ヒロインならば「裸に剥かれる」とか「強姦(まわ)される」とか)のは、観客が主人公と心を一にするための儀式であるからだ。特に主人公が復讐を決意するきっかけとなる「悲劇」の直接描写が省略されている本作においては、ユマ・サーマンが栗山千明ちゃんに捕まって荒縄でおっぱいを縊り出されて熊ん子バイブで羞恥責めのあとは双頭ディルドオを装着した千明ちゃんにバックから…あ、いや。まあ、ともかくなんらかの拷問場面は観客の感情移入のための装置として必須だと思うのだ。仇の生い立ちをアニメにしてる場合じゃないだろ。 ● てことで(タランティーノはあーゆー、ユマ・サーマンとか栗山千明とかダリル・ハンナみたいな立派な鼻のデカ女は外見だけでイケちゃうんだろうけど)おれはヒロインにはまったく感情移入できず。どっちかっつーと着物姿の似合うルーシー・リウ姐さんに惚れちまったぜ。麿赤兒・国村隼・菅田俊・北村一輝といった錚々たる親分衆(ここは東映Vシネマですか?)を前に一歩も引かぬルーシー姐御の、映画史上に残る名セリフ>「ここから英語で話します」(台詞が「現地語」から英語に切り替わるときに丁寧にその旨をことわってから喋った俳優がいままで1人でもいただろうか!?) 関係ないけどルーシー・リウの配下が被ってるマスクは、あれはアメリカではそのまんま「カトー・マスク」って言うんですな。 ● あと、これは作品をオシャレにしてしまってる要因でもあるのだが、ユマ・サーマンの肌をブロンズのように撮ったロバート・リチャードソンのカメラは、やはり素晴らしい。特殊メイクはKNBエフェクツ。視覚効果を香港のセントロ・デジタル・ピクチャーズが担当。エンドロールの最後にはチャールズ・ブロンソン、チャン・ツェー(張徹)、ロー・リエ(羅烈)、深作欣二、勝新太郎、ウィリアム・ウィットニーの各人へ追悼を捧げている。ちなみにスペシャル・サンクスのBenta Fukasakuって誰ですか? ● [以下は2度目の観賞後の追記] また観に行ってしまった。2度 観て恐るべきことに気がついたんだが、結局おれにとってこの映画がサイコーになるのは「青葉屋の死闘の章」からなのだ。はっきり言っちゃうと(アニメも千葉チャンも含めて)前半は無くてもいい感じ。つまりカッコイイのはユマ・サーマンじゃなくてルーシー・リウと栗山千明なのだ。てことはさ。そのどれも出ない「Vol.2」ヤバいじゃん。げっ。てゆーか、おれ、ぜひとも東映=ギャガ=ミラマックス共同製作&三池崇史 監督で、石井おれん姐さんが東京の極道社会を制覇するまでの武勇伝を描く「極道の妻たち まむし(=cottonmouth)のおれん地獄花」を製作希望だ。 ● この映画、ユマ・サーマンの名前とエンドロールを除くと、ジュリー・ドレフュスの名前で始まってジュリー・ドレフュスの顔で終わる。…そう、その通り、彼女は目下のところタランティーノのプライベートなアシスタントなんだそうだ。 ● そのジュリー・ドレフュスとヴィヴィカ・A・フォックスはミスキャスト。ドレフュスの役はもっと「嫌な女」かつ「氷の女」じゃなくちゃ──笑い声が癇に障るようじゃなきゃいかんでしょ。ヴィヴィカ・A・フォックスはパム・グリアの役にしちゃセンが細すぎ。もっと肉感的なひとじゃないと。あと、これを言っちゃうと「キル・ビル」という作品の根底が揺らいでしまうけど、でも おれはユマ・サーマンもミスキャストじゃないかと思うのだ。なんかさ。ユマ・サーマンてさ。ちっとも動じないじゃん。必死な感じがしないんだよね。まあ、たぶん「Vol.2」の冒頭で一度コテンパンにやられて、それから、別キャラで再登場のリュー・チャーフィー(劉家輝)老師の教えを受けて復活!とかそんなんだろうけどさ。とりあえず「Vol.1」だけ観てるかぎりにおいては強すぎ。復讐ヒロインにあるまじき強さである。 ● あとは小ネタを少々。ヴィヴィカ・A・フォックスの子どもって、あれ、4歳でスクール・バスに乗るものか?(スクール・バスって保育園の送迎もするもんなの?) 田中要次(Yoji Boba Tanakaとクレジットされてる)はカトー・マスクを被ってても頭の形(と髪の薄さ)で一目瞭然。 カトー・マスク軍団の紅一点(黒髪長髪の女)がたぶん千葉チャンの実の娘さん(真瀬樹里)だと思うけど、女が1人しかいないので3回も殺されてんのがバレバレ。彼女は殺陣指導としても参加したらしいが、カトー・マスク軍団ぐらいはやっぱへっぴり腰の香港人スタントマンじゃなくて日本から殺陣の出来る人を連れてってほしかったね(※青葉屋の場面は北京のスタジオで撮影されている) それからギャガはセコいこと言わずDVDは最初っから「Vol.1Vol.2+特典ディスク」の3枚組で出すよーに。 ● [追記]スクールバスの件についてはBBSで「しんしん」さんにご教示いただいた>[アメリカでは、高校、中学、小学校、保育園などが近くに密集していることが多いので、バス内は色んな年齢層のガキンチョでいっぱいです。逆に高校生にもなってバスに乗る(車がない)というのはちょっとカッコ悪いということになってます。][追記2]さらに「アメ住者」さんから寄せられた情報>[スクールバスのことですが、もうお答えはあったようですが、私の住んでいる地域とは違っていますので、同じアメリカでもこういう所もある、ということで。ここでは5歳の9月から小学校に付属しているキンダーガーデンに入りますので、スクールバスを使う子達も出てきます。が、5歳未満の子達のプレスクールは義務ではありませんし、規模の小さな物が多いのでスクールバスを持っているところはありません。親が送り迎えするのが全てです。 スクールバスを使えるキンダーに入っても、親が送り迎えする子が多いです。州や市などによってこういう制度は違っていますので、4歳でスクールバス利用はおかしい、とは一概に言えないのですが、私も自分の住んでいる地域が上記のシステムですので、見ていて「アレ?」と思いました。 あと、この地域ではスクールバスは学校別になっていますので、小学生から高校生までが同じバスで通うということはありません。

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スカイハイ(北村龍平)

例によってテレビ版未見&予備知識もほとんど無しで観た。想像するにテレビ・シリーズでは釈由美子はアタマと終わりにだけ出てくる狂言まわしで、本筋では「人間交差点」みたいな地味なドラマが展開するんじゃないかと思うが、この映画版はぐっとアクション色を強めて現代版「陰陽師」みたいな話になっている。 ● 「アクション」とは言っても北村龍平の場合は「動作の連続の魅力を見せる」という意味のアクションではなくて「見栄えの良いポージングを特殊効果と編集で〈連続した動き〉に見せかける」というもので、カタナによる対決が中心の本作のアクション場面とて、お世辞にも「殺陣」と呼べるものではないのだが、それはそれでピース馬鹿の「赤影」などよりはずっと観賞に耐えるものにはなっている。 ● それよりも耐えがたいのは俳優陣の大半の学芸会演技のほうであって、北村龍平は見栄えの良い(擬似)アクションは作れても「役者がただ突っ立ってる」芝居とか「動きのない会話場面」の演出がてんで出来てないので(主役の釈由美子も含めて)下手な役者が両手を所在なさげにぶらんと垂らして棒読み台詞を喋るさまとか、安っぽいテレビ演技の誇張をまったく制御できていない。ま、これはロクでもない脚本の責もデカいのだが。 ● その中にあって唯一、色気たっぷりの大悪を演じた大沢たかおが捨て身のオーバーアクトでかろうじて娯楽映画としての恰好を整えた。また(下手は下手なんだけど)悪役の片腕の格闘ウーマンに扮したブラック・ボンデージ衣裳の魚谷佳苗(「Jam Films: the messenger 弔いは夜の果てで」でデビューして「荒神」にも出ていた。北村龍平のお気に入り?)と、女陰陽師(みたいな役)を演じた菊池由美(本職は声優で本作が映画初出演)が健闘していた。あと北村龍平にはっきりと申し渡しておくが(「あずみ」のときにも思ったことだが)アンタ、岡本綾を「美人ヒロイン系」のキャラだと思ってるなら、それは大きな間違いだぞ。 ● ソニー・シネアルタによるHDビデオ撮り。フィルター(?)を多用してるせいか、エッジに安物のテープで録画したときみたいな「虹色の色滲み」が出てしまっている。あとは細かいツッコミをいくつか。ツッコミその1:ヒロインたち「怨みの門を訪れた者」が着用してるピアノの発表会みたいな安っぽいドレスは、ありゃなんじゃ?(特撮系のコスチュームは作れても、こーゆー普通の衣裳が用意できないところに地金が出てますな) ツッコミその2:古代より伝わる魔術書の挿絵がなんで「日野日出志」風なんだ?(実際には元フリクションのギタリストでもある恒松正敏によるもの) ツッコミその3:劇中で検屍医が「死んだら35グラム体重が増える。つまり魂はマイナスの質量を持っている」のだと主張してるんだけど・・・あれ? こっちの映画では死んだら21グラム体重が減るって言ってるぞ。どっちが正しいの? ● で、結局、この映画でいちばん可哀想なのはちっとも悪いことしてないのに地獄堕ちにされた田口浩正だよな。

