19
 
 
 先ほど島吉の後から倉庫に入ってきた若い男は、テレビで重要参考人として指名手配さ
れていた彼だった。
 いよいよ事件も大詰めとなって、島吉を頼って連絡してきたのかもしれない。
 段ボール箱などの荷物に隠されていた倉庫の奥には、ドアがあった。
 外に通じているとは思えない。上を振り仰ぐと、倉庫の奥行きはまだ先まで続いていた
からだ。武器庫にでもなっているのかもしれない。
 用心しながら桜がすばやく扉を引き開ける。
 中から発砲されるかと思って低い体制になっていた三人だが、銃声は聞こえず静かなも
のだった。
 中をうかがうと、床に穴が開いていて地下通路が続いていた。
 急いで中に飛び込もうとする郁子を、桜が制した。
「よく見てよ。この梯子にも、そこの床にも足跡がないわ。これは使ってないよ」
 桜の言うとおり、その地下道は埃まみれで、誰かが通った痕跡は皆無だった。
「じゃあここからどうやって消えたんだろう」
 郁子が壁を蹴飛ばした。
 重々しいコンクリートの音がすると思っていたのに、その灰色の壁からは間の抜けた薄
っぺらい音がしただけだった。
「この奥空洞だよ。そこにレバーみたいなのがある」
 夏海がそのレバーを引くと、壁の一部が開いて、今度は逆に上に伸びる梯子が現れた。
 そしてその梯子には、汚れた横棒に、確かな痕跡が残されていた。
「屋根に上がったんだ」
 郁子が先に登り始めたとき、右京が顔を出した。
「皆さん大丈夫そうですね。良かった」
 平和な顔で右京がつぶやく。
「一応生きてるけどね。あんたが思うほど大丈夫でもなかったよ。ところであれ用意して
くれた?」
 桜が言う。
「ええ。一応用意してますが……」
 きょとんとしている右京に、急いで持ってくるように言って、夏海を梯子に促した。
 
 梯子は一メートル四方くらいの空間に閉ざされていたが暗くはなかった。
 夕焼け色の光が上のほうからさしている。
 郁子がその屋根を指差す。
 そこには外に出るための開き戸があった。
「外に木谷がいるよ。さっきからなにやら物音がしてるんだ」
 声を潜めて郁子が言う。
 いったい倉庫の屋根で何をしてるんだろう。
 周囲を囲まれた倉庫の屋根に逃げても、捕まるのは時間の問題なのに。
「気をつけて、頭出した途端に殴りかかってくるかも」
 後から上がってきた桜が、先頭の郁子に小声で言った。
 ちょうどそのとき、バシュッと何かを打ち出す物音が上の方から聞こえてきた。
 いくよ。と郁子が言って引き戸を開ける。
 そしてすばやく屋根に上がっていった。
 夏海もすぐに追うが、桜は重いリュックを担いでいるために少し遅れる。
 屋根に上がった夏海の目に、木谷と郁子の姿が映った。 
 木谷の傍には低い鉄塔があり、そこからワイヤーが斜め下に伸びているのが見えた。
「残念だがお前らの相手をしてる暇はない。あばよ」
 木谷は夏海たちに笑いかけると、滑車をワイヤーにかけて、身を翻した。
 木谷の身体が勢いよく滑っていく。
 海沿いの櫓にワイヤーは伸びていた。
 桜が傍に来たときにはすでに木谷は櫓の屋根に足をついていた。
「さっきの音はワイヤーを打ち出す音だったんだ」
 郁子が舌打ちして言う。海からの風が三人の髪をなびかせた。
 ワイヤーは木谷の手ですぐに切られて、追う事もできなくなってしまった。
 警察の包囲をうまく破った木谷は波止場の先に停泊しているクルーザーに向かっていた。
「おーい。木谷が逃げてるよ」
 郁子が倉庫の周りにいる警官に叫ぶが、風に打ち消されるのかなかなか伝わらない。
 そうこうしている内に木谷はクルーザーの中に姿を消してしまった。
 ため息とともに郁子が桜を見ると、桜はリュックから荷物を出しているところだった。
「何してるの」
 夏海の質問に、桜はその端を持って広げて、と答えた。
 薄い樹脂の布でできた正体不明のものを、郁子と夏海は急いで屋根の上に広げていった。
 楕円形をしている樹脂製の布からは無数のワイヤーがクモの巣のように伸びていた。
 桜はリュックの中から出した大型のデイパックのようなもの (ハーネス) を背負って、
身体に固定していた。そのデイパックの中ほどに、ワイヤーをつなげる。

