パンク


 パーン!

 乾いた音が赤く広がる静かな田園に響いた。
「あちゃー!」
 男は大声を上げ、慌てて愛車を止めた。
 後輪のタイヤのゴムはきれいにつぶれ、オレンジ色に輝くホイールがかろうじて地面との接吻を避けていた。
 男は愛車に積んでいた荷物の一つを下ろすとパンク修理用のキットを取り出した。
 彼の愛車に予備のタイヤなどはない。何せ、彼の愛車は自転車なのだから。
「こりゃぁダメだな」
 もう何度目だろうか。タイヤの中から取りだしたチューブは彼の慣れない修理のおかげでつぎはぎだらけ。そしてその一部は見事に破裂をしていた。パッと見ただけで分かる。これはとても修復できそうにない。かといって彼は予備のチューブを準備していなかった。万事休すだ。
「いい加減このチューブもガタが来てたから仕方ないか」
 とりあえず修理をあきらめた男はゆっくりと立ち上がると辺りを見回す。
 まっすぐに伸びる砂利道の両脇には田んぼが広がっている。田んぼとは言っても、最近は全く人の手が入っていないようで雑草が伸び放題だ。
 田んぼの奥には山が広がり、そこに半分まで体を隠した太陽によって、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 まさに何もない。見事なまでのド田舎。
 最後に人を見たのは一体いつだっただろうか?
 砂利道は軽自動車が辛うじて1台走れるほどのスペースしかないため、車が通ることはない。そもそも、男が次の町まで近道をするために地元の人に教えてもらったこの道は地元の人もほとんど使わないという。実際にかれこれ2時間ほど走っていたが、本当に誰とも出会わなかった。
 呆然と立ちつくす男の耳に聞こえてくるのは、風の音とそれに揺れる草の音、そして自分の息遣いだけ。程なく訪れる闇を考えると、男はとたんに寂しくなった。
 当初の予定ではあと1時間ほどで次の町に到着する予定だった。引き返すよりも先に進んだ方が早いだろう。しかし、早いと言っても自転車と徒歩とでは、移動の速さに雲泥の違いがある。
 男はため息をつくと荷物を再び自転車へと取り付けた。そして、自転車のハンドルに手を掛け、ゆっくりと先へと歩き始めた。

「さっき空気が減っていたからと、多めに空気を入れたのがまずかったのかもしれないな、やっぱり」
 とっくに太陽は山並みへと消え、辺りは徐々に暗くなり始めていた。いつの間にか虫の鳴き声が聞こえはじめていたが、やはり静かなことに変わりはない。男は静寂から来る恐怖をふりほどくかのように独り言を続けていた。
「だいたい、あんなところに段差があるのがいけないんだ。単なる砂利道でのショックぐらいだったらチューブももう少しもったはずだし…」
 愚痴をこぼしたところで相手をしてくれる者もない。そして、夜はあっという間にやってきた。
 男は、ここでは街灯など作られた光が存在しないため、夜はいつもよりも深い闇に覆われるものになると思っていた。しかしそんな恐怖は杞憂に終わった。
 漆黒ではない濃紺の闇は天上に瞬く星の光と相まって、幻想的な世界を作り出している。また、太陽に変わって顔を出した満月の光は、下手な街灯よりも明るく道を照らしてくれた。
「これはすごいな…」
 ディープブルーのヴェールをまとった景色を男はしばらく足を止めて見つめていた。

 男は若くして胃に重い病を患った。度重なる手術の甲斐もあって、3年続いた闘病生活は先月ようやく終わった。退院後男はリハビリもかねて自転車による日本一周を計画した。周りの者はその無謀な計画に賛成してはくれなかった。しかし、男の決心は固かった。唯一反対をしなかった親の援助もあり、3ヶ月前に男は旅を始めた。

 正直、自分でも無謀な挑戦だと思っていた。しかし、ネオンとスモッグに覆われた都会では決して見ることができないであろうその世界は、男に改めて勇気を与えてくれた。  それから1時間ほど歩いた後、小高い丘へとたどり着いた男は、そこで野宿をすることにした。このまま町にたどり着いてしまうのがもったいない気分になったからだった。淡い光に包まれて男は静かに眠りについた。

 早朝。男は頬に当たる水滴で目を覚ました。野宿は大きな木の下でした。樹齢100年はゆうに越えているであろう大木は、鮮やかな緑の葉に溜まった夜露で朝日を反射して光り輝いている。先ほどの水滴も、この夜露だったようだ。昨日の夜とはまた違うファンタジックな景色にしばし目を奪われる。
 しかし、久しぶりに迎えたすがすがしい朝の感動は長くは続かなかった。それは、男の自転車に群がる集団に気づいたからだ。
 それはもぞもぞと動き、自転車に取り付けているリュックサックをあさっている。
「さ、猿だ!」
 男は慌てて飛び起きると、近くに落ちていた枝を片手に猿を追い払った。幸いにも猿は抵抗することもなく、木々の奥へと逃げていった。どうやら、この辺りの猿はまだ人には慣れていないようだ。
「こんなところに猿がいるだなんて聞いてなかったよ」
 寝起きで激しく動いたせいか、息が切れ、汗がにじむ。
 枝を草むらへと放り投げ、猿があさっていたリュックを点検する。
「やられた…」
 見事に食料だけを抜き取られていた。他の物は無事だし、リュックも大して傷ついてはいない。どうやら、あの猿はかなり人に慣れていたと考えた方がいいだろう。
 ここからだと町までは約2時間という距離。食料がなくなったことは痛かったが、水はたっぷりと残っていたので何とかなるだろうと男は考えた。
 猿によって散らかされた荷物を再びリュックへと片づけ、自転車へと固定する。そして水を飲んだ。思ったより冷たかったそれは目覚めにはちょうどよく、予想以上の満足感が得られた。
 おまけに食料は装備の中でも結構な重量を占めていた。それがなくなったことで、たっぷりの睡眠のおかげもあるだろうが、昨日とは比べ物にならないぐらい自転車は軽く感じられる。
「これなら、なんとかなる…」
 男は自転車のハンドルを握り。ゆっくりと町へと向かって歩き始めた。

 今日は昨日とはうって変わって暑かった。その暑さと空腹もあって、ついつい水分を多めにとってしまう。
 1時間も経つと、男のお腹は水でたぷんたぷんに膨れていた。
 完全な水っ腹と化した腹を片手でさすりながら、丘を下り始める。
 丘の上からは目的地である町が見えていた。
「もうすぐだ…」
 目線が町へと移った瞬間、男は水で濡れた地面に足を取られた。
 片手で自転車のハンドルを握り、片手は虚空を掴む。そして、まるでスローモーションのように男は前傾姿勢で地面へと倒れていく。
 「うわぁ」と叫んだ男の声は別の音でかき消された。

 パーン!


この作品の率直な感想を選んでください。

(5段階評価 5(面白い) ← 3(普通) → 1(つまらない))
5  4  3  2  

感想があればよろしくお願いします。

よろしければお名前とメールアドレスを教えて下さい。(省略可)

    お名前: 
メールアドレス: 

下のボタンを押してください。あとがきのページへ飛びます。