蝿の恩返し


「気をつけろ!馬鹿野郎!」
「ス、スイマセン……」
 何だよ、自分の方からぶつかっておいて。文句を言うのは僕の方じゃないか。
 でも僕もいい加減に慣れなきゃなぁ。スイマセンだなんてつい謝っちゃうんだもの。
 何せ、こんなことは僕にとっては日常茶飯事のこと。
 子供の頃から目立たない存在だった僕は、大人になるにつれて本当に目立たなくなっているようで、今回のように簡単に人にぶつかられたりする。まあ、人なら大して痛くもないからまだいいけど、バイクや車でさえぶつかってくるんだから洒落にならない。
 でもその慰謝料のおかげで、僕が親許を離れ、バイトもせず予備校生という立場で生活できるのだから、世の中どうできているかはわからないものだ。かといって、1年の半分近くを病院のベッドの上で過ごす生活が快適なわけじゃない。
 僕も何とかしたいのだけれど、正直なところ回りを気にするぐらいしかできない。何せ相手が勝手に突っ込んでくるんだからね。本当に何かいい方法はないものだろうか。
 ドンッ!
 僕はまた誰かにぶつかり尻餅をついてしまった。
 回りからはクスクスと小さな笑い声が聞こえる。これも慣れたとはいえ、やっぱりいい気分じゃない。僕は痛むお尻をさすりながら、ゆっくりと立ち上がった。
 依然クスクスという声が聞こえてくる。そんなにも笑うことないじゃないかとイライラしながら、僕は足早にそこを去ることにした。

 やがて景色はうるさい繁華街から静かな住宅街へと姿を変えていく。
 夕方ということもあって、学校帰りの子供達が連なって歩く姿が見える。
 そういえば、この間の摸試の結果は散々だった。この調子じゃ、入院を理由に浪人をしていたのも単なる言い訳になってしまう。今年こそは大学に入っておかなければ。
「あ〜!この兄ちゃん、頭にハエくっつけてるぜぇ!」
「ほんとだぁ〜。や〜い、や〜い!」
 いつのまにか僕は数人の小学生に取り囲まれていた。
「ハエ人間!ハエ人間!」
 こういう時の子供は悪魔以外の何者でもないと思う。子供特有の愛らしさも無邪気さも全てが無くなり、あるのは残虐な悪魔の心のみだ。だからといってこの悪魔どもを倒す術を僕は持ち合わせてはいないので、ここはおとなしく退散した方がいいだろう。退却を余儀なくされた僕の背中に「ハ〜エ人間!ハ〜エ人間!」という悪魔の歌う声が突き刺さった。

 そういえば久しぶりに走った気がする。かといって爽快な気分なわけじゃない。当たり前だ。おまけに、荒い息を吐きながらアパートの階段を上る僕の耳元にはプーンという耳障りな音が入り込んでいる。かといって今の僕にはそれを振り払う余力もなかった。やがて音の正体はゆっくりと僕の目の前へとやって来た。
 それは一匹の蝿。
 どこにでもいる普通の蝿だった。
 どうやらこいつがさっきから僕の頭にくっついていたのだろう。
 蠅は僕の目の前を2、3回旋回した後、空高く飛んでいった。
「あ〜あ、蝿にまでとまられているようじゃダメだよ」
 僕は頭を大きくうなだれて、部屋に入った。