「あ、それもしかして……」
 郁子の言葉に、桜がすぐに答えた。
「そう、パラグライダーよ。ひょっとして使えるかもしれないから右京に頼んでおいたの
よ」
 桜の勘の鋭さにはあきれてしまう。夏海が見てる間に、桜はくるりと後ろを向いてワイ
ヤーを交差させるようにした。
「いい海風が吹いてるから、楽に飛べるわ。それにこれは120キロまで大丈夫だから何
とか三人飛べると思うよ」
 桜はそういって、腰を落とすようにした。
 同時に引かれたワイヤーで、布が持ち上がり、左右にゆれながらも、頭上で大きな翼を
形作った。
 桜がすばやく振り返る。
「二人とも、ついて来てつかまって」
 言うと同時に桜が走り出す。
 夏海と郁子は両側からハーネスのベルトをつかんでそれに続いた。
 ほんの二三歩のうちに、風を受けた翼が桜の身体を宙に浮かせる。
 夏海と郁子は恐る恐るベルトを握ると、桜の身体を押し出すようにして体重を預けた。
 空中にいる何かに引っ張られるようにして三人の体は倉庫の屋根から浮き上がった。
 上昇気流を受けてぐんぐんと高度を増していく。
 桜は両側のブレークラインを操作しながら、パラグライダーを木谷のクルーザーに向か
わせる。
 舞い上がる海風は三人の体重など気にもしていないようにさらに高度を上げていった。 

 
 
20

 
 木谷のクルーザーが眼下に見えてきた。
 警官がそのクルーザーに近づいているが、間一髪でエンジンがかかり、クルーザーは波
止場を離れる。
 海上保安庁の船が斜め前から近づいていた。
 とまれ、と拡声器の声が聞こえるが、木谷は一向に止まる気配を見せない。
 保安庁の船を避けて、港を出るコースに船を進めている。かなり迂回しているから、港
を出るまではもう少しかかりそうだ。
「先回りできそうね。二人とも、きつくない?」
 桜が風に負けない声で叫んだ。
「大丈夫。もうしばらくはね」
 郁子が答える。
「夏海は?」
「私も、腕力には自信あるし、なんと言っても体重軽いからね」
「先に二人を下ろすことになると思うけど、私が援護する。もし気づかれなかったら私が
行くまで待っていて。私が降りるまではあまり無茶しないでね」
 桜はそう言ってクルーザーの方に機首を向けた。
 西の空が真っ赤に燃えているようだった。雲が炎のように見える。
 その光を背に受けながら、グライダーは高度を下げてクルーザーに向かっていった。
 まだ木谷は桜たちに気づいていないようだった。保安庁の船から逃げるのに精一杯のよ
うだ。
「回転するわよ、しっかりつかまって」
 桜の声の後、機体は三人を振り子のようにして回りながら高度を一気に下げていった。
 高度はぐんぐん落ちていく。遠心力で体が引き剥がされそうになる。結構きつい。
 波を切るクルーザーが近づいてきた。回転が止まり、身体も軽くなった。

「いいと思ったら飛び降りて」
 桜の言葉に、二人が合図を返す。
 クルーザーの上空数メートルのところで夏海は手を離した。
 ほとんど同時に郁子も飛び降りる。
 クルーザーの後ろの甲板に着地することができが、波打つ甲板に夏海はバランスを崩し
て転がってしまった。
 夏海が見上げると、桜は再び風にあおられるように高度を上げていた。
 二人分の体重が無くなったから、その反動で上昇しているのかもしれない。
 波音とエンジン音で、木谷は夏海たちには気付いていない。
 甲板から二段くらい高いデッキで背中を向けて舵を取っていた。
 後ろを見ると、灰色の警備艇がじわじわと近づいてきている。
 止まらないと撃つぞ、という拡声器の声も聞こえる。
 振り向いた木谷は、夏海と郁子の姿を見つけて唖然とした表情を見せた。
 いつも冷静であわてることの無かったこの男の初めて見せる人間らしい表情だった。
「あきれたな。どうやって乗り込んだ?」
 木谷は舵とスロットルを固定して、夏海たちのほうに近づいて来る。
 揺れる甲板に降り立った木谷の両手には、いつの間にか手品のようにナイフが出現して
いた。
「遊んでる暇は無い。一気に殺してやる」
 荒れた波の上を突進するクルーザーは激しく揺れて、夏海たちは立っているのもやっと
なのに、木谷はバランスを崩すことも無く二人に近づく。
 波しぶきが目に入り、一瞬敵の姿を見失った夏海に凶器が襲い掛かった。
 必死に避ける夏海の顔の数センチ前を、冷たい光を放ちながらナイフが舞う。
 蹴りを出そうにも、足場が揺れて無理だった。
 少しずつ夏海は追いやられる。
 サイドに回りこんだ郁子の蹴りが木谷の腹を狙った。
 木谷の左ひじが、その蹴りを受け止める。
 波を飛び越したクルーザーの衝撃が、夏海と郁子を転がした。
「はっはっは。こんな所では戦ったこと無いようだな。俺は平気だぜ」
 自衛官上がりの木谷にとっては海上での戦いは慣れたものなのだろう。
 倒れた郁子の身体に馬乗りになって木谷がナイフを振り上げた。
 間に合わない。
 夏海が目をそむけようとしたそのとき、木谷の肩から鈍い音が聞こえて、木谷のうめき
声が上がった。右手に持っていたナイフが落ちて滑っていく。
 その後を追うように、甲板上を細長い棒が転がっている。
 島吉の杖だった。
 夏海が見上げると、近づいていた桜が再び上昇していくのが見えた。
「あれか。ふざけたやつらだ」
 振り向く木谷の下で郁子が暴れた。
 左手に持っていたナイフを両手で握って、木谷が郁子を刺そうとするが郁子もその手を
必死に押さえる。
 夏海は島吉の杖を拾って木谷に殴りかかった。
 細い杖で殴るのは大してダメージを与えることはできない。
 杖術は殴るよりも突く方がダメージを与える事が出来るのだが、揺れ動く甲板上では的
確に突くのは不可能なのだった。
 木谷は避けようともしなかった。
 木谷の頭を襲った杖は折れて飛んでいった。
 
