29 遠藤ミチル


「おい、何か聞こえない?」
 横を歩いている坂田俊夫がミチルの左腕を小突いた。
 早く部屋に帰って抱かれたいと思っていたミチルの耳が、ギターの音色をとらえた。
「公園で練習してるのかな?」
 そっちに足を向ける坂田を引っ張って部屋に連れ込みたい所だったが、仕方なく後をついていく。
「あ、女の子だよ。珍しいな、公園でギター練習してる女の子って」
 女と聞いて少しほっとした。坂田は女には興味ない男だからだ。
 とはいえまったくの男らしい男が好きな同性愛者とも違っていて、ミチルのような割と中性的というか、
ちょっと女っぽい男が好きな同性愛者だった。
 その坂田の向かう先には、ほっそりした高校生くらいの女の子が青いギターを抱えてベンチに座っている。
 その娘が顔をあげてこっちを見た。
 綺麗な子だなと素直に思った。ミチルは女に対してまったく性的な関心を持たない男だが、そのミチルから見ても
つい見つめてしまう顔だった。
「こんにちは。ギターの練習?」
 坂田が馴れ馴れしく声を掛ける。そうですけど、という女の声は明らかに警戒している。
 男二人組からナンパされていると勘違いしているのだ。
 ばっかじゃないの? こっちは女なんかに興味ないっての、と言ってやりたかった。
「あ、大丈夫。ナンパじゃないから。俺たち恋人同士なんだよねーなんて」
 そう言って坂田は横のミチルの腰を抱き寄せた。
 わざわざそんな女の警戒とくことないのにとも思うが、そうやって抱かれるのはミチルも嬉しかった。
「男同士……ですよね」
 ちょっと首を傾げた女が驚いた顔をする。
 同性愛ってまだ珍しいのかな、あんたテレビも見ないの?と言ってやりたかった。
「そうさ。男同士でおもろい夫婦なんてね」
 笑いかける坂田に、やっとその女も笑った。
「ホモって初めて見た?」
 坂田がさらに問いかける。ホモだなんて、自虐的な言い方だ。ミチルはついむっとする。
「そんなことないですよ。でも、やっぱり初めてかな?」
 テレビではよく見るといいたいのだろう。実物は初めてということか。
 一般的な反応だ。テレビで見てる分には、世界の反対側のことであって、自分の世界のこととは思えないのだ。
 実物を間近に見てしまうと、テレビで見てたのとは印象が違って、一気に拒絶反応が出たりする。
 そういう一般人の男女をミチルはこれまでよく見てきた。
 なんだか暗い気持ちになったと思ったが、考えてみると周囲はすでに夕暮れが近づいているのだ。
 西の空が少し赤くなっている。
 坂田がその娘の前にしゃがみ込む。まだ時間掛ける気かと、ミチルはこっそりため息をついた。
「最近、BLって流行ってるじゃない。知ってるかな?」
 坂田の言ってるのはボーイズラブのことだ。坂田の部屋のBL漫画の棚を思い浮かべた。
 男の同性愛者で、BL漫画が好きというのは、実は珍しい。
 男の同性愛者は、男らしい男が好きな人がメジャーであって、自分も男らしくしようとするものだ。
 だから、坊主頭の太鼓腹のおじさん同士でカップルだったりする。
 BLは女性に受け入れやすくするためか、見た感じが男女と変わらない。女役が見た目女な事が多いのだ。
 そういうのは本当の同性愛者の実態から外れているし、彼らからは毛嫌いされていたりするのだった。
