33 遠藤ミチル


 後悔先にたたず、なんていうけど本当だな。ミチルは今日も、ため息と共に目覚めた。
 このところずっとミチルの気持ちは沈んだままだった。坂田にふられたのは痛手だったけど、それよりも
もっとミチルの気持ちを沈める重りになっているのは、耕平を罠にはめた自分の行為そのものだった。
 今にして思えば、どうしてあんなに焦っていたのかわからない。
 冷静に考えれば、耕平が坂田とカップルになるなんて、ある訳ないのに。
 坂田にのぼせ過ぎだったかな。彼の方は、こっちの事なんてセックスフレンドくらいにしか思ってなかったに
違い無いのに、自分はこの人こそ自分に最適な相手だと信じ込んでしまっていた。
 確かに坂田とは相性良かったと思うけど、彼の気持ちまでは考えてなかったかも知れない。
 耕平、大丈夫だったかな。何度も繰り返している独り言を、またつぶやいて、ミチルはベッドからでた。
 ワンルームをキッチンまで横切るときに、転がっていたカレーヌードルの空き容器を踏んづけてしまった。
 潰れた容器から汁がこぼれて足の裏に不快な感触をもたらした。
 いっその事、部屋中に溢れてしまえばいいのに。空腹の時は美味しそうだけど、それ以外の時は、吐き
気を催すくらいの濃いその臭いで世界中を埋めつくせばいい。
 ユニットバスで足を洗っていると、不意に死にたくなった。
 坂田も居なくなったし、自分には何も大事なものが無くなってしまったから。
 これ以上生きているのに何か意味があるだろうか。
 混乱した意識の中で、ミチルはタオルを手にとった。これで首を吊ることは可能だろうか。
 きちんと死ねるだろうか。
 このタオルを輪にしてドアノブに掛けたら?
 ミチルが玄関ドアに近づいたとき、目の前のドアが遠慮がちに小さな音を立てた。
 小さな音だったが、弱気になった自分には、自殺なんかに俺を使うな!と怒られた気がした。
 しかしその想像とは反対に、そのあと優しい声で自分の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ミチルさん、いる? 耕平だけど」
 意外な訪問者だった。
 先週、アダルト映画館で罠に掛けた相手だ。
 一度落ちたら二度と這い上がれない奈落の底に通じる落とし穴に誘導してやった相手だ。
 居留守を使えば良かったと思った時には、すでに返事を返してしまっていた。
 ドアを開けると、スカイブルーのティーシャツを着た耕平が立っていた。
 その儚い美しさをたたえた顔を見た途端、あの日の結末を聞きそうになったが、何とか堪えた。
 謝ったらダメだ。
 今更謝ったところで、耕平が身体に受けた凌辱のあとは消える訳が無いから。
 それなら最後まで恨まれる役に徹した方がいいのだ。悪役に。
「あの、心配してるんじゃ無いかと思って。此間の映画館」
 今日の耕平は、さすがに笑顔がぎこちなかった。
「何とか無事だったから。安心して」
 耳を疑う台詞だ。これが罠にはめられた奴の言う事だろうか。
 恨み言をまくし立てられるとばっかり思っていたのに。
「ばっかじゃないの?」
 俺はおまえを陥れたんだぞと続けるつもりが、ミチルの演技力の限界の方が先にきてしまった。
 オイルの抜けたサスペンションみたいに、がくんと膝まずいてしまう。
 あとは、耕平の腰を抱いて、良かった、そうつぶやくだけだった。

「ごめん、ずっと心配してたんだ、ほっとした」
 散らかった部屋に通すのは気が引けたけど、とにかく耕平に入ってもらった。
 耕平をこの部屋に招き入れるのは初めてだった。
 何度も耕平のギター練習の時に公園では会った事があるし、かなり打ち解けて来ていたが、部屋に呼ぶ
気にはならなかった。
 親しみが増すほど、耕平と仲良くなりたくなくなっていった。
 耕平と会う度に自分の劣等感が刺激されて、うんざりしてしまったのだ。

