山頂のメリーゴーランド
放射朗


 僕らの目の前には、光り輝く赤や黄色の色とりどりのランプに飾られた、メリー
ゴーランドが華やかな音楽とともに回転していた。山上の透き通った冷たい空気の
中、その光景はとてもこの世の物とは思えなかった。
 回転木馬は波に揺れる浮き輪のようにゆっくり上がり下がりしながら滑るように
まわっている。
 僕らを誘うように……。僕らに笑いかけるように……。


 たぶん住所としては中津江村と上津江村の間あたりになるはずだ。
 何の住所かというと、今向かってる神社の所在地のことだ。
 深海に沈んで朽ち果てた船のように僕の横で亜由美は軽い寝息を立てているが、
疲れたのはわかるし、起こしても話すことは特に無いから僕は彼女をそのままにし
ておいた。彼女に聞いても僕以上にはっきり憶えてるとは思えない。
 亜由美の微かな寝息を聞きながら、僕は谷沿いの山道をライトを上向にしたまま
車を走らせている。対向車は全くこなかった。
 深い谷底の道だから、日が暮れてしまえば周囲はたちまち闇の中になり、車の照
らすライトの他は何もない虚空の宇宙だった。
 本当はもっと早い時間に目的地にたどりつく筈だったのだが、それがこの時間に
なったのは、高速道路の事故渋滞が原因だ。もっとも、福岡を出てくる時間も午後
の3時を過ぎていたからさほど余計に時間がかかったというわけではないが。
 でも、そのおかげで初めてその神社に行った時と、道のり的にも、時間的にも近
くなっていた。

 亜由美とは出会って3年が過ぎ、燃え上がるような恋もすでに下火になり、今は
鎮火寸前になっている。亜由美は恋愛イコール結婚という考えで、まだ22にし
かならないのに、僕にずっとプレッシャーをかけてくれていた。
 僕の方はというと、25歳という若さで身を固めてしまうのはちょっと考えたく
ないし、もうしばらく一人でいたいと思っている。
 亜由美には特に不満も無い、というより僕にとっては最高の相手かもしれなかっ
た。ただ、付き合いが長くなるにつれ、欠点の無いのが気詰まりになり出した。
 学歴的にも僕より彼女は上だったから、彼女の知らない事を教えてやる楽しみも
無かったし、むしろ僕はコンプレックスを感じるくらいだった。
 最初の頃は何とか学力でも同等の物を身につけたいと、埃をかぶった数学の参考
書などを取り出してきて勉強してみたりしたけど、すでに社会人になって何年もた
ってるのだ。現役時代でもわからなかったことが、記憶力の弱くなった今理解でき
るわけが無かった。
 もちろん彼女はそんな事気にしないし、鼻にかけるなんて全然なかったことだけ
ど、たまに僕の得意分野(たとえばパソコンとか)で僕から教えられたりすると、
露骨に機嫌が悪くなるのだった。僕なんかに教えてもらうのはプライドが許さない
みたいな感じだ。
 そんなわけで、僕たちというか、僕の気持ちは最初の炎が静まってくるに従って
どんどん冷たく冷めていき、それとともに二人の会話も話がすれ違いぎみになり、
そしてとうとう修復不可能な場所まで来てしまったのだ。
 たぶん今回が二人で行く最後のドライブになるはずだ。

 福岡から高速道路を鳥栖まで走り、そこから大分自動車道路に入る。
 本当ならこの高速を日田まで走ってそこから国道212号線を南下するのが一番
早いのだが、運悪く事故渋滞が発生していたのでその手前の杷木でおりて、浮羽町
に入り、星野村経由で矢部村に入った。
 矢部村から谷沿いの国道442号線を東に走って30分ほど行ったところが中津
江村だ。
 
 
 今日のドライブはあらかじめ予定していたものではない。別れ話をするために今日
二人で会って、僕はそのままサヨナラするつもりだった。
 最初は別れたくないと言っていたが、僕のコンプレックスの話とか、僕の中で亜
由美への愛情が消えつつあることを冷静に話してやると、案外亜由美も落ち着いて
受け止めてくれた。
 でも、亜由美は思い出してしまった。 
 2年前の初夏に行ったドライブでのことだった。まだ恋愛真っ最中の二人は道に
迷うのも楽しくてたまらない状態で、彼女は地図を眺めながら僕に変なナビゲーシ
ョンをして笑い転げていた。すっごい山奥だね。このままムーミン谷に続いてるみ
たい。あそこの人、麦藁帽子なんかかぶって、振り返ったらスナフキンだったりし
て ・・・・・・。
 まだ夕暮れには間があったからそんなことを言ってふざける余裕もあった。
 そっちは違うだろ、この車は水陸両用でもなければ、プロペラがついてるわけで
もないんだから、そんな言葉を返したのをかすかに憶えている。
 