「BLですか? 知ってますよ。あんまり読んだことないけど」
「俺たちそれを地で行ってるってこと。それ言うと結構女が寄ってくるんだよ。こっちは女に興味ないってのに、
迷惑なんだけどね。腐女子って知ってる? BL専門の追っかけみたいな連中」
「腐女子ですか。そういえばあの人はそうかな」
 誰かを想像したのか、その娘が斜め上を見るようにした。
「しかし残念だな」
 坂田がまた話を変えた。その娘が小首を傾げる。
「君が女ってのが。いくら美人でも女じゃな。君が男ならめっちゃBLなんだけどな」
「BLになりますか?」
「なるよ。君が男子寮に入っててさ。大勢の男たちに群がられる話」
 何を思ったか、その娘がクスクス笑い出した。
 もう、いつまで時間つぶしてるんだか。ミチルはイラついてきた。
 坂田の考えはわかっている。
 この子が男だったらという妄想で、一人で盛り上がっているのだ。
 頭の中でBL漫画を組み立てているのだろう。そりゃ、この子が男だったら、自分なんて足元にも及ばない
美形男子だろうけど、そんな妄想したって始まらない。現実を見なければ。
「何か歌ってよ」
 妄想に満足したのか、しゃがんでいた坂田が腰をあげた。
 最後の坂田のお願いに、恥ずかしいから嫌ですと答えると思ったその女は、意外なことに前奏を弾き始めた。
 弦を抑える指がまだおぼつかないが、それでも一応聴けるものだった。
 スピッツのチェリーだ。歌声が少し女にしては低くて、芯のある声だった。
 結構うまいじゃないか。バンドでもやってるのだろうか。
 坂田との二人きりの楽しい時間を邪魔された事に腹を立てていたミチルの気持ちが少しやわらいだ。
 まあ、女なら、坂田を取られることもありえないわけだし。
 少しの道草くらい大目に見てやろう。
 歌が聞こえたのか、周囲に少し人が集まってきた。
 衆人環視の中でも臆することなく張りのあるボーカルを聴かせる。やっぱり、まったくの素人じゃないよな、
とミチルは思う。
 歌い終わると周囲からパラパラと拍手が沸いた。
「いいね。たださ、まだ歌と演奏がちょっとずれてる所があるよ。バンドのボーカル? ギターは初心者なんだろ」
「そう、ボーカルやってます。でも自分でも弾けるようになりたかったから先月ギター買ったんです」
「何てバンド? ライブやるなら聴きにいきたいな」
「碧い空と白い雲というバンドです。まだライブの予定はないけど、ひょっとしたら近々あるかも」
「何だよ、そのはっきりしない言い方」
「こないだプロモーションビデオ作ったんですよ。結構人気なみたいだから……」
「そうか。ライブあるなら見にいくよ。そうだ、バンドのホームページとかある?」
 その娘が首を振る。
「君がボーカルならビジュアル最高だから、ホームページ作ってアピールすればいいのに。会員制ファンクラブも作って、
会員にはメルマガを送るとか」
「おもしろいですね」
「現代はネット社会なんだから。演奏を動画掲示板にアップするとかさ」
 なるほどという感じでその娘が頷く。
「じゃあ、頑張ってな。あ、そうだ、君の名前教えてよ」
 立ち去ろうとした坂田が、振り向いて聞く。
「佐川耕平です。よろしく」
 その娘が答えた。
「耕平? まさか男?」
 坂田の問いかけに、その娘がこくんと頷いた。


