海に融ける月


 病院の廊下は居心地が悪い。一階のロビーや検査室の前だったらベンチの一つも
置いてあるけど、病棟の廊下にはそんなものは無い。死に瀕した父親の面会に来た
矢野に付き合って病院までは来たけどさすがに病室まで入るのはためらわれる。
 そういうわけで僕は居心地の悪い病棟の廊下で手持ち無沙汰にうろうろしてるわ
けだ。
 そんな僕の前をてきぱき働く看護婦さんや松葉杖の患者が通り過ぎていく。
 中には胡散臭げに僕を見つめるおじさんなんかがいたりする。
 仕方なく廊下の突き当たりにある非常階段のドアのところにいってみた。
 ドアの外は鉄錆びの浮いた階段が下のほうまで続いているのが見えた。
 ドアを開けて外に出る。秋の涼風と暮れかけたオレンジ色の光が僕を待っていて
くれた。しばらくここで待つとしよう。
 ドアは枠以外強化ガラス製だったから、病室を出てくる矢野に気づかない事も無い
だろう。今ごろ矢野は父親とどんな話をしているのだろうか。
 憎んでも余りある父親だなんていっていたけど、まもなくこの世から消えてしま
う父親なのだからきっとこの方がよかったはずだ。
 見舞いに来るべきかどうか迷っていた彼女の背中を強く押した僕としては、でき
ればそう思いたい。病室から泣きながら出てくる彼女を見ることになるかもしれな
いが、その涙は決して無駄な涙ではないはずだ。
 ふと空を仰ぐと星の光が少しずつ見え始めていた。でもまだ月は出ていない。
 月の出る方角が隠れて見えないのもあるけど、そちらが水平線だったとしてもま
だ月の出る時刻には早すぎる。
 後一時間くらいかな。そうしたら黄色く光る丸いお月様がその姿をあらわすだろ
う。あれから四日たっているから少しだけ欠けた、それでもほとんど満月と変わら
ない月が。

 四日前のことだ。和雄から電話があったのは、父と二人での侘しいほか弁夕食を
終えて食器類を流しに運ぼうとしているときだった。
 発泡スチロールの容器ではいくらなんでも寂しすぎるから家の器に移して食べた
のだ。
 いいよ、後は父さんがやっておくからと言う父から受話器を受け取って僕は自室
に向かった。
 和雄の能天気な声に僕の不機嫌さは加速度を加えて突っ走りそうな気がした。
「よう、もう飯食ったか?」
 午後7時をとっくに回ってるんだ。普通は終わってるだろうと言おうとしてやめ
た。あまり話したくなかったのだ。
「何の用だよ。暇つぶしの話し相手になってやるほど今気分がよくないんだけど」
 父と二人の夕食時はいつも僕は気分が悪かった。
「いやあ、まあちょっとね。いいからベランダに出てみろよ。月がきれいだぜ」
 和雄はうちにもよく来るからこの電話がコードレスだというのはわかってるのだ。
 自室の窓を開けてマンションの細長いベランダに出た。東の山の上に黄色がかっ
た満月が周囲の星をすべてなぎ払うかのように昇りつつあった。
「満月か。そういえば今日は中秋の名月だったな」
「そうさ。それで宿題のことも思い出しただろ」
 宿題。国語の宿題があったのだった。中秋の名月を見て俳句をひとつ作ってくる
こと、だった。
 目の前の道路を車がエンジンふかしながら上っていった。電話が聞こえなかった。
「え、何か言ったか?」
 聞き返す僕に、和雄がすまなそうに言い出した。
「悪いけどさ、智樹、国語得意だろ、俳句、俺の分も作ってくれないかなと思って
さ」
「自分の事は自分でしろっての。そんなことなら切るぞ」
「ちょっと待って。それならお互いに作って批評し合おうぜ」
 まったく、しょうがないやつだと思いながらも和雄の俳句に少し興味が湧いた。
「わかった、じゃあおたくからどうぞ」
 僕が言うと、和雄は少し考えてからおもむろに詠み始めた。
「細雲が うどんに見える 秋の月、こんなのはどうかな」
 月見うどんか。腹筋が引きつるのを感じた。考えてみたら今日初めて笑っている。
「それって単に腹減ってるだけじゃないか」言いながら笑い声がこぼれてしまった。
「何だよ、じゃあおまえならどう詠むんだよ。お手本をどうぞ、優等生さん」
 カチンと来る言い方だ。挑戦されたのなら受けてたたざるを得ないな。
 目の前に浮かぶ黄色くて丸い岩を眺めながら僕はそのまま心に浮かんだ言葉を吐
き出した。
「物干の 間に浮かぶ 遠い月、ってのはどうかな」
「それって見たままじゃん」
「いやね、遠い月というのがミソなんだよなあ。この心境わかってくれないかな」
 つい本音が出てしまう。
「まあいいけどさ、実は電話したのはもうひとつ理由があるんだ」
 和雄が話題を変えた。やっと本題に入る気のようだ。
「おまえってさ、海に満月が沈むところ見たことある?」
 海に沈む月ときたか。考えてみると写真でもあまり見かけたことないな。
 僕が黙って考えていると、すぐに和雄は言い始めた。
「俺さ。満月って海に沈まないんじゃないかって思ったんだ。いや、もちろん物理
的に西の海に沈むのはわかってるけどさ。その映像をあまり見かけないってことは、
月が沈むよりも早く太陽が出てしまって隠れてしまうんじゃないかってさ」
 そんな馬鹿なと言おうとした僕だけど、そのあとの和雄の理屈付けには少し納得
させられてしまった。
「でもそんなことは満月の月没の時間をネットで調べればすぐにわかるんじゃない
か?」
「そうさ。俺もそうしたんだよ。そして今夜がその少ないチャンスの日だってわか
ったんだ。月没の時間は二時になっていた」
 悪い予感というのかな。次の和雄の言葉が連想されてきた。
「どうだ?長い人生の中でもあまりこない満月の沈む海を見に行かないか」
 やっぱり。深夜外出のお誘いだ。父が許すはずがない。母も以前よく言っていた。
 夜出歩くのは不良の始まりだって。
 でも僕はすぐに和雄に返事をした。もちろんOKの返事だ。母はもういないし父
に怒られることなんてなんとも思わない。二人は僕を裏切った憎い敵なんだから。
「しかし夜中におまえと二人でサイクリングってのは、あんまり気が進まないけど
ね」
 僕の言葉に対する和雄の返事には意外な事実が含まれていた。
「実は二人っきりって訳じゃないんだ。同行者がもう一人。実はそいつの提案なん
だけどね」 
「誰だよそれ。もったいぶらずに言えよ」
「矢野さ。矢野鮎子。あいつが言い出したんだ。海に沈む月が見たいって」
 矢野鮎子? あの優等生の? ちょっと信じられなかった。
「あそこもいろいろあるんだよ」
 そういえば矢野の家も最近離婚したとか言っていたっけ。
「じゃあ十二時半に神社の近くの自動販売機の前でな」
 和雄はそういうと電話を切った。
 西向きの海まで自転車で約一時間だ。少し時間に余裕を持って十二時半というわ
けだろう。前もってきちんと考えていたんだな。
 
