Listener
放射朗
 

「…。それでさ、彼ったら今日は金無いから割り勘にしようだって。金無いんだった
らフランス料理なんか食べに連れてくなって言うのよ」
「あきれたー。あたしは今までデートで財布出した事無いわよ。あたりまえじゃん。
男が出すのって。あんた、そんな男止めたほうがいいよ…」
 机の端に置いてあるユピテルのマルチバンドレシーバーが、女性の声でくだらない
会話をつぶやいている。

 コードレス電話の電波を受信しているのだ。アルバイトから帰って、寝るまでのひと
ときの時間、こうして見ず知らずの人の会話を聞くのが僕の数少ない趣味の一つだ。
 盗聴ではない。盗聴というのは、部屋や電話線に盗聴器を仕掛けたりして個人の
プライバシーを盗む事であり、犯罪である。
 僕がやってるのはあくまで受信。身の回りを傍若無人に飛んでいる電波を捕まえて
聞いているだけだ。受信されたくない人はスクランブルもかけないコードレス電話なん
て使わなければいいのだ。
 スクランブルをかける、というのは受信されても意味不明な雑音にしかならないよう
に処理することを言う。
 でも、実際は受信する側でスクランブル解除する事はそれほど難しい事じゃない。
 デジタルでもない限り、コードレス電話を使う以上傍受されるのは覚悟しなければなら
ないことなのだ。
 
 受信機の周波数調整つまみを回していくと、さまざまな人の本当の生活が、少しだけ
垣間見える。
 テレビや映画などの作り物ではない本物のドラマが、砕けたガラスのように散らばり
きらめいている。
 テレビや映画が偽者の金の延べ棒だとすると、僕が受信しているのは本物の砂金の
粒というところだろうか。
 聞き飽きたので、つまみを回す。液晶デジタルの数字がパラパラめくれ始め、しばらく
したところで、ぴたりと止まった。
「…昨日はありがとうね。嬉しかった。でも少し激しすぎだよ。足が痛くなっちゃった。
それに焦ってホテルのポールに車擦ったでしょ大丈夫だった?」
「んー悪い悪い。久しぶりに会えたから興奮しすぎたかな。車なんて気にするなって、ちょ
うど今乗ってるのがモデルチェンジして新型のCクラスが出たから乗り換えようかと思って
たんだ。でも、本当に、クミコには悪いと思ってるんだよ。んークミコに彼氏できたら言え
よな。俺はクミコの幸せのために身を引くからさ」
 聞き覚えのある声が流れてくる。
 近くに住む女子大生の、クミコさんのコードレス電話機だ。

 この時間に二人の会話が聞こえるという事は、男の方の奥さんは夜勤ということになる。
 彼の奥さんは看護婦なのだ。
 クミコさんと不倫相手の会話がねちねちと続いている。
「ううん。今のところ彼氏なんか要らない。かー君と一緒にいれるだけでいいの」
 彼女は甘える声でそう言っているが、僕は知っている。
 彼女の仕掛けた時限爆弾が、もうしばらくしたら爆発するであろうという事を。
 彼女と、彼女の女友達との昨夜の会話を僕は聞いたのだ。
 その会話の中で、クミコさんはこう言っていた。

「彼、医者なんだけどさ。やっぱり世間知らずなんだよね。高収入で世間知らずの男が
やっぱり一番いいよ。こっちで操縦できるもの。別れさせるのは難しくないのよ。今な
ら大喧嘩になれば、別れて私の方に来る確率高いからね。こないだ車のシートにピアス
挟めといたんだ。まだ奥さん気付かないみたいだけど、時間の問題よね」
 彼は知らないうちに彼女の陰謀にはまっている。
 でも可哀想なのは、彼でもなく彼の妻でもない。
 彼らの子供。
 まだ五ヶ月という事だった。
 別れる事になったら、生まれて間もない赤ちゃんはどうなるんだろう。
 多分奥さんの方に引き取られるのだろうが、男が育てると言い出すかもしれない。

「子供? 赤ちゃんがいるけど、奥さんの方に引き取らせるわよ。他人の生んだ子供育てる
趣味無いもん。でも、彼責任感強いからなあ。自分が引き取るなんて言いかねないんだよね。
そこだね問題は。まあそうなったら、適当にやっていくだけだけどね」
 彼女のそんな言葉が耳に残っている。

 すべては彼の奥さんが車のシートに挟まれたピアスに気付くかどうかにかかっているわ
けだ。
 だからといって彼にその陰謀を知らせるつもりは全く無い。所詮僕は傍観者。リスナーで
しかないんだから。
 レシーバーとファンヒーターのスイッチを切り、万年床にもぐりこむ。
 明日は10時からバーガーショップのバイトだ。
 あのいやみな店長の蔑視を再び全身に受けるかと思うと、ちょっと鬱な気分になってし
まった。

