お望みの結末



                                        放射朗



 光沢のある茶色いカウンターだ。そこについたグラスの水滴を指でなぞってるう
ちに、なんとなくあいつの名前を書きそうになって、急いで手のひらで消した。
 ひろあ、まで書かれた、所々切れ切れのひらがな文字は一瞬で消え去った。女
が一人でカウンターに座るには、クリスマス前の今夜は、あまりにもさびしすぎる。
 それというのも宏明の馬鹿が悪いのだ。
 自分から店を指定しておいて、いきなり残業が入ったなんて電話よこすんだから。
 イブの夜をそれだけでチャラにできると考えてるんだ。考えが甘かったって思い知
らしてやりたいわ。

 ジントニックの残りが少なくなってきたのでお代わりを頼もうとしたら、マスターが
フルーツの香りのする赤いカクテルを私の前に置いた。
「あちらの方からです」
 口ひげを蓄えたやせぎすのマスターは、顔を上げた私にひとつうなずくと、滑るよ
うにして離れていった。
 こんなキザな事はテレビか映画の中だけだと思っていた。見ると、長髪で今風の
カジュアルな格好をした中年男が、手首から先だけで力なく手を振った。
 中年以降の男で髪を伸ばしてるなんて最近見ないタイプだと思った。
 重そうに腰を持ち上げて、ゆっくりこっちに歩いてくる。

「待ち合わせの相手が来れなくなったみたいですね。良かったらご一緒しませんか」
 物腰の柔らかい人だった。マスターに少し似ている。この男も痩せ型で口ひげを生
やしている。
「別に、結構です。もう帰りますから」
 席を立とうとする私に中年男は未練のかけらも無く、それではおやすみなさいと
言う。
 少しくらい引き止められると思ったのに、こうあっさり引き下がられると癪にさわる。
「やっぱり、これだけいただいていきます。マスターがせっかく作ってくれたのに
もったいないもの」
 一旦席を立って、また座ることに少しだけプライドを傷つけながら赤いシートに腰
を下ろした。
「あなたみたいな素敵な人を待ちぼうけさせるなんて、きっと彼氏もすごく悔しが
っていますよ」
 中年男は自分のウイスキーを口元に持っていった。オンザロックの氷が、BGMも
途切れた静かな中に鈴の音のようなさわやかな音を立てた。
 私も赤いカクテルに口をつけてみた。ウォッカベースだろうか、かなりアルコール
度数の高いカクテルだった。
 それでもフルーツの味わいですんなり喉を通っていく。胃の中の焚き火が炎を揺
らめかせる。

「今夜はとても残念な夜になってしまいましたが、彼氏が来れたとしたら、どんな
夜になったと思いますか」
「どういうことですか、別に普通のデートにクリスマスプレゼントがプラスされるだけ
じゃない」
 中年男は首を振って、私に顔を近づけた。 上品なコロンの香りがした。
「私は催眠術を少しやるんですよ。彼が来た場合の未来をのぞいて見ませんか。
少し眠くなるだけで害は無いですから」
 どうしてそんなことがしたいのか私にはわからない。私に催眠術で未来を見せる
ことが、彼にとって何かの役に立つのだろうか。だいたい催眠術で見る未来に何か
意味があるの?

「別に変なことしませんから。大丈夫ですよ」
 普段の私なら、そんな申し出には応じないはずだが、今夜は酔ってるし、それに
心の傷が痛む。思いきってひとつ頷いた。 

「それではこの玉を見つめてくださいね」
 カウンター上に乗せた彼の手のひらには、直径3センチくらいの銀色の金属球が
あった。店内のオレンジ色のライトを反射して静かにきらめいてる。
 どうということは無い。子供だましだわ、と思いかけたとき、その金属球が動いた。
 ゆっくり浮かび上がる。回転しながら手のひらの上で浮かんだ玉はオレンジ色か
らブルーに変っていた。白い靄みたいなものが見えて、その奥に細かい模様が見え
隠れしていた。
 良く見るために顔を近づけると、身体全体がその球にひきつけられていった。
 抗うのも不可能なくらいに強い力であたしの体はつかみ上げられ、急速に落下す
る感覚があたしを支配した。
 玉は地球だった。そこに吸い寄せられて、私は落ちているのだ。
 緑と灰色の模様が大きくなり、陸地になった。円周はすぐに見えなくなり、海と
陸地が視界いっぱいに広がる。ただの映像かと思ったが、身体中風圧を感じるしセ
ットしていた髪の毛が解けて私の背中で渦を巻いている。
 催眠術だわこれは。でもすごくリアル。
 陸地が日本になって、関東地方の形状になる。いつも天気予報で見ている形だ。

