雪は降る


 

 カーステレオがトンバーラネジェとフランス語で歌いだしたときは、冗談かと思
った。
 FMの地方局だから、俺の目の前に広がってる光景とさほど違わないものを目の
当たりにした誰かがその曲をリクエストしたのだろうが、悪い冗談だ。
 うっすらとだが、まっさらな雪が毛布のように紺色のアスファルトを覆い隠して
いる。正月休みも終わり、ただでさえ行きたくない会社に向かおうという弱弱しい
やる気が今にも凍り付いて砕け散りそうだ。
 坂の多い長崎は雪にはすごく弱い。市内では数年に一度微かに積もることがある
程度だから、スタッドレスタイヤなんて持ってる人間はいないし、チェーンを持っ
てるドライバーも、県外の雪山にスキーに行くのが趣味だという人以外あまりいな
いと思う。もちろん俺もそんな気の利いたものは持っていないし買おうという気が
おきたことも無い。
 そんな俺の家の前はいきなり坂道だ。普通は右折して上り坂を登っていくことに
なるが、スカイラインのリアタイヤが空転して上れない。4WDのGT−Rならいける
だろうが、雪に一番弱いFRではどだい無理な話だ。
 今日は車で行くのは無理そうだ。
 俺はドアを開けて氷のような空気の中に降り立つと、ヘルメットを取りに部屋に
戻った。
 原付バイクで、両足べたべた着きながらなら何とか上っていけるだろうと考えた
のだ。
 上ったら下らないといけないが、バイクで滑りやすい道を下る怖さはあえて考え
ないことにした。遅刻したくなければ、それを考えてはいけない。致命傷になる。
 他に方法がないのだから仕方がないのだ。バスも運行していないのは、大通りに
もタイヤの後が皆無なので歴然だ。不意の雪にチェーンの準備もしていなかったの
かもしれない。
 薄暗い部屋の中、ステレオスピーカーの上に置いてあった、埃まみれのフルフェ
イスヘルメットを取り上げると、車庫に戻った。
 車庫の奥からホンダのスーパーカブ80を引っ張り出していると、女の子の悲鳴
が聞こえてきた。
 急いで行ってみる。
 車庫から顔を出してのぞくと、坂で転んだ女子高生がスカートをウエストまで捲
り上げ、ピンクの薄い生地のパンツ丸出しで俺の目の前に滑り降りてきた。
 仰向けになってぽっちゃりした腹の下で股間を隠してる薄手の布は、その下に生
えている黒々とした陰毛を隠すにはやや無理があるようだ。
 カットされたあと、生えかけてる短めの毛までがうっすらと見えていた。
 とっさのことで足を閉じることもままならなかった彼女の股間はがら空きで、中
心の縦長いくぼみがくっきりと布で形作られているのまで確認できた。
 怪我はないかな、と思うより先にいいもの見てしまったと俺が思ったからって、
批難されるいわれはないと思う。男なんてそんなもんだ。
 しかしもちろん俺は彼女に手を差し伸べた。
「だいじょうぶね?」決り文句というのはこういうときには都合が良い。何も考え
なくてもすんなり出てくるから。
 女子高生はゆっくりこっちを向いて、俺の顔を見た。
 自分の下半身の状態を気付いてるんだろう、すでに顔は真っ赤だ。
「きゃあ、エッチ」
 彼女は俺の差し出した手を乱暴にはらうと、ぎこちない様子で立ち上がり、坂を
上らずに下っていった。
 服も汚れてしまったし、恥ずかしいしで今日のところは学校をサボることにした
のかもしれない。先のT字路を左の曲がるとき、再びしりもちをついていた。
 
 かすかにかび臭い匂いがするヘルメットをかぶり、スーパーカブのセルボタンを
押す。
 バッテリーが弱ってるようで、今にも止まりそうな弱々しいセルの回転音の後、
以外に力強くエンジンがかかってくれた。さすがにホンダ製のエンジンだ。
 しかし磨り減ったタイヤは食いつきが悪い。
 シャーベット状になった路面で空回りするだけで、少し登ってはずるずる滑り落
ちる事の繰り返し。両足に力を入れてるからだんだん身体が熱くなって、フルフェ
イスヘルメットのシールドまで白く曇ってきたというのに、家の車庫から30メー
トルほど登っただけだ。

