参観日


 自分の名前は憶えている。沢渡肇だ。だが、それ以外の記憶がほとんど消えてしまっていた。ここがどこなのかも、どこに行こうとしていたのかも思い出せない。
 駅の構内に居るのはわかった。通勤時間なのか、大勢の男や女たちが私の横をすり抜けていく。人の大河の中にぽつんと取り残された三角州だ。邪魔だといわんばかりに肩をそびやかしていく男も何人か居た。
 彼らの邪魔にならないように、私は柱のそばに移動した。
 ベルの音やらアナウンスの声を聞いているうちに何か思い出せるかもしれないという希望は、1時間も過ぎるうちに徐々にしぼんでいった。
 通勤客は次第に減っていき、駅が少しずつ落ち着きを取り戻しつつある。
 私もこのままここに突っ立っているわけにはいかない。
 とりあえず目に付いた喫茶店に入ることを思いついた。
 茶色いガラスドアを押し開いて、薄暗い店内に入る。
 扉に吊るされた鐘がかすかに鳴る。迎え入れるウエイトレスにうなずきながら奥のテーブルに向かった。
 こげ茶色の光沢のあるテーブルに、白い陶器の灰皿がのっていた。それを見てふと思いつきワイシャツの胸ポケットを探ってみたが、タバコもライターもなかった。
 上着のポケットにもない。自分には喫煙埜習慣はなかったのか。それにしては無性に吸いたくなる場面だった。


 コーヒーを一口飲んで、現在の状況を考察してみる。
 ボケてしまったんだろうか。手を見るとほとんど皺もないから年はそれほど取っていないようだ。滑らかな手の甲には染み一つない。鏡はないか?自分の顔がどんな顔かも思い出せないのに気づいて、急に興味が湧いてきた。探すが、そんなに都合よく鏡がおいてあるはずがない。
 でも横の壁がガラスだった。ガラスに映した自分の顔は、すっきりした顔つきでなかなかの男前だと思った。年齢ははっきりしないが、三十台後半と言うところか。
 しかし自分の顔を見ても何も思い出せない。これは重症かもしれない。
 老人性痴呆じゃないとすると、脳梗塞で一部の記憶中枢が壊れてしまったのかもしれない。
 頭痛はまったくないし、手足も自由に動くから脳梗塞の可能性は低いが、他に適
当な説明が思いつかない。警察に保護してもらうしかないか。
 みっともないが他にどうすることもできない。
 店を出ようとして立ち上がりかけた腰が、すとんと落ちた。
 そう言えば財布を持っていただろうか。さっき背広のポケットには、何も入っていなかった。ズボンのポケットを探ってみたが、やはり財布はなかった。
 そんな私を高校生のバイト風ウエイトレスが胡散臭そうな目つきで見ていた。
 店長に報告するかどうか迷ってる様子だった。
 鐘の音が鳴って扉が開くと、客が一人入ってきた。女性客だ。
 頭が痛いのか、こめかみに右手を当てて、顔をしかめている。
 その顔には見覚えがあった。自分の顔さえ覚えていないというのに。
 
「・・・・・・和子」
 考えるより先に、妻の名前を呼んでいた。その女は驚いたことに私の妻だったのだ。急に立ち上がった私に驚いたウエイトレスが、コーヒーをひっくり返しそうになっていた。ウエイトレスは怒りの意思を鼻で強く息を吐くことに変換して去っていった。
「肇?あなたなの・・・・・・どうしてここに?・・・・・・」
 急いで私の向かいに座った和子の目が見開かれていた。
「良かった。実は僕は病気なのかもしれないけど、記憶喪失になったようなんだ。
君のこと以外は会社のことも何もかも、自分の顔さえ忘れてしまってるんだ」
 和子の表情が硬くなる。ウエイトレスが持ってきた水を一口飲むと、いやいやをするように首を振った。
「実はあたしもなのよ。気が付いてみるとあそこに立っていたの。いったいどういうことなの」
 そんな馬鹿な。妻も私と同じ状態だったなんて。
「僕に聞かれてもわからないよ。僕はたぶん通勤の途中だったんだろう。背広着てるし。君も、その格好だと同じくじゃないかな。遊びに行く格好には見えない」
 和子は初めて気づいたように自分の格好と持ち物をチャックし始めた。
 ポケットから携帯電話が一つ出てきた。やはり財布は持っていないようだった。
 これからどうすればいいのだろうか。途方にくれていると和子が、おもむろにた
った一つの持ち物を操作し始めた。
 真剣な目つきでボタンを押している。何か思いついたらしい。
「思いだしたのかい」
「電話の通信記録で何かわかるかもしれないでしょう。あと、アドレスとかもあるし ・・・・・・ だめだわ。通話記録はなし。でもアドレスに一件だけ記録がある」
「なんて所だい?」
「番号だけだわ。かけてみる?」
「君がかけたほうがいいだろう。君の持ち物なのだし・・・・・・」
 いったん私をみた和子が携帯電話に目を落とした。しばらく考えて、親指でボタンを押した。
 私は和子の側に移ると、二人がけの椅子の奥に和子をやり、横に座る。そして携
帯電話の背中側に耳をつける。呼び出し音がはっきりと聞こえてきた。
 
