歩道橋の上の恋

 長崎駅前には高架広場といって、広い歩道橋の広場がある。
 数年前までは、その正面にはとんがった屋根の情緒豊かな駅舎があり旅人を迎え、
そして送り出していたものだ。
 しかし今では旧駅舎は取り壊され、近代的な駅ビルにとって変わられている。
 ただ、この高架広場は今でもそのままで、旅人や市民に憩いのひとときを提供し
てくれている。

 午前一時。リストラ同然に退職する事になった先輩の送別会の帰りである。
 そのままタクシーに乗って帰るのがなんとなく嫌で、この高架広場に上がって
きた。
 先輩はまだ40を少し過ぎた程度。これから住宅ローンもまだ長く払いつづける
必要があるというのに、退職してどうするのだろう。

 行く当てはあるという話だったが、本当のところはどうだかわかったものじゃない。
 我々に心配をかけないようにそう言ってくれてるだけかもしれないし、、。
 
 ベンチの一つに腰掛けて、頬をなでていく風をのんびりと感じていた。
 初夏の風が心地よい。
 不況に対して憤慨しても始まらないし、なるようにしかならない。
 
 少し離れたところで、ギターを抱えて誰に対してという事も無く、道行く人に
歌声を浴びせかけていたらしい若者も、そろそろ店じまいの様子だ。
 長髪に無精ひげ。もういい年なんだろうが定職にもつかずに親のすねでもか
じって勝手なことをしてるんだろう。まったくいい気なもんだ。
 若いという事をはき違えているのではないだろうか。
 ああいう若者を見ると時折腹立たしくなってくることがある。


 その女性の事は、既に気付いていた。
 ふらつく足取りでこちらに近づいてくる。
 まだ若い女性だ。
 暗いからはっきりは分からないが、二十代後半というところか。

 やはり飲み会の帰りなのだろう。でもちょっと酔いすぎのようだ。
 大丈夫かな。
 彼女は私の横のベンチに倒れるようにして座り込んだ。
 そして何かぶつぶつつぶやきながらベンチに横になった。

 あきれたもんだ。若い女性が酔っ払って公園のベンチに寝そべってるなんて。
 いくら日本が安全な国だといっても限度がある。
 
 知らん振りするのも、ちょっと憚られたので私はその女性に声をかけてみた。

「大丈夫ですか」
 返事は無い。酔いつぶれた背中がゆっくり上下して既に睡眠中であるとの
意思を表明しているかのようだ。
 
 困った。
 このまま放って置くのはあまりに物騒だし、簡単には起きそうに無い。
 そばにいて朝まで見張っているほど私も暇じゃない。

「ちょっと。こんな所に寝てるとまずいですよ」
 私は彼女の肩を少しゆすってみた。
 やっぱり反応が無い。
 交番のおまわりさんにでも一言いっておけばいいかとも思うが、近くに交番は
無いし・・・・・・。
 だんだん焦りが大きくなってきた。
 
「どうかしましたか」
 その声に振り向いてみると、さっき店じまいしていた長髪の若者が立っていた。
 状況を簡単に説明する。

「それは困りましたね。二人でなら抱えてタクシーに乗せる事は出来ますが、
この状態じゃあ運転手さんも困るでしょうね」
 ギター弾きの若者は私のイメージしていた人種とは違って、言葉遣いも物腰も
丁寧な感じのいい青年だった。

「まったく困るよね。ほおって置くわけにも行かないし、近くに交番も無いし・・・・・・」
 それに側に自分ひとりじゃあ、彼女が目を覚ました時何か変に思われるので
はないかとも思ったが、その事は言わなかった。

「僕はどうせ暇だから、彼女が目を覚ますまで見ててもいいですよ」
 彼の提案は私には渡りに船というやつだった。
 さっさと帰りたいと思い始めていたのだ。
 だが、言葉は逆の事を言っていた。

「いや、それも悪いしね。しばらくすれば目を覚ますんじゃないかな。あ、それまで
一緒にいてくれると助かるよ。俺一人じゃあ彼女が目を覚ました時に気まずいから」
 
「いいですよ。一時間もすれば目を覚ますでしょう。そうだ、それまで退屈ですね、
歌でも歌いましょうか」
 彼はにこやかにそう言うと、自分の荷物のところに行ってギターを抱いて戻ってきた。

 私は正直言って遠慮したい気分だった。
 今の若者の歌には興味ないし、うるさいだけだと思っていたから。
 だがもちろん一緒にいてくれるという彼の好意に対して、聴きたくないなどと
言葉を返すのは無礼である。私は彼に聞こえないようにため息を漏らすにとどめた。

「なにかリクエストありませんか」
 てっきり自分の持ち歌を歌い始めるものと思っていた彼から、そんな言葉が聞か
れたので、私は一瞬考えて、浮かんできた曲の題名を言った。

「じゃあ、かぐや姫の神田川」
 もう20年以上も昔の曲だが、今でもギターの入門用テキストなどには登場する
ことがあるし、ナツメロ特集がテレビであれば必ずかかる曲だ。
 彼も知らないことは無いだろうと思った。

 彼はひとつうなずくと、イントロを演奏し始めた。
 楽譜を見ることも無く慣れた手つきで、爪弾かれるアルペジオは一瞬で私の心を
つかんだ。
 高校生のときに自分で弾きながら歌ったことを思い出す。

