パスポート


「ノボル、ちゃんとパスポートは持ったのかい?」
「バカだなぁ、おふくろ。外国に行くわけじゃないんだから、そんなのいらないよ」
 僕の故郷は東北の山奥にある小さな村で、人口はわずか数百人。豊富な自然だけが名物のような地味な村だったから、ずいぶん前から過疎化が進んでいた。
 僕が故郷を離れる理由は、東京で一旗上げるためだ。なんて言うとかっこよく聞こえるけど、ただ単に何の刺激もない田舎に飽き飽きしていたのが本音だ。この村の出身で高校を卒業したものは、ごく一部を除いて進学や就職などで故郷を離れている。やはりテレビや雑誌で見るような華やかな都会への憧れを抱く若者は多いのだ、僕も含めて。
 きっと東京には、こんな寂れた田舎よりも多くの選択肢があって、僕に人生の有意義さを教えてくれる。それは田舎を出たい単なる言い訳にしか過ぎなかったかもしれないけど、僕の中では確固たる結論だった。そして僕は今日この故郷を離れる。
 やがて僕の乗った電車はホームをゆっくりと離れていく。
 いつまでも手を振りつづける母親の姿を僕は極力見ないようにした。

 電車を何度か乗り換え揺られること数時間、ようやく僕は新幹線の発着駅のある町までやってきた。故郷の駅とは比べ物にならないぐらい広い構内をまるで観光しているかのようにきょろきょろしながらみどりの窓口を探す。ようやく見つけた窓口で僕は、はやる気持ちに動かされるかのように、ものすごい勢いで新幹線の切符購入用紙を書き上げた。その用紙の目的地の欄に東京と書いたとき、僕は東京に行くんだと改めて感じた。
 駅員が1人しか座っていないカウンターには、既に3人ほどの客が並んでいて、僕はその後ろに並んだ。
 程なくして僕の順番になった。僕は緊張しているのがばれないように、ゆっくりと用紙を駅員に差し出した。何せ僕は今まで1人で故郷のある県を出たことがないのだ。一人旅がこんなに緊張するものだとは知らなかった。
「お客さん、東京まで行くの?」
 突然駅員に声をかけられ、僕は慌ててしまった。
「ハ、ハ、ハイ! ハイハイ、そうです。そうです」
 パニックになっている僕を駅員は気にする様子もない。こういう客は慣れているといった感じだ。そして、右手を差し出しこう言った。
「じゃあ、パスポート」
「へ?」
 呆気にとられる僕を無視して、駅員の右手は小刻みに上下に揺れている。催促をしているようだ。
 僕は恐る恐る聞いてみる。
「あ、あのぉ、僕は東京に行くんですけど」
 手元にある画面を見ていた駅員は右手を僕の方に差し出したまま顔を上げた。その顔には明らかに不信感が見えている。
「だから、パスポートだよ。持ってくるの忘れたの?」
 訳が分からないまま僕は、「はい」とだけ答える。
「それじゃあ、持ってきてからにして下さい」
 駅員は用紙を僕の方に差し戻した。
 目の前に戻ってきた用紙をひとまず手に取る。駅員は既に次の客の相手をしているが、僕は構わず「パスポートって何ですか」と聞いてみた。
 駅員は僕の方を一瞥してから、面倒くさそうに僕の後ろを指差す。
「あっちで聞いてもらえる?」
 指でさされた方角には看板があって、パスポートの文字も見えた。僕はすいませんでしたと声を出したが、駅員は何も答えずにもくもくと客の相手を続けている。僕はそこから逃げ出すようにして立ち去った。