 全く最近の大人はどうしてこんなに簡単に離婚できるのだろうか。
 子供までいるというのに? 女性の就職率が増えて、男に頼らなくても生きていけ
るようになった事がその遠因のひとつなら、いっそのこと女性には仕事なんかさせ
なきゃいいんだ。子供の立場で言えば、お母さんはただお母さんであるだけで充分
なんだから。
 ひんやりとした外の空気をたっぷり吸い込んで、僕は部屋に入った。
 居間を通り過ぎて父の部屋を覗いてみる。
 半開きの扉からのぞくと、父はパソコンでインターネット中だった。
 どうせまたつまらないネット小説でも読んで感想書きしてるんだ。父も時々書い
たのを投稿しているみたいだったけど、僕はそんなもの読んだこともなかった。
 僕の気配に気づいた父が、手を止めて振り向いた。
「中秋の名月を見て俳句作るのが宿題だったんだけど、いいのが思いつかなくて…
…父さん何かない?」
 和雄との会話で僕は少し機嫌が良くなっていたのだ。父親を試してやれ、という
気持ちもあって聞いてみた。もちろん父親に教えを請うつもりなんか無い。父がど
んな変な俳句を作るか興味本位だった。
 父は最初困ったような顔をしたが、すぐに笑みを浮かべて言った。
「俳句かあ。俳句は季語とかあって難しいんだよな。そうだな、ちょっと待って」
 目をつぶって考え込んでいる。何かを思い出すように、そのまま上を見上げて字
数を合わせるように首を微かに振っていた。
 そんなに深く考える事でもないだろうに。中学生の宿題なのだ。
 適当でいいんだ。息子相手にそんなに格好つけなくったって。そんな言葉がもう
少しで出ようとしたとき、父が目を開けた。そしてすっと一息吸い込んで言った。
「……去る人の 影まで照らす お月様、こんなん出来ましたけど」
 父がふざけて笑った。父のそんな笑い顔なんて久しぶりに見た。父の笑顔が見れ
なくなったのは僕が追い詰めたからだけど、その笑顔は僕自身をほっとさせてくれ
る優しい笑顔だった。
「なにそれ。意味わかんないよ」
 でも僕は笑顔を返す事も無く、そっけなくそう言うと自分の部屋に帰った。

