受信料を払おう
放射朗

 あらかた片付いたかな。
 六畳一間のワンルームマンションは、足の踏み場も無かった三時間前とは見違え
るくらいにすっきりしていた。部屋がすっきりすると、なんだか気分も一新されて、
さあ今年から大学生なんだという意気込みが沸いてくる。
 そう、僕は今年大学に入学した十八歳。これから生まれて初めての一人暮らしが
始まるのだ。部屋の片付けを手伝うからと、すでに桜も散ってる地元から上京しよ
うとする母を何とか押しとどめ、ついさっき一人で大体の片づけが済んだところだ。
 でもこの部屋、少し西日がきついかもしれないな。
 窓が西向というのはわかっていたことだけど、実際に夕方になってみないと、実
感として捉えられないものだ。明日早速近くの店でカーテンかブラインドを買って
こないと……。ビル街に落ちていく夕日なんて見てると、昔よくテレビで見ていた
刑事物ドラマを思い出してしまうな。

 一畳くらいのおまけのようなキッチンでコーヒーを沸かし、一息ついてると、す
ぐそばのドアが軽くノックされた。散々来なくていいからと言っておいたのに、や
っぱり来てしまったのだろうか。母親というのはどうして一人息子にこんなに過保
護なのだろう。
 ため息をつきながらドアを開けると、白髪混じりの頭は似てるが、それ以外は似
ても似つかないおばさんが立っていた。

「こんにちは。あら、もうきれいに片付いてるみたいね」
 見知らぬそのおばさんは僕のわき越しに部屋の奥を覗き込むと、ニコニコしなが
ら言った。だれだろう?このマンションの管理人さんでもないし……。
 どちら様ですか、と聞く僕に、おばさんはさらに愛嬌を振りまきながら答えた。
「受信料の集金にきましたのよ」
 そっけない黒いかばんから、台帳のようなものを取り出しながらおばさんは答え
る。
「受信料って?」
 首を傾げる僕に、あれ?知らないのかな僕。おばさんは人差し指を僕の顔の前で
振り振りしながら、そのまま玄関の中に押し入ってきた。
「ひょっとして某公共放送の?」
「変な言い方するわね。そう、N○Kよ。テレビがある家はどこでも契約しないと
いけないことになってるの。ちゃんと法律で決まってるのよ。僕の部屋もちゃんと
テレビ置いてるみたいだから、ちゃんと契約しようね、ええと、二か月分でカラー
契約2790円になりますわよ」
 "ちゃんと" が大好きなおばさんは、台帳を広げてキッチンの小さなテーブルの上
で、必要事項を記入し始めた。2790円か。今あったかな。僕はハンガーにつる
した上着の内ポケットから皮財布を取り出して中を見る。
 おばさんはその僕を後ろから背伸びして覗き込む。なんだかあつかましいおばさ
んだ。財布には千円札がちょうど3枚入っていた。
「あ、あるみたいね。はいありがとうございます。ここに名前を記入してください」
 おばさんは僕の財布をひったくらんばかりに取り上げると、中から3枚の千円札
を取り出した。
「あ、ちょっと待ってくださいよ。今手持ちそれだけなんですよ。まだ晩御飯も食
べていないし……」
 何とか黒いかばんに入れられる前に、僕は三千円を奪還できた。
「カードくらい持ってるでしょ。ここは田舎じゃないのよ。カードひとつあればコ
ンビニでだってお金おろせるし、免許証ひとつで50万円まで簡単に借りれるんだ
から。ブルマーはいてダンス踊ってるCM見たことあるでしょ。ちょっと利子は高
いけどね」
 おばさんがさらに三千円を狙ってるので、僕はすぐに財布に入れて、彼女の目に
触れないように後ろ手に持ち替えた。
「困りますよ。銀行にはまだ入金されてないし、高利貸しだけには行くなと言うの
が父親の遺言でしたから。確かにブルマーはいてダンス踊るCMは好きですけどね」
「え、お父さん亡くなってたの?まだお若かったんでしょうに、おいくつで?」
 え?いくつだっけ。急に聞かれると、とっさに出てこない。僕が18で、30歳
違いだったから……。
「えっと、今48ですけど」
「あら、死んだなんて嘘ね。もう。調子いいんだから……」
 おばさんは体をくねらせて僕の二の腕をつねった。うふふ、と笑いかけるその口
元に何だかさっきまでと違う変な色気を漂わせている。
「とにかく今はだめですから、来週また来てくださいよ。別に払わないって言って
るんじゃないんだから」
 それでもまだ居座ろうとするおばさんの背中を押し、追い出すと、すぐにドアを
閉めて鍵かける。
「じゃあまた来週くるから、ちゃんと用意しておいてね」
 薄いドア越しにそう言うおばさんの声がヒステリックに廊下に響いた。