「君ってさ、高貴な感じがするんだよ。比べると自分が賤しい気がしてきて滅入って来るんだ」
 ミチルは自分の気持ちをそう締めくくった。
 お茶も出してなかった事に気づいて、慌ててキッチンからマグカップを二つ持ってきた。
「そんなこと無いですよ。僕なんて淫乱な娼婦なんだから」
 うつむきがちになった耕平のまつ毛がとても長く見えた。
「身体、売ってたわけ?」
 そう聞くと、耕平はふと顔をあげた。
「いや、お金はもらった事ないけど」
「僕はお金もらってたよ。ハゲかけた四十オヤジやメタボオヤジからさ、いいこずかい稼ぎだった。坂田と会って
からはやめてたけど、またやろうかな」
 口にした途端、昔を思い出して嫌悪感が高まる。
 もうあんな事は絶対したくないと感じているのは、自分自身なのだ。
「坂田さんとは仲直りできないのかな?」
 耕平は坂田と別れた事知ってるのか。首を傾げるミチルに耕平がうなずいた。
「こないだ、坂田さんとは会ったんだ。坂田さんも寂しそうだった」
坂田が寂しがってると聞いて、心の底が少し暖かくなった。
「無理だろ。だいたいあいつは僕の事なんで性欲処理器くらいにしか思ってなかったんだよ」
 そうじゃない事を祈りたいのに、自分ではそう言ってしまう。
「それは違うよ。ミチルさんの事、愛してたと思う」
 ミチルを見つめる耕平の目は真剣だった。確信のこもった目付きだ。それが真相ならどんなに嬉しいだろう。
「でもさ、あいつ、あれから全然連絡もないし、やっぱりムリだよ」
 冷蔵庫から出した気の抜けたコーラを二つのマグカップに注ぐ。
 耕平がありがとうと言って一口飲んだ。
「坂田さんは僕に気を使ってるのかもしれない。今度話してみるから」
 耕平は坂田とミチルが別れた事がすごく残念そうだ。
 どうして赤の他人の人間関係がそんなに気になるのか、ミチルには理解できなかった。
「それは勘弁して。余計な事はして欲しくないから」
 ミチルがそう言うと、寂しそうにうつむいたあと、耕平が目を逸らすように横を向いた。
「あれ、もしかしてミチルさんもバンドやってたの?」
 耕平の視線の先には、高校の時の文化祭の写真が壁に貼ってある。
「まあね。高校のときだけど。ベースやってたんだ。ちなみに坂田はドラムの経験があるって聞いてた。
それで話があったりしたんだ」
「今は楽器弾いてないの?」
「ああ、売っちゃったから、ベースもギターも」
 その後しばらく二人とも黙ったまま気の抜けたコーラを飲んだ。
 何か言わないと、耕平が帰ってしまうんじゃないかと不安になり出したとき、ポツリと耕平が言った。
「僕は友達少ないんだ。みんな、何故か男女関係みたいになってしまって。同性の親友がいる人がすごく羨ま
しかった」
 ミチルは耕平の言葉にひとつうなずいた。
 考えてみれば自分も親友なんて居なかった。
「もしかして僕と友達になりたいとか?」
 耕平はミチルの目を見つめたままうなずいた。
 そんな事、誰からも言われたことがなかったから、意外だった。
「じゃあさ、裸になって見せてよ」
 ミチルの言葉を理解できないみたいに、耕平は首を傾げる。
「君と僕の違いをはっきり見たいんだ、同じなら同じでいいし」
 汚れて賤しい自分と、高貴に見える耕平とがどう違うのか、確認したかった。
「安心していいよ。男女関係になる心配はないから。君は女で僕も女だから」
 女同士なんだからと付け加えると、耕平が嬉しそうに笑った。
 耕平がスカイブルーのティーシャツを脱いだ。
 そしてストレートジーンズを下ろした。
「やっぱり恥ずかしいな。なんだか皆が僕の裸を見たがるんだから。温泉とかに行ったら凄いんだよ、ギャラリー
引き連れてって感じ」
 恥ずかしさを紛らせるつもりだろう。軽口を言いながら、黒いビキニブリーフ一枚になった。
 スリムなのに痩せてる感じは微塵もない。
 ミチルは立ち上がって耕平の腰を抱き寄せた。戸惑う耕平の薄っぺらいブリーフをズリ下げる。
 プリンをとしたお尻をキュッとつかむと、耕平が可愛い声で呻いた。
 身長は同じくらいだ。力を入れて抱きつくと、耕平の両手もおずおずと回ってきて、ミチルを抱きしめてくれた。
 人間の体温を感じる。
 エアコンの効いた涼しい部屋の中で、ほんのり芯のある暖かさ。
 抱きしめているうちに何かがこみ上げてきて、思わず嗚咽が漏れた。
 それを感じてか、耕平の手に力がこもる。
 突っ張っていたミチルの心がゆっくりと解けていくようだった。



