ベストセラーができるまで


 まいった。何も思い浮かばない。
 締切まで後1日だというのに、目の前の原稿用紙は真っ白なままだ。
 私は小説家である。
 とはいっても連載を何本も抱えたり、ベストセラーを続出させているようなメジャーな作家ではなく、たまに依頼される読み切りなんかで生計を立てているしがない方のだ。
 今回は珍しく大手の出版社から依頼を受け、有頂天になったのも束の間、小説のネタが全く見つからずこうして机の前で腕を組み続けることに……
 私としてはこんなチャンスを逃さない手はないのだが、悲しいことに何も思い浮かばない。小説家になってはじめてのスランプといってもいいだろう。回りのものからは大したモノも書けないくせに大袈裟な、などと文句を言われてしまいそうだが。あるいはスランプになるほど仕事をしていなかったせいだろうか?まあ、悲しくなるのでこれ以上は考えないこととしよう。
 ともかく、書けないものは仕方がないのだ。今も頭の中を支配するのは今日の夕食は何にしようだとか、そういや友人の結婚式が近かったなとか、そんなどうでもいいことだったりする。
 そうだ、ちょっと気分転換に外出することにしよう。考えてみればこの2週間ずっと家にこもりきりだった。もしかすると何かいいアイデアが浮かぶかもしれない。
 そう考えた私は散らかり放題になっているワンルームマンションを後にした。

 まず最初に私はすぐ近くにある公園へと向かった。
 公園のベンチに腰掛けると一緒に持ってきた原稿用紙を膝の上に置いた。
 砂場では近所の子供達が遊んでいる姿が見える。
 そういえば前に公園の砂場はノラ猫が糞をすることがあるのでよくないから撤去をすべきだとかいう世論が出たことがあった。私はそんなことを思いながら愛用の万年筆を手に取る。

『無垢な子供達は既に自分の体が謎の病原菌に侵されていることも知らずに無邪気に遊ぶのであった。』

 ここまで書いてみて何やら見えてきた気がする。私は今までは軽いタッチの作品が多かったのでこういうタッチのものは書いたことが無かった。気分転換ついでにタッチも転換してしまうのはいいかもしれない。子供達のはしゃぐ声を聞きながらペンに力を込めてみる。

『そこにやたらと挙動不審な男が現れた。背は低く、年は40過ぎぐらいだろうか、この公園があまりにも似合わない』

 ちょうど今この公園に現れた男。あの感じ。そうだ、あの男をそのまま描写することにしよう。

『男は灰色のジャンバー、黒いズボンといういでたちで砂場で遊んでいる子供達を遠巻きに眺めていた。やがて決心したのか、男はゆっくりと子供達の中の一人に近づき声をかけた。「おじちゃんはお母さんのお友達なんだけど、お母さんがお嬢ちゃんのことを呼んでいたよ。だから、ちょっとおいで」女の子は特別その男を疑うようなこともなく、友達にバイバイと手を振り男の後をついていった』

 目の前の女の子もちょうど私の書いた文の様に男の手を取り、砂場を後にするところであった。わざわざ迎えにくるとはいいお父さんではないか。その割には多少手のつなぎ方がぎこちなかった気もするが。それはさておき、調子が出てきた私の創作は続く。

『男には多大なる借金があった。とても返せるような額ではない借金が。そして男は誘拐を実行したのだ。その女の子が謎の病原菌に感染しているとは知らずに……』

 なかなか、いい感じだ。さて、ここからの展開だがどうしたものか。
 そうだ、この病原菌は子供に対しては潜伏期間が長いが、大人に対してはすぐ発病するというものにしよう。さて、どういう症状をだそうか……。
 私は公園のベンチを立ち上がるとゆっくりと通りへと歩きはじめた。
 見慣れた近所に風景に目をやりながら道を歩く。なかなか次の展開が思い浮かばない。 そこに後ろからやたらとスピードを出した車が走りぬけて行く。
 やたらと蛇行しているその運転を見て、なんて危ない運転をしているのだ!と腹立たしく感じたが、これがまたいいアイデアになった。

