海に沈む月


 いつものように無言の夕食だった。テレビのバラエティ番組だけがつまらない笑
い声とやる気のない拍手でダイニングキッチンを占拠していた。
 父は350CCのカンビールを一本、コップに自分で注ぎながら飲んでいる。
 夕食は、父が仕事帰りに買って来たほかほか弁当だった。

「ごちそう様。父さんはパソコンやってるから、いつものように食べたら流しに浸
けてけておいてくれよ」
 父が立ち上がり、肩こりの首を回しながら席を離れたので、食卓には僕一人にな
った。うつろなテレビの声が響く中でただ一人、僕は黙々と魚フライを咀嚼した。
 両親が離婚して3ヶ月。
 夕食時はずっとこんな感じだった。
 離婚の原因は父の浮気だ。父も引け目があるんだろう、僕の怒りを十分承知して
いて無理に話をしようとはしない。
 3人暮らしだったマンションから母だけが出て行き、僕と父は暗い部屋で惰性の
毎日を送っている。
 この状況が変化するのは父が再婚した時だろう。
 どう変化するのか、予想も出来ない。僕は荒れ狂って非行に走るのか、それとも
黙って家出するのか。僕にとっては今のところ選択肢はその二つだった。
 新しい母と、おとなしく一緒に暮らす事は考えられなかった。

 隣の部屋に置いてある電話の着信音が鳴りだしたのは、すでに僕が食器を流しに
片付けた後だ。
 どうせ父の病院から呼び出しの電話だろう。僕は電話が鳴るに任せて、知らん振
りしてテレビに見入っていた。

「おい、智樹、電話だぞ」
 父がコードレス電話の子機を持ってやってきた。
 眼をあわすこともなく僕はそのプラスティックの塊を受け取った。
 今ごろ誰だろう。

「よお、智樹、もう飯食ったか?」
 声の主は近所に住んでる親友の和雄だった。
「なんだよ、今ごろ」
 僕は不機嫌な声で言った。いつも今の時間は不機嫌だった。父と二人きりの夕食
時は……。
「いやあ、こんな時間に悪いんだけど、今日の宿題なんだったかなーと思って」
 能天気な和雄の声がやけに大きく受話器から聞こえてくる。
「宿題やっていく気があるんだ。まじめだなあ、いつになく。宿題は中秋の名月を
見て俳句を一つ作ってくること、だっただろ、ちゃんとおぼえとけよ」
 そうだ、宿題があったんだった。俳句つくりなんてかったるい事だ。
「ああそうだった。それでさ、智樹、国語得意じゃん、俺のも一つ作ってくれない
かなあ」
「なんだよ、最初からそれが言いたかったんだろ、冗談じゃないって。自分の事は
自分でしなさい」
 僕は受話器の通話終了ボタンを押そうと、受話器を持ち替えた。
「ちょっとちょっと、切るなよ。まだ話があるんだから」
 しかたないなあ。再び受話器を耳に当てる。
「今どこにいるんだ?」
 和雄が聞いてきた。どこって? 家に決まってるじゃ、と言いかけて、和雄の意図
が理解できた。
「食卓だよ、オタクはベランダでお月見かい?」
「その通り。お前もベランダに出てみろよ」
 和雄はうちにもよく来るから、電話がコードレスだと言うのはわかっているのだ。
 僕はテレビのスイッチを切って、居間に行った。

 居間には誰もいない。父は自分の部屋できっとネットサーフィン中だ。
 窓を開けて狭いベランダに出てみた。
 真ん丸い月が田原山の上に、まるで『未知との遭遇』のUFOみたいに浮かん
でいた。きれいな月だ。黄色みをおびたその色は、ほんのちょっとでもハンマーで
叩けばこなごなになってしまう陶磁器のようだ。

「二人で俳句詠もうぜ、俺から行くぞ……ええと、物干しの 間に浮かぶ 丸い月 
こんなのどうかな」
 僕はこらえ切れずに暗いマンションの3階で笑い転げてしまった。
 近所迷惑な話だ。
「それって見たままじゃん。もう少し工夫しろよ。字数をあわせりゃいいってもん
じゃないでしょうが」
「駄目かなあ、狭いベランダで物干しの棒に邪魔されながら名月を見ている不憫な
情景がよく出てると思うけどなあ」
「それにしてもなあ」
「じゃあお前ならどう詠むんだ、お手本をどうぞ」
 和雄が挑戦状を叩きつけてきた。ううむ、どう切り返してやろう。
「わかった。月を見て 未知との遭遇 思い出す これでどうだ?」
 さっきまで沈んでいた気持ちが少しずつ晴れてきた。
 和雄の思いやりも感じるし……。
「俺のとどこが違うんだよ。下手なところは同じじゃないか」
「田原山ってちょっと角張っていて未知との遭遇の山に似てるだろ、その情報を
詠み込んだんだよ」
「まあいいけどさ。ところで話ってのはそんな事じゃなくてさ……」
 和雄がまた話題を変えた。