 室内の電灯を切って、暗闇に目が慣れると、布団の横にある目覚し時計の針がちょうど
午前1時を指してるのが見えた。



 彼には数人の不良達が群がっている。
 彼は全裸になることを強制されている。

 嫌がる彼に不良達は殴りかかり、彼は腹を抱えて床に転がる。
 鼻血を出して彼の顔は血まみれだ。

 学校の廊下。
 僕は恐ろしくて逃げることも、不良達を止めることも出来ないでいる。
 彼はとうとう不良達の言うことを聞くと答える。
 彼は泣きながら血に染まった顔をゆがめ、制服を脱いでいく。

 全裸になった彼の白い身体。
 前を隠すな!と叫ぶ声がする。
 彼は両手を頭の上にあげさせられる。
 陰毛の豊かに生えた彼の股間があらわになる。恐怖で縮み上がっている。
 不良の一人がライターに火をつけて、彼の股間に近づける。

 泣き叫ぶ彼。
 僕は飛び出してやめさせたい。でも足は地面に張り付いたように動かない。
 彼の股間から煙が上がり、毛の焼ける嫌なにおいが周囲に漂ってくる。
 僕は泣き叫ぶ。彼を許してやってくれと。
 不良が一人僕の方に近づいてくる。 

 じゃあおまえが身代わりになるかと不良は僕に聞く。
 僕は首を振る。それは出来ない。
 ではおまえも同罪だと不良は言う。

 僕も同罪だと。


 声で目がさめた。自分のうなされる声だった。またあの夢だ。
 中学の時の夢だ。僕は傍観者でしかないと確認する夢。
 勇気のない卑怯者だと糾弾する夢。一生リスナーでしかないと断罪する夢だ。

「だめだなあ。キミもう入って2ヶ月だろ。いいかげん覚えろよ。手首を使ってこうだよ」
 縦に五個ずつ、二列に並んだハンバーガーの肉を、そのいやみな店長は鮮やかな手つき
でひっくり返して見せた。
 すでに中年の域に両足突っ込んでいる彼の腹はややたるみ、制服のベルトの上に覆い
被さっている。丸顔の額にはいつも汗をかいていて、うっとおしいことおびただしい。
 バーガーショップのカウンター裏の調理場では、安い肉の焼ける匂いが、換気扇を回しても
追いつかずに充満していた。
 僕みたいなバイトに対して、彼の態度はいつも高圧的で蔑視を含んでいた。
 自分の一存でいつでもクビに出来る相手をいたぶり、さげすみ、苦痛を加えることを唯一の
趣味にでもしているみたいに思えた。

「ほら、やってみろよ」
 彼が僕の頭を軽くこずいた。
 彼のまねをして、へらで手早く肉を裏返す。
 いくつかの肉が崩れてちぎれてしまう。
「やっぱ、キミには掃除くらいしかやらされないかなあ。こんな不器用な人間も珍しいわ」
 彼にとっては僕の失敗は嬉しいことなのだ。その顔には喜びの表情が隠しようもなくあふ
れていた。

 僕は特別不器用というわけではない。
 頭も、良くはないが悪くもない。普通のことは普通に出来るつもりだ。
 そんな人間に更に高度な事をわざと要求し、失敗させて喜んでいるのだ。
 僕はこの2ヶ月の間に両手で数え切れないくらいあり、さらに再びあがってきた暴力的
な衝動を何とかこらえて、すいませんと小声で謝った。
 暴力的な衝動といったって、今まで人を殴った事なんて一度も無い。
 そうしたいくらい腹が立っても、実行する勇気なんて僕には無いのだ。


「高田店長ってちょっといやみですよね。杉田さんも大変ですね」
 店長が休憩に行って席をはずすと、川村真由美が寄ってきて小声でそう言った。
 彼女の存在は僕が此処をやめない大きな理由の一つだった。とりだてて美人ではない
が、笑顔と性格がとても好ましく見えた。
 この娘も家ではくだらない電話の長話をやってるんだろうか。多分やってるんだろうな。
 バイトの終わる時間が重なって、僕は川村真由美と二人で駅方向へ向かう。
 バーガーショップのある古町という繁華街から、新潟駅まで歩いて約30分。
 女性と二人で歩くなんて滅多にないことだし、川村真由美とゆっくり話をするのも
初めてだった。

「杉田さんは大学生でしたっけ」
 信濃川の河口近くにある万代橋を渡る途中で彼女が聞いてきた。
 雪は降っていないが、歩道が凍結していて歩きにくい。
 凍結した路面は街灯を反射してきらきら光っていた。
 何とか面白い話をしたかったけど、そんな才能は僕には皆無だ。