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< D U E L >
荒神 ARAGAMI(北村龍平)[ビデオ上映]

企画:堤幸彦。フジテレビ映画製作部からアミューズへ出向した河井信哉が「Jam Films」に続いてプロデュース。いまをトキめく2人の流行監督が「対決(DUEL)」をテーマにした(比較的)低予算の中篇を競作して対決する!・・・というコンセプトのようなのだが、79分もあってどこが「中篇」なんだよ! ● 人里離れた山寺に2人の落ち武者が逃げてくる。寺には隠者のごとき男と絶世の美女が1人。重傷の武者を奥の一間に休ませて、もう1人の武者が美女の手酌で隠者と酒を酌み交わすうち…。高津隆一と北村龍平による脚本は中篇どころか30分の短篇ネタで、それをむりやり79分に引き伸ばしてるもんだから、意味のない場面、間延びしたカットのオンパレード。大ラスのオチなど本来ワンカットでキメるべきところをだらだらと5分ぐらい引っ張っる始末。それでもCGの使い方など日本人監督の中では格段にこなれてるほうだと思うので、この際、今後は別途ちゃんとした演出&脚本を据えて、北村龍平はヴィジュアル&ポストプロダクション・ディレクターに徹っする…ってのがいいんじゃないかね?(つまり樋口真嗣みたいな役割ね) ● 山寺の隠者を演じる加藤雅也は、荒神(=あらがみ。台所の神棚にいるコージンさんじゃなくて「荒ぶる神」のほうね)の正体を現してからの後半はいいんだけど、序盤の隠者の芝居がなんの老けメイクも無しに「いつもの加藤雅也」のまんまで「わしは〜なのじゃ」とかゆー言葉遣いで喋るので違和感ありあり。 あと戦死した朋輩の故郷に「遺体を届ける」なんて風習は古今この国にはない風習だと思うが。

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< D U E L >
2LDK(堤幸彦)

で、こちらが堤幸彦 本人の作品。テメーが「中篇」対決の企画者のくせに69分もあったらダメじゃんか。 ● ムサい男2人の時代劇だった北村作品とガラリと変わって、こちらは女2人の現代劇。<ここでおれが「麗しき美女2人の」と書けないことが本作が失敗作たる最大の要因である。 ● 寮代わりのマンションで同居してる2人の女性タレント。先輩のほうはVシネ出のB級女優。ブランド品大好きで厚化粧ベッタリのワガママ女。後輩のほうは女優への転進をねらう巨乳グラビア嬢だが、素顔はワセダ出で小劇場フリークのジャージ女。このおそろしくステレオタイプな2人の女が画面上はよそよそしく接しながらも、互いへツッコミまくってる激烈な悪口が「内心の声」としてカブる。それがだんだんエスカレートして心の声が行動に…。 ● この映画のスタイルに倣って言うならば──おまーらのことなんか心底キョーミねえっちゅうの。堤幸彦はいちばん肝心なことを忘れてる。つまりこれ言ってみれば「おかしな2人」の女性版なわけで、2人とも、どれほど欠点があって厭な女であったとしても(最終的には2人で殺しあうことになろうとも)それがチャーミングに見えなくては映画として成立しないのだよ。ところが演じる2人の──まあ、野波麻帆に関してはもともと「愛を乞うひと」「プラトニック・セックス]「群青の夜の羽毛布」「ラスト・シーン」と一度としてイイ!と思ったことはないのだが、部分的には好きなところもある小池栄子に関してまで──演じる2人の女優としての華の無さはどーなのよ? 嫌われ者の脇役じゃないんだぜ。主役だぜ。厭な女を演じて光り輝くのが女優ってもんじゃないか。これだったらまだ(野波麻帆じゃなくて)濱田のり子とかのほうが役柄にリアリティあるぶんだけマシだったんじゃないか。

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リーグ・オブ・レジェンド(スティーブン・ノリントン)

Mと呼ばれる英国政府の高官がショーン・コネリーに世界を救う指示を出す映画。なんだ、それならアフリカに隠遁してるショーン・コネリーを迎えに行くのはMの美人秘書にしなきゃダメじゃん。 ● 昔の冒険空想科学怪奇小説に出てくる版権切れャラを集めて作った集団ヒーローもの。それぞれのキャラ設定はなかなか面白いのだ。ただ脚本家は、どうやらキャラ設定だけで満足して、話を考えるのを忘れてしまったみたいなのが残念。それと、あの悪者キャラの裏設定は「教授」って呼ばれてる時点でバレバレだと思うんですけど(オペラ座の怪人を教授とは呼ばんでしょ) 1人ぐらいアメリカ人も入れとかなきゃってことで無理やりトム・ソーヤーを「アメリカ政府の秘密諜報員@二挺拳銃」という設定にして送り込んでいて、このトム・ソーヤー君が劇中でショーン・コネリー演じる冒険家アラン・クォーターメインと擬似親子関係を形成する。で、ラストには[力尽きしクォーターメインがトム・ソーヤーの腕の中で「新世紀はお前の時代だ。私の時代は終わった」…ガクッ]と、来たるべき20世紀がアメリカの時代であることを宣言して幕を閉じるわけだ。…ま、でも、そのアメリカの世紀もすでに終わったわけなんだが。 ● で、このトム・ソーヤー役をやってるのが(「ウォーク・トゥ・リメンバー」でマンディ・ムーアの相手役を演ってた)シェーン・ウエストというTVスターで、アメリカではそれなりに人気があるのか知らんが、観客の視点を代行する重要な立場のキャラだけに、もう少し魅力的な若手俳優はいなかったものか。 チームの紅一点である女吸血鬼を演じるペータ・ウィルソンもTV版「ニキータ」のスターであってアメリカ以外での知名度は低い。決して魅力的でないわけではないのだが、ここはやはりエリザベス・ハーレーくらいの名のある女優がほしかったところ。 ● ILMほかによるSFXはいまいち。ネモ船長が登場するとなれば当然「ノーチラス号」も出てくるわけだが、あんなタイタニック級に馬鹿デカい代物がベニスの水路に入っていけるわけないでしょーが! しかも運河の橋の下をくぐったりするのだ。あの橋は10階建てか! 世紀末ロンドンの街並みもやけに安っぽくて、テリー・ギリアムの切り絵アニメかと思ったぜ。あれ、まさかILMの上杉裕世の担当じゃないでしょうなあ。 あと、エンドロールのおしまいに出るサントラ盤のクレジットだが、この映画では、銀盤レーベル「ヴァレース・サラバンド」とネット上のデータ販売店「iTUNES MUSIC STORE」のロゴが並んで出るのだ。おお、21世紀やのう。

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龍城恋歌りゅうじょうれんか(ヤン・フォンリャン)