 2年前のその日は、南小国のしゃれたペンションに二人で泊まって熱い夜を過ご
すつもりだった。結局は午後9時前に何とかたどり着けたのだけど、そこに行くま
でにさんざん迷って変な神社に迷い込んだのだ。
 今考えたら、あまり気持ちのいい神社じゃなかったし、道を尋ねるという目的が
あったにしても二人で中まで入っていったのは、めくるめくような激しい恋愛感情
のなせる技だったと思う。あの時の二人には怖いものは何も無かったのだ。
 現実世界にも、そうでない世界にも、二人の敵はいなかったし、いても簡単に撃
破できると二人とも信じていた。
 古びた鳥居の前に車を止めて、境内に入っていくが、社務所には誰もいない。僕
は左手に亜由美のやわらかい掌を感じながら、先を歩くようにして薄暗い境内を進
んだ。
 境内にはいくつか灯があって、頼りないながらも足元は何とか見えていた。
 その時僕が何を考えていたかというと、実は道を尋ねるなんてどうでもいいのだ
った。人気のない神社の境内で彼女の下着を膝まで下ろしてやろうかなんて思って
いたのだ。若い二人なんだから愛しあうのに一々場所柄をわきまえなかったとして
も、神様も許してくれるはずだ、なんて考えていた。
 だから僕にとってはその神社に誰も居なくても残念ではなかったし、僕だけじゃ
なくて彼女さえ似たような感情を持っているのが、その息の匂いや掌の汗で窺い知
ることができた。
 お賽銭入れが置いてある所まで来た。奥は明かりがともされているが、人の気配
はなかった。
 僕はその暗がりの中で、後ろから彼女を抱きしめた。
 亜由美も振り向いて僕の唇を待っている。
 僕が首を曲げると二人の唇は接触し、熱い舌が合わさりあう。僕の両手が、亜由
美の腰から上に上がり、その胸の豊かな、少し硬いふくらみを下から揉み上げる。
 くぐもった声が上がり、亜由美はさらに僕に体を預けてきた。
 舌の絡まるのと同じように二人の熱い魂がきつく結び合い、周囲の物を焦がしか
ねないくらいに熱い波動を撒き散らす。
 その熱い緊張は、僕が日ごろの運動不足のせいか彼女の体重を支えきれなくなり、
うっかり身体が揺れて、鐘の紐によろけかかるまで続いた。
 ジャラジャラという音がやけに大きく響いて、僕も亜由美も、驚きに思わずお互
いの顔を離した。そしてふと見ると、賽銭箱の奥の障子が開いており、そこに一人
の老婆が座ってるのが見えた。
 小さく悲鳴をあげる亜由美。僕はついすいませんと謝ってしまった。

「いやいや、久しぶりにいいものを見せてもらいました。愛しあう男女は何にもま
してこの世で最も尊い物ですから」
 その老婆は白い巫女の装束を着ている。この神社の関係者に違いない。
「あの、実は道に迷ってしまって……、南小国の方に行きたかったんですが、どこ
でどう間違ったのか、山の上まで来てしまったんです」
 気を取り直して僕は老婆に言ってみた。冷や汗かいたのか、背中が急に冷たくな
っていた。
「まあまあ、そう恐縮せずに、道は教えてあげますから、こちらに上がってこられ
ると良かろう。いい物を見せてもらったお返しに、お札を進呈しましょう」
 微笑む年老いた巫女に促されて、僕と亜由美はその中に入っていった。
 靴を脱いで、鉄のようにひんやりとした板の間を少し歩いて、ご本尊の前まで来
た。蝋燭の灯りが風に揺れて僕らの影をふわふわ揺らせている。橙色の光があたり
一面に充満して、僕の頭の中にまでぼんやりとした浮遊感を感じさせる。
 