「大学は卒業したけど、就職浪人のフリーター。川村さんは?」
「私は南高校3年です」
 そんなところだろうと思っていた。
「南高ってバイト許可してるの?」
「もちろん内緒ですよ。でも、もうすぐ卒業だし、春から看護学校にいくんで、すこしでも
その資金増やしたいなって思って。一人暮らしもしたいし」
「へえ。看護学校に行くのか、じゃあ新潟大学の医短?」
「もちろん。わざわざ県外に行く必要もないですもんね」
「なるほど。九州から新潟大学まできて、卒業しても定職につかずにふら付いてる人間と
比べて、地に足がついてるって感じだね」
 なるべく嫌味にならないように僕は明るくそう言った。
 話を続けようと質問ばかりになってしまう。
 でもそれも尽きて話す事がなくなってしまう。
 
 信濃川にかかる橋の中で、万代橋は最も長いというわけではない。
 それでも普通に歩いて渡り切るのに五分はかかる。
 こんな凍結路じゃあその2倍は優にかかる。
 ふきっさらしの橋の上だ。気温が急に3度くらい下がったように感じる。
 僕はダウンジャケットだから冷たい風が吹いても、それほど寒いわけじゃなかったが、
彼女はコートの隙間から体温を奪われて凍えそうにしていた。
 ダウンジャケットを脱いで彼女に着せてあげたい。
 そう思うが、とても僕にはそんなことは出来なかった。

「やっぱりバスにすればよかったね」
 彼女は黙ってうなずいた。
 そして一つため息をついて言いかけた。
「実は、ちょっと……」
 ちょうど車のクラクションが聞こえて、彼女の声にかぶさった。
「え、どうしたの?」
 僕は彼女の方に少し耳を傾けて聞いた。
「いえ、なんでもないです」
 彼女はまた一つため息をついて、残りの道のりを黙々と歩いた。
 駅前の銀行の電光掲示板が、現在の気温−3℃と表示していた。

「ひどいじゃないか。クミコ。わざとあんな事したんだろ」
 受信機のスピーカーから不倫男のヒステリックな声が、少しノイズ交じりに聞こえて
いる。
 とうとう奥さんに助手席に挟んであったピアスを見つけられたんだろう。
「わざとじゃないわよ。そんな事するわけないじゃない」
「まいったなあ。嫁さん怒りまくって実家に帰っちゃったよ」
「いっそのこと別れちゃいなよ。あたしとやり直そうよ。いつもそうしたいって言ってた
じゃない」
 クミコさんの甘える声。
 でも不倫男の声はいつものようにその声に合わせない。
「馬鹿言うなよ。そんなことできるわけ無いだろ。できるわけ無いからしたいって思うん
じゃないか。そんな事もわからないのか」
「何よ!じゃあ私を愛してるっていうのは嘘だったの?」
 お決まりのパターンだ。

 クミコさんの考えは甘かった。
 大喧嘩になれば、奥さんと別れて自分の方に来るなんて、ちょっと自惚れが過ぎたみたいだ。
 男もヒステリックだったけど、それが伝染したのか今度はクミコさんがキレ始めた。
「冗談じゃないわよ。散々あたしを抱いておいて、奥さんにばれたらはいサヨナラなわけ?」
「仕方ないだろ。子供だっているんだし」
「子供なんか奥さんにあげればいいじゃない」
 延々と続く絶叫のせりふに嫌気がさし、僕は周波数つまみを回した。
 数字がパラパラ変わり、また別の世界が僕の前に現れる。


 次の日は久しぶりの休日だった。
 受信機がまだぶつぶつ呟いている。
 どうやら電源を切らずに眠ってしまったらしい。

 午前9時の朝食は休みの日の僕としては早い方だった。
 何気なくテレビのスイッチを入れて、流れるニュースを目で追っていた。
 一瞬聞き覚えのある地名にはっとして目を凝らす。
 
『新潟南港で水死体で発見された小和田久美子さんは、死亡推定時刻が昨夜の午前2時
前後と見られており、事件と事故の両面で捜査されています』
 テレビの画面が万代橋から見た信濃川河口に変わった。
 新潟南港で発見されたのなら、あの万代橋から落ちたのかもしれない。
 凍結路で足を滑らせて。
 でも橋の欄干も低くはないし、そう簡単には乗り越えられないか……。

 久美子?そう言えば昨夜のクミコさんと不倫男の口論は激しかったな。
 あの後どうなったんだろう。
 もしかして、クミコさんと小和田久美子が同一人物だったりして……。
 となると一番怪しいのはあの不倫男という事になる。
 
