パソコンと雷がくれた古ぼけた本


 あれは8月の暑い盛りの夜だったと覚えています。
 既に空調の切られたフロアは、少々蒸し暑く、私はネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを2つ外したちょっとだらしない格好でディスプレイを見つめていました。
 郊外に建てられた小さなビルの周りはとても静かで、12畳ほどのさほど広くないフロアには、パソコンから途切れなく流れる低い唸り声と、それと相反するように高い嘆きを響かせるキーボードの音だけに包まれていました。
 その日私は、納期を間近に控えたプログラムのテスト中に重大な間違いを発見し、慌てて1人そのプログラムの修正に追われていました。
 ちょうど金曜日だということもあり、同僚たちは飲みに行こうと私を誘ってくれましたが、私は早急にその間違いを直さなくてはならず、徹夜で仕上げる旨を同僚に伝えました。その同僚たちが、フロアを出ていってから結構な時間が経っていたことに気づいたのは、修正も一段落着いたときでした。
 私は夜食用にと近くのコンビニで買っておいたおにぎりを食べながら、あまりに簡単なミスの積み重ねで発生した今回の間違いを心の中で笑っていました。
 やがて、ザーザーという音が室内に響き始めました。雨が降り出したようです。私はこれで多少蒸し暑さがひくだろうと、少しだけ開けた窓から、徐々に強くなる雨脚を見つめていました。
 そんな時に彼女はやってきました。
 最初彼女は恐る恐るといった仕草で、私の方にゆっくりと近づいてきました。
 眼鏡を外していた私は、彼女の表情をよく見ることが出来ませんでしたが、端整な顔立ちをしていて、素直に美人だと感じました。そして、ゆっくりと近づいてくる彼女をただボーっと眺めていました。どこの職場の人だろうだとか、こんな遅くにどうしたんだろうとかいった、当たり前の意見は一切感じませんでした。時間も時間だったので、思考が鈍っていたのかもしれません。
 やがて、フロアの一番奥にいた私のそばまでやってきた彼女は、静かに話し始めました。
「雨、入ってきてますよ」
 私は慌てて開けた窓のほうに視線を移すと、彼女の言ったとおり辺りが濡れ始めていました。私は急いで窓を閉めます。
「こんな遅くにスイマセン。よろしかったら教えて欲しいことがあるんですが」
 彼女の声に力はあまりありませんでした。顔をよく見ると、少し頬はこけ、眼の下にはくまも見えました。よほど疲れていたのでしょう。私は素直に彼女に同情しました。また、先ほどの指摘を受けたばつの悪さも手伝ってか、私は手に残っていたおにぎりの残りを慌てて口に放り込むと、少し大げさにうなずいて見せました。
 その時の彼女の穏やかな笑顔が印象的でした。