「この札は良い子が授かる札じゃ。健康な赤ちゃんが生まれ、健康に育つ。お二人
のいい面だけを受け継いだ最高に良い子が生まれるじゃろう」
 ご本尊の傍からはがきを縦に二つに折りたたんだ位の大きさの札を老婆は取り出
し、正座する僕らの前に差し出した。
 小さな文字が書き記されたその白い札は、持ってみると結構分厚く重かった。
 亜由美の方を見ると、僕の手の中のその札を熱心な眼で見つめていた。
「でも、もし僕らが別れる事になったらどうなるんですか」
 僕がそんな事を聞いたのは、その時点で二人が別れる事など金輪際起こりえない
と思っていたからに違いない。少しでもその可能性にリアリティがあったとしたら、
僕は黙っていたはずだ。縁起でもないことは一切口にしなかったろうと思う。
「あなた方がここにこられた事は、あなた方が最高の組み合わせだったという事じ
ゃが、確かにそれでもどちらかのわがままか、周囲の理解不足で別れざるをえなく
なる事があろうな。残念な事じゃが、その時はまたこの札を持ってここに来なされ。
この神社に来れるかどうかわからんが、その札を持ってる限り何かがあなた方を迎
えるじゃろう。その札はそこの者に渡されるがよかろう」
「もし、札を持って来れなかったらどうなるんですか」
 今度は亜由美が聞いた。
「あなた方二人とも、子供を持つことができなくなるじゃろうな。最高の子供を持
てるか、そうでなければ全くもてないかじゃ」
「あたしは二人の赤ちゃんがほしいと思ってます。最高の子供が」
 亜由美の気持ちのこもった言葉に、老婆はうんうんと頷いた。
「それならなんも問題はない」
 そのあと老婆に道を聞いて僕らは何の問題もなく南小国まで下っていった。
 かなり下り道が続いたから、来る時は気付かなかったが、知らないうちに相当高
い所まで上っていたのだろう。


 その時の事を亜由美が思い出したために、今日は僕らはこの札を返すために再び
山奥の神社を目指す事になったのだ。
 多分この辺りという所までたどり着いてはみたものの、僕はなかなかその上り口
を見つけることができないでいた。あの神社は山の天辺付近にあった。この谷沿い
の道から山頂に上る道があるはずなのだ。
 何度か同じ場所を行きつ戻りつしてみるが、さっぱり手がかりが見つからない。
 周囲は闇の中に沈んだまま、谷川のせせらぎだけがいつも耳に響いてくる。
 亜由美を起こして尋ねてみるしかなさそうだ。
 僕が亜由美を揺り起こそうと車を路肩に止めた時、亜由美は自分から目を覚まし
た。最初はぼうっとしていたが、僕が道に迷ってる事を説明すると、軽く首をふっ
て、そして頷いた。
「変な夢を見ていたの。ここはどの辺り?」
 中津江村から上津江村にはいる所だよ、僕がそう答えると、じゃあもう一度中津
江村に入って、それからユーターンしてみて。と答える。
 亜由美は僕が言われたとおりにしてる間に、なにやらバッグを開けて取り出して
いた。それはあのお札だった。
 亜由美に言われた場所まで戻り、再びユーターンして引き返すと、それまで全く
気付かなかった細い道路が右側の山の上に続いてるのが見えてきた。
 僕は彼女に言われるまでもなくそちらにハンドルを切る。
 2年前に上った道だった。車一台がやっと通れるだけの狭い道路。両脇から木の
枝が垂れ下がり、前方以外の視界は全くゼロだ。
 少しずつ高度を上げて谷間から登って来ると、徐々に見晴らしが良くなって、周
囲の林が途切れた隙間から青白い半月が冷たい光を放ってるのが見え出した。
 そしてすぐに僕らを包んでいた杉の林はなくなり、道の周囲は低い雑草の生い茂
る緩やかな山道に変わる。
 天空の星々が降ってきそうなくらいにたくさん光り、天の川銀河が無数の宝石を
ぱらぱらと縦に長く散らばらせている。そのきらめきは空気が動くたびに瞬き、生
きてるように見えた。
 でも、こんな場所だったかな。以前来た時は森の中に沈み込んだ古い神社という
感じだったけど……。
 確かに山頂近い場所だったが、こんなに天辺じゃなかったと思う。
 でも山は不変じゃない。杉の木は伐採されてしまったのだろう。
 自分の中でそんな風に言い訳してるのはなぜだろうか。
 亜由美はあれから黙ったままだ。何を考えてるのか、じっと前方を凝視している。
 あの老婆の台詞がおかしかったのは、僕もあの時に気付いていた。
 この神社に来れたのはあなた方が最高の組み合わせだったからとか行っていた。
 そうじゃ無いなら来れなかったという事か?
 あの時の僕が深く考えていなかったのは、別に何の理由もない。そんな不思議な
神社などあるわけが無いと思ってたからだ。