 でも、そんな偶然は簡単に起こるものではない。
 僕は深く考えるのは止めて、近所の本屋に暇つぶしに出かけた。
 ヘッドホンをつけて歩く僕を、道行く人は音楽でも聞いてるんだと思うだろう。
 でも、僕の耳に聞こえるのは他人の会話。
 最近の受信機は数年前のものと比べても小型化が進んでいて、胸ポケットに入れていて
も大して邪魔にならないのだ。
 
 
 カップヌードルのカラが転がる6畳一間の部屋を出る時からしばらくクミコさんの電話
機の周波数に合わせていたが、いくら待っても何も聞こえてこなかった。

 だからといって彼女が小和田久美子とは限らないのは当然だ。
 そんなにいつも電話かけてるわけではないのだから。
 ただ、聞こえてくれば、彼女が小和田久美子じゃなかったということがはっきりするだけだ。
 混雑した本屋で、いつも買うラジオライフの今月号を買って帰った。
 
 夜のニュースで小和田久美子は僕の近所に住んでいる女子大生だった事が分かった。
 ますますクミコさんが大和田久美子である可能性が高くなる。
 そしてその夜、何度も彼女の周波数に合わせたが、とうとう一度もヒットする事はなかった。
 日本の警察は馬鹿じゃない。痴情のもつれの殺人なんてありふれた事件は簡単に解決して
しまうだろう。
 僕が心配する事は何もない。僕はただの傍観者なのだ。
 勇気のない傍観者。


 だけど、不思議な事に再びバーガーショップのバイトに行く3日後になっても事件が解決
したというニュースは流れなかった。
 その日のバイトは4時から入って9時までだった。
 今日も幸運なことに、気になってる川村真由美と同じ時間帯だった。
 相変わらず高田店長のいやみな物言いには腹が立ったが、そんな事より僕にとっては例の
事件のほうが気になっていた。
 もしクミコさんがあの不倫相手に殺されていたとしたら、僕は黙って見過ごしにしていて
いいものだろうか。

 でも、警察に通報するといっても、簡単じゃない。
 電話一本ですむような問題じゃないだろう。
 その情報が本当かどうかしっかり調べるのが警察の仕事なのだから。
 事情聴取なんかされて、いろいろ根掘り葉掘り聞かれるのだろう。
 大体なんでこんな物持ってるんだ?
 盗聴が趣味なのか?変態じゃないのか?悪用してたんじゃないだろうな?
 大和田久美子のストーカーやってたんじゃないのか?
 犯人はおまえじゃないのか?人に罪を着せようとしてんじゃないのか?
 向こうは医者でおまえはフリーターだもんな、どっちを信用するかだな。

 警察の質問や偏見に満ちた声が僕の耳の中に渦を巻くように浮かんでくる。
 肉を裏返したり、ポテトを揚げたりの単調な作業の間、僕はそれらの事をずっと考えていた。
 前回同様、終わりの時間が川村真由美と合わさった。
 意を決してまた一緒に帰ろうと誘ってみたが、彼女はつれなかった。

「ちょっと用事があるから」
 そう言う彼女は何か訴えかけるような目つきだった。
 凍える彼女にダウンジャケットを貸してやる事も出来ないいくじ無しの男には付き合い
きれないという事さ。
 ため息をつきながら、一人で僕は雪の舞う万代橋を渡った。
 正面に見える万代シティのネオンが赤や黄色の光を発射して、いかにも明るい雰囲気を
かもし出しているが僕の心の中はうっとおしい灰色の雲が占拠している。
 周囲が賑わうほどに自分の中の暗がりが気になってくる。
 ちょうど橋を渡り終えたあたりで、忘れ物をしたのを思い出した。
 最後に手を洗う時に時計を外してそのまま置き忘れてきたのだ。
 高価な物じゃないが、誰かに持っていかれるのは困る。
 明日には多分無くなってるだろう。
 凍りついた万代橋を引き返すのは気が重いが仕方ない。
 
 僕のバイトしているバーガーショップは午後9時閉店で10時までは掃除の時間だ。
 居残りのバイトが数人で後片付けをしてる所だろう。
 もう掃除は終わったんだろうか。着いてみると店の方の明かりはすでに消されていた。
 僕は店の裏手の事務所に回った。
 明日の朝出すためのごみ袋が積まれていて歩きにくい狭い通路を進み、ドアを開けた。
 誰もいない。

 手洗い場に行って置き忘れた時計を探す。
 見当たらないので、もう誰かが持っていったかなと思っていたら、足元に転がっていた。
 拾い上げて、来た道を引き返す。
 再び冷たい空気の中に出ようとしたら、後ろで声が聞こえた。