「もしもし、沢渡和子さんですね。今どちらにおいでですか」
 すっきりとした女性の声で、こちらから何も言わないのにそう話し出した。
「沢渡ですけど、今喫茶店にいます。どういうことかわからないんですが、記憶がなくて ・・・・・・」
 和子が戸惑いながらも状況を説明した。
「喫茶 F ですね。今からいきますからそこでしばらくお待ちください」
 電話はそこで一方的に切れた。
 どうやら迎えがくるらしい。何とかここで警察沙汰にだけはならなずにすみそうだ。
「しかし事務的な対応だったね」
 からからの喉にコーヒーを一口流し込むと、和子に笑いかける。
「記憶がなくて、とまで言ったのに、平気で電話を切るんだから、ちょっと非常識よね。どういうことかしら」
「かなり荒唐無稽だけど、君と僕が記憶喪失の病気で入院中だったということは考えられないかな。どういうわけか移動の途中にはぐれてしまったとか。その時点の記憶さえないのが変だけどね」
「なるほどね。でもあなたと私が一緒じゃなかったのもおかしいし、入院中の記憶まで無いのはどうして?」
「一定時間以上時間がたったら、記憶がリセットされるとか。なんかの映画に無かったかな?」
 映画という単語で、いくつかの題名とあらすじが浮かんできた。記憶喪失を扱ったものは、映画に限らず数多くの物語として作られてる気がする。
「大枠の記憶は変わらずに持っているけど、ごく最近の記憶が一定期間ごとにリセットされるというわけ?ものすごく悲しいわね」
 困るという感情はあるが、悲しいという思いには僕はいたらなかった。やはり女性は感じ方が違うのだろう。

 迎えに来た女性はクロブチめがねが似合う事務的な整った顔をしていた。
 笑みも浮かべず、清算すると、僕らを従えて歩き出す。
 駅の雑踏の中を3人で突っ切ると、とめてあった黒塗りの大型セダンに乗り込んだ。生まれて初めて駅の外に出た気分だった。
 光がやたらまぶしい。
 和子も同じなのか盛んに目をしばたたかせていた。
 何度か状況を尋ねたが、返ってくる答えは決まって、すぐに事務所につきますから、だった。
 和子の顔を見ると、つっけんどんな対応に対する怒りから不安な表情に移り変わ
っていた。たぶん自分も同じだろう。
 着いたのは白い大きな建物の前だった。入り口の門にはバイオテクノロジー総合
なんとかと大書きしてあった。
 車を降りて建物に入る。
 白衣を着た男女が何人か歩いているが、病院とは明らかに違った雰囲気だった。
 だいたい患者らしき人間が皆無だ。
 何処までも続くと思われるまっすぐな廊下を、事務員の規則正しい靴音を聞きながら歩いていると、周囲の様子になんだか懐かしい気持ちを持ってしまった。
「なんだかいやな気分だわ」
 和子が私の左腕にすがるようにしている。私にとっての懐かしさは、和子にとっては不安材料としてよみがえったのかもしれない。


「教授、二人を連れてきました」
 奥の執務机で書類に目を通していた白髪の男が目を上げた。
 顔には深くしわが刻み込まれていて、知性を感じさせる眼が私達を見つめた。
「ありがとう。君はもういいから、下がってくれ」
 事務員の女は、軽く礼をするとすぐに居なくなった。
「どうぞ。こちらに。このソファは国産だけどなかなか座り心地がいいですよ」
 教授と呼ばれた男は事務員と違って対応が柔らかかった。
 それまで張り詰めていた気持ちが緩んでしまって、私と和子はものも言わずにその椅子に深く腰掛けた。
「私はここの責任者をしています河原泰三といいます。よろしく。あの子が何か無作法なことをしませんでしたかな。悪い子じゃないんだが、記憶のない人を扱うということがまだわかっとらんようでね。」
 目礼した後、教授は立ちあがり、私達の前に座った。
「教えてください。私達はどうなってるんですか」
 私が黙ってることにいらだったのか、和子が先に聞き始めた。
「今話したところですんなり信じれるとは思えないから……。ちょっとこの研究所の中を見学して見ませんか。ああ、そうだ。お腹はすいてないですかな。食べ物を取り寄せましょうか?」
 私は正直言って空腹だった。和子の答えを待たずに、私は差し出されたメニューをのぞきこんだ。
「それじゃ、いただきます」
 和子も空腹だったんだろう。今まで緊張で感じなかった空腹感が、和子の胃袋の中で
音を立てた。す、すいませんと失礼をわびる顔は真っ赤だった。
 私は天丼とラーメンを、和子は魚フライランチを頼んだ。

