あのとき |
今まで階段を一つ一つ上ってきた人生。 僕は大きく深呼吸をすると過去を振り返る。 あのとき。 僕が産声を上げたあのとき。 全てはあのときから始まった。 はじめて階段を上ったあのとき。 あのとき。 幼稚園に通っていたあのとき。 おもちゃ欲しさに床を転げまわった。 欲望という本能を剥き出しにしたあのとき。 あのとき。 小学校で運動会のあったあのとき。 フォークダンスで可愛いあの子と手をつないだ。 女の子の手の柔らかさに心揺れたあのとき。 あのとき。 高校2年のやけに暑かったあのとき。 生まれて初めてラブレターを書いた。 初恋を実らせようと徹夜したあのとき。 あのとき。 決して忘れられないあのとき。 初めての恋は実らなかった。 失恋の辛さに枕を濡らしたあのとき。 あのとき。 社会人という称号を得たあのとき。 遂に運命の人と出会った。 その感動に打ち震えたあのとき。 あのとき。 仕事にも徐々に慣れ始めてきたあのとき。 彼女の事を知りたくて遠くで見つめた。 彼女の一挙動に快感が走ったあのとき。 あのとき。 仕事で大きな失敗をしてしまったあのとき。 落ちこむ気持ちを彼女の笑顔で癒した。 この笑顔を自分だけのものにしたいと思ったあのとき。 あのとき。 いつもの帰り道に衝撃を受けたあのとき。 彼女の部屋に入る見知らぬ男を見た。 心にわきあがる怒りに驚いたあのとき。 あのとき。 会社を初めて欠勤したあのとき。 見知らぬ男の後をつけた。 奴が彼女を不幸にする男だと知ったあのとき。 あのとき。 会社の有給を使いきったあのとき。 忠告を聞かない男に天罰を与えた。 人の骨の脆さを知ったあのとき。 あのとき。 会社に退職願を出したあのとき。 彼女に初めて話し掛け僕の武勲を伝えた。 彼女の涙を初めて見たあのとき。 あのとき。 そう、あのとき。 僕の愛を分かってくれない彼女に想いをぶつけたあのとき。 彼女の暖かさと冷たさを肌で感じたあのとき。 そして。 僕の前にはもう上る階段はない。 僕の前にはもう進む道もない。 そのとき。 僕の足元にあるべき床がなくなる。 そして。 僕は縄一本で宙を舞う。 |