ワインディングダンス 1

           



                                                      放射朗

                                 


 薫が逝って一年か
 心の中でつぶやきながら、バイクのキィを差込み右にひねる。

 セルスイッチを軽く押すと、近所迷惑な爆音とともに1000ccVツインのエンジンが即座に目覚めた。
 まだ午前6時だ。
 周囲に迷惑をかけていることに苛立ちながら、デジタル水温計が上がるのを待つ俺の、レーシング
スーツを着込んだ足元にエンジンの熱気がじんわりと感じられてきた。
 もういいだろう。
 ガレージからイタリアンレッドのスズキTL1000Sを引きずり出す。

 軽くアクセルを開けながらクラッチをつなぐと、最高出力125馬力の何分のいちかが、太いリヤタイ
ヤにより路面に伝えられ、俺と、愛車は何かに蹴飛ばされるように一気に加速する。

 住宅街を抜けるまで控え目にひねられていたアクセルは、幹線道路に入ると一気に開けられる。
 ビデオの画面を早送りするような風景の流れにめまいがしそうになる。
 フロントタイヤが軽く浮く感触があり、スピードメーターの針はすぐに三桁の領域に突入した。

 荒れた路面で車体が突き上げられる時はやわらかく膝を使ってそのショックを吸収する。
 コーナーリングで深く車体を倒すと、開いた内側の膝の下を微妙にうねりながら黒いアスファルトの
川が流れ、飛び去っていく。

 昨日までの間に俺の精神に溜まり、澱んでいた様々なゴミが焼却処分され、気持ちが徐々にクリーンに
なっていく。

 日曜の朝だから車は少ない。
 それでも行きつけの峠道につくまでに約40分が過ぎていた。

 ワインディングロードの始まりは秋名峠まで5キロという看板からだ。

 右に左に、次々にコーナーが恐ろしいほどの速度でこちらに突っ込んでくる。
 時速100キロ前後が限界の中速コーナーで構成される秋名峠は、峠の前後5キロ、合わせて10キロ
メートルがおいしく走れる部分だ。

 スピードメーターの針が130あたりを指している。
 フロントカウルに整流された突風が俺のヘルメットのすぐ横をうなり声をあげながら流れていく。

 爆音とロードノイズ。路面からの突き上げで、一瞬リアタイヤが路面を離れる。
 サスペンションをすこしソフト寄りに戻した方がよさそうだ。

 あいつを乗せていた時のままだったからな。
 薫が死んで1年が経とうというのに、セッティングはそのままで乗っていたんだった。

 右コーナーが近づいてきた。
 ブレーキングで速度を80まで落とす。フロントがぐぐっと沈み込む。
 ブレーキ解除の反動でサスペンションがのびる。

 その時を逃さず、ステップに乗せた右足にちょっと体重をかけ、体全体でバイクを倒しこむ。
 
 肩から入るようにして、右コーナーのアウト側から中央線をかすめて立ちあがる。

 コーナー立ち上がりでアクセルをワイドオープンすると、回転計の針は一気にレッドゾーンに入り込み
そうになる。

 ふわりとフロントタイヤが浮き上がる。

 もう少し行くと、あいつが逝ったコーナーにさしかかる。

 あの時は、ほんのツーリング気分だった。
 恋人を後ろに乗せて峠を本気で攻める馬鹿はいない。

 いつもの8割以下のスピードで、柔らかな日差しと桜の花びらを受けながら右に、左にワルツを踊るよう
にワインディングロードを駆け抜けていた。
 
 薫の背中には、自分で作った弁当の入ったデイパックが、ちょこんと張り付いていた。

 その弁当は、峠のちょっとした公園のベンチで二人で食べる予定だった。


 あの瞬間のシーンはまだ鮮明に記憶の中にある。
 人間は忘れたいと思えば思うほど、その記憶は鮮明に記録されるように出来てるらしい。

 最初に目に入ってきたのは、左コーナーで転倒して滑るバイクだった。
 その後ろから、ライダーが転がりながらコーナーのアウト側のガードレールに激突した。

 それだけならかわすのは難しい事じゃない。
 こっちの走っているラインとは直接交差しなかったからだ。
 しかし、その直後に絶望的な状況が追いかけてきた。

 多分その転倒したバイクとバトルしていたんだろう、後ろからきたRX−7が目の前にいた。

 転倒したバイクに慌てて、対抗車線にはみ出してきたのだ。
 パニックブレーキで俺のバイクのリヤが外側にはらむ。

 そしてはらんだリヤ部分が、車の右前部に激突した。

 リヤシートには薫が乗っていた。


 ゆっくり流して走っている4輪に追いついた。
 この時間に此処を走っている連中はたいがい走り屋だ。

 ブルーのスバルインプレッサWRXだった。
 峠では最速の1台。

 何度かこの峠でバトルをしたことがあるが、まだ決着はついてない。

 280馬力のパワーと4WDのシステムは、ラリーベースのしっかりした車体に、狂ったような加速力と
コーナリングスピードを与えている。
 
 俺のバイクのヘッドライトに気付いたのだろう。
 インプレッサの後付けマフラーから腹に響く野太い排気音が、吐き出され、一瞬青いシルエットを残して
コーナーを全速て立ち上がっていった。