「もう許してください」
 川村真由美の声みたいだった。
 泣きそうな声が、小さく聞こえた。
 奥の店長室の方からだ。
 強盗でも入ったのか?
 僕は恐る恐る店長室のドアに近づいた。
 中からは川村真由美のすすり泣く声が聞こえてくる。
 踏み込むかどうか迷った。中で何が起こってるのか?
 少しずつドアを開けて覗き見る。
 
 僕の目に飛び込んできたのは、下半身裸で机に突っ伏している川村真由美の白く丸いお尻。
 そしてその側でニヤついている高田店長だった。
 思わず声をあげてしまった。中の二人に気づかれる。
 僕は思い切ってドアを開けて中に踏み込んだ。

「何をしてるんですか。川村さんをはなしなさい」
 興奮していたせいか、普段と打って変わって強く出てしまった。
「なんだ。杉田か、忘れ物でも取りに来たのならさっさと帰るんだね。二人でお楽しみ中
なんだから。野暮な真似は止めろよな」
 彼はそう言って川村真由美の滑らかなお尻をペチペチ叩いた。
 僕に見つかった事に動じる様子も無い。

「ああ。見ないでください」
 川村真由美はいやいやと首を振るが、手足を縛られていて身動きが取れないのだった。
「俺達はこうやって楽しんでるんだよ。この娘はこんな風にされるのが大好きなんだ。
俺が無理強いしてるわけじゃないんだぞ。そうだな」
 彼の手は真由美の股間に入って動いていた。
 真由美は喘ぎながら言った。

「そ、そうです。店長の言うとおりです」
 僕はそこできびすを返すと、来た道を走って帰った。
 寒さも全く感じずに部屋までの道のりを滑って転んだりしながらも40分間走り続けた。
 部屋についたときには一張羅のジャケットは泥まみれだった。

 あの娘が店長と何しようと、僕の関知する事じゃない。
 関係ないことだ。
 彼女の真っ赤な肉の割れ目に滑り込みうごめいている店長の指先……。
 その夜、真由美の白いお尻の映像がずっと夜中まで僕の脳裏を占領して、とても寝付かせて
くれなかった。
 

 彼女の事はずっと、ちょっと気になる女の子くらいに思っていた。
 いや、そう思おうと努力していた。
 どうせ好きになっても僕に振り向いてくれるわけが無い。
 好きになっても意味が無い。だから好きにならないようにずっと我慢していたのだ。
 今までずっとそうだったし、これからもそうに違いない。
 誰も僕を愛さない。だから僕も誰かを愛しても仕方が無いんだ。
 でもあんな事があって、彼女の事を本当に好きなんだと僕は気付いた。
 その彼女があの嫌な店長と、あんな行為をしているなんて。
 
 バーガーショップのバイトは辞めることにしよう。
 とりあえず今月分が終わったら……。
 次の日もそこでバイトだった。
 サボりたいのは山々だったが、生活費をこれ以上切り詰めるのは不可能だ。
 少しでも稼いでおかないと……。

 1時間ずれて、川村真由美がカウンターに入ってきた。
 僕も彼女も目を合わせない。
 なるべく顔も見ないようにしていた。
「ありがとうございます。コーヒーはホットにしますか?」
 真由美の声は相変わらず明るかった。
 この店のピンクの制服も相変わらず似合ってる。

 あんな事を店長としているのに。
 それを僕に見つかったのに、平気なんだろうか。
 僕の事をなんとも思ってない証拠だ。
 自分の生活に影響を及ぼす存在じゃなくて、ほんの少し生活する時間と空間が
重なるだけの赤の他人。
 僕は彼女にとって、その程度の人間なのだろう。
 僕が安物の肉を焼いていると、誰かが側に立った。

 また店長か。いやみを言ってストレス解消に来たんだろう。
 僕はそっちを見ないように、肉を焼く事に集中した。
 そいつが僕のズボンのポケットに何か押し込んだ。
 ちらりと見ると、側に立ってるのは川村真由美だった。



「私のこと変態女だって思ったでしょうね」
 午後9時だ。
 バイトの終わった真由美は、まだ制服のままメモに書いてあった場所、バーガー
ショップの裏の書店に現れて言った。
 急いで来たのだろう、額に少し汗をかいていた。
 僕は1時間早く上がって此処で時間を潰していた。
 この書店の閉店時間も近くなってきたので近くに客はいなかった。
「君たちがどんな趣味で、何をしようが僕には関係ないよ」
 立ち読みしていた雑誌をもとの場所に戻す。
「私が好きであんな事してると思ってるんですか」
 彼女は悔しそうに唇をかんだ。
「そんな事……」知るもんかといいたかったけど、彼女の表情を見ると言えなかった。
「実は、私、脅されてるんです。元々は私が悪いんですけど」
 彼女の目に涙が今にも落ちそうなくらいたまっていた。