製作総指揮:チャン・イーモウ 製作:チャールズ・ヒョン

どういう経緯か知らないが呉倩蓮(台湾/中国本土ではウー・チェンリェン。香港だとン・シンリン)主演の1996年の旧作が今ごろ公開となった。香港の向華強(チャールズ・ヒョン)率いる永盛娯楽製作(ウィンズ・エンターテインメント)と、中国の天津電影製片廠の合作。提供(配給)は同じく向華強が設立した新会社・中国星集團(チャイナスター・エンタテインメント・グループ) 永盛という会社は「ゴッド・ギャンブラー」シリーズや一連のチャウ・シンチー作品で名を成したわけだが、それら旧作ライブラリーの権利をゴールデン・ハーベストに売却した後にどうやら解散(?)したらしい。余談だが、現在、クロックワークス=ジェネオン(旧パイオニアLDC)から「ゴールデン・ハーベスト傑作選」として連続リリースされているリー・リンチェイ、チョウ・ユンファ、チャウ・シンチーの諸作はすべてこの永盛作品。つまり日本で言うなら勝新太郎や市川雷蔵の名作群が「東宝名作ライブラリー」として発売されているようなものなのだ(だからアタマにはゴールデン・ハーベストの銅鑼入りロゴと永盛のロゴが続けて出てくる) 変なの。 さらに言うならゴールデン・ハーベストはゴールデン・ハーベストで旧作の権利をごそっと、新興のメディア・アジアに売っ払ってしまったらしく、同社のドル箱だったジャッキー・チェン作品や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ(黄飛鴻)」シリーズなどは現在はメディア・アジアのロゴを冠してDVD/ビデオ・リリースされている(こちらのケースではゴールデン・ハーベストのロゴすら削除されてしまっている) ● さて閑話休題。で、いつのまにやら「永盛」という製作・配給会社は表舞台から消えて、現在、向華強は「中国星」を拠点に精力的に映画製作を続けている。それこそ、バリー・ウォンやジョニー・トー、ジョー・マらのプロデューサー/ディレクター兼務組を除けば、いまや激動の世紀末を生き延びたほとんど唯一の映画プロデューサーといった感すらある。おれの勘ではその秘策が「永盛」から「中国星」への移行だったのではないかと思うのだ。ご存知のように向華強は俳優としても「ゴッド・ギャンブラー」シリーズの寡黙なボディガード・龍五(ドラゴン)役でお馴染みだが、そのじつ、裏ではモノホンの黒社会の大物で、三合会「新義安」の幹部組長であると噂されている。なにしろ武術家であった親父さんの向前という人が「新義安」の初代組長だったらしいから、おそらく噂は真実だろう。まあ、べつに黒社会といっても朱延平(チュー・イェンピン)のように片っ端からスターを脅して出演させたとかってことじゃなく、普通に堅気のシノギとして「永盛」をやってたのだとは思うが、例えばチャウ・シンチーが「やくざの企業舎弟が作った映画に継続して出演していた」という理由でカナダ国籍の取得を裁判所から禁じられたりしたのは事実なのだ。そんな向華強が1997年の香港返還にあたって共産党政府の管理下で生き残っていくために行ったのが、ダーティなイメージのついた「永盛」を潰して、役員名簿からもヤバそうな名前を一掃。そしていかにも愛国的な社名の新会社「中国星」を作ることだったのだ。もう黒社会とは縁を切りました。これからはお国のために尽くします…というポーズですな。だから返還の前年の暮れに封切られた本作の「中国との合作」という事情もまた、 中国政府への擦り寄りの一環であり、そのための保証手形が張芸謀(チャン・イーモウ)の名前なのである。とうぜん向華強は張芸謀に監督させる腹だったんだろうが、そこは張芸謀も一流の政治家なので「製作総指揮」という名義だけ貸して向華強に恩を売り、自分の名声に傷がつかないように演出は「ハイジャック 台湾海峡緊急指令」の実質的な監督だった楊鳳良(ヤン・フォンリャン)にまかせた、と。…どうよ、おれの読みは。考えすぎ? まあ、これを最後に更新が途絶えたら新義安の手にかかって歌舞伎町のビルの隙間に捨てられたもんだと思ってくれたまへよ。 ● 前置きはさておき(←前置きだったんかい!)本作の中味についてだが、これまた「キル・ビル」と同じく復讐する花嫁の話である。荒涼たる平原の広がる内陸部を舞台に、結婚式の当日に一族郎党を皆殺しにされ、偶然ひとり生き残った花嫁が、馬に乗ったさすらいの殺し屋を雇って、商人夫婦を装い、目指す仇の支配する無法の町=龍城鎮(ドラゴン・タウン)へと乗り込んでいく・・・という、もろマカロニ・ウエスタンなストーリー。オープニング・タイトルが終わる前から大量殺戮が始まるあたりは「さすが永盛!」と思ってたんだけど、本篇の演出はやっぱり中国映画のテンポなんだよな。おまけにラストが結局「復讐は虚しい」みたいな中国文芸映画になっちゃうので欲求不満。このところ出演作が途絶えてる呉倩蓮のファンにのみお勧め。93分。原題は「龍城正月 DRAGON TOWN STORY

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シャンハイ・ナイト(デビッド・ドブキン)

ジャッキー・チェン・フィルムズ・リミテッドとの共同製作。製作総指揮にジャッキー・チェン、ウイリー・チェン&ソロン・ソー(許志鴻)の名が並び、武術指導は成家班という、かぎりなく香港映画に近い陣容。前作ではたしかオーウェン・ウィルソンの名前が先だったと思うが、今回は完全に「ジャッキー・チェン主演作品」という扱い。19世紀末のロンドンを舞台にした小道具アクションの集大成と呼べる作品になっている。この手の企画では定番の「当時の有名キャラのゲスト出演」という趣向も愉しい(とある有名人の名が口にされたときは思わずじんと来てしまったよ) ただハリウッド映画なのでデンジャラス・スタントは無し(さかんに宣伝してる「ビッグ・ベンからのジャンプ」は特撮) べつにこれがジャッキー・チェンの最高傑作だなどと言うつもりはないし、せっかく「父の仇討ち」というストーリーを設定しておきながら、コミカルなジャッキーの、もうひとつの顔である「死にもの狂いのジャッキー」という側面が描けていないという不満はあるのだが、次から次へと現場にある小道具・装置を使ってアクションをこなしていくジャッキーを見ているだけで木戸銭の価値は充分にあるだろう。一度でもジャッキー・チェンのファンだった人ならば必見。 ● 香港映画では「中国の植民地化に反対する善いもんの革命集団」として描かれることが多い「義和団」が今回の悪役。それで中国人の観客にも感情移入しやすいように大義名分として「父の仇討ち」を導入したわけですな(<そうなのか?) ただ、それならばやはりジャッキーの父は(アラン・カミング似のイギリス王族ではなく)ドニー・イェンみずからが殺すべきだった。…そう、今回ついにジャッキーとドニー・イェンの初対決が実現したのだ! いや素晴らしい:) でもせっかくだからもっとたっぷりと魅せてほしかったなあ。 ● オーウェン・ウィルソンも絶好調。今回は中国からイギリスまで父の仇を追いかけてきた「ジャッキーの妹」にひと目惚れしてしまって、ジャッキーは悪もんを退治するのみならず、そっちの心配もしなきゃいけないハメになる。 その妹に扮するのがシンガポールの人気歌手/女優のファン・ウォン(漢字で書くと范文芳。范文雀と1字違い。関係ないか。てゆーか「范文芳」を北京語読みするとファン・ウェンファンなんだけど、それがなんで「ファン・ウォン」になるんだ? てゆーか、この場合どっちが苗字なの?) アクション場面はほとんど吹き替えだが、なかなか可愛い女優さんですね(といっても、もう32歳なんだけど) ランディ・エデルマンがほんと楽しくて仕方がないといった風情で劇伴をつけている。

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アイデンティティー(ジェームズ・マンゴールド)

豪雨に閉じ込められたモーテルで10人の泊まり客が1人、また1人と殺されていく…。そらレイ・リオッタとジェイク・ビジーとジョン・C・マッギンティとレベッカ・デモーネイがひとつところに居合わせたらタダで済むわけがない。…ってそうじゃなくて、いわゆる「そして誰もいなくなった」ものである。モーテルの裏手にインディアンの墓場があるというのも「テン・リトル・インディアンズ」の童謡をかすかに想起させる。ミステリ読みならおそらく途中で犯人の目星も、平行して語られる物語との叙述トリックの見当もつくと思うが、この映画の終盤にはそんなトラディショナルなトリックが泡ふいてひっくり返るような大ワザが仕掛けられているのだ。いや、ビックリした。てゆーか、これ怒っちゃう人もいるんじゃないか? トンデモ映画好きなら必見。てゆーか、レベッカ・デモーネイったら、ちょっと見ないあいだにえらく老けて 胸が脹れてませんか?

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シーディンの夏(チェン・ユーチェー)

2002年の東京国際映画祭にて観賞。台湾映画。16ミリ。60分。「シーディンの夏」とかいうとヒロインの名前みたいだけど、これは石碇という台湾北部のひなびた里の名前。原題は「石碇的夏天」。主人公は大学1年の男の子。バブルが弾けて海外留学の約束が反故、両親は工場に出稼ぎに。雑貨屋を営む婆ちゃんと2人きりのさえない夏休みになるはずが、小学校の夏休み英語教室の先生として白人のオネーチャンが下宿することになって…という話。「年上の女に対する仄かな気持ち」とか「文盲でガイジンを怖がってた老婆と、北京語を流暢にあやつるヒロインの心の交流」とか、よーするに おれの嫌いな「なにも事件の起こらない静かな日常を愛おしさを込めて見つめた」台湾ニューウェイブの流れである。監督のチェン・ユーチェー(鄭有傑)はなんとまだ大学在学中だという撮影時23歳(!) ヤリたい盛りの大学生だってのに主人公は白人娘のシャワーひとつ覗かんし、そんな若いうちから老成してどーする! もっと覇気を見せんか覇気を! ちなみに監督 第1作の16ミリ短篇「BABYFACE」は2002年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映済み。典型的な「夏休みもの」の設定にもかかわらず、本作に男女の性的な匂いがまったく無いのは、監督本人もゲイなのかな。 ● 地元の祭りなのだろう「天灯」という、洗濯機ぐらいの大きさの紙風船、というか小型熱気球に願い事を書いて夜空に放つお祭りの様子がエンドロールに出てきて、いくつもいくつもフワフワと深海に発光するクラゲのように夜空に漂うさまが幻想的で(映画の出来とは関係なく)美しかった。ポスト・プロダクションは日本の東京現像所。音楽を高野寛が担当している。

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密愛(ビョン・ユンジュ)