 一瞬目の前が暗くなり、気がつくと私はさっきまで居たバーに座っていた。
 茶色いカウンターも同じだし、マスターもやせぎすの口ひげだ。やぎみたいな。
 違うのは私の横に居た中年男が居なくなってることくらいだ。
 残り少ないジントニックを一息に飲み干すと、気分が透き通るみたいに晴れてきた。
「ごめん、遅れちゃったかな」
 宏明が赤い花束を担ぎ、バーの扉を不器用にあけて入ってきた。
「そんなに待ってないよ。何、そのでっかい花束」
 これは夢なのだろうか、それとも現実?
 良くわからないけど彼に対しては普通に受け答えする自分がいた。
「キミへのプレゼントに決まってるじゃないか。それと、これもね」
 宏明から渡された封筒には薄い紙切れが入っていた。開いてみると離婚届だった。
 宏明と、もう一人、佐江子と言う名前が記入されて、印鑑も押されていた。
 と言うことは離婚成立。晴れて宏明は私と結婚できることになったのだ。
「良かった。でも奥さん先月会ったときはすごく頑なだったけど、よくハンコウ押
してくれたわね」
 でも、宏明って独身じゃなかったっけ?
 疑問に思いながらも、口からは自動的にせりふが出てくる。
「ああ。もう自分のことはぜんぜん愛してくれないんだってしっかりわからせてや
ったからね。さすがに折れて子供の養育費の話に移ったよ」
「これで一安心……冗談じゃないわ。宏明、あんた子供まで居たの」
 笑顔で応対してる自分の意識をねじ伏せて、私は叫んだ。自分が他人に乗り移っ
たような気分だった。
「何言ってるんだ。君は全部承知の上だったじゃないか」
 宏明は目を見開いて、私のことをはじめてみる別人みたいに見つめた。
「まあまあ、落ち着いて。あちらの方からですよ」
 マスターがキールロワイヤルを二杯私たちの前に置いた。
 ふと見ると、あの長髪中年男が座っていた。
 そして彼の顔がゆっくりズームアップされて私の目の前に現れた。やぎみたいな
口ひげに白いものが混じってた。
 蛍光灯が瞬くみたいに、意識が元の世界に戻ってきたことを自覚した。

「どうでした? その感じではお気に召さなかったみたいですね」
「当たり前だわ。宏明は独身だもの。嘘っぱちの催眠術なんてもう結構です」
 席を立とうとしたけど、うまく立てなかった。さっきのお酒が足に来たみたい。
「嘘っぱちだなんて……あれはあれで現実なんですけどね。あなたと彼がここで今
日会えるという事象で検索をかけた中のひとつと言うわけで。まあ良いでしょう。
次に行きましょう」
 長髪中年男の手のひらの上に再び地球が現れる。私は目をそらすこともできずに
その地球に落ちていった。  

 ここに座っていても雨の音が聞こえる。
 このバーはカラオケの類を置いてないから防音設備が整っていないのだろうか。
 それにしても外は土砂降りのひどい天気だ。
 私は濡れてしまった毛皮のコートを脱ぐと、マスターに預けた。
 毛皮の下は胸の開いたドレスだ。ウエストが引き締まりヒップが張り出した身体
はわれながらミスユニバース級かしら。
 コートを脱いだとたん、マスターの目の色が変り、黙っていてもマスターのおご
りのカクテルが音も立てずに私の前に置かれた。
「どうぞ。ホットウイスキーです。冷えた身体を温めてください」
 お言葉に甘えて私は一口すすった。
 胃の中でほんのりと太陽が灯った。
「ごめん、遅れちゃったな」
 ネクタイピンのダイヤモンドをきらめかせながら宏明が入ってきた。
 きりっと引き締まった顔つきとスマートな体つきは、大富豪の息子というおまけ
がつかなくても若い女が放って置かないだろう。
 彼は私のものだ。そして私は彼のもの。
 幸福感と彼の腕に抱きしめられながら、将来のことを想像しようとしていたら、
急に足元がふらついてきた。
 さっき飲んだウイスキーのせいにしては、ゆれがひどすぎる。
「地震だ」
 ほかの客の叫び声が聞こえた。地鳴りが響き棚の上のグラスや皿が落ちて割れる
ヒステリックな音響がそれに重なる。
「逃げよう」
 宏明に手を引かれてバーを出る。
 エレベーターは地震のときは使えないから、30階から歩いて降りないと行けな
い。逃げなくてもすぐに収まるわよ、と言う言葉は、非常階段で下の階から上がっ
てくる煙を目にしたとき消えていった。
 火事だ。炎が見えた。ぱちぱち言う音も聞こえてきた。冗談じゃない、どうして
こんなことに?
 非常階段から降りるのが不可能だと悟った私たちは、さっきのバーに戻った。そ
この客たちは全員変なものを背中に背負っていた。
「非常階段は無理でしたか。こういうときのためにパラシュートを用意してますか
らご安心を。このパラシュートは低高度向けで、圧縮空気で開くようにできてます
から……」
 マスターはカウンターにもぐりこんで奥のほうから灰色のデイパックのようなパ
ラシュートを取り出した。
「あれ?おかしいなあ。もうひとつ有ったはずなんだけど。どうやらこれが最後の
ひとつのようです」
 マスターの持つ最後のひとつを宏明は引ったくるように奪うと、背中に装着し始
めた。
「ちょっと待ってよ。私はどうなるのよ」
 宏明の腕をゆするが、彼はあたしを突き飛ばした。
「しょうがないじゃないか。僕は大富豪の一人息子。間違っても死ぬわけにはいか
ないんだ。じゃあマスター。早く避難だ」
 ちょっと待ってという間もなく、マスターは非常ボタンを押した。
 酒瓶のすべて落ちた棚が開いて、壁が現れる。そしてそこのレバーを操作すると、
壁がスライドした。強い雨風が店内を蹂躙する。
「ひどいわ宏明、私を置いていかないで」
 泣き叫ぶ私の声を聞いてくれたのは、一人の中年男だけだった。
「私で良ければ、御一緒しますよ」
 長髪で口ひげを生やした中年男の顔がズームアップしてきた。

