はあ

 はあ

 はあ

 黄色い電球で照らされた冬の夜道は、両側が薄っぺらい板塀で囲まれて、狭い空間が
縦に長く続いていた。
 やけに走りにくい。立ち止まって足元を見ると、左足には妹のピンクの網サンダルを履き、
右足は父の大きな下駄を引っ掛けていた。走りにくいわけだ。

 息を整えて、再び走り出す。真っ白い息が後ろにたなびく。
 まるで自分が蒸気機関車にでもなった気分だ。
 交番の赤いランプはもうすぐそこだった。
 
 事の発端は一週間前にさかのぼる。
 飼い犬のジロを家の近くの川原で散歩させている時だった。
 枯れた雑草の茶色い茂みが所々に点在している。
 その茂みの一つが急にざわめきだした。
 なんだろうと近づいてみると、白い女性の裸体が目に飛び込んできた。
 
 ごめんなさい。と一言いって、僕はその場をいったん離れる。
 見てはいけない場面を見てしまったのかと思った。
 でも、すぐに変だと思い直した。女性は一人だったのだ。
 しかもなんだか苦しそうに動いていた。
 ひょっとしたら、何かの発作を起こしているのかもしれない。
 露出狂の女性が、興奮のあまり心臓発作でも起こしたのかも……。
 もしそうならこのまま立ち去るわけには行かない。
 若い女性の裸を見れることに半分期待感を持って、僕はその茂みに再び近づいた。

 「あのー。大丈夫ですか」
 僕の声は自分でもわかるくらい間抜けに聞こえた。
 枯草の擦れ合う音はもう聞こえなくなっていた。

 気絶してしまったのかもしれない。
 僕はその茂みを前かがみで覗き込んだ。
 そこには多分その人のものだろう、洋服や下着が乱雑に脱ぎ捨ててあった。
 最初見たときは全裸の女性に気を取られてそんな事は気付きもしなかった。
 僕の喉仏が大きく上下し、息が荒くなる。

 でも全裸の女性はそこには居なかった。
 僕は期待はずれの失望感より、異常な事態に遭遇してしまった居心地の悪さを
感じていた。

 女性が逃げる時間は無かったはずだ。
 その茂みの周りはだだっ広い川原で、そこ意外には近くに隠れる場所などない。

 ワンワンワン。
 ジロがやかましく吼えた。

 ジロの視線の先には、一匹の猫がきょとんとした表情でうずくまっていた。

 ちょうど女性がもがいていた場所だった。

 あの女性は猫に変身したのだろうか。
 そんな馬鹿なことがあるはずが無い。
 しかし、変身するところは見てないが、あの状況を素直に見れば、その
あり得ない事が起こったとしか考えられなかった。
 それとも何か抜け道があるのか?


 その二日後の学校の屋上。
 僕は親友の山崎と二人で居た。

「実はこの間、変な物を見ちゃったんだよね」
 僕は相談するというよりも、面白い話を聞かせてやるくらいの気持ちで切り
出した。
 彼が何か抜け道を発見するかもしれない。

「川原の茂みに裸の女が居た?それ絶対露出狂だよ。でもこんな寒いのにご
苦労さんだよな。ラッキーだったじゃん」
 山崎の言葉は僕が想像したとおりのものだった。

「それだけで済めばな」
 まだ続きがあったのかと、注目する山崎に僕は見たままを話した。

「気のせいだよ。猫が居たのは偶然で、女はびっくりして逃げた。それだけだって」
 逃げられる状況じゃなかった事も説明したが、彼は取り合ってくれなかった。
 まあ当然だろう。
 人間が猫に変身するなんて信じる人間がいるほうが変だ。

「おまえ、シンナーなんてやってないだろうな」
 最後は僕の人格を疑う発言だ。

「そんなことするわけ無いだろ。中学生じゃあるまいし」
 でも、考えてみれば、そっちのほうが信憑性が高いかもしれない。

 もちろん僕がシンナーを吸ってたことじゃなくて、あれが僕の幻覚だったって事。

 そんなことを考えている僕の目の前で、彼は急に頭を抱えて苦しみだした。

 おい、どうしたんだ。

 嫌な予感がした。
 茂みの中で苦しんでいた女性と像が重なったからだ。
 
 まるで映画のコンピュータグラフィックスを見ているみたいだった。
 彼の体が急に縮みだした。

 相対的に服がどんどん大きくなり彼の体を包み隠してしまう。
 呆然と見守る僕の前には、今まで山崎が着ていた服の中から飛び出して
きた一匹の猫がいた。

 これも幻覚なのだろうか。
 ひょっとして僕は知らない間に何かの毒ガスを吸わされて、死に瀕しているとか……。

 しかし僕の五感はこれが現実だと教えている。夢でもなく、幻でもなく。


 それから今日までの数日間、自分の正気を半ば疑い、半ば信じるどっちつかずの
日常を僕は過ごしてきた。

 人間が猫に変わる病気でも流行ってるんだろうか。
 テレビでも新聞でも別段変わったニュースは見当たらない。
 しかし、僕の周りでも一人また一人と、いなくなることが続いていた。
 そして、その事を今残っている人々はなんとなく気付いている印象だった。
 気づいているけど口に出すのはタブーだ、みたいなそんな雰囲気だった。