2002年の東京国際映画祭にて観賞。韓国映画。「ナムヌの家」を始めとする従軍慰安婦ドキュメンタリー3部作で名を売った女性監督 ビョン・ユンジュ(邊永[女主])の劇映画デビュー作。「シュリ」のキム・ユンジン(金允珍)扮するヒロインは、初恋の相手と結婚して8年目で幼い娘が1人…という満たされた生活をソウルで送っていたが、ある晩、夫の若い愛人が家庭に押しかけてくる。信じきっていた夫の裏切りを知って彼女の心は壊れてしまう。家族で田舎に転居したものの、精神安定剤と睡眠薬だけを唯一の共に魂の抜け殻のような生活を送っている。そんな或る日、妻と別居して田舎で独り暮らしをしている森次浩嗣・似の(ちょっとキザな)ドクターから「2人で恋人ごっこを続けて〈愛してる〉と最初に言ったほうが負け」というラブ・ゲームを提案される…。 ● 遊びのつもりがドロドロになって…という典型的メロドラマ(てゆーか日活ロマンポルノ)なのだが、ヒロインの、前半の「心神喪失」描写ばかりが強調されて、ドクターとのセックスで精神的にも肉体的にも解放された後のイキイキとした美しさが充分に描かれないので、終盤に発せられる「心の広い人がより深く愛せる…というのは嘘だ。最後まで愛し抜くのは悪い人間だ。利己的で、薄汚い、おれたちみたいな人間だ」という森次浩嗣の名台詞で泣けないのだ。だいたい、初めての劇映画で「今までとは180度違うことをやりたい」という気持ちはわからんではないが、それにしたって今どき「ラブ・ゲーム」とか、ラストですべてを捨ててクルマに乗ってどこか遠くを目指す2人の前にニワトリの籠を満載したおんぼろトラックがふらふら…などといった、あまりに陳腐な設定は意図的なのかね? 「あたしにはドキュメンタリーで鍛えた演出力があるから敢えて陳腐な設定にして、シーンの力で魅せてみせるわ」とか?<あんまり成功してませんけど。 ● 日活ロマンポルノにもかかわらずキム・ユンジンは出し惜しみ。おそらく本人のものと思われるが特定はできない後ろ姿のオールヌードと、隠し損ねた0.1秒ほどの乳首露出のみ。あと、どーでもいいけど、四六時中クスリでぼーっとしてる女にクルマ運転させて小学校への送り迎えなんかさすなよ危ねえなあ。 ● 終映後のティーチ・インにキム・ユンジンと共に登場した監督は、ショート・カットの金髪にジーパン&ワークシャツ&土方ジャンパー。声も低くて一見、長与千種みたい。キム・ユンジンと並ぶと、どー見ても男女のカップルにしか見えません。あんまり典型的な見た目なんで、かえって指摘するのがためらわれるけど、あれはやっぱりゲイなのかね? 映画全体からただよう「結婚制度(に代表される韓国社会の枠組み)に対する反感」といったようなものは、監督のセクシュアリティの反映なのかな。

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フレディvsジェイソン(ロニー・ユー)

製作:ショーン・S・カニンガム

「フレディ前売券」と「ジェイソン前売券」のたくさん売れたほうのチケットを持ってる人に初日プレゼント…というチケット・ダービーはジェイソン派の勝利に終わった。なんか意外だなあ。だって「13金」なんて(こないだの「ジェイソンX」以外は)どれもみんなおんなじで面白くないじゃんか。…とか言いながら全作とも観てるんだけどさ。おれ? おれはもちろんフレディ派である。夢から醒めたはずなのにまだ夢の続きを見ているようなシュールな感覚は、映画館から街中へ出たときに感じるあの感じそのものだと思う。リアルタイムで観てきたこともあって「エルム街の悪夢」はホラー映画でいちばん好きなシリーズだ。なにしろ、この日に備えてわざわざamazon.comから「エルム街の悪夢」DVDボックス(7枚+特典ディスク1枚)を輸入、全作を復習して臨んだほどの気合の入れようである<バカ。 ● プロデューサーのショーン・S・カニンガムは言うまでもなく「13日の金曜日」の生みの親だからジェイソン派。監督のロニー・ユー(于仁泰)は前々作「チャイルド・プレイ チャッキーの花嫁」の黒い哄笑がハジけるチャッキーのキャラがフレディに通じるものがあるので、ややフレディ派寄りか。そして何より製作のニューライン・シネマは「エルム街の悪夢」シリーズのホームグラウンドということもあり、今回の(悪)夢の競演は「エルム街」ワールドにジェイソンがゲスト主演するという形。マスター・オブ・ゲームはあくまでフレディ・クルーガーである。 ● 内容は驚くほど「スクリーム」以前の1980年代ホラーを再現している。BGMもちゃんとハードロック/ヘヴィメタル系だし。そうしたジャンルを楽しんで観ていた方なら本作は間違いなく楽しめるはず。主舞台はもちろん「エルム街1428番地」のあの家(今回、ドアは青でも赤でもなく黄色くペイントされている) 唯一「13金」シリーズの影響が顕著なのはいきなりパイオツ全開(←1980年代的表現?)なのと、女優陣がそろって巨乳なこと(モニカ・キーナーなんて「クライム アンド パニッシュメント」のときはあんな巨乳じゃなかったと思うけど) ハダカや巨乳とは縁のなかった「エルム街」シリーズとしては嬉しい驚きだ。ニューライン・シネマの総帥ロバート・シェイも校長役でカメオ出演。第2班の撮影を「ケミカル51」のプーン・ハンサン(潘恒生)が担当している。 ● ちなみにヘラルド映画の巻頭ロゴが新しくなってて「逆h」マークの上にある赤い丸が、心臓みたくどくどくと脈打つという、ちょっと不気味な仕上がりなんだけど、これってひょっとして本作や来年の「悪魔のいけにえ」リメイクとかのホラー映画限定ロゴ? [追記]東京ファンタでヘラルドのホラー映画プロジェクトの宣伝担当プロデューサーが「どくどく脈打つ心臓の映像ロゴを作った」と言ってたから、やはりそのようだ。ホラーに力いれてるなあ。

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バリスティック(カオス)

まだやっと30歳になったばかりというタイの新人監督、カオス(本名ウィッチ・カオサヤナンダ Wych Kaosayananda)の2作目。デビュー作のアクション「FAH ファー」がタイの歴代興行記録を塗り替えるヒットを記録した余波でいきなりハリウッドから一本釣りされたわけだが、タイとは近しい距離にある香港映画のように、まるで脚本なしで撮影したんじゃないか?…というようなムチャクチャな話である。ストーリーもキャラクターにもまったく筋がとおってない。B級アクションだから火薬と銃弾をたっぷり使っておけば筋や人物像はイーカゲンでいい…と思ってるんなら大きな間違いで、B級アクションにはB級アクションなりの筋の通し方ってもんがあるのだよ。定期的に発せられる爆発音がかえって心地よい眠気を誘う一作。

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ロボコン(古厩智之)

あれ? おれ この話…というかこの大会、見たことあるぞ。もともとテレビをほとんど観ないのだが、なぜだかこのロボコン中継だけは「たまたまテレビを点けたら やってた」ってことが2回もあって──いや、だからと言って おれが特殊な電波を受信してるというような根も葉もない誤解はやめていただきたいのだが──そのうちの1回が、本作で描かれているような「箱積み競技」だったのだ。主人公たちの操る「一挙に3個積み」というマシンとか「妨害ネット」マシンも見たような記憶がある。 ● ストーリーラインだけをみれば、よくある「落ちこぼれ寄せ集めチームの一発逆転もの」である。ただなにしろロボコンというのは──劇中にも「スポコンだねえ」「スポコンじゃない。ロボコンだ」という台詞があるように──「競技」とはいえ出場してくるのが高専生たちの手作りロボットだから、動作速度がギーコ、ギーコって感じで、やってるほうは必死なんだろうけど、見てる分にはとてものんびりしたなごやかな競技会なのだ。どっちかっつうと「鳥人間コンテスト」とか「欽ちゃんの仮装大賞」に近い。だからそれを映画にしても団体競技ものの定番である「手に汗にぎるクライマックス」とはなりえず、したがってすべてを「勝利の感動」に収斂していく構造はとれない。そこで脚本・監督の古厩智之が取ったのは「落ちこぼれたちが再生していく過程を丁寧に描く」という青春映画の王道のアプローチである。じっさい本作には落ちこぼれだけどIQはMIT級とか、落ちこぼれだけど怪力の持ち主とか、あるいは落ちこぼれだけど旋盤を扱わせたら日本一といった「一芸に秀でた天才」は1人も出てこない。かつてのあなたやおれのような「欠点を抱えた、自分に自信の持てない若者たち」である。古厩智之はそんな若者たちが「互いに力をあわせることによって生まれて初めて味わう達成の喜び」を決してあせらずゆっくりと描いていく。「ぼくたちに、足りない部品はなんだろう」という宣伝コピーがじつに的確。 ● 脚本としては、ライバル・チームの描写が弱かったり、顧問教師・鈴木一真の(どうやら)恋人である(らしい)保健室の先生・須藤理彩のキャラがまったく描かれてなかったり…といびつな点も目に付くし、主人公たちの台詞もあまりにストレートで工夫に欠けるものなのだが、それがまた逆にこの映画の「人柄の良さ」となって好印象に繋がっている。 ● そして、そんな本作の素朴な魅力を象徴するのがヒロインの長澤まさみ(16歳)だ。このレビュウだってほんとは「長澤まさみ、長澤まさみ、長澤まさみ。長澤まさみ、長澤まさみ、長澤まさみ。長澤まさみ!長澤まさみ!! 長澤まさみ!!!」と選挙カーのように名前を連呼すれば事足りるのである。まだ小学生のときに東宝シンデレラに選ばれて「クロスファイア」に出演。中学生時代に出演したのが「なごり雪」と「黄泉がえり」…というのは東宝芸能のプロフィール頁を見たから書けるのであって、はっきり言ってまったく印象に残ってない。陳腐な比喩と百も承知で今まさに蕾が花ひらいたとしか言いようのない変貌ぶりなのである。笑顔イッパツで本篇を支えてしまう、そんな力が今のこの子にはある。まだまだこの先の活躍は未知数だが、ひとつ確実に言えることは長澤まさみにとっての「ロボコン」は、原田知世にとっての「時をかける少女」、田中麗奈にとっての「がんばっていきまっしょい」と同等の輝きを持つ作品であって、この先の女優人生がどのようなものであろうと彼女の胸の裡で色褪せることのない誇りとなって彼女を励まし続けるだろうし、我々、映画ファンもまた長澤まさみという女優を「ロボコン」で見せてくれた笑顔と共に永遠に記憶するだろう。…とええカッコしいことを書いたあとで、ひとつ文句をつけると、この娘さん、ラーメンの喰い方がなってないね。思春期特有の恥じらいがそうさせているのだろうけれど、ラーメンてのはそんなもそもそ喰うもんじゃないよ。あと「蘇州夜曲」の件りがよく解かんなかったんだけど、「蘇州夜曲」と徳山って何か関係あるの?