 教授が一旦席をはずした二人きりの部屋で、私達はちょっと低いテーブルの上に置かれた食べ物を咀嚼して胃袋に送りこんだ。
 動物的な幸福感がみなぎって力が溢れるようだった。血圧がぐっと上がるのが感じられて自然と笑顔になってきた。
「おいしかったかい」
 和子に聞くと、笑顔で頷いた。和子の笑顔は初めて見たかもしれない。
 約30分席を離れていた教授が、ノックした後部屋に入ってきた。
 私達の表情が明るく一変してることに気づいたのだろう。教授の顔も嬉しそうだった。
「決して一流のシェフと言うわけではないのですが、お気に召したみたいですね。
よかった。それでは、食後の運動に案内しましょう」
 教授に促されるまま、立ちあがり、部屋を出ると、来た方とは逆に3人で歩き始める。
「なんだかここには以前も来たような気がするんですよ」
 私は教授の横で、教授の禿かけた頭頂部を見下ろして言う。
「そうですか。それはまあ、そうかもしれないな」
 後の方は独り言のようだった。
 廊下が行き止まりになると、正面の自動ドアがゆっくり開いた。
 
 その中はテーブルの上にたくさんの試験管が並び、高さ二メートル幅1メートルくらいの機器類が立ち並ぶ化学工場を思わせる研究施設だった。
 いや、私達の立ってる場所はそれを見下ろせる位置にある、テラスのような廊下だった。よく見ると、階下の研究施設とはガラスでしきってあった。
 衛生面での配慮だと言うのはすぐにわかる。
「何を作ってるんですか」
 和子が下の様子を訝しげに見ながら言う。
「すぐにわかりますよ。行きましょう」
 教授について歩いていると、階下の様子が少しずつ変化してきた。
 無数に並んでいたのが試験管から30センチ四方くらいの箱に変わり、一つの壁を境に赤ん坊を入れた保育器に変わった。
「試験管ベビーなのね。ここは試験管ベビーを作ってるのね」
 無数に並んだ赤ん坊の寝顔は、私にとってもショッキングな光景だった。
 無人のだだっ広い空間に並ぶ保育器。人の手が触れることのない無人の工場で人間が作られているのだ。
 和子はそこで立ち止まり、しゃがみこんでしまった。
「私達もこうして作られたと言いたいんでしょう。人間を機械で作り育てるなんて、
正気のさたじゃないわ」
「私もそう思いますよ。でも仕方なくやってることなんです。出生率が極端に落ち込んでしまいましたからね。こうでもしないと日本人は地球上から消えてしまうんですよ」教授はため息と共に言った。
 しかし、私達が記憶喪失になった理由とは直接関係ないはずだ。

 まだ下の工場は先まで続いていたが、和子が見たくないというので、ここで引き返すことになった。

「この研究所のやってることもだいたい理解できたでしょう。では、事の真相をはっきりさせたいと思います。こちらへ」
 教授は最初に見たときよりも小さく見えた。重い荷物を背負ってでもいるように肩が落ち込んでいる。
 ここが試験管ベビーを作る人間工場だとして、私達がここで作られたとしても、その記憶がないのはやっぱり不自然だ。
 子供のころから、ここで育った記憶があるはずだから。
 それがどんなに人間離れした環境かはわからないが、ここが我が家ならその自覚
がなければならない。

 最後に案内された部屋には、白いテーブルを挟んで目の前に一組の夫婦らしき男
女が座っていた。
 年齢的には私達と同じくらいだが、一目見た感じはでだらしなく太っている中年の夫婦という外見だった。しかしなんとなく男の顔が、さっきトイレでまじまじと見てきた自分の顔に似ているように思えた。

「沢渡夫妻です」
 教授が、彼らにではなく、私達に向かって、座っている二人を紹介した。
 私達と同じ名前だと言うのだろうか。
 きょとんとしていた私達を、教授は、まあ座ってと椅子に座らせた。
 その部屋には、他に若い男が一人いた。
 若い男はラフな格好で、深く椅子に腰を下ろして足を組んでいた。
 