 数時間後、目覚ましのベルが、浅い眠りの海からゆっくりと僕を浮上させる。
 セットしていた時間の十二時二十分だ。予定通り僕はジーンズに着替え、足音を
立てないようにして自分の部屋を出た。父は既に寝ているみたいだった。
 マンションの自転車置き場から、街灯の少ない薄暗い道路にこぎ出る。
 自転車に取り付けた懐中電灯の頼りない光で、暗い道がほんの少しだけ浮き上が
る。冬なんかは七時になれば暗くなるのだから、暗い町並みに免疫がないわけはな
い。でも、深夜の町は人影もなく物音もほとんど聞こえない。
 それに家の明かりも消えて真っ黒い窓がどくろの目玉みたいに並んでいるだけで、
気味が悪かった。
 満月はもう西の山に半分隠れようとしている。思ったよりも沈むのは早いかもし
れない。
 焦る事はないと思うけど、自転車をこぐ力につい力が入る。
 待ち合わせ場所は自動販売機が幾つか並んでいて、他の場所と比べて少しは明るい
場所だ。そこに矢野も来てるはずだ。
 しかし着いてみると、ガードレールにもたれかかって座り込んでいる人影はひと
つだった。言い出しっぺの矢野が来れなくなったのだろう。
 女はこれだからな。自転車を降りて近づく。
「矢野は無理だよ。あんな優等生が深夜外出なんて出来ないって」
 しかし、意外なことに僕の言葉に帰ってきたのは女の子の声だった。
「あたしの何が無理だっていうのよ、遅くなるの和雄クンの方よ。出掛けに見つか
ったから遅くなるって、さっき電話あったわ。先に行っててくれれば必ず追いつく
ってさ」
 自販機の灯りの中に立ち上がった矢野は口を尖らせて上目遣いに僕をにらんで
いた。何てことだ。考えてもみないストーリーだった。
 今まで矢野の事を女の子だなんて意識した事なかったのに、深夜に誰もいない道
端で二人きりだと、なんだかひどく居心地の悪さを感じてしまう。
「海に沈む月を見たいって、和雄に頼んだの?」
 何を話していいかわからなかったからか、どうでもいいような質問をしてしまっ
た。
「そうよ。聞いたんでしょ。それに、もうひとつ言っておくとあなたも誘おうって
言ったのもあたし」
「どうして僕まで?」
 僕が落ち込んでると思ったからかな。でも……
「あたし、智樹クンが好きだからかな……」
 僕があっけに取られて何も言えないでいると、尻の砂を払って言った。
「ボケっとしてたら、月沈んじゃうよ。行こう」
 矢野は自分の自転車にまたがり滑らかにこぎ出した。
 矢野の自転車は二十一段変速機と、フロントサスペンション付きのかっこいいマウ
ンテンバイクだった。僕の安物とは違って、フィッシャーのブランド品だ。
 安くても十万は下らないだろう。矢野は案外自転車マニアなのかもしれない。
「いい自転車に乗ってるな」
 好きだなんていわれて、どう反応していいかわからない僕はとりあえずそんな事
を言ってみた。矢野は振り向いて不機嫌そうに言った。
「別に何でも良かったんだけど、その売り場にあった一番高いの買わせたの」
「買わせたって?」
「離婚する罰よ」
 なるほど、そう言うことか。気持ちはとてもよくわかる。
 僕の部屋にあるパソコンと同じってわけだ。

 町の西側にある田原山を迂回するように続く国道を黙々と進む。
 でも、さっきのあれって、愛の告白だったのだろうか。随分そっけなくて投げや
りな告白だったけど。普通はもっと顔を赤くしたり、どもりながら言った後すぐに
走って逃げていくなんて演出が必要なはずだ。
 どう考えればいいんだろう。矢野のことは僕も嫌いじゃない。
 背が僕より少し高すぎるのが難点といえば難点だけど、すぐに僕が追い越すはず
だから大丈夫だ。顔もかわいいし頭もいい。彼女にするにはまあまあ良い方じゃな
いかな。
 自転車で並んで走ってるとはいえ、風の音やペダルの音が結構うるさくて大声で
しゃべらない限り話も出来ない。
 国道沿いには民家は少ないけど、真夜中の道で大声上げるのは気が引ける。
 しかし話せないほうが今は好都合だった。
 山を迂回してきたから山の陰に入っていた満月が少しずつ見え始めた。
 和雄は追いついて来れるのだろうか。とにかく早く来て欲しい。
 二人きりだと、なんとも気まずい雰囲気だ。ゆるい左カーブを回るとコンビニエ
ンスストアの明かりが見えてきた。
 そしてその駐車スペースには妙に長いハンドルのついた派手な改造を施したバイ
クが三台止まっていた。周囲に人影は無いけどまずい。
 見つかったらどうなるかわかったものじゃない。一瞬僕は引き返すかそのまま突
っ切るか迷った。
 コンビニで買い物中の暴走族が今にも出てきそうな気がする。僕の前を走ってる
矢野はそんな事お構いなしに平然と進んでいる。僕だけ引き返す事はできない。仕
方がない。
 僕は矢野を追い立てるように、微かに"急げ"と声をかけてスピードアップした。
 僕が何を思ってるのか、やっと矢野にも伝わったのだろう。矢野は急にこぐスピー
ドを速めた。
 コンビニの真横を通り過ぎる。いいぞ。このままこのまま。
 後ろで"ありがとうございました"と声が聞こえた。
 男の話し声が何か聞こえて、すぐにエンジン音が響いてきた。
 まずい。追いかけてくる。バイクのライトがあっという間に近づいてきた。