「私……。前にあそこのバイトでレジのお金盗んだんです。それを店長に見つかって…。
警察に言ったらおまえは退学だ。そうなったら、看護学校の入学も取り消しだって、言われ
て……。でも、これ以上言いなりになるのは嫌だから……」
「なぜ僕にそんな事を……」
 僕にどうして欲しいんだろう。助けて欲しいのか?
 そんな事思っても無駄というものだ。
 
「杉田さんには本当の事知っておいて欲しかったから…私、やっぱり警察にいくことに
します。高校退学になって、看護学校にいけなくなっても、自業自得ですもんね」
 彼女はそう言うと、一度ぺこりとお辞儀して僕の前を去ろうとした。
「ちょっと待って、どこへいくの」
 咄嗟に出た僕の言葉に彼女は答えた。
「今日も店長に呼ばれてるんです。でもそこで警察にいくって言うつもり」
 僕の顔も見ずに彼女はそう言って駆け出した。
 僕はどうすればいいだろう。彼女は警察に行くと決心してるみたいだから、僕には何も
すべき事は無い。
 ただの傍観者なんだ、僕は。
 これまでも、これからもずっと。勇気のない傍観者。
 他人の生活を聞くしか出来ないただのリスナーだ。
 ちょうど目の前にあったその本を、僕は棚から取り出した。

 
 ドアの内側からは二人の口論する声が聞こえていた。
 店長と川村真由美の声だ。
 僕は思い切って店長室のドアを開ける。
 二人が僕の方を向いた。
 書店で彼女と別れてからまだ10分しかたってない。
「またおまえか。今度は何だ」
 興奮した高田店長が吐き捨てるように言った。前髪が汗に濡れて額に張り付いていた。
「話は川村さんから聞きました」
 がくがくする膝を必死にふんばって平静を装う。
「こんなやつに話してなんになるってんだよ。頼るやつ間違えてるぜ。わかってるのか?
おまえは退学になって看護学校にもいけなくなるんだぞ」
 店長は僕を無視して真由美に言った。つばが飛んでるのが光って見えた。
「川村さんは退学になって、合格も取り消されるかもしれませんが、店長は自分がどうなるか
わかってますか?」
 彼はやっと僕のほうを向いた。

「昨日は縛ってましたから刑法220条逮捕及び監禁にあたりますよ。条文はこうです。不法に
人を逮捕し、または監禁した者は3月以上5年以下の懲役。それに加えて、恐喝と強制わいせつ
も加われば、執行猶予はつきませんよ、普通。僕は司法試験のために勉強しているから、わか
るんです。もちろん川村さんが合意の上と納得してるなら、そうはなりませんけど」
 一息にそれだけ僕が言うと、店長の顔色が変わり目がきょろきょろさまよいだした。
「馬鹿な。あれは合意の上だった」
 店長の声に、真由美が大きく首を振った。
「痴漢の裁判なんかを見てれば良くわかるんですけど、男の言い分はまず認められません。
女性の言い分でほとんどが決まってしまいますよ」

 その言葉でがっくり来た店長は、次の僕の提案を無条件でのんだ。
 つまり、すんだ事は仕方が無いから、今までの事は彼女の着服も店長のセクハラも
無かった事にしてしまうという案だ。
 ずいぶんあっけない解決だった気もするが、所詮立場の弱い相手にしか強く出れない男
だったのだ、店長は。
 今まで、さんざん嫌がらせをしてきたのも、弱い人間の強がりだったのかもしれない。
 そう思うとなんだか哀れに思えてきた。



「良かった。おかげで退学にならずにすんだ」
 万代橋を渡る途中、真由美は嬉しそうだった。
 街灯の明かりで彼女の素直な笑顔が映し出されている。目がきらきらしてる。
 雪は降っていない。
 今日は割と気温が上がったので、路面の氷が少し溶けて、水っぽかった。
「結局、僕が行かなくても、君が警察にいくって言えば、店長は折れてたんじゃないかな」
 それほど自分が役に立ったとは思えない。
「そんな事無いよ。杉田さんが入ってくる前、あいつなんて言ってたと思う?そんな事出来な
いように、これを持ってきたって。カメラとビデオ見せられたんだよ。恥ずかしい所をたくさ
ん撮って、それをばら撒くって脅されて……。それにいうこと聞かないと、知り合いの暴力
団からもらったシャブでシャブ中にしてやるなんても言ってた」
「暴力団はハッタリだよ。……多分」
 まだ緊張が残ってるのか、膝ががくがくして歩きにくかった。