 その夜、僕はドアを激しく叩く音で目が覚めた。
「一体、こんな夜更けになんだよ!近所迷惑じゃないか!」
 頭をかきむしりながら、激しいノックの続くドアに向かう。
 鍵を外し、ドアを少しだけ開けて覗いてみるとそこには、絶世の美女ではなく、精悍な青年というか、妙にたくましい汗臭い男の姿があった。
「夜分、遅くにスイマセンでッス」
 僕の顔を見るなり、その男はいかにも体育会系ですというノリで話し掛けて来た。
 僕はゆっくりとドアを閉めようとした。
「ちょっと待ってくださいッス。大事な、大事なお話があるんでッス」
 男はわずかな隙間に指を滑り込ませ、ドアを閉めさせまいと抵抗をした。僕はそのすごい力に簡単に負けてしまった。
「大事な話ってなんですか?」
 いとも簡単に部屋への浸入を許したあげく、座布団にお茶までせしめている男に僕はいかにも迷惑だという皮肉を込めて話を切り出した。
「実は私は夕方貴方に助けられた蝿なんでッス」
「はぁ?」
「あのときは本当にありがとうございましたでッス。実はあのとき悪い虫に捕まりそうになっていたんでッス。そこに貴方が現れてくださいまして、頭に隠れさせてもらったのでッス。それにしても本当に貴方はいい人でッス。近頃は私の姿を見るだけで追い払おうとする人達が多いというのに、まさしく蝿の神様でッス。蝿神っス」
 そんな事言われてもちっとも嬉しくないぞ。せめて、これがもう少し可愛い女の子なら話は別なのかもしれないけど。とは言ってもしょせんは蝿だしなぁ。それはそれで嫌かもしれないなぁ。
「そこで今日は、お礼をさせてもらいに来たんでッス」
「お礼?!」
「そうでッス。お見受けしたところ貴方はよく事故に遭われているようでッス」
「余計なお世話ですよ」
「そこで、この靴を差し上げたいと思うのでッス」
 そう言って蠅男はどこからか、一足の黒い靴を取出した。
「この靴を履いてさえいれば、どんな危険も回避出来るのでッス」
「どんな危険も?」
「そうでッス。私達、蝿を捕まえるのが大変なのはご存じッスよね?それは私達に危険を回避することができる俊敏な動きと鋭敏な感覚があるおかげなのでッス」
 そんなゴツイ体で俊敏だぁ鋭敏だぁ言われても信用出来ない気がするんだけど。
「この靴はそんな私達の力を備えた素晴らしい靴なのでッス」
「それで、これを僕にくれると?」
「そうでッス」
「は、はぁ」
 蝿男は半信半疑な僕に靴を手渡すと、太い手をブンブンと羽ばたかせて窓から夜空へと飛んでいった。

「それにしても昨日は変な夢を見たよ。夢ならもう少し色気があってもいいだろうに」
 しかし、目覚めた僕の枕許にはきちんと揃えられた一足の黒い靴があるのであった。
 僕は蠅男の言葉を信じたわけではなかったが、今日はその靴を履いて外出することにした。
 その靴はまるでオーダーメイドのように僕の足にフィットした。履き心地も悪くない。これは結構いい物をもらったのかもしれない。たまには人助け、いや、蝿助けもするもんだ。
 その時、突然曲がり角から1台のオートバイが僕に向かってつっこんで来た。
 僕は、またかという思いで観念して目を閉じた。瞬間、体が浮くような感覚にとらわれた気がした。やがて、いつまでたっても襲って来ない衝撃に僕はビビリながらもゆっくりと目を開けると不思議なことに、もう目前まで迫っていたはずの暴走バイクは遥か後方へと走り去っており、僕には傷一つどころか、触れた跡さえ無かったのである。
 何がなんだかよく分からないが、無事であったのは何より。たまにしか僕の部屋をノックしない幸運に感謝することにした。

 それからも不思議なことは続いた。あれだけ、毎日のように誰かにぶつかられていた私が誰からもぶつかられなくなったのだ。いや、そうじゃない。僕がぶつかられないように避けているのである。正確にはあの蝿男のくれた靴がだ。
 あの靴には本当に不思議な力があるようだ。何かにぶつかられそうになっても、自然に体が動き、決してぶつからないのだ。今の僕の体は蝿のように捕まえたくてもなかなか捕まえることの出来ない体なのである。
 正直、慰謝料のなくなる生活に不安もあったが、人間健康が一番だ。何せこれからは事故知らずの生活を送れるのだ。そういえば、こういう前向きな気持ちになったのはいつ以来だろう。もしかしたら初めてかもしれない。この調子ならきっと入試もうまくいくに違いない。僕の未来は薔薇色に輝いているのだ。
 そこに一匹の蝿が寄ってきた。
 頭に昨晩の蝿男の声が響く。
『調子よさそうでッスね』
「ああ、昨日の君か。いい物をもらって本当にありがとう」
『喜んでもらえて私も嬉しいッス』
「今日はどうしたの?僕を心配して来てくれたのかい?」
『そういうわけじゃないッスけど、またいい匂いがしたもので寄ってきてみたら貴方がいたんでッス』
「いい匂い?そ、そんなに僕の体は臭いのかい?!」
『ち、違うッスよ。そういう匂いではなくて、なんと言ったッスかねぇ?え〜と、え〜と……あの時もその匂いに誘われたんでッスけどねぇ……』
「まあいいよ。君のおかげでこんな晴れやかな気分になれたんだしね」
 僕はその穏やかな気持ちに身を委ねるように、目を閉じ、空を蹴った。

 ドン!

『そうッス。思い出したッス。死臭ッス。その匂いが貴方からするんでッス。あ、いくらなんでも自分から車に突っ込んだらダメッスよ』


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