「夏海、エンジンを止めて」
 郁子が木谷にしがみついたまま叫んだ。
 保安庁の船がすぐそこまで来ている。
 揺れる足場の上で戦うよりも、エンジンを切るほうがいいのかもしれない。
 夏海がすばやくデッキに上がろうとすると、
「まて。こいつを殺すぞ。動くな」
 木谷がすかさず大声を上げる。

 夏海は動くに動けなくなってしまった。
 その時、
「二人とも、船首に走って」
 上空から桜の甲高い声が降ってきた。
 声の方向を探る木谷。 その隙に郁子がすばやく木谷の下から離れる。
 船首に走りながら声の方を見ると、桜の身体がぐんぐん近づいてきていた。
 木谷も桜に気づいて振り仰ぐが、桜の身体は木谷の数メートル上を走って船首の方に降
りて来る。
「このやろう」
 木谷が血相を変えて船首に近寄って来た。
 桜は夏海たちの前で、ハーネスのラインをはずしていた。
 パラグライダーの翼は木谷の後ろで甲板をまたぐように落ちてしなだれている。
「三人とも殺してやる」
 ナイフを構えた木谷は野獣の咆哮を上げた。
 揺れ動く甲板の上で戦うのは、慣れていない夏海たちにとって致命的だった。
「二人とも動かないで」
 桜が二人を後ろにやると、ラインをかわしながら近づく木谷に向かって一言言った。
「ハリウッド映画も真っ青のラストシーンね。これがあんたにやられた人たちの怨念だわ」
 桜は赤いラインを振り上げるようにしながら引いた。
 四人の後ろで、パラグライダーの大きな翼が、強風を受けて勢いよく立ち上がる。
 その瞬間、桜の手を離れたラインは木谷の首に絡まり、木谷の身体を一瞬で空に舞い上
げた。


 
21 プロローグ

 汽笛が広い波止場に響いていた。上空を舞うかもめの鳴き声もさわやかだ。
 三造の船が今から出港するところだった。
 船員服に身を包んだ三造の手が、夏海のショートカットの頭をくしゃくしゃっと撫でた。
「まったく危ない事ばっかりしやがって。今度帰ってくるときは色気のある話でも聞かせ
ろよ」
 夏海たちの後ろで、船に乗るために階段を上がる人の靴が乾いた音を立てている。
「多分それは無理よ。おじいちゃんじこみの私より強い男なんて、お父さんくらいしか居
ないから」 
「ファザコン娘か。しょうがないな。じゃあじいさん、またこいつを頼むわ。あんまり変
なことに首突っ込ませんでくれよ」
 横に立った島吉に向かって三造は言うと、スーツケースを持ち上げ、階段に向かった。
「夏海のことは任せておけ。気をつけてな」
 三造の背中を島吉の言葉が追いかけた。
 三造は後ろを向いたまま、右手を振ると階段を上がっていく。
 今度お父さんが帰ってくるときはもう冬か。
 夏海は振り向いて背後の山に眼を向けた。
 初夏は終わり、真夏の眩しい日差しの中、山の後ろからは大きな入道雲が笑いかけてい
るようだった。
 


                                          柔道女W 終わり

 

 


放射朗
柔道女4