「おまえ、海に月が沈むところ見た事有るか?」
 実に唐突な質問だ。
「満月が海に沈むところ? いやあ、そう言えばないなあ。夕陽は写真でもよく見る
けど、満月が水平線に沈む映像ってあんまりないよね」
 記憶の中のもろもろを探りながら僕は答える。
「俺、月って海に沈まないのかもしれないなあって考えてたんだ」
 和雄は何を言いたいんだろう。太陽も月も西の海に沈むのはおんなじ筈じゃない
か。僕の気持ちを察したんだろう、慌てて和雄が付け足した。
「もちろん、物理的に西の海に沈むのはわかってるよ。でも、その映像があまりな
いって事は、月が沈む前に太陽が出てきて月が見えなくなってしまうんじゃないか
と思ったんだ。少なくとも日本では太陽と月の関係で満月が夜の海に沈んでいくの
は見えないんじゃないかってね」
 なるほど。それならわかる。
 確かに言われてみれば有りそうな事だ。
「それで?」
 先を促す僕に、和雄は少し間をおいて言った。
「今日は雲ひとつない天気だろ、満月が海に沈むところ、一緒に見に行こうぜ」
 なんと夜間外出のお誘いだった。
 夜中に出歩くなんて、父が許すはずがない。夜出歩くのは不良の始まりだって、
母もよく言っていた。でも僕は即座に返事をする。
「面白そうだな。行くよ。西向の海まで自転車で1時間くらいかな。でも、何時頃
出ればいいかな」
 月はまだ東の山の上だ。
「太陽が出てから沈むまでが12時間だろ、月はその半分くらいだから6時間とし
て今から5時間後くらいじゃないかな、沈むのが。と言う事は4時間後に家を出れ
ばいいってことだよ」
 すでに考えていたんだろう、和雄はすらすらと答えた。
 今は午後9時だから、出発は午前1時頃か。真夜中だ。
「真夜中にお前と二人でサイクリングか。ぞっとしないな」

 僕に答える和雄の言葉は意外な事実を告げてきた。
「実はもう一人同行者がいるんだ。矢野鮎子なんだけど、本当はあいつが言い出し
たことなんだ。海に沈む月が見たいって」
「あの優等生の矢野が? 夜間外出するって? 信じられないな」
「あいつん所もいろいろあるんだよ……じゃあまたあとで」
 用が済むとすぐに和雄は電話を切った。
 あいつん所も、と言う言葉で、やはり和雄は僕の事心配してくれてたんだとはっ
きりした。そして矢野にも。噂では矢野の家も最近両親が離婚しそうだということ
だった。
 全く最近の大人はどうしてこんなに簡単に離婚できるんだろうか。
 子供までいるというのに? 女性の就職率が増えて、男に頼らなくても生きていけ
るようになった事がその遠因のひとつなら、いっそのこと女性には仕事なんかさせ
なきゃいいんだ。子供の立場で言えば、お母さんはただお母さんであるだけで充分
なんだから。
 
 ひんやりとした外の空気をたっぷり吸い込んで、僕は部屋に入った。
 でも、去年まで小学生だったとはいえ男女が夜中に一緒に出歩くなんていいのだ
ろうか。良いわけないか……。

 僕は居間を通り過ぎて父の部屋に行ってみた。
 半開きの扉からのぞくと、父はパソコンで何やらテキストを打っていた。
 どうせまたつまんない小説でも書いてるのだ。
 父が手を止めて振り向いた。

「中秋の名月を見て俳句作るのが宿題だったんだけど、いいのが思いつかなくて…
…父さん何かない?」
 和雄との会話で僕は少し機嫌が良くなっていたのだ。父親を試してやれ、という
気持ちもあって聞いてみた。
 父は最初困ったような顔をしたけど、すぐに笑みを浮かべていった。
「俳句かあ。俳句は季語とかあって難しいんだよな。そうだな、ちょっと待って」
 父は目をつぶって考え込んでいる。
 そんなに深く考える事でもないだろうに。中学生の宿題なのだ。
 適当でいいんだ。息子相手にそんなに格好つけなくったって。
 そんな言葉がもう少しで出ようとしたとき、父が目を開けた。
 そしてすっと一息吸い込んで言った。

「――去る人の 影まで照らす お月様、こんなん出来ましたけど」
 父がふざけて笑った。父の笑い顔なんて久しぶりに見た。
 僕自身をほっとさせてくれる優しい笑顔だった。
「なにそれ。意味わかんないよ」
 でも僕は笑顔を返す事も無く、そっけなくそう言うと自分の部屋に帰った。




  2

 目覚ましのベルが、僕を浅い眠りの海からゆっくりと浮上させる。
 セットしていた時間の12時40分だ。予定通り僕はジーンズに着替え、足音
を立てないようにして自分の部屋を出る。父は既に寝ているみたいだった。
 トレーナーを着ていくかウインドブレーカーを羽織っていくか迷ったけど、汗を
かきそうだったから、長袖ティーシャツの上からウインドブレーカーを羽織ること
にした。マンションの自転車置き場から、街灯の少ない薄暗い道路にこぎでた。
 自転車に取り付けた懐中電灯の頼りない光で、暗い道がほんの少しだけ浮き上が
る。満月はもう西の山に半分隠れようとしている。
 思ったよりも沈むのは早いかもしれない。焦る事はないと思うけど、自転車をこ
ぐ力につい力が入る。
 和雄とは、この先の神社の鳥居のところで待ち合わせだった。そこに矢野も来て
るはずだ。
 着いてみると神社の石段に座り込んでいる人影は一人だった。
 言い出しっぺの矢野が来れなくなたのか?
 女はこれだからな。自転車を降りて近づく。