 受信料か。まったく考えてなかった。2ヶ月で2800円ほど。結構な出費だな。
 でも、うちは払ってたのかな。家にいるときも集金人の姿は見たことも無かった
けど。
 あらかた部屋が片付いた報告と、入金依頼もかねて僕は田舎の家に電話してみた。
 夕陽はすでにビルの谷間に落ちてしまって、街灯やビルの窓の灯りが煌煌と夜の
闇を切り裂いている。
 空腹感を覚えながら、携帯電話のボタンを押すと、数回の呼び出しの後に母の弾
んだ声が聞こえてきた。
「則武でしょ。もう晩御飯は食べたの?」
 開口一番、母はそう言った。ナンバーディスプレイでどこからの電話かわかるの
だ。
「いや、まだだけど」
 僕はそう答えてから失敗したとすぐに気付いた。その後10分間も、晩御飯をち
ゃんと食べないとろくな事が無いという母の説教を聞かされる羽目に陥ってしまっ
たからだ。
「いや、外に食べに行こうとしたんだけど、変なおばさんに捕まっちゃってさ」
 何とか話の切れ目にその言葉を、僕はむりやり押し込んだ。
「変なおばさん?いやだ。どういう人?」
 どんな想像を働かせてるかは知らないが、あまり小気味いい想像でない事だけは
確かだ。
「N○Kの集金だよ。受信料を払えって。まだ引っ越してきたばかりなのにね。そ
うだ。あれって前払いなんだね」
 僕の説明でやっと納得した様子で、母の声が落ち着いたものに変わった。
「そういう話ならお父さんに代わるわ」
 母はふんと鼻で息をはくとそう言った。

「もう来たか。さすがに早いなあ。今の時期は引越しが多いから、あちこち注意し
て見てるんだろうな」
 父はビールでも飲んでたんだろう。上機嫌で電話に出てきた。
「受信料なんて払いたくなけりゃ払わなけりゃいいのさ。うちでは一度も払った事
なんて無いぞ」
 単刀直入に僕が聞きたいことを答えてくれる。さすがに母親とは違うな。
「でも、法律で決まってるって言ってたよ」
「放送法ってやつだな。あんなもんN○Kがかってに作った法律さ。罰則も無い規
則だ。受信料制度は憲法違反だという法律家だっているんだから」
「じゃあ払わなくてもいいの?」
「厳密に言えば、N○Kと契約しなくてもいいってことだ。契約してしまえば、受
信料を払う義務が生じるが、契約しなけりゃ義務なんて無い。テレビを持ってる以
上受信契約しなけりゃいかんと言ってくるかもしれんが、契約というのは強制され
るものじゃないからな。いやなら契約しなくていいんだ」
「でも、ほとんどの人が受信契約してるんでしょ」
「受信料の仕組みをわざと曖昧にして、義務だと思わせられてる人が多いのと、地
域的な感情論に持っていってる場合が多いって事さ。世間体ってやつだ」
 なるほど、だいたいわかって来た。
「一人暮らしの最初でちょっとした試練だな。まあがんばれよ」
 父はそう言って母に電話を変わった。
 そしてしばらく母とのどうでもいい会話が続き、ようやく僕は電話を切ることが
出来た。
 
 入学式を翌日に控えた、次の週の火曜日に、例のおばさんは再びやってきた。
 先日と同様に愛想笑いを浮かべて黒いかばんを肩からさげていた。
「どうも。もうお金下ろしてきたんでしょ。じゃあ、2790円お願いします」
 台帳を開いて、先日必要事項を記入していた書類を取り出した。
 僕は単刀直入に契約する気が無い事を言うつもりだったけど、間抜けなおばさん
の顔を見ていたら、少しからかってやろうという気が沸いてきた。