「こんな夜中に仲良くデートかよ、中坊の分際で生意気だなあ」
 前に回った男がバイクから降りてきて言った。
 頭の中が熱湯を注がれたみたいに、かっと熱くなる。どうしていいかわからない。
「そこどいてください、通れないでしょ」
 随分強気な矢野の声が聞こえた。
 後ろの男達も降りてきて、僕の横に立った。全部で五人だった。
 近くで見ると高校生くらいに見える。背丈は皆百八十センチ近いし、がっしりし
た体型はとても肉弾戦で勝てそうな相手じゃない。
「気の強い女だなあ。自分の立場がわかってるのかい」
 坊主刈にしてる顎の張った男が言った。しゃべり方なんてとても高校生には思え
ない。テレビで見るやくざかチンピラのそれだった。
「今日はラッキーだったな。ピチピチの美少女をみんなで女にしてやろうぜ」
 坊主刈が言った。他の四人もへらへら笑ってる。
 ほら、こっちに来いよ、と腕を引っ張られて、抵抗するまもなく矢野は自転車か
ら引きずり下ろされた。矢野の自転車が倒れて金属的な音が響いた。
 割れたライトの破片が遠い光を反射しながら僕の足元に飛んできた。
「いや、止めてよ変態」
 抵抗する矢野は、二人がかりで両脇をつかまれて引っ張っていかれた。
 道路わきの空き地にそのまま全員がずるずる移動する。
「お前は行っていいぜ。男に興味はないからな」
 坊主刈が僕の自転車の後輪を蹴っ飛ばした。
 バランス崩して倒れる自転車から飛び降りて、僕は思い切り向かっていった。
 一瞬このまま逃げてさっきのコンビニに向かおうかという考えがよぎる。
 そこで助けを呼べばいい。でも僕が逃げた後彼らがこのままここに居る保証は何
も無い。それになんと言っても矢野に逃げるところを見られるのは嫌だった。
 勝てるかどうかなんてどうでも良かった。
 このまま矢野を連れて行かせることだけはどうしても止めないといけない。
 それだけ考えて、突っかかっていく。
 そんな僕の行動はけんか慣れした彼らはお見通しだったのだろう。
 不意をつくつもりがあっさり受け止められて、足をかけて転ばされた。
 おらおら、だらしないぜ。女を守りたいんだったら根性でかかってこんかい。
 ほら、もう一発お見舞いだ。僕は立ち上がるたびに柔道の技で地面に叩きつけら
れた。
 止めてよ。ひどいわよ。もう許してよ。
 矢野の声も彼らの罵声も僕の頭の中の洗濯機でぐるぐる回っているようだった。
 身体がだるくてあちこち擦りむいた。関節も痛くてどうにも立てなくなってし
まう。吐き気がして、苦い胃液を何度か吐いた