 でも今日は、入り口がなかなか見つからなかった事で、あの神社とあの老婆が
通常の、僕らにとって常識に彩られた事象とは違うのではないかと僕は思い始めた
のだ。
 なかなか見つからなかった入り口が、亜由美の言うとおりにしたら簡単に見つか
って、そして彼女の手にはあのお札が握られている。
 この場所が現実ではない不可思議な場所ではないかと、僕が疑う理由には事欠か
ないというわけだ。

「あたし達やっぱり結ばれるべきだったんだよ。あたしはいつも結婚しようて言っ
たのに、孝志が悪いんだよ」
 それまで黙っていた亜由美がそう言ったのは、道の先に光り輝く場所が出現した
時だった。僕は神社とは似ても似つかないそれが現れた事にあっけにとられていた
のに、亜由美は当然のこととでも言うように無表情にその光を見つめていた。
「何なんだあれは。亜由美、何か知ってるのか?」
 僕は門の前で車を止めると、助手席の亜由美の方を見た。
「夢の中で出てきたのよ。ここに来る方法も、ここにある物も。孝志が知らされな
かったのは、きっと孝志の方が悪いからだよ」
 悪い?別れる事になったことか?確かに僕の方のわがままが原因って言われれば
そうかもしれないけど。
「どうしてメリーゴーランドなんだろう。あの時は神社だったのに」
 僕は車から降りながらつぶやいた。
「行ってみればわかるわよ」
 亜由美も神社がメリーゴーランドに変わったわけまでは知らされていないようだ。
 歩いていくと、入場口が見えてきた。そしてそこには2年前の老婆がいるのかと
覚悟していたら、そこにいたのは女性ではあるが、若くてきれいなバニーガールの
格好をした女の子だった。
「こんばんは。券を見せてください」
 すらりとした長い足を惜しげもなく冷ややかな空気の中にさらけ出した彼女は、
僕たちを見つけるとそう言ってにこりと笑った。
「ここは何なんですか」
 お札を渡そうとする亜由美を制して、バニーガールに僕は訊いた。
「何って聞かれても困ります。あなたの理解できる言葉では説明できませんから。
数式でなら説明できるけど、ノーベル物理学賞でももらった人でないとちんぷんか
んぷんでしょうね。あえて言葉で言えば、在りそうで無い場所。無さそうで在る場
所、という所でしょうか」
「じゃあ君はいったい何者なんだ」
「それはあなたたちには関係ないことです。私が誰であっても、あなたたちにとっ
てのこの場所は変わりないんですから」
 僕が何も言えなくなると、亜由美が横からバニーガールにお札を渡した。
「彼女は少しはわかってるみたいですね。後は彼女と話し合ってね」
 バニーガールが何かを操作すると、目の前の柵がゆっくり開き、僕らは中に入る
ことができた。
 回転木馬に二人でゆっくり近づいていく。ここで何をどうすればいいんだ?
 これに乗れということだろうか。でも、それが何になるんだろう。
 近づくにつれ、上下しながら回ってる木馬が、ただの木馬じゃないのがわかった。
 あめ色の胴体は普通の馬じゃないのだ。鞍の部分が尖った三角形の木材でできた
三角木馬だった。良くSMプレイの場面に出てくる昔からある拷問の道具だ。
 またがる者の股間をきつく圧迫し、強烈な苦痛を与えるのだ。
 その三角木馬に、同じ色の首と頭がつながり、足もきれいな脚線美の馬の脚がつ
いていた。
「これはいったい何のつもりだろう」
 予想外の趣向にあきれてものが言えない僕が、やっとそれだけしぼり出した。
「最高のカップルが別れる事は神に対する反乱だととられたのかもしれないね。そ
れならその場所を破壊してやる、なんてね」
 僕より少しこの状況を理解してるらしい亜由美が服を脱ぎだした。
「何のつもりだ」
「あれに跨る時はやっぱり裸にならないといけないでしょう」
「乗るつもりなのか?」
「そうしろという事よ。ほかにしようが無いのよ」
「馬鹿馬鹿しい、こんなふざけた事に付き合ってられないよ、帰ろう」
 僕は亜由美の手首を握ると、来た道を引き返す。
 亜由美も別に抵抗せずに素直についてきた。
 バニーガールのいた入り口はそこには無かった。右も左も鉄柵が延々と続いてる
だけだった。柵を見上げると、金色に光るその柵は夜空のかなたまで続いている。
 そしてその空に誇らしげに満月が輝いていた。
 変だ。来る時に見たのは半月だった。それなのに今は満月になっている。
 常軌を逸した世界という言葉が、僕の心に浮かび上がってきた。
「あなたが私を愛さなくなった理由をもう一度考えてみて」
 ふと見ると亜由美は全裸になっていた。そして僕も。
 草原の上で遠くにメリーゴーランドを眺めながら、全裸の二人が立ちすくんでい
た。
「愛する理由もわからないのに、愛さない理由なんかわかるもんか」
 僕の怒声は乾いたスポンジに吸い取られる水滴みたいに夜空に吸い込まれて消え
ていく。それを感じるとなんだか興奮が冷めて、不思議と冷静になってきた。
「多分君が出来過ぎてたんだよ。容姿端麗で学力も僕より上で、簡単に言えば、高
卒の保険会社の営業マンと、医学生とではつりあわないって事さ。僕はいつも君と
同等の会話ができるように難しい本を買ってたけど、それにも飽き飽きしたんだ。
所詮君にはかなわないから」
「別に学力なんか関係ないじゃない。人間の価値は頭だけで決まる物じゃないわ」
「その言葉は偽善だよ。現実的じゃない。僕らが最高のカップルだなんてとんだお
笑い草だ」
 亜由美の顔から僕は目をそらし、満月を見やった。
「現実的でないのは認めるけど、偽善とは限らないと思うわ。それに私達が最高の
組み合わせじゃないというのもね。私にとってはあなたの素直な優しさと、健康な
体が最も必要なのかもしれないじゃない。そうよ、あのおばあさんが言ったのはそ
う言うことだったのよ」
「君の優秀な頭脳と、僕の健康な体が合わさるのが一番いいということか、冗談じ
ゃない、僕は健康だけが取り得のロボットじゃないぞ。頭だってそんなに悪くは無
いんだ」
 満月がぼやけて見えてきた。僕の目から涙があふれていたからだった。
「僕は君と付き合うことが嬉しくてたまらなくて、そして辛くてたまらなかった。
君は僕なんかの恋人に収まるような人ではないといつも感じていたんだ。いつか壊
れるべきなんだとね」
「だから私に愛想をつかされる前に、嫌いになろうと努力していたわけね。全く、
馬鹿なんだから」
 彼女の言葉はこれまでの僕にとってはサバイバルナイフよりもきつい武器になっ
て僕の心を刻んだだろう。
 でも、今はなぜだかすがすがしい言葉に感じた。
 亜由美は泣きじゃくる僕の頭を抱えて、胸に抱き寄せてくれた。
 僕は膝を曲げてそのふくよかな胸に頬をよせた。
「行きましょう。あなたは快楽が苦痛に変わってしまったのよ。あれに乗ればその反対になれるはずだわ」
「苦痛の反対の快楽に導く回転三角木馬か……」
 涙でにじんだ回転木馬は虹が渦を巻いて宇宙を吸い込んでいるように見えた。
 僕らは手をつないでその渦に向かって歩いた。