 34 吉野広美


 島田からのメールを見た吉野広美は、その内容の意外さに目をみはった。
 思わず、横に座って講義を受けている沢渡舞に携帯電話を差し出した。
 舞は小声でおうっとうなって、右手でガッツポーズをした。
 あのPVがヒットしてからというもの、佐川耕平はちょっとしたスター並になってしまった。
 追っかけみたいな連中にいつもつきまとわれている。
 こうなってしまうと、さすがに耕平のヌードを描かせてもらうというのは無理だと自覚していた。
 だからこちらからはそのことは何も言ってなかったのに、逆に向こうからヌードスケッチの日取りを
決めろと言ってきた。
「どういうつもりなんだろね。話題作りかしら」
 舞がこっそり囁く。
「今更そんな話題作っても、逆効果になるだけなんじゃない? もう十分人気出てるんだし。案外耕平くんって
露出好きなのかもね。自分で変態って言うくらいだし」
「高校の時の寮での話を聞いてさ、同人誌作れば絶対売れるよ」
「でも、実名出すわけにはいかないでしょ」
「まあ、その辺はやりようがあるよ。ところで、いつにするつもり?」
 善は急げだ。相手の気が変わらないうちに済ませた方がいい。
「明後日の土曜日は?」
「もちろんいいよ。でも、場所どこにする?」
 BL研究会には部室が無い。
 表向きのスキー同好会としても部室はもらっていないのだ。
 同好会程度で部室をあてがっていたら、部室棟がいくつあっても足りないだろうから、大学側を非難する
のも無理がある。
 しかし、広美はいくつか目星をつけていた。
「プリンセスベイホテルのツインを借りるんだよ。あそこの部屋、ちょうどいい感じのソファがあるのよ」
 最近はホームページを見れば部屋の内装を観察することもできるから便利だ。
「でもあそこ高いでしょ」
「三万くらい、同人誌の売上ですぐ元とれるでしょ」
 広美の言葉に、それもそうかと舞はうなずいた。

 講義が終わった後にプリンセスベイホテルの部屋を電話し、空きがあるのを確認したあと、日取りをメールで
島田に送った。
 しばらくして了解のメールが帰ってくると、すぐにホテルを予約した。
「耕平くん、今頃なにしてるんだろう」
 中庭を二人であるいているとき、沢渡舞がつぶやいた。
 既に講義はすべて終了している時間だ。
「ライブの練習で忙しいんじゃない?」 
「見学にいきたいね」 
 目の前で演奏している耕平の姿をスケッチする手つきで舞が言う。
「見学はともかく、ゆっくり話聞きたいよね。高校のころの話とか。日曜日はそんな暇ないかもしれないし」
 ヌードモデルをしながらだと、耕平自身がゆっくり話をする気にならないだろう。
 そう思うと、どうしてもその前に会いたくなってくる。
「耕平くんち、行って見ない?」
 舞の言うのも、気持ちはとってもよくわかるが、やはりちょっと厚かましい気もする。
 どうしたものかと歩いていたら、前の方にサイクリング部の山田が立っていた。
 