 30 今泉幸三


 上映の合間の少し明るい映画館の中が急にざわめいた。
 若い子が入ってきたな、今泉は入り口に目をやったが、人だかりで見通せなかった。
 この映画館にも若いのがたまに入ってきてはもみくちゃにされることがある。
 滅多にないことだけど、以前、知ってか知らずか高校生くらいの若い子が入ってきたことがあったが、一番後ろの
立ち見の場所で五人くらいに囲まれてほとんど全裸にされていた。
 一人は股間にしゃぶりつき、別の男は右の乳首もう一人が左の乳首。股間を刺激されて思わず引いた尻にまた別の男が
入り込んでいた。そしてその高校生は、快楽地獄の中で三回くらい果てて、逃げるように帰って行った。
 その子がまた来たのかな?
 しかし、いつもとはざわめき方が違う気がした。そのざわめきは歓喜の表情よりも、当惑のイメージを発散している。
 人ごみをかき分けて、ざわめきの方に近づく。
 止めてください、ちょっと、という声が聞こえた。触られていやがっている。
 ここに来るような若い男は、たいがいは触られて気持ちよくなるのが目当てで来るのが多い。
 触るのやしゃぶるのが好きなおじさんが、そんな若い男に群がるのだ。
 知らずに入ってきたのだろうか。
 チラリと見えた顔は、男には見えなかった。女? まさか。こんな汚いアダルト映画館に若い女が入って来るなんて、
まったく想定外なことだ。
 近くにいくと既にもみくちゃ状態だった。
 ちょっとまずいだろ。女にそんなことして、事件になるじゃないか。
「女に何やってるんだ。事件起こしたらこの映画館閉鎖されっかも知れんぞ」
 下半身を脱がしにかかっていた男が、そう言う今泉を見た。
「大丈夫、こいつ男ですよ」
 そう言ってその子の股間を触る。ジーンズは既に膝まで下げられていてライムグリーンのビキニが、すんでの所で
股間を隠していた。
「止めてください、ちょっと」
 その子は必死で身体を離そうとするが、回りに群がる五人以上の男の力にはとても抵抗しようがない。
 すぐに全裸にされて交代で尻を犯されるのだ。
 この映画館に入ってきたのが運のつき。
 やっと顔をじっくり見れたが、高校生くらいの顔つきだった。しかもかなりの美形。
 受付を通れたのが不思議なくらいだ。まあ、あの受付係も若い子が大勢の男に犯されるシチュエーションが
好きそうな事を言っていたから、18歳未満とわかっていても見ないふりしてそのまま通してしまうのかもしれない。
 今泉は、止めに入るつもりは毛頭なかった。その美少年が大勢の汚い中年男たちに汚されるのをじっくり見て楽しむつもりだった。
 今泉の気が変わったのは、映画館が上映に入り暗くなる寸前、その子と目が合った時だった。
 すがるような目つきにグッと来たのだ。
 今泉は無言で下半身に取り付いている男を押しのけた。
 男から抗議の声が上がるが無視して、美少年を引き寄せる。
「てめえ、なにすんだぶっ殺すぞ」
 胸に吸い付いていた男が刺のある言葉を吐いた。
 暗いから今泉とわからないのだろう。無礼な言葉は大目に見よう。
「本気で嫌がっている。この子は止めておけ。だいたいお前たちにはもったいなさすぎだ」
 声で今泉とわかったようだ。その男も、他の男たちもそれ以上向かってくる気配はなくなった。