 表通りは一面真っ白な雪に覆われていた。
 足跡ひとつ、タイヤの後もまったくないバージンスノ−ってやつだ。
 両足を着きながら坂道をカブで登っていると、再び雪が激しくなってきた。
 フルフェイスヘルメットのシールドを下ろして走ってると、すぐに雪で前が見え
なくなる。左手で雪をはらっても10メートル行かないうちに、また目の前は真っ
白になる。
 次から次に降り積もる雪にカブのリアタイヤもグリップできずに横滑りをしなが
ら空転する。
 やはりバイクでも無理か、今日は休んでも欠勤扱いにはならないかもしれないか
ら、会社行くのは止めておくか。
 そんな弱気の虫に、やる気が食い尽くされようとしてる時、後ろに誰かの気配を
感じた。誰かが、がしっと荷台を握って押し始める。
 リヤタイヤがグリップしてするする登り始めた。
 しばらく登って、斜面がなだらかになったところで止まり、振り向くと、さっき
の女子高生が白い息を吐きながら笑いかけてきた。
「さっきはごめんなさい。あんまり恥ずかしかったので……」
 女子高生は、さっきのあられもない自分の姿を思い出したのか、顔を赤くしていた。
「いいさ。それより、後ろに乗らないかい。君が乗ってくれた方がリヤタイヤに過
重がかかって食いつきが良くなるみたいだ」
 俺の言葉にその娘は素直にうなずいた。
 そして、短めのスカートを気にしながらも、案外大胆にカブの荷台に跨った。密
着した方が安定するからと言って俺の身体に抱きつくように言う。
「お尻痛くないかい」
「大丈夫。さっきの尻餅でも平気だったんだから。お肉がたくさんついてるのかな」
 俺の身体に手を回して身体を擦り合わせる女子高生の声が耳元に響いた。
 