 山田はとっくに二人に気づいていて、近づくのを待っていたようだ。
 二人に軽く手をあげて、ぎこちない挨拶をしたあと、何か言いたいことがあるのか立ち去ることなく小首を
傾げたりしている。
 広美はピンときた。やはり山田も佐川耕平に撃墜されてしまったのだろう。
「あのさ。こないだのサイクリングの打ち上げしないか? あのメンバーで飲みにいくなんて、どうかな?」
 既に何日も過ぎているのに打ち上げもなにもないだろう。
 しかし、そんなことくらいしか耕平と一緒に飲みにいく機会を作れない山田が可哀想になった。
 講義とかでも会うことはないし、たまに学食で見かけたりするだけの山田は、結構辛い立場だと思う。
「打ち上げはちょっとね。それより、これから耕平くんの部屋に遊びにいくんだけど、あんたも付き合わない?」
 広美の言葉に、横の沢渡舞が驚いた顔で広美を見る。

 BL研究会としては、この山田と耕平の絡みをもっと見たいのだ。
 すっかり山田は耕平にいかれてしまったみたいだが、その山田に耕平はどういった態度をとるだろう。
 冷たくはねつけるか、やさしく受け入れるか。
 自分たちも話を聞きたい所だったし、耕平に会いたい山田にこっちが付き合う形で行けばいいのだと、
とっさに考えた。
「ところで、部屋わかるの?」
 となりの舞が心配そうな声をあげる。
「住所は知らないけど、大体の場所は聞いてる。行けば何とかなるでしょ」
「居なかったら?」
「その時は諦めましょ、ね?」
 ポカンとして話を聞いていた山田に、広美が念をおした。

 
  35 山田


 急転直下とでも言うのかな。どうにかしてゆっくり耕平と話をしたいと思っていたのだが、いきなり
耕平の部屋に押しかけることになってしまった。
 もちろんこの展開は自分にとっては素晴らしいものだ。
 しかし、その後に出してきた広美の条件には困ってしまった。
「あたしたちも応援するから、行ったら耕平くんに自分の気持ちしっかり伝えるのよ」
ときたのだ。
 俺は耕平の事などなんとも思っていないのだと、否定するのも何だかバカらしくて、腐女子の広美の
命令に、何となくうなずいてしまった。
 いや、今の自分には、すでにそれを否定する余力もないのだと思う。
 恋愛ってきついものだと、今更ながら思った。
 20分ほど電車に揺られて着いた駅から歩くこと10分少々。
 この辺に耕平は住んでるのか。
 どこにでもある何の変哲もない住宅地が、何だか映画に出てくるような特別な街並みに見えてしまう。
 自分が初恋をした中学生の頃に戻っていくような気がしてきた。
 前を歩く広美の足がふと止まった。
「どうかしたのか?」
 山田の問いかけに、広美はうーんと頼りなくうなる。
「この辺って聞いてたんだけど、それらしいマンションが見当たらないってわけ」
「なんだよそれ。もっとしっかり場所聞いてんじゃないのかよ」
 女はこれだからダメだ。空間認識能力が劣る女は、地図さえまともに見れないのだから。
 ぐるりと周辺を見回してみる。
 確かにマンションっぽい建物は周囲にはなかった。
「この公園でたまにギターの練習してるって言ってたんだけどね。仔猫公園って、そこに書いてるでしょ」
 広美の指差すところには、壊れかけた木製の看板が斜めになっていた。
「かわいい名前の公園だねって言ってたんだよね」
 舞も、その時の飲み会のことを思い出すように言った。
「今日は居ないのかな?」
 広美が公園内に入っていく。
 山田もついていくが、期待はしてなかった。
 すでに傾いた太陽のオレンジ色の光が、立ち木や隅の鉄棒なんかをノスタルジックに染め上げている。
 山田の気持ちも、ワクワクした期待感から、黄昏っぽく変わっていくところだった。
 奥を覗いて、やっぱり居ないか、という広美のつぶやきに重なるように、その声は聞こえてきた。
 黄昏ていた山田の気持ちを一気に沸騰させるエネルギーをその声は持っていた。
「山田さんじゃないですか」
 山田が振り向くと、ギターを背負った耕平が、公園の入り口から入ってくるところだった。
 レモンイエローのティーシャツが目にまぶしい。生地が薄いから胸の隆起が目立ったが、女にしか見えない
耕平の胸が膨らんでいるのは、むしろ自然だった。
 乳首のふくらみに目が惹きつけられた。
 頬が熱くなるのを感じる。いや、ノーブラはまずいだろ、口に出しそうになるのをなんとかこらえた。