 暗い映写室を出て蛍光灯の白い光に照らされた喫煙ルームに入る。
 衣服を整えた美少年も今泉の後から着いてきた。
 3人掛けソファの端にむさ苦しいヒゲの男が一人すわっていたが、今泉を見ると、軽く会釈をして出て行った。
「さっきはどうも……ありがとうございます」
 立ったままの美少年が、座った今泉にお辞儀をした。物腰がやさしい。こうしてみると女にしか見えない。
 一体全体何でまたこの子がこんな映画館に入って来たのだろう。
「まあ座れよ、少し話聞かせてくれ」
 今泉が、自分の横に座れるように左にずれた。
 その少年が横に座る。肩が細いな。髪の毛も、女のようなやわらかな髪だ。
「お前ここがどういう映画館か知らなかったのか?」
「成人向け映画館……ですよね」
 ちらりと今泉の目を覗くその子の瞳は、今泉の気持ちの奥の何かを揺さぶる。
「成人向け映画館には違いないけどな、ここは男が男に痴漢するような場所なんだよ。ここに来る若いのは、
たいていおっさんに気持ちよくしてもらうのが目的で来るんだ。暗黙の了解ってやつだ。知らなかったのか?」
 深くため息をついて、その子は首を振った。
「友達に誘われたんです。アダルト映画見たことないって言ったら、何事も経験だから行こうって」
「その友達は?」
「入り口で、もう一人の友達を待つから先に入ってろって言われました。一番後ろの立ち見の所にいろって」
「ここがどういう映画館か説明されなかったわけだ」
 こくんと少年が頷く。
「だとしたらハメられたんだな。どういう友達か知らんが、お前を中年男たちの餌食にしようとしたんだ」
「まさか、そんな」
 他人を疑うことも知らない純情な少年か。思わず今泉は笑いそうになる。
「あのな、一番後ろの立ち見席ってのは、一番痴漢が盛んな場所なんだよ。若いのが全裸にされて四、五人から
身体中舐め回されて昇天する場所。その友達は知っていてそこに行けって言ったんだろ」
 そう言うと、やっと理解できたのか少年は悲しい顔をした。
「ミチル、いい友達になれると思ったのにな」
 小さな声でつぶやく。
 話を聞いていて、ゲイの三角関係だとわかった。
 坂田とミチルのカップルにこの子が加わったが、坂田の気持ちがこの子に移るのを感じたミチルがしくんだようだ。
「別に坂田さんとどうかなるつもりなんて、全然無かったのに」
 少年が不満を吐き出す。
「お前にその気が無くても、坂田がのぼせそうになったんだろ。その二人にはもう近づかん方がいいだろうな」
「そうします」
 一つお辞儀をして、その少年が立ち上がる。
 今泉がその子の手首をつかんだ。全然その気は無かったのに、今になってすんなり返してしまうのが惜しくなった。
 今泉に倒れかかる少年の体重は軽かった。でも、痩せてるわけでは無いというのは、ティーシャツの中に滑り込ませた
手が教えてくれる。
 緩やかな隆起の胸を撫で、乳首をつまんでやると、少年が甘い声をあげた。
「しゃぶれよ。やったことあるんだろ」
 チャックを開けて、既に棍棒のように固くなっているものを取り出した。
「でも、こんな所で」
 場所を気にするだけで、すぐに拒否しないのはやっぱり経験あるのだろう。
「俺がここにいるときは誰も入ってこない。暗黙の了解ってやつだ」
 少年は入り口の方をちらりと見たが、すぐに今泉の股間にひざまずいた。
 今泉の棍棒を両手に持って眺めている。
「でかいだろ」
 今泉の言葉に少年が、またこくんと頷く。
「ケツ掘ってやろうか」
「無理ですよ」
「こんなでかいの入れるの無理か?」
「というか、処置していないし」
 バックの経験もありのようだ。まったく最近のガキと来たら……。
 呆れるというより、羨ましくなる。
 ネット社会でマイナーな趣味の人種が出会い安くなっているのだ。
 少年が棍棒の先端を口に含んだ。
 舌が亀頭の縁をゆっくりと舐め回す。
 上から覗いていると、男にやってもらってる意識はまったくなくなる。
 普通に女にやってもらってるようだった。
「ジーパン下げて尻を出せ、今は掘らないから」
 今泉が命令すると、少年は咥えたままで片手で器用にベルトを外してジーンズと下着を一緒に膝まで下げた。
 その白くて滑らかな尻も、少女のような尻だった。
 男の場合、尻の脂肪も薄いから、尻っぺたがへこんだようになる場合が多いが、グッと張りのある尻は
男の目をひきつけ、思わず触りたくなるものだった。
 そのしっとりとして手のひらに馴染む尻をさすり揉んでやる。
 ひょっとして、この子はこの映画館がどういう種類のものか知っていたんじゃないだろうか。
 さっきの話は全部出まかせだったのでは?
 自分が勘違いしていたのかもしれない。その少年の技巧は今泉にそう思わせるのに十分なものだったのだ。