「その前に聞きたいんですけど」
 静かに切り出す僕をおばさんは小首をかしげて見つめる。まだ笑顔のままだ。
「普通、ガス代でも電気代でも使用した分を後から払うものでしょ。どうして受信
料だけが前払いなんですか」
 そんな議論はすでに何度もしてきたのだろうか。おばさんは慌てる事も無く、ふ
ふんと鼻で笑った。
「電気やガスの使用料金とは根本的に違うのよ。あなただって何かの会員になった
事あるでしょ。会に入会する時は入会金と、月会費をその場で払うものじゃない?
それと同じなのよ」
 なるほど。使用料なら、見た分だけ払うからその分だけ請求してとも言えるけど、
会費だとそうも言えないという事になる。
「でも、受信契約してない人が多いって聞きましたよ。一部だけから取るのは不公
平じゃないですか?」
 おばさんはうんうんと頷いた。
「その通りよね。払わない人がいるのは事実。不公平なのは事実なのよ。でも、払
わない人がいるから不公平になるんでしょ。払わない人が悪いのよ。僕は悪い人じ
ゃないでしょ」
 微妙に話をすり替える手腕はたいしたものだ。口論じゃ男は女性にかなわないっ
て、本当なのかもしれないな。
「僕はそうじゃないと思いますよ。払う人がいたり払わない人がいたりするこのシ
ステムが問題なんじゃないですか」
「システムって言うのは何かしら問題を抱えてるもんでしょ。完璧なシステムって
ものがあったらお目にかかりたいわ」
 ああ言えばこう言うか。このおばさん、見かけは間抜けそうに見えてひょっとし
て強敵かもしれない。これは油断できないぞ。

「たとえば、僕はテレビ持ってますけどN○Kは全く見ないって言ったらどうしま
す?見ない人も払わないといけないんですか」
「さっきも言ったけど、受信料って見た分を払ってもらうものじゃないのよね。公
共的な放送の会費みたいなものだから、見た見ないにかかわらず、それが受信でき
る環境の人は契約してもらう事になってるのよ」
「しかしなあ。契約って普通お互いの同意があってするものでしょう。一方的に強
制されるのは納得できないんですよ。それに2ヶ月で2790円は高いから100
0円なら払ってもいいって思っても、一切受け付けてくれないんでしょう。普通自
分が思うより高いと感じるものは買わないし、そんな契約はしないものじゃないで
すか」
 先日父から聞いた契約の話を思い出しながらそう言ってみた。
 こんな風にごねる客というのはよくいるのだろうか。おばさんは初めて見たとき
より何だか生き生きとしているようにみえる。
 僕との議論を楽しんでるみたいだ。
 単なる集金じゃなくて、手ごわい客を議論で打ち負かして契約させる事に生き甲
斐を感じてる、そんなおばさんの本性が見えてきたような気がした。