「急に来てゴメンね。ヌードスケッチは日曜日って事になったけど、そのまえに色々聞いておきたいこと
があったし、それに山田も耕平くんともう一回ゆっくり話したいって言ってたから、ついでに連れてきちゃった」
 多分耕平のいつもの練習場所なのだろう、公園の奥の二つ並んだベンチに耕平が陣取ると、その前に立った
広美が早口で言った。
「大丈夫ですよ。この後なにも用事ないし。でも、少しこっちの練習させてくださいね」
 耕平はいつでも悠然としてるよな。慌ててるところは見たことがない。
 弱みがない人間は慌てるところもないのかもしれない、ぼんやりとそう思った。
「耕平くんの部屋ってワンルームなんだよね。キッチンあるよね。じゃあさ、お礼と言っては何だけど、
 私たちで食事作るから、みんなで食べようよ。じゃあ、あたしたちちょっと買い物してくる」
 広美が言って舞と二人で公園を出て行った。
 自分に気を利かせたのだろうか。
 だとしても、この場で告白する気にはならない。まだまだその勇気が出てこなかった。
「山田さん、ギターとかは?」
 耕平に聞かれて、いや、弾けないよと言いながら、山田は耕平の右手側に座った。
「俺は自転車一筋だから」
「そう言えば、山田さんの太股……たくましかったな」
 記憶を探るようにしながら耕平が笑った。
「お前の腰は細かった」
 男でもウエストが括れるって事があるのだと初めて知ったのだった。
「太くてゴツい太股、恰好よかったですよ」
 これはいい話題の方向性だ。これなら言えるかもしれない、好きだと。また抱きたいと。
 言葉をつなごうとしたとき、ギターのストロークに先を越された。
 前奏が終わると、耕平の澄んだボーカルが始まった。
 続けて三曲歌ったあと、耕平はギターをケースにしまいこんだ。
「もういいのか?」
「はい。山田さんたちをあんまり待たせるのも悪いし。今日はこの辺にしておきます」
「俺たちの事は気にしなくていいんだぞ」
「本当は少し指先が痛くて、バンドでも練習したあとだから」
 まだ吉野たちは帰ってこない。二人だけで話をするのは今がチャンスだろう。
 しかし、だからと言っていきなり告白するのは無理がある。
 さっきみたいに自然な話題の流れでうまい具合に行けばいいのだが。

「あの時さ。最後までできなかっただろ」
 耕平の方は見ずに、前を向いたまま、東屋での事を思いだしながら言う。
 なんとも恨めしい車のライトだった。
「そうでしたね」
 同じ記憶をたどっているのか。耕平はうつむいてひと言答える。
 またあれをやり直したい。お前を抱きたい。
 そう言いたかったが、言葉にできなかった。
「あの車、すっごくむかつきましたね」
 言葉につまっていると、耕平がそう言ってくれた。
 むかついたってことは、耕平自身も抱かれたかったということだ。
 俺はお前が、と口にしたとき、なんとも間の悪いことに広美たちが買い物袋を手に下げて戻ってきた。
 あと五分遅く帰ってきてくれたらよかったのに。
 とは思ったが、まだチャンスはある。だいたい、この腐女子たちは俺の味方なんだから。
 じゃあ部屋に行きましょうか、と言って耕平が立ち上がった。
 山田は、立ち上がりながら広美を睨む。
 広美の事だから、この目つきの意味はすぐにわかるだろう。
 耕平の部屋でしっかり援護してくれよ。