『男は女の子を予め準備しておいたレンタカーに乗せると、ゆっくりと走りはじめた。女の子には飴玉を渡し、ここから10分ほど離れた男の自宅に向かう。しかし、その短い間に男の体には異変が見えはじめていた。なぜなら、女の子の体にいた謎の病原菌はただ手をつないだだけのこの男にも入り込んでいたのからなのだ。さらに運の悪いことにこの病原菌は子供に対しては潜伏期間が長いのだが、相手が大人となると一気にその活動が活発になる。そう、男は発病してしまったのだ。まず、体に寒気が走った。そして、徐々に目眩がしはじめた。男が運転する車はその目眩のリズムに乗るかのように、ゆっくりと蛇行を始める。助手席の女の子はまるで遊園地の乗り物に乗るかのように、声を上げて喜んでいるようだ。しかし、運転する男はそれどころではない。突然起こった自分の体の異変に恐れながら、早く自宅につかなければとアクセルにのせた足に力を込める。車はなおも蛇行を続け、道には黒いタイヤ痕を残していく。通りを行く人々はその危険な運転に声を上げ、何事かと目を向け、そして罵声を上げる姿もあった』

 ちょうどあの車を見送ったここにいる人々のように。やはり、こうやってモデルとなるものがあると、筆の進みが違う。
 その時近くでドーンと大きな音が響いた。人々は何事かと音のあった方へと走り出している。私もそれに続いた。
 曲がり角を曲がって200mほど走ったところが現場であった。惨劇というのはこのような現場をいうのであろうか。あたりにはガラスの破片やら何からが飛び散り、車のボンネットはぐちゃぐちゃにつぶれ、電信柱がめり込んでいる。フロントガラスを見ると助手席側であろうか、人の頭が飛び出しており、血の海の隙間から脳味噌が覗いていた。あの頭の大きさからするとまだ小さい子だったのかもしれない。親がシートベルトをさせていなかったのだろうか。
 ふと回りを見やればものすごい数の野次馬達が集まっている。しかし、誰も恐がってか事故を起こした車や被害者に近づこうとするものはいない。誰が呼んだのか遠くで救急車のサイレンの音が聞こえはじめた。
 私は急いでこの現場の状況を原稿用紙に走らせた。このような生の現場に出会えるなんてことはそうそうあるものではない。そして、これを今の作品に生かすことにした。

『男の目眩は既に最高潮に達していた。目の前の通りは3本に見え、標識が至る所に立ち、道を塞いでいるようだ。男はそれを巧みなハンドル捌きで避けている、つもりであった。実際のところはただ大きく蛇行を続けるだけなのだ。突然、男の視界を塞ぐように目の前が暗転した。そして、大きな衝撃が車を襲った。遠くでガラスが割れる音が聞こえた気がした……』

 ペンが進む手を止め、再び回りを見ると野次馬の数は更に増えていた。いつのまにかやってきていた警察によってロープが張られ、既にケガ人は救急車によって運ばれたいったようだ。しかし現場に残された鮮血が事件の惨さをまだ表していた。私のペンの動きがまた軽くなる。

『実際にはほんの数秒のことではあったが、男にとって永遠と感じられる時が過ぎた。ついさっきまではしゃいでいた女の子の体はフロントガラスに突き刺さり、あまりにもまぶしい赤が目を襲う。男の体にはシートベルトがめり込み、痛みが胸を走っていたが幸いにも、と言えるかは分からないが、無傷のようである。先程まで男を襲っていた目眩は今はない。男は車を飛び出し、走りはじめていた。なぜだ!なぜこんなことに!声にならない叫びをあげながら、男はただ走った』

 さて、ここからの展開だがどうしたものか……。このまま病原菌が体にまわってハイおしまい、ではあまりにも面白みが無い……私はペンで頭を掻きながら人の減ることのない事故現場を立ち去った。

 あーでもない、こーでもないと思案しているうちに大通りへと出てきたようだ。夕方が近いらしく空には赤みが差しはじめている。ふと、先を見ると空にかかる以上に赤いランプが光っている。どうやらパトカーのライトのようだ。何かしら事件でもあったのだろうか?今日は事故の多いことだ。私はパトカーのあかりに吸い寄せられる様にして現場に向かうが野次馬の姿ばかりで一体中で何が起こっているのかは分からない。近くにいたおばさんに聞いてみると通り魔事件が起きているらしいとのこと。平和に思ったいたこの町もこのような事件が起きるものなのかと驚いた私にいい案が浮かんだ。

