種は飛んでゆく
放射朗
 風ともいえない空気の塊がゆっくり動き、綿毛に包まれたタンポポの種をいくつか舞い上げた。
 種はすぐに緩やかな上昇気流に乗って高く上っていった。
 道路わきに倒れたジロの目に、それがぼんやり映っていた。
 街路樹の横に、おまけのように咲いていたタンポポ。斜めになった太陽の光で、小さなタンポポ
の影も路上に伸びている。

 ジロは立ち上がろうともがいた。爪がアスファルトの上をすべる。
 後ろ足が利かない。前足だけで何とか起き上がろうとするが、すぐにバランスを崩してひっくり
返ってしまう。
 
「あ。お母さんワンワンが車にひかれてるよ」
 通りがかった園児が母親の袖を引っ張って言った。
「本当だね。可哀想にね。どこの犬かしら。ひろくんもよそ見して歩いてたらあんな風に轢かれて
しまうからね、気をつけないとね」
 目をそむけて園児の手を引く母親の足取りがはやくなる。

「お医者さん呼ばないと、死んじゃうよ」
 園児は泣きそうな声で訴える。
 腰を落として手を引く母親に抵抗する。

「いいから早く来なさい。犬は救急車には乗れないのよ」
 母親は無理やり引っ張るが、園児は強硬だ。

「しょうがないわね。おうちに着いたら電話で救急車呼んであげようね」
 母親の言葉にやっと園児は納得し、落としていた腰を持ち上げた。
 そうと決まったら、一刻も早く家に帰ろうと母親の前を小走りに進んでいく。


 カーブを曲がって一台の車が近づいてきた。
 ドライバーがジロを発見して慌ててブレーキを踏む。
 タイヤと路面の擦れ合うヒステリックな音があたりに撒き散らされる。
 何とかブレーキは間に合って、車はジロの横ぎりぎりを通り過ぎていく。

 このままここに居たらまた別の車にはねられてしまう。
 ジロは何度目かの試みで、何とか上体を起こす事に成功した。
 前足だけで身体を引きずるようにして目的地を目指す。
 目的地が近いことはジロにもわかっている。
 あそこの曲がり角を右に曲がったところから、ほんの100歩ほど歩いた所が以前住んでいた
家だ。
 
 内臓が傷ついたのだろう、逆流した血がジロの口からあふれ出た。
 その赤黒く生ぬるい鉄の味のするぬるぬるを吐き出した。
 塊と、いくつかのしぶきが飛び散る。
 アスファルトの上で匂いを発散しながら黒曜石のように光を放った粒は、しばらくすると熱い路
面の上の乾いた染みになった。

 新しい棲家はジロにとって快適だった。
 犬小屋の屋根は穴も開いてなかったし、風通しのいい南向きの場所だったから、じめじめした
湿気に悩まされる事もなさそうだった。
 でも、一番大事なものが欠けていた。
 一番仲良しだった女の子が居なくなっていたのだ。
 
 痙攣して歩きにくい後ろ足を引きずって進むのは難しい。
 何度か繰り返して血を吐きながら、やっと曲がり角までやってきた。
 曲がれば以前の家が見えてくる。
 ガードレールが視界をさえぎって邪魔だったが、隙間から見る事が出来た。
 オレンジ色の屋根の家だ。壁がクリーム色で、窓にかかったカーテンは水色で……。

「あ、あの茶色い犬。確かあそこの坂井先輩んちの犬じゃないかな」
 学校帰りだろう、二人組みの女子高生の一人が言った。

「本当だ。どうしたのかしら、車にはねられたのかしら」
 側に行きたいが、口から血と泡をふいて懸命に進む犬に恐れをなして近寄れないでいる。

「でも坂井先輩のとこ、こないだ引っ越したのよね。一人娘の坂井先輩が東京に行くからもう
少し狭くても便利のいいところにいくって……」

「坂井先輩って、東大に受かったのよね。いいなあ、あたしもそのくらい出来が良かったらなあ」

「でも困ったね。犬の場合救急車じゃないし。買主は引っ越したあとで、連絡先がわかんな
いし……。あ、そうだ。保健所よね、こんな時は。ケイタイ持ってる?」

 一歩一歩家が近づく。
 懐かしい棲家。
 女の子とよく遊んだ庭。ボールを追いかけた庭。サンダルをかじって怒られた時、雑草の陰に逃げ
込んだ庭だ。
 毎年ちょうど今ごろは抜け替わる毛を女の子にブラシですいてもらった。
 ジロの一番古い記憶の中では、ジロも子犬だったけど、あの子もよちよち歩きだった。

 その時から何度も寒い冬を越してきた。
 暑い夏の日には女の子に団扇で風を送ってもらった事もあった。
 口をあけて、だらしなく伸びた舌がその風にゆられていた。

 腹腔内出血で脳に行く血液が減ってきたジロは意識が混濁していく。
 すでに現実はわからなくなっている。どこに居て、何をしているのか。
 ただ、もう少しいけば、懐かしい棲家につくということだけが今のジロの意識にあった。
 
 後ろ足の痙攣が体全体に広がってくる。
 前足も震えて、とうとう前には進めなくなった。
 いったん動きが止まり、ゆっくりひきつけを起こしながら倒れこんだ。

 街路樹の横に、ここにもタンポポが生えていた。
 ジロの耳が震える。その耳は、もう何も音を聞いてはいない。
 ジロのぽっかり開いた口から血まみれになった舌が、だらりと垂れて路面にのびる。
 アスファルトの上の砂粒の味も、もうわからない。

「ジロ。早くおいで」
 一番聞きたかったその声は結局聞けなかった。

 風が強く吹いて、綿毛をたくさんつけたタンポポの種とジロの抜け毛を舞い上がらせた。
 高く上ってゆく種とジロの毛は絡み合い、どこへともなく飛ばされていった。





                               種は飛んでいく 終わり