「でも嬉しかった。あいつから解放された事もだけど、杉田さんが助けに来てくれた事が。
杉田さん司法試験の勉強してたんだ。すごいね」
「それもハッタリさ。口からでまかせ。さっきの書店で法律の本ちょっと立ち読みしてきた
だけ。後はテレビドラマの真似だ。自分じゃとても出来ないからテレビドラマの役者になっ
たつもりで、演じただけさ」
 そうだ。僕はドラマを演じただけだ。ヒーローの役を、卑怯者が……。

「演技だっていいじゃない。好きなように自分を演じきれるんなら、それが自分ってこと
じゃないのかな。杉田さん、もっと自信持っていいはずだよ」
 僕は返す言葉に詰まって、ただにっこり笑うだけだった。
 彼女の言うとおりならどんなにいいだろう。

 真由美は僕の腕に擦り寄り、肩にもたれかかってきた。
 今まで女性と付き合った事も無いし、こんな状況にも慣れてない僕は心臓がやたら早く
動いて、寒いのに汗までかいてきた。
 何かが変わっている。
 僕が変わったのか、それとも周囲が変わったのか。本当に変われるのだろうか。
 傍観者以外に僕はなれるのだろうか……。リスナー以外に……。

 ちょうど橋を渡り終えるちょっとした段差のところで、真由美が足を滑らせた。
 彼女を支えようと手を出したが、引っ張られて自分も倒れてしまった。
 右の足首をひねった。
 せっかく感じよくこれまで来ていたのに、最後はこうなるのか。
 まあいい。捻挫くらいどうってことないさ。

 小和田久美子の事件はまだ解決する兆しも見えない。
 彼女が付き合っていた相手が怪しいとテレビでは言っていた。
 周囲の人たちの証言で、不倫していた可能性があるらしいが、その付き合っていた相手
が特定できないという事だった。

 それらを合わせてみると、やっぱり小和田久美子はクミコさんなのかも知れない。
 あれから何度も彼女の周波数に合わせるけど、一度もヒットしない。
 同じ周波数で弱い電波を受信したりする事はあるが、急に電波が弱くなるわけが無い
から、それは彼女の電話から出た電波じゃない。
 同じメーカーの電話を使ってる別人だ。
 何とかしてクミコさんと小和田久美子が同一人物だとわかればいいんだけど。

 次の日、捻挫した足は腫れ上がって歩くのも苦痛になってしまった。
 病院には行きたくなかったが、湿布薬でももらって貼ったほうがよさそうだ。
 今日の予定のバイトはキャンセルの電話を入れて、朝から近くの病院に行く事にした。
 診察を終え、薬をもらう。
 その病院の薬剤部で湿布薬を受け取ってると、奥の方から何だか聞き覚えのある声が聞こ
えてきた。

「んーこの薬なんだけど、指示してたのと違うんだよね。確かセデスは入れてなかったはずだ
けど……」
 医者が薬剤師にクレームつけてるところみたいだ。
 田村正和の台詞のように最初に『んー』がつく言い回し、それにこの声。
 どこで聞いたんだろう。医者には知り合いなんかいないけど……。

 その時、クミコさんの声がよみがえる。
 彼は医者なんだけど、世間知らずで……。そんな話をしていた。
 彼は医者だったんだ。不倫相手は医者だった。
 愕然としている僕の前を、薬局から出てきたその医者はちらりと横目でこっちを見ながら
通り過ぎていった。
 彼の青白い顔は少しやつれているみたいにも見えた。
 そして写真付きの名札には、川端弘明と書かれていた。
 川端弘明、かー君だ。それと、もうひとつあった。
 僕は病院を出ると、職員の駐車場の方に回った。
 車がたくさん並んでいるが、ベンツは一台しかなかった。
 メルセデスベンツCクラス、不倫男は新しいCクラスが出たから買い換えたいって言って
いた。
 そこにとまっていたのは思ったとおり、一つ前のタイプのCクラスだ。
 さりげなく後部のバンパーを観察すると、まだ新しいかすり傷がついていた。
 ジクソーパズルのピースは怖いくらいにぴったりはまっていく。
 彼がクミコさんの不倫相手に間違いないだろう。
 そしてクミコさんが小和田久美子なら決まりだ。


「ちょっとこれ聞いてみて」
 真由美の耳に、僕のヘッドホンを当ててやる。
 真由美は最初きょとんとした顔をしていたけど、すぐにはっとなった。
「これ、携帯電話の声?」
「そう。この受信機ではコードレス電話やタクシー無線、警察無線なんかが聞けるんだ」
 レシーバーのスイッチを切って、僕は答える。
 そしてこれまでの事を話して聞かせてやった。
 万代橋近くの公園のベンチに座る僕達の前を、家族連れの買い物客が時々通り過ぎる。