「こいつを許して欲しかったら、おまえ、此処で裸踊りしてみせろよ」
 坊主刈の言葉は僕にではなく、矢野に対して発せられものだ。
 矢野に裸踊りをやらせようとしてるのだ。
「わかった。何でもするから智樹クンを許してください」
 矢野は僕と男達の間に立って上着を脱ぎ捨てた。
 そしてジャージのズボンに手をかける。本気なのだ。
 やめろ。そんな奴の言う事なんか聞くな。
 僕のかすれた声は彼女の耳にも届かない。 
 もう駄目だ。
 ヒーロ−は現れない。和雄が来てくれればと思ったけど、仮に来たとしても五人
組にはかなわないだろう。僕は押さえつけられて、彼女が乱暴されるのを見守るしか
ない。悔しくて情けない。涙がぽろぽろこぼれる。
「智樹クン心配しないで、あたしこんなのなんとも思ってないから」
 矢野の声は無表情というか無感動な声だった。
 青白い満月の光の下で、矢野はブラジャーを外した。
 まだ成長段階の小さ目の乳房は、つばを飲む男たちの目の前にあらわになった。
 シミ一つない磁器のような滑らかな曲線だった。
 ぼくは見ちゃいけないと思っても視線を外す事が出来なかった。
 磁石に吸い付く鉄片のように彼女の胸に吸い寄せられた。
 下はジャージも脱いで薄いパンツ一枚だ。
「ほら、最後の一枚ももったいぶらずに脱いでしまいな」
 僕を押さえつけてる一人を除いて、男達はニヤケ顔で彼女を取り囲んでる。
「ちょっと待って。裸になって踊ればいいのね。それ以上は何もしないでよ」
 矢野は釘をさすように言った。
 仮に約束を取り付けたとしてもそんなの意味の無い約束だろうに。
 この連中がそれだけで終わらせるなんて考えられないじゃないか。
「それはおまえ次第じゃないのかな。俺たちを満足させられればよし。満足させら
れなかったらそれ以上の事をして貰うさ。俺達を十分を楽しませてくれたらそれだ
けで許してやるよ」
 今まで何もしゃべらなかった黒い皮ジャンを着た髪の長い男が言った。
 坊主刈は不服そうにぶつぶつつぶやいたがすぐに黙った。
 皮ジャンの男がリーダーのようだ。フンとつぶやくと、矢野はパンツをあっけな
く脱ぎ捨てた。
 股間に薄く生えた陰毛が、微かな風にふわりと浮き上がる様が眼に焼きついた。
 微かな青白い光に満ちた薄暗い世界で、濡れたような肌をした少女が両手をすっ
と持ち上げた。
 爪先立ちになった彼女は、まるで糸に吊るされた操り人形のように見えた。
 バレエでも習っているのだろうか。
 その矢野が動き始める。緩やかに、時に激しく。
 月明かりの下で舞う白い妖精だ。両手を交差させたり身体を回転させたり、
全裸を恥じることもなく脚を開いて身体を沈めたり、そんな滑らかな動きは無音の
空間に静かな音楽をかなで出した。
 ほんの数分の踊りだったけど、終わったときにはずっと長い時間が流れていたよ
うに感じられる。
 矢野の真剣な表情と、うっすら汗をかいた伸びやかな身体は、その場にいた男達
の顔に張り付いていた薄笑いの表情を拭い去り、口をぽかんと開かせる事になった。
 僕も、脱力感と共に胸に込み上げて来るズキズキした痛みを感じていた。
「こいつはたまげたぜ。ちょっと感動って奴だ」
 皮ジャンの男が言った。坊主狩りの男は下を向いて大きくため息をついていた。
 他の三人も最初の頃の乱暴な雰囲気は影をひそめていた。
「服を着ていいぜ。約束どおり開放してやる。でもな。俺達みたいに気のいい族ば
かりじゃないからな。そこんとこ気つけていけや」
「ところでこんな時間にどこ行くつもりなんだ」
 坊主頭が顔を上げた。
「海に沈む月を見に行くの。西の海岸まで」
 身づくろいを正しながら矢野はほっとした表情で言った。
「はっ。ロマンチックな事だな。でもそれなら海岸より展望所のほうがいいぜ。こ
の先を右に曲がってまっすぐ行けば入り口がある。案内はしてやらないがな」
 坊主頭はそう言ってバイクにまたがった。他の族達も同じように鉄の馬にまたが
る。すぐに周囲を爆音が包み込んだ。

「おまえって本当に強いな……」
 矢野と僕は暗い道で自転車を押していた。
 僕の自転車はさっきの乱闘でパンクしてしまったし、矢野の自転車はライトが壊
れているのだ。さっきの助言どおり展望所に向かう事にしたが、和雄はまだ追いつ
かないし、さっきの事で海に沈む月を見るという目的も、なんだかどうでも良くな
ってきた。
「あたしのわがままだからね。元はと言えば……。むしろ智樹クンに嫌な想いさせ
て悪かったって思ってるくらい……」
 暴走族の連中が僕らを解放してくれたのは本当に意外だった。
 最初はその言葉の中にもあったし、絶対矢野に乱暴するつもりだったはずだ。
 僕はそれを感じたから必死であいつらに向かっていったのだ。
 なんだか自分が馬鹿な道化のように思えてきた。
「ところであたしの裸どうだった?」
 矢野は悪戯っぽく僕を見て笑った。
 とたんに僕の顔に血が上ってくる。多分今真っ赤になってる。
「どうって、何が」
 やっとそれだけ言った。
「きれいだった?」
 矢野は僕を覗き込む。どうでもいいじゃないか、しつこいなあ。
「あんまり見てなかったけど……きれいだったよ」
 僕は矢野の顔を見ないようにして言った。
「よかった。不細工だったらどうしようって思ってたの」
「すごくきれいだった。……自分が情けなくなるくらい」
「最後の言葉は余計だよ。智樹クンも必死で戦ってくれたじゃない。相手は五人も
いたんだよ。下手したら殴り殺されかねないのに。だからあたしも恥ずかしいの我
慢して精一杯踊ったんだから」
「矢野の家も、離婚していたんだよね? 俺の所は三カ月前に離婚したけど……」
 僕は何とか話題を変えようとしてついそんなことを言ってしまった。
 言った後でまずいと思ったのは、その瞬間彼女の顔から笑みが消え、一気に表情
が沈んでしまったから。なんて馬鹿なんだ僕は。
 