 それにしてもいつから東京に行くのにパスポートが必要になったというのだろう。さすがにあの駅員が冗談を言ってるとは思えない。しかし、東京には修学旅行で一度行った経験があるけど、その時はパスポートなんて必要なかった。だいたい僕はパスポートを持っていないのだ。県外でさえ修学旅行や家族旅行などの数えるほどしかないというのに、海外なんて行った経験があるわけがない。と、いくら自分に言い訳をしてみたところで、パスポートが手に入るわけじゃない。僕は看板にそって向かった先にあった「旅券取扱書」と白いビニールテープで書かれたガラス扉をゆっくりと押し開けた。
 中は思ったよりも広く、木のカウンター越しに何人かの人が忙しそうに動いている。すぐそばのベンチには2人ほど腰掛けている。僕と同じような境遇の人なのだろうか。
 左手には腰の高さほどのテーブルがあって、銀行や郵便局のように何枚かの用紙が置かれていた。そこには僕が必要とするパスポートを作るための用紙も置かれているのが分かった。
 今僕がいる駅には新幹線の他に2つの在来線が乗り入れている。しかし、それらの電車に乗って海外に出ることは不可能だ。そりゃそうだ、海外に行ける電車なんて聞いたことない。それなのにこの駅にはパスポートを作るための施設がある。すなわち、国内の移動にもパスポートが必要になっているということの証明だ。
 僕はまだ信じられないという思いだったが、こんなところで上京計画が頓挫するのは嫌だったので、素直にパスポートを申請する用紙に記入をはじめた。

「宮古さん」
 用紙をカウンターに提出して、5分ほど経ってから僕の名前が呼ばれた。
 カウンターの女性は僕に椅子を勧めてから、僕が提出した用紙と僕の顔を一度見比べた。
「東京に向かわれるわけですね」
 彼女はやや早口な口調で事務的に質問をしてきた。
「そうです」
「目的は?」
「え? 目的ですか?」
「書類の方に記述がないようですが」
 確かに用紙には目的地への目的を書く欄があった。しかし、僕は東京に行くのだ。そんなのは必要ないと思い、空欄のまま提出していた。
「いや、目的といわれても……」
「じゃあ、観光ですね」
 僕のあいまいな答えに痺れを切らしたのか、彼女は用紙に記入をしようとする。
「いや、観光じゃないんです」
「じゃあ、学校に行かれるとか」
 年齢の欄をちらりと見て彼女は話す。変に威圧的な態度に僕は恐縮した。
「いえ、学校には行きません」
「じゃあ、就職ですか」
「あ、そうですそうです。就職のためです」
 彼女は無表情のまま目的の欄に「就職のため」と書いた。習字でもしているのだろうか、綺麗な字だった。
「それで、勤務地は?」
 彼女の手元ばかり見ていて、質問を予想していなかった僕は「ふぇ?」などと間抜けな声を出してしまった。
「就職するんですよね? どこに就職するんですか?」
 言葉は確かに丁寧だったが、威圧的な態度は変わらない。おかげで、返事も弱気になる。
「あ、いえ、まだ就職先は決まってないんです。東京で決めようかと思ってまして……」
 僕の言葉に一瞬、彼女は困惑する表情を浮かべたが、本当に一瞬のことだったので気のせいかもしれない。ただ、一瞬といえども間があいたのは間違いなかった。
「ということは、今はまだ無職なんですね」
 ――はい、と答えてはみたものの、はっきりと無職と言われてしまうことが辛いものだということを初めて知った。
 少々落胆している僕の前に彼女は別の紙を差し出した。
「じゃあ、これでビザも一緒に申請して下さい」
「ビ、ビザァ?」
 驚く僕を無視して、彼女は次のお客さんの名前を呼んだ。

 日本の安全神話に陰りが差してきて、東京などの都市部を中心に治安が悪くなり始めたのはここ数年のことだ。
 事件発生数の増加、事件の凶悪化、犯罪者の低年齢化などに歯止めをかけるべく、東京都知事は国と協議を行い、東京に出入りする人間を管理することにした。そこで導入されたのがパスポート制である。
 この政令により、パスポートがなければ東京に出入りすることが出来なくなったため、身元の怪しいもの、未成年、外国人などは簡単に東京に入ることが出来なくなった。また、ビザを発行することで、東京に入ることが出来た人間も、おかしな事をしていないか定期的に身柄を確保し、チェックすることが出来た。当初こそ、このような人間を管理するような制度に異論を唱えるものも多かったが、制度の施行後、東京での犯罪発生数が一気に激減したことにより、今では賛成派が多数を占めている。その反面、東京近辺の郊外での犯罪発生率が上がり始めており、東京以外の地域でもパスポート制の導入が検討され始めていた。

