球が止まって見える男


 この打席には日本、いや世界でも初めてと思われるものすごい記録がかかっていた。
 シーズン最終戦というこの時期にしては、やけに蒸し暑い夜。
 拭ってもにじみ出てくる汗をもう一度タオルで拭き、バッターボックスへと向かう。
 かの読売巨人軍の名将、川上哲治氏はボールが止まって見えると言った。
 今の私もまさしくその境地にあると言っても過言ではない。
 というよりも、本当に止まって見えるのだから仕方がない。
 それ以前に本当に止まっているのだが。

 その能力に開眼するまで、私はしがないピッチャーだった。
 そんな私が万年最下位のチームにドラフト外という条件ながらもお情けで入団できたのは、当時の監督が私の叔父だったからだ。大した実績もない私の入団にこぞってマスコミは監督の行動を公私混合だとか、職権乱用だとか糾弾した。成績不振も手伝ってシーズンの半ばで監督は更迭されてしまった。
 唯一の味方を失った私は、あっという間に2軍落ち。2軍でも目立った成績は残せず、シーズンオフには早くも戦力外通告が言い渡された。しかし、私は首脳陣を何とか説得しバッターへと転向、もう一度だけチャンスをもらうことができた。
 だが、大きな問題があった。実は首脳陣には適当な嘘でごまかしたが、私にはバッターセンスのかけらもなかった。バッティングセンターで練習するも、70Kmの球にバットはかすりもしない。そしてとどめだ。とぼとぼと寮へと帰る途中、私は車に見事にはねられた。全治3ヶ月。これで開幕も絶望。私の未来は真っ暗闇どころか、何もなかった。
 そんな私の境遇に神様も同情したのか、その事故がショックとなり不思議な能力が身についた。その力は何と時間停止。時を止めることが出来るのだ。こうして私はあれから20年たった今、『奇蹟の男』としてピッチャーに恐れられる存在となったのだ。

「さあ、同点で迎えた2アウト満塁のチャンスに奇蹟の男の登場です。マウンドのピッチャーも緊張の色が隠せません」
「ですが、バッターボックスの彼も世界初と言われる大記録が目前ですからねぇ。いつもの不思議な力が出るかどうかも分からないですよ」
「さて、ピッチャーが振りかぶって、投げたぁ!!」

 私は心を沈め、いつものように目の前にボールが来たところで時間を止めた。後は簡単だ。落ち着いてやれば失敗することはない。これが成功すれば、私は世界の野球史に名を残すことが出来るのだ。大丈夫だ、大丈夫だ……
 そして、私はゆっくりとボールへと手を伸ばした。

「ああぁ〜!!やはり出たぁ!奇蹟の男はまたも奇蹟を我々の前で起こしてしまったぁ〜。そして、今ゆっくりと3塁ランナーがホームイン。見事今期最終戦をサヨナラ勝ちで締めくくりました。いかがですか?」
「ええまあ、勝ちは勝ちですが、来期に繋がる勝ちとは言いづらいですね。これで勝っても今年も最下位でしょ?もう少しいい勝ち方もあっただろうに……」

 私はガラガラの観客に向かって、手を振って応える。
 それにしても私のバッターセンスは本当にゼロであったようだ。
 何せ止まっているボールさえ打てないのだ。
 そんな私が思い付いたのは、止まっているボールの位置をちょっとずらすことだった。突然ボールの位置が変わり、キャッチャーは全員が全員ボールを後ろへとそらす。後は1塁に走るだけだ。
 前人未到の1000振り逃げという大記録はこうして達成された。


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