「もちろん同意があって契約するものよ。それは当然だわね。君もきっと同意して
くれると思っているわ。公共放送の役割は中学生にだってわかるはずでしょ」
 それまで狭いドアの前で二人で議論していたんだけど、お茶くらい出してやるか。
 僕はおばさんの鼻息が少しは収まるかもしれないことに、期待しながらキッチン
のテーブルの席を勧めた。そして電気ポットから急須にお湯を注ぐ。
 おばさんは僕がお茶を入れ始めると、とりあえず入れ終わるまで黙った。
 玄米茶の匂いがふんわりと上がる中、おばさんの前にどうぞと差し出す。
 おばさんは素直にありがとうと言って一口飲んだ。
「さっきも言ったけど、公共放送って言うのは皆のための物なのよ。英語を勉強し
たい人にも、ドイツ語を勉強したい人にも、中国語を勉強したい人にも等しく差別
することなく語学講座の放送をしてるところが、民放にあるかしら。民放は広告料
でもってるわけだから、視聴率の取れない放送は出来ないのよ。受信料を公平に国
民から集めているN○Kだけが、差別無く視聴率にも関係なくみんなのための放送
をして上げられるの。ここまではわかった?」
 子供にでも諭すような言い方に、カチンとくるけど、ここまでは異論は無い。
 確かに民放がN○Kに比べて立派な放送をしているとはお世辞にもいえないと思
う。
「でも、普通、何かの会員になったら会員の特権という物があるでしょう。非会員
には無い会員だけの特権が。N○Kにはそれが無いんじゃないですか。契約しよう
がしまいが、放送は誰でも見れるわけだし……」
 なかなかいい切り口を見つけたぞ。ここから攻めれば効果あるかもしれない。
「もちろん特権はあるわよ。N○Kの番組を誰にはばかることなく見れるという特
権がね。こそこそしなくて堂々と生きる特権よ。その特権が二ヶ月でたったの27
90円なら安い物じゃないの。それともそれっぽっちのお金をケチってこそこそ卑
屈に生きる?」
 うーむやぶへびだったか?おばさんはさすがに集金でご飯食べてるだけのことは
ある。僕なんかの太刀打ちできる相手ではないのかもしれない。
 始めは受信料を断る事なんか簡単な事だと考えていたのだが、ここまで来て父が、
一人暮らし最初の試練だと言った訳が飲み込めてきた。
 いっそのこと払ってしまうか、お金が無いわけじゃないんだし。
 僕は立ち上がって壁につってる上着のポケットに手を伸ばした。
 そうしてる僕をおばさんは目じりを下げて見守っている。
 目じりのしわが伸びて、飛び出した頬骨を越えて口元まで行くんじゃないかと思
った。そこでふと閃いた。

「おばさんって、いくつくらいなの?」
 頭の上から急に聞かれて、おばさんは戸惑ったんだろうか、きょとんとした顔を
してる。
「あ、ごめん。女の人に歳を聞くのは失礼だよね。でも、僕の母と同じくらいかと
思ってたんだけど、よくみたらずっと若そうだったから」
 僕の言葉におばさんは少しほっとしたような顔をした。
「いくつくらいに見えて?」
 おばさんは懸命にいい顔をしようと眼を見張るが、逆に滑稽で気持ち悪く見える
ことは気付いてないのだろうか。
「40はいってないよね。38くらい?」
 僕は言い過ぎたかと思った。どう見ても50前には見えないからだ。
 45くらいって言えばよかった。馬鹿にされたと思ってかえって怒ってしまうの
ではないだろうか。
「馬鹿ね。まったく世間知らずと言うのかしら、あきれたわ」
 おばさんはそう言いながらも有頂天になってるのが、世間知らずの僕にもよくわ
かった。
「本当に困った子ね。大人をからかって」
 急におばさんはそわそわしだした。
「でも、僕の母が45だからそのくらいかと思っただけなんです」
 僕は下手な事を言わないように最小限にとどめる。
 ため息つきながら財布を取り出す僕を、おばさんは止めた。
「まあいいわ。受信料なんて払いたい人が払えばいいんだから。僕から取るのはち
ょっとかわいそうだわね。まだ学生さんだし、考えてみれば親から仕送りもらって
る身だものね」
 話がどんどん違ってくる。
 おばさんは台帳を黒いかばんになおしこむと、残ったお茶を一息に飲み干した。
「たのしかったわ。今度は僕が就職してちゃんと社会人になった頃に来るわね。そ
の時はちゃんともらうからね」
 にっこり笑って出て行くおばさんは、僕にウインクまでして寄越した。
 僕はちょっと感動していた。
 おばさんにウインクしてもらった事でも、受信料を払わなくてすんだ事にでもな
い。
 女性の扱い方と言うものを、少しだけ会得した気がしたからだ。
 この体験はきっとこれから先、彼女を見つけて結婚まで持っていくときの大きな
武器になってくれるだろう。
 RPGでいえばプレゼント攻撃が銅剣くらいとしたら、鉄の剣か鎖鎌くらいの…
…。
 次に会う時はおばさんはさらに年取ってるんだろうな。
 次に会う時までに、今度はどんなおだて方があるか、僕は近くの銭湯に向かう間、
ずっとイメージトレーニングにいそしんでいた。







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