「矢野は無理だよ。あんな優等生が深夜外出なんて出来ないって」
 僕の言葉に帰ってきたのは、女の子の声だった。
「あたしの何が無理だってのよ、遅くなるの和雄クンの方よ。出掛けに見つかった
から遅くなるって、今電話あったわ。先に行っててくれれば必ず追いつくってさ」
 懐中電灯の明かりの中で矢野は口を尖らせて上目遣いに僕をにらんでいた。
 何てことだ。考えてもみないストーリーだった。
 今まで矢野の事を女の子だなんて意識した事なかったのに、深夜に誰もいない神
社の暗がりで二人きりだと、なんだかひどく居心地の悪さを感じてしまう。
「海に沈む月を見たいって、和雄に頼んだの?」
 何を話していいかわからなかったからか、どうでもいいような質問をしてしまっ
た。
「そうよ。聞いたんでしょ。それに、言っておくとあなたも誘おうって言ったのも
あたし」
「どうして僕まで?」
 僕が落ち込んでると思ったからかな。でも……
「あたし、智樹クンが好きだからかな……」
 僕があっけに取られて何も言えないでいると、矢野が立ち上がり、尻の砂を払っ
て言った。
「ボケっとしてたら、月沈んじゃうよ。行こう」
 矢野は自分の自転車にまたがり、滑らかにこぎ出した。
 矢野の自転車は21段変速機と、フロントサスペンション付きのかっこいいMT
Bだった。僕の安物とは違って、フィッシャーのブランド品だ。
 安くても10万は下らないだろう。矢野は案外自転車マニアなのかもしれない。
「いい自転車に乗ってるな」
 好きだなんていわれて、どう反応していいかわからない僕はとりあえずそんな事
を言ってみた。矢野は振り向いて不機嫌そうに言った。
「別に何でも良かったんだけど、その売り場にあった一番高いの買わせたの」
「買わせたって?」
「離婚する罰よ」
 なるほど、僕の部屋にあるパソコンと同じってわけだ。

 町の西側にある田原山を迂回するように続く国道を黙々と進む。
 でも、さっきのあれって、愛の告白だったんだろうか。随分そっけなくて投げや
りな告白だった。
 普通はもっと顔を赤くしたり、どもりながら言った後すぐに逃げていくなんて演
出が必要なはずだ。
 どう考えればいいんだろう。矢野のことは僕も嫌いじゃない。
 背が僕より少し高すぎるのが難点といえば難点だけど、すぐに僕が追い越すはず
だから大丈夫だ。顔もかわいいし頭もいい。彼女にするにはまあまあ良い方じゃな
いかな。

 自転車で並んで走ってるとはいえ、風の音やペダルの音が結構うるさくて大声で
しゃべらない限り話も出来ない。
 国道沿いには民家は少ないけど、真夜中の道で大声上げるのは気が引ける。
 でも話せないほうが今は好都合だった。

 山を迂回してきたから山の陰に入っていた満月が少しずつ見え始めた。
 和雄は追いついて来れるのだろうか。とにかく早く来て欲しい。
 二人きりだと、なんとも気まずい雰囲気だ。
 ゆるい左カーブを回るとコンビニエンスストアの明かりが見えてきた。
 そしてその駐車スペースには派手な改造を施した、いかにも暴走族が乗りそうな
バイクが三台止まっている。周囲に人影は無いけどまずい。
 見つかったらどうなるかわかったものじゃない。
 一瞬、引き返すかそのまま突っ切るか迷った。
 コンビニで買い物中の暴走族が今にも出てきそうな気がする。僕の前を走ってる
矢野はそんな事お構いなしに平然とペダルをこいでいる。
 僕だけ引き返す事はできない。仕方がない。
 僕は矢野を追い立てるように、微かに"急げ"と声をかけてスピードアップした。
 僕が何を思ってるのか、やっと矢野にも伝わったのか、急にこぐスピードを速め
た。コンビニの真横を通り過ぎる。いいぞ。このままこのまま。
 後ろで"ありがとうございました"と声が聞こえた。
 男の話し声が何か聞こえて、すぐにエンジンの爆音が響いてきた。
 道なりに左に曲がって、今度は右に曲がる。周囲は畑や倉庫がいくつかあるだけ
の見通しのいい場所だった。民家は見当たらない。
 後ろからバイクの音と、変なホーンのなる音が聞こえた。
 絶体絶命だ。背中が冷たい汗で濡れていた。
 バイクのライトがあっという間に近づいてきた。
 一台が僕たちの前に回り、道をふさぐように停車した。
 一瞬、脇をすり抜けようとした矢野が、別のバイクで止められた。
 駄目だ。捕まってしまった。


