蜜柑の木


 確かにあの分譲地の価格は安かった。
 いくら不況の世とはいえ、その値段は破格だった。
 結婚して7年、しきりに家を欲しがっていた妻はその話に食いついた。少々私の通勤時間が長くなりそうであったが念願の家を手に入れた妻の喜ぶ顔にそんな気持ちも吹き飛んでしまった。
 その分譲地は売り出してまだ間も無かったこともあり、私たちのほかにはまだ3世帯ほどしか入居がなく、まだ自然が残っている静かな場所であった。最初のうちこそあまりの静かさに寂しさなどを覚えたが、今は都会の喧騒と離れて暮らすことに贅沢感などを感じていた。
 日曜日には猫の額ほどの庭に出て、夜風に当たりながらビールを飲む。それが私の趣味になりつつあった夏の夜、私は庭にある1本の木の存在に気がついた。木というにはまだその植物は幼い気がしたが、群れるように生い茂る緑の葉に生命の息吹のようなものを感じた。ただ、その時はそれが何の木であるのかは分からなかった。
 翌日、いつものように会社に出かけるため朝早く家を出た私は何気なく昨晩気がついた木に目を向けてみた。その木には季節外れの4つの蜜柑がなっていた。たった一晩にして現れたその存在に私は少々困惑したが、きっと昨晩は星も見えない闇の中だったから気づかなかったのであろうと納得することにし会社へと向かった。
 残業で帰りの遅くなった私を出迎えたのは黒と白で染め上げられた布で纏われた向いの家の姿であった。何かしら不幸があったらしい。遅い夕食をとっている時、既に近所の人間と親しい付き合いを始めていた妻が息子さんが亡くなったのだということを話してくれた。妻の話によるとバイト先の工事現場の高所で作業中に誤って足を滑らせて転落したとのこと。首の骨を折って即死だったという。通夜に顔を出したという妻の目からは涙が流れていた。突然起こった不幸な出来事に庭の蜜柑が1つ落ちていたことに私が気づいたのは翌週の日曜日のことだった。もともと柑橘系の果物があまり得意ではなかった私はその落ちた蜜柑をどうするわけでもなく、ただぼんやりと眺めていた。その時また1つ蜜柑が地面へと落ちた。私は地面に転がる2つの蜜柑をやはりぼんやりと眺めていた。
 翌日、朝食のパンを咥えながら新聞を眺めているとゴミ出しを終えて戻ってきた妻のすすり泣く声が聞こえてきた。私は新聞を置き、妻にどうしたんだと声をかける。妻は三軒隣の家のご主人が亡くなったのだと鳴咽を交えながら答えた。昨晩、休日出勤の帰りに突然空から落ちてきた看板が頭に直撃したのだという。ご主人は首の骨が折れており間もなく亡くなったらしい。私は不幸なことは続くものだと妻を慰め会社へと向かった。
 次の日曜日の晩も私は妻の話を聞きながら庭を眺めていた。最近の妻の話は相次いで起きた不幸な事故に関することばかりであった。もともと妻は感受性が高かったこともあり、よほどショックを受けたのだろうと私は静かにその話に耳を傾けていた。庭の蜜柑の姿は先週と変わりなかった。今晩までは。
 そして不幸は3回重なった。次に不幸に見回れたのは隣の家であった。隣の家は新婚であったらしい。当然これも妻から聞いた話なのだが、隣のご主人は買ったばかりのオートバイで乗用車と正面衝突をしたという。ご主人の体は衝突の衝撃で投げ飛ばされ、乗用車のフロントガラスに頭を突っ込んだ状態で亡くなったそうだ。そして、また彼も首の骨を折っての即死であった。3週も続けて起きた事故に妻の精神状態は限界に来ていたらしくそのまま妻は寝込んでしまった。
 私は1週間の有給を取り妻の看病にあたった。妻はしきりにうわ言で次はうちの番だと繰り返す。私は妻の手を握り締め、大丈夫だよと声をかけてやることしか出来なかったが、やがて精神状態も安定し土曜日には普段通りの生活が出来るところまで回復した。
 妻の回復に一安心した私もさすがに今回の件については気になるところがあり、翌日県の図書館であの分譲地について調べてみることにした。慣れない歴史書に手間取りながらも私は遂に真相を突き止めることができた。あの分譲地が作られた場所は江戸時代の処刑場であったというのだ。ちょうど今頃の季節に藩主となった男は首を好む変人であったらしく日曜日から月曜日にかけて、毎週のように処刑を行ったそうだ。そんな藩主の好物こそ当時まだ出始めたばかりの蜜柑だったのだ。処刑された人々の中には全く罪のない者もいたという。人々が首を切られて行く様を蜜柑を食べながら藩主は眺めていたという。やがて間もなくその藩主は何者かに暗殺をされてしまうのだが、その暗殺の時も心臓に致命傷を受けながら暗殺者の首を一太刀で切り落とし、その首を抱えながら笑みを浮かべて亡くなったというから、首に対する執着心というものには並々ならないものがあったのだろう。実に恐ろしい男だ。そして私は気がついた。庭の蜜柑の木にはまだ実が一つ残っている。やはり次はうちの番なのかもしれない。私は慌てて車を自宅へと走らせた。
 しかしこういう時に限って道は混んでおり一向に家へと近づかない。私は車と車の間を縫うようにして、家路を急いだ。瞬間、目の前に現れたトラックと大きな衝撃で私の意識は闇の彼方へと放り出された。
 意識が戻ったのはそれから2時間ほど後のことである。私は左手首を折るというケガにこそ見回れたが命に別状はなかった。私は手首などという洒落にもならないオチに病院の中だというのに大きな声を出して笑ってしまった。そして、早々に家を取り払って引っ越しをしようと決めたのだった。
 タクシーを使って自宅へと帰ってきた私は真っ先に庭の蜜柑の木に目を向けた。4つの蜜柑は私の予想通り全て地面へと落ちている。私はそれを確かめるとドアを開け大きな声で引っ越しの準備をしろと叫んだ。しかし、妻の返事はない。どこかに出かけたのかと家の中を探す私の目に飛び込んできたのは、私が交通事故に遭ったという知らせで精神が崩壊してしまった妻の天井から吊り下がっている姿だった。

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