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呪怨2[劇場版](清水崇)

前作からわずか7ヶ月という、往年の日本映画黄金時代のような続篇製作スピードで公開されたシリーズ通算4作目。「時系列のシャッフル」と「複数ヒロイン制」を大きな特徴としてきた本シリーズだが「監修:高橋洋・黒沢清」というクレジットが外れた本作において、初めてリニアなストーリーピンのヒロインが設定された(脚本も清水崇) よせばいいのに伽椰子と俊雄の棲むあの家を取材したテレビの怪奇特番スタッフの受難…という大枠のストーリーが(多少の前後はあるものの基本的には)1つの時間軸の中で進行し、近寄るもの誰彼かまわず殺されていく中で、酒井法子だけが特権的なヒロインの立場を保証される。 ● 彼女の役は「番組のゲストコメンテーターとして呼ばれた、その手の映画に何本か出演しただけでマスコミに〈ホラークイーン〉の肩書きを奉られてる中堅女優」というもので、それ三輪ひとみのことじゃん。なんで本人に演らせないのよ? ぜったい三輪ひとみのほうが適役なのに。たしかに彼女はすでに1作目で殺されてるけど「あれとは別の人」ってお約束でいいじゃんか。もっとも、酒井法子の起用が本作を世界配給するにあたっての、アジア圏での知名度を見込んでのことだとしたら、やはりこの一瀬隆重というプロデューサーは大した商売人だと思うけど。…んで、のりピーはお腹に婚約者の子どもを身籠っていて、これが全篇を通じたテーマとなる。そう、なんと今度の「呪怨」は母子(ははこ)ものなのだ。しかし、さすがの俊英・清水崇も満を持して放った自信作のオチがよもや「○○」に先を越されるとは予想だにしなかったでしょうな:) ● 酒井法子は歳とってだんだん魔女顔になってきてて、本作ではなんだか吉行由実の妹みたい。<失礼な!(どっちに?) しかし のりピーったら、たった1日ロケしただけで初対面のディレクターをもう「圭介さん」呼ばわりですか。 番組の「滑舌の悪いレポーター」役に新山千春。<それは役作りじゃありませんて。 ● あと結局、問題の特番のオンエア・テープはどうなったのだ? てゆーか本来なら、事情を知らない編成局のスタッフがあのテープをオンエアしちゃって、新宿アルタの壁面に映し出されたテレビの画面からカヤコがこっちを睨んだ時点でエンドマークだろ>清水崇。

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呪怨[劇場版](清水崇)

ホラー映画としての側面から語られることの多い作品だが、じつは最強のデートムービーでもある。とくに独り暮らしのカノジョを落としたいと狙っている諸兄にはまたとない攻略ツールとなろう。とりあえずカノジョを部屋に連れ込め。無理やり「呪怨」を観せろ。んで、映画を観終わったあとでキメ台詞「今日、泊まってく? ホラ、俊雄クン出るかもしれないし」 この誘いを断れる女のコはいない。この映画をみた後ではゼッタイに「誰もいない部屋には帰りたくない」と思うはずだから。部屋に連れ込むのに成功した時点で「ビデオを観せる時間」がすでにムダという気もするかもしれんが男がそんな些細なこと気にするな。まあもっとも本気で怖がってそのまま部屋に居着かれて伽椰子より厄介な存在になっても責任は持てんが。 ● 「ビデオオリジナル版 呪怨&呪怨2」をそのまま踏襲して時系列をシャッフルしたエピソード集の連なりから成る本作だが、じつははひと言で表せる。すなわち「白塗りの子ども這う女いたるところに出現する映画」である。ワザはこれ1つ。通常のホラー映画の「緊張→弛緩→脅かし」というプロセスから「弛緩」を省略して「緊張→脅かし→緊張→脅かし→緊張→脅かし→緊張→脅かし…」と徹底的に1つのワザだけで攻めまくる。おれなんかずっと息を詰めて観ていたので観終わって外に出て息が苦しくなったぜよ、いやマジで。ただあまりに特化しすぎて基本設定とかキャラ説明とか、もっと言えばストーリーがまったく無いので、本作を十全に楽しむためにはまず「ビデオオリジナル版 呪怨&呪怨2」という試練を経なければならない。あ、ちなみにデートで「ビデオオリジナル版」は観ちゃいかんよ。マジ怖くて「その後の展開」どこじゃなくなっちゃうから。


チェーン(清水厚)[ビデオ上映]

いやいや、これは「呪怨」の清水崇ではなくトンデモ・ホラー「蛇女」の清水厚のほう。「蛇女」もそーとー酷かったが、これはそれを遙かに上まわる(下まわる?)酷さである。わずか78分の上映時間も持たせられない薄い脚本。ひたすら猿真似をするばかりで戦略を欠いた演出。ピンク映画のベテラン・カメラマン 下元哲の撮影が悪いのか、それともシネマ下北沢に設置されているビデオ・プロジェクターの解像度の低さゆえかフォーカスの甘い画面。あのさあ。こーゆーピンボケの画面を見ると ついつい目を細めてしまって ますます目が悪くなるんだよ。どうしてくれる? 主演の巨乳グラビア・アイドル 小向美奈子も、べつ水着になったりシャワーシーンがあるわけではなく、それどころか魅力的な表情ひとつ撮れていないのでは(彼女のファンも含めて)どなたにもお勧めできない。 ● さて、「リング」のホラー・ブームを支えた主要観客層でもある女子高生/中学生たちにとって、いまや「ケータイ」以上に身近でリアルな物はないわけで「呪いのメール」ネタが金の鉱脈であることは誰の目にも明らか。あとは誰がそれを掘り出すか、だ。もちろん黒沢清の「回路」がすでにインターネットやEメールをホラーの素材として取り上げているわけだが、彼女たちにとってパソコンのような「ムズカしい機械」を使ってるよーなオタク暗い人ある意味、殺されても当然というところがある。あくまで「ケータイに着信するメール」だから怖いのだ。おそらく三池崇史の新作「着信アリ」はそうした発想によるものだろうし、ブエナビスタ宣伝部は旧態な因果応報譚である韓国ホラー「ボイス」をケータイ・ホラーとして宣伝した。そう、ここまでは誰でも考える(「チェーン」の脚本家も考えた) 問題はその基本アイディアをどう長篇映画として展開するか、だ。 ● ここに至って大久保智巳なる脚本家が提示するのは「ケータイに着信した発信人不明のムービー・メールに どこかの幽霊ホテルのクローゼットが写り、扉がゆっくりと開いて人間ならざる何者かが出てくるとソレを見た人間が死ぬ」という──ビデオがムービー・メールに、井戸が廃屋のクローゼットに変わっただけの──何の芸もない「リング」のパクリ。本作ならではのオリジナルのアイディアは皆無。まったく驚くべき志の低さである。全体の構成も「幼い弟と2人暮しのヒロイン@女子高生の周囲で次々と人が死ぬ」というメインパートと「怪死事件を調査するルポライター」のパートが交互に描かれるだけで、この2つは最後まで絡まないまま。そもそも、どー考えたってこの話なら「渋谷の街で遊んでた女子高生のケータイに発信人不明のムービー・メールが着信して…」という日常描写から入るべきなのに、実際の冒頭シーンが「幽霊ホテルに深夜の肝試しに忍びこむ若者たち」というのは書いてる作者自身がこの話のポイントを判っていない何よりの証拠。酷いもんである。

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トゥームレイダー2(ヤン・デ・ボン)