 口に出してしまえば、その時点からその人は正気じゃないと思われる。
 知らん振りしているのがいい。
 無言ではあったけどみんなのそんな気持がなんとなく伝わってきた。

 そしてついさっき。
 僕は両親と妹と四人で夕食を囲んでいた。
 近所の家の人は大概変身した後のようだった。
 その証拠に家の電気が灯っているのはこの界隈ではうちだけだ。
 周りの家の窓は真っ黒な四角い墨のようだ。

 テレビには何も映っていなかった。
 ザーという雑音がやけに耳障りだ。
 でもそれは僕の目にそう見えるだけかもしれない。

 みんなの目にはごく当たり前の日常がいつもどおりに続いているのかも……。
 町は明るい光に満ち溢れ、道行く人はお土産片手に愛する家族のもとに足早に
過ぎ去ってゆく。

 そうだったらどれほど良いだろう。
 僕の気が触れているだけだったら。

 でも不思議な事にこんな状況の中でも、食欲はあった。
 母が用意した食事はいつも通りにおいしかったし、妹ははしゃいでいた。
 そんな家族の団欒がいつまでも続いて欲しかった。
 他の家はともかく僕の家だけは残っていて欲しかった。

 最初に父が苦しみだし、次が妹だった。
 みんな僕を残して猫に変身してしまった。
 父は精悍な黒猫。
 母はきれいな三毛猫。
 妹は生意気そうな虎猫になってしまった。

 僕の中でスイッチがぱちんと音を立てた。
 もう我慢できなかった。
 大声をあげながら家を走り出る。
 狂ったように走り出した。

 暗い夜道を。
 交番の灯かりを求めて。

 交番に飛び込んでいくと、二人の警官がびっくりした顔で僕を見た。
 警官にはなんと言って説明したか憶えていない。

 引っかかりながら、初めから終わりまで説明するのに30分くらいかかって
しまった。

 若い方の警官が最初に笑い出した。
 年配の警官は僕の顔を心配そうに覗き込んでいた。

 きっとこの警官たちも僕の目の前で猫に変身してしまうのだ。
 僕を残してみんな猫に変わってしまうのだろう。

「こんな風には考えなかったかい?」
 若い方の警官が言った。
 何だか急に頭が痛くなってきた。
 頭の芯がづんと壊れるような感じ。

 でもそれは長くは続かない。すぐに感覚がなくなって意識がぼやけてきた。
 やっと僕の順番が回ってきたのだ。
 多分僕はこの二人の警官の前で、猫に変身するのだ。
 僕の話を信じなかった二人の前で変身する事に、少し快感を覚えた。

 ざまあみろ。
 今度うろたえるのはそっちだよって。
 少しずつ身体の中身が変わっていく感じは、むしろ心地いいものだった。

 病気だった身体が治っていくみたいな感じだ。
 若い警官の言葉が妙に間延びして聞こえる。

「人間が猫に変わることがあるなら、猫が人間に変わることがあってもおかしくない
筈だろ」
 僕は朦朧となる頭で彼のその言葉を一生懸命考えた。

 僕の身体はどんどん縮みだし、服が重くのしかかる。
 巨大な布切れの中でもがいている僕を、年配の警官が優しく助け出してくれた。

「じゃあ、おまえ達は猫なのか?」
 僕はそう言ったつもりだったけど、その言葉は僕の耳にも猫の鳴き声にしか聞こえ
なかった。

 でも彼らは僕の言葉を理解した。

「猫じゃないさ。今は……」
 若い警官はにやりと笑った。

「…人間さ」

 年配の方が続けて話し出した。

「人間には任せておけなくなったんだよ。核戦争の危機に環境破壊。この地球
は人間だけの物じゃないだろ。まあ、そんなわけで君達はもう交代なんだ。
今度から我々が人間になる事になったのさ」
 

 冬の夜道に僕は放り出された。
 やけに軽く感じる身体で来た道を帰り始める。
 どこにも帰るあては無いけど。

 不思議と絶望感は無かった。
 みんなと同じになれた事で少しほっとした気持ちだった。

 目の前にあるブロック塀に飛び乗った。
 感覚的には10メートルくらいのビルに飛び乗った感じだ。
 頭では無理と思っても、身体が楽に飛べると教えてくれた。

 塀の上を歩く。
 向こうに一匹の猫がいるのが見えた。その猫は塀の上を急ぎ足で寄って来た。
 山崎だ。僕にはすぐにわかった。

「やっと来たか。遅かったな。待ちくたびれたぜ」
 彼は言った。もちろん言葉を発したわけじゃない。顔つきと、身体の動かし方で彼の
意思は伝わってきた。

 塀の下に目をやると、3匹の猫達がいた。僕の家族だった。
 仲間がいるのなら猫になるのも悪くないな。

 僕は気が楽になった。
 暗いと思っていた夜道は、朝になったのかと思うくらいに明るかった。

 あちらこちらで家々の電気が、一つまた一つと灯り始めていたし……。

 それに、僕の目はもう人間の目じゃなくなっていたから。




                       すべての猫の幸福な夜 終わり



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放射朗