 目の前を回っている奇怪な三角木馬。
 亜由美は僕の前で一段上がる。亜由美の形のいいお尻が僕の目の前で揺れる。
「じゃあいくよ。すぐについて来てね」
 もう一段登ると、回転木馬の台座と一緒になって亜由美の体が僕の前から遠ざか
る。僕も一段登ろうとしたけど、どうしたわけか足が出なかった。
 そうするうちに木馬にまたがった亜由美の背中がどんどん遠ざかる。
 振り向いて何か叫んでるようだが、それほど離れてもいないのに声は全然聞こえ
なかった。
 焦る気持ちが湧いてくるが、考えてみるとこれは円を描いてるんだ。
 少し待てば亜由美は戻ってくるだろう。
 いくつもの木馬がやってきては遠ざかっていく。このメリーゴーランドの直径か
ら考えて、優に何週もしてるはずなのに、亜由美の姿は現れない。
 僕は取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないだろうか。二度と亜由美
に会えなくなるかもしれない。心臓が高鳴って震える膝で僕はその台の上に上った。
 氷のように冷たい台座の上にのり、木馬をつかむと、それが低くなった時に思い
切ってまたがってみた。
 股間の一点に体重がかかり、木馬が上昇するととたんに激痛が僕を襲う。
 こんな夢のような世界の事だというのに、激痛は本物だった。
 激痛は時間とともにしびれに変貌する。痺れはやがて下半身を麻痺させ、僕の感
覚を無に引き裂いていく。
 快楽に変わるのはいつの事だろうか。
 白い霧のかかる僕の頭の中で、全裸の亜由美が微笑み、そして両手を差し出して
早くこっちに来なさいと大声で何度も呼んでいた。



 山頂のメリーゴーランド     おわり