 仔猫公園を出て、石段を10メートルほど上がる。
 そして右に行った奥のところに、耕平のマンションがあった。三階建てのこじんまりとしたビルだった。
 302号です、と言いながら、耕平は舞と先を歩いていた。
「どう?告白できた?」
 広美が横から小声で聞いてくる。
「もうちょっとだったけど、お前たちに邪魔された」
 ふんと息を吐きながら答えてやる。
「顔見たらわかったけどさ。大丈夫。夜は長いんだからチャンスはあるって」
 腐女子は気楽でいいな。
 男同士をくっつけて楽しむのだから。自分たちにはまったく火の粉はかかってこない。
 しかし、いつもはウザく思ってるだけの広美たちを、今日は心強く思えてしまう。
 耕平みたいな男の娘の気持ちも、広美たちの方がよくわかってるだろうし。
 いや、しかし耕平って男の娘なのかな?
 普通は女装したりしているかわいい男をそう言うんだろう?
 耕平は女装しているわけじゃないから違うんじゃないか?
 どうぞと言って耕平が部屋のドアを開いたままにしている。
 広美はお邪魔しますとひと言言って先に中に入った。
 耕平が微笑んでいる。この微笑みは男を引き寄せる極上の美少女の微笑みだ。
 どんなに抗っても、そのブラックホール並の引力には逆らえない。
 こいつこそ本物の男の娘なのかもしれない。
 耕平の開く扉を見て、なんだか深い異世界の扉をくぐる気になってしまった。
 一度入ったら、もう普通の世界に戻ってこれなくなる。あながち的はずれな想像ではないと思った。
 でも、俺はすでにその世界に入ってしまったのだ。そうだよな。
 山田はその気持ちを口には出さずに、耕平に一つうなずいて中に入った。



36 山田



 想像していたよりも広い部屋だった。ワンルームマンションというのは本来もっと狭苦しいものという
 イメージがあったのだ。エアコンの冷えた風が額にかいた汗を爽やかに拭い去ってくれる。
 ライムグリーンのカーテンが目に心地いい。
 雑誌類が何冊か散らかってるくらいで、あとは綺麗に片付けてある。
 雑誌を一つ手に取ってみる。文芸誌だった。
 そう言えば耕平は文学部だったな。ふと思って、山田は聞いてみた。
「耕平って、どんな仕事に就きたいんだ?」
 4つのコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れていた耕平がこっちを見た。
 広美たちは狭い流し台で苦戦しながら食材を袋から出して広げている。
「雑誌の編集なんか、できたらいいなって思ってます。できれば文芸誌かな」
 耕平が二つのカップを持って山田のそばに座った。
 山田はカップを一つ受けとると、一口すすった。
「編集者か。面白いのかな?」
「面白いですよ。オンラインの小説の中から有望株を見つけたり、新人の作家を二人三脚で育てたり」
「でも、自分で小説書く方が面白いだろ?」
「それはそうでしょうけど、僕には無理ですよ」
「そんなことないだろ。特別な体験も豊富みたいだし、ネタには困らないだろ」
 一瞬気を悪くするかと思ったが、特に気に留めなかったように耕平は軽く首を振った。
「ネタがあれば小説書けるってもんでもないですよ。いい素材があっても、それをどう料理するか、ですよ」
「書いてみたらどうだ? 高校時代に色々あったんだろ?」
「あ、それいいね。書けたら読ませてよ。漫画にするから」
 キッチンに立ったままで広美が声をあげた。
「本当。それならインタビューする手間もいらないわね」
 となりの舞も言う。
 そうだな、つぶやいて当の耕平は首を傾げて物思いに沈む。
 