「途中までは良かったんだけど、最後があれじゃあんまりだわ」
 まだ膝が震えてる。さっきの幻覚がまるで現実のことであったみたいに思えて
きた。でも、もしそうならあたしが望めばミスユニバース級の美貌も得られるとい
うことじゃないだろうか。私が満足しさえすれば、それが私にとっての現実になる
と言うわけ。
 これはうまくいけばすごく得な話だ。
「では次を見てみましょう」
 中年男は鋭い目つきで笑った。口が耳まで裂けて見えたのはきっと見間違いだろ
う。次の現実では宏明がバーに現れたとたん、有線放送のラジオが悲痛な叫びに変
った。
「臨時ニュースを申し上げます。2時間前にK国のミサイル基地で動きがあり、現在
東京に向けてミサイル発射準備を整えている模様です。東京近辺にお住まいの方
は、できるだけ都心から離れてください……」
 何度やっても素敵な現実は現れない。
 やっぱり今夜は宏明と会えない運命だったのだ。

「もういいわ。あきらめます」
 何度目かのきりのいいところで、私は終了宣言をした。
 でも男は終わらせてくれない。
 さらに何度も悲惨な夢を見せられて私は悲鳴を上げた。
 彼の借金の肩代わりに水商売に売られる夢。冷たい彼を勢いで刺し殺してしまっ
て懲役刑に処せられる夢。
 さらに、彼が実は同性愛者で、結婚しても彼は男と浮気してばかり、ずっと放って
置かれてしだいに気が狂っていく夢。どんどんひどくなっていく。

「もう許して。やめてください」
 叫ぶあたしに男は笑いながら答えた。
「駄目だよ。君は死ぬまで悲惨な悪夢に閉じ込められるんだ」
 男の後ろで真っ黒い闇のような影が立ち上がる。
「どうして私をいじめるの。何も悪い事してないのに」
「君があいつの恋人だからさ。私たちの宿敵の恋人だからだ」
 中年男の長い髪が逆立ち角のようにとがった。指のつめが見る見るうちに伸び始
める。その先からはぬらぬらと粘液が滴り落ちている。
 マスターに助けを求めると、彼も悪魔の形相をあらわにしていた。
 ガスコンロの炎も小躍りしながら周囲に陰惨な影を形作ってる。
 これは現実じゃない。これも悪夢だわ。
 逃げようと出口に向かった時、その扉が勢いよくこちらに開いた。
 そして宏明が入ってきた。光とともに。

「その辺でパーティーはお開きだ。悪魔どもさっさと地獄へ帰れ」
 神父の格好をした宏明は何かをかざして呪文を唱える。
 悪魔たちの悲鳴が聞こえ、油の燃えるにおいが部屋に充満して胸が悪くなるよう
だ。しばらくして二人の消えた後にはかすかな水溜りが残ってるだけだった。
「ごめんよ。あいつらを倒すためにバチカンからこれを取り寄せたんだけど、飛行
機が予定より遅れてしまって」
 言い訳する宏明の口を強引に閉じる。
 唇を重ねると、宏明はすぐに力強い腕で私を抱きしめてくれた。どうせこれも夢
に違いない。いつ目が覚めるのかわからないけど、これはこれで現実になっても良
いくらい素敵な夢だ。
 エクソシストの恋人だなんて、なかなか経験できない夢だから。





                                お望みの結末   おわり