 今泉は最初からここでいくつもりは無かった。
 一度射精してしまうと気分がだらけてしまう。日に何度も射精できる若さは、数年前になくなっていた。
 しかし、少年の尻を撫で、その肛門に指をねじ込んだりしていると、自分の中の興奮メーターが一期にレッドゾーンに突入した。
 やばい、少年をどけようとしたが、むしろ少年は吸い付いてくる。
 瞬間的に快楽が頭を突き抜け、腰が自動的にびくんと跳ねる。
 それほど溜まっているわけでもないはずなのに、射精感は大きく、何度も跳ねるようだった。
 

 31 島田


 きゃー耕平くんだ、サインください!
 声がした方を見ると、振り向く耕平に三人組の女が色紙を差し出すところだった。
 耕平が差し出されたサインペンで、色紙にサインしている。
 最初のころは戸惑っていた耕平だったが、度重なるサイン攻めにすっかり慣れてきたようだ。
 サインの仕方も何となく板についてきた。
 三人の女たちはサインをもらった後、握手もして、満足そうに下がった。
 それでも、この学食内で五人の座るテーブルを遠巻きに見守っている。
「なんかさ、ここでミーティングってのも無理があるようだな」
 白池が長髪の頭を掻きながら言った。困った半面嬉しくもあるという表情だ。
「いくつかオファーが来てるんだ、メディア研究会からはホームページとメルマガ作らせてくれって言うの。
それに、イベント研究会からライブの依頼。両方共、部室使ってくれていいって言うから、次からそっち使うか」
 島田がファイル綴じを開いて言う。
「もうライブの依頼ですか」
 耕平が聞く。喜ばしい話なのに、あまり嬉しそうじゃない。少し疲れているのかもしれない。
「ああ、この分ならクラブで演奏のバイトとかする必要なさそうだ、PV当たったからな」
 島田の言葉の後を田頭が引き継ぐ。
「結局PVの製作費も、払わずにすんだもんな。公開権と引換ってことだったけど、あいつらどのくらい稼いだのかな」
「一人300円で一度に30人ちょっとに見せて一万くらいだから、10回で10万、その倍くらいは稼いだんじゃないか?」
 白池が言ってる間にも、また耕平がサインを求められている。
「しょうがないな、場所変えるか」
 そう言って島田が立ち上がった。

 部室棟の方に歩くうちに、島田はイベント研究会部長の小田の携帯に電話した。
 電話に出た小田は、今日は休みで家にいるそうだった。
 部室には誰かいると思うから、使っていいということだった。
「そうだ、吉野さんとこからも、こないだ言ってた耕平のヌードを描く会のスケジュール入れてくれって
依頼有ったけど、これはさすがにキャンセルでいいよな」
 歩きながら島田が横の耕平に言った。
「いえ、やっぱり約束は約束だから応じますよ」
 小さな声だけどはっきり耕平が答える。
 他のメンバーの驚きの声が重なった。
「冗談だろ、今の耕平がそんなことすれば大騒ぎになるぞ」
 田頭が叫んだ。
「まあ、極秘でやればできんことはないと思うけど、本当にいいのか?」
 島田が耕平の顔を覗き込んだ。
「いいですよ。きれいに描いてもらえるのなんて今のうちだけだし」
 なんだか元気が無い。
 これは何かあったなと思ったが、他のメンバーもいる中では聞けなかった。
 イベント研究会の部屋は、部室棟の三階の端にあった。
 外階段の手前で、男が一人立ち尽くしていた。
 サイクリング用のジャージを着ている。耕平を見つめているようだった。
「あ、山田さん、先日はどうも」
 耕平が会釈をして言う。少し声が明るくなった気がした。
「ああ……、また、行きたいな」
 その男が吉野たちとのサイクリングを案内した男のようだ。
 しかし対応がぎこちない。
 耕平の視線を外すようにして、じゃあと小声で言って去って行った。
 あいつも耕平に恋をした一人なのだろうと、島田はぴんときた。
 ひところの自分や安岡の状態に酷似していたからだ。
 とはいえ、自分はあの状態から脱却できただろうか。
 寝ても覚めても耕平の事が思い浮かんで、会いたくてたまらなくなる。
 そのやわらかな眼差しを受けたくてたまらない。
 そんな熱病のような状態は抜けたと思う。今でも好きな事に変わりは無いが、耕平の気持ちを第一に考え
なければならないという、理性の気持ちがしっかりとした壁となって、感情の暴走を抑えるくらいにはなれた。
 安岡も同じのようだ。
 