「あたしは離婚してくれてせいせいしてるわ。あんな父親大嫌いだから」
 矢野は吐き捨てるように言った。
 矢野の目が僕を見た。父親を嫌いな理由を僕に聞いてほしそうだったけど、僕は
黙っていた。
「智樹クンはお父さんと住んでるんだよね。やっぱり男の子はお父さんの方が好き
なのかな」
 僕としては、この話題はもうやめたかったけど矢野はまだ続けるつもりのようだ。
「好き嫌いは関係ないよ。経済的な理由かな。どっちかって言えば母親の方につい
ていきたかった。なんと言っても別れた原因は父親の浮気なんだから」
「そうなんだ……。でもどうして男の人って浮気するのかしらね。智樹クンの所も
あたしのところも恋愛結婚なのに……愛しあって結婚したはずなのにね」
「じゃあ矢野のところもお父さんの浮気が原因なのか?」
「浮気くらいなら……いやだけど、憎むほどじゃないと思う」
「浮気くらいって、じゃあなんなんだよ」
 少しむっときたけど、さっきのことで僕は彼女に対して弱い立場にいたから、そ
れだけしか言えなかった。
「男は結婚していようがいまいが、女を好きになるもんでしょ。仕方ないことだと
思う」
 ずいぶん物分りのいい子だな。浮気容認論者なのかな?
「あたしの父親は、普段はおとなしくてやさしい人だったけど、お酒が入ると狂っ
たみたいに人が変わるやつだったの。たいした理由も無くお母さんを殴るところを
何度も見てきたわ」
「暴力夫だったのか」
「あれは酒乱よ。酔いが覚めたら必死で母さんに謝ってたもの。別れないでくれっ
て」
「でもとうとう堪忍袋の緒が切れたってわけ?」
「単純じゃないんだけどね。あたしも何度か殴られたりしてたけど、そのくらいじ
ゃ憎むことも無かったと思う」
 そのくらいって、たいした理由も無く殴る父親に対して言う言葉かな。
 憎しみを覚えるには十分な理由だと思うけど。
 しばらくは黙って歩いた。
 矢野の言葉は中途半端で途切れていた。僕は続きが気になったけど、黙っていた。
 ふうっと息をはいて、決心したように矢野が言い出した。
「殴られたりするくらいならあたしはお父さんを許せると思うの。嫌いにはなるけ
ど憎まないと思う。でも、あいつ……中学になるくらいからあたしを変な目で見る
ようになったの。あたしがお風呂に入ってるときに間違えた振りをして入って来た
りして。ニヤニヤしながらおまえも大人に近づいたなあって……」
 なるほど。自分の親からセクハラ受ける事は、確かに殴られるよりショックかも
しれない。男にはわからない悩みだ。
「ある夜とうとうあたしのベッドに忍んできたの。母さんはお友達との忘年会で遅
くなる日だった。パンツ一つになったあいつは、布団を剥ぎ取るとあたしの両手を
押さえつけて、片方の手をあたしのシャツの中に入れてきた」
 もう止めろと言いたかった。でも矢野の迫力は僕にそれを言わせてくれなかった。
「すんでのところだったわ。母が帰ってきたの。いつもは二次会まで行く母が気分
が悪くて一次会で帰ってきたわけ。半狂乱になってすごいシーンだった。思い出し
ても背筋がぞっとするわ」
 夜中の国道に矢野の声だけが聞こえていた。
 僕は彼女の話を聞きたくなかった。親にレイプされそうになった話なんて、あま
りに暗すぎる。どうコメントしていいかわからない。彼女を見る目も変わってくる
かもしれないし、そうなったらそうなったで、そんな自分自身がいやになるだろう。
 知らない方がいいことが世の中にはたくさんあるんじゃないだろうか、僕のそん
な想像の中、彼女の話は終わった。
 矢野が僕を見つめているのがわかっていたけど、僕は目を上げれないで、ただう
つむいて歩いた。僕の自転車の油の切れたギヤが、かすかに、でも規則正しく僕ら
の歩く速度にあわせてキーキーと悲しげにないていた。
「智樹君、お父さんの浮気相手に会ったことあるの?」
 急に矢野が聞いてきた。
 さっきから僕が黙り込んでいたから、矢野は暗い雰囲気を何とかしたかったんだ
ろう。
「実はあるよ。二年前だったかな。父さんにバトミントンに連れて行かれて、職場
の人たちと、楽しんだんだけど、そこで会ったんだ。バトミントンのうまい人だっ
たな。父さんはコテンパンにやられてた。おでこに汗を光らせて、僕に笑いかけた
あの人は、そのときは凄くきれいだと思った」
 歩く速度がとたんにゆっくりになる。
 もう海に沈む月が見たいという気持ちは砂浜に落ちた水滴みたいにしぼんでしま
った。
「始めに好感持ってしまったから、裏切られた気持ちが強かったんだね」
「そうだよ。その人が父さんの浮気相手、というか不倫相手だってわかった二度目
のとき、泥棒猫って言ってやった。あの人、最初ぽかんとしてたけど、すぐに口が
ゆがんで、涙流してた。泣くくらいなら父さんを盗むんじゃないよ」
「それってちょっとひどいよ。どんな状況でも男女が愛し合うのは正しいって何か
の本で読んだよ」
 てっきり賞賛の言葉を聞けるものと思っていた僕は、矢野のきつい口調につい足
が止まってしまった。
 彼女はお構いなしに進んでいく。
 五メートルくらい離れた所で、気を取り直して彼女を追いかけた。
 すぐに横並びになった。

