腕時計の想い出


 朝、目が覚めると、腕時計の動きが止まっていた。
 もう何度目だろう…
 この腕時計と過ごした季節の数を数えながら、この腕時計と出会った最初の日のことを思い出した。

「はい。誕生日プレゼント」
 美里はそう言って笑顔で今までかばんに大事に隠していた小箱を差し出した。
「あ、ありがとう」
 僕は少し照れたような表情でそれを受け取る。といっても照れていたわけじゃなかった。彼女と初めて過ごす誕生日に、いや、一緒に過ごす夜に興奮していたんだと思う。
 この日のために、僕はこの町で名の通ったホテルの一部屋を予約した。自分の誕生日のために自分で部屋を予約すると言うのも変な話だ。予約にかかったお金は奮発どころの騒ぎじゃなかったが、そんなのは彼女の笑顔と今手の中にあるプレゼントで帳消しになっていた。

 美里との付き合いは初めて出会ったころから数えれば2年以上にもなる。
 僕と美里が知り合ったのはアルバイト先のレンタルビデオ屋だ。彼女が新人として入ってきたときには僕はもうベテランとして社員からも一目おかれる存在となっていたから、彼女の教育係に任命されたのは当然の流れだったのかもしれない。
 僕の妹と同い年である彼女に最初は異性を感じる事はなかった。それは彼女が徐々に仕事に慣れ始めた数ヶ月が過ぎても変わらなかった。
 それが突然変わったのは忘れもしないクリスマスイヴの3日前の事だ。時間は既に午後10時を過ぎていて、僕はいつものように暇な店内をぼーっとカウンターから眺めていた。店内のスピーカーからは流行りのシンガーソングライターの新曲が流れ、その曲調と共鳴したかのような気だるい雰囲気が店の中に蔓延している。
 その雰囲気をぶち壊すかのように電話のベルが鳴った。普段なら社員が取るので無視していてもいいのだが、今日に限って社員はデスクワークに縛られているらしく、僕は電話係も兼任することになっていた。
 2コール目の音を聞いてから軽く息を吐いて受話器を上げる。普段とは明らかに違う営業用の高めの声で店名を述べると聞き覚えのある声が帰ってきた。
「今、忙しい?」
 同じバイト仲間の幸恵からだった。彼女からはよく電話がかかってくる。しかし、そのほとんどはバイトを休ませてくれという内容なので今回もそういう話だろうと思った僕はぶっきらぼうに答える。ただ、今回はそういう理由で電話をかけてきたわけではなかったらしく、ちょっと怒ったような口調で話を続けた。
「あのさぁ、美里のことどう思う?」
 本当にいきなりだった。こっちは仕事をしているのに、と愚痴が出そうになったが、妙に幸恵の口調が真面目だったのが気になり、店が暇なままのをいいことに話を続けることにした。
「何だよ、突然だなぁ」
「で、どうなのよ」
「どうって言われても…まあ、嫌いじゃないよ」
「じゃあ、好き?」
「おいおい、何でそういう風に話が続くんだよ」
「いいから!好きなの?嫌いなの?」
「う〜ん、まあそう言われれば好きかな?」
「そうか、分かった、ありがとう」
 それだけ言うと幸恵はさっさと電話を切ってしまった。
 単調な通話音が鳴り響く受話器を電話へと戻す。とりあえず語尾を濁すようにして言った答えについて考えてみる。今まで彼女のことを異性として見たことはなかった。でも、純粋に異性として見たらどうなんだろう?  彼女は明るく、決して美人ではなかったが可愛らしい印象を与えてくれる大きな瞳を僕は素直に好きだった。コロコロとよくしゃべる彼女は間違いなくバイト先でのムードメーカーだったし……いろいろと考えているうちに僕は初めて気づいた。そうか、彼女のことは嫌いじゃない。というよりも異性としても好きなタイプだったんだ。そう、彼女のことを僕は好きだったのだ。自分でも気づかないうちに好意は胸の奥で大きく育ち始めていたのだろう。
 だからといって僕は彼女との付き合いを変えるつもりはなかった。変に意識をして妙に付き合いがぎこちなくなる方が僕には絶えられない。彼女とはこれからもバイト先での先輩後輩の関係。それでいいと思っていた。僕は考えに一段落つけるといつもの仕事へと意識を戻した。
 深夜1時。アルバイトが終わり、家へと帰るために駐輪場に向かうとそこには意外な二人組が待っていた。一人はさっきの電話の主である幸恵。そしてもう一人は…
「おはようございます。先輩」
 いつもの癖で挨拶をしたのは、唯一アルバイト先で僕のことを先輩と呼ぶ女の子。美里だった。
「美里ちゃん……。どうしたの?こんな遅い時間に」
「さっきの続きよ」
 幸恵が何ともいえない複雑な空間ができつつある中に割って入った。
「どういうことだよ」
 僕はあくまで冷静を装い、幸恵に顔を向ける。
「どういうこともなにも、そのまんまよ。さっきの電話覚えてるでしょ。実は私、美里ちゃんに相談を持ちかけられたのよ。でも、私そういうウジウジしたのって嫌だから、有無を言わさず話を進めたの」
 すごい話だ。確かに幸恵は竹を割った性格と言うのか、実にはっきりした人間だ。いつも自分の意見は決まっていて、迷うとか悩むということに無縁ともいえるような人間だ。だからと言って、他人までそれに巻き込んでいいということはない。しかし、これは後で聞いたことなのだが、彼女からしてみれば自分に関わった人間には全て自分の意見を通さないと嫌らしい。美里も振りまわされて大変だっただろう。が、幸恵の行動がなければ僕たちは付き合うことがなかっただろうから、それはそれで感謝しなければいけないのかもしれない。
 その後、僕は生まれて初めて異性に告白をされた。僕に断る理由などあるわけもなく、僕と美里の付き合いはこうして始まった。