 3

「こんな夜中に仲良くデートかよ、中坊の分際で生意気だなあ」
 前に回った男がバイクから降りてきて言った。
 僕は頭の中が、かっと熱くなった。どうしていいかわからない。
「そこどいてください、通れないでしょ」
 随分強気な矢野の声が聞こえた。
 後ろの方の男達も降りてきて、僕の横に立った。全部で5人だった。
 近くで見ると高校生くらいに見える。背丈は皆180センチ近いし、がっしりし
た体型はとても肉弾戦で勝てそうな相手じゃない。
「気が強い女だなあ。自分の立場がわかってるのかい」
 坊主刈にしてる顎の張った男が言った。しゃべり方なんてとても高校生には思え
ない。テレビで見るやくざかチンピラのそれだった。
「今日はラッキーだったな。ピチピチの美少女をみんなで女にしてやろうぜ」
 すでに決まった事のように坊主刈が言った。他の四人もへらへら笑ってる。
 ほら、こっちに来いよ、と腕を引っ張られて、抵抗するまもなく矢野は自転車か
ら下ろされた。矢野の自転車が倒れて金属的な音が響いた。
 割れたライトの破片が遠い光を反射しながら僕の足元に飛んできた。
「いや、止めてよ変態」
 抵抗する矢野は、二人がかりで両脇をつかまれて引っ張っていかれた。
 道路わきの空き地にそのまま全員がずるずる移動する。

「お前は行っていいぜ。男に興味はないからな」
 坊主刈が僕の自転車の後輪を蹴っ飛ばした。
 バランス崩して倒れる自転車から飛び降りて、僕は思い切り向かっていった。
 勝てるかどうかなんてどうでも良かった。
 このまま矢野を連れて行かせることだけはどうしても止めないといけない。
 それだけ考えて、突っかかっていく。
 そんな僕の行動はけんか慣れした彼らはお見通しだったんだろう。
 不意をつくつもりがあっさり受け止められて、足をかけて転ばされた。

 おらおら、だらしないぜ。女を守りたいんだったら根性でかかってこんかい。
 ほら、もう一発お見舞いだ。
 僕は立ち上がるたびに柔道の技で地面に叩きつけられた。
 止めてよ。ひどいわよ。もう許してよ。
 矢野の声も彼らの罵声も僕の頭の中でぐるぐる回ってるようだった。
 身体がだるくてあちこち擦りむいた。関節も痛くてどうにも立てなくなってしま
う。
「こいつを許して欲しかったら、おまえ、此処で裸踊りしてみろよ」
 坊主刈が言ったのは僕にではなく、矢野に対してだった。
 矢野に裸踊りをやらせようとしてるのだ。
「わかった。何でもするから智樹クンを許してください」
 矢野は、僕と男達の間に立って、上着を脱ぎ捨てた。
 そしてジャージのズボンに手をかける。本気なんだ。
 やめろ。そんな奴の言う事なんか聞くな。
 僕のかすれた声は彼女の耳にも届かない。 
 もう駄目だ。
 ヒーロ−は現れない。和雄が来てくれればと思ったけど、仮に来たとしても5人
組にはかなわないだろう。
 さっき歯向かわずに逃げて助けを呼んだほうがましだったかもしれない。
 コンビニまで戻って助けを呼ぶのが正解だっただろう。
 でも、矢野を置いて逃げるなんて出来なかった。
 その方が矢野にとってもいい事だとわかっていても、矢野に卑怯だと思われるの
が、僕はいやだったのだ。
 彼女に意気地なしと思われるのが嫌だったばかりにせっかくのチャンスを無にし
てしまったのだ。そして僕は押さえつけられて、彼女が乱暴されるのを見守るしか
ない。悔しくて情けない。涙がぽろぽろこぼれる。
 自分のエゴイズムのために彼女までぼろぼろにされてしまう。

「智樹クン心配しないで、あたしこんなのなんとも思ってないから」
 矢野の声は無表情というか無感動な声だった。
 青白い満月の光の下で、矢野はブラジャーを外した。
 まだ成長段階の小さ目の乳房は、つばを飲む男たちの目の前にあらわになった。
 シミ一つない磁器のような滑らかな曲線だった。
 ぼくは見ちゃいけないと思っても視線を外す事が出来なかった。
 磁石に吸い付く鉄片のように彼女の胸に吸い寄せられた。
 下はジャージも脱いでパンツ一枚だ。
「ほら、最後の一枚ももったいぶらずに脱いでしまいな」
 僕を押さえつけてる一人を除いて、男達はニヤケ顔で彼女を取り囲んでる。

「ちょっと待って。裸になって踊ればいいのね。それ以上は何もしないでよ」
 矢野は釘をさすように言った。
 仮に約束を取り付けたとしてもそんなの意味の無い約束だろうに。
 この連中がそれだけで終わらせるなんて考えられないじゃないか。

「ああ。いいぜ。俺達も別に女に不自由はしてないんだしロリコンの趣味も無いぜ。
俺達を楽しませてくれたらそれだけで許してやるよ」
 今まで何もしゃべらなかった黒い皮ジャンの長い髪の男が言った。
 坊主刈は不服そうにぶつぶつつぶやいたがすぐに黙った。
 皮ジャンの男がリーダー格のようだった。
 フンとつぶやくと、矢野はパンツをあっけなく脱ぎ捨てた。
 股間に微かに生えた陰毛が、微かな風にふわりと浮き上がる様が眼に焼きついた。
 満月の青白い光を浴びて、濡れたような肌をした少女が両手をすっと上げた。
 爪先立ちになった彼女は、上から糸を引かれた操り人形のように見えた。
 バレエでも習ってるのか。
 矢野が動き始める。両手を交差させたり身体を回転させたり、全裸を恥じること
もなく脚を開いて身体を沈めたり、そんな滑らかな動きの中で、音の無い空間に静
かな音楽が生まれる。
 矢野の真剣な表情と、うっすら汗をかいた伸びやかな身体は、その場にいた男達
の顔に張り付いていた薄笑いの表情を拭い去り、口をぽかんと開かせる事になっ
た。僕も、脱力感と共に胸に込み上げて来るズキズキした感じを感じていた。


