雨音


 雨音で目が覚めた。
 時計を見なくても、早朝であることは分かった。
 今日は大学もバイトも休みだったから、ゆっくり寝ようと思っていたのだが、そういう時に限って早く目が覚めてしまう自分に苦笑した。
 外の雨はかなり小降りのようだ。
 目が覚めるほどの雨音だったから、もう少し強く降っているのかと思ったが、それだけ感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。やはり、昨日の彼女からの電話が堪えているようだ。
 二度寝をしようとも思ったが、不思議と眠くはなかった。
 ゆっくりとベッドから起き上がると、テレビのスイッチに手を伸ばした。
 ブラウン管の中ではどこかのテレビ局のアナウンサーが笑顔で何かを話している。また、誰かのスキャンダルでも発覚したのだろうか。いっそ、彼女のスキャンダルについて教えて欲しい気分だ。
 雨音だけが響く静かな部屋の中に漠然と流れるアナウンサーの声を背にしたまま、ヤカンに水を注ぎコンロにかけた。
 戸棚から取出したインスタントコーヒーの瓶は軽く、わずかに残った黒い粒を底から眺める。
 雨が上がったら買い物に行こう。たまには思いっきり無駄使いをしてみるのもいいだろう。端が少し欠けたマグカップに黒い粒を流し込みながら、そんなことを考えた。

 雨音が強くなった。テレビから流れる音がかき消されていくようだ。ブラウン管の中にはさっきと変わらないアナウンサーの貼りつけたような笑顔。何を言っているのかもよく聞こえない。テレビの側面を軽く叩いてスイッチを切った。
 窓を開けてみた。確かに先程よりは雨足が強くなっていはいるが、土砂降りというほどではない。しかし、この雨ではとても外出する気分にはなれそうにない。灰色に染まる空を見上げながら、アスファルトへ屋根へ水たまりへと落ちる雨音に体が包まれてしまうような錯覚を覚えた。
 ふと我に帰り振り返ると、コンロの上のやかんの口から水蒸気が勢いよく噴き出しているのが見えた。慌てて窓を閉めて、コンロへと走った。
 コーヒーを飲みながら、やはり買い物に出かけるべきなのかと考えた。目の前にある空のインスタントコーヒーの瓶、お湯が沸いても音の出なくなったヤカン、そして彼女と買った端の欠けたマグカップ。それぞれが口を揃えて話し掛けてくるようだ。雨の中を出かけるのも悪くないことだろう、と。

 底がわずかに黒くなったマグカップを流し台の中へと置き、再びベッドへと向かおうとした時、テレビの脇においてある電話機が蛍光色の光を放った。
 そういえば、昨日は朝寝坊をするために電話機の着信音を消したんだった。電話のプッシュボタンが数回の点滅を繰り返した後、留守番電話モードに切り替わる。
 外の雨は更に激しさを増す。屋根を叩き、窓を叩き、壁を叩く音も大きさを増してゆく。
 ゆっくりと受話器を持ち上げる。
「もしもし」
 ただ、それだけ言ってみた。
 耳の遠くの方で誰かが話しているような、かすれた小さな声。彼女だろうか。
「もしもし」
 もう一度問いかける。受話器の奥から聞こえるその小さな音は、外の雨足が強まると共に小さくなっていく気がした。
「もしもし」
 自分の声だけがはっきりと聞こえる。そっと受話器を置いて、大きく息を吐いた。

 どのくらいの時間が過ぎたのだろう。雨の勢いは依然増していた。
 窓を閉めていて、この五月蠅さだ。開ける気にもならない。
 台風でも近づいていたのだろうか。ふと、ベッドから起き上がりテレビをつけた。
 画面にはちょうど天気図が映し出されたところであった。音声は雨音でほとんど聞こえないが、画面を見ていれば天気ぐらいは分かる。地方図へと画面は切り替わり、各地の天気を表示する。
 晴れ、晴れ、晴れ、晴れ。
 どこにも雨のマークはなかった。
 降水確立0%、0%、0%、0%……
 どこにも雨は降っていない。
 どういうことだ。こんなにも大雨が降っているというのに。
 雨の勢いは更に増した感じだ。窓を殴る雨粒は今にもガラスを破りそうなほどだ。
 それなのに、どこにも雨は降っていない。

 気が付いた時には受話器を握り締めていた。
 無意識の内に彼女の家に電話をかけていた。
 トゥルルルル……トゥルルルル……
 無性に誰かの声が聞きたかった。聞こえるのは雨音だけ。体の中にまで雨が降っているかのようだ。
 トゥルルルル……トゥルルルル……
 頼む。出てくれ。
 トゥルルルル……トゥル……
 受話器から聞こえる発信音までもが雨音にかき消されていく。
「お願いだ!出てくれ!電話に出てくれ!」
 …………………………
「出てくれ!誰か!だれ…………」
 そして、全てがかき消されていく。
 雨は降りやまない。ずっと、ずっと。


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