蛍の光が店内に流れ出した。周囲にはパチンコ玉のガラスを叩く音と、台がジャ
ラジャラ玉を吐き出す音、鐘やブザーの音があふれているが、それに負けない音量
で閉店を告げる音楽は、私の心に悲しい響きをしみわたらせる。
 この時間になっても店の中は半分くらいの台に客が座っていた
 一つ飛ばして右横の台で打っている男は、ついさっき七が並んで玉が出だしたば
かりだった。悔しそうにできるだけ引き伸ばそうと粘っている。
 私の横には、いわゆるドル箱と呼ばれるパチンコ玉を満杯に入れられた箱が三箱
積み上げられていた。人生の終わりに、最後のツキが回ってきたという事か。
 換金しても仕方が無い。どうしようかと私は周囲を見回してみた。
 くたびれた格好をした中年の女が、タバコを吸いながらうつろな目でガラスの奥
を流れる鉄の玉を追っている。その横ではまだ20代くらいの無精ひげを生やした
男がため息をついていた。

 私の店が倒産して2ヶ月が過ぎていた。その間に何とか整理を済ませてきた。
 そしてやっと死ねる日が来た。倒産の原因になった銀行に対して、散々恨みに思
った気持ちも今は薄れてしまっていた。
 あとはわずかながらも私の死亡保険金を家族のために残していくだけだ。
 60も間近になった今、生に対する執着はあまりなくなっている。
 むしろ3年後でなくて良かった。60を過ぎたら死亡保険金がいきなり安くなる
からだ。今なら数千万の金をいとしい妻と子供達のために残していける。
 それがあれば、まだ残ってる借金を返しても当分食うに困らないくらいの金は残
るはずだ。
 死ぬのは別に怖くなかった。ただ、人生の最後の幕引きに、この音楽が聞きたか
ったのだ。

 カウンターに換金するために向かう人の列も、少なくなってきたので、私はとりあ
えず換金するためにドル箱を一つ持ち上げた。
 その時、右手の方からまだ幼稚園児くらいの女の子がよたよたとやってきた。
 私の前を通り過ぎて、無精ひげの男の横に立つ。
「お父さん今日はどうだった?晩御飯は?」
 その子はうなだれている男を見上げて言った。
「ごめんなあ。負けちゃったよ。今日は夕飯はなしだ。さっきコーヒー牛乳を飲ん
だからおなかはすいてないだろ」
 男は女の子を抱え上げて膝の上に乗せた。
「うん。おなかすいてないよ。大丈夫だよ」
 父親を振り向いて笑顔を向けているその服は汚れていて、何日も着替えさせてもら
ってないみたいだった。やせこけた女の子だった。
 
 私はゆっくり二人に近づくと言った。
「すいません。お願いがあるんですが」
 男は私を見て胡散臭そうに目を細めた。
 何か言おうとした彼を制して無理やり私は言葉をつなぐ。
「その子に何か食べさせてやってくれませんか。あの玉全部あげますから」
 積み上げた私のドル箱を指差して言う私に、彼はとたんに表情を変えた。
「え、いいの。そりゃ助かるけど」
 微笑みつつそう言いながらも少し残念そうな表情をしたのは、もう少し時間が早
かったら、その玉でもう一勝負できたのにとの思いがあったからだろう。
 瞬間的に怒りが込み上げてきて、彼を殴ろうと思った。
 その私の顔が怖かったのだろうか、男も少女もおびえる顔をした。
 でも私は殴るのは止めにしておいた。
 ここで彼を一発殴った所で、彼の性格が激変するなどありえない事だ。単に女の
子を悲しませる事にしかならない。ただの自己満足のために女の子を悲しませるの
は割に合わないだろう。

「じゃあ、換金してきます。美代、ここで待ってるんだよ」
 愛想笑いをしながら、男は軽々とドル箱を抱えて、カウンターに向かった。
 父親を見送った女の子が私に振り向いたので、私はにっこり笑って聞いてみた。
「お嬢ちゃん。何が食べたいかな?」
 女の子は目を輝かせ、少し考えてから言った。
「たこ焼き。……でもお好み焼きでもいいかな」
 たこ焼きといえば、さっきまでこの店の前に屋台が来ていた。
 多分もういないだろうが、この子はおなかをすかせながらその屋台をじっと見て
いたのだろう。
「お嬢ちゃん、ここによく来るの?」
「うん。お父ちゃんのお仕事なの」
「お母さんは?」
「お母さんもお仕事中だよ。お母さんはもっと遅くまでお仕事だよ」
 水商売をしている母親と、仕事もせずにパチンコ屋通いの父親か。この子もこの
先苦労の多い人生のようだ。
「お父さんやお母さんは好きかい?」
 いっその事この子を連れて行こうかと思って聞いてみた。
「うん好きだよ。お菓子買ってくれるから」
 少女の笑顔はあくまで素直だった。