 僕はホテルのベッドに腰掛け、コンビニで買ってきた週刊誌の記事に目を奪われていた。
 僕の知らないうちにこんな制度が始まっていたなんて。こんなことなら、もっとニュースとか新聞を見るようにしておけばよかった。そうすれば、今回みたいに要らない恥をかかずに済んだのだから。
 こうして僕はこの町で2日間滞在することになり、3日目にようやく東京に入るためのパスポートとビザを手に入れた。
 そしてその日の内に僕は東京へと入り、新天地での生活を始めたのだった。

 あれから10年が過ぎた。
 僕は故郷へと向かう電車の中にいた。
 僕は東京で色々な職を転々としながら生活をしていた。
 ありとあらゆる所でパスポートの提示を求められ、監視される日々は思っていたよりも辛いものだった。
 何より目に見える犯罪こそ減ってはいたものの、隠れた部分では相変わらず黒い世界が暗躍していた。その力を持ってすれば偽造パスポートを作ることなど造作もなく、東京は逆に黒い力に汚染されているのを僕は実感した。
 それでも、チャンスは確かにあった。今思えば、それがいいことだったのか悪いことだったのかの区別もつかないが、僕はそれなりの組織のそれなりの地位にまで就くことが出来たのだから。
 しかし結果的に東京で10年も過ごした事は、故郷の素晴らしさを再確認するものでしかなかった。
 東京を離れるにあたって色々な揉め事もあったが、僕はどんなことをしても故郷に戻りたかった。僕の精神はある意味限界にきていたんだと思う。
 やがて電車は終点へとたどりついた。しかしそこは僕が故郷を離れたあの駅ではなく、故郷よりも少し手前に出来た新しい駅だった。この10年の間に僕の故郷にも近代化の波が押し寄せてきたのだろうか、その駅は白を基調にしていて、どこか機械的な雰囲気を漂わせていた。
 しかし、ホームから見える風景は昔のままでホッとした。
 僕が生まれ育った村までは少し歩くことになりそうだが、久しぶりに自然に目をむけながら歩くのもいいもんだ。親に何を話そうか、幼馴染と酒を酌み交わすのもいいな、と故郷に帰ってからのことに思いを馳せながら、駅の改札を抜けた。
 と、そこで僕は無理やり現実に引き戻された。
 そこはまるで飛行場にある税関のようなフロアになっていて、職員がこの駅に降りた乗客1人1人と話をしながら、ゲートを通している。
 一体全体どうなっているのだと不思議に思いながらも僕はその列の最後尾についた。
 やがて僕の順番になり、僕は少し緊張しながら、職員の座るカウンターへと近づいた。
「パスポートを」
 ここでもパスポートなのか。確かにこの10年の間で、日本全国の主要都市はほぼ全てパスポート制を導入していた。しかし、こんな何もない田舎の村にまで、制度が入りこんでいたとは。せっかく、監視の目から離れられると思ったのに。僕はやりきれなくなり、思わず職員に聞いた。
「この村にもパスポート制が導入されたんですか?」
「いいえ。ここは単なる入村するための施設ですから」
 意味はよくわからなかったが、ともかく僕の村にはパスポート制は導入されていないようだ。僕は心のそこからホッとした。そして、晴れやかな気分でパスポートを職員に提示した。
 そのパスポートを受け取った職員の顔が少し曇ったような気がした。
 そしてゆっくりを顔を僕の方に向けると職員は、「あなたは東京からいらしたんですか?」とだけ聞いてきた。
 その態度に少し疑問を持ったが、僕は素直に「はい」と答えた。
 その途端、けたたましいベルの音がフロア内に響き渡った。
 僕が何事かと驚いている間に、どこからか現れた別の職員が僕の両腕を掴んだ。そしてそのまま強制的に連行しようとする。
 あまりに突然の事に僕は声を出すことも出来ず、職員のなすがまま「入村審査室」というプレートが貼られた部屋へと連行されてしまった。

 男が部屋に消えるのを確認すると、職員は独り言のように呟いた。
「東京なんかに10年も住んでた奴に、この素晴らしい村を侵されてたまるかって言うんだ」

 僕は数年前に、豊富な自然が残された地域を救うため、自然を破壊する恐れのある人物の入村を規制する制度が故郷の村に導入されたことを知らなかった。
 人間の心までも荒廃してしまった東京に10年も住んでいた僕は、入村不適合者とされた。
 そして僕が故郷に足を踏み入れることは2度となかった。


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