「君達は合格です。ちゃんと人間的な対応ができている。記憶も、個人的な物以外
は定着したようだ」
 教授の言葉はどうやら私達に向けて発せられているようだった。
「訳がわかりません。何を言ってるんですか」
 和子が身を乗り出して教授に尋ねた。教授の目は悲しみをたたえた様に沈んでいた。
「初めから話しましょう。こちらの若い人はTSBテレビのプロデューサー羽田君です。まず、沢渡夫妻には二人の娘さんがいます。中学2年生と、下の子は小学4年生。元気でかわいい少女なのですが、下の子は生まれついての病気で悲しいことに寿命が消えつつあります」
「ちょっと待ってください。その人たちの子供のことより、私達のことを教えてください。記憶が無くなってしまった訳を」
 和子が教授に問いただすが、教授は黙って首を振るだけだった。
「まあまあ、すぐにわかりますから、その前に知っておかないといけないこともあるんですからちょっとの間教授の話を聞きましょうよ」
 軽薄な口調で妻をなだめるプロデューサーを、私はにらみつけたやったが、彼はふんと一つ鼻を鳴らしただけだった。再び教授が話し出す。

「ええと、羽田君の担当する番組の中に『最後の願い』と言う番組があるのです。
この番組は命の消えつつある人に最後の願いを聞き、それをかなえてあげると言う番組です」
 ぼそぼそと話す教授は、今にも泣き出しそうな表情だった。
 私も、和子も、彼のその表情を見て問いただすことを控えるようになった。しばらくの辛抱だ。すぐにわかるのだ。目の前においてあったコーヒーを、私は一口すすった。

「今回、沢渡夫妻の次女、かおるさんの願いを聞くことになりました。そして、彼女の願いは、スマートで格好良いお父さんと美人のお母さんに参観日に来てほしいと言うものでした。もちろん、かおるさんはお父さんとお母さんを愛していますから、そう言ったのは二人にスポーツなどをして健康的な身体になってほしいという願いが含まれているもので、決して両親を醜いと思ってのことじゃないのです。
その後、ご両親はダイエットをしたりスポーツをしたりしてスマートな身体つくりに励んだわけですが、かおるさんの容態が急変して、最初に予定していた参観日までもたない可能性が高くなってきました」
 教授が一口コーヒーを飲む時間話しがやんだ。その間に正面の沢渡氏を見ると、額にかいた汗をしわくちゃなハンカチでぬぐっていた。私とはまったく目を合わせようとはしない。斜め前の細君とは何度か眼があった。
 慌てて目をそらす彼女の頬は少し赤かった。

「実は私の研究所に話が来たのは、それからだったわけですが、トレーニングでスマートになることが間に合わなくなった段階で羽田君が考えたのが、この研究所でお二人のクローン人間を作って、彼らに参観日に出てもらうということでした」
 何か雑音が聞こえると思ったら、横に座っていた妻の悲鳴だった。
「うそだわ。私はクローンなんかじゃありません。だって私には……心があるもの」
 もちろんそのとおりだ。私にだって心がある。記憶はないが心はあるのだ。
 私達が試験管ベビーとしてここで作られたと言うのならまだ納得できる。
 試験管ベビーでも、人間の卵と精子で生まれるのだから普通の人間と意味合いは同じになる。しかしクローン人間となると、また話が違ってくるのだ。
 すでに生きている人間の細胞から培養して一人の人間を作ることだから、本物のコピーでしかありえない。しかも生み出された理由が単に本物の代わりに参観日に出席する事だなんて……。
 さっき見た赤ん坊たちも全部クローンだったのだろうか?