イベント研究会の部室は二階の奥にあった。
ノックをすると、しばらくして扉が内側から開いた。
「バンドの人かな? 耕平の?」
小太りの男は島田の後ろに立っていた耕平を見つけて、ニヤリと笑った。
「すごいよな。これで男って言われても、誰も信じないよ。超美形だもんな」
言いながら男は下がって皆を招き入れる。
「話は聞いてるから。ここを打ち合わせに使ってください。あ、俺はイベント研の宮永。よろしく」
宮永は耕平に手招きして、椅子を引いてそこに座らせると、その横にしゃがんで見上げるようにした。
「俺すっかりファンなんですよ。握手いいですか?」
いかにもオタクっぽい男だ。嫌悪感が沸いてしまうが、ここで喧嘩したら、また場所探しにいかないといけなくなる。
嫌々ながらも愛想笑いを浮かべる耕平の手を握る宮永の後頭部をはたきたいのを、島田はやっとの思い出こらえた。

じゃあごゆっくり、俺はちょっとでてくるから、と言い残してせわしないオタク宮永は出て行った。
がらんとした部室の4人掛けテーブルにメンバーを座らせる。島田だけは、壁際にあったパイプ椅子を持ってきて座る。
「まずライブの件だけど、イベント研の方からの話では、こっちはその日に演奏するだけで、チケットの販売や場所の
設定などは任せてくれとのこと。ただ、ギャラは収益の4割ということだった」
島田が報告すると、田頭が不満の声をあげた。
「4割かよ。案外少ないな。仮にチケットが一枚1000円として、200人で二十万。こっちはそのうちの8万。
あ、でも収益ってさ、会場の費用とか差っ引いた分だろ。だったら、20万から場所代とか引けば、純利益は半分も
いかないかもしれないのか」
「一桁少ないだろ。あいつらの言葉では、ライブするなら1000人以上は楽に集まるって言ってたぞ」
島田の言葉に、他の四人が軽く感歎の声をあげた。
「そんなに集まるものですか?」
耕平は不安そうだ。
「耕平はさ。自分じゃ分かんないのかもしれないけど、すっごく魅力的なんだよ。男にとっても、それから女にとってもさ。
学食でもサイン攻めだったじゃないか。俺も、1000人なら楽勝だと思うな」
田頭が耕平に諭すように言う。
「問題はライブの曲だな。やっぱりオリジナルを半分くらいは入れたいからな。あと三曲。田頭頼む」
島田の依頼に、それまでふざけた笑いを浮かべていた田頭が真面目な顔になった。
「まあ、二曲は頑張ってみるよ。でも、耕平、お前も文学部なんだし、一曲頼む」
目の前に座る耕平に田頭がそう言った。
「曲は俺たちがあとつけするから。作詞だけでいいんだ」
島田が付け加えると、困惑の表情だった耕平も何とかうなずいた。
ミーティングは問題なく進んでいく。