「結婚しててもしてなくても、人が人を好きになるのはどうしようもない事だと思
うよ」
 また矢野が言った。
「でも、人に迷惑かけるのはいけないことだろ。その人と父さんが愛しあってしま
ったら、母さんや俺はどうなるんだよ。無責任じゃないか」
 最初のショックが冷めてやっと矢野に言い返した。
 矢野はこっちを見てさびしげに少し笑った。
「結婚してなくても、その人とお父さんが愛しあったら、悲しむ人がいる。という
こともあるでしょ」
「どういうこと?」
「あなたの父さんと母さんの恋愛だって、別な誰かを失恋に導いたかもしれないじ
ゃない。結婚したら恋愛してはいけないというのは、子供の養育を第一義に考える
宗教的な理想論だって書いてたわ」
「本の受け売りするのはいいけど、そんな本は男の都合ばかり書いて男受け狙った
だけだよ。現実的じゃないよ」
 矢野は少し黙った。
 自分が信じている考え方をけなされてむっときてるみたいだ。
「人を本気で憎んだ事の無い人には……どんな状況でも愛しあう事が尊いという事
はわからないのよ」
 矢野の捨て台詞だ。
 そう決め付けられると僕も二の句がつげなくなってしまう。
 矢野との言い合いに夢中になっていたせいだろう、派手な赤色灯を屋根に取り付
けたその車が対抗車線に止まってるのにはまったく気づかなかった。
 ドアが開いて二人の警官がするりと出てきた。
 二十メートルの距離はすぐに縮まった。
「君たち。こんな夜中に何してるのかな。ちょっとこっちに来なさい」
 背の高い警官だった
 彼は彫りの深い顔立ちで、不気味な笑みを浮かべていた。
 もう一人の警官が、矢野の横に立っている。そっちは少し太っていて、年齢も上
のようだった。これで終わりだ。
 海に沈む月を見るどころじゃない。補導されて前科一犯の不良少女と不良少年の
できあがり。きっと明朝には校長先生に呼ばれてきついお説教が待ってるだろう。
 あきらめて警官の指示に従いパトカーに乗り込もうとしていたら、遠くから軽薄
なホーンの音が聞こえてきた。
 マフラーをカットしたバイクの爆音も聞こえる。さっきの暴走族だろうか。
 ヘッドライトはすぐに近づいてきた。パトカーにまっすぐ突っ込んでくる。
 何をするつもりだろう。警官にちょっと下がってと言われて歩道側に僕らは移動
した。
 皮ジャンのリーダーが、持っていた金属バットをパトカーのフロントガラスに叩
き込んだ。ミシッという音を立ててフロントガラスにひびが入る。
 坊主頭も持っていた空き缶を警官に向けて投げつけた。
 慌てた警官達は逃げていく暴走族を追うのが一瞬遅れたが、すぐにパトカーに乗
り込むとサイレンを高らかに鳴らしながら追跡しだした。
「ひょっとして僕らを助けてくれたのかな」
 騒音が静まった中に僕らはぽつんと残された。
「憎たらしい奴らだって思ってたけど、案外いいところもあるのかもね」
 もしそうだとしたら、それは矢野がそうさせたんだ。
 とにかく僕らはその場を後にして急いで展望台の入り口に向かった。
 ススキに覆われた狭い階段脇に押してきた自転車を止めると、街灯もなく月明か
りだけに照らされた階段を二人で上り始めた。
 まだ満月は沈んでいなかったのだ。僕らの進路を柔らかな光で照らし出してくれ
ている。
「和雄はどうなってるのかな。こっちの展望台に来てるって連絡したほうがいいん
じゃない?」
 そうね、と一言いって、頂上に向かう途中のベンチに腰掛けた矢野は携帯を取り
出した。