 4

「おまえって本当に強いな……」
 矢野と僕は暗い道で自転車を押していた。
 僕の自転車はさっきの乱闘でパンクしてしまったし、矢野の自転車はライトが壊
れている。
 和雄はまだ追いつかないし、さっきの事で海に沈む月を見るという目的も、なん
だかどうでも良くなってきた。
「あたしのわがままだからね。元はと言えば……。むしろ智樹クンに嫌な想いさせ
て悪かったって思ってるくらい」
 暴走族の連中は、意外な事に、あの後約束通り僕らを解放してくれた。
 最初はその言葉の中にもあったし、絶対矢野に乱暴するつもりだったはずだ。
 僕はそれを感じたから必死であいつらにかかっていったんだ。
 なんだか自分が馬鹿な道化のように思えてきた。
 それなのに矢野は僕に謝るのだ。おかしな奴だ。
 
「ところであたしの裸どうだった?」
 矢野は悪戯っぽく僕を見て笑った。
 とたんに僕は恥ずかしくなって顔に血が上ってくる。多分今真っ赤になってる。
「どうって、何が」
 やっとそれだけ言った。
「きれいだった?」
 矢野は僕を覗き込む。どうでもいいじゃないか、しつこいなあ。
「あんまり見てなかったけど……きれいだったよ」
 僕は矢野の顔を見ないようにして言った。
「よかった。不細工だったらどうしようって思ってたの」
「すごくきれいだった。……自分が情けなくなるくらい」
「最後の言葉は余計だよ。智樹クンも必死で戦ってくれたじゃない。下手したら殴
り殺されかねないのに、だからあたしも恥ずかしいの我慢して精一杯踊ったんだか
ら」

「矢野の家も、両親危ないのか? 俺の所は三カ月前に離婚したけど……」
 僕は何とか話題を変えようとしてそんなことを言ってしまった。
 言った後でまずいと思ったのは、その瞬間彼女の顔から笑みが消え、一気に表情
が沈んでしまったから。なんて馬鹿なんだ僕は。

「あたしは早いとこ別れてほしいよ。あんな父親大嫌いだから」
 矢野は吐き捨てるように言った。
 矢野の目が僕を見た。父親を嫌いな理由を僕に聞いてほしそうだったけど、僕は
黙っていた。

「智樹クンはお父さんと住んでるんだよね。やっぱり男の子はお父さんのほうが好
きなのかな」
 僕としては、この話題はもうやめたかったけど矢野はまだ続けるつもりのようだ。

「好き嫌いは関係ないよ。経済的な理由かな。どっちかって言えば母親のほうにつ
いていきたかった。なんと言っても別れた原因は父親の浮気なんだから」
「そうなんだ……。どうして男って浮気するのかしらね。智樹クンの所もあたしの
ところも恋愛結婚なのに……愛しあって結婚したはずなのにね」
「じゃあ矢野のところもお父さんの浮気が原因なのか?」
「浮気くらいなら……いやだけど、憎むほどじゃないと思う」
「浮気くらいって、じゃあなんなんだよ」
 少しむっときたけど、さっきのことで僕は彼女に対して弱い立場にいたから、そ
れだけしか言えなかった。
「男は結婚していようがいまいが、女を好きになるもんでしょ。仕方ないことだと
思う」
 ずいぶん物分りのいい子だな。浮気容認論者なのかな?

「あたしの父親は、普段はおとなしくてやさしい人だったけど、お酒が入ると狂っ
たみたいに人が変わるやつだったの。たいした理由も無くお母さんを殴るところを
何度も見てきたわ」
「暴力夫だったのか」
「あれは酒乱よ。酔いが覚めたら必死で母さんに謝ってたもの。別れないでくれっ
て」
「でもとうとう堪忍袋の緒が切れたってわけ?」
「単純じゃないんだけどね。あたしも何度か殴られたりしてたけど、そのくらいじ
ゃ憎むことも無かったと思う」

 そのくらいって、たいした理由も無く殴る父親に対して言う言葉かな。
 憎しみを覚えるには十分な理由だと思うけど。
 しばらくは黙って歩いた。
 矢野の言葉は中途半端で途切れていた。僕は続きが気になったけど、黙っていた。
 ふうっと息をはいて、決心したように矢野が言い出した。

「殴られたりするくらいならあたしはお父さんを許せると思うの。嫌いにはなるけ
ど憎まないと思う。でも、あいつ……中学になるくらいからあたしを変な目で見る
ようになったの。あたしがお風呂に入ってるときに間違えた振りをして入って来た
りして。ニヤニヤしながらおまえも大人に近づいたなあって……」
 なるほど。自分の親から変な目で見られることは、確かに殴られるよりショック
かもしれない。男にはわからない悩みだ。

「ある夜とうとうあたしのベッドに忍んできたの。母さんはお友達との忘年会で遅
くなる日だった。パンツ一つになったあいつは、布団を剥ぎ取るとあたしの両手を
押さえつけて、片方の手をあたしのシャツの中に入れてきた」
 僕はしゃべるのを止めさせたかったが、彼女の迫力に押されて、何も言えずにい
た。