 32 坂田


 公園に入ったところで、微かにギターの弦の響きが聞こえてきた。
 やっと会える。坂田は、思わず速度を増す急ぎ足で奥のベンチに向かう。
 三度目の正直というのはあるものだ。耕平に会いたくてこの公園に通って三回目だったのだ。
 桜の木の陰から、濃いブルーのギターを抱える耕平の姿が現れた。
 午後五時を少しまわったところだが、真夏の太陽はまだ燦々と降り注いでいる。
 だからだろう、いつものベンチとは違って一つ横の、木陰のベンチに耕平は座っていた。
 金属でできた組立式の楽譜台に広げた譜面を眺めながら、アルペジオを弾いている。
 耕平の周りには数人の聴衆が集まり、歌うのを待っていた。
 結構固定ファンもできたのかもしれない。
 足を止めて遠巻きに見ていると、耕平が古い歌を歌い始めた。
 さだまさしの「秋桜」か。
 ギターもずいぶん上達したようだ。きちんとハンマリングオンもプリングオフもできている。
 歌い終わったところで、周りから拍手がおこった。はにかむような笑顔でその拍手に耕平が応えている。
 その拍手の中で、坂田は前に進む。
 耕平の目が坂田をとらえた。あ、と小声で言って、軽く会釈した。
「やあ、やっと会えた。何度かここに来たんだぜ」
 坂田が言う。周りの聴衆は気を利かせてか、ちりじりに離れて行った。
 坂田は耕平の横に腰を下ろした。
「今日は、ミチルは一緒じゃないんですね」
 うつむいたままで耕平が言う。
「あいつとは別れた。あいつのわがままには、いい加減嫌気さしてたんだ」
 坂田が言うと、耕平はやっと坂田の顔を見た。
「そんな。あんなに仲良かったのに……」
「俺も悪かったと思うよ。お前の事、あいつの前で言いすぎたかもしれない。やきもち焼いてたのかもな」
「でも、僕はそんな気無いってわかってたでしょ。坂田さんも、ミチルも」
「どうだろうな。俺はわかっていたぜ。でも、ミチルは焦りすぎだったかもな」
「恋人がとられそうで、前が見えなくなっていたって事ですか」
「多分」
「もう元に戻れないんですか?」
「無理だよ。あいつ、お前に何か仕掛けただろ」
「映画の事ですか……」
「大丈夫だったか? あそこ、ヤバい映画館だっただろう」
 耕平がそっぽを向いた。
「十人くらいにまわされました」
 深くため息をつく坂田に笑いかけて、耕平がすぐに言葉をつなぐ。
「嘘ですよ。ヤバかったけど、やくざっぽいおじさんに助けてもらいましたから」
 また、坂田が深くため息をついた。
「いや、冗談じゃないんだって。あそこってさ、エイズの巣窟だぜ。十人にやられたなんて言ったら、
完全に伝染ってるくらいなんだから。ヤバいよ」
 やっと耕平も真面目な顔になった。
「そうですね。病気の事があったか」
「お前の場合、高校生同士とかなら病気の心配はほとんど無かっただろうけどな。ああいう場所とか、
発展場みたいなホモの集まるよなところは止めておいた方がいい」
「まあ、ゲイの人にはモテませんから。僕は」
「お前みたいなのが好きなホモだっているんだから。ここにさ」
 悲しげな坂田の笑顔を見て、また耕平がうつむいた。
「ミチルに悪いことしたな」
「あいつの事はいいよ。罠仕掛けるような性格悪い奴は放っておけ」
「でも……。ミチルとはいい友達になれると思ってたんですよ。タイプも似てるし」
「俺さえいなけりゃ、かな。とにかく、ミチルの事も俺の事も忘れてくれ。映画館での事が気になって
たんだ。お前が無事だったならなによりだ」
 坂田が立ち上がった。
 その坂田を、肩を落とした耕平が見上げる。
「そうだ。ずいぶんギター上手くなったじゃないか。聞き惚れたぜ」
「お世辞はいいですよ。今度バンドでライブやるんで猛練習してるところなんです」
「そうか、俺も聴きにいくよ。『碧い空と白い雲』だっけ?」
 頷く耕平に軽く手を振ると、坂田はベンチを離れた。
 坂田の背後から、悲しげなAmのアルペジオが聞こえてきた。



 つづく

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