まあサイモン・ウエストの1作目の出来がアレだったし、今度のは予告篇も面白そうだったので、よもやこのような感想を記することになるとは予想だにしなかったのだが──前作よりつまらなかった(号泣) ヤン・デ・ボンもう駄目かも…。 ● 不可解なのはトゥームレイダー=ララ・クロフトのキャラ設定を前作からガラリと変えてしまったことだ。え?「勝気な最強ヒロイン」って設定は一緒じゃないかって? いやいやだけど1作目のララは人は殺さなかったぞ。あれだけ二挺拳銃やマシンガンを乱射してても、前作には「人間を撃ち殺す」場面はなかったはず。闘う相手がロボットや動き出した石像や巨大神像だったり、人間相手でも振り付けがバンジー・バレエだったりして、リアルな殺人描写は巧妙に回避されていた。ラスボスとの最終対決もボクシングの殴り合いだった。だからアンジェリーナ・ジョリーがどれだけ暴れても「無邪気でワガママなお姫さま」というチャームがあったのだ。ところが今作ではどのアクション・シークエンスにおいても相手がぜんぶ人間で、ララ・クロフトは情け容赦なく敵を撃ち殺すのである(終盤には一瞬、クリーチャーも登場するのだがララはそれとは戦わない) それじゃシャレにならんだろ。つまり1作目はトゥームレイダー(=墓荒らし)という職業柄からも、あきらかに「インディ・ジョーンズ」のフォーマットを踏襲していたわけだが、今作においては「007」になっているのである。作り手が意識的にそれをやっていることはララに「女王陛下の御命令」が下ることからも明らか。 ● おれにはこの路線変更は〈トゥームレイダー〉というユニークなキャラを殺してしまう愚かな考え違いに思えるが、まあ百歩ゆずって「ミッション:インポッシブル」のように1作ごとに監督も路線もガラリと変えるのもアリとしよう。それでもなお本作がダメダメなのは、ひとつひとつのアクション・シークエンスにまったくマジックが感じられないためである。第2班監督&スタント指導は前作に引き続いて「クリフハンガー」「バーティカル・リミット」のサイモン・クレーンなのだが、ファンタスティックな趣向が減って生身のアクションが強調された分だけアクション・センスの欠如ばかりがブザマに曝け出されている。ほんと、これだけ道具立てが揃っていてなんでこんなにつまんないんだろう?と観ていて不思議でならなかった。サイモン・クレーンの最も得意とするところである空中スタントのムササビ・パラシュートの滑空シーン(スタントマンが実際に飛んでいる)ですら見せ場たりえていないのは、やはり撮影や監督がなんにも解かってないんでしょうな。 ● ほんとその場面を観ててつくづく思ったよ──ジャッキー・チェンとスタンリー・トンを呼んで来いって。考えたら、世界各地を駆けめぐってさまざまな趣向を凝らしたスタント・アクションを繰り広げる…って、ジャッキー映画のフォーマットそのものじゃないの。ジェラルド・バトラーなどという二流役者なんぞ使わずに、相手役にはジャッキー・チェンを起用すれば良かったんだよ。まあ、ララとの色恋沙汰はオミットするとしても、ジャッキーならサイモン・ヤム大哥やその右腕のテレンス・イン率いる三合会の本拠地を知ってても自然じゃないか。いやあ、ジャッキー共演でスタンリー・トン監督・武術指導だったら、さぞかし傑作になったろうになあ。 ● あと呆れたのは、今回の作り手たちが「シリーズもの」のお約束をまったく理解してないこと。メカおたくと執事の2人は、前作であれだけ──要らないんじゃないかってくらい──キャラを作ってたのに今作ではほとんど活躍しないし、なによりアンジェリーナ・ジョリーに、インディ・ジョーンズのフェドーラ帽やジェームズ・ボンドのタキシードと同じく、ララ・クロフトのユニフォームであるはずの「黒タンクトップに短パン」をなぜ着せないのだ。何を考えておるのだ?>ヤン・デ・ボン。前作から良くなったのは、音楽がアラン・シルベストリになってちゃんとした劇伴が付いたことぐらいで、今回はアンジェリーナ・ジョリーのファンにすらお勧めしがたい。…あ、でも香港映画ファンなら序盤のジェットの機内シーンで一瞬だけ登場するリチャード・ンを見逃すな!

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28日後...(ダニー・ボイル)

ジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」三部作はあまり好きじゃない。好きな人はそこが好きなんだろうが、あの殺伐とした感じがどうにも退屈してしまうし、それに第一、美女を悲鳴をあげないホラーになんの価値があるのか?と思う。だからロメロ版の「ゾンビ」よりは、アクション寄りの「デモンズ」やメタ・パロディの入った「バタリアン」、あるいはゾンビ映画というよりSF色が強い「ゾンゲリア」のほうがずっと好きだ。「28日後...」は、そんなゾンビ映画者(もの)としては異端者のおれから見ても、たしかにロメロ「ゾンビ」のトーンをかなり忠実に受け継いでいると思う。荒涼とした、温もりのない、絶望の支配する世界を描いて、現代社会に対する批判を滲ませるあたりが特に。だから王道ゾンビ主義者の皆さんならきっと気に入るはず。 ● 本作のゾンビは厳密に言うとゾンビではなく「新型ウィルスの感染者」である。そのウィルスは字幕では「凶暴性」と訳されているが原語では「RAGE(怒り)」、つまり本作でのゾンビの皆さんは「人肉を喰らうため」といった特定の目的は持たず、ただ単に怒りっぽくなって人を襲ってるらしいんである。短気なゾンビ。…なんだかなあ。やっぱゾンビは人を喰ってなんぼでしょ。 ● 主人公たちの行動も、わざわざゾンビの潜んでそうなトンネルに入って行ったり、危険と知ってて独りで家の中を覗いてみたり、あるいは機動隊のような硬質プラスチックの盾&防護服を着用して登場するブレンダン・グリーソンが、その後まったくそれらの有用な装備を活用しなかったり…とC級ホラー並みの不自然な描写が目立つ。また、逃げ回っていた主人公が終盤になると突如として野性に目覚めて上半身ハダカになって戦い始めるので、おお、これは「種の進化」の話なのか!?と期待してたら、べつにそういうことでもないし(じゃ、なんでイキナリ強くなったんだ?) 結局(「ザ・ビーチ」の原作者でもある)脚本のアレックス・ガーランドがやりたかったのは、個性派男優 クリストファー・エクルストン扮する「カーツ大佐」の件りなんでしょうな。 ● デジタル・ビデオ撮り。荒廃した世界の話なので画質が荒いのは気にならないし、編集がぶっきらぼうなのも演出意図だとしても、血の色が赤くない(ビデオだと黒く写る)のはやはり興ざめ。 ● おれは公開28日目の9月19日(金)に渋谷のシネクイントで観たんだけど、その時点ではすでにエンドロールの後にアナザー・エンディングが付いた形で上映されていた。いかにもマニア受けしそうな企画にもかかわらず事前の告知がまったく無かった(よね?)のは、おそらく20世紀フォックスとしては最初っからアナザー・エンディング付きでやりたかったのにフィルムが間に合わなかったのだろう。で、公開直後に観たお客さんからクレームが付くのを恐れて、途中からこっそりアナザー・エンディング付に差し替えた、と。…ま、おれは観られたからいいんですけど。観損ねて、でももういちど観るほどじゃねえや…という皆さんのために以下、アナザー・エンディングの内容を記しておく>[主人公が病院で死んで終わり]。それで、おれはてっきり[死んだと思った主人公がゾンビとしてガバッと身を起こす。→ ヒロインが間髪を入れず撃ち殺す]のかと思ったのだが、そーゆー展開にはならないのだった。ちぇっ。ダニー・ボイルはこの手の映画を手掛けるにはB級魂不足であるな。

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ドッペルゲンガー(黒沢清)

この映画は映画館では観ないことにした。もともと予告篇を観て、あまりおれの好きそうな路線ではなかったってのもあるし、ビデオ撮り独特の「のっぺりとした赤っぽい肌の色」が本当に好きじゃないってのもある。まあ、でも、いつもならとりあえず「黒沢清の新作」ってことでチェックしておくか、ってことになるんだけど、今回、愕然としたのは、たまたま点けたテレビでこの映画の紹介をやっていて、そこで流れた場面の(テレビ局用のビデオ素材の)色合いのほうが自然だったのだ。テレビで観たほうがキレイに見えるような代物をなんで映画館まで観に行く必要がある? …ということで本作は(DVDを買う可能性はないから)将来、気が向いたらレンタルビデオで観るかもしれない。

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踊る大捜査線 THE MOVIE 2
レインボーブリッジを封鎖せよ!(本広克行)