 エンジンをふかすと、先ほどまでとは打って変わって力強くグリップしながら、
ゆっくりとだが進み始めた。
「こんな日に学校行かなくてもいいんじゃないの」
 よほど大事な授業があるんだろうか。
「今日はいろいろあるんです。テスト、はまあそれほどじゃないけど、友達から告
白したいから付き合ってって言われてるし、他にもいくつか外せない用事があって」
 サラリーマンだろうが女子高生だろうが、大雪の日でも行かなければならない時
はあるということか。
 もう少しで峠越えというところで、少し斜面が急になっているところがあり、そ
こがなかなか上がれない。
 一旦止まってしまうとリヤタイヤは空転するだけで、下手をしたら後ろにずり下
がっていきそうだ。
「ごめん、降りて押した方がよさそうだ」
 彼女を下ろして、俺も降りた。
「ここは無理かもしれませんね。ここに止めて歩いた方が早いかも」
 彼女の言うのが正解だろうが、ここまできて愛車を置き去りにする気は到底おき
ない。
「ここを越えれば後は平たい道だからね」
 足が滑るから腰が入れられなくて力が入らない。それでも何とか少しずつ前に進
んでいく。
「押しますよ」
 彼女が荷台を押してくれた。
 カブのエンジンが唸って、排気ガスが白く噴出す。
 空転したリヤタイヤの上げる泥水が彼女の白いソックスを汚すのが心苦しい、が、
もう少しなのだ。ごめんな。心の中で謝って前を見つめた。
 いきなりタイヤが横滑りして、車体が真横を向いた。そのままグリップした後輪
がバイクをかってに横方向に押しやっていく。
 おいおいそっちは違うだろというまもなく、バイクは側溝を乗り越えて藪の中に
突っ込んでいった。降りて押していた俺は、そのバイクのあばれっぷりを口をぽか
んと開けて眺めるだけだった。
 彼女はというと、腹ばいに倒れて、またミニスカートを捲り上げていた。
 さっきはピンクの透き通るくらい薄い生地のやつだったが、今度はグリーンの同
じようなデザインのやつだった。3色セットで1万円ってやつだろうか。
「おまえな、他にパンツ持ってないの」
 俺が手を貸してやって、彼女を引き起こす。
 彼女は2度目で免疫ができていたのか、それほど恥かしがりもせず、ふんっと鼻
で返事しただけだった。
 ハンカチで濡れた制服の前を吹いてやると、微笑みがちにありがとうと言った。
 さっきは友達の告白に付き合うなんていっていたが、どうも怪しい。
 彼女自身の告白じゃないのかな。
 別にどうでも良いけど。
「しかし、こんなに寒いのにどうしてミニスカートなんだよ。もう少し長いの持っ
てないの?」
「膝下10センチも膝上15センチも、大して変わらないのよ。おじさんは履いた
ことないから知らないでしょうけど」
 確かにそうだ。ミニスカートをはいた経験は、忘年会の余興を含めても37年間
一度も履いたことはなかった。痛いところをついてくる。
「とにかくバイクがこれじゃあ今日はやめておくしかないな」
 腕組みして言う俺の腕に、彼女は取り付くようにした。
「ちょっと、ここまできて諦めるの?」
「君もまた服が汚れちゃったじゃないか。諦めろよ」
「いやだ。ここまできたら根性出すわよ。ふられたってかまうもんですか」
 微妙に問題がすり変わってる気もするが、この年代の女の子にしては普通なんだ
ろうな。
「じゃあバイクを引っ張り出さないと」
 俺が側溝をまたいで藪に入っていくのを彼女は目で追っていた。
 力仕事を手伝うつもりなのか、カバンを離れたところにおいている。
 藪に突っ込んだバイクは特に異常はないようだった。パンクもしていない。
 ハンドルを持って引き起こす。ギヤをニュートラルに入れるのに手間取ったが、
何とか入れると、バックする形で側溝の脇まできた。側溝にはふたのある部分とな
い部分があった。ふたのある部分まで押して、そこを通った。
 彼女も後ろから押して手伝ってくれた。
 暗い空から小粒の雪がポトポト落ちてきた。
 彼女の髪に雪が積もる。
「だいじょうぶ?寒いだろ」
「そう思うんだったら早くエンジンかけてよ」
 エンジンはすんなりかかった。静けさがどんどん積もっていく中、ぽろぽろと頼
りないエンジン音だけど、今はとてもたくましく思えた。
 エンジン周りに付着した雪が解けて、水蒸気になって上がっていく。
 この氷の世界の中で唯一の命の火だ。おまえはいつもはダサいおっさんバイクと
軽蔑されているけど、今だけは俺たちのヒーローだぞ。
 俺は少し涙ぐんでバイクにまたがった。エンジン熱で手を温めていた彼女がす
ぐに後ろにまたがる。
 それからは面白いように、坂を上がっていった。新雪のほうがグリップが良いか
らかも知れない。
 とうとう坂を登りきった。

「やったねおじさん、後は下りだから早いわね」
 女の子が、俺の中の恐怖心に気づきもしないでニッコリ笑った。。
 バイクはフロントタイヤがすべれば、足元をすくわれてあっさり転倒するのだ。
 自分ひとりなら転んでもどうってことないさと開き直れるが、女子高生を道連れ
にするのはいかがなものだろうか。
「どうしたの?行かないんですか」
 彼女のあどけない瞳に、俺の心も決まった。
 何とかなるさ。俺はエンジンをふかしてカブを発信させた。
 二人を乗せたカブ80は力強く走り出した。
 しばらく平坦な道が続く。雪で真っ白な道はこのまま天国まで続いているみたい
だった。それならそれでも良いのになあ。
 この緑色の薄いパンツをはいた可愛い女子高生と一緒なら、それも悪くない。

 そして峠越えのくだりがやってきた。
 エンジンブレーキとリヤのブレーキだけで、よたよたしながらバイクは降りてい
く。今は間違ってもフロントブレーキを握ってはいけない場面だ。
 後ろの彼女がいい重りになっているのか、思ったほどスリップしなかった。
 氷ではなくバージンスノウなのも有利な点だったんだろう。
「君、名前なんていうの」
 近所に住んでるのに、めったに見かけない子だった。
「小杉 薫です。あのパンツのことは内緒ですよ」
 緊張感で忘れていたこの子のあられもない姿を思い出した。
 俺の股間のものが敏感に反応し始める。
 後ろから手を回している彼女がその変化に気づいたのか、
「キャーいやだ」
 と体を離した。
 バランスが崩れる。「危なか、体ば離さんと」
 俺の声もむなしく、目の前には雪をかぶったガードレールが迫っていた。




 雪は降る おわり