 私の考えは浅はかだ。子供は私が思ってるよりもずっと強い。ひょっとしたら私
よりも。
「さあ、美代。帰ろうか。なに食べようかね」
 父親が戻って来て言った。
 そして、私に一つ会釈をすると彼は女の子の手を引いて店を出て行った。
 閉店の音楽も終わり、店内が急に静かになる。
 私もゆっくり立ち上がる。すっかりさびしくなったパチンコ屋の店内を渡り、出
口に向かう。
 駐車場に行き、車に乗り込むとキーを差込みエンジンをかけた。
 蛍の光も聞いたことだし、もう思い残す事は無い。
 下見しておいた崖っぷちの道路まで約20分の道のりだ。

 大通りに出て赤信号で止まると、私の車の横を爆音をたてながらへんてこりんな
改造を施した二人乗りのバイクが猛スピードで通り過ぎていった。
 交差点を少しだけ徐行して、直行する車たちに急ブレーキを踏ませながら走りす
ぎる。
 私はニュートラルからドライブにギヤを入れると、アクセルをいっぱいまで踏み
込んだ。急ブレーキで止まっていたセダンの横を通って、先程のバイクを追いかけ
る。V型6気筒の3リットルエンジンはリヤタイヤをきしませながら猛然とダッシ
ュを始めた。
 追いかける私に気付いたのか、バイクが更にスピードを上げて走り出した。
 都合のいいことに、私がこれから向かおうとしていた方向に彼らは走り出す。

 バイクを追いながら、先日銀行員と話した事を思い出した。
 店に融資は出来ないとはっきり断わられた時の事だった。
「しかし間が悪かったですよね。焼肉屋を始めたばかりの時に狂牛病でしょ。早め
に別の店に変更するとかしていればよかったんですよね」
 小太りの彼は額の汗をぬぐいながら、そう言ってお茶を一口飲んだ。
「だから、焼き鳥屋にしたいって言ったじゃないですか。あの時すばやく融資して
いてくれたら、こんなに泥沼に入り込む事も無かったんですよ」
 そうだ。運が悪かったのは事実だが、こっちも指をくわえてがら空きの店内を眺
めていたわけではない。
「しかし、あの時は不良債権の処理にてんやわんやでこっちも大変だったんですから」
 彼にとっては私の店の倒産なんて他人事でしかない。神妙な顔をしてすまながって
いるが、一皮向いたらへらへら舌を出して笑ってるに決まっている。
 銀行に預けていた5000万は私の退職金だった。
 それを元手に、いくらか融資もしますから店でも開きませんかと、融資話を持っ
てきたのは彼の方だったのだ。
 私はせっかく定年退職して、悠悠自適の生活が待ってるのに、いまさら商売なん
てする気は無かったが、子供さんのために資産を増やしておいた方が良いだの、今
なら破格の融資が出来ますだの言われて、つい手を出してしまった。
 オープンした次の月に狂牛病が日本で発生して、その後ぱったりと客足が遠のい
た。
 店を開くのに手元にあった資金は全部つぎ込んだ後だ。店を変更したいから少し
融資をしてくれという私に、彼は、もう少ししたらほとぼりが冷めて、誰も気にし
なくなりますよと、頼みを無視した。
 もう少しもう少しと赤字の月を越していくたびに、借金は膨れ上がり首が回らな
くなった。家や土地もすぐに抵当に入った。
 そしてこれが最後と、再び彼の所に頼みに行ったのだった。
「まあ、生きてればそのうちまたツキが回ってきますよ」
 それが彼の最後のせりふだった。私は立ち上がって彼の首を絞めてやりたかった
が、まだその時は死ぬ覚悟が出来てなかったのだ。
 もし今彼が目の前にいたら、力いっぱい絞めてやるだろう。
 自殺を決意した人間には何も怖いものは無い。
 生きてれば何か良い事があるとか、死ぬのは無意味だとか、いろいろ言う人はい
る。でも、生きててもどうしようもない場合はたくさんあるのだ。
 たとえばガン末期の患者とか。直る見込みの無い病気と死ぬまで戦うくらいなら
早い所死んだほうがましだ。その方がずっと楽だろう。
 それなのに、いったん心停止した病人を、わざわざ蘇生させることまでする病院
もあるのだ。死なせてやれよ、といいたいが、病院にとっては一日でも長く生きて
くれた方が、保険点数がたくさん取れて儲かるのだ。
 死ぬな。生きろ生きろと、叫ぶテレビや政府広報も、国民に簡単に死なれては税
収が減るからそう言っているのに過ぎない。
 人間、やる事やってしまったらさっさと死んだほうが自分のためかもしれない。