「おまえまだ生理は無いんだろう、って言いながら、あいつはあたしの胸をもんで、
そしてパンツに手をかけてきた。あたしは必死で抵抗したけど、怖くて声も出せな
かった。嫌いな時もあったけど、普段はやさしいから本当は好きだったんだ。でも、
それなのに……」
 夜中の国道に矢野の声だけが聞こえていた。

 僕は彼女の話を聞きたくなかった。親にレイプされた話なんて、あまりに暗すぎ
る。どうコメントしていいかわからない。彼女を見る目も変わってくるかもしれな
いし、そうなったら自分自身が自己嫌悪でいやになるだろう。
 知らない方がいいことが世の中にはたくさんあるんじゃないだろうか、僕のそん
な想像の中、彼女の話は終わった。

 矢野が僕を見つめているのがわかっていたけど、僕は目を上げれないで、ただう
つむいて歩いた。自転車の油の切れたギヤが、かすかに、でも規則正しく僕らの歩
く速度にあわせてキーキーないていた。

「智樹君、お父さんの浮気相手に会ったことある?」
 唐突な質問だった。
 さっきから僕が黙り込んでいたから、矢野は暗い雰囲気を何とかしたかったんだ
ろう。

「実はあるよ。2年前だったかな。父さんにバトミントンに連れて行かれて、職場
の人たちと、楽しんだんだけど、そこで会ったんだ。バトミントンのうまい人だっ
たな。父さんはコテンパンにやられてた。おでこに汗を光らせて、僕に笑いかけた
あの人は、そのときは凄くきれいだと思った」
 歩く速度がとたんにゆっくりになる。

 もう海に沈む月が見たいという気持ちは砂浜に落ちた水滴みたいにしぼんでいっ
た。

「始めに好感持ってしまったから、裏切られた気持ちが強かったんだね」
「そうだよ。その人が父さんの浮気相手、というか不倫相手だってわかった2度目
のとき、泥棒猫って言ってやった。あの人、最初ぽかんとしてたけど、すぐに口が
ゆがんで、涙流してた。泣くくらいなら父さんを盗むんじゃないよ」

「それってちょっとひどい。どんな状況でも男女が愛し合うのは正しいって何かの
本で読んだよ」
 てっきり賞賛の言葉を聞けるものと思っていた僕は、矢野のきつい口調につい足
が止まってしまった。
 彼女はお構いなしに進んでいく。
 五メートルくらい離れた所で、気を取り直して彼女を追いかけた。
 すぐに横並びになった。

「結婚しててもしてなくても、人が人を好きになるのはどうしようもない事だと思
うよ」
 また矢野が言った。
「でも、人に迷惑かけるのはいけないことだろ。その人と父さんが愛しあってしま
ったら、母さんや俺はどうなるんだよ。無責任じゃないか」
 僕は最初のショックがさめると、矢野に反論した。
 矢野はこっちを見てさびしげに少し笑った。
「結婚してなくても、その人とお父さんが愛しあったら、悲しむ人がいる。という
こともあるでしょ」
「どういうこと?」
「あなたの父さんと母さんの恋愛だって、別な誰かを失恋に導いたかもしれないじ
ゃない。結婚したら恋愛してはいけないというのは、子供の養育を第一義に考える
宗教的な理想論だって書いてたわ」
「本の受け売りするのはいいけど、そんな本は男の都合ばかり書いて男受け狙った
だけだよ。現実的じゃないよ」
 矢野は少し黙った。
 自分が信じている思想をけなされてむっときてるみたいだ。

「人を憎んだ事の無い人には……どんな状況でも愛しあう事が尊いという事はわか
らないのよ」
 矢野の捨て台詞だ。
 そう決め付けられると僕も二の句がつげなくなってしまう。


 5

 矢野との言い合いに夢中になっていたせいだろう、派手な赤色灯を屋根に取り付
けたその車が対抗車線に止まってるのにまったく気づかなかった。
 ドアが開いて二人の警官がするりと出てきた。
 二十メートルの距離はすぐに縮まった。
 
「君たち。こんな夜中に何してるのかな。ちょっとこっちに来なさい」
 背の高い警官だった
 彼は彫りの深い顔立ちで、不気味な笑みを浮かべていた。
 もう一人の警官が、矢野の横に立っている。
 そっちは少し太っていて、年齢も上のようだった。
 これで終わりだ。
 海に沈む月を見るどころじゃない。補導されて前科一犯の不良少女と不良少年の
できあがり。明日には校長先生に呼ばれてきついお説教が待ってるだろう。
 自転車のスタンドを出してとめると、僕は促されるままパトカーの後部座席に乗り込ん
だ。矢野はまだ外だ。
 逃げようという気も起きなかった。

 きゃっ何するの!
 矢野の叫び声が聞こえた。なんだ? 僕はドアを開けて出ようとしたが、隣りの警
官に制止された。
「なんでもない。身体検査してるだけさ。シンナーなんかを持ってないかどうか調
べてるんだ」
 警官はそう言いながら、肩を組むように僕の首に手を回してきた。
 なれなれしい人だなんて思ったけど、それはとんでもない間違いだった。
 彼は僕の首に回した腕に力をこめると、後頭部を押して絞めてきたのだ。
 柔道の絞め技だった。
 息苦しくはない。ただ血管が絞めつけられて、あっという間に意識が朦朧となっ
た。ひょっとして偽せ警官だったのか?
 薄れていく意識の中で僕はそう思っていた。