 昨夜最後のピースがはまり、ジクソーパズルは完成した。
 クミコさんの周波数に合わせた受信機から、やっと彼女の電話から出た電波を受信した
のだ。
 最初、声が違ってたから、別の家が同じ機種の電話を買って設置したのかと思った。
 しばらく聞いて、スイッチを切ろうとした時、その声は言った。
「大体片付いた。でも、クミコの不倫相手ってまだわかんないのかしら」
 若い女性の声だ。
「その部屋警察が来て全部調べたんだろ、写真の一枚も無かったのかしらね」
 こちらは少し年配の女性の声。
「写真なんて無かったんでしょうね。その辺は律儀な娘だったから……」
 最後のほうで声が震えて途切れた。
「でも、本当にただの事故だったんじゃないのかねえ。殺人事件なんてねえ」
「警察の話は聞いたでしょ。あの夜橋の近くでクミコと誰かが口論していたって。その通行
人が行き過ぎた後にきっと突き落とされたのよ」
 若い方の声はクミコさんの姉で、もう一人は母親のようだ。
 彼女の部屋を姉のほうが片付けに来てる様子だった。

 
「どうして私に教えるんですか」
 真由美が聞いた。
「君も僕に打ち明けてくれただろ。だからかな。本当は君には一番言いたくなかった。
せっかく生まれて初めて彼女が出来そうなのに、変態って嫌われるようなこと言いたい
筈無いだろ」
 真由美は何も言わずに聞いている。
 風が少し吹いて彼女の前髪をあおっていた。
「今から映画に行く約束だったけど、その前に警察に行く事にしたよ。君が決心したように、
僕も決心した。君が大事な夢を失う覚悟をしたように、僕も一番大事な人を失う覚悟を決めた
んだ」
 しばしの沈黙。
 風はまだ冷たいが、寒さは全く感じなかった。真由美に嫌われるならそれも仕方が無い。
 本当の自分を嫌われる方が、嘘の自分を好かれるよりましな筈だ。
 真由美を見るのは怖くて出来ない。
 僕は立ち上がって、少し橋の方に歩いた。
 思い切って振り向くと、まっすぐ見つめる真由美と目があった。

「私も……警察署について行っていいかな」
 真由美の澄んだ眼がまっすぐに僕を見つめていた。

 万代橋の中ほどで、僕らは立ち止まった。
 二人でこの橋を渡るのは何度目だろうか。
 二人で川を見下ろした。
 相変わらずの曇り空。川の水もよどんで灰色をしていた。

「これまでずっと僕は他人のつまんない生活の声を盗み聞きしていた。なぜだと思う?」
 真由美は答えない。
 僕の話を促すように少しだけ笑ってうなずいた。
「僕自身の人生がつまんないもので、無意味な物だと思っていたからだ。僕はずっと傍観者
で、リスナーだった。聞くだけ、見るだけで、何も出来ない人間だったんだ。友人を見殺しに
しても、自分は助かりたかった。彼と二人で戦うことも出来なかった。つまらない人生だ。
だからつまらない人々の会話を盗み聞きする事で、自分だけがつまらない人生を生きてるん
じゃないって安心したかったんだ。みんなつまんない人生なんだってね」
 吐き出すように僕は言った。
 真由美は首を振っている。

「つまらない人生なんて……無いよ」
 真由美がつぶやいた。
「そう。退屈でも何でも、人生はきっと意味があるんだって今は思うよ。君に出会えたしね。
僕はもうリスナーはやめる。聞いてばかりじゃ駄目なんだ。自分で働きかけないと、何も変わ
らない。そうわかったから……。こんな物、もういらないんだ」
 僕は手にもっていたレシーバーを思いっきり遠くへ投げ捨てた。
 緩やかな放物線を描いて、受信機は川面に落ちていった。
 一瞬小さな白い飛まつが上がり、すぐに水面は静かになった。

「あ、あれ。証拠品じゃなかったの?」
 真由美が慌てて言った。
「大丈夫、証拠品はこっちさ。あれは持ち歩いてた分だ」
 僕が開いたバックの中には、いつも家で使っていたユピテルのマルチバンドレシーバーが
収まっている。
 これからこれを持って警察署に行くのだ。

 傍観者はやめだ。
 失敗するかもしれないし、傷つく事があるかもしれないけど、せっかく生きてるんだから
前に進まなきゃな。
 友人を助けることは出来なかったけど、まだすべてが終わったわけじゃない。
 再び二人で歩き出す。

 春が近くなったおかげか、雲が切れて広い橋の上に明るい日がさした。
 雪国の長い冬の後だからかな、それはやけにまぶしい日差しだった。


                
                                       リスナー      終わり





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