 260馬力のパワーは二人乗りのバイクをあっという間に追い詰めた。
 バンパーでバイクの後部をつつかれて、二人は慌てまくっている。
 ブレーキでもかけようものなら、即座に私の車の下敷きになってしまう。
 後ろに乗っている男が振り向いてわめいていた。
 二人ともヘルメットもしていない。このまま倒れたら命にかかわるだろう。
 アクセルをもう一踏みすれば彼らの命は消えてなくなるという所で、私は右足の
力を抜いた。すっとバイクが離れる。ハンドルを切ると、私はバイクの横を加速し
ながら追い越した。
 バイクがよたつきながら停止するのが、バックミラーの中で小さく写っていた。

 予定しておいた場所が近くなってきた。
 自殺といっても、それとわかるように死んだのでは保険金がおりない。そういう
契約だった。だから死ぬときは交通事故に見せかけるようにして死なないといけな
いのだ。交通事故死が一番保険金が多い契約だったのだ。
 そうでなければ、まだ資産価値としても幾分かの値打ちはある我が愛車と崖下ダ
イビングなどせず、おとなしくビルの屋上からでも飛び降りるだろう。
 その場所が見えてきた。
 ちょうどガードレールが途切れている場所だ。
 そこに向かってアクセルを踏み込む。そこを飛び出せば、あとは数十メートルの
断崖絶壁。飛び出した瞬間私の意識は吹き飛び、雲か霞と消え去り、もし来世があ
るのなら光を浴びて母親の胎内から出て行くことになるだろう。
 宇宙論ではこの宇宙も最終的に崩壊してビッグバンの逆の過程をたどる事になる
との説もある。もしそうならその後再びビッグバンで新生宇宙が生まれる事もあり
うる。その宇宙はこの宇宙の時間軸を再びたどる事さえあるのではないか。
 つまり過去に逆戻りという事。宇宙が崩壊した後には物理の法則は一切関係なく
なるのだから、過去の宇宙に戻る事だってありえるはずだ。
 そして100億年後にまた私は同じように生きてるのかもしれない。
 その時は絶対に同じ失敗は繰り返さないようにしなければいけないな。
 覚えてないなら仕方ない事だが……。

 その時、突然私の耳に音楽が聞こえてきた。天上の音楽にしては早すぎる。
 2秒後に、その音楽が蛍の光だというのがわかった。

 そうだった。携帯電話の受信音をそれにしておいたのだ。
 いま頃誰からだろう。ちょうどの時に、タイミングよく鳴らしてくれたものだ。
 死を決意した私の中で、雑念が頭を持ち上げる。
 ひょっとして銀行が救いの手を差し伸べてくれたという、妻からの連絡かもしれ
ない。だがもう間に合わない。ブレーキを踏んでも転落を免れないだろう。
 妻と子供達の顔が浮かんでは消えていった。

 右足のこわばりと、タイヤの悲鳴を聞いた。
 この車のアンチロックブレーキは私の予想をはるかに越えて優秀だったというこ
とだ。右サイドをガードレールに軽く擦った状態で、車は止まっていた。
 震える右手で携帯電話を持って、受信ボタンを押す。

「もしもし、博司、遅いわよ、こっちは30分も待ってるのよ」
 間違い電話だった。ばかやろう一時間くらい文句言わずに待っていろ、と怒鳴っ
て切った。
 怒鳴ったあと、笑いがこみ上げてきた。おかしくてたまらなかった。
 この期に及んで、まだ幸運がもたらされるかもしれないと考えるなんて。
 自分の弱さ、馬鹿さにあきれてしまった。
 あんまり馬鹿らしかったので、私は死ぬ事もどうでも良くなった。
 Uターンして家に帰った。約一時間の道すがら、右足の震えだけが、まだ自分が
生きてることの不思議さを私に実感させていた。




                                              蛍の光 おわり


蛍の光
放射朗