 ヒャラリラヒャラリラという暴走族独特のホーンの音が耳に入ってきた。
 止めてよ変態!という矢野の声も聞こえる。
 エンジンをふかす爆音。怒声。
 ふらつく体を起こして車の外を見ると、花火のようなバイクのライトがまぶしく
交差していた。さっきまで僕の横に居た警官は居ない。
 僕はよろけながらパトカーを出た。
 二人の警官ともみ合ってるのは、さっき僕らに絡んできた暴走族の5人組だった。
 状況がわからない。何がどうなってるんだ?
 僕を何度も投げ飛ばした坊主狩りが、今度は逆に警官に殴られてアスファルトに
倒れふした。一瞬力を抜いた坊主狩りに油断した警官が足に抱きつかれて、ひっく
り返る。

「早く逃げろ!」
 確かリーダーだった皮ジャンの男が僕に叫んでいた。ついさっき僕に険しい視線
をよこしたその顔が必死の形相で大声張り上げている。
 僕が憎しみを思い切りたたきつけた彼らに、僕らは助けられたのだろうか。
「行きましょ」
 矢野は半裸の状態だ。白い片方の乳房が破れたシャツからはみ出ていた。
「いったいこれは何なんだ?」
 ふらつく僕の手を矢野は強引に引っ張った。
「変態警察よ、偽警官かもしれないけど。暴走族の人が助けてくれたの。急いで」
 
「貴様ら公務執行妨害で逮捕する!」
 族の一人、坊主刈が、そう叫ぶ警官の警棒で頭を殴られて血しぶきを上げていた。
「うるせえこの野郎」
 皮ジャンがその警官に後ろから蹴りを浴びせる。
 パトカーのフロントガラスがさらに粉々に割れて、破片が宝石のように光を乱反
射しながら飛び散った。金属バットがパトカーに叩きつけられていた。
 皮ジャンに殴られた年配の警官が、手にもっていた無線機を落とす。
 その無線機は族の一人に踏みつけられ、潰された。
 若い警官が悲鳴をあげながら逃げ惑う
 
 僕はまだ訳がわからなかったけど、手を引く矢野に合わせて、その場を後にした。
 倒れた自転車を引き起こし、パンクしてるのもかまわず下り道を駆け下りる。 
 山陰から現れた満月が前を走る矢野を照らし、矢野のシルエットがはっきり見え
た。まだ月は沈みきってなかったのだ。

「ここに自転車置いて、あそこの展望所までいこう」
 矢野は胸を隠しながら振り向いて言った。執念だな。こうなったら何が何でも海
に沈む月を見てやる、そう僕も思った。
 僕は矢野の言うとおりに自転車を止めると、細長く伸びている階段を二人で並ん
で展望所まで上り始めた。
 上りながらさっきの出来事を矢野は解説してくれた。
 
 僕が警官に気絶させられた後の出来事だ。
 太った警官が身体検査をするから、両手を上げろといってきた。
 矢野は仕方なく言われたとおりにする。
 後ろに立った警官がいきなり矢野の胸をつかんだ。

「結構発育してるなあ。もう生理は来たのかい」
 矢野はとっさにしゃがんでそのいやらしい手を逃れる。
「何するのよ変態」
 叫ぶ彼女。
「ふざけんな!不良の分際で。こんな夜中にガキ同士でデートかい。おじさんがも
っと気持ちいいこと教えてやるぜ」
 抱きつく警官の腕で矢野の服がちぎれる。
 興奮した警官は矢野の首を絞めて気絶させようとする。
 どうにもならない。肘を絡ませて首を絞めながら、警官は別の手を矢野のパンツ
に差し込もうとする。
 吐き気がして冷や汗が出て、もう駄目だと絶望感がこみ上げてくる。
 警官の酒臭い息。膝ががくがくしてくる。
 矢野の絶望感が頂点に達しようとした時、正義の味方が現れた。
 軽薄なホーンを鳴らしながら……。
 彼らは瞬間的に矢野の窮地を理解すると、持っていた金属バットをパトカーのフ
ロントガラスに叩きつけた。
 5人の暴走族は僕らを助けるために、彼らの天敵である警官に向かっていったの
だ。
 


 6


「そうだ。あの暴走族たちは大丈夫かな」
 薄暗い階段を上りながら矢野はポツリとつぶやいた。
「5対2なら負けないだろ。もう逃げてるんじゃないかな」
 あの変態警察官が懲らしめられる所が見れないのが残念だ。
「でも、あんなに憎らしく思っていた暴走族に助けられるなんて、なんだか複雑な
気持ちだわ」
「本当だ。何が善で何が悪かこんがらがりそうだ」
「信じていたのに裏切られて、思わぬところから助けられるのね」
 一歩一歩展望台が近づいてくる。青白い月の光に照らされたその場所は、下界か
ら見上げた天上の楽園みたいに見える。