 出来上がった料理は、食事と言うより宴会のつまみという感じのものだった。
 鶏の唐揚げにポテトサラダに天ぷらなど、結構脂っこいものだ。
「はい、もちろんビールもたっぷりあるよ」
 広美が冷蔵庫に入れておいたビニール袋から、500CCの缶ビールを六本取り出した。
「なんだよ。食事作るなんて言っていて、結局宴会じゃねえか」
 山田の言葉に、広美は当然よ!と応える。
「お酒入った方が耕平くんも話がしやすいもんね」
 耕平の方に向いて広美が言うと、耕平もええ、まあといって苦笑いをする。
「酔ったら淫乱になるそうだから、山田さんチャンスですよ」
 舞もずいぶんきわどい事言うものだ。少し意外だった。いや、腐女子はみんな同じようなものかもし
れない。
 宴会が始まり、真四角のテーブルを囲んだ四人は各自ビールに料理にと胃の中に収めていく。
「結構うまいな。唐揚げ、案外うまく作るの難しいだろ。からっと揚げるのとかさ」
 広美たち二人共、とても料理上手には見えなかったのだ。
「まあ、このくらいはね。女として当然よ。重要なのは油の温度、かな?」
 広美が低い鼻をことさら上向きにするようにつんと突き上げる。
「そうだ、耕平くんは料理してるの?」
 舞が耕平に聞いた。 
「揚げ物は面倒だからあんまりしないけど、普通にフライパン使うくらいはしますよ。自炊の方が安上がりだし」
 耕平の空いたグラスに、スーパードライを注ぎ込むと、耕平は言った後一息に飲み干した。
「おお、いい飲みっぷり。でも、あんまり酔ってしまわないでね、話聞けなくなると困るから」
 広美は少し心配そうだ。
「一体何の話聞きたいって言うんだ? あんまり耕平を困らせるなよ」
 過去を根掘り葉掘りほじくられるのは嫌なものだろう。
 一応広美に釘を刺しておこうと思った。
「そうだ、一つ聞いてもいいかな? 」
 舞が手を挙げる。
「なんですか? おいしい料理作ってくれたんだから、何だって答えますよ」
 耕平も酒の効果が現われているようだ。首を傾げた表情に色気が漂ってきた。
 赤くなった目元がグッと来るな、と山田は思う。
「耕平くんもさあ、オナニーとかするの? 」
 沢渡舞というこの女のイメージを変える必要がありそうだ。
 もっとおとなしい子だと勘違いしていた。
 さすがにこの質問には耕平も驚いたのだろう。
 ええー? と疑問符付きの感嘆詞をあげる。
「答えられなかったら、罰ゲームとして尻叩きってのは? 」
 広美が横からルールを追加した。
「耕平をあんまりいじめるなよ、可愛そうだろ」
 そう言う山田に耕平がしなだれかかり抱きついてきた。
「山田さん、ありがとうございます。でも、この程度大丈夫ですよ。なんたって酔うと僕は変態になるんで
すからね」
「きゃー、りゅうちゃん、そこで一気に押し倒しちゃえ」
 無責任な広美の歓声が上がる。
「ええと、オナニーですよね。実はあんまりしてません」
 反動でふらりと山田から離れた耕平が言った。
「ええー? 健康な男子がそれは無いでしょ。三日で満タンに溜まるって聞いたけど?」
 どこから聞いてきたのか広美が変な知識を披露した。
「最後に発射したのは、高校の卒業式の後くらいですよ、もう半年出してないし」
 耕平の言うのもちょっと信じられないことだと思ったが、そういえば耕平は高校のころ女性ホルモンを
飲まされていたとか言っていた。そのせいだろう、山田は納得できた。
 実は、と前置きして、耕平がそのことを話し出す。
 特に秘密にしていたことでもないようだ。二人だけの秘密かと思ってワクワクしていたのに、と少し不満に思う。  
「……、だからタマタマの働きがすごく悪くなってるんだと思うんです。髭も生えてこないし。もう
薬止めて半年以上なるんですけどね」
 女性ホルモンの話を聞いたとき、山田はかなりショックを受けた。
 もともと、いじめでそんなことするなんてひどすぎると思った。