『まだ多少痛みの走る胸を押さえながら男は走った。どこに向かっているかなど分からなかった。ただ、足だけがまるで別の生き物が乗り移ったかのように動くだけであった。そして実際に体の中に乗り移った謎のウイルスもゆっくりと確実に全身を蝕んでいった。やがて男の走りは歩みへと変わる。そして男の目が赤く輝く。これは文章上の表現などではない。実際に瞳が赤くなっているのだ。ウイルスの影響であろう。どうやらその影響は真っ先に脳へと向かうらしい。ウイルスは男に残された良心を食い尽くしたかのように男に狂気の行動を取らせて行くのだ』

 ペンを止め頭を上げると一瞬、野次馬の山が動いてその隙間から男が包丁を片手にたたずんでいる姿が見えた。ほんの一瞬のことだったが、男と目があった気がした。途端全身に寒気が走る。あれが殺気というものだろうか?男の全身から出ているオーラの様なものが目から飛び込んできて私の動きを封じ込める。あれほど騒がしかった回りからは何も聞こえない。男と私を静寂という黒い空間が包んだ。確かに恐怖はあった。しかしそれ以上に私の心を支配したのは本物の殺気と出会えた感動だった。これを読んだあなたは笑うかもしれない。しかし、物書きにとって通常出会えないリアリティほど心を動かす物はないのだ。ひとしきりの感動に打ち震えたあと私は再び騒然とした喧騒へと帰ってくる。私の目の前には野次馬の山が蘇り、男の姿を見ることは出来ない。しかし、あの殺気が私のペンの動きを更に速めていった。

『男の右手にはどこから持ち出されたのか包丁が握られていた。そして足元には血まみれで倒れている人間。その時後ろから悲鳴が聞こえた。男の凶行を目撃した女性がいたようだ。その声に反応して振り向く男の顔は返り血で真っ赤に染められ、ひときわ輝く赤い眼差しにはただ狂気だけが映る。そして男はゆっくりと歩きはじめる、女に向かって。女は声を上げることも出来ず、その場を動くことも出来ず、頬へと流れる涙だけが唯一の抵抗であった。そして惨劇は続く……』

 問題はオチだ。いくら細かな描写が出来たところで最後の部分がしっかりしていなければ話にならない。どうしたものか?まあ、とりあえずは話を進めなければ……。

『乾いた拳銃の発砲音がざわめく雑踏の中で響く。2度、3度。発砲をした警官の表情が見る見るあおざめていく。そしてその表情に覆い被さるように包丁が振り降ろされる。自分のも含め十数人分の血を浴びたその体はどす黒く変色し、腐臭にも似た匂いを辺りにまき散らす。男が足元に転がる塊から拳銃をぬくと遠巻きに取り囲んでいた野次馬達が様々な声や叫びをあげ散って行く。そこへ情け容赦無しに撃ち込まれる弾丸。またひとつの塊が地面へと転がる。その時また発砲音。男の肩口を貫通した弾丸はそのまま喫茶店の窓に穴を開ける。これで男の体を4発の弾丸が通り抜けていったことになる。大量の出血をしている男は確実に死への階段を上っているはずであったが、虚空を見つめる瞳には狩りをする獣の生気があった。そして、発砲。だらしなく開けられた口元に笑みが浮かんだ、ように見えた』

 パーンという轟音に我に返る。回りからは悲鳴のようなものも聞こえる。しかし、相変わらず私の頭には話のオチが思い浮かばない。こういう作風が初めてなものだから、話の最後のもって行き方にピンと来ないのだ。ここまで話を暗く落としといて、ハッピーエンドみたいには持っていけないし……
「ちょっとそこのあなた!危険ですから、すぐに逃げて下さい!」
 そんな声が聞こえた気がした。声のした方向にはたくさんの警察官が大声を張り上げているようだ。回りを見渡すとあれほどいた野次馬が全くいなくなっていた。その刹那、私の背中に何かが当たり、激痛が走った。顔をしかめながら振り向いた私の目には私が書いた小説のように目に狂気を浮かべた通り魔の顔があった。

 私の書いたこの作品は遺作になったこともあってか大ベストセラーになったようだ。特に悲劇の作者となった私をマスコミが大きく取り上げたことが引き金になったらしい。そういえば、あの後通り魔犯は私の後を追うかのように死んだそうだ。細かい原因などは全く不明だったらしい。もしかしたらその死因は病死だったのかもしれない。それも謎の。
 なぜなら私は間違いなく聞いたのだ。私を死に追いやった男が私を刺した後、喜びの声で『これで自由になれる』と呟くのを。


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