ミステリ/サスペンスとしては壊滅的に酷い代物なのだが、大衆娯楽映画としてのツボは押さえすぎるくらいに押さえているので、TVシリーズのファンに向けて作る映画としてはこれで正解なのだろう。だが本広克行は(前作「サトラレ」もそうだが)あれだけ「泣かせる映画」を作る手腕がありながら、どうしてもっとちゃんとした脚本を用意して、映画としてかっちりしたものを作ろうとしないのだろう。脚本の君塚良一は(キネマ旬報の連載からも明らかなように)あれだけ「脚本を読む力」がありながら、どうして先人の技術を自作に活かさないのだろうか。 ● たとえばそれは真矢みき演じる「本庁から来た女性捜査本部長」のキャラクター造詣に明らかで、いくら憎まれ役とはいえ「婦女暴行やスリの捜査なんかしなくたっていいのよ!」とか「所轄の兵隊が撃たれたら補充すればいいでしょ!」とか、もう言動がメチャクチャ。気の触れた犯罪者とかじゃないんだから、憎まれ役であってもそこには一分の理があるべきで、主人公との信条・生き方の違いが相克を生む。その「相克」を称して「ドラマ」というのである。ここにあるのは「理屈の通らぬ悪代官」と「長屋住まいの一心太助」の勧善懲悪の物語でしかない。 ● 核になった「未完成の街(=変わり続ける街)」というコンセプトはとても面白い/スルドいと思うのだ。たしかに前作が上映されたときには まだシネマメディアージュもなく、おれなんかお台場なんて生まれて一度も行ったことなかったもんな。それがいまや、どこもかしこも観光客/行楽客/お上りさんでいっぱい。本作の舞台となる湾岸警察署の1Fなど観光案内所/お土産ショップと化していて、刑事課まで(街中にある放送局のサテライト・スタジオみたいに)つねに野次馬の目に晒されている…というのが可笑しい。刑事たちと同様に市民たちも監視されていて、お台場には例の街頭監視カメラが網の目のように張り巡らされている…という時局に敏感な設定を取り入れたのもいいと思う。だがアイディアだけなのだ。それを長篇映画のストーリーとして展開する作業を怠っている。「地図に記載されてないトンネルや建物がいくつもある」という しごく魅力的な設定はストーリー上なんの意味もサスペンスも生まないまま放置される。街頭監視カメラには集音マイクまで併設されているというのに、それが「自動録画されていない」というコンビニの監視カメラ以下の性能なのも観客をバカにしてる。あれ、テープ/ディスクを巻き戻せばイッパツで犯人わかるじゃんか。 ● また、冒頭に観客に提示される2つの殺人事件は横溝正史もののような一種の「見立て殺人」なのだから、異常な殺人現場をもっときちんと観客に見せるべきだし、また、そのような類の殺人であるならば犯罪にある種の官能性が伴ってしかるべきなのだが、あの犯人たちの「やる気の無さ」はなんだ! やる気がないのは警察も同様で、捜査員の1人が犯人に拉致されて、犯人をお台場から逃がさぬよう「レインボーブリッジを封鎖せよ!」って、夜が明けてからおっとり刀で動いたって犯人とっくに逃げてるって(お台場にはフジテレビがあるおかげで深夜でもいくらでもタクシーが停まっているのだ) いくらこのシリーズの眼目が「本庁と所轄の対立」にあって事件は物語の後景に過ぎない…と言ったって、この手の抜き方は酷すぎると思うのだ。潤沢な製作費で嬉々としてブラッカイマーごっこに興じるヒマがあったら、もう少し脚本を練り直したらどうなのだ。 ● まあ、それでも5年ぶりに帰ってきたおなじみの面々が画面狭しと走り回り、誇張された喜怒哀楽に身を費やしながら、決め台詞を次から次へと決めれば、TVシリーズのファンは大挙して劇場に詰めかけて大喜びするし涙もろい素人レビュワーがついつい星3つ付けてしまったりするわけである。でも、それっていちばん安い勝ち方だよな。そんな、初手から高みを目指す気のない戦い方をしていて、自分たちが発している「メッセージ」に対する裏切りだって思わないのかね? あと「潜水艦の事件」て何? 前作に潜水艦なんて出て来たっけ?<もう忘れてる。 ● 最後にこれは現実世界の話だけど、いかりや長さんが死なないでほんとうに良かった。もし映画公開時に亡くなってたりしたら、とても冷静に観てなんかいられなかったもの。

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英雄 HERO(チャン・イーモウ)

撮影:クリストファー・ドイル 武術指導:チン・シウトン 動作指導:トン・ワイ

「始皇帝暗殺」のチェン・カイコーは1952年、西安の生まれ。51歳。「黄色い大地」(1984)で監督デビュー。「英雄 HERO」のチャン・イーモウは1951年、同じく西安の生まれ。51歳。「黄色い大地」のカメラマンとして鮮烈に登場。監督デビューは「紅いコーリャン」(1987) そして「グリーン・デスティニー」のアン・リーは1954年、台湾出身。48歳。「推手」(1991)で監督デビュー。 ● ほぼ同期と言っていいこの3人の中国人監督の中で、おれがいちばん好きなのはチャン・イーモウだ。この人の、映画的効果を高めるためなら何でもアリという「あざとさ」が素晴らしいと思う。一部で「芸術派監督」と誤解されているようだがとんでもない。こんな山師はいないぜ。なにしろアンタ、デビュー作の「紅いコーリャン」からして、まず最初に「見渡す限りのコーリャン畑」を作るためにコーリャンを植えるところから始めたという人なのだ。「菊豆」の染物屋の描写はぜんぶ嘘っぱちだし、近年の「至福のとき」「あの子を探して」「初恋のきた道」とて純真さの産物などでは断じて有り得ない。 ● 本作「英雄 HERO」もまたそんなチャン・イーモウの大法螺炸裂である。時代風俗などはすべて見た目重視では歴史考証は二の次。すべては架空の物語である。ロケ地も大中国の美観奇景総覧といった趣き。あの当時にはまだ無かった万里の長城さえラストシーンに登場するのには恐れ入った。だいたいシーンごとに衣裳をすべて原色の同色系統で統一するなどという馬鹿げたことをチャン・イーモウ以外の誰がやる? 京劇系の華麗な立ち回りや群舞を十八番とするチン・シウトン(程小東)の振り付けは、あまりに流麗すぎてもはや武侠映画というより舞踏映画。鏡面湖水での「あなたもクルクルわたしもクルクル」や秦王の宮殿での「かくれんぼしましょクールクル」では、後ろのカップルの女がクスクスクスクス笑ってたけど、その気持ちも解からんではない。 ● いや、大体なんでもワイヤーで飛ばせばいいってもんではないのだ。不自然な跳躍/飛翔シーンがひとつもなかった「グリーン・デスティニー」と較べると、本作におけるワイヤーワークの過剰さには呆れるほかない。あれだけ器用だと思っていたチャン・イーモウだが、まさか「アクション魂」や「剣戟魂」というものをまったく持ち合わせていなかったとは! 名匠チン・シウトンの無駄遣いとしか言いようがない。はっきりと断言しておくが、本作のアクション場面を称揚している評者はアクション映画音痴である。 ● 唯一の例外が序盤に(まるでそこだけ番外篇のごとくに)置かれている「ワンス・アポン・ア・タイム 天地大乱」以来となるリー・リンチェイとドニー・イェン(甄子丹)のまさしく対決シーンだが、ここはドニー・イェン自身の振り付けか、あるいは「動作指導」とクレジットされている──あの「パープルストーム」「ダウンタウン・シャドー」の激烈なファイトシーンを創造した──トン・ワイ(董[王韋])の手になるものでは?と睨んでるのだが。 ● いやいやアクションではなく「ドラマの奥深さ」にこそこの映画の真価がある──などと、まだ世迷言を申されるか? だってこれ、どー観たって「おまーら香港人ぐだくだ抜かさず黙って大中国の決めたことに従っとりゃええんじゃ」って話でしょ? それ以外の受け取り方はありえないもの。そりゃ中国人に受けるはずだわなあ。というわけで武侠アクションならアン・リーの「グリーン・デスティニー」を、始皇帝のドラマがお望みならチェン・カイコーの「始皇帝暗殺」をお勧めする。同じ退屈な武侠片同士ならウォン・カーウェイ「楽園の瑕(東邪西毒)」のほうがまだ面白い。 ● 役者ではマギー・チャンとチャン・ツィイーの女優陣が素晴らしい。彼女たちを眺めてるだけで入場料の元は取れると言えなくもない。そもそも本作のドラマ上の主役はリー・リンチェイじゃなくてマギー・チャンなのだ。で、あるなら飛雪(マギー・チャン)の父の将軍が秦の大軍に殺される場面をアバンタイトルに置くべき。 男優では、ろくすっぽ戦わないリー・リンチェイと、どー見ても剣の達人には見えないトニー・レオンを差し置いて、秦王に扮した(中村勘九郎と中井貴一を足して2で割ったようなマスクの)中国人俳優 チェン・ダオミン(陳道明)が素晴らしい存在感を示す。まこと威厳と風格ある大王である。あの朗々たる台詞術だけは北京語の専売特許であって広東語では成し得ない。 ● ちなみに台詞はもちろんすべて北京語なのだが、マギー・チャンはひょっとして自分で演ってる? それとリー・リンチェイは中国人だからとうぜん地声のはずなんだけど、リンチェイってあんな声だったっけ?(最近、英語の台詞しか聞いてないからよく解かんなくなっちゃったよ) あと字幕は「グリーン・デスティニー」と同じ人なのだが、今回は役名もきちんと漢字名前を使ってて中国映画らしくて、とても良かった。こーゆーのって会社(担当者)の違いなのかねえ? [追記]マギー・チャンの声は「声のよく似た別人」だそうだ。

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クローサー(ユン・ケイ)

コロムビア映画[アジア]有限公司提供。実際の製作はリー・リンチェイの会社=正東(イースタン)が行っている(でもリンチェイの名前自体はクレジットされていないので、ひょっとしたらもう正東とは関係ないのかも…) ● 原題は「夕陽天使 SO CLOSE」 美人殺し屋姉妹とガラッパチ姐ちゃん刑事の対決。マンガである。もう、笑っちゃうほど底の浅いドラマ(脚本:ジェフ・ラウ) なにしろこの姉妹、非業の死を遂げた父が警察に提供するために開発した「監視カメラ侵入システム」を使ってなぜか殺し屋をやってる…という設定からしてムチャクチャである。だがユン・ケイには押すべき所(シーン)が解かっているので、話が荒唐無稽でも感情の筋が1本きっちりと通ってる。だから娯楽映画としては何の問題もないのだ。撮影・編集もいちいち的確で、観客が画面で起こっていることを100%理解できるように作ってある(ま、それゆえに「カレン・モクはあれか、エレベーターの機能していないビルを88階まで階段を駆け上ったのか!?」とか、気が付かなくてもいいとこまで気付いてしまったりもするわけだが…) CGの取り入れ方もこなれており(香港映画としては画期的なことに)ゲロも吐かない。武闘派ユン・ケイの武術指導は女優たちを容赦なく痛めつけており、ワイヤーワークの華麗さに於いてはチン・シウトンやユン・ウォピンに一歩譲るかもしれないが、アクションのハードさでは誰にも負けないレベルにある。ゲスト悪役の倉田保昭に対しては、ヒロイン2人がかりでないと倒せないという、最大限の敬意を持って描かれている。なによりヴィッキー・チャオとスー・チーの太腿と、カレン・モク姐さんのを見てるだけで元は取れるというものじゃないかね>諸君。 ● [DVDで再見しての追記]こないだ店でDVDを買おうか買うまいか値札と睨めっこして手に取ったり棚に戻したりしてるうち、裏面の音声トラック表示に「オリジナル(広東語)/北京語吹替/英語吹替/日本語吹替」とあるのを見て、ついつい買ってしまった。いやなぜなら(台湾人の)スー・チーと(中国本土出身の)ヴィッキー・チャオの台詞に関しては劇場公開された広東語版のほうが「吹替」で、北京語版がオリジナル音声(=本人の地声)なのだ。おれは香港映画の魅力の2割ほどは「広東語の響き」にあると考える人間だが、本作に限ってはドラマの主軸を成す2人の台詞をナマで聞ける北京語版を推す。なにしろ泣かせる台詞はほとんどこの2人に集中しているのだから。それが証拠に見よ星が1つ増えてるではないか(!) どーせなら「英語吹替版」なんか要らんから、スー・チーとヴィッキーは北京語&カレン姐その他は広東語、それでもちろん倉田保昭は日本語を喋る3ヶ国語ちゃんぽんの「オール本人音声版」を収録してくれればいいのに>ソニー・ピクチャーズ(…んなムチャな)