 不妊になれば一生子供が持てなくなるかもしれないのだ。それって、人間として生きる目標の一番大きなもの
の筈だから。
「じゃあ、全然ムラムラしたりしないの? 」
 広美たち腐女子にとっては、ショッキングな事では無いのか?
 女性ホルモンって、プレマリンとか? という質問を平気でしたあと、続けてそう聞いてきた。
「ムラムラすることはありますよ。特にお酒飲んだりしたらなんだかエッチしたくなります。そんなときはベッドで
胸とかあそこ触ったりしますよ」
「あそこって、前? 後ろ?」
 舞が前のめりになりながら聞いた。鼻息が荒そうだ。
 耕平はアハハと明るく笑って、僕の場合どっちかわからないのか、一応前ですよ。と答えた。
「うーんすっごく興味あるな。美少年というか、美女のオナニー。ちょっとやってみせてくれないかな?」
 広美も酔ったのか、ますますエスカレートしている。
 しかし、さすがにその要求は耕平も拒否する。
「まさか、さすがに無理ですよ、恥ずかしいです」
「じゃあ、裸見せてよ。そうだ、ヌードスケッチ今からやろうよ。せっかく舞もいるんだし」
「あ、それいいわね。スケッチブックなら持ってるし」
 舞が大きめのトートバッグからスケッチブックを取り出した。
 ほら、見てと言いながらそれを開く。
 絨毯の上に広げられたその中には、耕平の横顔とか、斜めを向いてるところが描かれていた。
 すごく似ている。普通のスケッチから、漫画的に簡略化した顔もあるが、そのどちらも特徴をうまくとらえていた。
「案外やるもんだな」
 思わず山田の声が漏れた。
「そうでしょ、舞は同人誌でも売上結構あるんだから」
 広美が自分の事のように自慢する。
「なんか変な感じですね、自分の絵って。これ、写真からですか?」
 耕平が舞に聞く。
「耕平くんは知らないかもしれないけど、耕平くんの写真結構出回ってるのよ。写真部とかが望遠で狙ったりしてるみたい」
 舞がアイフォ−ンを取り出して、その写真を耕平に見せる。
「盗撮かよ。ちょっとひどくないか?」
 耕平が怒りを感じる前にと、山田は抗議の声を挙げてみる。
 耕平を見ると、怒ってる風じゃなかった。でも困った顔をしている。
「自分の知らないうちに写真撮られるのって、ちょっと困るかな。変な顔してるとき撮られたくないで
すからね」
 やんわりとそう言う。
「でも、作ってない普通の表情もいいもんだよ。だいたい変な顔してる写真じゃ売れないでしょ」
 広美の言葉に耕平が驚いた顔をした。
「売ってるんですか? ちょっと呆れました」
「君はそれだけ人気者ってことだよ。それだけの価値があるの。自分でもわかってるでしょ」
 舞が横で耕平の背中をゆっくりさすりながら言った。
「わかりました、じゃあ佐川耕平、脱ぎます」
 勢いよくそう言うと、耕平が立ち上がる。一瞬ふらついたが、すぐにバランスを取り戻した。
 広美と舞がキャーキャーと軽い声援を挙げる。
 耕平の潤んだ眼に見つめられた山田は怖気づくように、身体を後ろにそらしてしまう。
 耕平が、ゆったりしたレモンイエローのティーシャツをスルリと脱いだ。
 白くて滑らかな、シミ一つない肌が露わになる。
 広美達の声援もピタリと止んで、部屋の中が急に静になった。
 FM放送のノイズが聞こえたように思ったが、ふと見ると窓の外は雨が降っていた。
「なんか、やっぱり恥ずかしいな。急に黙らないでくださいよ」
 それまでの高ぶりが覚めたみたいに耕平は後ろを向いた。
 まだ酔いが足りなかったか?
「自分だけ裸ってのも恥ずかしいよね、じゃあさ、りゅうちゃんも脱いでよ。二人で脱げば恥ずかしくないでしょ」
 広美がまた変な提案を出してきた。
 なんで俺がと言いかけたが、耕平の賛成の声に封じられてしまった。
 仕様がねえなと言いながら山田は立ち上がる。立ってみると、結構酔っていることに初めて気づいた。



つづく



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