「お聞きのとおり、あなた方は目の前の沢渡夫妻のコピーなんです。不健康な生活
を続けて太ったりする前のね。これは否定しても始まりませんよ」
 教授の代わりにディレクターが話し出した。
「今の技術では、成人の細胞からクローン人間を作るのに、2週間あればいいんです。肉体が出来上がるとそこに知識を植え込んでいく。一般的な知識を植え付けて、人間らしくするのに一週間かかります。もちろん個人的な記憶はほとんど持たない
記憶喪失の人間として出来上がります。あなた方の場合、今日が最終テストだったわけです。駅の雑踏で目を覚ました二人がちゃんと人間的な行動をするか、しっかり観察させてもらいましたよ」
 あまりの言い様に、殴りたいという衝動が起こった。私は立ち上がったが、教授に押しとどめられた。
「最終テストも問題なしでしたね。別の件でクローンを作ったときは最終試験をオフィス街でやったんですが、その時は傑作だったな。若い女の人だったんですが、いきなり素っ裸になって大通りを逆立ち歩きしてましたからね。パニックになるにしてももう少し別のやり方があるでしょうに。まあ絵的には面白かったので番組に使いましたけどね」
 今度こそ殴ってやろうとしたが、目の前の教授の真っ赤になって怒りをこらえている顔を見たら急に心が静まってしまった。こんな男を殴ったところで始まらない。
 教授の怒りに気づいた羽田が黙った。
 今度は私が言ってやる番だ。
「ばかばかしい。そんな低俗な番組に協力なんかするもんか。かおるちゃんは可哀想だけどね。仮に私達がクローンだとしても人権はあるでしょう。何も強制されるいわれは無いはずだ」
 再度押しとどめようとする教授の腕を外して、私は立ち上がった。
 妻も立ち上がる。
「その通りです。あなた方にも人権は立派に存在する。戸籍は無いけど人権はある。ここから立ち去るのはあなた方の自由です」
 教授はわれわれにいくらか同情的なようだった。自分が作ったくせに。
「でもここから何処に行くというんですか。お金持っていないでしょ。たった二週間でも、お金が無ければ生きていけませんよ」
 羽田は不思議なことを言い出した。何が二週間なのだろうか。
「もしかして知らないかもしれないから補足しますが、あなた方クローン人間の寿命は約一ヶ月です。本物の人間の数百倍の速さで年を取ってしまいますからね。もし番組に協力してくれるなら、死ぬまで最高の贅沢ができるように面倒見ますよ。
エーゲ海を見下ろすテラスで二人っきりの最後の時間を持てますよ。どうですか?」
 最高の贅沢だと? 靴を脱いで、このテレビマンの頭に叩きつけたくなった。
 贅沢なんていらない。飢え死にしてもいい。私は妻の手をしっかり握った。
 妻の小さな手のひらが、私の手を握り返した。

 部屋を出ようとした私達に、こういう呼び方はしたくないのだが、本物の沢渡氏がはじめて口を開いた。
「頼んます。……かおるはええ子なんです」
 なまった口調で言いながら歩み寄ると、ポケットの中から一枚の写真を取り出した。
 彼には、こんなくだらない番組のために生み出された私達の気持ちなんかわからないだろう。自分の全存在の意義がテレビ番組のたった数十分のためにあるなんて。
 差し出された写真を見た妻が泣き笑いしながら私に言った。
「あなたに似てるわ。見て」
 見た。確かに目鼻立ちに自分の顔の特徴が現れていた。でもおちょぼ口の口元は妻似だ。
 そう言うと和子は嬉しそうに笑った。
「かおるは私達の娘ですが、あなた達の娘でもあるんです。難しいことは知らへんけど、遺伝子的にはそうなるやということです。お願いします」
 沢渡夫妻の手が床について、おでこもつけられた。

 子供の顔を見たら急に、それまでは意識してなかった和子への思いが強くなった。
 クローンとして生まれた不幸を分かち合うだけでなく、最愛の人としての和子の存在が私の胸を重く締め付けてきた。眠っていた愛情が不意に起き出してきたようだ。ごそごそっという音まで聞こえてきそうだった。
 潤んだ目を見ると、和子も同じ気持ちなのがわかる。
 子供は、二人が愛し合った証拠だからか。無数の人間が生まれる中で、自分たちの子供は自分たちが愛し合わなかったら絶対にこの世界に生まれることのなかった人間だからだろうか。
 人目も気にせず和子を抱きしめると、濡れた唇を吸った。快楽の刺激が脳天を直撃した。愛している、と和子の耳元に囁く。わたしもよ、と和子も答えてくれた。
 
「いいでしょう。番組には協力します」
 私の言葉は羽田にとっては予想通りの展開だったのだろう。
 うなづきながら言い出した。
「そう。それが利口ですよ。せっかく生まれたんだから人生を楽しまなくっちゃね。最愛の人と最後の時間を誰にも邪魔されずに送れるんだから。むしろ羨ましいくらいです」
 彼の本音だろう。自分には愛する人間がいないと言いたげだった。


 翌日が収録の日だった。
 教室のセットの中で、20人の小学生が私達の前にいた。
 点滴をしながら車椅子に座った少女が、こちらを振り向いて嬉しそうに笑った。
「じゃあ本番行きますよ」
 プロジューサー兼監督の羽田の声が響いた。
 周囲のざわめきがいっせいに静まる。
 眼の下に痣をつくった羽田の合図で、テレビカメラが音も無く回り始めた。


                          参観日 おわり