コールドスプレー


「痛ぇ!」
 ピッチャーの投げた速球をよけきれずに俺はうめき声をあげた。
 ボールは左足のくるぶしの付近に当たったらしく、踏ん張りがきかなくなった俺はたまらず地面へと倒れこむ。
「おい、大丈夫か?」
 チームメイトが心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいる。
 そんな中ひときわ大きな声がグラウンドに響いた。
「ちょっと、何見てるのよ!手当てをするから運んできてよ!」
 マネージャーの声だ。
 こうして、俺は担架で部室へと運ばれた。
「あらぁ、こんなに腫れちゃって。痛いでしょ」
「ま、まあね」
 俺は脂汗を流しながらも、いたって冷静に答えようとした。
 足元を覗き込むと真っ赤に腫れた足首が目に入った。さすがに骨まではいってないだろうが、軽傷とは言いづらい。
「とりあえず、これ痛み止めだから飲んで」
 いつのまにか準備した薬と水の入ったコップを受け取り、一気に薬を喉の奥へと流し込む。いつものことだが、彼女は本当によく気のつく子だ。
「とりあえず、冷やさないとまずいわよね。ちょっとコールドスプレーを取ってくるから待っててね」
 昨日、あんなことを言ったばかりだというのに、こんなに献身的に世話をしてもらい、やっぱり彼女は俺にとって必要な人なのかもしれないと考えながら、昨日の事を俺は思い出していた。

 実は俺と彼女はつきあっている。
 告白されたのは俺の方だった。
 1年のときから我が野球部のマネージャを勤めている彼女は面倒見がよく、顔も可愛い。なんの欠点も見当たらない彼女に惹かれていなかった部員はいなかった。そんな彼女からの告白を俺は二もなく受け入れた。
 実際につきあい始めてみても、彼女は何にでも気がつき、何かと世話を焼いてくれた。痒い所に手が届く存在といえばいいだろうか。いや、それ以上だといってもいいだろう。
 しかし、俺はあまりの世話の焼き方に嫌気が差し始めていた。なぜなら、家事だけならともかく、俺の趣味やプライベートの領域まで侵入してきたからだ。そして、遂に俺は別れ話を持ち出した。当然、かなりのショックを受けるだろうと思っていたのだが彼女のリアクションは意外なものだった。
「何を馬鹿なことを言っているのよ」
「馬鹿なこととは何だ!俺は真剣だ!」
「だいたい、別れるだなんて無理よ」
「無理?何を言ってるんだ」
「私がいなければ貴方は何も出来ないじゃない」
「その態度が俺は嫌になったんだ。俺はお前なんかがいなくても一人でなんでも出来る!」
「フフフ……」
「な、何がおかしいんだ!」
「貴方は何も分かってないわ。貴方は私がいなければ何も出来ない人なの。貴方は私の支えがなければ一人で歩くことさえ出来ないのよ」
「ふざけるな!」
 そして俺は部屋を飛び出した。それが昨日の出来事だ。

 彼女が最後に言った台詞を思い出しながら俺は笑っていた。大げさな台詞ではあったが、意外と的を得ているのかもしれない。ともかく、彼女が戻ってきたら昨日の事を謝ろう。俺は痛みに耐えながら、そう考えていた。
 しばらくして、さっき飲んだ薬が効き始めたのか徐々に眠気が襲ってきた。そこに彼女がようやく戻ってきたようだ。
「遅くなってゴメンね。ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね」
「い、イタイ?……コールドスプレーだろ?」
「あまりの冷たさに痛みがあるかもしれないっていう意味よ」
「え?」
 途端足元に強烈な冷たさが襲った。そしてあっという間に足の感覚がなくなっていく。
 徐々に薄れていく意識の中、俺は懸命に足元へと目を移した。
 足元にはもうもうと白煙が漂っている。その煙の中に氷の塊が見えた。いや、塊ではない。それは凍りついた俺の足だった。
「な、な…」
「これね、今日の実験で使った液体窒素なの。さすがね、あっという間に凍っちゃったわ」
「な、何を、す、するつもりなんだ」
「フフフ、昨日言ったでしょ?貴方は私の支えがなければ歩けないのよ。大丈夫よ。さっき飲んだ薬のおかげで痛みはないはずだから」
 そう言う彼女の右手にはハンマーらしきものが握られていた。
 意識が闇の奥へと引き込まれる瞬間、俺は何かが砕け散る音を聞いた。


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