 そのとき矢野が持っていた携帯電話の着信音がなった。
 なんだか忘れたけど古い映画音楽のようだった。
 
「風邪と共にさりぬ、よ」
 僕の疑問を見越したのか、彼女はそう言うと電話を取った。
 電話は和雄からのようだった。
 しばらく相槌を打ちながら話した後、今いる場所を教えて、矢野は電話を切った。
「炎上してる車の横を、今通りすぎったって。もうすぐくるみたいよ」
 クスクス笑う矢野の神経は普通じゃなかったんだろう。
 僕もそうだった。
 普通なら大事件だとうろたえる所だけど、今の僕らにはすがすがしい出来事のよ
うに思えていた。
 
 やっと展望台についた。
 目の前に、暗い海とその上に浮かぶ黄色い満月がくっきりと見えている。
 あんな大きな岩が浮かんでるのが、不思議な映像として僕の目に焼き付いてくる。
「あんな所に、あたし達の影があるよ」
 矢野の指差す方を見ると、二人の影が階段のはるか下まで伸びてるのが見えた。

 去る人の、影まで照らす、お月様……か。
 数時間前に父から聞かされた俳句が意味もなく口から出た。
「なにそれ」
 矢野がすかさず聞いてくる。
 僕が説明すると、矢野はしばらく目を閉じていた。
 そしてゆっくり言った。
「お母さんが出て行った夜も、きっと満月だったんだね」
 ため息混じりに出てきたその言葉で、やっと僕にもその句の情景が見えてきた。

 母が出て行った夜は確かに満月だった。
 街灯に照らされた母の顔を僕は見つめていた。
 マンションの前の道路で、時折行き交う車のライトが交差する。
「別に死に別れするわけじゃないんだから、会いたくなったらいつでも会えるんだ
からね」
 母は元気な声で言った。ほっぺが引きつってると思ったけど、よく見たら笑って
るようだった。それまでずっと父と喧嘩ばかりしてわめいていたのに、その日の母
は久しぶりの笑顔を僕に見せてくれていた。
「父さんなんか嫌いだよ。僕はついていきたいよ」
 声が震えてうまくいえなかったけど、なんとかそれだけは伝えられた。
「父さんの浮気はよくないけど、それだけでもないのよ。今は母さんも悪かったと
思うのよ」
 僕には母のその言葉は信じられなかった。
 一方的に父が悪いに決まってるから。
 タクシーはマンションの車止めに入ってきた。
 母さんがボストンバッグを持ち上げる。
「じゃあね。たまに電話するわ。離婚しても母さんは母さんだから。智樹の母親で
ある事には変わりはないんだからね。父さんと仲良くしてね」
 タクシーに向かいながら母さんはつぶやく。
「もう父さんを愛してないの」
 タクシーのドアを開けようとしたその手は、僕の叫ぶような問いかけに一瞬止ま
った。
 でもすぐにドアを開けて、母さんは乗り込んだ。
 唇をかんだ母さんの顔が、すぐに影に入り見えなくなった。

 そのままタクシーは発車した。追いかけたかったけど、安物のテレビドラマみた
いに思えて、おかしくなったから止めておいた。

 あの時、父は部屋の窓から僕らを見下ろしていたんだ。
 斜め上から見おろしたぼくらの影は街灯の反対側にうっすらと伸びていたのだろう。
 その影を満月は照らしていたのだ。
 そのせいで黒い影が薄くなって消えていくように見えたのかもしれない。
 二人の愛の消え去り方にそっくりだったのかも・・・・・・。

 最初は愛しあって結婚して、そして子供ができる。うれしくてたまらなかっただ
ろうに、やがてはどちらからともなく気持ちが離れていく。
 子供が育つのと反比例して夫婦の愛情は消えていくものなんだろうか。

「きっとお父さんも悲しかったんだと思うよ。でもどうする事も出来ないんだよ」
 矢野のそんな言葉は、今までの僕なら反発するだけだっただろう。
 でも今はそうであってほしいと願っていた。
 
「おーい。やっと追いついたよ。まだ月でてるかなあ」
 下の方で和雄の声がした。
 息を切らしながら和雄は走って上ってくる。
「おれ、ここにくる途中一句出来たんだよ」
 展望台まで登ってきた和雄は、かがんで息を整える。そしておもむろに顔を上げ
て言った。
「こういうの。暗闇は、光がないから、影もない。どうかな」

 うふふと矢野が笑った。
 僕もおかしくてたまらなくなってきた。
 海を見ると、真ん丸い黄色の円形がゆっくりと海面に接触する所だった。
 下のほうからつぶれていく。海に写る月と合体して、一つになる。

「やっぱり満月も海に沈むんだな」
 和雄がぽつんと言った。
「頭でわかってても、本当かどうかなんて見てみないとわかんないよね」
 矢野の言いたいことはなんとなくわかった。
「今日はいろいろあったからな」
 僕は和雄を横目で見て言った。
「明日からも、あさってからもたくさんいろんなことがあるわよ。あたし達はまだ
若いんだから」
 矢野の笑顔は実はとても意外だった。今日起こった出来事を考えると、とてもそ
んなに無邪気に笑えるなんて信じられない。
 でも和雄には僕の気持ちはわからないはずだった。 
 その和雄と同じせりふが次の瞬間僕の口からも飛び出した。

「そうだよな!」
 僕と和雄の声が微妙にずれながら重なる。
 そして月が海の中に沈みきると、とたんに周囲が暗くなり星々の光が強くなった。
 東の山々はまだ闇の中に沈んでいる。

 夜はまだ続いていた。朝はまだ来ない。






                         海に沈む月 おわり
放射朗