 路面に降り積もった桜の花びらがブワッと舞い上がる。

 俺の右手もアクセル全開で、追撃する。リヤサスペンションがぐっと沈み込む感触が心地よかった。

 

「バイクは楽しく乗れたらいいやんか」
 薫の一言がよみがえる。

 薫は関西出身とかで、普段はいわゆる標準語を使っていたが、俺と二人きりの時は、疲れない自分の
言葉を使っていた。
 
 男はどうしても競争してしまうんだよ。本能なんだ。
 俺の言葉に唇を尖らせて、言い返してくる。

「だいたい危ないやんかー。そんなんで死んでもうたらあかんって!あたしを残して死んだりしたら、いて
まうからなー」
 死んでしまったら、いてまえないと気付いて、後で二人で大笑いしたのだった。

 薫。
 変なやつだったな。
 可愛い外見とちょっとおかしな関西弁は、最初会ったとき新鮮な驚きだった。

 初めて彼女の関西弁を聞いたのは、病院の駐車場で俺がバイクにまたがっていたときだった。

 一日の勤務も終えて、ほっと一息ついてエンジンをかけたところ。

「あれ。事務の下原さん。これあんさんのバイクやったんか−。格好よろしーなー」
 思わず手に持ったヘルメットを落としそうになり、慌てて振り向くと、前日から看護実習に来ている薫が
立っていた。

 実習生用の水色の白衣と、頭にちょこんとのったナースキャップが可愛かった。

「なんだ。君、関西人だったの」
 俺の言葉に彼女ははっと気付いて舌を出した。

「失礼失礼。あたしびっくりしたらつい出ちゃうんです」

「別に謝る事無いさ。美少女が関西弁しゃべるのって新鮮で面白いよ」

「またまたーお世辞言っちゃって。でもほんま大型バイクって不思議やね。どんなださいおっさんでもライ
ダーを格好良く見せてしまうもん」

「おい、それはお世辞になってないだろ、だいたい俺はまだ30前だ、おっさんなんて呼ぶなよ」

「いいからいいから。でもいいなあ。あたしも乗ってみたいわ」
 そう言う薫を後ろに乗せてやって、駐車場の中を2、3周。

 バイクから降りたとき、20年生きてきて始めてバイクに乗ったわ、おもろいなあってはしゃいでいた。
 初めてのタンデムツーリングの約束をしたのは、それから5分後だった。

 初めてのツーリングは海沿いの国道。
 半島を巡る緩やかなコーナーと、なだらかな坂道をタンデムで回った。

 夏も終わりに近づいた日曜日。あいにくの曇り空だった。

 ちょっと気合を入れてコーナーに入ると、薫は驚いたのか身体を外側に起こすようにした。

 バイクは内側に倒れようとするのに、薫が必死で引き起こそうとする。
 危うくガードレールに突っ込むところだった。

「違うよ。自分は荷物になったつもりで、身体は自然にしてればいいんだ」
 俺は薫の背中を叩いてそう言った。

「何すんのーすけべーいてまうどー」
 俺の手が薫の腰に当たったのだろう、勘違いした薫の右手が俺の股間をぐっと押すようにした。
 今度は本当に転びそうになった。


 もう少しで薫が逝ったコーナーだ。
 花でも持ってきて供えようかと思ったが、女々しいような気がしたので止めた。

 そんなことしてもただの自己満足だから。

 インプレッサとの距離は付かず離れずといったところか。
 コーナーへの突っ込みと、コーナーリングは向こうが速いが、立ち上がり加速でその分を取り戻す。
 
 やや登り勾配だから何とかついていけるが、下りだとかなり厳しい。
 一昔前と違って今では峠は二輪より四輪が速いのが常識になりつつある。

 特に下りは立ち上がり加速の差がでにくいのと、ブレーキングの差で圧倒的に四輪の方が有利だ。
 
 右に左に切り返すインプレッサの走りは危なげなく、優雅ですらあった。引き締められたサスペンション
はインリフトもほとんど無くタイヤをきしませながら猛烈なスピードを維持している。