 彼女は私の勤務しているフロアの2つ上に当たる4階で働いているとのことでした。このビルにはいくつかの会社が入っていて、彼女の会社もその1つのようでした。
 私と同じように納期直前で大きなミスをしてしまったという彼女は、どうしても分からないところがあるので、良ければ教えてもらえないかとのことでした。
 私はその職場で4階に向かうのが初めてでしたが、そこは私が働いているのとほぼ同じという印象を受けました。
 8つほどのデスクが並べられ、その上にデスクトップパソコンが綺麗に置かれています。
 ただ私が仕事をしていたフロアと違うのは、電灯がついていなかったことです。
 真っ暗なフロアの奥に、浮かび上がるようにして光を放つディスプレイが置かれていたのが彼女の席でした。偶然にも、彼女の席は私と同じフロアの1番奥でした。
 どうやら、彼女もこのフロアで1人で残業していたようです。
 こんな風に書くと薄気味悪く感じる人もいるかもしれませんが、部屋を暗くした方が能率が上がるという技術者の方もいらっしゃるので、さほどおかしな印象を私は受けませんでした。
 さっそく、彼女が分からないと言うプログラムの部分を見せてもらいました。
 ところが彼女が組んでいたプログラムはかなり特殊な言語で、私は名前を聞いたことがある程度の知識しか持ち合わせていませんでした。
 それを聞いた彼女は一瞬残念そうな表情を見せましたが、すぐ笑顔に戻って「すいませんでした。ありがとうございます」と私にお辞儀をしました。
 私はそんな彼女の態度に非常に申し訳なく感じましたが、このままそばにいても何もしてあげれない事がわかっていたので、ごめんねとだけ伝えてフロアを後にしました。
 自分の席に戻った私は、両手を後頭部で組んで、ぼんやりと天井を見つめていました。雨の勢いは、一向に収まらず、遠くで雷の音も聞こえ始めました。その雷の音で我に帰った私は、慌ててパソコンのデータを保存しました。雷はパソコンの大敵なのです。
 そうこうしているうちにも、雷は徐々にその距離を近づけていました。私は雷など怖くはありませんでしたが、これでせっかくの仕事を無にされるのは御免でした。そしてようやくデータの保存を終わらせたとき、一際大きな音がビルを襲い、フロアの電気が消えてしまいました。幸いにもパソコンの電源は、別の非常用電源で確保されていたため、被害をこうむることはありませんでした。しかし、こんな状態では仕事になんてなりません。私はパソコンの電源を切ります。そして、ここで私はさっきの彼女のことを思い出しました。下心がなかったわけではありませんでしたが、素直に心配になったのは事実です。私は時折フロアを照らす雷の光を便りに階段へと向かいました。
 少し急な階段を上り、まず3階へ。そしてその足で4階へ向かおうとした時、突然眩しい光が私の顔に飛び込んできました。
「どうしたんだ?」
 それはこのビルの3階で作業をしていた人で、私も何度か話をしたことがありました。彼の手に握られていた懐中電灯が光の正体でした。
「いや、4階に行こうかと」
「4階? 何で?」
 一瞬、私は彼女のことを話すのをためらってしまいました。邪な気持ちがあったのだろうと思われても仕方がありませんし、否定もできません。
「いや、ちょっと……」
「4階に何か隠してるのか? あんな何もないところに行ってもしょうがないだろう」
「え? 何も、ない?」
「ああ、今は確か倉庫っていうか、物置になってるって話じゃないか」
 彼は冗談が好きな男でしたが、その時の言葉に嘘は感じられませんでした。
「待ってくださいよ。4階でも僕らと同じように仕事をしている人がいるじゃないですか」
「はぁ? 何寝言言ってるんだよ。そりゃ、昔はそういう風に使われてたってことも聞いたことがあるけど、今は単なる物置だよ」
 私は彼の言葉を聞き終える前に階段を駆け上がっていました。
 4階のフロアを見て私は愕然としました。
 時折雷で照らされた室内はがらんとしていて、いくつかのダンボール箱が置かれているだけでした。
 先ほど私が見たはずの机もパソコンも、そしてあの彼女も全くなかったのです。
「おい、いきなり走り出してどうしたんだ?」
 彼は後から慌てて追ってきたのでしょう。少し、息が切れていました。
「何か面白い物でもあるのかと思ったけど、やっぱり何もないじゃないか。もう俺は下に行くからな」
 1人残された私はしばらくのあいだ彼女の机があった場所で立ち尽くしていました。  あの日から数日が経ち、プロジェクトが解散する日を迎えました。  いろいろとトラブルもありましたが、無事納期を守ることが出来、みんなの表情も晴れ晴れとしていました。
 そして私もこの仕事場から離れる日がやってきました。
 あれから私は先輩や上司などから話を集め、このビルで起きた悲劇を知りました。
 あの日と同じように雷雨が猛威を振るっていたとある日。
 新人エンジニアであった彼女は、とあるミスを修正するため夜遅くまで残業をしていました。
 その時ひときわ大きな雷がビルを直撃しました。
 その一撃でビル中の電気がストップしてしまったのです。
 彼女は慌てました。明日までにミスを修正しなければいけないという焦りが彼女を襲います。
 そして彼女は地下にあった電気制御室に入り、何とか電気の復旧を図ろうとします。
 しかし電気機器に対して何の知識も持ち合わせてはいなかった彼女は、誤って雷のせいで高電圧が帯電していた制御盤を触れ、亡くなったということです。
 やがて、彼女が勤めていたプロジェクトは事故のこともあり解散。彼女が作っていたプログラムが日の目を見ることはなかったそうです。

 そして今。あの雷雨の夜から数年の月日が流れました。
 コンピューター業界は日進月歩の発達を繰り返し、生長しています。
 しかし私の鞄の中には、それに逆行するかのように、もう今は使われなくなってしまった古ぼけた特殊なコンピューター言語の解説書がいつも入っています。
 いつかあの穏やかな彼女の微笑みともう一度出会えた時の為に。


この作品の率直な感想を選んでください。

(5段階評価 5(面白い) ← 3(普通) → 1(つまらない))
5  4  3  2  

感想があればよろしくお願いします。

よろしければお名前とメールアドレスを教えて下さい。(省略可)

    お名前: 
メールアドレス: 

下のボタンを押してください。あとがきのページへ飛びます。