「ちょうどよかったわ。今分かれ道に差し掛かったところだって」
 先を急ごうとして振り向くと矢野はまだベンチに座ったままだった。
 疲れたのかな。まあそうだろうないろいろあったから。
「少し休んでいくか。和雄が来るまでここで待つ?」
 懐中電灯の灯りを受けた矢野の瞳から涙が一つ零れ落ちた。
「実はさっきの話、まだ続きがあるんだ……」
 とつとつと話し出した矢野の声は無表情を装いながらも震えを隠し切れないでい
た。
「一昨日知ったんだけど、お父さんが癌で死にそうなんだって。離婚した後に見つ
かったんだけど。膵臓癌でね。もう3ヶ月もちそうも無いんだって。母は自業自得
だなんていってたけど、なんだかかわいそうで。見舞いに行ってやりたい気もする
んだけど、母から絶対いくなって言われてるの。傷つくだけだからって」
 僕はなんて言っていいかわからなかった。ただ矢野の手を取って引っ張った。
「行こう。とにかく頂上まで歩こうぜ」
 矢野が力なく立ち上がる。僕らは重い足取りで階段を上り始めた。
 何か僕にアドバイスがほしいんだろう。それを考える時間がほしかった。
 展望台が見えてきた。丸い柱に覆われた天上の楽園のように光り輝いて見えた。
 最後の一段を上り終えた僕らを、真ん丸い月が微笑むように迎えてくれた。
 まだ水平線からはいくらか高いところにある。和雄が来るまでなんとかもつかも
しれない。
「俺は見舞いに行くべきだと思う。傷つくかもしれないけど、もし行かなかったら
後悔するかもしれないだろ。死んだ人には二度と合えないんだから。後悔するくら
いなら会いに行ったほうがいいよ。俺も付き合うから」
 懸命に考えてやっと出した答えに、矢野はうんとひとつうなずいた。
「智樹クンならきっとそう言うと思ってた」
 矢野が微かに笑った。何とか正解に近い答えが出せたようでほっとした。
「矢野のお父さんは病気だというのに、うちの親父ときたらしょうも無い俳句詠ん
でへらへらしてるんだもんな、嫌になっちゃうよ」
「へえ、どんな俳句? ひょっとして今日の宿題代わりに頼んだの?」
 まさか、そう言って数時間前に聞かされた句を詠んでやった。
 矢野は目をつぶってその情景を想像し始める。
 そしてゆっくり言った。
「お母さんが出て行った夜も、きっと満月だったんだね」
 ため息混じりに出てきたその言葉で、やっと僕にもその句の情景が見えてきた。
 母が出て行った夜は確かに満月だった。
 街灯に照らされた母の顔を僕は見つめていた。
 マンションの前の道路で、時折行き交う車のライトが交差する。
「別に死に別れするわけじゃないんだから、会いたくなったらいつでも会えるんだ
からね」
 母は元気な声で言った。頬が引きつっていると思ったけど、よく見たら笑ってる
ようだった。それまでずっと父と喧嘩ばかりしてわめいていたのに、その日の母は
久しぶりの笑顔を僕に見せてくれていた。
「父さんなんか嫌いだよ。僕はついていきたいよ」
 声が震えてうまく言えなかったけど、なんとかそれだけは伝えられた。
「父さんの浮気は良くないけど、それだけでもないのよ。今は母さんも悪かったと
思うのよ」
 僕には母のその言葉は信じられなかった。一方的に父が悪いに決まってるから。
 タクシーがマンションの車止めに入ってきた。
 母さんがボストンバッグを持ち上げる。
「じゃあね。たまに電話するわ。離婚しても母さんは母さんだから。智樹の母親で
ある事には変わりはないんだからね。父さんと仲良くしてね」
 タクシーに向かいながら母さんはつぶやく。
「もう父さんを愛してないの」
 タクシーのドアを開けようとしたその手は、僕の叫ぶような問いかけに一瞬止ま
った。
 でもすぐにドアを開けて、母さんは乗り込んだ。
 唇をかんだ母さんの顔が、すぐに影に入り見えなくなった。
 そのままタクシーは発車した。追いかけたかったけど、やめておいた。
 追いかけても止まってくれなかったら致命的だから……。足が動かなかった。
 あの時、父は部屋の窓から僕らを見下ろしていたんだろう。
 斜め上から見たぼくらは街灯の影が反対側に伸びていたはずだ。
 その影を満月は照らしていた。
 影が薄く消えていくように……。
 それは二人の愛の消え去り方にうりふたつだったのかもしれない。
 最初は愛しあって結婚して、そして子供ができる。うれしくてたまらなかっただ
ろうに。やがては気持ちが離れていく。
 子供が育つのと反比例して夫婦の愛情は消えていくものなんだろうか。
「きっとお父さんも悲しかったんだと思うよ。でもどうする事も出来ないんだよ」
 矢野のそんな言葉は、今までの僕なら反発するだけだったと思う。
 でも今はそうであって欲しいと願っていた。

「おーい。やっと追いついたよ。まだ月でてるかなあ」
 下の方で和雄の声がした。
 息を切らしながら走って上ってくる。
「おれ、ここにくる途中一句出来たんだよ」
 展望台まで登ってきた和雄は、かがんで息を整える。そしておもむろに顔を上げ
て言った。
「こういうの。暗闇は、光がないから、影もない。どうかな」
 うふふと矢野が笑った。僕もおかしくてたまらなくなってきた。
 海の方を見ると真ん丸い黄色の円形がゆっくりと海に接触する所だった。
 下の方からつぶれていく。海に写る月と合体して、一つになる。
 上はくっきりとした半円で、下半分は歪んで、まるで海に融けていくようだった。
「やっぱり満月も海に沈むんだな」
 和雄がぽつんと言った。
「頭でわかってても、本当かどうかなんて実際に見てみないとわかんないよね」
 矢野の言いたいことはなんとなくわかった。
「今日はいろいろあったからな」
 僕は和雄を横目で見ながら言った。
「明日からも、あさってからもたくさんいろんなことがあるわよ。あたし達はまだ
若いんだから」
「そうだよな!」
 矢野に返事をする僕と和雄の声が微妙にずれながら重なる。
 月が海の中に沈みきると、とたんに周囲が暗くなり星々の光が強くなった。
 東の山々はまだ闇の中に沈んでいる。
 夜は続いていた。

 朝はまだ来ない。

                          海に融ける月   了

 

PDF版