 彼女が初めてくれた誕生日プレゼントの中身は腕時計だった。文字盤にローマ数字が並ぶアナログ時計。ちょっと大人っぽいそれは僕にはちょっと浮いた印象を与えてくれそうだったが、彼女はまんざらでもない表情だ。
 腕時計を買った記憶がほとんどなかった僕でも、これが決して安いものではないのは分かった。彼女はまだ高校生。これを買うのに、アルバイト代を使いきったのではないかと思うと、嬉しいのもあるが、それ以上に申し訳ない気持ちがした。というのも、この時僕はアルバイト先にそのまま中途採用され、本社へと異動になっていた。つまり、美里と僕は遠距離恋愛をしていたのだ。だから、逢いたくてもなかなか逢えない日々に対する懺悔の気持ちがいつもつきまとっている。特に久しぶりに彼女と逢うときなどはいつもそうだ。でも、彼女は僕を責めない。いつも何も言わず、限られた短い時間を大事に過ごしてくれていた。もちろん、僕もそうだが。
 一人でいるときはあまりにも長い夜は信じられない程早く過ぎ、再び一人になった部屋で美里の笑顔を想う日々が戻った。今まではなかった真新しい腕時計を見つめながら、いつまでも二人の関係が、この時のように永劫に進むものだと思っていた。しかし、僕と美里の時間は他によくある恋と同じように永劫に続くことはなかった。
 僕の誕生日から9ヶ月後。終わりは突然やってくる。やはり距離には勝てなかったのか、美里には新しい好きな人ができたらしい。本意を求めて僕は会社を休んで彼女の元へと向かった。彼女が好きだった喫茶店で待つという電話だけをして。
 コーヒー3杯と文庫本2冊で彼女はやってきた。しかし、彼女は何も言わず、ただ泣くだけだった。その時見た腕時計は、僕たちの終わりを示すかのように動きを止めていた。

 初めての電池交換をした後も僕は腕時計を使い続けた。普通なら捨ててしまうのかもしれないが、僕にはそれができなかった。決して過去の思い出に縛られているわけではない。と思う。確かに、ふと物思いにふけるとき、腕時計を眺めながら美里との楽しい想い出を思い出すこともあった。しかし、時が流れるにつれ、その想い出も過去のものとして記憶の中から薄れていく。こうして風呂に入るとき以外は身につけている腕時計は過去の思い出の品ではなく、日々の生活の必需品へと姿を変えていった。
 5度目の電池交換をした頃に僕は結婚をした。妻はこの腕時計がどこから来たものかは知らない。そこにあるのが当たり前のようにしている腕時計に彼女が疑問を抱くことなどない。僕が言うこともない。わざわざ昔の事を持ち出して妻との仲を悪くする必要などない。
 そして今朝、また時計はその動きを止めた。
 いつも行く時計屋で電池交換を頼んだが、そこの親父は裏蓋を開けるなりこう言った。
「お客さん、これはもうだめだよ。汗とかのせいで、中の部品が錆びちゃってる。まあ、修理できないこともないけど、結構な時間とお金がかかるだろうね」
 思いがけない言葉に僕はしばし考えた。
「それじゃあ…」

 僕が時計屋を出ると、小雨が降っていた。
 傘を持ってこなかった僕は、濡れるのを承知で自宅へと歩きだした。
 久しぶりに美里とのことを思い出そうとしたが、出会いと最初で最後の誕生日、そして別れしか思い出せない。楽しかったこともたくさんあったはずなのに、何も思い出せない。腕時計は美里との楽しい想い出と共に錆びついたのだろうか。
 雨の勢いが強くなり始めてきた。
 何もつけていない左腕に妙な軽さを感じながら、僕は家路へと走り始めた。
 時を止めたままの腕時計を時計屋へと残しても、僕の時間は今も動き続けている。


この作品の率直な感想を選んでください。

(5段階評価 5(面白い) ← 3(普通) → 1(つまらない))
5  4  3  2  

感想があればよろしくお願いします。

よろしければお名前とメールアドレスを教えて下さい。(省略可)

    お名前: 
メールアドレス: 

下のボタンを押してください。あとがきのページへ飛びます。