「なんかダンスおどっとるようやなー。バイクと車で」
 また薫の言葉を思い出した。
 薫を初めてこの峠に連れてきた時の事だった。

 バトルというほどではなく、ちょっと速い四輪について走っていた時、薫がそうつぶやくのがヘルメット
越しに聞こえてきた。
 
 ワインディングダンスか。優雅に楽しく踊れたら言う事なしだ。
 実際のバトルは冷や汗かきながら、死の恐怖と戦う時間だ。

 まったく、どうしてこんな思いまでしてバイクに乗らないといけないんだろう。

 優雅に楽しく踊れたらどんなに素敵だろうか。
 自分でもわからなくなる。

 だが、前を行く奴はどうしても許せない。
 追いついてぶち抜きたくなる。
 誰のためでもないし、そうしたからといってなんの得になるわけでもない。

 バイク乗りの本能としか言いようが無い。
 最速だという自己満足は走り屋の至上の快感なのだ。
 
 薫のコーナーだ。
 ブラインドの左コーナー。

 インプレッサがインをあけた。
 ブラインドコーナーでインぎりぎりに入るのはリスクが大きすぎるからだ。

 俺はすかさず飛び込んだ。
 抜くならここしかないと考えていたのだ。
 目の前に何も現れませんように。

 人間も、猪も、鹿も、駐車中の車も。
 
 俺は賭けに勝った。
 元々何かがそこにある確率は1割も無いはずだ。

 しかし、たった1割の確率でも、そこに確実に破滅が待つコーナーに自分から突っ込んでいくのは無謀で
あり、馬鹿である。 

 そしてバトルにも勝った。俺の立ち上がりスピードについてこれないインプレッサは、徐々に遅れだし、
戦意を喪失して戦線離脱する。



 峠の小さな公園の駐車場にバイクを入れる。

 一息ついていると、さっきのインプレッサがスローダウンしながら通り過ぎた。
 短くクラクションを叩く音がした。

 インプレッサの後姿に、俺も右手を上げて合図を返す。
 ドライバーの顔も見た事は無いし、相手もヘルメットを取った俺を知るわけでもない。

 今度いつ会えるかわからないし、会えないかもわからない。
 峠での一瞬のダンスのパートナーだ。



「結婚したらバイク降りるん?」
 薫に聞かれた事があった。

 薫は何を望んでいたのだろう。
 バイクを降りて欲しかったのか、それとも乗り続けて欲しかったのか。
 俺はその時は、さあね、とあいまいに答えた。

 薫を死なせてしまった真紅のバイクは、2ヵ月後に生き返った。
 二度と薫の座る事のないリヤシートは取り外され、固定式のシートカウルに変わっていた。

 考えてみたらバイクを降りようとは一度も思わなかった。

 薫が死んだ直後は、それどころじゃなかった。

 お通夜に、葬式。

 真っ黒い服を着た家族の人たちが、薫だった白い塊を箸でつまんでつぼに入れるのを、離れた場所で
俺は見守った。

 一番大事なものを失ってしまった絶望感は大きかったが、泣きじゃくる薫の妹や、目を腫らした母親を
見ていると不思議と冷静になれた。
 
 感極まった薫の親父さんがいきなり俺につかみかかってきた。

 薫を返せ、と言いたかったのだろうが、俺には何を言っているのか聞き取れなかった。

 殴ってください、という俺の言葉に親父さんは一瞬ひるんだように見えたが、次の瞬間右フックを繰り
出してきた。興奮した親父さんのパンチは俺の顔をかすっていった。鼻血が少し出た。

 薫の家族は俺を恨んでいるだろう。避けられない事故だったといっても俺を恨むのは当然だ。

 じゃあ俺は何を恨めばいい?
 転倒したバイクの男をか、それを追っていたRX-7をか。

 それとも薫をあの日峠に連れて行った自分自身をか。

 最初は俺もすべてを恨み、憎んだ。転倒したバイクを恨み、RX−7を恨み、自分を恨んだ。
 だが、それも長くは続かない。

 結局不幸な事故だったのだ。偶然を恨んでも仕方が無い。

 どこにも持っていきようの無い怒りは、毎日の時間の中で磨り減り、風化し、最後は空しさと脱力感に
変わった。

 葉っぱが増えて、散りそびれた桜の木の下のベンチに俺は腰掛けた。
 まだ朝早いから周りには誰もいない。
 
 家から持ってきた明太マヨネーズおにぎりを取り出す。

 薫が大好きだったおにぎりだ。
 今日は自分で作ってきた。

 レーシングスーツの胸元を開け、ゆっくり落ちていく桜の花びらを見ながら朝食をとりはじめる。

 あの時、薫のデイパックにはこれと同じおにぎりが入っていた。

 二人で此処で食べるはずだった。

 ぬるいミルクのような春の日差しの中で、風に乗るさくらの花びらを見ながら。

 ピンクのじゅうたんの上で、二人は明日を誓い合うはずだった。

 結婚したら、バイクを降りるよ。おまえと、子供のために。
 俺はそう言う決心までしていたのだ。


 あの日と違って今日の風は少し冷たかった。
 まだ太陽が昇って間が無いから、考えてみれば当然か。

 人間って思ったより強いのかもしれない。

 薫を失ったのに、ちゃんと仕事をして、寝て、食べている。
 それに相変わらずいい年してバイクに乗っている。

「俺はやっぱりバイクは降りないよ」
 小さな声で口に出してみた。

 だっておまえと結婚できなかったから。

 春の空気が固まりになって俺の周囲を回っている。

 散りそびれた桜の花びらがその風に乗って舞い上がり、俺の周りに降り注いだ。

「四十になっても、五十になっても、桜の季節には此処に来ておまえと明太マヨネーズおにぎりを食べ
なきゃな」
 今度は普通の声で言ってみた。

「なに格好つけてん! いてまうどー」

 そんな薫の声が、俺の心の中でかすかに聞こえていた。
 




              ワインディングダンス 終わり


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