 あなたはもう忘れたかしら、赤い手ぬぐいマフラーにして・・・・・・。

 彼の澄んだ歌声がかぶさってきた。
 私の目の前に高校生時代の自分の生活が浮かび上がる。
 ギターの弦が響き、彼の言葉が心情豊かに歌詞を歌い上げた。
 すばらしい歌声だった。
 歌そのもののすばらしさを余すところ無く伝える、その彼の歌を聞いていて、
気が付いてみると私の両目からは涙があふれていた。

「いいギターだね」
 彼が歌い終わるのを待ってから私は言った。照れ隠しの意味もあった。

「以前弾かれてた事があるんじゃないですか」
 なんでわかったんだろう。
 照れくさいけどうなづいた。

「弾いてみませんか」
 彼がギターを持ち上げた。

 彼の歌声を聞いて感動していた私は、気分のいい酔いも手伝って、思い出の曲の
イントロを弾き始めた。

 さだまさしの秋桜だ。

 ギターを持つのも十年ぶりくらいだ。つめも伸びていて弦がうまく抑えきれなかった。
 それでもコードは不思議と忘れてはいなかった。
 動きにくい右手の指でゆっくりと爪弾く。
 
 歌う為に声を出そうとして、最初の一声で、すぐに歌いきれないとわかった。
 声が出ない。
 何とかギターは引けても、喉はもう昔の歌声を紡ぎ出してはくれなかった。

 、、、このごろ涙もろくなった母が、、。

 ギターは弾けても声の出ない私に気づいたのか、私のへたくそなギターに合わ
せて、彼が代わりに歌ってくれた。

 私はまた過去に思いを馳せていた。
 この歌は昔、初恋の人に放課後聴いてもらったことがあったのだ。 
 緊張して声がうまく出ないながらも、必死に歌った。
 コードを抑える指が引きつりそうになりながらも、何とかさびの部分まで・・・・・・。

 歌と演奏。
 慣れないうちはどちらかに神経を集中すると、それ以外がおろそかになる。
 あの時も私はさびの部分を歌うことに神経が行ってしまって、演奏が途切れて
しまったのだった。ひどく格好悪かった。

 彼女は気にしないで誉めてくれたが、自分は穴があったら飛び込みたいくらいに
萎縮してしまっていた。

 20年も前の青春。高校の教室が私の記憶の中によみがえる。
 
「いいギターだね。弾きやすかった。でも、指がもう動かないな」
 私は首を振りながら、彼にギターを返した。

「思い出の曲みたいですね」
 彼の言葉に、私は酔ってることも手伝って、青春時代の苦い思い出を話してみた。

 彼女に聞かせようと必死で練習して、完璧だと思っていたのに、いいところで失敗
してしまった。
 なんとも自分の人生を象徴してるよ、なんて余計なことまで付け加えた。

「失敗なんて僕もしょっちゅうですよ。格好悪くて堪らない時もあります。
でも、やり直しのきく失敗ですから。どうってことないですよ」
 彼の言葉に深くうなずいている自分がいた。

 やり直しのきく失敗は失敗のうちに入らない。まったくだ。
 更に二人で何曲か歌った。
 そして気づいてみると、前のベンチで横たわっていた彼女が座ってこっちを見ていた。

「ああ。目がさめましたか」
 私の声に彼女は照れくさそうにはにかんで、すいませんと小声でいった。

「失恋しちゃって、自棄酒飲んでたんです。それでこんなところで寝込むなんて
最低ですね。でもお二人の歌を聴いてたら、なんだか元気が出てきました。私なんかの
ために、帰るに帰れないで、たった二人のコンサート・・・・・・」
 彼女の表情は泣き笑いのそれだった。


「もう大丈夫そうですね。良かった。最後に一曲歌って終わりにしましょうか。
何かリクエストありませんか。貴方の為に歌いますよ」
 青年が彼女に言った。
 
「わたし、ジョンレノンが好きなんです」
 彼女の声にひとつ頷くと、彼のギターが真夜中の高架広場に再び響き渡った。
 床板の下を時折行き交う車やバイクのエンジン音。

 そんな物音に負けない力強さで、彼のギターと歌声はビートルズの名曲をじっくり歌
い上げた。
 
 その夜。私は久しぶりに湧き上がる恋愛感情を感じた。
 彼女にじゃなくて、彼に対してだったから恋愛感情じゃなくて、友情と言った方が
いいのかもしれないが、胸が衝かれるようなこの感情はやっぱり恋だろうと思う。

 言葉では言いようの無い彼の深い人間愛を、私は彼の歌に見た思いだった。
 自分がどれだけ偏見にまみれているか、それも彼は気づかせてくれたと思う。

 同性愛の経験は全く無かった私だが、彼とのことで男同士でも愛し合うことは不自
然じゃ無いのかもしれないとも思った。
 
 もちろん彼とはその後会うことも無かった。
 所詮その場限り、歩道橋の上の恋でしかなかったのだ。

 彼は今でも歌ってるだろう。誰にと言うことも無く、すべての疲れた人々に対して。

 夜中に駅前を通る時、ふと立ち寄ってみたくなることがあったが、私はあえて行く
ことはしなかった。

 そんな時には彼の歌声が、いつも私の頭の中に響いていた。

 彼の歌うビートルズの名曲レットイットビー。
 
 そして彼の爪弾くギターの音色が。




 歩道橋の上の恋  終わり
放射朗