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赤裸特工 NAKED WEAPON(チン・シウトン)

製作&脚本:バリー・ウォン 武術指導:チン・シウトン

[輸入DVD観賞] 2000年11月「チャーリーズ・エンジェル」香港公開。香港映画界の誇る商売人=バリー・ウォンがこんな美味しい企画を放っておくはずがなく、2年遅れの2002年の11月にバリー・ウォン版「チャーリーズ・エンジェル」である本作「赤裸特工」を完成・公開させた(8月公開だった「クローサー」に遅れをとったのはバリー・ウォンとしては痛恨だったやもしれんな) ● 世界各国から体技に優れた女児が誘拐される。女児たちは南の島のキャンプに監禁され、闇の世界で名高いマダムMの殺し屋として養成すべく命がけの訓練の日々を送る。やがて10年の歳月が流れ、最終テストの日が来る。最終テスト──それは、厳しい訓練を共に耐え抜いた級友たちと殺し合いをして、生き残った1人だけがプロの殺し屋として卒業できるという過酷なものだった・・・という序盤のストーリーは「あずみ」そのもの(パクリなのか偶然の一致なのか判断がつきかねるが) だが脚本のバリー・ウォンと演出のチン・シウトンは本邦の映画版「あずみ」が逃げて通った「生き残るために殺す」というテーマを、1970年代の東映=篠原とおるものの遺伝子を濃厚に感じさせつつ、たっぷりと時間をかけて描ききる。 ● 結局、過酷な日々を励ましあって耐えてきたシャーリーン(マギーQ)とキャット(アンヤ 安雅)の2人と、感情を廃した完璧な殺人マシーンとして生きぬいたジル(ジュエル・リー 李幸[廾/止])の、3人が特例として全員合格(卒業祝いは集団レイプ) マダムM(アルメン・ウォン 黄佩霞)の殺し屋として社会に出て行くことになる。キャットとコンビを組んで正体不明の凄腕の殺し屋として次々に「仕事」をこなしていくシャーリーンだったが、あるとき、香港での仕事で生き別れた母親(チェン・ペイペイ 鄭佩佩)と再会し、また、ふとしたきっかけからCIA捜査官のジャック(ダニエル・ウー 呉彦祖)と愛し合うようになり、組織から抜けることを決意する。だがその頃、マダムMの組織には、組長を暗殺された復讐をたくらむ日本のやくざの魔手が伸びていた…。 ● シャーリーン役のマギーQ(「ジェネックス・コップ2」)はハワイ生まれのアメリカとベトナムのハーフ(photo ) キャット役のちょっと加藤夏希 似アンヤは台湾生まれのNY育ち。ダニエル・ウーも帰国組ということで、じつは本作は香港映画初の英語オリジナル音声作品である。演出も海外マーケットを意識して香港アクション特有だった泥臭さを廃して、バリー・ウォン作品ながらベタなギャグは一切なし。スタイリッシュなエロティック・アクションに仕上がっている。チン・シウトン(程小東)のアクション演出も(一部、CGを併用しつつも)冴えに冴え、衣装面積が少ないので男性スタントマンがダブルを勤めることが不可能なため、否応なく殆どのカットを自分たちで演じている新人女優たちの健闘もすばらしい。 ● シャーリーンには(実生活での元カレである)ダニエル・ウーとのラブシーンで一瞬ながら乳出しもある。いや、すばらしい。ぜひ日本公開希望。

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ワンダーガールズ 東方三侠(ジョニー・トー)

製作&武術指導:チン・シウトン

コスチュームに身を包んだ3人の女優が戦う話…といえば忘れちゃいけないのが、このジョニー・トーの1993年作品。当時はまだジョニー・トーは日本では無名で、「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」のチン・シウトンとの共同監督作品として宣伝され、いまだに日本ではそういうことになっているが、実際にはチン・シウトンは製作と武術指導。導演はジョニー・トーの単独である。 ● 主演はアニタ・ムイ、悪役にミシェール・キング、コミカルなキャラの3番手がマギー・チャン…という配役。アニタ・ムイはこのあと3年ほどの間に「酔拳2」(1994)「D&D/完全黙秘」「レッド・ブロンクス」(1995)「ボクらはいつも恋してる! 金枝玉葉2」(1996)といった作品に出演した後に、女優としては半休業状態に入ってしまう。ミシェール・キングは本作が「ポリス・ストーリー3」(1992)で華々しく女優にカムバックしたあとの復帰2作目。翌1994年には「レディーファイター 詠春拳伝説」「マスター・オブ・リアル・カンフー 大地無限」「プロジェクトS」と立て続けに出演。「スタントウーマン 夢の破片(かけら)」(1996)での不幸なアクシデント/休養を乗り越えて「宋家の三姉妹」「トゥモロー・ネバー・ダイ」(1997)へと繋がっていく。マギー・チャンはすでにこの時点で「欲望の翼」「客途秋恨」(1990) 「ロアン・リンユィ 阮玲玉」(1991) といった文芸作に出演して演技派女優としての評価を確立しつつある頃だったが、本作では胸の谷間もあらわなビスチェにホットパンツ&ガーターベルトという格好で、自分勝手にギャーギャー喚き散らしては、しかも得意技がダイナマイトというまさしく「ドッカン爆弾娘」なキャラを熱演。「英雄 HERO」では大女優の風格ただようマギーだが、10年前はまだこんなことをしていたのである。また「地獄の番犬」役でアンソニー・ウォンが出ていて、かれが「八仙飯店之人肉饅頭」と「溶屍鬼」の2大猟奇作に主演するのが同じ1993年なので、まさにブレイク直前の(ちぎれた自分の指を自分で食ったりする)怪演を楽しむことが出来る。 ● アニタ・ムイは香港警察の敏腕刑事である夫には内緒で、怪傑ゾロのようなマスクド・ヒーローをやっている。で、彼女と一緒に幼い頃に共にヒーロー養成訓練を受けながら、脱落して、いまは地獄の魔王の使い魔となっているのがミシェール・キング。その地獄の魔王のもとから10年前に脱走して、いまは凄腕の賞金稼ぎとなっているのがマギー・チャン。地獄の魔王が中国に皇帝を復活させんと、高貴な星の下に生まれた赤ん坊を次々と誘拐する事件が起こり、3人のそれぞれに因縁のある女性ヒーローがそれぞれの立場で対決する。もちろん最後には立場を超え、力を合わせて、地獄の魔王を倒すわけだが。 ● およそ似ても似つかなぬ設定になっているが、おそらく企画の元ネタは「バットマン」(1989)である。かの作品のゴッサム・シティのように、現在の香港の風景をいっさい使わず、スタジオに「1940年代の上海」をイメージしたプロダクション・デザインの「アナザー香港」を作りこんでいることからも明らかである。つまりそれだけ(香港映画としては)金をかけた大作であるということなのだが、セットのチャチさ/センスの無さがかえって映画のチープさを増している。 ● そもそも香港映画人というのは世界で最もSFセンスの無い連中であるので、1990年代にもなっていまだにセンスは1970年代の東映から一歩も進歩していない。たとえば本作の終盤にはミシェール・キングが(「ターミネーター」のラストの)ガイコツとなった魔王に(「エイリアン」のフェイス・ハガーのように)背中に張り付かれて「身体を操られる」というシーンがあるのだが、それが実際にどうやって撮影されているかというと、ミシェール・キングのコスチュームの背中にゴム人形を貼り付けているだけなのだ。つまりミシェール・キングが独り二人羽織システムで「自らの意思に反して嫌々、相手を攻撃してしまう」演技をするわけだ。ドリフのコントか! ● 一事が万事ですべてがこの調子。当時のことを思えば「クローサー」の垢抜け方など夢のようである。ジョニー・トーもこのときはまだ雰囲気に流されてるだけの構成力の欠如したダメ演出家でしかなく、チン・シウトンの手掛けたアクション場面も「近未来SFアクション」の意匠に惑わされて本領を発揮してるとは言いがたい。まあ、でも、こういう映画があって現在がある、ということで。